しかし、世の中にはとにかく「ウソをついて担ぐ」ということが嫌いな人がいて、たわいもない、しかもウソだとばれるように書いた記事に本気で腹を立ててくる人もまれにいる。ごく少数派だが、それは疲れる。
なので、エイプリルフールには「ホラを吹く」ことにした。大ボラなら「ウソで人を担ぐ」と非難されることもあるまい。
今回は大きなホラを吹く。日本国憲法改正草案である。ホラであるから、本気でこんなものが採用されるとは思っていない。しかし、こんなふうになったらおもしろいんじゃないかと妄想することは許されるだろう。
まあ、ホラであるから目くじら立てて批判してこないでいただきたい、という気持ちも込めて、本日公開する。もちろん、全文ではなく抜粋である。
]]> 日本国憲法ことのは草案前文
「和をもって貴しとなす」――いわゆる「十七条憲法」の第一条の冒頭である。日本という国号が生まれた時期に作られ、「憲法」という文字を初めて冠した「十七条憲法」は、現代の「憲法」とは異なり、人々の心構えを説いたものであった。今の言葉であれば「十七条の規範」というべきであろう。
古来の名称である「ヤマト」に、当時の人々は「大和」の漢字を当てはめた。「和」の概念が極めて尊重されていたことがわかる。それはいわば「日本」の理念の根本であるといえよう。 和とは、異なる他者を排除・排斥せず、ともに調和し、お互いに理解し合おうという思考である。それは、性別や出身、身分などのみならず、血筋や国籍の違いすらも乗り越える思考でなければならない。「和をもって貴しとなす、ただし○○は除く」という除外規定を十七条憲法は有さない。敵を増やすのではなく、和の対象を増やす思考こそが、大いなる和なのである。
我々現生人類は、わずか五万年まえに共通の祖先を有する。我々現生人類の祖先は、いくつかのグループに分かれてアフリカから世界各地に散っていった。現生人類は一つの種であり、現生人類の中に「人種」差は存在しないというのが現在の科学の結論である。他の人種、たとえばネアンデルタール人などは、我ら現生人類の祖先が滅ぼしたのだった。現在の地球上に生きる我ら現生人類はすべて共通の兄弟姉妹である。一方で様々な環境の中にあって多様性を生み出した。その多様性、違いに優劣も善悪もない。ただ「違う」のであり、あとは個々人に「なじみが深い/浅い」とか、個々人がそれらの中から「どれを選び取るか」があるだけなのだ。
その多様な人類社会の中に、日本という地域がある。旧石器時代にも縄文時代にも、多種多様なグループが極東の列島地域にたどり着いた。その結果、縄文時代にはある程度の文化を共有する多様な人類グループがこの列島の範囲に住んだ。ただし、今の日本国の領域全体に縄文人という一つのグループがいたと考えるのは、現代の国境に惑わされた幻覚である。
その後、中国江南地方の文化を携えてきた弥生人が列島に大きな変化をもたらした。その後も多種多様な人々が極東のこの列島にやってきた。
「日本」という国号が生まれ、「天皇」という称号が生まれたとき、日本の範囲は関東地方から九州までの範囲であり、それ以外は日本ではなかった。そもそも、ヤマトが日本という国号を使ったのは、当時の文化的中心であった中華文明に対して、この辺境にも文化的国家が存在することを示そうとするためのものであった。その証拠に、「日本」をニホンと読もうがニッポンと読もうが、音読みである。すなわち、日本とは中国の発音による命名であり、中国へのアピールのために作られた国号であった。日本書紀も同様に中国人が読めるように編纂され、一方で国内向けに古事記が編まれたのである。
その後、異民族を征服して少しずつ「日本」は拡大していった。そして、周辺の文化を取り入れて自らの文化に変えていくという、混淆から熟成を経て独自性へと変えるクレオール型文化を育て上げていった。
日本は確かに一つの「国」でもあったが、その中に八十八の「国」も存在していた。近代以前においては、「日本」は「天下」とほぼ同義であり、天下統一とは本州・四国・九州を制覇することだった。そこにまだ琉球や蝦夷は含まれていない。朝鮮や唐国や天竺や南蛮は、天下の外、もしくは別の天下だった。
日本国の意味が現代のようになったのはわずか150年前、幕末維新期のことである。水戸学が西洋の一神教の概念を導入して天皇の定義を大きく書き換え、それに基づく薩長藩閥政府が近代的な「国家」概念を、あたかも古来の伝統であるかのように伝統偽装して、「国」や「国民」「臣民」といった概念を植え付けた。
ちなみに、ここで「伝統偽装」という言葉を使ったが、決してこの前文自体が「古いものの方が伝統的だから新しいものを否定している」と理解してはならない。伝統偽装とは「古いものの方が権威がある」と考える傾向が一般的にあることに乗じて、「実際よりも古いものと見せかけることで権威を与えようとする」という詐術のことを指している。
明治国家はまず、近代国家的な「国境」の概念を明確に取り入れ、その課程でこれまで日本ではなかった蝦夷地・琉球国を日本に組み込んだ。近代以前の国家では、近距離で接しているときをのぞいて、国境というものは実に曖昧なものであったが、ここ百数十年間のうちに地球上はジグソーパズルのごとく完全に分割され、地球上すべての地点の所属について一つまたは複数の国家が所有を主張する、もしくはどこにも帰属しないという明確なラインが引かれることとなったのだ。
富国強兵・殖産興業を訴え、明治政府は国が一体化することを求めた。それは常に「欧米列強の植民地にならないようにする」という言葉とセットにされる。確かに当時の帝国主義の時代にあって、近代国家概念を取り入れて富国強兵に励むことは必要だったのだろう。
だが、もはや時代は変わった。交通機関の発達はめざましく、人とものの移動が全世界的に拡大しただけでなく、グーテンベルク以来とも言われる情報革命が20世紀末から急速に進展した。それはグローバル化の流れを生み出し、近代国家概念による「国内のみの利益をはかる政治や意識」も「国境によって分けられた国籍」といったものを無効化しようとしている。もちろん、グローバリゼーションというものが地域の個性を奪うことになれば、それは悪しきグローバル化と言わねばならぬ。ただ一つの価値観が強制されるのであれば、グローバル化は人類に不幸をもたらすだろう。しかし、全世界が直接つながる中で文化多様性を維持しつつボーダーレス化が進んでいくのであれば、それは人類の新たな時代を切り拓くことになる。
そう、5万年前に同じ祖を持っていたが、その後世界中に散らばって多様性を高めてきた現世人類が、その多様性を多様性として保ちつつ、一つの集団としての意識を持つ時代がやってくるのである。人の決めた図の上にしかない、人の脳内にしかない「国境」なるもので分断された人類が、再び結びつく時代がやってくるのである。自分自身のアイデンティティーを国家や民族という仮構のものに依拠しつづけようとする人たちはまだ多いが、そのような時代もまもなく終わりを告げるだろう。
つまり、グローバル化の波の中で、近代国家の賞味期限は終わろうとしている。いや、消費期限を終えたにも関わらず後生大事にしがみつくことによる弊害が極大化しつつある。
いま、この「憲法前文」という形で、近代国家ひいては国家の憲法そのものの存立意義を否定するような理念を述べるのは確かに矛盾しているが、それが過渡期というものである。
この憲法をもって、日本国民は、国家・国籍・国境といった枠組みにとらわれず、すべての現世人類を同胞として、常に「和」の精神、すなわち利他の精神をもって接し、「国益」という偏狭な視点を捨てることを目的とする。その最終目標は、近代国家観を地球上からなくすことである。それは当然、地球上から日本国という政体が消えることを意味する。しかし、もちろん、それは他国に征服され蹂躙されることを目的とはしないし、他国の領域に組み込まれることには全力で抵抗する。地球全体が一つの集団となり、その中のすべての人が多数派・少数派に関わらず尊重される状態を目標とするのである。
我々は今、近代国家のくびきからまっさきに逃れようとしており、それに多大な貢献をなそうとしている。それこそが、かつて「日本人」と呼ばれた集団の偉業として語り継がれる未来を生み出すことこそ、日本国の最後の「国益」となるべきである。
第一条《日本国》 日本国は、地球上の人類の中で暫定的に日本国籍を与えられた人々、その人々によって依託された政府、日本国領域と認識された地球上の一定の区画によって構成される。
2 日本国政府によって日本国籍が与えられた人を日本国民とする。
3 日本国政府は日本国民によって選ばれる。
4 日本国領域の範囲は日本国が宣言する。
第二条《日本国政府の目的》 日本国政府は、全世界全人類にとっての利益を最大化することを最大の目的とし、その中で日本国領域内における人々の幸福と利益を保証するために存在する。
2 日本の国益と他国の利益が衝突する場合、双方が世界益と和の精神をもって解決するよう最大限の努力を払う。
第三条《日本国政府の関与対象》 日本国政府の直接の関与対象は、以下のとおりである。
一 日本国籍を有する者
二 日本国籍を満たさない者のうち、以下の条件を満たす者
ア 日本国籍を有する者の配偶者と子
イ 日本国領域内に居住する者
ウ 日本国領域内を一時的に訪れている者
2 第1項のうち、一および二のア、イを日本国民とする。
3 第1項のうち、一には完全な国政を含む参政権が与えられる。その他の日本国民においては、国政への参政権は与えられないが、地方自治体の条例において付与する参政権の範囲を指定することができる。
第九条《国防・災害救助隊》 日本国は国際紛争を武力によって解決しない。集団的自衛権も認めない。日本国外における武力の行使は一切行なわない。
2 日本国は陸海空の災害救助隊を設置する。災害救助隊は日本国民ならびに日本国領域内を一時的に訪れている者すべてをあらゆる天災・人災から保護するための機関である。この項でいう人災には他国その他の武装勢力による攻撃も含まれる。このための装備は認められる。
第六十二条《命名の自由》 日本国民は命名の自由を有する。成人した男女はすべて、自分の意志により、自由に自己の名前を決定する権利を有する。夫婦および子の姓は同じでもよく、違ってもよい。
2 日本国民はすべてマイナンバーを有し、福祉や身分確認はすべてこの番号によって行なわれる。
……以下略
]]>それからまた一年。今回もコンビニ8社の節分恵方巻商戦を定点観測的にまとめてみた。できれば昨年のレポートと合わせてご覧いただきたい。ちなみに今年の恵方は南南東とされている。
]]> 恵方巻について恵方巻の由来で検索すると、上位にエロ系の由来が表示されるが、それはネタ的な民間起源説であって、何の根拠もないヨタ話である。以下、『事物起源探究2011』より一部再掲する。
恵方巻きは「切らずに、一気に、黙って、恵方を向いて食べる」のがルールであり、少々滑稽な雰囲気を醸し出すのが大阪発祥らしさを示している。なお、一気に食べるというのは、かぶりついたら最後までくわえたまま食べきるということである。途中でペースダウンしてもよいが、口から外してはならない。そして、その間はものを言ってはならない。当初は早食いも行なわれていたが、あまり本気でやると喉につまるので無理はしなくてよい。なお、「笑いながら」と付け加える作法情報がネットで散見されるが、それは何か別の風習と混同した誤った情報である。
なお、この「巻きずし」(関西式)は本来、すし飯に高野豆腐、厚焼玉子、カンピョウ、シイタケ、三つ葉などを巻き込んだ海苔巻きのことを指す(関東でいう太巻き寿司にあたる)。ただし、近年はスーパーやコンビニの展開の中で異なるタイプの巻きずしや、そもそも寿司でさえないロールケーキなどを関連商品として販売する例も増えている。
現存する最古の確実な資料としては、昭和七年の宣伝チラシの存在が確認されている。昭和五十二年ごろにすし業界・海苔業界・厚焼業界が宣伝を仕掛けて、大阪を中心とした関西圏で定着していった。これが平成に入る前後から西日本へと広まり、一九九〇年代後半以降はコンビニ業界などの主導する広告活動によって全国へと伝わった。二〇〇〇年代以降は新しい習慣として全国的に定着しつつある。
定着・伝播には業界の宣伝が大きく関わっている点で、バレンタインデーのチョコレートと同様のフォークロリズムであるとして批判的に見られることも少なくない。一方、「家族そろって夕食時に食す」風習であることが高く評価される面もある。
全国に広まったのはまさに平成に入ってからである。これを広めたのはセブン-イレブンと南野陽子だ。
奈良県出身のわたしが恵方巻を食べるようになったのは、確か80年代半ばからだったと思う。当初は大阪の厚焼き業界や海苔業界が一生懸命流布につとめていたが、その後、全国に広める牽引役となったのがコンビニ業界だった。そこで、去年に引き続き、今年もコンビニ大手8社の恵方巻商戦についてまとめてみた。
コンビニ大手については、去年に引き続き大手8社のデータを参照することにした。今回は平成23年度(平成24年=2012年2月期)の「全店売上高」の数字である(デイリーヤマザキを除く)。この中には直営以外のフランチャイズなども含まれているが、コンビニ各社の規模を知るにはこの数字が最適と思われる。
昨年のグラフと大きく違うのはヤマザキだが、昨年は他の資料に従って「山崎製パンのコンビニエンスストア事業の売上高」としていた。今年調べ直したところ、子会社となっているデイリーヤマザキの全店売上高を用いるのが正確であると思われるため、修正した。そのため、単純比較はできない。
さて、今年は各社とも前年より数字を伸ばしている。その中でも上位グループ四天王が強さを示しているのは昨年同様だが、セブン-イレブンが前回の2兆円強から一気に3兆円超えとなり、一挙に二位以下を引き離した。ローソンとファミマを合わせてようやくセブン-イレブンをやや超えるという数字であり、セブン-イレブンの「一人勝ち」となっている。
今回もこのコンビニ大手8社の店舗を実際にまわり、各店舗で恵方巻の予約チラシを入手した上で比較調査してみた。もちろん各社からは一銭も見返りを得ていない。
※北海道でコンビニシェアトップのセイコーマートは、去年と同じ理由で除外した。
恵方巻/丸かぶり寿司/ロールの後の数字は、長さcm×幅(直径)cm(×高さcm)である。
◆セブン-イレブン
業界最大手にして、平成の全国普及のきっかけとなり、「恵方巻」という名称の名付け親でもあるセブン-イレブン。昨年に引き続き、NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書いた書道家・金澤翔子さんをチラシの文字に起用している。チラシは他社よりやや小さめのB5判6ページ。
恵方巻の直径が昨年の4.5cmから3mm縮んで4.2cm。長さは変わらず、やや細くなったのは食べやすさのためだろうか。サラダ恵方巻は昨年の9品目から10品目へ増えたが、太さは変わらない。また、焼紅鮭を加えて長めの「まん福(ぷく)サラダ恵方巻」が登場した。他社に多い海鮮恵方巻の代わりにサラダ恵方巻なのが特徴だが、サラダといいつつほたてやえびも含まれており、海鮮系を求める購買層へのアピールを強めるためにまん福が登場したとみられる。
節分そばのラインナップは、かき揚げ蕎麦がなめこ蕎麦ミニに変わった。また、昨年は「丸かぶりロール」の名称だったが、今年は「節分ロール」に。切って食べてもいいと思わせるネーミングになった。
◆ローソン
業界2番手のローソンの恵方巻は去年と同じく「すべて京都・清水寺で厄除開運のご祈祷をいただいた縁起の良い海苔を使用しました」という。「家族の幸せ、笑顔を招く縁起物。」「「ハレ」の日にふさわしい贅沢な具材を使ったにぎり寿司です」「七福神にちなんだ七種類の具材入り」など、「縁起のよさ」をアピールしているのも昨年と同様。また、ハーフサイズをメインに据えているのも特徴的だ。チラシはA4判4ページ。
メインが叙々苑監修の数量限定焼肉太巻となった。焼肉と海鮮で攻めるのが2013年のローソンである。蕎麦は、かき揚げそばが海鮮かき揚げそばとなり、鶏などが消えて大海老天そばに絞られた。節分ロール系は「甘味」という区分けになり、もち食感はミニサイズ4本入りのみとなって、さらに抹茶使用の和ロールが加わった。
◆ファミリーマート
ファミリーマートは昨年同様、ライバル・セブンが命名した「恵方巻」という名称はあくまでもサブとして用い、メインはあくまで「まるかぶり寿司」という名称にこだわる。ちらしでは西川きよし、FUJIWARA、COWCOW、NONSTYLE、アジアンという吉本芸人で宣伝。「あたりまえ体操」でヒットしたCOWCOWが「節分は、まるかぶりがあたりまえ!」、西川きよしが「この贅沢なおいしさも、小さなことからコツコツと」と言っているあたりは、よくわかって起用している感がある。焼肉巻は今年も牛カルビ焼肉なのだが、去年は「牛カルビ焼肉巻」だったのが短い名称となっている。
去年はチラシ上で節分蕎麦はアピールしていなかったが、今年は4種類が入っている。節分スイーツも和風ぎゅうひロールなどの新商品を投入。さらに、贅沢弁当(重)を三種類盛り込んだ。チラシはA4判4ページでサイズアップした。
◆サークルKサンクス
サークルKサンクスも去年と同様、ハーフサイズをメインに据えている。ラインナップは基本的に去年とほぼ同様なのだが、ディズニーと提携したミッキー&ミニー恵方巻を投入。若年層やファミリー層をターゲットに据えたようだ。チラシは去年と同じA5判4ページで、8社中最小。
異色の恵方海鮮トルティーヤなど、通常の恵方巻以外のバリエーションがコンビニ四天王の中では最も目立つ。今年は恵方ロングウインナートルティーヤが35cm以上のウインナーを使用ということで、長さでは随一。
◆ミニストップ
ミニストップのチラシは「幸福恵方巻」で「幸福」がキーワード。「幸福をもたらす「七福神」にちなんで、7品目の具材を撒いた延喜のよい太巻寿司です」と、昨年のローソンに似たアピールをしている。ミニストップの恵方巻は昨年より5ミリ太くなって直径5cm。
サークルKサンクスのミッキー&ミニーに対して、ミニストップはドラえもん。「ドラえもんの福福(ぷくぷく)恵方巻」は「ドラえもんの大好物のドラ焼きの皮などドラえもんのひみつ道具のようにたくさんの具材が美味しい太巻き寿司に!」、「ドラミちゃんの福福恵方巻」は「みんなが大好きな海老フライを海老ピラフと玉子シートで巻いてお子様ランチ風の太巻に!」と、一歩間違うと大変なことになりそうな路線である。ただ、去年も「こどもの恵方巻」の実績があり、完全に子供/ファミリー向けを狙っているようである。ただ、こどもの恵方巻は細めだったが、福福恵方巻は大人と同じ太さだ。
スイーツではプレミアムベルギーチョコロールが加わった。また、恵方巻の予約チラシに「福豆セット」「鬼セット」を載せているのはここだけ(酒の記載は消えた)。チラシは、去年は唯一A4判でコンビニ最大だったが、今年は小さくなって高さB5の変形(やや細身)6ページ。
◆デイリーヤマザキ
デイリーヤマザキのラインナップは(もともとパン屋だからか)去年に引き続きやや少なめ。オーソドックスタイプの組み合わせで勝負しているが、山崎製パンの子会社である不二家のクレープロールに今年はココア味が加わった。チラシはA4判両面。
◆スリーエフ
コンビニ勢力図 [ 2013年 ]|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン]によれば、高知県で店舗数単独トップだったのが2013年にローソンと同数トップとなったスリーエフ。
海鮮恵方巻は海鮮サラダ恵方巻とネーミングを変えたが、子供向けのマヨベースであることは去年と同じ。変わり種として、いなり皮の「黄金恵方巻」が今年もラインナップしており、いなり好きの私としては嬉しい限り。スイーツ系はラインナップが変わった。また、つみれ汁が加わった。チラシは去年と同じA4判両面。
◆ポプラ
ポプラも昨年に引き続き「こどものえほう巻」を提供。ポプラでは新たに「ファミリーパック」(恵方巻ハーフ×2+海鮮巻ハーフ×2)を投入している。そのほかはオーソドックス。恵方巻は昨年より直径が5ミリ小さくなって4センチと細くなったが、福豆/黒大豆の小袋がつくようになった。
チラシはA4判両面。
まず、それぞれのシリーズがどのコンビニチェーンで採用されているかをまとめてみよう。各社の名称が違っても同類のものはセットにするため、名称は適宜変更している。
以下、セブン-イレブン=7i、ローソン=Lw、ファミリーマート=FM、サークルKサンクス=KS、ミニストップ=MS、デイリーヤマザキ=DY、スリーエフ=3F、ポプラ=Plと略す。
レギュラーサイズの恵方巻、節分そば、節分ロールについては全8社が発売している。セブンイレブンが2007年に節分ロールの販売を開始して6年、すでに定着したようだ。また、節分そばは旧正月の「年越しそば」が由来なので、これは確実に恵方巻より起源が古い。
また、ふつうの恵方巻のハーフサイズを提供しているのは3社のみ、他はハーフサイズではサラダ/海鮮/焼肉の恵方巻を提供している。ハーフでの単価が下がるのを防ぐための戦略は去年に引き続き健在だ。
したがって、「長い恵方巻、ハーフ(サラダor海鮮or肉)、節分ロールスイーツ、節分そば」の4種はどのコンビニでも見られる定番セットとなっている。
去年はランキング下位に位置する三社が子供向け恵方巻商品を提供していたが、今年はサークルKサンクスも参戦した。女性向けのハーフサイズの次は子供・ファミリー層がターゲットになっている。
去年との大きな違いは、ミッキー&ミニー(サークルKサンクス)やドラえもん(ミニストップ)といったキャラクターが登場したことだ。吉本芸人を起用したファミリーマートと合わせて3社がキャラクターでのアピールを始めている。これは2013年の特徴と言える。
昨年、節分つみれ汁を採用しているのはセブン-イレブンとサークルKサンクスの2社のみだったが、今年はスリーエフも参戦した。また、去年のセブンのつみれ汁は何の魚かわからないことをこのブログで指摘したが、今年はいわしと明記されている。来年はさらに参戦コンビニが増えるのではないかと思う。節分にイワシを食べるというのはもともと西日本の風習で、邪気を払うためにイワシの頭を門口に指した。これが「イワシの頭も信心から」という言葉の由来でもある。邪気払いのイワシが節分と結びつくのは民俗学的にはよく理解できる風習だが、これが現代のコンビニで「つみれ汁」として甦ったようだ。
去年はファミリーマートだけだった焼肉巻に今年はローソンも参戦。この二社はそろってにぎり寿司セットも節分商品として売り出している。また、サークルKサンクスが去年はすき焼き重、今年は焼肉重でアプローチする贅沢弁当ジャンルに、ファミリーマートがいきなり三種類で参戦した。にぎり寿司セットと重を「節分のちょっと贅沢なお食事系」とまとめるなら、ローソン・ファミマ・サークルKサンクスの3社が参入したことになる。どうやら、これが女性・子供ファミリー層に続く、節分の新しい開拓ジャンルなのだろう。
サークルKサンクスの恵方トルティーヤ、スリーエフのいなり皮恵方巻はどちらも孤高の存在だが、一発屋で消えることなく今年も生き残った。
節分と言えば豆まき、というのは少なくとも戦後の日本の家庭の「常識」であったと思われる。しかし、平成以後のコンビニによる恵方巻の全国化で「節分は恵方巻と節分そばと豆まき」というセットが定型になってきているようだ。恵方巻自体は昭和からの新風習であってフォークロリズム(作られた疑似伝統)とも見なしうるが、数年のうちにはすっかり「伝統」として収まっていくと思われる。それが、古い伝統である節分そばや豆まきと共存しているのが興味深い。
