ウェブの二つの文化圏の衝突【後編】ネガティブリンクと批判する側・される側の論理

 前編「無断リンク禁止問題にみるリンクする側・される側の論理」では、このネット上には大きく分けて二つの文化圏があり、ネットの特性に根ざした原住民型「リンクフリー文化圏」と、一般社会のルールに基づいた移民型「リンク許可文化圏」が存在していることを指摘した。そして、「無断リンク禁止問題」はその二つの文化圏の衝突(カルチャーショック)であり、解決は困難だろうという希望のない結論であった。

 後編では、もう一つ、似ているが別の現象である「ネガティブリンク問題」について扱う。これは単純な作法だけではなく、「悪意」を含む・感じ取るという厄介な問題も含まれているので、項目を分けることにした。

2006年1月 5日03:06| 記事内容分類:ウェブ社会| by 松永英明
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批判は隠すべきか、明らかにすべきかという対立軸

 今回もまた図にしてみた。

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 もう一つ、批判を匿名でやるのか、固定名(実名または固定ハンドル)でやるのかという軸を重ねるといいんだろうが、3次元グラフにするとややこしいので今回はそれは扱わないことにする。また、実名(固定名)か匿名かということは、問題の本質ではない。

 それから、悪意自体の有無もここでは扱わない。悪意があるかないかの判定はほとんど無理だし、批判する人はだれもが「自分は正しい、相手は間違っている」と思ってやるわけで自覚的な悪意があるかどうかは本人にもわからないし、また、同じことを言われても悪意を感じる人と感じない人がいるからである。

 さて、ここでは前編の図とは似ているが別の図である。ネット上での批判は「堂々とわかるようにすべし」なのか「見えないようにすべし」なのか、という考え方の違いをもとに、批判する側・批判される側を組み合わせてみたものである。この軸をもとにすれば、客観的にマッピングできるのではないかと考えた。

批判は見たくない、聞きたくない/見せたくない、聞かせたくない

 縦軸だと下側、横軸だと左側に置いたのが、「批判は表だったところでやるべきではない」と考える人たちである。他人の悪口は、面と向かって本人の前で言わず、隠れてこそこそと言うべきだ。本人にはばれないようにする。こういった、日本の一般社会をうまくいかせるためのルールにのっとった文化圏である。

 悪口を言われる側も、自分に対して悪口が言われているなどと思いたくない、たとえ言われていてもそんなものは聞きたくない、知りたくない、といった感情を持っている人はこの文化圏に属する。

 ここでは「知らぬが仏文化圏」と名付けてみた。もちろん、「知らぬが仏」というのは実社会でもネットでも微妙なバランスの上に成り立った不安定なもので、悪口が存在する限り、それは何らかのルートで漏れ伝わり、結局お互いに嫌な思いをするものである。しかし、原則として「知らぬが仏」を守ろうというのが、この文化圏の発想だ。

 自分でもまとめていて意外に思われたのだが、2ちゃんねる(特にネットウォッチ板)の住人(以下「ヲチャー」と略す)は、インターネット特有の文化圏ではなく、むしろ一般社会に近い「知らぬが仏文化圏」に属すると考えるのがよさそうなのである。彼らのローカルルールは「ウォッチ先 さわらず荒らさず まったりと」で、「ウォッチ先への書き込み」さえもが「厳禁」とされている(これを破るのが「突撃厨」で、ヲチャー内部から批判を浴びる)。つまり、悪口を言っている、観察していることを相手に知られてはならないわけで、「知らぬが仏」でトラブルを避けようという発想である。

 ただし、それがうっかりバレてしまうと、「晒しリンク問題」へと発展することになる。つまり、「ここにこんな奴がいますよー」という趣旨のリンクそのものの是非というわけだ。しかし、それが悪意を持ってのものなのか否かで是非を論じると、じゃあその基準は何なのかということになる(本当に好意でリンクしたのに晒しだと思われる可能性だってある)。だから、この問題については、そういう観点では論じないことにする。

