猥褻風俗史 (歌謡・刊本・観物)

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このページは、宮武外骨著『猥褻風俗史』の後半、「歌謡」「刊本」「観物」「雑記」「自跋」の節を松永英明が現代語訳したものである。

歌謡

言霊のさきはふ国として、その言葉の優雅なところもあるが、『万葉集』に録された歌の中には、これを今日の俗語に直訳すれば、卑猥で聞くにたえないものがあるという。

下賤の歌謡は、古来の典籍中には多く存在しないようではあるが、口をもって伝えた各地の俗謡の中には、猥褻きわまりないものも多い。やや開明に近づいた文化・文政ごろの江戸市中においてすら、市民が大声で公然と謡っていたものには、卑猥のはなはだしいものがあった。

『青本年表』安永七年(1778)の項に「柿の暖簾(のれん)に豆屋と書いて松茸売りならいつでも這入(はい)らしゃんせノウ」とある流行俗謡のようなものは幾分婉曲の点もあるが、『式亭雑記』文化八年(1811)の項に「このごろの童謡いまいまし、足をからんで云々」とあるに至っては読むにたえざるものである。大阪においても猥褻俗謡の流行したことがしばしばであった。

また、毎年一月二日の早朝「よいよいよいとまかせ云々」という初荷引の呼び声のようなものは、醜陋の最も甚だしいことであったが、去る明治三十五年以来、警察官の厳命によって廃絶するに至った。

東京の童謡に「今日は二十八日、お尻の用心コー用心」ということがあるのは、裾をまくる猥褻行為の流行したことの名残であろうか。

編者が少壮のころ、「お竹さん云々」とか「一かけ二かけ三かけて云々[1]」とか、「大阪天満の真ん中で云々[2]」などという俗謡が関西地方一般に流行したことがあるが、近年は猥褻の俗謡を聞くことなく、わずかに宴会席上において「因州因幡の鳥取姫」の類を聞くにすぎない。これもまた開明の余光であろう。

刊本

猥褻の絵画は、いまだ絵画の形式を備えない時代において早くも「のしこし山」的なものが描かれていたかもしれないが、絵画として今日に伝来するものに、平安時代に鳥羽僧正と称せられた覚猷の筆になれる戯画の存在するのを見れば、その古いことがわかる。

しかし、ここで言いたいのは、その肉筆の図画または文書ではなく、公然刊行された版本のことである。そして、文字版刻のことはとおく奈良時代に始まったといえども、諸種の文書図画を出版するに至ったのは、徳川幕府初期のことであった。

寛永十三年(1636)出版の『昨日は今日の物語』は挿絵のない落語本であるが、全篇の過半は猥褻談である。編者が実見した古版本の中で、最も古い猥褻本というべきものはこれである。

次に猥褻絵本が初めて刊行されたのは、明暦元年(1655)の『楽事秘伝抄』であろう。同書跋文に、

右この一札、大明にて絵図に描いて相まじわる本、我が朝に来たといえども、その旨趣は深淵雄飛であって浅学の徒は行ないがたい。それゆえにその調子はまことに卑俗であるといえども、明朝の文字を大和言葉にやわらげ、人をして云々(中略)これただ天真の玉宝をたもたしめ、寿命をながくひさしくならしめんとのみ
  明暦元年七月下旬開版

とあるのをみても、この種の版本の嚆矢であるように察せられる。柳亭種彦著『好色本目録』には『修身演義』(別名『人間楽事』)を春画刻本の始めであろうと記しているが、同書の版行年代は不詳である。

これより寛文(1661~1673)後に至って盛んに刊行され、貞享・元禄(1684~1704)のころは最も大いに流行した。当時はこの種の版本の売買を禁ずる法令もなかったため、書肆は公然と店頭に看板を掲げて販売していた。その証拠として元禄元年(1688)出版の『好色変通占(こうしょくへんつううらない)』の序文がある。

たらふくたらふくたらふくたんたらふく酒によふてうつらうつら世に多き物を思ふに道路に鉢開きの僧尼あり辻に想嫁あり門に犬の遣繰あり書林に好色の看板あり是皆色ならぬはなし云々 于時貞享五年三月吉辰

とある。しかし、この好色本というのには二種類ある。単に情話を叙するのみで、極端な形容を描出していないものと、全篇卑猥のことのみで満ちているものとの二種類があった。『好色一代男』のようなものは前者であって、『好色京紅(こうしょくきょうのくれない)』のようなものは後者である。今日からいえばともに風俗壊乱の淫書である。この淫書を公然と売買していただけではなく、著画者および出版書肆までも巻末に実名を署名して恥じなかった。今、その二、三の例を挙げれば、

