《松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える 》はまぐまぐで発行されているメールマガジンです。

2009年4月アーカイブ

No.032:「点」としての出島、長崎中華街

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……江戸時代に日本は決して閉ざされていたわけではありませんでした。オランダを通じてヨーロッパの情勢も詳細に理解していましたし、蘭学も禁じられてはいませんでした。ただ、その外交・通商を幕府と辺境の大名が独占していたということです。

幕府がヨーロッパに向けて開いた小さな窓口、それが出島でした。

(もう一つ指摘できるのは、琉球もアイヌも当時は外国であったということです。国境というものが明確に意識されるようになるのは、ヨーロッパの帝国主義、近代的な定義による「国家」というものが生まれてからのことであり、日本では明治維新政府以降ということになります。)……

出島

No.031:県名と県庁所在地名が同じ県・違う県「賞罰的県名」

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「県名と県庁所在地名が同じか、違うか」について、一つの説があります。それは「明治維新の際に、官軍に従ったか、逆らったか」によって変わったというのです。……

この説はもともと、宮武外骨『府藩県制史』(昭和十六年発行)で唱えられた説です。宮武外骨の個人的な見解であって、政府側の資料が残っているわけではないという点では「一説」にとどまるものですが、これが根拠になって、賞罰的県名という考え方が定説化しているといえます。

というわけで、実際にその古書を購入して読んでみました。明治維新後の府・藩・県についての歴史資料をまとめたよい本です。……

No.030:結核療養の街・清瀬を歩く

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……埼玉県との境に位置する清瀬市は、日本でも多くの結核療養所が集中して建てられている「結核療養所の街」でした。東京府立清瀬病院を皮切りに、公営・民営の結核療養所が集まり、最終的には15の療養所を数えることとなりました。

ここでは俳人・石田波郷や、吉行淳之介が療養生活を送っていたことでも有名です。

今、結核のみの専門の療養所は残っていません。結核の治療法が変わり、結核が「薬を飲めば治る病」になって、療養所は役目を終えたといえます。しかし、あるものは廃院となり、あるものは一般病院となったとはいえ、結核の街の記憶が消えるわけではありません。

そこで、清瀬病院街のゲニウス・ロキを訪ねて歩いてみました。……

清瀬

No.029:川の跡の緑道を歩く

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……暗渠の上は、小道や緑道となっていることが多いようです。この緑道を歩くのは、非常に楽しいものです。……

下北沢緑道

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