批判は堂々とわかるように/批判があるなら教えてほしい

 一方で、縦軸の上側、横軸の右側は「批判は堂々と相手にわかるようにやるべきである」と考える人たちである。「文句があるなら堂々と言え、影でコソコソ言うな」あるいは「批判するなら相手の読めないところでやるべきではない」という態度であり、これはかなりウェブ原住民的な発想に近い。というのは、ウェブでは原則として情報を全体と共有するものであるというのがWWW的発想であり、そこに基づけば、隠れてこっそり批判するというのはおかしな話である(もちろん、クローズドな空間を作ることは可能だが、理念的に相容れないことだろう)。少なくとも、世間に公開するかどうかは別にして、直接の相手の目に触れる形で批判すべきだ、あるいは批判するならきちんと届けてほしいという発想である。

 ブログでの議論というのは、基本的にこの発想に基づいて生まれたものである(そこに、そうでない文化圏の人が入ってくると衝突が起こるのだが、それはこの後で考察する)。いわゆる「モヒカン族」も、間違いは間違いだと淡々と指摘し、指摘された側は粛々と訂正する、というアッサリ・サッパリした関係の上で議論を進めるのが、極めてウェブ的な態度である。

 この「ブロゴスフィア議論文化圏」同士の場合、議論が白熱し、ギャラリーが集まり、いわゆる「炎上」に至ることがあったとしても、「批判した・された」という次元で問題になることはない。むしろ、定期的に議論が燃え上がることを待望している人たちも多い。ここまでくると「ネットプロレス(バトルをギャラリーに見せる)」の芸を意識する場合もある。

 批判を受けてまったくへこまない人は少ないと思うが、影でこそこそ言われる方がもっと気持ち悪いという人たちがこの「ブロゴスフィア議論文化圏」を構築しているということになる。

批判をさけられないウェブという世界

 ここで問題となるのは、ウェブでは、批判を受けることそのものがどうしても避けがたいということである。

 一般社会にいると、その批判は自分のところまで届きにくい。テレビに出たりなんかすると話は別だろうが、批判は有名人ばかりが受けている印象がある。いきなり見ず知らずの人から激しく批判されることなど、よほど目立つところで何かやらない限りありえない。しかし、それは人目につかないから批判されないだけのことである。身近な人たちからは何か思われていても、目の前で言われないことが多いだろう。それが日本の一般社会だ(日本に限らないかもしれないが)。

 しかし、ウェブでは違う。だれもが多くの人たちの目にさらされている。好意的な人たちばかりではなく、何も思わない多数の人、そして批判してくる少数の人たちの存在がどうしても目についてくる。同じ考えの人たちだけが集まって、そうでない人を排除するのは難しい、というか、無理だ(mixiのようなSNSはウェブとは別の社会だと思うのでまた別途)。

 つまり、前編では「WWWなんだからリンクは誰にも可能」というウェブ新大陸の風土を指摘したが、ここでは「WWWでは自分への批判者の存在がどうしても見えてしまう」という性質があることを指摘しておこう。したがって、「批判するなら堂々とやれよ」という「ブロゴスフィア議論文化圏」の住人は極めてウェブ原住民的であり、「ウォッチ先 さわらず荒らさず まったりと」という「知らぬが仏文化圏」の住人は極めて一般社会的であるということになる。

二つの文化圏の衝突

 さて、図にはもう一つあるがそれはあとに回すとして、まずはこの二つの文化圏、すなわち「知らぬが仏文化圏」と「ブロゴスフィア議論文化圏」がそれぞれ絡んだときにどうなるかという問題を見ていこう。

 同じ文化圏同士の場合は、それぞれ発火要素はあるものの、それなりの均衡は保っている。これは前編の場合と同様なのですんなり理解されるだろう。

 さて、批判側が「知らぬが仏文化圏」の住人、批判される側が「ブロゴスフィア議論文化圏」の住人であった場合はどうだろうか。典型的な例でいうと、2ちゃんねるネットウォッチ板でスレッドが立ち、突撃厨も出現しなかったが、ブログ開設者は批判するなら堂々とやれ、という考えの持ち主だったような場合である。この場合、2ちゃんねるからのリンクは直接リンクではなく、ime.nuやime.stが途中に挟んであるので、直接どこで何が言われているかがわからない。

 もちろん、完全に相手にわからないように批判しているのなら相手は気づかないので問題にもしようがないわけであるが、何か言及されていること自体はアクセス解析でわかるのに、それが具体的に何なのかわからない、というのは気持ち悪いものだ。また、たまたま検索で悪口を言われていることに気づいた場合も厄介である。