  • 延宝七年出版の『恋四十八手』の巻末には、絵師 菱川師宣図 江戸大伝馬町三丁目 鶴屋喜右衛門開板
  • 古山師重画の『春雨草子』には、大和絵師 古山太郎兵衛図 松屋伊兵衛板行
  • 宝永二年の出版『好色花すすき』には、絵師 吉田半兵衛 京  柏屋三郎兵衛板

とある類である。

徳川幕府が書籍版行取締の令を下したのは延宝元年(1673)が初めてであるが、その令は単に出版届けをなすべしというに過ぎなかった。猥褻図書の出版を禁じたのは、享保七年(1722)に

唯今迄有来候板行物之内好色本之類は風俗之為にも不宜儀に候間段々相改絶板可申付候事(今までなされてきた版行もののうち、好色本のたぐいは風俗のためにも宜しからぬため、改めて絶版を申しつける)

というのが初めてである。しかし、前記第一種の好色本は、その「好色」の二字を削って改題しただけで依然として店頭に並べ立て、第二種のようなものはひそかに売買することとなっただけのことであった。出版者を罰せず、著画者を罰することもなかったので、享保後に密売を主として出版された絵本および一枚版行絵には、鈴木春信、湖龍齋、勝川春章、鳥居清長、鳥文齋栄之など署名したものが多くある。また、京の西川祐信、大阪の月岡雪亭、寺沢昌二らもまたしかりである。

寛政二年(1790)幕府が絵本絵草紙取締の厳令を発した後は、一切署名しないこととなったが、文化・文政ごろから天保・嘉永ごろに至る浮世絵派全盛の時代には、いずれも怪しげな匿名を署名することになった。(「此花」第十三枝にその匿名を列記してある)

幕府は遊里に関する「菎蒻本(こんにゃくぼん)」というものを、風教に害ありとして禁止したときもあったが、春画・好色本の密売は常に黙過したようである。それは松平春岳公すらひそかに春画を出版させたというようなことの虚実はともかく、元禄以後の裏面風俗に、この淫書を女子嫁入りの一具として必ず持参する習慣があった。武家には勝絵と称してこれを甲冑櫃に収めることがあったためであろうか。

しかし、また公然と刊行した猥褻本であっても、ことごとく禁止されたのではない。猥褻きわまりない川柳本・落語本を始め、かの平賀鳩溪(平賀源内)の戯作である『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』は公然と刊行されたものであったが、絶版の命令は受けなかった。同著『長枕褥合戦(ながまくらしとねかっせん)』のごときは、公刊の冊子奥付に「長枕褥合戦(ながまくらしとねかっせん)小一冊 浄瑠璃にして下がかりの笑ひ草腹筋をよるおかしき事を書けり」との広告文を公然掲出するなどの類が多かった。

また、公刊の図書で全篇卑猥を主とせず、ただある一部分にのみ極端な文章や挿絵のあるものは、少しもとがめを受けなかった。元禄三年出版の『古今著聞集』中の好色卑猥談、また近くは歌川広景の署名があり版元横山町三丁目辻岡屋と明記された『江戸名所道外尽(えどめいしょどうげづくし)』五十枚中の一枚、浅草歳の市の絵[3]のようなものがある。この絵は、前節にも述べた男勢の大張形を堂内にて取り落とした戯画であるが、絵草紙屋は公然とこれを店頭に掲げて販売し、観る者もまた一笑するだけでこれをとがめる者はいなかったという。

また、専門的に記述したものなどは、学者や役人であっても、これを卑陋とは見なかったようだ。享保六年の公刊、林守篤の著『画筌(がせん)』第五巻には春画の描法を細記し、天保三年の公刊『陰陽神石図』は陰石陽石の真図を集めたものであるが、国学者・平田鉄胤の序文を添え、末尾には下総国香取郡松沢村宮負定雄謹述と署名するような例があるのを見ればわかる。

わたしは諸種の考古資料として古来の図書を収集し、また浮世絵研究、軟文学研究に伴う見聞もある。したがって、秘密に出版した淫書については言うべきことも多く、知るところも多いといえども、この著は公然の風俗を叙するものであるから、今ここには細述しない。