……というのは去年の分析だが、今年もこの分析は生きている。ただ、それに加えて節分ロールも定着しており、さらにいわしのつみれ汁の「復権」も傾向としてみられる。もちろん、これらすべてのフルコースを採用する家庭は少ないだろうが、子供のいるファミリー層の節分の夜は、一昔・二昔まえとくらべて非常ににぎやかなものとなっているということは確実に言えそうだ。
以上を踏まえて来年を予測するなら、以下のとおり。
このほか、小説など寄稿しています。
]]> スペース情報文フリ公式の案内→文学フリマ - 会場アクセス
「ことのは( @kotono8 )」は2階【エ-39】、つまり2階の一番突き当たりの方向になります。休憩所が目の前にあります。
お隣の【エ-40】奇刊クリルタイと今回も合体配置となります。レジも共通です。どちらかの本を一冊以上購入すると、ことのは特製ビニール袋とクリルタイ既刊一冊(またはバッジ)が無料でついてきます。
表紙には吉川にちのさんのイラストをレイアウトしています。100ページ、1000円。
近代日本――明治維新後の日本医学界は、抗争の歴史であるといっても過言ではない。だが、その歴史は断片的にはまとめられているものの、その「通史」とでもいうべき資料はほとんど存在しないのが実情である。
そこで、わたしは、現役の医師でもその全貌を知らないという近代日本医学界抗争史をまとめることにした。それは、敵同士が呉越同舟の闘いを繰り広げることもあり、親友同士が敵味方に分かれ、それでも友情を保つこともあり、あるいは東大・文部省派に追い詰められた私学派が立場を越えて協力し合う、いわば水滸伝的な状況もあった。だが、ここまで泥沼の対立があったことは、非常に残念な歴史であると言わざるをえない。
こうしてまとめてみることで、現代の医学界にもつながる問題点なども浮かび上がってきたように思われる。
なお、本書には五編の森鴎外の著作を現代語訳して掲載した。森鴎外は文部省・東大赤門派の代表として、激しく敵対者と戦い続けたという側面もある。そして、これをまとめていく上で、どうしても鴎外には共感しにくい場面が非常に多かった。いや、むしろ鴎外の敵への共感を強めるところもあった。したがって、ここに現代語訳して引用した鴎外の文章は、わたしにとっては「こんなことを言っている」という立場での紹介であり、決してそれに賛同するものではないということを改めて書いておかねばなるまい。
だが、だからといっても文部省・東大赤門派に敵対する者を絶賛しているかといえば、それも違う。それは本文を読んでいただければご理解いただけるものと確信している。
医とは苦しむ人を救うためのものであってほしいという願いを込めつつ、この小史をまとめた。
急ぎ作成した冊子のため、誤りも多々あると思われるが、その際はぜひ暖かくご教示いただければ幸いである。
本冊子では森鴎外の医療関係の論文や演説を五編、現代語訳して収録している。これらの論説は、本書では極めて批判的な文脈で取り上げられている。
詳細はこちらもご覧ください。→どっち派!?近代日本医学界抗争史 - みんなの文学フリマ情報
隣の「奇刊クリルタイ」と共通レジで何かお買い上げの方に、ことのはオリジナルビニール袋と奇刊クリルタイ3.0を無料進呈します(先着順)
【イ-28】近江舞子さんの企画『Phantasmagoria』は"FUCK THE BORDER LINE"がテーマ。好きな作家へのトリビュート作品を集めたアンソロジー。近江舞子が「太宰治」を、森田紗英子が「浅田次郎」を、松永英明が「泉鏡花」を、泉由良が「江國香織」をカバーする。詳細→『Phantasmagoria』 - EMILY――私が寄稿した「天空樹堀」は1万5000字ほど、原稿用紙で40枚ほどの短編。
黄色い衣装に身を包んだ若いバスガイドの女性が、水色に見える小旗を掲げて、住宅街とも商店街ともつかぬ、車の行き交う二車線道路の歩道を進んで橋のたもとへ近づき、それまでうつむき加減だったものを急に振り返って後続の旅行者たちに声を掛ける。
「こちらの横断歩道を渡ったところの橋でございます、ここが有名な、……」
言いさしたところで声を切って、少し立ち止まった。ガイドは若いが着いてくる客はほとんどが退職後の年代で、どうしても歩みの速さが違うのはやむを得ぬ。それを見て取ったのが、すぐ後ろを参加者の中で一人歩いていたやや細身の三十代半ばと見える男で、ガイドの少し手前で止まって同じように振り返って笑みをこぼした。
「ガイドさんは若いから、爺さん婆さん連中が着いて来られません。」
「あら、そういうこと言うもんじゃありませんよ……皆さん、無理しないでどうぞ。お好きなペースでお越しくださいまし」
「そんな暢気なことを言っていると、あの年代の人たちはどこまでも寄り道しかねませんよ。」
と男は肩から下げた安めの一眼レフの紐を掛け直し、大きな声で、
「皆さん、寄り道しているとタワーが雲に隠れてしまいますよ、ほら、そこはまだ名所じゃない。」
それをガイドが遮って、……
【エ-40】お隣の奇刊クリルタイの『クリルタイ7.0』に、少子化時代の子育てに関する小論を寄稿しました。→詳細:chikumaonline : 奇刊クリルタイ7.0頒布のお知らせ
少子化が問題視されるようになって久しい。
しかし、女性の出産に関して、十代後半から二十代前半では妊娠しても堕胎か貧困家庭の二択を迫られ、二十代半ば以降は未婚でも既婚でも仕事があるために子育てに専念できないので(または子育てするほどの経済的余裕がないので)子供を作ることができず、やっと余裕のできてきた三十代に入ると今度は「卵子の老化」だの「高齢出産」だのと言われる年代になってしまって不妊に悩む人も少なくない……というのが、二〇一二年現在の「ちょっとおかしな」八方ふさがりの実態ではないだろうか。これで子供が増えるわけがない。
一方で、「電車の中でベビーカーを畳まない母親へのバッシング」があったり、「親学」と称する一派が「発達障害は親の育て方が原因」という疑似科学的な非難を行なっていたり(虐待は発達障害の原因となるが、発達障害の原因はむしろ先天的なものなども大きい)、「保育園に預けて仕事をするのは愛情がない証拠」などと言われたり、あるいは母乳推奨が行きすぎて母乳の出づらい母親が精神的に追い詰められたりするなど、「理想的」とされる「完璧」な子育て方法を社会が強要する状況も根強い。
ツイッターでわたしがフォローしている人が、こうつぶやいた。
「保育園に入れることが悪いとは思わんようにはなってきたが、保育園に預けて働いてる人には子育てしましたって言って欲しくないところはある」
普段は理性的な発言が多い人だったので驚いた。そこでわたしはこう返した。
「「保育園に預けるのは育児放棄した悪い親だ」みたいな見方がなくならないと「だったら子供なんか産まない方がいい」みたいな人が続出するのも当たり前だと思ってます」
正面からの反論のつもりだったが、こんな返答が返ってきた。
「それもちょっと思うんですよね。感情的な部分として。子供が欲しい、でも生活できない、のなら生まなくてもいいんじゃないの?って」
保育園に預ける、すなわち「二十四時間三百六十五日フルタイムの子育て」をしていなければ子育てとは認めたくないという感情を、普段は理性的なツイートをする人でも抱いてしまっているのである。保育園を「育児放棄」的なものととらえる見方の根強さに驚いた。少子高齢化が問題となっている中、なぜこんな子育てのハードルを上げる発言が、「子育てに無理解な男性」どころか、当の女性の中からも出てしまうのか。
今回は、こういった矛盾した状況にある現代日本の出産・子育て状況についての考えをざっとまとめてみたい。
学習院大学表象文化研究会『Kulturtrieb-G』 Vol.4 特集「旧ゼロ年代」に寄稿しました。詳細→KTG04 - みんなの文学フリマ情報
『文学フリマ非公式ガイドブック小説ガイド(第2版)』で二冊、自分の趣味に合った本を紹介しました。
【イ-61,62】「ふぇにどら!!」の新刊『団地少女』を当ブースでも委託販売いたします。700円。詳細→phenyldruger(フェニルドラッガー) 第十五回文学フリマとCOMITIA102情報ーっ!!
ちなみにこれは東方の前回新刊『ゲニウス・ロキの歩き方』つながりです。Amazon.co.jp: ゲニウス・ロキの歩き方: 松永 英明, 幸田 露伴, ことのは編集室, 吉川 にちの: 本
というわけでよろしくお願いいたします。
]]>オスプレイというのはどういう機体かと思っていろいろ調べていたら、1/144サイズの模型があることがわかり、先日オークションで落札していた。1/144サイズといえばガンプラのメジャーなタイプ(HGUC、RG)で採用されている大きさである。もちろん、うちにも素組した程度ではあるが組み立てたガンプラがある。
ということは、この模型を二つ並べて、お台場で見た1/1ガンダムを思い出せば、オスプレイのスケールが大体わかるはずだ。というわけで、いろいろ画像を作ってみた。
]]> 1/144サイズのオスプレイもともと食玩として販売されていたもののようだが、すでに絶版となっているF-toysの「ヘリボーンコレクション3……全八種類+?」のうち、V-22オスプレイ・アメリカ海兵隊仕様をオークションで手に入れた。側面のプレゼントの締め切りからすると2007年の商品と思われる。そこに封入された解説文(文:桜川吾郎)から一部引用しよう。
「ボーイング・ベルV-22は、主翼両端に搭載したエンジンごとローター(プロペラ)の回転面を動かして、垂直離着陸と水平飛行を行うチルトローター方式を採用したVTOL(垂直離着陸)機。最大24名の兵士を乗せ、時速500kmで3,000km以上飛行し、滑走路以外の場所に垂直離着陸可能な飛行機とヘリコプターの長所を兼ね備えた輸送機である」
ちなみに、今回配備されることになる海兵隊仕様は型番がMV-22である。
「チルトローター方式は、主翼ごと動かすチルトウイング方式とともに比較的早い時期から実験機が作られ、VTOL機としては有望な方式とされていたが、ホバリング時に安定を保つのが難しく、コンピューターによる制御が可能になった現在やっと実用化に漕ぎ着けようとしている」
モデルでもプロペラ部分が可動となっており、その様子をイメージできる。水平飛行時にはプロペラが水平、離着陸のときにはヘリコプターのようにプロペラが上向きになる。
五年前の解説文でも「安定を保つのが難しい」と指摘されているが、現在もその事故率の高さが普天間基地配備における最大の問題点とされている状況である。その事故の原因を米軍では機体の問題ではなく人為的ミスなどによるものと結論づけているものの、「オスプレイ制御コンピューター操縦指示従わず 墜落恐れも - 琉球新報」(2012年8月19日)の記事にあるように「操縦ミスで失った制御を取り戻そうと操作しても、低速飛行時はフライトコンピューター(操縦制御装置)が操縦士の指示に従わず、そのまま墜落する可能性が高い」という報道もある。
いずれにせよ、機体そのものに特に欠陥がないかもしれないが、米軍の熟練した精兵でも操縦に手こずるほど、操縦の難しい機体であるということは否定できまい。これを乗りこなせる兵士がいないとは当然思わないが、いわばニュータイプ専用機ということになるのではないか。
さて、1/144 MV-22オスプレイを「1/144 HGUC RX-78-2ガンダム」のプラモデルと並べてみる。とりあえず素組してスミ入れするくらいで満足する人間なので、組み方には目をつぶっていただければ幸いである。
このガンダムは、わたしが2009年7月13日にお台場で撮影した1/1ガンダムの写真をイメージしてポーズをつけてある。
さて、この画像を二つ重ねて、大体サイズが合うように揃えてみる。そして、背景を切り抜いてみた。
つまり、オスプレイはおおよそこれくらいの大きさである(ガンダムと同じく台座に乗っていると思っていただきたい)。
RX-78-2ガンダムとザク、グフの戦場に紛れ込んだオスプレイ。「CH-46とは違うのだよ、CH-46とは!」
オスプレイとRB-79ボール二連装機関砲バージョン(※オスプレイは宇宙空間には行けません)。
ニュータイプ用モビルスーツ・ジオングとガンダムの熾烈な闘いの間を抜けていくボールとオスプレイ。
ジオン軍技術士官「80%? 冗談じゃありません。現状でジオングの性能は100%出せます」
シャア「脚はついていない」
技術士官「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」
シャア「使い方はさっきの説明で分かるが……サイコミュな? 私に使えるか?」
技術士官「大佐のニュータイプ能力は未知数です。……保証できるわけありません」
シャア「はっきり言う。気に入らんな」
技術士官「どうも……気休めかもしれませんが、大佐なら上手くやれますよ」
シャア「ありがとう、信じよう」
アムロ「まだだ! たかがメインカメラをやられただけだ!」
アムロやシャア並みのニュータイプであれば、どんな状況下にあっても不安定な機体を墜落させずに飛行できるのかもしれない。ただ、ニュータイプ専用機にオールドタイプを乗せてはいけないとは思う。
オスプレイについて、配備に反対する人たちの意見は「基地に隣接して民家が建ち並ぶ普天間基地において、離着陸時に最も墜落の危険が大きいオスプレイを配備するのは反対」というものである。また、「そういうものを配備することで辺野古への基地移転を進めようという考えだ」という批判もあるようだ。
一方、オスプレイ配備反対に反対する人たちは、「中国への抑止力として必要」というのが主張の要点となる。戦闘行動範囲ではオスプレイは一回の空中給油で台湾全域や上海、釜山も含めた地域をカバーする距離を飛べる。
この時点で賛成派・反対派の重視するポイントがまったくズレていることに気づく。一方は安全性における問題を述べ、一方は国防上の必要性を主張している。「国防上必要だろうが民間人を危険にさらしかねない(つまり、国防といいながら国民の犠牲を求めている)」というのがこの問題のややこしいところである。こういう場合、「安全だ」と言い張っても説得できるわけがない。根本的な安全対策による結果を出すしかないだろう。
ちなみに、ネット上のごく一部では「オスプレイに反対するのは、中国・韓国への驚異となるオスプレイを排除したがっている工作員」というような陰謀論も見られるが、そのように安易に決めつけた妄想的陰謀論に走るのではなく、もっと議論の本質を見据える必要があるだろう。
オスプレイが受け入れられる方法は一つ。ニュータイプ専用機ではなく、安全性の認められる量産型に進化させることである。
]]>当ブログではこの件について発表された直後に、関係者のツイート等をまとめて、報道内容が誤報であると伝えてきた。今回、福島県が誤りを認め、謝罪を行なったことになる。ただし、福島県の発表をそのまま裏取りもなく垂れ流したメディア各社は、福島県のせいにして謝罪を行なっていない。
以下、当ブログでの扱いを振り返ってみる(一部、第十二回文学フリマで頒布した『東日本大震災でわたしも考えた』=残部僅少=に書いた文も収録)。
]]> 双葉病院「患者置き去り」誤報事件の経緯事件そのもののタイムラインは以下のブログ記事にまとめている。また、関係者によるツイートをまとめたのが以下のTogetterまとめである。
経緯を簡単にまとめると、以下のとおり。
「自衛隊が来るが、寝たきりや車いすの患者が搬送できず、一旦戻る」
→「2度目の救援が来ない」
→「一緒に残っていた警察の指示で職員が川内村に避難」
→「自衛隊と一緒に病院に戻ろうとする」
→「避難地域なので一緒に行けない」
→「自衛隊だけが救援に」
→「2・3回目の搬送の際、病院関係者は誰も現場に居なかった」(当たり前)
→「職員が患者置き去りで逃げたと福島県が発表」
→「報道各社が福島県発表に基づいてそのまま独自取材せず報道」
このような経緯によって、双葉病院の院長が「患者を見捨てて逃げるという、人道的に許し難い医師」として非難された。
たとえば、有田芳生氏は報道をそのまま受け入れて以下のように感情的非難を行なった。
逃げるな!!RT @aritayuki: なんなの、このニュース。【高齢者残し、医師ら避難か=原発圏内の病院ー福島】http://goo.gl/eLOm1
— 有田芳生さん (@aritayoshifu) 3月 17, 2011
戦時に上官が戦死しても部下たちが創意をこらして人命を救ったケースはいくらでもある。日本的集団主義と否定的に言われることが多いが、情況に対応する単独者が生まれた日本人のすぐれた資質。官僚的ピラミッドが崩れても、そこにとどまる覚悟を、少なくとも私は持ちたい。人生観の問題だ。
— 有田芳生さん (@aritayoshifu) 3月 17, 2011
朝日記者が双葉病院長から取材。患者21人死亡は「搬送に長時間かけたためで、国や県の責任。自分に責任はない」と語るとともに、自衛隊による救出前に病院を離れて患者を置き去りにしたことを認めています。RT @sangoky: @affet009これ、有田が流している虚報ですよ。
— 有田芳生さん (@aritayoshifu) 3月 19, 2011
その続報。患者21人死亡は異常な現実。RT @keynesian2010: RT @satohirox マスコミの情報を鵜呑みにする、貴方のような人にはぜひ→http://bit.ly/g8Weh0 RT 朝日記者が双葉病院長から取材。「搬送に長時間かけたためで、国や県の責任」
— 有田芳生さん (@aritayoshifu) 3月 19, 2011
最後のツイートでリンクされているのはわたしのブログ記事(がBLOGOSに転載されたもの)だ。
もちろん、搬送中と搬送後合わせて多くの患者さんが亡くなったのは非常に悲しいことである。しかし、それを双葉病院の医師たちが最終段階で患者から離れていたからという理由付けをして双葉病院関係者を叩くのは絶対に間違っている。
地震発生からまる三日経った十四日に自衛隊の最初の救援があった。この時点まで病院関係者四人はその場にいたが、精神的な障害を抱えた患者を多数含む約百人の患者をまる三日間、少ない人数の職員が必死で支えてきたのである。設備や物資も万全ではない中、そこから搬送される途中や搬送後に亡くなる患者さんが出たのは、もはや誰にもどうしようのないことだったはずだ。特に食料や、輸液等の不足があったのではないかとも推測できる。実際、他の避難所でも、避難後に亡くなっている方は少なくない。
院長含むスタッフは、いったんは警察官の指示で避難したが、また自衛隊と一緒に現場に戻ろうとしてそれを阻まれた。最善を尽くしてなおあまりある行動を取っている。それを「患者を放置して逃げた、許せない」と非難するのは、人間として間違っていると私は強く思う。
双葉病院院長は取材に答えて、患者を残して避難したのは事実、と述べているが、それは医療関係者としての誠実さから、自省的に述べたものであると判断する。医療従事者として最後まで付き添えなかった無念さを述べているのである。そのように語ること自体、医療従事者としての誠意であると信じる。したがって、その言葉尻を捉えて「やっぱり逃げたんじゃないか」と責めるようなことは、人として決して行なうべきではない非人道的発言にほかならない。
今回の誤報騒動は、福島県の担当者が「事実なら許せない」という趣旨の発言をしたことがきっかけである。これに対して「また福島か」という声が(特に医療関係者を中心に)上がっていた。
今回の舞台となった双葉病院は、福島県双葉郡大熊町にある(双葉町の「双葉厚生病院」とは別の病院である)。大熊町――それは奇しくも医療の世界で大問題となった「福島県立大野病院事件」の舞台でもあった。
二〇〇四年十二月十七日、大熊町の福島県立大野病院で帝王切開手術を受けた産婦が死亡した。これに関して福島県調査委員会が「医療側に過失あり」と報告した結果、手術を執刀した産婦人科の医師一人が業務上過失致死と医師法違反の容疑で二〇〇六年二月十八日に逮捕された。
医療の世界において、この逮捕は激しく批判された。人を救うために努力している医療従事者であるが、どうしても医療上救えない事態が発生することは仕方のないことである。医師が最善を尽くした上での手術の失敗を「業務上過失致死罪」に問うことは、根本的に誤っている。もしこれが「罪」ならば、このようなリスクのある手術を引き受ける医師はいなくなるだろう。実際、この大野病院事件での逮捕後、産婦人科医減少に拍車がかかり、二〇〇五年から二〇〇八年までに一五パーセント以上も産科医療機関が減少したという事実がある。つまり、これは「医療崩壊」を促進したことで悪名高い事件なのである。
二〇〇八年八月、福島地方裁判所は医師を無罪とした。当然の判決であったといえよう。一方で、患者遺族の言動が「モンスターペイシェント」的であったというような批判も展開されている。
大野病院事件の直接的な原因となったのは、福島県による調査委員会だった。そして、今回の双葉病院「置き去り」報道においても、福島県の担当者による「もし高齢者だけを置いて避難したとしたら許せない」発言が批判的な報道を招いた。
「また福島か」――そのつぶやきはこれ以上繰り返されないでほしい。
もちろん、マスコミは一枚岩の集団ではない。双葉病院に関する誤報については森功氏が当ブログとは別に取材を行ない、『なぜ院長は『逃亡犯』にされたのか』(講談社)を書いている(原発事故直後、「患者を捨てて逃げた」と報じられた院長たち。誤報道はなぜ起きたのか 双葉病院(福島・大熊町)の奮闘を 「逃亡犯」に変えた新聞・テレビ | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]参照)。
しかし、今回の誤報についての名誉回復は、新聞各社の報道を見る限り、非常に物足りないものであった。
東京電力福島第1原発事故直後に、双葉病院(福島県大熊町)が入院患者を置き去りにしたかのような報道発表をした福島県が今年7月、県医師会に「病院側に事実確認しないで公表したことは適切でなくおわびする」などと、ミスを認め謝罪する文書を出していたことが分かった。
一か月以上経ってからの報道である。「医師会は県に対し文書で今年2月、誤発表で医療への不信感を招いたなどとして事実確認の公表を求めていた」というから、県自体が5か月も経ってから回答していたわけだが、県医師会が抗議しなければ医療不信を煽る発表についての謝罪はまったく行なわれなかった可能性がある。
県は「病院関係者は一人もいなかった」と誤った発表をし、病院関係者は「患者を置き去りにした」と非難された。
この毎日記事では福島県が悪いようなことを書いているが、毎日新聞も「東日本大震災:福島・避難の高齢者14人死亡 救助時、患者のみ82人--入院の病院 - 毎日jp(毎日新聞)」(現在記事はウェブ上に残っていない)において「医師、職員らは不在」と報じている。決して県の責任として押しつけることはできない。
それでもまだ、毎日は良心的である。読売と朝日はどちらも福島県による謝罪をオンライン記事として公開していない。
読売の場合、「福島・双葉病院、患者だけ残される : 医療ニュース : yomiDr./ヨミドクター(読売新聞) 」記事は早々に削除されたが、YOMIURI ONLINEで双葉病院を検索すると、2011年3月・4月の記事(置き去りとは言っていない記事)が検索できる。ところが、今回の福島県による謝罪報道は、紙の新聞では報じられたが、YOMIURI ONLINEでは読むことができないのだ。