 悪口を言われていることに気づいた場合、「知らぬが仏文化圏」の人ならば、そんなことは知りたくなかった、と思い、「無断リンク禁止」とか「批判的コメントは受け付けません」と明記することになるかもしれない。これはお互いのローカルルールが合致するので、均衡を保つことになる。

 しかし、「ブロゴスフィア議論文化圏」の住人は、そうではない。コソコソ言ってないで表に出てこい!と相手を引きずり出したくなるわけである。もちろん、そこで正々堂々と反撃を加えるか、それとも黙殺するのか、あるいは下手に反撃したがためにボコボコにされて「今日はこれくらいにしといたるわ」とオチをつけなければならなくなるか、といった結果については、その問題への対処の巧拙の問題であるからここでは関係ないが、いずれにしても「隠れてコソコソ言う奴は卑怯者」という意識が出てくるのは否めない。

 では逆に、批判側が「ブロゴスフィア議論文化圏」の住人で、批判される側ができれば批判されたくない「知らぬが仏文化圏」の住人だったとしたらどうだろうか。これは厄介である。というのは、堂々と議論をふっかける(あるいは淡々と誤字脱字や間違いを指摘する)側の人は、あくまでも堂々とやっているわけで、悪意どころか好意だということも少なくない。

 しかし、受け手はそうは思わない。「公衆の面前で恥をかかされた」と思うかもしれないし、いちいちそんなことを指摘しないでほしいと思ったりもするかもしれない。反論があってもいちいち自分の目に見えるところでやらないでほしい、絡まないでほしい、という感情がわいてくるかもしれない。こうして、「一方的に攻撃された」という被害感情が生まれる。

はてなブックマーク問題

 さて、「批判が攻撃的・陰湿」と一部で批判されているのが、はてなブックマークである。これは、ブログほどオープンではなく、しかし完全に隠れようとしているわけでもない、という意味で、二つの中間に位置するものと考えられる。

 はてなブックマークは、あくまでも個々人のメモ書きの集成である。他人のブログ欄に「表明」するほどの意見じゃないが、何か書き留めておきたいというレベルのメモ書きである。そこには本音もあらわれやすく、また字数も短いことから攻撃的に見える表現も少なくない。批判されることそのものは受け入れるつもりの「ブロゴスフィア議論文化圏」的な自分でも、さすがに「この人の書くことではひさしぶりに納得いくエントリーだった」というのは傷つきそうになった(笑)。確かにほめられてはいるんだけどさ。

 一方、ブックマークされる側からも、そのコメント内容はやや見づらい。このブログでは、「俺は見てるぜ」という意思表明も兼ねて、コメント欄の最後にはてなブックマークへのリンクを入れてあるので、ブックマークする人も多少は意識している部分があるかもしれないが(ここに書けば松永が読むはず、と思っている人もいるはず)、一般的にはなかなかたどりづらい。アクセス解析を見て気づいたり、はてなの「ホットエントリー」に入っているのを見て知ったり、というレベルだろう。

 また、新しいコメントが古いエントリーに追加されても気づきづらいという側面がある。

 こういった「見えづらいところで晒しリンクを日々生成している」という意味で、はてなブックマークへの批判は多いように思う。しかし、それに対する批判も、「知らぬが仏」型の批判と「ブロゴスフィア議論文化圏」型の批判があるように思えるのだ。

 たとえば、音楽配信メモの津田大介さんは知る人ぞ知るはてなブックマーク批判の急先鋒であるが、その批判のポイントは「なんでそんなにたどりにくいんだ」すなわち「ブロゴスフィア議論文化圏」的な観点だと思う。その隠れっぷりが陰湿だと。まあその話に対して、私は「でもネットウォッチ板よりはトレーサビリティ(追跡可能性)はあるよね」と返したわけだが、まあ批判の土台が「隠れてやってる」ところにあると思われる。

 一方で、一般的には「はてなブックマーク暴言問題」と言われるとおり、表現内容そのものが暴力的だという批判である。[これはひどい]というタグをつけてブックマークされた人が不快感を感じたり、「無断リンク禁止」をうたっているサイトをあえてブックマークするといった行動が「暴力的」だという話だ。無断リンク禁止サイトへのリンク問題というのは前編の内容に近いので置いておくとして、「批判的な言葉遣いを表明すること自体がいけません」という批判は、やはり「知らぬが仏文化圏」の発想といえよう。