その秘密刊本の最も盛んに行なわれたのは、文化ごろから嘉永ごろに至る浮世絵派全盛時代であって、その刊本はいわゆる汗牛充棟ただならざる大数であろうが、天下の大勢が革命騒ぎとなった維新前においては柔弱な淫書にふける者も少なく、また明治二年六月、政府が新たに出版条例を制定して猥褻物禁止の令を設けたため、その秘密刊行はまれとなった。

しかし、明治十年以後、写真術・銅版術などが広く行なわれるとともに、その技術による猥褻のものが出るに至った。しかし、これは極めて少数であったようだ。

明治二十七、八年の日清交戦、同三十七、八年の日露交戦の際には、軍隊向けとして盛んに粗画の出版が行なわれたけれども、その筋の検挙が厳しかったため、交戦中途にして廃絶するに至った。現今においてはほとんどこの新出版はないようである。

ひるがえって、公刊物上における猥褻の文書・図画を考究すると、明治初年から二十年ごろまでの間に発行した新聞・雑誌・図書における猥褻記事の取締は寛大であって、卑陋なるもの・淫靡なるものが多かったが、その発売禁止、発行者処罰などは少なかった。しかし、憲政実施後は次第に厳重となり、明治三十年以後はますますその度を高めた。自然主義というものの輸入の後は、政府者の処置は過敏に失すと評されるほど取締方が峻烈となって、近年は淫風助長のきらいのある文書・図画は次第に閉塞するに至った。これは法律制裁の結果であろうが、また人文進歩のため、淫猥なことを歓迎する者が少なくなったものとみるべきである。

わたしも往年(明治三十四年~明治四十二年)「滑稽新聞」紙上で時弊に投じて記述した文書・図画のため、「風俗壊乱」と認められて重罰に処せられたこと十数回である。今にしてこれを思えば、わたしもまた『猥褻風俗史』の材料たる大立者の一人であろう。

観物(みせもの)

『嬉遊笑覧』にいう。「禽獣そのほか片輪の人などを見せ物とすることは、歌舞伎よりも前であっただろうが、物に記したのは少ない。〔東海道名所記〕江戸木挽町のところ、うそかまことか異類異形のものを見せる。〔洛陽集〕に、君が代や鬼の生捕(いけどり)初芝居(正武)、これ何にしても珍しいものを観場(みせもの)に出したのである。〔伽羅女〕大阪生玉のところ、何事もこの津の大きさ、猿の狂言、鬼の生捕、銭はもどりと看板を見廻る、などという」とある。

これによれば、見せ物の起源は不詳であるが、古書に見えるのは万治(1658~1661)ごろを始めとするようである。しかし、猥褻の見せ物を始めたのは、それよりも後のことであろうか。宝永七年(1710)出版の『御入部伽羅女』巻の五に、

猿の狂言、鬼の生け捕り、銭はもどりと看板を見まわるうちに、大きな枕絵書き、女は振り袖、生国は備後の福山、れきれきなる人の娘、参宮の道でし損ない、男は二十五、見ぬことはなしにならずと、えいやえいやの大見物。またまんだらよりひときわすぐれ若い女中のながめにあかず。あるいは歴々、裄(かずき=かぶりもの)の娘子。お袋らしいのが先に立って「こんなことも見たがよい」と、「助兵衛」という。手代くるめに差し合いもいとわばこそ。宇八弥四郎もこの見せ物は咄の種とむりに大臣を誘って見れば、竪島(たてじま)の大夜着(大きな夜具)へ、むすめと男を上にして、片隅に参宮の手土産見る女中の分、いずれも上気しないものはなく、いやだといいながら見返す目元。これを思えば、都にまさってずいぶんといたずら云々

『宝永千載記』伊勢参宮の条に、「もし同者同志ふぎあれば、戸板にふたり乗せながらその国に連れ回り、一家一門寄り集まり、様々に笑い罵って後、別座すること、むかしは折節この類もあったという」とある。世のことわざにも、伊勢参宮の際、途中で男女交接すれば両体分離しないということから、右のような見せ物を香具師がなしたものであろう。『後入部伽羅女』は小説であるが、書中、梅川忠兵衛の記事もあって、その記載は事実に近い。とすれば、この見せ物も当時あったことと思われる。