(報道自体があったことは、博文会ブログ 「双葉病院が患者置き去り」福島県誤発表認めるー8月31日読売新聞に新聞記事のキャプチャが載っていることからわかる)
また、朝日新聞では「朝日新聞デジタル:サイト内検索結果 - 無料記事で「双葉病院」として検索すると、2012年7月の「住民が置き去りにされた」検証記事と並んで、事故直後の二つの記事がそのまま残っているにもかかわらず、「福島県が謝罪」についての記事は検索できない。
いずれにしても、この誤報に関する新聞各社の態度は、まさに「誤報をそのまま置き去り」にするものであり、反省の色が見えないと言わざるを得ない。
わたしたちは「もし○○が事実だったら××を許せない」という発言を根絶する必要がある。このように仮定の上で批判することは、事実かどうか確認しないで相手を叩く行為である。しかも「断定はしていない」という言い訳が可能である一方で、その言葉を聞いた人は「××さんが○○という許せない悪事を行なった」という印象を持つ。人を悪者にしておきながら責任逃れのできる、まことに卑劣な言い方であるといえる。
どうして「もし事実だったら」と言う前に、「××さんが○○というのは本当なのだろうか?」という疑問を示せないのだろうか。そして、本当かどうか確かめた上で「これは事実だと思う。それは許せない」と言ったとしても遅くはない。
「もし事実だったら許せない」という言い方は、その事実確認を飛ばす意識が生んだものである。つまり、事実か否かよりも「許せない!」と叩きたいという気持ちが先走っているのだ。だから、わたしたちはこの言い方を絶対に認めないことが必要である。
]]>第1点。「全ての言語」ではなく「すべての印欧語」と書くべきである。
第2点。「トルコ」といってもトルコ語は関係ない、現トルコ共和国のアナトリア地域(小アジア)起源という説の紹介。つまり、ここでの「トルコ」は言語でも民族でも国家でもなく場所のみを指すが、言語の話なので紛らわしい。
以下、詳細に述べる。
]]> サイエンスに発表された論文【8月28日 AFP】英語もヒンディー語も、ロシア語もイタリア語も、みんな起源はトルコ――。こんな国際チームの研究結果がこのほど英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された。疫病流行の追跡用に開発されたコンピューター・モデルを使って言語の進化をさかのぼったところ、数百種類のインド・ヨーロッパ語の発祥地は全てトルコに行き着いたという。
「全ての言語」といえば当然、日本語やアイヌ語や中国語や朝鮮語やチベット語やビルマ語やハワイ語やアラブ語やスワヒリ語など多種多様なありとあらゆる言語を思い浮かべるはずだが、ここで言われているのは「インド・ヨーロッパ語族」に属する言語だけである。
インド・ヨーロッパ語族に属することばは共通の「印欧祖語」を持つということは、もうずいぶん古くからわかっていることである。たとえば「英語もヒンディー語も、ロシア語もイタリア語も」と記事には書かれているが、それ以外にもドイツ語もサンスクリットもパーリ語もラテン語もギリシア語もスペイン語もチェコ語もアイスランド語もゲール語もイラン語も含まれる。つまり、ヨーロッパからペルシア、インドにかけて広まった一大言語群が同じ祖先を持っている。
さて、今回の研究結果について、AFP記事ではNatureに発表されたとあるが、これは誤りで、正確にはScience誌である。概要はこちら(全文は有料)
Mapping the Origins and Expansion of the Indo-European Language Family
概要を訳すと以下のとおりである。
インド・ヨーロッパ語族の起源に関しては二つの説が対立している。従来の見方では、その故郷を約6000年前の黒海の大草原地帯としてきた。もう一つの仮説では、印欧語はアナトリアから広まり、8000年から9500年前の農耕の広まりとともに広まったと主張する。我々はベイジアン系統地理学的アプローチを用い、古代および現代の103のインド・ヨーロッパ語の基本語彙データを使って、この語族の拡大をモデル化し、二つの仮説を検証した。その結果、大草原起源よりもはるかにアナトリア起源説を決定的に裏付けることとなった。インド・ヨーロッパ語の系統樹において推定された時代および根源の地は、8000年から9500年前に始まったアナトリアからの農耕の拡大と一致している。これらの結果により、系統地理学による推論は、人類の先史時代についての議論を解決する上で決定的な役割を果たすことが浮き彫りになった。
この研究についてはNatureのNewsで報じられたので、記者は論文自体がNatureに発表されたものだと勘違いしたのだろう。
ここには、印欧語がどのように広がっていったかを示す動画も紹介されている。
関連記事は2003年にも出ている。
Natureの記事でTurkeyという言葉が使われているのでこれ自体が紛らわしいとも言えるのだが、この記事で言うトルコというのは場所を指すだけであり、トルコ語やトルコ人やトルコ共和国とは何の関係もない。Nature記事でも「Anatolia — now in modern-day Turkey(アナトリア、現在のトルコ付近)」と記されている。
アナトリアは現在のトルコ共和国のある半島で(特にその西部~中部)、小アジアとも呼ばれた。このあたりが印欧語の故郷に当たると考えられる、というのが今回の研究結果である。
一方、トルコ人はもともと中央アジアに住んでいた部族が始まりで、6世紀には「突厥(テュルク)」の大帝国を打ち立て、中国の南北朝から隋の時代に中国北辺を脅かした。6世紀末には東突厥と西突厥に分裂し、8世紀にはどちらも滅亡した。突厥以外のテュルク系民族は鉄勒と呼ばれるが、その中からウイグルやオグズといった勢力が勃興した。
テュルク系遊牧民オグズの指導者セルジュークとその一族が打ち立てた強大なイスラム帝国がセルジューク朝である。セルジューク朝は中央アジアからイラン、中東、現在のトルコ方面まですべて支配下に収める。ここでトルコというのは多民族帝国となった。この大帝国は11~12世紀に最盛期を迎えるが、やがて滅亡していった。
その後も中東から中央アジアの広い地域でトルコ系の支配者が建国する。モンゴル系も勢力を伸ばしたが、モンゴル系のティムール帝国でもチャガタイ・トルコ語が用いられた。
14世紀にはアナトリア地方を本拠地とするトルコ系のオスマン帝国(オスマン・トルコ)が勢力を拡大し、実に20世紀まで帝国が存続する。現在のトルコを中心に、東ヨーロッパからエジプトを含む地中海南岸や中東地域を支配下に収めた。しかし、第一次世界大戦後にトルコ革命が起こり、トルコ共和国となる。そのため、トルコ民族発祥の地である中央アジアから遠く離れたアナトリア地方が「トルコ」と呼ばれることになった。なお、トルコ系の国名や地名としてはトルクメニスタンやトルキスタンなどがある。
で、トルコ語はインド・ヨーロッパ語族ではなくアルタイ系のことばとされている。語順は日本語と同じSOV型に属する。したがって、この記事で「トルコ」というとき、それは場所を示すだけであって、トルコ語ともトルコ人ともトルコ共和国とも関係がないということは改めて押さえておきたいし、論文の中でも印欧語とトルコ語の関係については一言も触れられていない。
2011年4月には、文字どおり「すべての言語」の起源がアフリカにあることを裏付けるデータがあるという研究結果が発表されている。この記事は原文を取り寄せて読んだ。
概要を訳すと以下のとおり。
人類の遺伝的・形質的な多様性は、アフリカから遠ざかるにつれて少なくなる。それは連続する個体群が広く拡張する中で多様性を失っていくという創始者効果によって予言されたとおりで、現生人類がアフリカ起源であることを実証するものである。ここでわたしは、世界中の504の言語サンプルで使われている音素の数が、連続的に変化しており、アフリカから拡散していったという説に基づく創始者効果と一致することを示す。この結果は、近年の人口統計的な歴史や、地方での言語の多様性、あるいは語族内での統計的な非独立性などでは説明ができない。遺伝的・言語的多様性が同じようなメカニズムを持っていること、現生人類の言語もまたアフリカ起源であることを示すものである。
これは、アフリカから離れるにしたがって言語の音素数が減っているというもので、これは「起源から時代的・場所的に離れて広がるにつれて多様性が失われる」という「創始者効果」が言語においてもみられる、という。つまり、現生人類の起源がアフリカにある(現生人類は人種としては一つで、5万年前にさかのぼれば全人類の先祖となった集団がアフリカにいた)というDNA的な見解とも一致するという。
たとえば音素数では、アフリカのコイサン諸語に属する!Xu(!Kung)語は141、アイルランド語が69、クルド語が47、英語が46、ベンガル語43、ドイツ語41、ロシア語38、フランス語37、北京語32、韓国語32、タガログ語23、イヌイット語22、日本語20、パプアニューギニアのロロ語14、ハワイ語13、ブラジルのピラハ語11とされている。
なお、日本語において、たとえば「はひふへほ」の子音は[h](は・へ・ほ)[ç](ひ)[ɸ](ほ)という3種類の「単音」から成っているが(これを[ ]で示す)、音としては同じハ行の子音として日本人は同じものと認識している。これはすべて音素/h/とみなす。
このように、音は違っても同じものとして扱っている(弁別しない)のをまとめて「音素」という。すると、日本語(東京方言)の音素は
/a/, /i/, /u/, /e/, /o/, /k/, /s/, /t/, /c/, /n/, /h/, /m/, /r/, /g/, /z/, /d/, /b/, /p/, /j/, /w/
の20個ということになるわけである。
現生人類はすべてアフリカから出た。その中で、アナトリア地方にいたグループが農耕を獲得し、その言葉がインド・ヨーロッパ語族として広まった。日本列島にはいろいろな時代にいろいろな集団がいろいろなルートでやってきた。また、人類が到達したなかでも最後に近い「未踏の地」がハワイだった。その過程で、アフリカから(人類の系統的に)遠ければ遠いほど、遺伝的にも形質的にも、さらには言語的にも多様性が失われていったとすれば、全体に辻褄が合うことになる。
]]>詳細はPDFファイルにしたのでそちらで見ていただきたい。→都道府県別「多い名字」可視化マップ(PDF)
※関連記事:選択式夫婦別姓議論と「日本人の姓/名字」の歴史[絵文録ことのは]2011/02/15
]]> 発端佐藤さん山脈、田中さん山脈 ←日本の多い名字を1枚の地図にまとめてみた 読書猿Classic: between / beyond readers(2012年8月5日)
というブログ記事を読んだ。満田新一郎(1961)「多い苗字、多い名前」『言語生活』」118.所載の図に彩色した「佐藤さん山脈、田中さん山脈」という図が掲載されている。
これは非常に興味深い、面白い……が、データが古い(わたしも生まれる前である)し、あまり厳密な地図とはいえない。そこで、ある程度の統計データに基づいて可視化してみようと思ったのだった。
まず、都道府県別の名字の順位については、名字についての著作を多く著わしている姓氏研究家・森岡浩さんのサイトにある「都道府県別名字ランキングを参照した。ここでは1990年代の電話帳に基づく名字数の順位が掲載されている。「すでに10年以上が経過していますが、上位の名字に変動を及ぼすほどの激しい人の移動はなく、現在でもほとんど変化はないはずです」とのことなので、ひとまずこのランキングデータを採用することとする(本当は自分でこのデータも調べ直せばいいのだが、暫定的にデータを利用させてもらうことにした)。
このサイトでは上位20名字がリストアップされている。いろいろ検討した結果、各都道府県の上位4名字でデータ化することにした。あまり多すぎてもごちゃごちゃしてかえって傾向が見えなくなるし、少なすぎると今度は情報がぶつ切れになってしまう。
次いで、同サイトの「日本人の名字ベスト200」のデータを参照した。これは「読み方まで考慮した日本初のランキング」とのことだが、ここで日本全国で多数派を占める名字が判明する。
この二つのデータを付き合わせてみよう。「日本全国」のランキングで上から順に、都道府県別でどの県の何位に入っているかを調べていく。全国1位の佐藤さんの場合、北海道・岩手・宮城・秋田・山形・福島・新潟・大分で1位、茨城・東京・神奈川で2位……といった具合だ。これを各都道府県の4位までに入っているかどうかチェックする。
全国2位の鈴木さん、3位の高橋さん……と順に進めていく。18位の「木村」さんが4位以内に入っているのは青森県の4位のみであった。それまでは複数県でトップ4入りしていたので、木村さんの一つ上、17位井上さんまでを地図上で示し、それ以外はその他として扱うことにした。
1位を直径4、2位を直径3、3位を直径2、4位を直径1の比率の円で示し、各都道府県に配置した。名前ごとに色を変え(上位10位までは虹の色の順、それ以下は中間色で)、同色=同名の円を同じ色の線で結んでみることにした。18位以下はグレーにしてある。
その結果がこの地図である。何となく色覚調査の図にも見えないではない。Webで通常表示できる画像サイズでは細部が見えないので、PDFファイルでまとめた。→都道府県別「多い名字」可視化マップ(PDF)
※円をマッピングした場所は、その都道府県の中で「線の引きやすい場所」を選んだものであって、県内のマークのあるあたりの地域にその名字が多いということではないので念のため。
全データを一枚の地図で示すとこのようになる。一目で見ていただくと、全体に「東日本は赤~黄色」「西日本は緑~青」という感じの配色にきれいに分かれている。つまり、「東日本に多い名字」と「西日本に多い名字」には明らかな違いがあるということだ。また、愛知・岐阜(つまり織田信長の最初の勢力圏)も小さいながら独自の勢力圏を有していることがわかる。
県別上位4位に全国上位17位までの名前が一つも現われないのが、宮崎と沖縄。かつて琉球王国であり島津の指示によって独自の名字表記を強制されたともいわれる沖縄はまあ当然としても、宮崎が極めて特異な位置を占めていることがわかる。一方、北海道は全国からの開拓民が来ているはずだが、名字的には完全に東北・関東圏と共通している。
見やすくするために、東日本に多い名字だけをピックアップした。興味深いのは大分県で、西日本の中では特に関東系の名字が強く、関西系の名字の勢力が弱い県となっている。
1位「佐藤」は東北に圧倒的に多く、関東まで勢力を伸ばしている。なお、飛地として香川・大分にも勢力が広がっているのが興味深い。ちなみに佐藤は左衛門尉藤原氏(藤原秀郷流)を由来とするものが主流のようだ。
2位「鈴木」は東海から関東を本拠地とし、東北地方南部まで、特に太平洋側を北上しているように見える。穂積姓の家が鈴木氏を名乗ったということで、熊野信仰との関連が深いとされている。
3位「高橋」も関東を本拠地としているが、鈴木と違って日本海側から北上するような分布である。また、愛媛に飛地がある。
5位「渡辺」は富士山を挟む山梨・静岡など、関東周縁をぐるりとまわって新潟まで至る。唯一の飛地が大分で、渡辺典子は確かに大分市出身である。
9位「小林」は甲信越+北関東という場所で、何となくかつての真田氏の勢力圏が少し東に延びたような形をしている。小林麻央は新潟県小千谷市出身。
13位「佐々木」は東北北部で勢力を誇り、日本海を隔てて島根にも飛地がある。佐々木希は秋田市出身。
15位「斎藤」は山形・福島・栃木の3県でベスト4入りしたが、この地理的配置からするともしかしたら福島県の中でも西部の会津地方に斎藤さんが多いのではないかというのが現在の仮説。
関東で強い名字は、一部四国・九州に飛地があるが、中京から関西圏では上位入りしていないことがはっきりわかる。
次は西日本に多い名字をピックアップしてみた。
4位「田中」は北陸・近畿・山陰・北九州を中心に、四国を除く西日本全域で勢力を張っている。東の横綱が佐藤なら、西の横綱は田中である。長野・東京にも飛地があり、かなり東に食い込んでいる印象がある。ちなみに田中麗奈は福岡県久留米市、田中れいな(モー娘。)は福岡市出身、ココリコ田中直樹は大阪府豊中市出身。
7位「山本」も西日本中心だが、北陸・近畿・中国と四国西部に及び、トップ4の範囲では九州には上陸しない。逆に東に少し張り出して富山・石川で大きく、また静岡にも及ぶ。山本浩二監督は広島市出身。
8位「中村」は北陸・近畿と九州が中心で、中国・四国では弱い。名字的には北陸と近畿は完全に似た範疇ということもわかってくる。中村あゆみは福岡市生まれ。
「田中」勢力圏として見れば東北・近畿と中国、九州は同じ勢力圏だが、「山本」は中国、「中村」は九州に分かれて分布しており、相補的になっているのが面白い。そして、四国は独自の様子を見せている。
11位「吉田」は徳島から大阪・奈良を経て北陸につながる。やや特異な形だが、これも北陸近畿型の名字といえよう。
14位「山口」は佐賀県・長崎県(つまり肥前国)でどちらもトップだが、それ以外の都道府県ではトップ4にまったく入らないという独特な名字である。
16位「松本」は熊本・和歌山・兵庫・鳥取でランク入り。ダウンタウン松本人志は兵庫県尼崎市出身。
17位「井上」は京都・兵庫・福岡の三県でランクインしている。いずれも日本海側に多いのではないかという仮説を立ててみたが、実際のところはどうだろうか。
愛知県・岐阜県・三重県に多い名字が一グループをなしている。
6位「伊藤」は伊勢藤原氏が由来であることと見事に一致して三重でトップ、隣接する愛知・岐阜、少し飛んで秋田に勢力を広げている。伊藤氏は近畿より中京への発展を示したということになろう。いとうまい子(伊藤麻衣子)は名古屋市出身。
10位「加藤」は岐阜・愛知という信長初期勢力圏の名字。ここでは一位二位を争うが、他の県ではランクインしないという点で「山口」と似ている。加賀藤原氏のはずだが、旧加賀国である石川県ではまったくランクインしていない。加藤あいは愛知県清須市出身。
12位「山田」は石川・岐阜・愛知という南北ラインに沿って分布している。ここに多いのは尾張源氏系の山田氏の勢力かと思われる。
愛知のトップは「鈴木」であるが、東でも西でもない独特の勢力圏がここに存在しているように思われる。
以上のランキングに入らなかった名字のみを残してみると、一見して「東日本に少なく、中部と中国・四国・九州に多い」という傾向が見られる。つまり、東の方が大きな名字の勢力が大きく、西に行くにつれて多様な名字が見られるということだろう。
宮崎と沖縄の特異性についてはすでに述べたが、四国もかなりの独自性を見せている。また、色のついている名字がいずれも関東系の大分県も興味深い。
この図では関東と四国・九州を結ぶ必要がある場合、いずれも千葉県から線を延ばしてみた。四国の徳島県=阿波国と千葉県南端の安房国がいずれも「あわ」で同名なのは、阿波の住民が安房に移住したという歴史的経緯を反映している。したがって、四国と房総半島を結ぶ海の道はかなり古くからあったと考えられる。
「佐藤山脈」といった図ではややわかりにくかった詳細な分布が直感的に把握できたように思われる。そして、「関東・東北」エリアと「中京」エリア、「北陸・近畿」を中心とした西日本エリア、四国・宮崎・沖縄の独自エリアが浮かび上がってきた。
きちんとデータを取り直したり、4位までではなくもう少し下位まで範囲を広げれば少し様相は変わってくると思われるが、大きな傾向はこの図で把握できるのではないだろうか。
この調査をしてみようと思うきっかけを作ってくれた「読書猿」くるぶしさん、そして元となるデータをウェブ上で公開してくださっている森岡浩さんには改めて感謝したい。
「国民の大半が明治以降に苗字を持った」ということを前提としたブクマコメントやツイートが少数ながら見られるので補記。
「苗字帯刀が許される明治維新までの農民や町人は名字/苗字を持っていなかった。だから、明治維新のときに日本人の多くが苗字を新しく考えてつけた」という「常識」は、実は最近の研究で覆されている。
実際には農民や町人も姓や名字を持っていた。ただ、江戸時代に農民・町人は苗字を名乗ることを自粛するようになったのだという。そのために自分の家の名字を「忘れた」という例も確かにあったらしい。
そういうわけで、現在の名字も実は「明治維新のときに適当に考えてつけた」わけではなく、多くの場合はそれ以前からの根拠があったということである。
この件の詳細は関連記事「選択式夫婦別姓議論と「日本人の姓/名字」の歴史[絵文録ことのは]2011/02/15」ならびにその記事で紹介されている参考文献を参照していただきたい。
]]>以下、特に大手レコード会社の方向性としてよく見られるものである。もちろん、「いい音楽をリスナーに届けたい」という思いはすべての業界人に共通しているだろう。ただ、マネタイズの方法に難があるということは伝えたい。
]]> ベスト盤を頻発しすぎシングル盤とLPアルバムが完全に別のものだったアナログレコードの時代には、アルバムはコンセプトを持った新曲集でシングル曲は入らず、たまにシングルのみを集めたアルバムが出る、ということが多かった。そんな時代であれば「シングルベスト盤アルバム」には大いに意味がある。
しかし、いまや8cmシングルCDもなくなり、マキシシングルとして2曲+そのカラオケを入れるのが普通になっている。そうするとフルアルバムとの見かけ上の差はほとんどない。ただ違うのは曲数と値段である。
そんな状況の中、CDが売れないことからの資金不足によって、大手であってもレコード会社は制作費をかけられなくなってきている。作曲家に新曲を依頼するだけの体力が失われてきているのである。しかし、定期的にCDを出さなければファンは離れていく(という強迫観念がある)。そこで結局、全新曲のオリジナルアルバムはほとんど作られず、ベスト盤ばかりが増えることになる――新曲を1、2曲入れることで、今までのCDを買った人もベスト盤を買い直さねばならないように仕向けて。もちろん、ベスト盤は過去に売れ行きのよかったシングル曲などを収録することで、販売側としては「従来のファンにも、これから入ってくる新規客にも」売ることができる、という皮算用がある。
だが、ファンの声としては「またベスト盤かよ」という声が高まってきてしまう。既存のファンにとっては「新曲一曲のためにすでに持っている曲を抱き合わせ販売されている」という気にもなってしまうのだ。その不満を解消する方法が「別アレンジ」ならまだしも、「デジタルリマスタリング」で済まされてしまうと腑に落ちない。
新規ファンを開拓するための「全部既存の曲」のベスト盤の方がまだすっきりしている。しかし、下手に新曲を一、二曲入れたベスト盤を頻発することによって、「二兎を追う者は一兎をも得ず」の結果に終わっている。
(ここでは移籍に伴うベスト盤については触れない)
ベスト盤と同様の理由で生み出されているのが「カバーアルバム/カバー曲の頻発」である。アーティスト自身が作詞作曲をするにしろ、作曲者に依頼するにしろ、アルバムの全曲で一から新曲を依頼することは難しい――ということはベスト盤の事情でも述べたとおりだ。そこで「自分自身の過去の曲を再収録」と違う方法を採ろうとすれば、当然「ほかのアーティストの過去の曲をカバーして収録」ということになる。こうして、全部他のアーティストの楽曲による「カバーアルバム」が出たり、あるいはカバー曲を増やしたりする企画が出てくることになる。