悪意の問題

 ところで、もう一つ、批判する側の意識と受け手の意識を図にしてみた。あまり図らしくなっていないのだが。

linkfree3.gif

 ここでは、批判する側の意識を3つに分けた。第1のカテゴリーは、つまり相手の問題点を改善できるようにという発展的・建設的なもの。第2のカテゴリーは、何となく好き嫌いで嫌いと言ってみたというような、悪意とまでいかない批判。第3のカテゴリーは、自分が正しい、相手が間違っている、だからつぶしてやる、という攻撃的な場合だ。これはいずれのパターンも存在し得るし、それをネットから消すわけにもいかない。

 一方、批判される側も3パターンに分けてみた。第1のパターンは、そもそも批判されたくない人。第2のパターンは、批判は一応受け入れるが、やっぱり変な奴は困るよというパターン。多くの人はこういう感じだろう。そして第3のパターンは、ちょーポジティブというわけで、すべての批判を肯定的に受け入れて消化してしまえるパターンである。

 受け手の態度で劇的に変わってしまうことがわかる。批判されたくない人には、好意も悪意で受け取られるだろう。では、相手が傷ついたときには、批判された側が悪いのか。やはり相手を傷つけにくい言い方は存在している。つまり、普通に建設的な提言を建設的な表現で伝えるなら、多くの人にとってはそれは受け入れやすいものとなるのだ(中央上・右上の二つ)。

 2ちゃんねるのウォッチャー連中などは、すべての責任を受け手だけのものと考えているが、そんなふうに思い上がること自体がネットで嫌われる原因だと思った方がいい。淡々と誤字ですよと書けばいいものを、嫌みを込めて書いたりするようなコメントがあるが、筆者などは「ああ、かわいそうな子だなあ」と思ってしまったりするので、自分の人格を損なうようなことはやめておけ、とだけ言っておく。

 もちろん、受け手も、どうでもいい批判はさらりと受け流すか、一緒に遊んでしまうといった余裕があった方がいいだろう。

ネットの儀礼的無関心

 さて、ここまでまとめてみると、以前話題となった「ネットの儀礼的無関心」問題についても客観的に眺めることができるように思えてくる。

 「ネットの儀礼的無関心」論争とは、「他の人から見られていると思わずにネットで日記を公開しているような人に対して、それを晒すようなリンクはやめて、そっと見て見ぬふりをしてやるのが優しさだ」というような考え方に、社会学の「儀礼的無関心」という用語を当てはめ、「ネットの儀礼的無関心を促進しよう」という動きが見られたこと、またそれに対する反論があったこととまとめていいだろう。とすると、今話題になっている「晒しリンクはやめよう」という提案と共通しているように思われる。

 これは、実は裏話がある。提唱者は、あるサイトをこっそりウォッチしていた。そのサイトがある大手サイトからリンクされたために、その小さなサイトの主は記事内容を変更した。それを怒った提唱者が「ウォッチする人の権利を守れ」と「儀礼的無関心」というカッコイイ言葉を持ち出して主張したものなのである。その後、社会学的な儀礼的無関心という用語の意味と、ここでの「ネット上での倫理規範」としての意味のズレや、それを批判した私に対する「道徳的」というような意味不明のレッテル貼りなど、話はどんどんずれていったのだが、それはどうでもいい。

 要するに、これは「リンクはされる側優先」で「知らぬが仏」という、一般社会の倫理規範に近い文化圏の発想の人が、ウェブ原理主義的・現実主義的なリンクフリー・すべてオープン文化圏に対して牽制をした、というだけの話だったのだ。「相手に対する思いやり」というような言葉のオブラートを取り除けば、結局は文化衝突の一例にすぎなかったわけである。

追記(1/5 12:00)

 文化圏という表現をしたが、ある特定の人が完全に一つの文化圏に属すというよりは、場合によって思考を切り替え、別の文化圏の人間として振る舞うこともあるだろう。ブログも持っているが、2ちゃんねるでウォッチもしているという人は、それぞれでの行動パターンを変えていると思われる。時と場合と場所によって振る舞いを変え、別の文化様式に従って行動することはよくあることだし、簡単に言えば「TPO」なわけだから、それは問題ないだろう。特に後編で扱った問題については、場合によって使い分けることが多いと思う。以上、追記終わり。