これよりもなおいっそう醜態であるのは、男女生殖器の異形なものを見せ物としたことである。今現存する半紙一枚の版摺物に「野州都賀郡池之森村百姓治兵衛悴盲人長悦、当年廿七歳、稀代の大○○云々」と題して、その肖像めいたものを写出している。また別の一葉には、「生国越後新潟郡姉沢村源右衛門娘おしゅん、廿一歳、○○長云々」と題して同じく醜態の画を描出している。これは昔、江戸両国における見せ物の図であって、当時来観者に配布したものであると聞いた。はじめはこれを信じず、誰かの戯れごとであろうと思っていたが、その後、『鍋島百物語』という写本に以下の記事があるのを見て、これが事実であることを知った。

天保六年乙未の年、下野より長悦という盲人(めくら)が江戸に来た。馬喰町旅宿にやどっていたが、その人の○○尋常にすぐれて大きく、○を引き延ばせばあごの下までとどき、○たる時に長さ九寸五分(約28.8cm)あった。○○すれば一倍して一尺八寸二分(約55cm)という。いにしえの道鏡法師もどうしてこれに及ぼうか、と評判が広まって、ほどなく領国にて見せ物にしたものであるといわれていた。長悦の故郷の親元から御勘定奉行内藤隼人正へ訴え出たのは、野州都賀郡池の森[4]百姓金左衛門悴金兵衛、同所栃木町の次郎、同町紋次郎。その申し立てには、長悦ははじめ茂十郎と称し、至っての愚か者で、その上生来の○○すぐれて大きく、成長の後に妻を迎えることが難しかった。男女の交わりをしないためであろうか、病身にて農業もできずにいたところ、盲目になったので、山川検校の弟子となり、長悦と改名した。同郡鹿沼宿座頭仲間に入り、按摩を稽古するうちに、両親とも亡くなった。按摩を業とし、近郷村々の祝儀の割合を受け取り、その日を暮らしていたところ、永くわずらったため、叔父の初五郎方に引き取り、薬用治療して快気した。去る午年二月七日、初五郎が外出して留守のあいだに長悦が行方知れずになり、驚いてあちこちに尋ねた。同村金兵衛がほか一人と長悦を馬に乗せて連れて行ったという者がいた。そこで金兵衛はどこへ連れて行ったのかと尋ねたところ、栃木町家具商人紋次郎方へ按摩に使わしたという。紋次郎に会って子細を問いただそうと思ったけれども、出商人で居所わからず。そのうち、紋次郎は長悦を連れ帰り、栃木町にて見せ物とし、鳴り物に合わせてかの○○を○○させ、腹太鼓を打たせ、また○○の先を口でくわえ、自在にはたらかせ、そのほか様々な曲芸をさせて木戸銭を取り、人に見せていた。それにより、近在近郷から見に行く者が多かった。初五郎はこれを見つけて驚き、かつ立腹し、紋次郎へ様子を尋ねると、紋次郎は口入れにて金兵衛より買い受けたということで取り合おうとしなかった。この訳は、金兵衛・紋次郎・住三郎の三人の者たちが、長悦が愚かであるのにつけ込んで、一同なれ合って人買い同様のことをなし、見せ物に出したものであると残念に思われる。初五郎は病気により、代わりに弥五郎という者が飯田町美濃屋五郎太夫に旅宿していた三人の者を相手取って、長悦を戻し、外聞をすすごうと申し出た。留役高柳小三郎掛りにて、これは容易ならざる一件により、追って吟味あるべしとのことであった。このとき長悦二十七歳であった。
越後国新潟佐和村源右衛門という者の娘・俊、今年二十一歳にて、生まれつき愚かであって、しかも○○の○○の長いことは尋常ではなく、引き延ばして結ぶことができた。この女、ついに山師の手に渡り、両国広小路にて見せ物となったが、それよりあちこちで見せ物となった。

また、異形ではなくても、陰部を見せ物とすることも行なわれた。『守貞漫稿』(近世風俗史)天保末年ごろの記述、大阪南今宮村戎神社詣での項に、

官倉辺の野外にむしろ張りの小屋を造り、婦女○○を出し、竹管で観る者がこれを吹く。観場が二、三か所あることが好例である。
陰門を見せ物とすること、大阪はこの両日(正月九日・十日)のみ、江戸は両国橋東の小屋にて年中これを行なっている。