カバー曲には大きなメリットがある。カバーするくらいだから、原曲はもちろんいい曲である。それにすでに知っている人も多い。つまり、曲自体のハズレはなく、無難に一定レベルを担保されているのである。
もちろん、カバー自体が悪いわけではないが、あまりにもそれに頼りすぎるようになると「そのアーティストの持ち歌」が増えないことになる。そして、ファンも「またカバーか」と思うようになってしまう。
最悪なのは、「アルバムコンセプトを無視して、そのとき流行りの曲を強引にカバーで入れてしまう」ことである。そうでもしなければ売れない、という焦りが、「アルバム全体の流れを一曲でぶちこわし」という結果を生んでしまう。その結果、ファンが離れていく。
音楽の消費のされ方も変わってきた。一曲単位でダウンロード購入できる。その音楽データを「シャッフル」してランダムな順序で聴く――iPod Shuffleはその典型的な形だろう。このような音楽消費スタイルは、従来の「一つのコンセプトを持ったアルバムを一曲目から順を追って聴く」というスタイルとまったく異なるものである。その結果、アルバムからはコンセプトが失われ、ベスト盤やカバーアルバムの跋扈を許す結果となったともいえる。
もちろん、「アルバム単位ではなく個々の楽曲が売り」というだけならそれはそれで自然な変化である。だが、「個別の楽曲が売り」なのに「アルバム」というパッケージで売らねばならないことからいろいろな矛盾が生じている。
その典型例が、わたしの生理的に受け付けない「ぶつ切りCM」である。15秒または30秒の間に、一つのアルバムに収録された曲を3曲も4曲も流す。それもぶつ切りで曲のつながりも何もない。ただ「みんなの知ってるこの曲も、あの曲も、このCDに入ってるんですよ」と伝えようとしている。もちろん、それはCDとして売り出されたり、テレビ番組等のタイアップ曲・テーマ曲となったものを収録している「完全新曲というわけではないアルバム」だからこそ成り立つわけだ。
このぶつ切りはとにかく生理的に受け付けない。そんなふうに細切れにされた楽曲をぶつ切りで並べられては、せっかくのいい曲も台無しである。ましてや、そのぶつ切りCMを2回連続で流されるともう耐えられない。わたしはそういうCMが流れた途端に買わないことを心に決めてしまう。せめてメドレー的に、もしくはDJ的に、うまくつなぎ合わせてもらいたい。さもなくば、一曲を選んで15秒じっくりとサビを聴かせてもらいたい。
そもそも、コンセプトアルバムであればそういう聴かせ方はしないはずである。
CDを買うことが発売イベントやミニライブなどでの握手権(一回握手する権利)と引き替えになる。それ自体は以前からある形であるが、その主従が逆転すると問題だ。CDの売上を伸ばすために握手会つきのイベントを多数仕掛けたり、コンサート会場でCDを買った人のみ参加できるライブ終了後の握手会を開いたりする。
もう一つ、ここで絡んでくるのは、同じCDなのに「初回限定盤(CD+DVD)」「通常版(CD+DVD)」「通常版(CDのみ)」というように3種類出し、そのジャケットも少しずつ変えることによって、熱心なファンに(ほぼ)同じものを2点3点と買わせようとする戦略である。もちろん「DVDも要る/耳で聴くだけだから別にDVDは要らない」という好みはあるが、それによってCDだけで安く買いたい層を開拓するというより、今の方法は「熱心なファンに3倍買わせる」戦略となってしまっている。
握手権にしろ複数バージョン同時発売にしろ、熱心なファンに同じものをいくつも買わせようという戦略であるが、これは「多くの人に聴いてもらいたい」という目的がいつの間にか「枚数を多く売らなければならない」にすり替わった結果だ。
それが行きすぎると、CDを買うことによって投票権を買うという「AKB48商法」になる。ここではもはやCDの売上枚数は「それだけ多くの人に聴かれた」ということをまったく意味しないものとなってしまっている。
そこまでしてなぜ「CD」にこだわるのか。なぜ「握手会参加チケット」や「一票」を単体で売り出すことができないのか。答えは一つである。オリコンランキングがCDの売上によって左右されているからだ。
オリコンランキングをつり上げるために、同じCDを何種類も出し、イベントで握手と引き替えにCDを売り、さらにはCD販売枚数を極大化させるために総選挙イベントを開催する。CDはもはや「オリコンランキングを買うための通貨」としかみなされていない。熱心なファンならアーティストを応援する意味もあって費用を惜しまずつぎ込むだろうし、そこに快感があるというのも事実だが(そして秋元康はその蕩尽欲求につけ込む天才である)、その蕩尽に疲れたファンは最小限の投資で済ませようと考え、結果として「無料で聴ける」ものに流れていく。もしくはファンであることをやめていく。
その結果、音楽ファンに対して「CDの中身より数なのかよ」という印象を持たせているのもまた事実である。
CDあるいはダウンロード販売に対してお金を出さない人も増えた。一方でもちろん、武道館やドーム公演を満杯にするアーティストも多い。コンサート/ライブとCDのどちらで収益を上げるかというのはレコード会社やプロモーターの考え次第だろうが、今、CDで収益を上げるのは難しくなってきており、必然的にライブに頼らざるを得ない。そのライブも入場券だけではまかなえず、結局は会場でのグッズ販売に注力することになる。
公式ファンクラブではさらに深刻な問題がある。再販制度対象のCDに対して割引を行なうことができない以上、ファンクラブの最大の特典は「コンサートチケットの優先割り当て」である。それ以外にファンクラブ特典として作れるのは「ファンクラブ会員限定イベント」や「海外公演への同行ツアー開催」などである。会報やファンクラブ会員限定グッズ、こまめな情報提供も必要だが、これで利益を確保するのは難しい。それどころか、中小規模のファンクラブでは会報だけで赤字かトントンというレベルだったりもする。
結局、ファンクラブ会員限定イベント等で熱心なファンにつぎ込ませないとファンクラブそのものが成り立たない、という結果に終わる。もちろん、熱心なファンは「自分がファンクラブを支えている、ひいてはアーティストを支えている」という「貢献」を最大の喜びとするので取引は成り立っているわけだが、そういった熱心なファンも無尽蔵に資本を投入できるわけではないし、少数の濃いファンが「そんなに金銭的余裕のないファン」からやっかまれたりもするようになって、悪循環に陥りがちである。
かといって、ファンコミュニティをオフィシャルが運営することを手放せば、そのアーティストの盛り上がりを作り出すのは難しい。ソーシャルメディアといえども、公式による運営がなければ「動員」を引き起こすことは困難である。
こうやって書き連ねてくると、今の音楽業界が一生懸命「売る努力」をしていることは間違いない。しかし、その売る努力そのものがファンに無理な購買を強いる結果、疲弊させ、結局は音楽離れを加速させているという皮肉な結果になっているとも思われる。
2000年ごろの中国では「CDは無料で配布して知名度を高めるためのもの、収益はそれでライブに客を集めて回収する」というモデルがあったようだ。そうしろというわけではない。だが、CDの売上がなければオリコンランキングで認められず、売れていると認識されずに埋もれてしまう、だからとにかくCDを売らなければ――というような強迫観念は、そろそろ振り払ってもいい頃合いではないかと思う。
]]>生活保護問題の本質は、その資金を得ているのは主に在日であり。その資金の一部が北朝鮮に送金されている可能性があることです。可能性、といっていますがほぼ事実でしょ。アメリカの諜報機関が資金の流れを追っているという情報もあります。北朝鮮のテロ政治を日本人の税金で支える日々。正直もう勘弁してください。
そこで、厚生労働省の最新の情報で「生活保護を受給しているのは主に在日」なのかどうかを確認してみた。結論として、まあ当たり前だが「主に日本人が受給しています」。
※河本準一氏叩きで見失われる本当の問題[絵文録ことのは]2012/05/25の続編です。
]]> 生活保護受給者の97%は日本国籍まずは、「在日」か否かを問わず、「日本人と、日本国籍を有しない人の、生活保護受給状況」を調べてみよう。つまり、この数字は「在日」の数字よりも当然大きく、在日の人の受給数が少なくともこれ以上ということはない。
構成統計要覧(平成23年度)第3編 社会福祉 第1章 生活保護|厚生労働省
エクセルファイルでどなたでも見られますからご確認を。さしあたって必要なのは、
の三つである。3-4表で被保護「世帯」数、3-5表で被保護「実人員」数が判明する。これを3-10表の「日本の国籍を有しない被保護実世帯数・実人員」と比較すれば、簡単にその割合がわかるわけだ。
ただし注意したいのは、第3-4表・第3-5表には「(各年度1か月平均)」という但し書きがあることである。したがって、第3-10表の「延被保護実世帯数」「延被保護実人員」ではなく、「1か月平均」の方の数字を使わなければならない。
日本国籍を有しない人の統計は平成17年度(2005年度)~22年度(2010年度)の6年分が示されているから、これを表にまとめてみた。
年次 | 被保護 実世帯数 |
非日本国籍 実世帯数 |
割合 | 被保護 実人員 |
非日本国籍 実人員 |
割合 | 日本国籍 実人員 |
割合 |
17(FY2005) | 1 041 508 | 29 129 | 2.80% | 1 475 838 | 46 953 | 3.18% | 1428885 | 96.82% |
18(FY2006) | 1 075 820 | 30 174 | 2.80% | 1 513 892 | 48 418 | 3.20% | 1465474 | 96.80% |
19(FY2007) | 1 105 275 | 31 092 | 2.81% | 1 543 321 | 49 839 | 3.23% | 1493482 | 96.77% |
20(FY2008) | 1 148 766 | 32 156 | 2.80% | 1 592 620 | 51 441 | 3.23% | 1541179 | 96.77% |
21(FY2009) | 1 274 231 | 37 024 | 2.91% | 1 763 572 | 60 956 | 3.46% | 1702616 | 96.54% |
22(FY2010) | 1 410 049 | 41 681 | 2.96% | 1 952 063 | 68 965 | 3.53% | 1883098 | 96.47% |
平均 | 2.85% | 3.32% | 96.68% |
日本の国籍を有しない被保護実世帯数は、6年間を平均すると全体の2.85%。実人員ベースで3.32%となり、おおざっぱに言えば約3%だ。
実際の統計からいえば、「生活保護を受給しているのは、97%が日本人、3%が日本の国籍を有しない人」である。仮にこの「日本の国籍を有しない人」を全員「在日」だと仮定したとしても、「生活保護資金を得ているのは主に在日」というのは「デマ」ということになる(もちろん、これは最大限の見積もりである)。
そしてもちろん、「日本の国籍を有しない人」の中には、在日、正確には「特別永住者」以外も多数含まれる。ただし、その比率については統計では明らかにならない。
以上、「生活保護問題の本質は、その資金を得ているのは主に在日である」という部分は、前提が根本的に誤っていることが明らかとなった。
もし「在日が受給しているから」と思い込んで生活保護受給条件を厳しくするのであれば、実際に生活保護を受けているうちの大多数を占める「困窮した日本人」を追い詰めるだけの結果に終わる。どちらが真の「反日」なのか、よく考えるべきだろう。
念のため、外国人登録者数を確認しておこう。
法務省:平成23年末現在における外国人登録者数について(速報値)
「3 在留資格別 -第2表,第2図-」を見れば、「永住者(一般永住者・特別永住者)」と「非永住者」の比率がわかる。いわゆる「在日」と呼ばれているのは「特別永住者」であって、これは特別永住者の高齢化に伴って年々減っている。平成23年(2011年)末での速報値では、「特別永住者」は18.7%、前年度2.5%減である。
19(2007) | 20(2008) | 21(2009) | 22(2010) | 23(2011) | 構成比 | 対前年 末増減 |
定住者 内比率 |
||
総数 | 2152973 | 2217426 | 2186121 | 2134151 | 2078480 | 100 | -2.6 | ||
永住者 | 869986 | 912361 | 943037 | 964195 | 987519 | 47.5 | 2.4 | ||
うち一般 永住者 |
439757 | 492056 | 533472 | 565089 | 598436 | 28.8 | 5.9 | 51.3% | |
特別 永住者 |
430229 | 420305 | 409565 | 399106 | 389083 | 18.7 | -2.5 | 33.4% | |
非永住者 | 1282987 | 1305065 | 1243084 | 1169956 | 1090961 | 52.5 | -6.8 | ||
うち 定住者 |
268604 | 258498 | 221771 | 194602 | 177981 | 8.6 | -8.5 | 15.3% | |
定住者 合計 |
1138590 | 1170859 | 1164808 | 1158797 | 1165500 |
「1990年、厚生省より、生活保護対象外国人は定住者に限る、非定住外国人は、生活保護法の対象とならないと口頭で指示が出されている」が、「その後、基準が緩和され、自治体によっても対応が異なる」ようである(在日の生活保護の受給率は高い? - 児童小銃より)。
仮に「定住者のみ」とした場合、それは上記の統計では「永住者(一般永住者・特別永住者)」と、「非永住者のうち、定住者」の合計ということになる。この三者の合計は116万5500人。これを「外国人定住者の総数」という母数としよう。
そうすると、定住者のうち、一般永住者が51.3%、特別永住者(在日)が33.4%、非永住の定住者が15.3%という数字になる。つまり、「在日」は日本に定住している外国人の3人に1人という計算だ。
したがって、生活保護受給者の中に占める「在日」の人の割合は、最大でも3.3%、定住者比率から単純計算すれば1.1%となる。これを「生活保護資金を得ているのは主に在日」と言うのは、あまりにも無理がある。
「生活保護問題の本質は、その資金を得ているのは主に在日」という言説には根拠がないことはすでに明らかになったが、そうすると論旨をすり替えてくる人がいることは容易に想像できる。「在日の受給率が日本人より高い」というものである。この論旨に切り替えた時点ですでに問題点がすっかり変わってしまっているのだが、まあ一応数字を確かめておこう。
つまり、「日本人の中で生活保護を受けている人の割合」と「在日の中で生活保護を受けている人の割合」の比較で「在日の方が生活保護を受けている人が多い」という議論だ。もちろん、これがいくら多かろうと「主に在日が生活保護を受けている」ということにはならないわけだが、念のため検証する。
まず、日本の人口は統計局ホームページ/日本の統計-第2章 人口・世帯の2-1「人口の推移と将来人口」から明らかになる。ここで「日本の人口」から「日本人」を引けば、日本にいる外国人の人数がわかる。
次いで、被保護実人員から非日本国籍実人員を引いた数を計算する。これが「日本人の受給者数」である。これを「日本人」の人口で割る。これで「日本国籍を有する日本人の中で、生活保護を受けている割合」がわかる。その結果は6年間の平均で1.26%、ただし年々増えている。
一方、非日本国籍実人員を「日本の人口-日本人」の数字で割る。その内訳はわからないが、とにかく「日本国籍を持たないが日本にいる人の中で、生活保護を受けている割合」がわかる。その結果は6年間の平均で3.27%だ。
年次 | 被保護 実人員 |
日本人人口 | 割合 | 非日本国籍 実人員 |
日本在住の 外国人人口 |
割合 | |
17(FY2005) | 1 475 838 | 1 428 885 | 126,205,000 | 1.13% | 46 953 | 1563000 | 3.00% |
18(FY2006) | 1 513 892 | 1 465 474 | 126,154,000 | 1.16% | 48 418 | 1616000 | 3.00% |
19(FY2007) | 1 543 321 | 1 493 482 | 126,085,000 | 1.18% | 49 839 | 1686000 | 2.96% |
20(FY2008) | 1 592 620 | 1 541 179 | 125,947,000 | 1.22% | 51 441 | 1745000 | 2.95% |
21(FY2009) | 1 763 572 | 1 702 616 | 125,820,000 | 1.35% | 60 956 | 1690000 | 3.61% |
22(FY2010) | 1 952 063 | 1 883 098 | 126,382,000 | 1.49% | 68 965 | 1675000 | 4.12% |
平均 | 1.26% | 3.27% |
確かに「日本人の中で生活保護を受けている割合」より「外国人の中で生活保護を受けている割合」は多い。比率にして約3倍となる。ネットでは「日本人の22倍も生活保護受給率」と書いているページもあるが、実際にはこの数字である。ただし、この「外国人」の中でどれくらいが在日かということは統計上はわからない。
ここではその解釈には踏み込まない。なぜなら、仮にこの「外国人」すべてを「在日」と置き換えることが可能であったとしても、そこには二つの解釈ができるからである。
一つは「在日が在日権益のゴリ押しで生活保護を受給しているのではないか」「日本人より基準が甘いのではないか」という見方(あくまでも解釈であって事実かどうかは別問題)。
もう一つは、「在日外国人は日本国籍を有する人より困窮している」「いわゆる在日と呼ばれる特別永住者は高齢化が進行しており、それに伴って生活保護を必要とする困窮の度が増している」という見方。
ここでは統計を示すのみにとどめ、解釈を選ぶことはあえてしない。ただ、この統計の結果が一つの「結論」を示すと言い切るなら、それは暴論ということである。また、この計算結果はそれぞれの母集団内での比率の比較なのであるから、「主に在日が生活保護を受給している」という結論には当然ならないのは念を押すまでもないだろう。
「資金の一部が北朝鮮に送金されている可能性があることです。可能性、といっていますがほぼ事実でしょ」というのだが、確かに「一部」はそういうこともあるだろう。
しかし、生活保護総額の3%が「日本国籍をもたない人」たちが受給していて、それが100%「在日」だとしても、そのうちの朝鮮籍の人はどれだけなのか。法務省統計では「韓国・朝鮮」と一括して統計されており、国の統計では特別永住者の韓国籍:朝鮮籍(:台湾)の比率はわからない。
2010年の政府統計「国籍(出身地)別在留資格(在留目的)別外国人登録者 」によれば、特別永住者39万9106人のうち、いわゆる「在日」と呼ばれる韓国・朝鮮人が39万5234人。一方、ウィキペディアの「在日韓国・朝鮮人 - Wikipedia」ページによれば、その中で「韓国に本籍地があっても朝鮮籍のままの者もいるため、北朝鮮地域を本籍地にしている者は2010年末時点で2,589人に過ぎないが、朝鮮籍保持者は3-4万人程度いるとみられている」と書かれている(北朝鮮とは国交がないので、韓国籍がいやなら「朝鮮籍」となる)。この「朝鮮籍保持者」は韓国籍を選ばなかったということで北朝鮮政府に親和性のある人たちだとすれば、39万5234人の「在日」の中に「北朝鮮系」の人は多く見積もっても1割しかいないということになる。
40万人中4万人である。1割である。
したがって「在日権益」をそのまま「北朝鮮」に結びつけるのはあまりにも飛躍がすぎるということだ。一部は本当に「一部」の可能性が高い。もちろんゼロではあるまい。だが、ゼロではないからといって、「生活保護を受けているのは主に在日で、だからその資金は北朝鮮に流れている」と主張するとすれば、その主張には統計から見ても二重の飛躍があるわけだ。
仮に生活保護を受給している3%の外国人がすべて在日であり、朝鮮籍の人はその全額を北朝鮮に送っているという最大限の数字を採用したとしても、生活保護を受給している中の朝鮮籍の人の割合は全体の0.3%である。これをもって「資金を得ているのは主に在日」「北朝鮮のテロ政治を日本人の税金で支える日々」というのはあまりにも誇大であり、もはや妄想の域に達しているといえる。
なお、わたしは今のところ、CIAなりFBIが「生活保護で受給した金の流れを調査している」という情報のソースを確認し得ていない。CIAとかFBIは、革マル派などの妄想型陰謀論でよく登場する機関でもある。もし、「資金の流れを追っている」というのが単に「北朝鮮が集めている資金」すべてのことを指すのであれば、ここでそのことを持ち出すのは単なる誤誘導でしかない。
ましてや、河本氏の家族のことをここに絡めるのであれば、氏の家族・親族が「特別永住者」であるということについて、「憶測」や「決めつけ」ではなく「揺るぎない事実の証明」が必要だ。
もう一度事実関係をまとめておこう。
この事実を踏まえた上で、もう一度冒頭のこの文面を読んでいただきたい。
生活保護問題の本質は、その資金を得ているのは主に在日であり。その資金の一部が北朝鮮に送金されている可能性があることです。可能性、といっていますがほぼ事実でしょ。アメリカの諜報機関が資金の流れを追っているという情報もあります。北朝鮮のテロ政治を日本人の税金で支える日々。
北朝鮮への資金の流れを解明することは重要である。しかし、生活保護をそれと絡めるという「事実から乖離した陰謀論」にはまるならば、かえってその目的を阻害することになる。そして、事実ではない観測から、実際には受給者の97%を占める日本人困窮者を苦しめることになるのである。
事実か否かは、「誰が言っているか」で決まるわけではない。わたし個人の属性等に関する人格攻撃を展開した上で「こんな奴が言ってるから間違い」と言うのは、言論ではなく、言葉を用いた暴力であり、そのような手段を使った時点ですべて無効である。
冒頭でも引用した「こんなこと」を書いていたTogetterの説明文が、このブログ記事を受けて完全に書き直されている。
生活保護問題がこれほど騒がれているのは、一部の人たちが不正に受給して「ナマポ御殿」のような暮らしをしているから。在日外国人の人たちが多い。詳細は以下のまとめを参照。北朝鮮に流れている資金の一部がこのナマポだろう。日本人は毎年10万人自殺しているんですがねぇ。検死の限界が3万人ってだけで。各自でよく意味を考えてください。問題がより深く徹底的に世間から審判されることを祈ります。
もともとは上記のとおり、「生活保護問題の本質は、その資金を得ているのは主に在日であり。その資金の一部が北朝鮮に送金されている可能性があることです」と断言されていた。
「ナマポ御殿」だから騒がれているのだ、と完全に別の話を持ち出している。そこにさりげなく「在日外国人の人たちが多い」と根拠なく付け足し、「北朝鮮に流れている資金の一部がこのナマポだろう」とトーンダウンして補足している。