環境に左右されない意識

 というわけで、最後にちょっと説教臭いと思われかねない余談の話。嫌いな人はとばしてください。とばさずに読んで不快感を感じても、それは君が悪い。

 最後の図の右列と左列を比較すると、「環境は同じなのに、幸福な人と不幸な人がいる」ということになる。つまり、自分にとって心地よい環境を作ろうと努力するのではなく、自分自身が環境に対してどのように受け取るかを変えることによって、人は幸福感が増すという話。

 これは、ジェームズ・アレンの本、特に『幸福に通じるひそやかな道』なんかを読んでいただければよくわかる(あるいはわからなくて反発を感じる)と思うのだけれども、例えば「人に悪口を言わせないように努力する」よりは、「悪口を言われても、それによって傷つく自分というものを変えていく」方がよほど建設的だということだ。

 いや、他人はそもそも自分を傷つけることなんかできない。なぜなら、もし自分自身に欠点がないのに批判する人がいるとしたら、それは批判する側が間違っているわけで、欠点のない自分には何ら傷がつくわけではない(誤った批判をした人は、その人自身を傷つけている)。逆に、自分自身に欠点があるとしたら、批判されようとされまいと、その欠点自体が自分を損なっているわけで、その欠点を改めようと努力しない限り何も改善されない、ということになる。

 つまり、自分を傷つけるのは自分の欠点(言い換えれば自分を損なうような思考や行動)、もしそういうものがあるなら、批判されたときにそれを改めればいいし、ないなら傷つく必要はさらさらない。

 どんな不幸や災厄が襲いかかってきても、まあ自分の命や肉体の一部が損なわれたり、大切な人が奪われたりするとしても、それ自体が不幸なのではなくて、そういう目に遭ったときの自分自身のとらえ方で不幸が増幅されたり、軽減されたりする。

 というようなことを考えて生きていれば、本当の幸福が見つかりますよ、幸福な環境・条件を求めようと生きていれば、人生をすり減らして消耗してしまいますよ、というのがアレンの言いたいことである。

 まあこういう考え方もあるという参考までに。

ウェブ文化圏シリーズ

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2006年1月 5日03:06| 記事内容分類:ウェブ社会| by 松永英明
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興味深く読ませていただきました。かなり納得です、が、ひとつ質問させてください。

「環境に左右されない意識」のエントリにあるような考え方をしている人から見た場合でも、今回、前回の内容は「文化圏の衝突(カルチャーショック)であり、解決は困難だろう」と考えますか?
「悪意自体の有無もここでは扱わない」とされていますが、文化の問題ではなく、どこまで行っても悪意の問題であると考えることも出来ると思うのですが・・・。

意味がよく通じなかったらすみません。

今年からもうはてなブックマーク批判やネット上のケンカはやめようと決意したので、上記文中から僕の名前消しておいていいですよ! わらい

「環境に左右されない意識」の項、興味深く読みました。
しかしこの考え方は「もっともらしく嘘をつく相手」には通じない気がします。
2ちゃんねらーの一部や悪意あるブロガーは、他人を批判するとき、「相手の記事そのもの」を批判するのではなく、「(嘘や詭弁で塗り固められた)自分の文章を読んだ人がそのブログを誤解するような文章」を用います。このような場合、受身としての自分を変えるだけでなく、毅然とした態度で相手を論破し、誤解を解く必要があるのではないか、と軍事板常見問題と某ブログの関係を見て思いました。

もちろん、うちのブログも「俺はそんなことは言ってない」と言うことはあるんですが、それよりも重要なのは、ちゃんと読者は気づいてくれるだろうし、相手がウソや宣伝で必死になって攻撃してくればするほどその滑稽さも増すよなあ、という余裕ある態度じゃないかと思います。で、ウソ宣伝に利用される要素がもしあるのなら、自分自身にも表現不足があるだろうから、そこは修正すればいいという話。

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このページは、松永英明が2006年1月 5日 03:06に書いたブログ記事です。
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