とある。また、同書見世物の項にも、「大阪正月十日戎には、難波官倉辺の野辺に莚囲(むしろかこい)の小屋を造り、中央に床を置き、若い女に紅粉を化粧させ、派手な古褂(ふるしかけ)を着せ、古い腰掛けに腰掛けさせ、女の背腰以下は板壁で、木戸外から女の背を見せ、髪飾り多く褂の裾を右の板壁に掛け、美女を描いた看板を木戸上にかけ、八文ばかりの銭を取り、女の裾を開いて○○をあらわし、竹筒をもってこれを吹くとき、○を左右にふる。衆人のうち、これを吹いて笑わない者には賞を出す。江戸は両国橋東に年中一、二場ある。小屋と女の出で立ちは同じ。あるいは片輪者、因果娘、蛇遣いのたぐい、もっぱら○○をさらして見世物とする。これまた八文」とある。

また、右とは少し異なったものもあった。明治十七年、四壁庵茂蔦著『忘れ残り』(続燕石十種第一巻)に「可恥見世物(はずべきみせもの)」と題して、

両国または山下に小屋をかけて、若い女が前をはだけ、かの所をあらわす。また一人は赤い切れにて○○の形をつくり、竹の先へつけ、かの所を突くまねをしながら、「やれつけそれつけ、やれつけそれつけ」と言って踊る。女は「当てて見るなら当ててんか」と言って、三味線に囃子に合わせて腰を動かして見せる。または○○に蛇が入ったとして見せるものもある。また○○○○ふたなりなどと様々に名を付けて見せるものが多い。小児といえども隠すべきものを、多くの人にさらして平然としているのは、実に嘆息すべきことである。

このほか、同山下で興行した男女相撲というのもまた極めて卑猥なものであったという。

このような無恥の醜態を公然と演じさせて、官府がこれをとがめなかったのは、いわゆる時代の反映と見るべきだ。それは風教上における法律制裁は、もともと社会の道徳心に基づくものだからである。そしてこの蛮風は明治四、五年ごろまで継続したが、ようやく目覚め、明治五年十一月ハップの違式註違条例中に「第二十五条、男女相撲並に蛇遣い其他醜躰を見世物に出す者」というのを加えて、これを禁止した。

このような醜態の公演は、今後の文明社会においては、夢想だにもする人はなくなるだろう。

雑記

以上の記述のほか、猥褻の行為または物品といえるものは、裸踊り、演劇の濡れ場、寄席の落語、男女混浴の湯屋、新粉細工の男女、博多焼の人形、九谷焼の盃、便所の落書きなど、なお多いといえども、これらは今ここに項を分けて記述するほどのことでもない。また、公然の風俗とはみえないものもある。ただ、特に記さねばならないのは、猥褻の俚諺と四ツ目屋のことである。

昔、某藩では姦通者を罰する法として、姦夫・姦婦を裸体として竹の柵の中に入れ、豆を地上に散布してこれを拾わせ、そして見物人に嘲笑させるという恥辱を加えたという。しかし、これは古記録に載っていることではなく、編者が幼少のころ聞いた俗伝の談なので、その虚実は知りがたい。

俚諺(りげん)

俚諺(俗間のことわざ)は、無学者の経典というべきものなので、まだ文学の開けなかった時代から行なわれたようである。したがって、卑陋なことが多く、猥褻なことが多い。「相模女に何見せな」とか「医者何八寸坊主何九寸[5]」とか「女にふんどしで何々じゃ[6]」というようなのは、近世紀のものだろうが、往古には往古の俚諺が多かったのである。平安時代には文芸上の著作に俚諺の引用を避けたといえるが、卑猥なことも多かったのを察すべきである。文運の進歩にともなって言語が増加し、言語の増加にしたがって俚諺が多くなった。友人某の編纂した『古今卑猥語集』を一見するに、その数三百以上ある。実に驚くべきことである。

しかし、今は最下流の愚民がこれを口にするだけであって、文化の普及はこれらの鄙語も次第に退却させつつある。

四目屋(四ツ目屋、よつめや)

四目屋の名を知る人で、それが淫薬・淫具類の発売元であることを知らない人はないだろう。実に四目屋の名は閨房猥褻品の代名詞となっている。安永五年の版本『滑稽末摘花』に、「馬鹿も重宝四ツ目屋を買にやり」とか「四ツ目屋を落としておいたべらぼうめ」などとあることからもわかる。

この四ツ目屋の起源は未詳だが、長命丸の名は天文九年・荒木田守武の『独吟千句』中にもある。しかし、当時はまだ四ツ目屋ではなく、『芸余耳語』にいう万春堂というのが発売元の名であったようだ。