「在日が主に資金を得ており、それが北朝鮮に流れているから問題視してるんだ!」を、数字的に完全否定されたら今度は「ナマポ御殿のような不正受給者がいるから騒がれているんだ!その一部は北朝鮮にも流れてるハズ」と主張をすげ替えたわけだ。
こういう不誠実な陰謀論者にはもはやつきあえないし、自らの論拠の薄弱さを示したとしかいえない。もし、氏が「実際に北朝鮮に渡っている生活保護の金額」や「これまでの生活保護不正受給のうち、朝鮮籍の永住外国人が関わっていたパーセンテージ」を、追試可能な客観的統計から示せば、わたしもそれをもとに検討し直すことができるのだが、そうではなく、Aが否定されたら「でもB」、Bが否定されたら「じゃあC」と次々後出しじゃんけんを繰り返すのであれば、わたしでなくても付き合いきれないだろう。
もともとわたしは国籍の如何を問わず在日の人たちの権益とは何の関係もないし、ついでにいうと同和利権とも何の関係もない。BLOGOSのコメントで「このブログ書いていくらもらえるの?」とあったが、一銭ももらっていないどころか、費やした時間その他すべて自分の持ち出しで、それに対するバックはまったくない。そういう立場であるから、「これが事実だって言ったら事実なんだ!」とわめくのではなく、「こういう揺るぎないデータがありますよ、出典は社会福祉事務所」というようなものを出してもらえれば、ああそうですかと納得するのに、そういう資料を出そうという努力は何もなく、ただググって見つかった情報を拡散するだけでは、同じテーブルにつくことさえできない。
改めて言うが、すり替えられた論理「不正受給者の大半が在日」ということを主張するのであれば、それを裏付ける追試可能なデータを出せばいい。ただそれだけのことである。
ところで、「こんなこと」自体が改竄されたので、中には「どこにも書かれてないじゃないか、藁人形論法じゃないのか」という人が出てくるかもしれない。そこで調べてみたら、togetterのまとめを作った当人が直後にはてなブックマークしており、そこに冒頭の概要がそっくり引用されていた。改竄前、まとめ作成者が書いたものがそのまま残っているので、画面キャプチャとともに残しておこう。
→はてなブックマーク - 生活保護問題、再燃中!? つぶやきまとめ - Togetter
改竄後はこのとおりである。
ネトウヨ用語にしか見えない「ナマポ御殿」という言葉を使うことの是非はともかく、「不正」は「不正」として糾弾すべきであり、それを「在日」全体への差別・迫害につなげるとか、あるいは単に事実関係を指摘しただけで「在日擁護は許せない、お前も在日利権の関係者だろう」などと逆ギレするのは、みっともないからおよしなさい、としか言いようがない。
まさか「じゃあ帰化した在日が」云々と言い出す人が出てくるとはわたしの想定外であった。過去の国籍が何であれ、帰化したら日本人であって「在日」ではないし、本当に「共和国」に忠誠を誓っているなら帰化したりしない、ということを考えもしないのだろうか。
ともあれ、これについても統計を示しておこう。
「法務省:帰化許可申請者数等の推移」によれば、年間の帰化者数は一万数千人前後。そのうち、「韓国・朝鮮」からの帰化者が約半数である。
要するに、毎年、全人口の約0.01%(1万分の1)くらいの人が帰化してきているということである。この帰化者を「在日」に無理やりカウントするとしても、「生活保護を受けているのは、主に在日」という数字には遠く及ばないことは一目瞭然である。
しかも、帰化申請に当たっては、法務省:国籍Q&Aにあるように、「生計条件(国籍法第5条第1項第4号)」が求められる。
生活に困るようなことがなく,日本で暮らしていけることが必要です。この条件は生計を一つにする親族単位で判断されますので,申請者自身に収入がなくても,配偶者やその他の親族の資産又は技能によって安定した生活を送ることができれば,この条件を満たすこととなります。
つまり、生活保護受給が必要な人は帰化できない、言い換えれば「生活保護を不正に受給するために帰化する」というのはそもそもありえないわけである。
そして、改めて言わねばならないのも馬鹿馬鹿しいが、帰化したら外国人でもなければ在日でもなく、れっきとした日本国籍を有する「日本人」なのである。それをいつまでも○○人と排斥し続け、差別し続け、さらには「不正受給してるのは在日、そうじゃないとしたら帰化者」などと言うような人間は、果たして本当に「高潔なる日本人」なのか。むしろ、「日本人」の品位を落とすのはそういう連中の言動ではないのか。
生活保護受給者の97%は日本国籍(「生活保護・在日」問題に関する統計) - 松永英明 news.livedoor.com/article/detail… 3%はクソ朝鮮人。そもそも非国籍が受給出来るのはおかしい。とっとと自国へ返すのが筋だろ。それと帰化しやがった朝鮮人も受給してる。
— Y.Hさん (@dkfjiwohdkvja) 6月 2, 2012
本文をまったく読んでいないか、この程度の小論を読み通せないのか、読んでも内容を理解するだけの読解力がないか、いずれにしてもこんな感想が書けてしまうことが知的レベルの低さを露呈している。
「3%であろうと外国人が受給していること自体が問題。0%にせよ!」という主張に対しては、以下のtogetterまとめで語り尽くされている。
@rna 社会権規約2条があるので、国籍を理由に社会福祉から除外することは許されない。
— Gen'ichi Yamaguchiさん (@GenYamaguchi) 3月 29, 2010
第二条
1 この規約の各締約国は、立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成するため、自国における利用可能な手段を最大限に用いることにより、個々に又は国際的な援助及び協力、特に、経済上及び技術上の援助及び協力を通じて、行動をとることを約束する。
2 この規約の締約国は、この規約に規定する権利が人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位によるいかなる差別もなしに行使されることを保障することを約束する。
3 開発途上にある国は、人権及び自国の経済の双方に十分な考慮を払い、この規約において認められる経済的権利をどの程度まで外国人に保障するかを決定することができる。
@rna 社会福祉については、そもそもプログラム規定であって権利でないといういい方もありますが、日本人にとって抽象的にでも権利であれば、外国人にとっても権利です。
— Gen'ichi Yamaguchiさん (@GenYamaguchi) 3月 29, 2010
@rna 但し、各社会福祉には制度趣旨があり、外国人の実体も様々です。したがって在留資格によっては、社会福祉が受けられない場合はあり得ます。例えば、生活保護については日本での自立援助という制度趣旨ですから、短期間滞在して帰国する予定の外国人は受けられない。
— Gen'ichi Yamaguchiさん (@GenYamaguchi) 3月 29, 2010
2008年刊行分調査資料|国立国会図書館―National Diet Libraryの『人口減少社会の外国人問題 総合調査』「外国人問題の最前線 外国人と社会保障」(堤健造)によれば、以下のとおりである。
日本においては、昭和56年の「難民の地位に関する条約」の批准以降、内外平等の原則に立って国内法の整備を行い、適法滞在者には、日本人と同様の社会保障制度が適用されている。
生活保護法第2条(国籍条項)により、外国人の生活保護受給権は認められていない。しかし、日本における生活保護法の外国人に対する適用は、「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」(昭和29年5月8日、社発第382号)に基づき、「外国人には生活保護を受給する権利はないものの、在留資格の存否・種類を問わず、少なくとも緊急な場合であれば日本人と同じ要件で生活保護を受給できる」と解釈・運用されてきた。また、この通知は、外国人が生活保護を受給する際には、原則として外国人登録証明書の提示を求めているものの、「急迫な状況」にある場合には、例外的に外国人登録証明書の提示がなくても生活保護の受給を認めている。しかし、「生活保護に係る外国人からの不服申立ての取扱いについて」(平成13年10月15日、社援保発第51号)によれば、外国人の生活保護は権利ではないため、不服申立て等の審査請求はできない。
こうしたなか、平成元年の「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律」制定後の平成2年10月、厚生省(当時)は、「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」が有効であることを前提としながら、この通知の適用にかかる予算措置としての行政措置の対象外国人は、適法に日本に滞在し、活動に制限を受けない永住者、定住者、永住者の配偶者等、日本人の配偶者等、在日韓国人、在日朝鮮人、在日台湾人、「出入国管理及び難民認定法」上の認定難民に限ると口頭で指示し、その旨を全国に徹底して現在に至っている。就労が禁止・制限されている技術、技能、研究、短期滞在(観光)及び就学等の在留資格をもつ適法滞在者は、稼働能力の活用が不可能であって資産調査等も困難であるため、いわゆる「補足性の原理」(生活保護を受けるためには、資産・能力を活用し、それでもなお、生活に困窮しているという要件が必要である。)が活用できない。また、不法滞在者は、日本への滞在が認められておらず強制退去の対象であり、生活保護の対象とすると生活保護目的の入国を助長するおそれがあるため、適用外とされる。
したがって、「生活保護法第2条で認められていないのだから、外国人の生活保護受給は違法または不正」という主張には根拠がないということになる。
垣田裕介「「社会的排除」概念からみた在日コリアン高齢者の生活と福祉」(日本社会福祉学会第52回全国大会報告(2004年10月10日、東洋大学)によれば、在日高齢者の状況は以下のとおりである。
所得について、なにより注目されるのは、多くの世帯において所得水準が極めて低いという点である。そして低位の所得水準にありながらも、社会保障給付の適用から漏れている状況が明らかとなった。すなわち、無年金世帯が全体の約7割を占めており、また単身世帯の約7割が生活扶助基準を下回る所得水準にありながら生活保護を受給していない。
介護保険制度の利用状況をみると、全体の半数以上が要介護認定を申請しておらず、要介護認定を受けた場合でも実際に介護保険サービスを利用したことがない者が3割弱を占めている。
「ナマポ御殿」などと揶揄する言葉とはかけ離れた実態が存在している。「生活保護を受給していない「ひとり暮らし」92世帯のうち、仮に定めた生活扶助基準10万円を下回るケースが64世帯(69.6%)と約7割に達する」という数字は、「在日が生活保護を組織的に不正受給している」という言説がデマであることを示しているといえよう。
]]>わたしの感想は、結論からいえば「提示された理念・理想は素晴らしい。が、その方法論ならびに直接的なスタッフの動機は是認しがたい」というものである。
わたし自身が大学生のときには極貧生活を送り、結局その結果として中退に至ったという経緯もあり、決して他人事ではなかった。家入さんがそういう学費支援システムを作りたいと表明したときにはわたしもfacebook経由で大賛成の意を伝えた。だが、その結果は非常に残念なものとなってしまった。できる範囲で最大限に協力したいと思っていたわたしが、実際のサイトを見て寄付をしなかったのだ。
今回の件でのいろいろな議論はあるが、その議論には深く立ち入らず、わたし個人の興味と関心に基づいて、以下の点について述べてみたい。1)わたし自身の大学時代の体験。2)studygiftにわたしが寄付しなかった理由。3)理念と目標と動機と方法を別に考える。4)あまり論じられていないこと:「四年制大学→新卒採用」という枠組みを絶対視することへの根本的疑問。
]]> studygiftに関する今までの流れ具体的な経緯と問題点について「ねとらぼ」5/25記事では特に以下3点が挙げられている。
また、studygiftの最初の対象となった大学生と発案者が恋愛関係にあり(同棲していたとも)、しかも大学生自身がteam libertyのメンバーでもあったことなどが問題視された。(※追記:その後の当事者からの発表により、単なるルームシェアであって恋愛関係にはないことが表明された。)
これについての意見として、やまもといちろう氏は主に「学生支援でプライバシーをさらけ出すことになるのは極めて難しい問題があるから慎重にやってほしい」と、いつもの軽妙な口調とは打って変わってまじめなコメントを発表した。一方、佐々木俊尚氏は「社会包摂と個別包摂」という観点から、今回の事例は失敗だったが決して臆することなく、個別包摂の試みは今後も進めるべきだと発言した。
ここまででも、重要点についてはもう充分に論じられていると思う。今回は蛇足というか余談として、自分自身の体験と関心に寄せて少し書いてみたいと思う。
4/6に家入さんが「学費マイクロパトロン」構想をIEIRI.NETで公表したとき、わたしはfacebook経由でこのようにコメントした。
高校のときに父親が亡くなったので大学では仕送りゼロで生活費から稼ぐバイトに明け暮れていました。
授業料は全額免除をもらっていたのですが、時給の安いバイトをしていたので生活費を稼ぐために週7日バイトしており、それで月13万程度で辛うじて生活していましたが、授業に出る余力がなくなって、単位が取れず中退しました。(母子家庭用の奨学金は母親が全額生活費に使っていて、自分では一銭も使っていません)
おそらくきちんと卒業できるようにするには、学生の授業料+最低限の生活費を保証した上で、本を買うお金とかをバイトで工面させるのがよいと思います。
家入さんの趣旨には全面賛成です。「自己責任」と突き放す社会より、困っている人がいたら見返りを求めずに助けてあげられる社会の方が絶対にいい。
父親が亡くなったのは高校三年のときである。幸い、保険金が下りたので高校卒業はできた。現役のとき、大学は京大と北大を受けて北大だけ受かり、わたしは中野美代子先生の授業を聞きたくて北大に行きたいと言ったが、遠くに行かせたくない親と「来年もう一度受けさせれば合格大学数を水増しできる」と考えた高校の説得に負け、浪人した。予備校は特待生で一年間無料で行けたが、その間、アルバイトすることもできなかった。
一浪時の受験で京大と阪大に合格し、京大に進むこととなった。この頃から家計は次第に逼迫していた。幸い、授業料全額免除が得られ、母子家庭のための「母子福祉資金貸付金」も貸し付けられることとなった。しかし、他の奨学金はなかった。貸付金は母親の口座に入り、それはすべて一家の生活費として使われた。
大学に入ってアルバイトを始めたが、割のいいバイトはコネのある金持ち学生に全部持って行かれてしまい、大学生が余っている京都では京大生といえども家庭教師のバイトも見つからず、何とか奈良市内の塾講師バイトをやっていた。一年目は自宅から通っていたが、大学まで片道2時間かかり、さすがにこれは成り立たないということで、二年目から同じサークルの先輩と3人で安い長屋を借りて住むことになった。そこから困窮が始まる。本来、わたしの修学費用として受け取ったはずの母子福祉資金貸付金は、母親が全額を自分の生活費に使っていた。仕送りはゼロである(まさに「支援できる近親がいるのに支援を受けられない」状態だ)。
少ない塾講師バイト代だけで食えるわけがない。まもなくして、わたしは1週間、何も食べるものがない、財布には17円しかないという状況に追い込まれた。何かで読んだ戦時中の体験談で「食べるものがないから水をがぶ飲みしてしのいだ」という話を思い出し、水道水で一週間しのいだ。そして1週間目、バイトから帰りに歩いているとき、千本丸太町の居酒屋の「バイト募集まかない付き」の文字を見つけ、思考能力もなくバイトを申し込んだのだった。
その居酒屋バイトの時給は最初630円だった。あまりにも安かったが、とにかく食うためには道はなかった。それからほとんど毎日バイトに入った。夕方5時から12時すぎまで。それでなんとか生活費に追いつくかどうかというところだった。最高で90日間連続で休みなく何らかのバイトをしたこともある。居酒屋なので、最低一日一回は飯が食える。大食いするのでオーナーには睨まれたが、とりあえず飢え死にしなくて済んだ。
仮に自分が女だったら木屋町などで水商売に飛び込んでいただろうな、と当時思っていた。だから、今、キャバ嬢になる女子大学生をわたしは批判できない。
だが、そのバイトのために学校には行けなくなった。バイトで疲れて朝は起きられず、また予習や課題などやる時間はまったくない。きちんと予習もできていないのに授業にだけ出たりできない、という潔癖症でもあった。一般教養の単位はほとんど揃えたが、出席点が重視される英語の単位はことごとく落とした。
ただ、京大には留年制度がなかったので、学年だけは専門に進めだ。バイトのお金だけでは英和の大辞典すら買えなかったし、ゼミの準備などしている時間もなかった。ゼミの先輩が家に電話をかけても、夜は毎日バイトのため留守にしている。いつの間にかゼミの中で「あいつは毎晩遊び回っているんだ」という噂になってしまい、それでさらに研究室に行くのが心理的につらくなった。3年の終わりに「レポートさえ出せば単位をやる」と言われたが、ちゃんとできていないのにそんな形だけ整えて単位をもらうのは失礼だと思ったので、出さなかった。
バイトの時給もなかなか上がらかったが(二年半働いてやめたときで740円だった)、ただ板前さんや他のバイト仲間が気のいい人たちだったので、割のいいバイトを探すという方向にも行かなかった。大学3年から就職活動をするのが当然ということも全然わかっておらず、リクルート社からDMが送られてきていたのも「まだ関係ない話」と放置していたら、4年になって内定が決まったという友人の話を聞いて初めて焦った。
さすがにその状態で母親も危機を感じたのか、「仕送りするからバイトをやめなさい。就職は中退でも雇ってくれるところをコネで探すから」と言ってきた。それで4年の9月に居酒屋バイトをやめたところ、祖父が倒れてその入院費用に金がかかることになり、結局仕送りはなくなった。再び困窮の時期がやってきた。結局、そこで大学を卒業するのは断念せざるを得なくなり、就職の話もどこかに行ってしまった。
そういう経験からすると、今の経済的状況では同じように「お金の問題で大学をやめなければならない」という学生は少なくないだろうと思う。
そこで思うのは、今の議論が「学費支援」となっていることだ。わたしの場合は授業料は全額免除されていた。それでも、大学生活が継続できなかったのだ。大学生活でかかる費用は、少なくともアルバイトしなくても「授業料その他の学費+書籍資料代+生活費」が担保されていなければ、時間的な問題を含めて大学生としての学問はできない。それ以外に趣味や遊びに使いたい分は、週に一、二回や休暇中のバイトで学問に差し障らないように自分で稼ぎなさい――と言うためには、上記の土台はどうしたって必要なのである。
もし「学費支援」ではなく「学生生活を継続できるための支援」というなら、単に学費にとどまらない範囲まで見込んでの支援であってほしい、というのがわたしの経験からの考えである。
そんな体験をしたのだから、studygiftには期待を寄せていた。同じような苦しみの中で学業を続けたい学生は、少しでも支えたい。
それにわたしはよいと思ったものにはできる範囲で支援したいという理念を持っている。わたしが理想とする経済人は渋沢栄一である。お金は自分のためでなく社会に還元するために稼ぐものである、という理念を当然だと思っている。たとえ穀潰しに無駄遣いされることになろうと、「自分が汗水垂らして働いて稼いだ金を他人に奪われるのは許せない」なんていう考えは絶対に持ちたくないと思っている。むしろ、「いかに多くの穀潰しを養ったか」が社会的成功の基準となるのが(現実からはかなり遠いが)理想だと思っている。
これまでにもワールド・ビジョン・ジャパンやあしなが育英会に寄付してきた。その延長で、こういう試みは大いに応援したいと思っていた。
だが、studygiftの女子学生のページを見た瞬間、わたしは凍った。
「成績が下がったので奨学金がもらえなくなった」とかいう部分ではない。奨学金の成績基準が結構シビアなのはわたしも知っている。たとえそれが写真やSNSで遊んでいたのが理由だとしても、もう一度やり直したいというのならかまわない。ページを見た時点では知らなかった情報だが、たとえ彼女がヨシナガさんと同棲していようと、ヨシナガさんが修学資金を出せないというのならわたしは支援したっていいと思っている(彼女自身がスタッフというのはややひっかかるが、最初のケースというだけなら許容範囲だ)。しかし――
問題はページの右側だった。
¥5,000の支援をすると
・ニュースレターの配信
授業のことや学生生活のこと、おもしろかったイベントの話など、現役の学生だからわかる今時の学生事情を、私が撮影した写真を交えてメールマガジン形式で伝えます。(週に1回程度の配信を予定)
・サポーター集会
9月と3月の成績発表の時期に合わせてサポーター皆様の前で活動報告を行います。その他、予算がPCの購入や旅行などの臨時予算が発生した場合、私の活動に関する議決などを行います。株主様同士の交流もできる場にしたいと考えています。
¥100,000の特別スポンサー(企業可)として支援をすると
・持ち物広告
私の使用しているMacbookAir、iPhoneなどの背面に御社のロゴやサービス名を貼り付けて宣伝します。これらの機器は学生生活、バイト、その他の活動でも常に持ち歩いて使用しています。
・御社PR活動
私のSNS(Google+、facebook、twitterなど)や普段の活動で全力を使って御社をPRします。普段の生活での御社サンプル品配布などもご相談いただければ実施致します。その他、お気軽にご相談いただければと思います。
いらん、いらん! なんじゃそれは! 支援の結果は「卒業」でいい。そんなもののために5000円を払いたいんじゃない。寄付の対価のサービスなど一切求めていない! あえて求めるとすれば、使った金の明細と、「卒業証書」を確かに手にしたという報告と、「卒業論文を読む権利」、すなわち成果の報告で充分だ。
なんで対価のサービスを提供しようとするのか。そこに大きな疑問を抱いたのだ。yucoさんは、これで伝わるメッセージは「私の性的魅力にお金を出してください」だと言ったが、わたしはそこに限定しない。なぜ「対価へのサービス」を提供してくるのか。
今時の学生事情など別にここから知りたくもない。おもしろかったイベントの話は、一々報告しなくても、自分で楽しんでGoogle+にアップしてくれればいい。サポーターの交流など全然要らない。議決など待たずに勝手に必要なものを買えばいいし、旅行にだって行けばいい。――ただ、元気に学校に通って、いろいろ学んで身につけて、結果として単位も取って、卒業したい人がいるから、金を出そうと思うのだ。つまり「結果」を出したいという人が困っているから支援したいと思ったのだ。それなのに、余計なサービスを提示してくるなんて……。
studygiftは、Campfireじゃないんだよ!
同じく家入さんがプロデュースに関わっているCAMPFIRE(キャンプファイヤー)は「クラウドファンディング」サイトとされている。興味を持った人たちから資金を募り、それでクリエイティブな事業を実現しよう、というサイトで、これは非常に素晴らしいと思う。しかし、ここで用いられている方法論をそのままstudygiftに持ち込んだのは、アウトだった。
Campfireでは、たとえば「5000円支援した人にはこれこれのサービス、10000円支援したら加えてこういうサービス」等々が段階的に設定されている。それはクリエイティブな作品のための募金だから、対価に見合ったサービスを提供するといってファンドを集めるのは自然なことである。だが、studygiftの「学生生活を送って卒業に至る」というプロセスを「クリエイティブな作品」と同列に扱うのは無理だ。そんなもの、切り売りしてほしいなどと思いもしない。もし切り売りしたとしたら、それこそyucoさんに指摘されていたように、プライバシーの切り売りでしかない。
また、これは「奨学金以外の方法で学費を集める挑戦」なのだという。いや、そんなところに「挑戦」のリソースを割かなくていい。君がやるべき挑戦は、「復学後、低迷した成績を元に戻してしっかり卒業する」ことだろう。
対価へのサービスを申し出てきた時点で、これは純粋な学資支援プラットフォームではないと感じた。だからわたしは寄付しなかった。
ワールドビジョン・ジャパンでチャイルドスポンサーになると、活動報告書も届くし、担当となっているチャイルドとの間にクリスマスカードなどのやりとりがあったりする。それがチャイルドから届くのは嬉しい――が、それが目的で寄付しているのではない。チャイルドが元気だから嬉しいのだ。そこを勘違いしないでほしい。
家入さんの理念は崇高である。これは絶対に疑えない。まごうかたなき善意である。
目標は、佐々木さんのいう「個別包摂」としての学生支援システムの構築ということになるが、これにも問題はない。
動機は――わたしには善悪をつけることはできない。直接・直近の動機が「ヨシナガさんが彼女のために何とかお金を集めて、復学への道筋をつけたかった」だとしても、それ自体をわたしは批判する立場にない。仮に学資支援を口実に集められたお金がまったく別のことに使われることを最初から意図していたらそれは詐欺だが、それはないと信じる。とすれば、自分たちだけが潤うことではなく多くの学生への道筋をつけるという動機もあるはずだから、そこは結果次第ということになっただろう。
ただし方法は、残念ながら壊滅的にダメだった。サービス提示もダメだったし、実情を正確に伝えていなかったのもアウトだった。個人の「魅力」を集金に使おうとしたのもまずかった。やまもといちろう氏が指摘する「プライバシーを出して募金することの問題」は、根本的にこのシステム設計という方法論に関して、土台から問題があることを示している。
方法がまずかったために、このサイトは失敗した。だが、まずかったのは方法なのであるから、「修学資金に困っている学生を支援したい」という理念や目標は捨てないでほしいと思うし、家入さんも捨てる気はないだろう。じっくり検討し直して、できれば性急にならずにじっくりと練ってみてほしいと思う。常にβ版として改良するのがソーシャルメディアの性質だとしても、今回公開されたものはα版以前のあまりにも未熟なものだったと言わねばならない。
ところで、この一連の議論を通じて、わたしは一つ気になることがあった。大学生活を支援するという話の上で、「四年制大学を卒業して、新卒採用される」という枠組みそのものには誰も疑問を抱いておらず、その枠組みだけは誰もが不動の前提としているということだ。
そもそも彼女はなぜ「卒業」したいのか。studygiftのページでは、「そもそもGoogle+は就職活動のために始めたのですが、学費が支払えず退学になるという状態では通常の就職活動を続けることは不可能になってしまい、なんのために大学に入ったんだろう、と感じました」と書かれている。卒業すること、就職活動をすること、つまり新卒採用されることが当然の目標とされている。
でも、それはなぜなのか。いや、その枠組みがなぜ絶対の目標として立ち上がってくるのか。そう言ってしまうと身も蓋もないと言われてしまうかもしれない。studygiftの存在意義自体が失われてしまうと言うかもしれない。
だが、わたしは気になるのだ。大学は、「新卒採用の資格」を得るための「就職資格付与機関」にすぎないのか、という根本的な疑問が湧いてくるのである。「早稲田大学」というブランドの「四大卒資格」がほしい、というのなら、それがなぜ、どうして必要なのか、本当に突き詰めて考えたのか、と問いたい。
わたしは大学や学部や専攻を選ぶとき、「中野美代子先生から西遊記について学びたい」とか「西田龍雄先生から未解読文字について学びたい」とか「人間科学部で人間の行動について学びたい」と思って選んだ。これは学問そのものによる選択だが、それに限るものではない。卒業してどういう仕事につきたいからどういう勉強が必要で、そのためにはこの学校のこの学部でこんなことを学びたい、という思考だっていい。大学が「単位数揃え」以外の意味を持っていますかどうですか、ということを問いたいのだ。
もちろん、単位だけ揃えて、とにかく雇ってくれる会社に入るのが目標です、と割り切る道もある。つまり、大学を「単なる新卒採用のための一ステップ」と割り切る考えがあっても、それ自体は否定しない(だったら「就職予備校大学」としてビジネスに役立つマナーや知識や語学だけを身につけさせるもので充分だと個人的には思う)。だが、「四大卒→新卒採用」というルートだけを絶対条件として盲目的に信奉しているなら、もう一度考え直してほしいと思うのだ。
少なくとも、彼女が「大学で何を学びたいのか」については、文面からはまったく伝わってこなかった。「google+で日本一」も「奨学金打ち切り」もすべて「就職活動」というキーワードにつながっている。「何を勉強したいんですか」への答えがなく、ただ「復学したい」という気持ちしか伝わってこない。写真も大学の学習内容とはまったく関係がなく、だったら写真学校に行けばいいのに、とも思ってしまったりする。
大学を中退したわたしだが、大卒の資格は得た。詳しくは「放送大学を卒業しました。/社会人が大学で生涯学び続けるということ[絵文録ことのは]2011/04/05」に書いたが、放送大学で残りの単位を取得して卒業した。大学時代には授業に出るといっても単位を揃えるという目的が大きすぎた部分もあったが、放送大学では自分自身が本当に興味のあることを「学びたい」という気持ちで学ぶことができた。そして結果的に卒業研究含めて卒業に必要な単位を揃えて「学士」資格を得た。こういうのこそ本当の学問なのだろうなと思ったものである。
20代前半で大学生活を送りながら過ごす数年間は貴重な体験となるだろう。だが、それ以外にも道はある。彼女はすでにヨシナガさんの仕事を手伝うスタッフとして名前を連ねているという。公私ともにヨシナガさんをバックアップして働きながら、放送大学で少しずつ単位を揃えて数年かけて卒業することだってできる。写真について学ぶことを優先させたっていいと思う。
大学というルートを諦めろという話ではない。早稲田ブランドをさっさと諦めろとも言わない。ただ、「学生生活を続けることが就職活動に必要」ということが当然の前提とされていることに疑問を持ったという話である。
studygiftは仕切り直す必要があるだろうし、今回の件についていろいろ説明する必要もあるだろう。方法論も根本から考え直す必要があると思うが、「苦学生を支援したい」あるいは「困っている人を助けたい」、「困っている人と支援したい人のマッチングを進めたい」ということは応援したいと思う。
ただ、活動一時中止の文章の中で、「従来の “どんな人にいくら渡るのか解りにくい寄付” では無く “この人に共感するから支援” を実現すべく」という部分は、システムの根幹にも関わることだが、慎重に考えるべきところだろう。「具体的にこの人」というのがわかることは、かえって隊長やyucoさんの指摘するようなプライバシー切り売り問題が出てくる。支援したい側からすれば「どんな境遇の人に」いくら渡るのか、でいいと思うし、「この人に共感するから」だと支援される側に格差や競争を生む一因にもなる。
被支援者をオークションにかけるかのようなシステム思想のままでは、再開は不可能だろう。仕組みとしてcampfireやクーポンサイトのようなものは一旦頭から捨てないと、再開しても失敗するのが目に見えている。というのがわたしの考えである。
あと、家入さんは余計な挑発すんな。もったいない。
最後に、本稿は「火中の栗を拾う」ために書いたものではないことを明記しておく。
]]>わたしの考えをまとめると以下のとおりである。
※続編:生活保護受給者の97%は日本国籍(「生活保護・在日」問題に関する統計)[絵文録ことのは]2012/05/31
]]> 不正受給ではなかった生活保護では、「最低生活費」から仕送り等を引いた額が、支給される・されない、あるいは支給される額の基準になっている(生活保護制度|厚生労働省)。記者会見によれば(もっと自分がしっかりしていれば…河本準一さん涙で会見(livedoor) - livedoor ニュース)、以下のような経緯である。
どこに河本氏が批判される要素があるのかまったくわからない。「バラエティー番組で「親に仕送りをしている」と発言していた」というのも、このタイムラインと何の矛盾も来たさない。むしろ「仕送りを差し引いた額が支給されていた」という。
ここに河本氏や母親の問題は一切ない。もしこれが問題なのだとしたら、厳しい審査をしたはずにも関わらず認可した福祉事務所の問題(あるいは親の扶養ができないような給料しか与えない吉本の問題)である。少なくとも河本氏が謝罪したり、返金したりする必要はまったくないといえる。
もちろん、「河本氏が福祉事務所に報告した援助額以上に母親に渡していた」というような事実が今後出てくれば、それは明確な「不正」である。しかし、そのような事実は現時点で報道されていない。仮に叩くとしたらその点だけである。
「生活費を援助する能力がある」と「実際にいくら援助した」は別の問題である。生活費の援助能力があったとしても、実際にする(あるいは受ける)か否か、いくら援助するかはまた別問題である。ちなみに、「能力があるなら養え」というのは道徳的・倫理的発言であって、「不正」という言葉が使われるような法的な問題ではない。さらに、わたしはその道徳・倫理には一切与しない。
収入が不安定な職業である河本氏が、またいつ売れなくなるかという恐怖感を密かに持っていたとしてもわたしはまったく疑問に思わないし、むしろ共感する。B&B島田洋七氏が億単位の収入を得た「MANZAI」ブーム以後、「がばいばあちゃん」のヒットまでいかに不遇な時代を過ごしたかというような話を知っていれば、今ちょっと収入が増えたからといって「さあ養いますよ」と言えるかどうか。チャラ男を装っているが実は親孝行な藤森慎吾ならともかく、鬼畜キャラの河本が「そんなん、いつまた収入なくなるかわからんやん。生活保護をやめて、また俺の人気が落ちたときにちゃんと受給でけるんか?」と懐疑的に思ったとしても、わたしは共感する。
それは生活保護受給審査が必要以上に厳しいという現状も影響しているように思われる。
手前は不正か否かは問題にしないが、もしかしてtwitterで河本を批判してる者の殆どが近年河本が病気で死にかけてたことを知らないんじゃないか、と思う。あとほんの何年か前まではガッチリちゃんと貧乏だったとか。
— 中村 甄ノ丞さん (@ms06r1a) 5月 25, 2012
河本氏の母親・姉・叔母二人が今まで合計いくら受給してきた、という週刊誌報道を土台に批判が展開されている。
しかし、少なくとも叔母二人を河本氏が養う義務は何もないし、母親・姉についてもそのすべてが問題となるわけではない。そもそも、親や兄弟姉妹が困窮している際の「扶養義務」はあくまでも努力義務である。もし受給の仕方に問題があったとしても、それは受給された本人の問題であって、河本氏本人の問題ではない。
生活保護は「世帯」単位での認定である。そろそろ「世帯」という概念自体が時代おくれになってきているとわたしは思うのだが、それは別にしても、親世帯が困窮していれば子世帯の収入如何を問わず生活保護を考えて何の問題もない。もちろん、生活保護においては世帯が別でも直系等の親族の経済状況などの調査が行なわれるが、たとえば受給者が親族からの援助を断ることもできるし、親族が実際にいくら援助するかはまた別問題である。
むしろ、現状において福祉事務所が「援助できるだけの収入のある親族がいるにもかかわらず、生活保護を申請する」ことを拒絶するような状態であることの方が問題だとわたしは考える。
「扶養可能か否か」と「実際に援助できるか否か/されたいか否か」は別問題である。
かつて取材したシングルマザー。DVの夫から逃れるため、子供ともに転々としていた。それでも見つかり、夜中にやってきた夫に殴る蹴るの暴力を受けた上乱暴された。身をひそめるように役所に行き生活保護の相談したらこう言われた。「旦那に連絡をとって、養ってもらえるかどうか確認してください。」
— 後藤秀典さん (@hidenorig) 5月 25, 2012
河本氏は父親からは虐待を受けていたようだが、母親とは良好な関係であったとされる。ただし、だからといって「だったら生活保護の必要ないだけの援助をして当然」というのは話の筋が違う。それは道徳・倫理の問題だし、「親孝行」がよしとされるとしても、それを強要するような社会であってほしくはない。
また、「援助能力はあるが援助してくれない」身内を持つ生活困窮者側から見れば、河本氏叩きは恐怖としかいえないだろう。
子は親を養うための道具ではない。子は親の所有物ではない。「年老いたとき、自分を養い、自分を介護するために、子供を育てる」というような考えの親は、親になるべきではないとわたしは強く思う。子供は親の所有物ではないし、子育ては自分の介護者育てではない。そういう勘違いで縛ったり縛られたりすることからは解放されていかなければならない。
河本氏を批判する意見では、「子供は親に育ててもらった恩があるのだから、親を扶養して当然」という考え方が背景に見られることが多い。しかし、実際には虐待(DV、放任)、あるいは「子供は大きくなったら親を扶養して当然」(※18:50訂正)というような束縛が強すぎるがゆえに、親が困窮したときに扶養するなど考えられない事例も多く見られる。わたしも両親が早くになくなってホッとしている。育てて
親に育ててもらった恩を自然に返したくなるような親に育てられたのだとしたら、それは幸福なことである。ただ、ご自身の幸福に感謝しつつ、そうでない人にその道徳観を押しつけないように願いたい。
河本氏の事例がどうかということは別にして(少なくとも父親との関係は断絶しているようだが)、「子供は親を扶養して当然」という強迫観念が今以上に強制的に扱われるような社会には絶対になってほしくない。
また、制度の問題を指摘するかのようにみえて、実はこのような「孝」の「道徳」に基づいた反感が先行しているように見受けられる。
「道義的責任」は法や制度とは別問題であるし、河本氏の家族の問題に「道義的責任」を突きつけるのは、いくら芸能人だからといっても許されることではない。
少なくとも、「河本氏には親を養う能力ができたのに、これだけしか援助しなかった」という批判をするとすれば、それは「不正の追及」ではなく、「道義的な責任の追及」であるということを自覚すべきである。そして「河本は親不孝だから嫌いだ」と主張するならまだ筋が通っていると思うが(私は賛同しないものの)、親不孝を「不正」と主張するのは筋が通らない。
わたしは河本氏を叩くことで以下のような流れになることを恐れる。
以上のようなことにならないことを強く願う。結論から言えば、河本氏叩きには何の意味もないし、氏が謝罪・返金する必要はまったくなかったと思う。ただ、これをきっかけに生活保護が「困っている人たちにまんべんなく」与えられるようになることを願うものである。そのために増税がどうしても必要なのだったら、甘んじて受け入れよう(それがこの信念に対する筋というものである。ただし、安易な増税はノーサンキューだ)。
このまま河本叩きがすすんで彼が芸能界から抹殺、なんてことになると、結局母親が生活保護をもらわなくてはいけない、っていう部分は変わらない気がするんだけど
— vinylismさん (@vinylism) 5月 25, 2012
個人的なネガキャンが出てきそうなので最後に明記しておくが、わたしも親族も人生において生活保護を受けたことは一度もない。
最初に載せておくのを忘れたが、「オレ的ゲーム速報@刃」「はちま起稿」「ハムスタ一速報 週刊新潮」などの「2ちゃんねるまとめサイト」で「河本準一、母親・姉・叔母A・叔母Bが生活保護を需給 総額9792万円 週刊新潮」という記事が公開されている。
これは2ちゃんねるの同じスレッドを元にしているようだが、実際の新潮記事には「姉・叔母二人」が生活保護を受給していたという記載はなく、「一人17万を4人で月々68万、12年受給で総額9792万円」というのも新潮記事にはまったくない捏造であった。このデマ情報は今も削除されておらず、これが世論を誤誘導する一因ともなっている。
デマ情報をもとに非難するというのは、決して許される行為ではない。そして、デマを流された側には一切の責任はない。火のないところに水煙を立てておいて「噂があるのだから潔白ではあるまい」と主張する一部の下劣なネット作法は決して認められない。
本文の最後の一文は、「生活保護を受けたというのはネガティブだから、そう言われたくなくて書いた」のではない。わたしがあたかも「組織的な不正受給」という犯罪的行為に加担しているとか、それを擁護するためにこういう記事を書いたというデマによるネガティブキャンペーンが行なわれることが容易に予測できたので、そこへの予防線である。
そして、実際そういうネガキャンが行なわれた。実際のツイートから一部原文ママで引用しよう。
松永英明 kotono8 ことのは。とかいうツイートが出回って河本準一問題を擁護してるのは、自分たちの収入ナマポを奪われたくないから。在日反日構成員が総出で連動するのも当然。
このような下劣なデマによる人格攻撃(名誉毀損)への対抗措置であることをぜひご理解いただきたい。
純粋に書いている内容について批判を寄せるのであれば、それは言論である。しかし、書いている人間の人格や経歴や所属などについての悪印象を植え付けることが目的となった瞬間、その言葉は暴力と化す。
第10項「河本氏と無関係な「民族問題」になぜか結びつけられること」が理解できないというツイートが散見された。しかし、これは「家族問題」ではない。たとえば、わたしに対して「チョン乙」とツイートしてきた者も現われた。河本氏を「ヘ・ジュンイル」と表記するデマサイトもすでに現われている。第十項はそういうことを指している。
「わたしも両親が早くになくなってホッとしている」という一文だけをクローズアップして、わたしが非道徳的・反社会的であるかのような印象付けを行なう批判が見られるようである。
確かに誉められたことではなかろう。しかし、その直前の部分、「実際には虐待(DV、放任)、あるいは「子供は大きくなったら親を扶養して当然」(※18:50訂正)というような束縛が強すぎるがゆえに、親が困窮したときに扶養するなど考えられない事例も多く見られる」からのつながりで読んでいただければ、どうしてそう考えるに至ったかは読み取れて当然のはずである。育てて
そして、わたしは「すべての親子関係を断絶せよ」などとは一言も主張していない。むしろ「親に育ててもらった恩を自然に返したくなるような親に育てられたのだとしたら、それは幸福なことである」と述べている。それに続けて「ただ、ご自身の幸福に感謝しつつ、そうでない人にその道徳観を押しつけないように願いたい」という本稿の趣旨を述べている。
すべての人に「孝」道徳を100%押しつけるのが唯一の善で、なんぴともその例外とはなってはならない、とお考えなのであれば、それは意見の相違である。ただ、「孝」心を持つことが苦痛だったり、場合によっては被害を被るような事例もあり、それが特に生活保護と関連するような環境では見逃せない要因となりがちである、という現実から目をそらさないようにしていただきたい。
自然に孝心が湧いてこない環境にあった人にまで孝を強制するような社会は、かえって非モラル的な恐怖社会である。
小宮山洋子厚生労働相は25日午後の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを表明した。生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向も示した。(共同通信5/25)
最悪であると思う。もしこの意向が認められるとしたら、社会のセーフティネットは崩壊する。
「親族が扶養できる」という能力と、実際にそれを受けられるか、扶養を受けたいかは別問題である。DVから逃げてきた妻が「夫は扶養可能」ということで生活保護を切られたり、返還を求められたら、文字どおり死ぬ以外に道はないだろう。
「国民に痛みを強いる改革」が真っ先に弱者への痛みを強いるのであれば、そんな国や政府などない方がマシであろう。
(以上追記5/26 18:50)
ツイッター等で「母親、姉、おばの計4人はわざわざ別世帯として隣同士に居住で、母親が生保受給」ということが何かトリッキーな話とされているようだ。
しかし、2ちゃんねるまとめサイトなどにもよく転載されているFLASH記事によれば、
「じつは河本の姉は持病で働けない。彼女も18歳の長男が今年4月に働きはじめるまで、生活保護でした。さらに、母親には夫と死別した2人の姉がおり、うち1人も生活保護を受けるほど困窮している。河本は将来、嫁と子供に加えて4人の親族の面倒をみないといけないと考えていたんです」(吉本関係者)
つまり、「姉」も「二人の叔母」も既婚者なのである。結婚することを俗に(正確ではないが)「入籍」と言うように、結婚した時点で戸籍も世帯も別になる。河本氏自身も既婚者であるから、「河本氏」「母親」「姉」「叔母A」「叔母B」がそれぞれ別の世帯であることは、まったくもって当たり前すぎる話である。
したがって、4人が別世帯であることをもって「不正」の証拠とするのは不可能である。
黒葛原歩弁護士による河本準一さんの問題を中心とした生活保護についての分析 #生活保護 #不正受給 #ナマポ #吉本興業 #河本準一 #河本 #片山さつき #世耕弘成 - Togetter
できるだけきちんと全文を読んでいただきたいが(「河本=不正受給」と考える人は特に)、黒葛原歩弁護士はこのように結論づけている。
以上の取扱いは,厚労省社会援護局長通知第5・2(2)及び第5・3を参照した(生活保護手帳2011・167頁以下)。ここでの通常の(違法ではない,一般的な)流れは,河本本人が会見で説明した内容とも整合すると考えられるため,私はこのケースにおいて不正受給はなかったと判断している
— 黒葛原 歩さん (@ATsZRA) 5月 28, 2012
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当日の荷物は最小限にするというのが、ここ最近の文学フリマ参加で身に染みたことである。新刊は会場に直接搬入(そうすると締め切りもギリギリでOKになる)、既刊本などは事前に宅急便で会場に送っておく。あとはかさばるが軽い設営関係のものだけ持って行く。終わった後は、買った本も売れ残った本も全部まとめて宅急便で自宅へ送付。帰りに早く読みたい本だけ持って身軽に帰る。といっても、大きな布カバン+スーツケースくらいの持ち物はある。