正徳ころの版本『遊君女郎花』には「四ツ目屋権右衛門」の名がある。しかし、これは吉原女郎屋の名である。

その後、安永二年の吉原細見『這婥観玉盤(このふみづき)』には、京町一丁目に四ツ目屋善蔵、四ツ目屋宇兵衛の二軒があることを記している。この四ツ目屋が、両国の四ツ目屋に何らかの関係があるだろうと思われる。青楼と淫薬屋とでその名が同じというのは、因縁があるのではないか。

石川雅望の文化ごろの著『都の手ぶり』にいう。

佐々木の家の幕じるしかと思えるような紋をつけた軒がある。薬を売っているのか、長命帆柱など金字に彩った札をかけてある。長命とは不死の薬であろう。帆柱とは何であろうか。もしくは風の薬をいったなぞなぞだろうか。このような難しげな薬さえ、それを心得て買う人がいるからこそ、生業として世をわたっているのだろうと、興味深いことである。

模倣かあるいは分店かは不詳だが、大阪新町にも古くからこの四目屋があった。文化十二年の版本『狂歌夜光玉(きょうかやこうのたま)』に、長命丸店と題して「床の海新町はしの帆かけ船、長命まるとこれをいふなり」とある。

上は大奥の女中から、下は市井の淫蕩漢にいたるまでを常客としていたこの四目屋は、明治の代となってもなお存在し、十二、三年前、東京両国には二軒あって、一つは化粧品店を専業とし、一つは普通売薬をも売っていた。大阪は淫薬淫具専門店で、見るからに怪しげな行灯看板を掲げて公然と営業し、文明の世にもなおこのような醜業を公許しておくかと識者の非難もあったが、一昨年、その筋の検挙によって売品没収の上、重罰に処せられ、今はまったく閉塞したようである。

結論

以上数節に記述したところによれば、公然の猥褻風俗は、明治の文明世界になって、次第に衰滅するに至ったことがわかる。風教上における法律制裁はすなわち社会道徳の発揚であることはすでに述べた。要するに、精神的文明とは、ある一面からいえば、羞恥感の発達を意味するにすぎず、自ずから文明国民と称する輩が、多衆公開の席上において、男女相抱擁してダンスといい、唇舌相接触してキッスと称して平然としているようなのは、実に無恥の蛮風というほかにはない。

自跋

厳格もしくは高雅を仮装している学者・宗教家は、男女生殖に関することを説かずというが、わたしはそれが何の故であるかを解することができない。わたしはむしろこれを偽君子(ぎくんし)と言おう。

わたしのこの著は、現代の偽君子に示そうとするのではない。

わたしは、古人の著書によって、日夜趣味と実益を受けつつある身だ。親の恩を子に返すの類で、わたしもまた何らか後生に裨益を与えるべき単行の著書を残しておきたいのである。

というのが偽らざるわたしの胸懐であって、いわゆる知己を後世に求めようとするものである。

今はあたかも『猥褻風俗史』公刊の好時期であると信ずる。猥褻の風俗ほとんど滅絶した今日、これを記述して和紙和装の永久的刊本とする者がなければどうであろうか。古書は次第に隠滅し、老人は日々に逝く。後世の人は世が野蛮から文明に進化した一経路があったことがわからなくなるかもしれない。これは、高雅に説いた厳格な自跋である。

訳注

  1. 一かけ二かけ三かけて、四かけ五かけて橋をかけ、橋のらんかん腰おろし、はるか向こうを眺むれば、十七、八の姉さんが、花や線香手に持って、姉さんどこゆくたずねれば、わたしは九州鹿児島の、西郷隆盛娘です、明治十年十月に、切腹なされた父上の、お墓参りにまいります、お墓の前に手を合わせ、なみだぶつと唱えます、もしもこの子が男なら、士官学校卒業し、梅にうぐいすとまらせて、ホーホーホケキョと鳴かせます
  2. 大阪天満の真ん中で、馬からさかさにおちたとき、こんな弱い武士見たことない、鼻紙三帖ただ捨てた。――大塩平八郎の乱で出陣した二人の町奉行が落馬した様をうたっている。
  3. 山口県立萩美術館・浦上記念館 作品番号U03186 江戸名所道外尽 五十終 浅草歳の市
  4. 野州都賀郡池之森村:栃木県鹿沼市池ノ森。
  5. 医者魔羅八寸坊主魔羅九寸。医者と坊主にはすき物が多い。
  6. 女にふんどしで、食い込む一方じゃ。赤字続きのこと。