今回は既刊本一箱に加えて、無料配布する手提げ紙袋(数回前に作って何度か売ったが、ほとんど売れなかったモノ)を一袋(65枚)を事前に宅急便配送――する予定だった。だが、5月4日必着で送らねばならないことを思い出したのが5月4日未明。翌朝8時にヤマト運輸に電話して、近くの配送センターに10時までに持ち込めばビジネス便で当日中に配送されることがわかった。辛うじて間に合ったが、神経に悪いし、どうせ送るモノは決まっているのだから次回はさっさと送ろう。
ブース設営用の什器類は前回使ったものをそのまましまい込んであったが、特に確認すらせずそのままスーツケースと布袋に入れる。100円ショップも最近はオシャレで、キッチン用の折りたたみ棚やカゴの色もかわいいのが出ている。それを積み重ねて配置する方法は前回の設営でだいたい完成されたと思ったので、今回はそれを左右逆にするくらいで済ませるつもりだった。
念のためセロテープとガムテープとペンだけ買い足し。あとはもうお金をかけていない。
見本誌に貼るラベルはちょっと凝ってみた。文フリ事務局から送られてきたラベル用紙を一度スキャンして取り込み、Photoshopで色つきの字を入れて、再度プリントアウト。手書きもいいが、ちょっとは目立つようになったかもしれない。
出店者の開場が10時なのでその前に並んだが、出店者の服装の色がほぼ「黒」「白」「グレー」「ベージュ」「紺」系である。前回も思ったのだが、自分のようにヴィヴィッドやシャーベットカラーの服の人がほとんどいないので何か浮いてしまう。「文フリ出店者はユニクロやベネトンやGAPでは服を買わない」という都市伝説を提唱したら何かうっかり信じられてしまいそうなくらいである。一方でアキバ系のようなオタTシャツっぽい人もほぼ見かけない。チェック柄すら見かけない。表紙が萌え系のところだって多いのに、服装は大半が彩度の低いカラーを身にまとう、というのが文フリ出店者の層なのである。
当日、文フリ会場は電気工事のために送風だけで冷房が効かないというアナウンスがあった。気温も暑くなりそうなのが予測されたので、かなり多目に飲み物を買っていった。それから去年の夏の節電ブームのときに買った、電池で動く携帯用扇風機(押すと霧吹き付き)を持参。やはり威力を発揮してくれた。
一階の方は風通しがよかったようだが、二階はかなり蒸し暑かった。
その中でブースを設営する。前回に引き続き隣のクリルタイさんと合体配置なのだが、republic1963さんが似たような棚を100円ショップで買ってきており(うちのよりは一回り小さかったが)、色も似ていてなんとなく一体感が出てきた。特に事前に打ち合わせをしてはいなかったのだが、こういうのをツーカーというのか。レジも共通でやれるので、自分が席を外しても大丈夫というのが毎度本当にありがたいことである。
前回から、本を立てて配置するようにしている。一般的には平積みが基本だろうと思うのだが、うちはメインが面出し。新刊は平積みと面出しの両方を並べておいた。手に取っていただいた率は半々か、やや面出しの方が多かったかもしれない(非統計的な印象論)。
前回食べそびれたターリー屋さんのインドカレー定食も食べられて(やや辛口で旨い)、今回はなかなか満足度が高かったと思う。
今までの傾向だと「1階(もしくは創作系)は空いていて、2階(もしくは評論系)が混んでいる」という実態があったが、今回わたしがぐるりと歩いた体感からすると1階も人の密度が高い印象があった。今までのような差は余り感じない。
結果として、新刊『ゲニウス・ロキの歩き方』は43部の売上。前々回の『東日本大震災でわたしも考えた』がタイムリーだったこともあって史上最高の45部、前回の『事物起源探究2011』が33部だったのを考えると、なかなかの好成績である(震災本の売り上げは特需すぎた)。新刊はすでに密林社さんに預けてあるので、近日中にAmazonでも購入できるようになるはずである。
他の既刊の売上と合わせると、新刊の印刷代(印刷部数は100冊)とほぼトントンなので、次回も新刊を出せる勘定である。これは事前の目標レベルどおり。
Amazonで売ったり、今後の文学フリマで旧刊として販売したりすると1年くらいで在庫を捌けるかな、という状態だ(他のイベントには参加する予定なし)。今のところは半年に一冊ずつ出してこのサイクルができていることに感謝している。まあ、新刊を半年に2冊もしくは3冊出すにはさらなる資本投下が必要になるが、とりあえず7万円くらいで回転できるとなれば、道楽としては充分である。
いただいたもの、購入したもの合わせて、冊子のみで50冊足らずになった。以下、写真上段を左から右の順に。写真はサイズ別。
【A5】
【A5】
【文庫】
【新書】
【CD-R】
【B6】
【特殊サイズ】
【B4】
【A4】
【他サイズ】
このほか、寄りたかったのに寄れなかったのは、成松哲さん(「kids these days! vol.2」)、秘本衆道会・衆道士ペドフェチさん、KKITT PUBLISHING DEPT.(『オタクとフォント』+1号)、近江舞子さん、牟礼鯨さん(通ったときに本人がいなかった)、ほか。次回よろしくお願いいたします。
以上、ざっと見た段階ですが、独断と偏見と即断と視野狭窄(とりあえず入手したものの中で現時点で内容が把握できてるものだけなので)による「第十四回文学フリマことのは大賞」(何の権威もない)を選んでみました。
大賞は、さまざまな絵馬を収集した力作『えまにあん』に進呈したいと思います(副賞等何もなし)。アイドル系サークルの並びで発見して即購入、戻って隣のクリルタイの人たちに見せたら全員買いに走ったという伝説の名作です。押尾の年齢に合わせて340円とかまったく意味不明な設定など含めて、これぞ「掘り出し物」というべきでしょう。
同じく「最優秀データ賞」を『ファラオ時代のファラオ』に。なんと古代エジプトのファラオ全員のプロフィールを載せたという、歴史マニア垂涎の一冊。索引では、異名から第何王朝のだれなのかが一目でわかるようになっています。これはすごい。
「マニア的愛のたまもの賞」は二つ。懐かしのゲームブックを見事に再現した『アドベンチャーゲームブック スウォードロック』と、わたしも好きな『白浪五人男考』に。
「装丁賞」は『クマの豆本製造ライン』。挟まってる厚紙が切り紙になってたり、透明カバーが生きてたり。やっぱりビブリオフィリア的には「データが読めればそれでいい」んじゃなくてこういう本を手にすること自体が嬉しいものです。
「毎回新刊が楽しみ賞」は百人一首構造研。古典に興味がある方は絶対に読むべきです。百人一首の配列に隠された秘密! こういうネタってこじつけになりがちですが、百人一首配列考はデータに基づいて淡々と解析されてるので、読んでて楽しいですね。
その他の本も面白そうだと思わせる要素があったからこそ買ったりしてるわけで、今から読むのが楽しみです。
ブース・サークル名は、2階Fホール【カ-36】ことのは(@kotono8)です。前回に引き続き、お隣【カ-35】奇刊クリルタイとの合体配置です。二つのブースで合同レジですが、ご購入者には「ゲニウス・ロキ紙袋」と「クリルタイVol.3」が無料でついてきます!
今回は文学フリマ冊子としては初のテーマ『ゲニウス・ロキの歩き方』です。表紙は前回に引き続きカラーで、再び吉川にちのさんのイラスト入りです。表紙込み124ページ1200円。
]]> 場所とか時間とか前々回までの京急蒲田じゃないので注意!文フリ公式の案内→文学フリマ - 会場アクセス
もし間違って蒲田に行ってしまった人は、羽田空港まで出てモノレール乗り換えか、京急の各停で平和島まで戻って徒歩で。
当ブースは2階のエスカレーター上がってすぐの入り口から右手の壁、手前の一番端です。葉っぱロゴの看板立ててます。トイレのついでにお立ち寄りください(手は洗ってきてください)。
表紙写真は「東京タワーとスカイツリーの〈重ね二塔〉」写真(撮影:松永)。表紙イラストは「奇刊クリルタイ」誌の表紙でおなじみの吉川にちのさん。A5判表紙込み124ページ、表紙フルカラー、1200円。
二つの塔:東京タワーと東京スカイツリーが重なる場所を探せ!
表紙写真にも使われた「重ね二塔」の写真を撮影できる場所を求めて
水の東京:明治&平成クロスオーバー編 幸田露伴&松永英明
幸田露伴『水の東京』に描かれた隅田川・神田川・日本橋川などをおよそ100年後の平成に松永が実際にボートで水面から体験する。「水の東京」の全訳と現代の状況についての解説、そして松永の紀行。
ゲニウス・ロキとは何か
・「場所に蓄積されたデータ」に惹かれて……ゲニウス・ロキをなぜ求め続けるのかについての松永の考え。
・ポープ「バーリントン伯爵への書簡」全訳……ゲニウス・ロキという言葉を初めて建築学(造園)に用いた詩の全訳。
大山顕インタビュー:なぜ団地や工場に「萌え」るのか――《ままならなさ》がグッとくる
団地や工場に萌えきれない松永が、「団地団」「工場萌え」「ジャンクション萌え」の大山顕氏にインタビュー。美学から郊外論まで話は尽きない。
グリーンライン下北沢:小田急線地下化のあとち利用を考える。チーム・ゲニウス・ロキ案の概要
◎ゲニウス・ロキとは何か
「ゲニウス・ロキ」とは、ある場所の歴史、土地の記憶といったものを指す言葉である。本冊子では一貫して建築学系で使われる意味合いで使っている。すなわち、場所にはそれぞれの歴史的経緯や由来・由緒があり、独特の雰囲気がある。建築計画や都市計画の際にもそれぞれの土地の「ゲニウス・ロキ」を考慮すべきだ、というのがその趣旨だ。……(中略)……
「繁昌記」ものは元祖ともいえる寺門静軒の『江戸繁昌記』を筆頭に、高浜虚子や芥川龍之介らによる『大東京繁昌記』、小林信彦・荒木経惟『私説東京繁昌記』などと書き継がれてきた。わたしも『平成東京繁昌記』的なものを書いてみたいとも思っている。しかし、そのためにはまだまだ知らない、体感していない東京がまだまだ多すぎるのだが。
そして、東京に限らず、今の日本の各地の状況を記録にとどめてみたい。それぞれの街にあるものを記録するだけではなく、その街の歴史・記憶をすべて包括して、二十一世紀初頭の記録を残してみたい……そんな想いがある。繁昌記・地誌のタイトルとして「ゲニウス・ロキ」はふさわしいように思われる。これは今後もライフワークにしていきたい。
わたしが興味を持っているのは、おそらく、学術的には「人文地理学」や「建築学・都市計画」に当たるのだろう。あるいは「地政学」や「地名学」「景観学」といったジャンルも絡んでくる。「都市環境学」という言葉があることを知ったのは最近のことだったが、このような重層的なジャンルに関心がある。
それを中国の伝統では「風水」という学問で扱ってきたように思われる。今、一般的に「風水」と呼ばれているインテリア風水のような「名前だけ風水、実態は家相術や九星占術」であるものとは一線を画した「地理風水」という中国の思想についても、またライフワーク的に調べていきたいと考えている。こういった関心領域を一言で言い表せるのが、わたしにとっては「ゲニウス・ロキ」という言葉だったのだ。
こういった場所論は、広く捉えると空間論ということになる。それは、私たちを取り巻く環境、私たちに影響を与える外界の存在というもの全般を考えることにもなる。場所の記憶、街の歴史というものが人間の活動や思いと密接な関わりがある以上、それは人と場所という関係性を考えていかねばならない。
場所に意味を与えるのは人間だ。しかし、人間によって与えられた場所の意味が、今度は、そこにやってくる人、そこで生まれ、育った人たちをある枠組みに当てはめていく。そして、新しい意味が生まれていく。
「六本木ヒルズ」は一つの建築群でしかないが、そこには「ITバブル」や「成り上がりセレブ」といった言葉がまとわりつくようになった。そして、そこに暮らしたり働いたりしていること自体が新たな意味を生み出すようになっている。「県民性」は人気番組のテーマとしても定着している。
人が場所を作り、場所が人を変える。そんな連鎖反応を考えることは、ひいては、自分の「立ち位置」や「居場所」ということにもつながっていくのではないだろうか。……(後略)……
以下は在庫がなくなりましたので、今回は販売いたしません。お問い合わせはメールにて。
今回は3冊に寄稿しています。こちらもご覧ください。
新書版、142ページ 1部 500円 特製透明しおりつき。「『小悪魔ageha』における「地方志向」の正体」を寄稿しました。お隣のブースですがレジは共通なのでご一緒にどうぞ。
当サイトの人気原稿の再録。地方と東京、ギャル文化圏を理解するための基本文献といっても過言ではありません。2012年に再録するにあたっての補足もついており、「小悪魔ageha」の現在を俯瞰できる内容になっております。
A5/218ページ/表紙・口絵カラー、本文モノクロ/1,000円。「宗教の信者は〈何〉を信じてゐるのか」を寄稿しました。この話題についてはネットでは語りません。
文字通り、幻想の生物に関する事典風の一冊。A4判、コピー。
お隣「奇刊クリルタイ」さんとの合体配置記念コラボ企画として、「両ブースにて何かお買い上げの方」にもれなく「ゲニウス・ロキ紙袋+奇刊クリルタイvol.3(すでにお持ちの方は缶バッジ)を差し上げます(先着順)。紙袋は先着65名さままで。
紙袋のデザインはシンプルな文字のみ(書かれているのは、本誌で全訳したアレクサンダー・ポープの詩の原文一部です)。オタクっぽくないので街中でもオシャレに持ち歩けます。ぜひ一枚どうぞ!
写真の左にサイズがわかるように本を置いてみました。左端はB5サイズ「放課後 Vol.2」(今回は二つお隣のブース)、中央がA5サイズ『事物起源探究2011』(前回の新刊)。文フリのだいたいの刊行物がしっかり入る大きさです。
というわけでよろしくお願いいたします。
]]>この条例の思想のバックボーンには、ある一般財団法人が絡んでいることも見逃せないポイントだ。その財団法人の付与する民間資格を支援するとも明記されている。
以下、自由法曹団のサイトで公開された「大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1~23条)」をもとに、逐条批判していきたい。
]]> 全体家庭教育支援条例 (案)
平成24年5月 「大阪維新の会」 大阪市会議員団
* 第1章 総則 * 第2章 保護者への支援 * 第3章 親になるための学びの支援 * 第4章 発達障害、虐待等の予防・防止 * 第5章 親の学び・親育ち支援体制の整備
これは「大阪維新の会」大阪市会議員団が提出した案である。橋下徹氏のシンパの中には「新聞記事によれば、この条例案は議員提案であり、橋下市長自身は条例案の中身については知らないということなので、維新の会を叩く根拠にはなっても橋下市長を叩く根拠にはなりませんよ」と主張する人もいる。もっとも、後述するように、橋本市長は「市民に義務を課すのは基本的に好きじゃない」という観点で発言しており、この条例案の根本的な問題点は認識していないようである。
(前文)
かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
前文の第一パート。初っ端から「かつて子育ての文化は」という伝統偽装の文面が踊る。昔はよかった、という黄金時代回想論の多くは、具体的な時期を明記しない。もしくはごく限られた時代のみを「これまでずっとそうだった」と述べる。
しかし、理想的な子育ての時代は本当にあったのか。戦前までは間引きもあった。伝統的な子育て文化としては乳母も見過ごせない。
子育て文化を担うのが親だけでなく地域社会なども含まれる、というのはそのとおりである。この点、「親だけに子育ての責任を負わせる」という自民党の主張とは正反対である――かのように見えるが、実はこの維新案も同じである。いや、子育ての全責任を「親の親心の喪失と親の保護能力の衰退」に押しつけているという点で、この前文の言葉とは完全に矛盾しているのである。
各条文で見るとおり、地域社会が親を支援する(つまり、親が負担を負いすぎなくてよいようにバックアップし、時には代行して親を休ませる)ような内容は何一つとしてない。すべて「親の親力が衰退しているから、特定の子育て思想に基づいて親を鍛え上げよ」という提言となっている。
第二段落で「これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず」というのは、「これまでの祖父母や親族からのルートでは」という但し書きが必要である。現在はそれを補う存在として、プレママ雑誌や子育て雑誌、通信教育(ベネッセ等含む)、母親学級・両親学級、その他自治体や民間の支援サポート体制があるわけだ。
ちなみに、ここまでの「伝統偽装」として、核家族化以後おかしくなったと言いたげだが(そうすると、40代のわたしの世代も当然、「親心を喪失し、保護能力を失った親」に育てられたということになるのだろう)、実際は日本において家事や育児に専念できる「専業主婦」が定着したのは高度成長期の「男の稼ぎで一家を支えられるようになった」時代だけである。それ以後の景気低迷の中で再び兼業主婦が増えたということは、「専業主婦の時代」は高度成長期のたかだか数十年の幻想といえるだろう。
そもそも、主婦という言葉の発祥は大正六年(1917)つまり約100年前、『主婦の友』創刊時の造語であり、「主婦は一家を支える二つの柱、主人に対しての主婦」という理念だった。それ以前は主婦という概念すらなかったわけである。
近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。
前文の第二パート。このあたりから文章が右往左往する。ここでは「児童虐待の背景」として「親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題」を結びつけている。虐待をする親に情緒的その他の問題があることは確かだとしても、それが「ながら授乳が8割を占める」ということとは何の関係もない。児童虐待している親とそうではない親(大多数)を比較して児童虐待の親のながら授乳率が有意に高いなどという調査は、寡聞にして知らない。むしろ、「ながら授乳」と児童虐待には相関性はないと見るべきである。
ここでは「児童虐待=親の能力衰退」と決めつけていることを押さえておこう。
さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。
「気になる子」「新型学級崩壊」と「ひきこもりとその予備軍」を並べ、「ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている」という。特に後文は意味不明である。というのも、「虐待」というのは親から虐待を受けたことを指す言葉である。一方、ひきこもり・不登校・非行というのは情緒障害と深い関係がある。そして、器質的要素が非常に大きい発達障害は、また別のことである。
これらの相関関係については、「明らかになっていない」というのが現在の研究成果である。たとえば横谷祐輔・田部絢子・石川衣紀・髙橋智「「発達障害と不適応」問題の研究動向と課題」(東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 61(1): 359-373, 2010-02-00)によれば、
「発達障害と非行等に関するレビューでは以下のような課題が明らかになった。事例研究においても量的な調査においても,その母集団において特殊なケースが多く,解釈にはその特殊性を十分に考慮しなければならないにもかかわらず,発達障害と非行・行為障害・触法行為を直接的な関係・要因として般化してしまっている研究も多いという問題が明らかになった」
ともある。つまり「発達障害と非行・行為障害・触法行為を直接的な関係・要因として般化」することは適切ではないということだ。
また、虐待を受けた児童に問題が起こりやすいとしても、それらの問題の原因をすべて虐待とするわけにはいかない、というのもまた至極当然の話だろう。いま仮に「虐待を受けた児童に発達障害が多く見られる」としても(これも否定する実証研究がある)、発達障害の子供は親に虐待を受けたからだ、という結論は絶対にありえない(ある、と思う人は、論理学の基礎中の基礎をやり直すべきだろう)。
しかし、この条例案の中では「親心の喪失・親の保護能力の衰退」→「虐待」→「発達障害」→「引きこもり・非行・不登校・気になる子・新型学級崩壊」という「エセ因果関係」が前提となっていることが読み取れる。とんでもない話である。「笑えたり、楽しんだりできないものは除く」というトンデモの原義から言えば、これはトンデモですらない。単なる「エセ人文科学」である。
このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。
これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。
このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。
大阪市の条例案で「本県」というのは、この案を日本全国に適用させようとしているからだ、という意見もあるので、ここでは深く突っ込まない。
この前文3で強調されているのは、「親を鍛え直さなければならない」という主張である。それは「保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援」するという教育基本法の条文とは食い違う。なぜなら、それに基づく「母親学級」などの施策とは異なり、「親の利便性」(と彼らが主張するもの)を激しく敵視した上で、「子供の「育ち」が著しく損なわれている」というズレた現状認識のもと、「親の学び・親育ちを支援する」というより強制することを宣言しているからである。
わたし自身も経済より幸福の物差しへ転換するという言葉自体には賛同したいが、残念ながらここで言っている「幸福の物差し」とは、「特定のゆがんだ、エセ科学的な前提に基づいた親たちへの“洗脳”」にほかならない。
第1章 (総則)
(目的)
第1条
1項 親およびこれから親になる人への「学習の機会及び情報の提供等」の必要な施策を定めること
2項 保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定めること
3項 前2項の目的を達成するため、家庭教育支援推進計画を定めること
第一条1項はまあいいだろう。問題はその学習・情報の内容である。
第2項。ここが大変なところである。発達障害は、決して親の責任ではない。まずこの科学的前提を踏まえる必要がある。発達障害の「予防・防止」など、現在の日本にはそれを可能とする理論も技術も存在しない(実効性のないトンデモ私論を除く)。「保育、家庭教育の観点から」といって発達障害と虐待を同列に扱っている時点で、この条例案は非科学的な妄想でしかないと言い切ってよい。
なお、発達障害の原因として虐待が関係するかどうかについては、たとえば中根成寿「障害は虐待のリスクか?~児童虐待と発達障害の関係について~」(京都府立大学福祉社会研究 8, 39-49, 2007)を参照してみよう。この論文自体は「子供に発達障害があると親は虐待しやすくなるのか否か」ということを考察しており、今知りたいこととは逆のアプローチといえる。ただ、その中で、「田中(2003、2005)は児童の障害(発達障害含む)と児童虐待は本来直接の因果関係や関連が証明されているわけではなく、障害をもつ子どもの多くが虐待されているわけでもない、と指摘している」という。(ここで参照されている論文は、田中康雄(2003)「発達障害と児童虐待(maltreatment)」『臨床精神医学』3(2):153-159、同(2005)「発達障害と児童虐待(maltreatment)」『子どもの虐待とネグレクト』7(3):304-312)
また、中根氏の論考のまとめでは以下のようにも記されている。
「虐待のハイリスクグループ、つまりすでに虐待が起こった家族においては児童の障害は当該家族にとって数多くある虐待要因の一つであることが先行研究から確認された。だが、児童の障害があっても虐待とは無縁な層も数多く存在しており、なぜその家族にとって児童の障害が虐待へとつながらないのかという補償要因の調査は、現実的に実現が難しい。
また本稿では虐待と児童の障害の種類において、行動障害や自閉傾向を示す児童により高いリスクがみられることから発達障害に注目したが、児童虐待の二次的被害と発達障害の症状とは、実際の臨床場面では判別不可能に近いという指摘もあり、どちらが原因であるかが明らかにならない「微妙な関係」(田中 2006:193)である。」(※参照論文は、田中康夫(2006)「軽度発達障害と児童虐待の微妙な位置関係」『現代のエスプリ―スペクトラムとしての軽度発達障害I』474:187-194)
「児童の障害は児童虐待のリスク要因ではあるが単一の発生要因ではない。児童の障害に加えて、貧困や社会的孤立、親自身の健康状態や障害という他のリスク要因が加わって初めてリスクが顕在化する。山野(2006)が言うように児童虐待の増加は児童の障害や子育てのストレス、母親の孤立よりも、生活保護世帯の増加や失業率の増加との相関も高い。」(※参照論文は、山野良一(2006)「児童虐待はこころの問題か」上野加代子編『児童虐待のポリティクス―「こころ」の問題から「社会」の問題へ』明石書店:53-99)
この条例案が目の仇にしているのは、ネグレクトすなわち育児放棄であろう。ネグレクトは立派な「児童虐待」の一つである(肉体的な暴力を振るわないタイプの虐待である)。ところが、その児童虐待と発達障害の因果関係については、「明らかにならない」とされている。子供に障害があるから虐待した、という親は確かに存在するが、そうでない層もある。つまり、虐待と無縁なのに発達障害という子供は、例外どころか普通に見られるのだ。
つまり、「発達障害」を「予防・防止」するために「親」をなんとか教育しよう、というのは、まったくもって見当外れのエセ科学的方策としか言いようがないのである。
(基本理念)
第2条
家庭教育の支援は、次に掲げる条項を基本理念として、推進されなければならない。
(1) 親は子の教育について第一義的責任を有すること
(2) 親と子がともに育つこと
(3) 発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること
こういう理念を持つこと自体は「言論表現の自由」から言っても認められるべきだろうとは思うが、エセ科学に基づいた発想で作られたこの条例案の中で「科学的知見を共有」というのは何かの皮肉であろうか。
なお、現在の子育て/少子化問題における最大の問題は、「(母)親に子育ての過分な責任が強要される」ことにあると考えている。「母乳がいい」というのは事実だが、「母乳でなければダメ」「母乳を与えない母親は失格」「母乳でなければ育児とはいえない」というような発言が普通に見られ、それが母親もしくは母親になろうかと考えている女性への強大な精神的圧迫となっている。
これは「保育所に預けられる子供はかわいそう」という圧力も同じで、今の母子手帳では「そんなことはない、社会性を早くはぐくむ利点もある」とフォローされているが、それでも「24時間365時間、母親が育てなかったら育児したと言ってほしくない」「保育所に預けなければいけないような親は子供を産むな」「仕事と子供のどちらを選ぶのか。どちらかだけの二択であって、どちらも両立したいなどは子供への虐待」というような極端な意見も実際にわたしは見てきた――それも「子育てに理解のないオトコ」だけではなく、恵まれた「育児に専念できる母親」からも。中には育児に積極的に参加する「イクメン」さえも「母親の義務の放棄」のようにとらえて批判する例もある。
このような「母親への過剰な負担要求」が、「子供を持っても負担が大きいだけ」という意識を増大させ、結局「じゃあ子供なしの人生を選ぼう」という人を増やしているのも事実である。そして、この条例案の背景に、そういう「母親への過剰な負担要求」こそが「伝統的なあり方」だというエセ科学的思考が存在するのが、最大の問題点であると言える。単に条文の一つ一つの運用上の問題などではなく、根本理念が狂っているのである。
(社会総がかりの取組)
第3条
前2条の目的および基本理念にもとづき、家庭教育の支援は、官民の区別なく、家庭、保育所、学校、企業、地域社会、行政が連携して、社会総がかりで取り組まれなければならない
いや、そんなことはない、親への過分な負担の押しつけだなんて言いがかりだ、この第3条を見れば社会全体が支援すると言ってるじゃないか――という反論が予想される。しかし、これは巧妙な詐術である。なぜなら「育児の支援」ではなく「家庭教育の支援」だからである。つまり、育児全般をバックアップするのではなく、「親への強制的教育=洗脳」を「社会総がかり」で取り組まなければならない、と主張しているからだ。
先の論文でもあるように、「生活保護世帯の増加や失業率の増加」が虐待と相関しているというデータも示されている。少なくともカネがすべてではないとしても、虐待を防止するための経済的支援・就業支援あるいは待機児童ゼロ化政策などについてまったく触れることなく、ただ「親心教育」のみを「総がかりで取り組」もうというのは、見当外れとしか言いようがない。
第2章 (保護者への支援)
(保護者への支援の緊急性)
第4条 現に子育て中であるか、またはまもなく親になる人への支援は、緊急を要するため、以下に掲げる施策が、遅滞なく開始されなくてはならない
「親の学び」というものが、しかもそれだけが「緊急を要する」ものとして扱われている点で、何らかの思想団体による訴えのようにみえる。
(母子手帳)
第5条
母子手帳交付時からの親の学びの手引き書の配付など啓発活動の実施、ならびに継続的学習機会の提供および学習記録の母子手帳への記載措置の実施(乳幼児検診時)
第6条
3ヶ月、6ヶ月、1歳半、3歳児検診時等での講習の実施ならびに母子手帳への学習記録の記載措置の実施
ここで書かれているのは「親の学びの手引き書」を配ること、その「学習記録」を「母子手帳に記載する」こと、定期的な乳幼児検診のときに「講習」を行なってその「学習記録」を母子手帳に残す、という思想強制策である。これで「学習」を拒否したら発達障害の原因となる虐待親とでも認定されるのだろうか。
(保育園、幼稚園等での学習の場の提供)
第7条
すべての保育園、幼稚園等で、年間に1度以上、保護者会等での「親の学び」カリキュラムの導入
すべての保育園・幼稚園に「親心・育児能力の衰退が虐待を招き、それが発達障害を生み、さらに引きこもり・不登校・非行・学級崩壊などの原因となる」というエセ科学的な理論を受け入れさせようというものである。
(一日保育士、幼稚園教諭体験)
第8条
すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化
【激動!橋下維新】「市民に義務、好きじゃない」、維新市議団の「家庭教育支援条例案」に橋下市長異論 - MSN産経westによれば「保護者の一日保育士・幼稚園教諭体験の義務化が盛り込まれたことについて「市民に義務を課すのは基本的に好きじゃない。維新の会の政治行動ではない」と述べ、否定的な見解を示した」とある。
だが、これは条文的には「すべての保育園・幼稚園」が「体験」を実施することを義務化する、と読める。橋下氏が理解していると思われる「保護者がみんな受けろ」ではなく「保育園・幼稚園は義務として実施しろ」という主張である。しかも、橋下氏の反論ポイントは、「市民に義務を課すな」というところであるので、どうも論点が違うように思われる。
もしこれが橋下氏の理解どおり「保護者がみんな受けろ」なのであれば、なんですでに家庭で育児に追われている親にわざわざ「一日保育士・幼稚園教諭体験」までさせるのか、という点が問題になろう。
(学習の場への支援)
第9条
保育園、幼稚園、児童館、民間事業所等での「親の学び」等の開催支援
「学び」という言葉自体が自己啓発系の胡散臭い用語であることは別にしても、ここで「学ばされる」ことが「親心や保護能力の衰退があるから、発達障害になるんです!ながら授乳が悪いんです!」みたいな思想であれば、それはエセ科学への招待としか言いようがない。その洗脳教室を自治体が開催支援しろとはあきれ果てる。
第3章 (親になるための学びの支援)
(親になるための学びの支援の基本)
第10条 これまで「親になるための学び」はほとんど顧みられることがなく、親になる自覚のないまま親になる場合も多く、様々な問題を惹起していることに鑑み、これから親になる人に対して次に掲げる事項を基本として、学びの機会を提供しなければならない。
(1) いのちのつながり (2) 親になることの喜びと責任 (3) 子供の発達過程における家族と家庭の重要性
親になる自覚は確かに必要だろう。しかし、それが「親心と保護能力を高めれば発達障害にもならないし、非行や学級崩壊も防げる」というのであれば、そんなエセ科学など学ばない方がずっとマシである。
(学校等での学習機会の導入)
第11条
小学校から大学まで、発達段階に応じた学習機会を導入する
学習することはよいが、導入する内容が根本的に問われている。
(学校用家庭科副読本および道徳副読本への導入)
第12条
小学校から高等学校まで、発達段階に応じて、次に掲げる事項を基本とした家庭科副読本および道徳副読本を作成し活用する
(1) 家族、家庭、愛着形成の重要性
(2) 父性的関わり、母性的関わりの重要性
(3) 結婚、子育ての意義(家庭用道徳副読本の導入)
第13条
前12条の内容に準じて、保護者対象の家庭用道徳副読本を作成し、高校生以下の子供のいる全ての家庭に配付する
家庭科のみならず「道徳」というところに思想性が強く表われている。
(1)は家族至上主義であることが問題だ。適切な「愛着」形成であればよいが、家族・家庭至上主義は逆に家族への反発を生む場合も多い(わたし自身そうである)。子供への過剰な愛情の押しつけが逆に非行を生むことも多い。
(2)は父性的関わり、母性的関わりと書いている以上、男女のジェンダー役割を強調するものと考えられる。後述するこの思想の提唱者の傾向から見ても、たとえば「母親が稼いで主夫が育児する」ような家庭は完全否定されるものと思われる。
(3)はこれだけでは何とも言い難い。結婚、子育ての意義についてどういう意義があると教えるのかが大きな問題である。
(乳幼児との触れ合い体験学習の推進)
第14条
中学生から大学生までに対して、保育園、幼稚園で乳幼児の生活に触れる体験学習を義務化する
まあそういう体験はないよりあった方がいいかもしれない。だが、それがこの条例案の思想による指導であれば、害悪である。
第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)
(発達障害、虐待等の予防・防止の基本) 第15条 乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる
ホメオパシーや「水からの伝言」レベルの完全なエセ科学である。乳幼児期の愛着形成は確かに重要であるが、それが「軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」とするのは、どこにそういう知見があるのかという話である。
そもそも「軽度発達障害」とは医学用語でも行政用語でもない。たとえばAD/HDを軽度発達障害に含めるか否かは研究者によって分かれている。このような曖昧な概念について、その「大きな要因」を「乳幼児期の愛着形成」一つの責任とし、それがまた「虐待、非行、不登校、引きこもり等」に直結するかのような前提を「鑑み」ているような議論は、そもそも成り立たないのである。
簡単に言えば、「乳幼児期の愛着形成の不足」を防ぐことで「虐待、非行、不登校、引きこもり等」の「予防・防止をはかる」ことができるなどと考えるのがすでに非科学的ということである。しかも「虐待」を行なうのは親、「非行、不登校、引きこもり」を行なうのは子供であるから、条文作成者も混乱していると思われる。
しかも、軽度発達障害の原因が「親の育て方」にあることは、医学の分野からは明確に否定されている。たとえば、岡山県保健福祉部子育て支援課が発行している「軽度発達障害理解のためのガイドブック」(協力:岡山県保健福祉部健康対策課)は、児童精神科医師・小児科医師・臨床心理士・児童相談所所員らが執筆しているものであるが、その「(3)原因について」ではこのように明記されている。
「いずれの障害も、医学的には環境や心理的な問題が直接的な原因ではなく、器質的な原因(身体の特定の部位が障害された状態)によって発生していると考えられています。生まれつき、または出生後早期に脳の特定の機能が障害されたことが原因で、様々な症状が引き起こされており、決して親の育て方や、しつけ、学校の対応などが原因で発症するものではありません。」(強調:引用者)
また、同項目内「3)児童虐待との関係について」ではこう書かれている。
「虐待を受けて育った子どもは、情緒的に混乱し対人関係が不安定なため、多動、衝動性、対人関係の障害、こだわりなど、軽度発達障害の子どもと共通する特徴を示すことがあります。逆に、軽度発達障害があるために育てにくく、これが保護者の養育負担感を増して虐待を引き起こす場合もあります。このように、軽度発達障害と虐待との関連は密接であり、慎重に評価する必要があります。」
つまり、虐待を受けて育つと「軽度発達障害の子どもと共通する特徴を示すことがあります」というのだから、逆にいえば虐待と無関係な軽度発達障害が見られるのは事実である。また、「逆に、軽度発達障害があるために育てにくく、これが保護者の養育負担感を増して虐待を引き起こす場合もあります」というのだから、因果関係がまるっきり逆転してしまう。
この条例の基本的な発想の元であるといえる第15条は、科学的に全否定されるのである。言い換えれば、この条文一つを否定するだけでこの条例案すべてが否定される。
この条例案の発達障害に関する内容についての批判としては、大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について - lessorの日記・発達障害を「予防、防止」する? - 大阪市・家庭教育支援条例(案)を読んで - Whateverも参照のこと。
(保護者、保育関係者等への情報提供、啓発)
第16条 予防、早期発見、早期支援の重要性について、保護者、保育関係者およびこれから親になる人にあらゆる機会を通じて情報提供し、啓発する
軽度発達障害や虐待について「早期発見」は非常に重要だし、適切な「早期支援」は必要だが、予防は不可能であるし、また早期支援の内容が「親心の涵養」などであれば逆に必要な医学的支援を妨げるものともなりうる。
(発達障害課の創設)
第17条
1項 発達障害の予防、改善のための施策は、保育・教育・福祉・医療等の部局間の垣根を廃して推進されなければならない
2項 前1項の目的達成のために、「発達障害課」を創設し、各部局が連携した「発達支援プロジェクト」を立ち上げる
こんな課が創設されれば、児童福祉相談所の仕事を妨げるのみならず、科学的に否定される政策を市が率先して行なうという事態にもなりかねない。
(伝統的子育ての推進) 第18条 わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する
ツッコミどころ満載である。まず「我が国の伝統的子育て」とは何か。現代の医学で予防・防止できない器質的な問題である発達障害を「予防・防止できる」方法など存在するのか。また、「我が国の伝統的子育て」が仮に「予防・防止できる」とするのであれば、かつて日本には発達障害の児童は予防・防止されていたという実績はあるのか。それは単にそういう障害が認識されていなかっただけではないのか。
かつての日本(がいつの時代を指すかはともかく、おそらくこの条文からいえば明治から終戦ごろまでの百年くらいを指すのだろうが、その時期の日本)においては、むしろ、発達障害の児童は間引かれ、捨てられてきた。あるいは逆に「福助」のように福を招く「まれびと」として扱われてきた。だが、発達障害そのものを「我が国の伝統的子育て」なるものが発生させなかった、あるいは発生率を低く留めていたという事実は認められない。
子育ての知恵を伝えていくというのはいいが、もしそれが「布おむつ絶対、紙おむつは育児放棄」というような旧態依然の実情に合わない「知識」をもって「親」への強迫観念を強めるだけであれば、百害あって一利なしである。
(学際的プロジェクトの推進)
第19条
保育・教育・福祉・医療等にわたる、発達障害を予防、防止する学際的研究を支援するとともに、各現場での実践的な取り組みを支援し、また、その結果を公表することによって、いっそう有効な予防、防止策の確立を期す
少なくとも医療の現場からいえば「発達障害を予防、防止する研究」というもの自体が非科学的であるし、もし支援されたとしても、その研究結果は、発達障害の原因が「親心」や「親の保護能力」の衰退、もしくは「乳児期の愛着形成」にはない、という、この条例案を根底から覆す結論となることはすでに明白である。
第5章 (親の学び・親育ち支援体制の整備)
(民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築推進)
第20条
親としての学び、親になるための学びの推進には社会総がかりの取り組みが必要なため、民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築を支援し、推進する
すでに触れたが、「育児」に対する「社会総がかりの取り組み」ではない。「親としての学び、親になるための学びの推進」に対する「社会総がかりの取り組み」である。そして、この「学び」の内容が、結局は「乳幼児期の愛着形成」や「親心」や「親の保護能力」で「発達障害を予防、防止できる」という非科学的な内容である以上、社会にとって害悪しかもたらさない。
(民間有資格者の育成に対する支援)
第21条
親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する
「親学アドバイザー」というのは一般財団法人 親学推進協会による民間資格である。このサイト自体が「-親が変われば、子どもも変わる-」という言葉をキャッチフレーズにしており、この条例案のバックボーンとなっているようである。
お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 「親学」問題について、とりあえずのまとめ。では、この「親学」は「脳科学と称するものを主張の根拠にしており、その点において似非科学でもある」と分析し、「少なくとも発達障害ないし自閉症については、はるか30年以上前に息絶えたはずの古い誤った主張が、「脳科学」という現代的フレーバーで古さをカモフラージュしつつ、ある種の政治思想を伴って復古してきたものであり、思想的にはむしろ障害・障害者への差別・排除意識がある」という。
このようなエセ科学に基づく思想を普及する一「財団法人」の思想にのっとり、市がその民間資格をバックアップしようとしている。「ホメオパシーアドバイザーの資格取得を○○市が支援する」というのとまったく同レベルのことが、大阪市で維新の会議員によって提案されようとしているのである。
なお、親学アドバイザー資格を得るには、親学基礎講座をすべて修了(全4講座で13,000円(税込み、別途テキスト代1,680円))した上で、全6講座(25,000円(税込、認定審査料5,000円を含む。別途テキスト代1,680円))が必要となる。合計で4万円を超える。
エセ科学に基づく特定の財団法人の思想にのっとって条例案を出し、しかもその民間資格を支援する、と明記されたこの条例案を通そうとしているのである。もはや「維新」どころか「社会破壊活動」といわざるを得ない。
(「親守詩」実行委員会の設立による意識啓発)
第22条 親と子がともに育つ実践の場として、また、家族の絆を深める場として、親守詩実行委員会を設立して発表会等の催しの開催を支援し、意識啓発をおこなう
「親守詩」とは珍しい言葉である。わたしも初めて知った。ググってみれば、「こもりうた」に対する「おやもりうた」なのだそうだ。愛媛県松山市で生まれたもので、作った人は「明星大学の高橋史朗教授」だという。
高橋史朗教授は、一般財団法人・親学推進協会の理事長をつとめる人物である。元埼玉県教育委員長でもあり、かつて「新しい歴史教科書を考える会」の副会長をつとめたこともあった。親学推進協会を思想的に支えているのは高橋史朗教授ともいえる。過去の経歴はあえて問わない。わたしは「だれが言ったかではなく、何を言ったか」のみで批判するのがポリシーだからだ。そして、今、わたしはその主張そのものに反論している。
「親に対する気持ちを詩にしろ」と子供に強いるのは何とも気色悪い試みだが、これまでの実績としては、愛媛県松山市、香川県、奈良県、沖縄県八重山などで実施されてきているようである。いずれにしても、この条例案が高橋史朗教授ならびに親学推進協会と非常に深いつながりのもとで作られていることが、この条文から明らかとなる。
(家庭教育推進本部の設置と推進計画等の策定)
第23条
1項 首長直轄の部局として「家庭教育推進本部」を設置し、親としての学び、親になるための学び、発達障害の予防、防止に関する「家庭教育推進計画」を策定する 2項 「家庭教育推進計画」の実施、進捗状況については検証と公表をおこなう
最後に、これを市ではなく市長直轄の施策とせよ、という。つまり、橋下徹市長がこれらの事業を強力に推し進められる権限を与えよ、というわけだ。
検証するなら、まずはこの条例のバックボーンとなっている思想そのもののエセ科学性を検証するところから始めてほしいものである。
今回の条例案ならびにそのバックボーンとなっている親学思想は、器質性の要因によって引き起こされる「発達障害」を親の責任とし、それを子供の問題の解決策としているもので、完全なエセ科学である。いくら親の愛が深くても、いくら親の育て方に問題がなくても、発達障害の子供は一定確率で生まれうる。その発達障害を負った子供の親に対して、「育て方が悪い」「親心が足りない」「親の保護能力が衰退している」などと言い放つのは、人の心を持たない者による暴力となる。親というものは(特に母親というものは)「これで足りているのだろうか、まだ足りないのだろうか」と不安になるものだが、そこへ「親心が足りないから発達障害になるのです」などと言い放つような政策が採用される暗黒社会にならないことを心から願うものである。
この記事をアップした直後、橋下氏の以下のツイートを見た。
発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け愛情さえ注げば発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではないと思うという僕の考えを市議団長に伝えました。これからこの条例案について市議団内での議論が始まります。是非大阪維新の会市議団に様々なご意見をお寄せ下さい。
— 橋下徹さん (@t_ishin) 5月 3, 2012
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