売春婦異名集 売春考

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「売春考」(賣春考)は、宮武外骨『売春婦異名集 全』(大正十年十月二十日発行・大正十二年六月再版、半狂堂)の巻末に附録として収録された一文である。この文章を松永英明が現代語訳して以下に全文掲載する。なお、この現代語訳は宮武外骨の書いた内容をそのまま伝えるものであり、訳者がその内容について必ずしも賛同・同意しているわけではない。

(附録)

この『売春考』の一編は、わたしが今春『解放』という雑誌の編集者から頼まれて、二、三日間に書いた略記ものである。詳しいことは他日別著にて公刊したいと思っている。

売春考

母系制度が劣敗した後の女は、男の奴隷または玩弄物になって、常に略奪売買などの対象物にされたのである。したがって、後世の財産結婚、門閥結婚、落籍結婚、あるいは政略結婚などで成立した「妻」というものは、その自由意志に基づくのではなく、男に都合のよい強制配偶の奴隷で、今の貴婦人と呼ばれている衣装人形の連中も一種の売春婦にすぎないのである。

しかし、ここでいうところの「売春」とは、右のような広義の売春ではなく、普通一般の解釈と同じもので、商品たる女が男から代償を得て暫時一身を放置する虚偽の生殖行為を業とする者をいうのである。

「考」とは我国史籍の記述によって、その発生・進化などの経路を歴叙することである。「売春考」はすなわち、「一夜妻の史論」である。

サブルコの時代

『嗚呼売淫国』とは往年ある人がわが日本を罵った標語であるが[1]、古今内外を通じて売淫国でない国はあるまい。世界各国の歴史にもとめれば、二千年の昔、あるいは三千年前に売春の行なわれたことが明記されている。

わが日本においても、有史以前すでに行なわれていたに違いない。岩戸舞の名物女、神々の前で陰部露出のイミジキ振る舞いをされた天鈿女命(あめのうずめのみこと)というのは、今の芸妓・娼妓の二枚鑑札同様で、白拍子・兼・遊女の祖であろうとの憶説もあるが、確固たる遊女として史実に表われているのは天智天皇時代(千二百五十年前)である。

『万葉集』の「婦」、これを後世「遊女」と略称するに至ったが、「遊行女婦」の訓はサブルコ(佐夫流児)または「うかれめ」である。「サブルコ」は「戯れ女」の意味、「うかれめ」は「心の浮いた女」の意味である。後の学者はこの「遊行女婦」と肩書きした者のみを遊女と認めているが、わたしは『万葉集』前半所載の「いらつめ」または「をとめ」(郎女、女郎、娘子、嬢子などと書かれている)とあるのは「遊女」である、と断定するのである。すなわち、「遊行女婦」の名が起こる前の「いらつめ」「をとめ」の名称には、遊女も含むというのである。

後の学者は「イラツメ(淑女)」「ヲトメ(娘子)」の敬称を職業婦の呼称に使ったとは思わないのであろうが、この時代の「いらつめ」「をとめ」は敬称でなく、「いらつめ」は「色之女(イロツメ)」、「をとめ」は「小之女(ヲツメ)」であって、男称の「色之子(イラツコ)」「小之子(ヲノコ)」の対であり、要は「愛する女」という意味である。たとえこの二語を敬称であるとしても、後世「遊女」を「きみ」と称し、「流れの君」「浮かれ君」「逗子君」「立君」「辻君」「格子の君」「遊君」などの敬称もあるのと比べれば不思議ではない。

遊女を賤業婦であると卑しむのは後世のことである。だからわたしは、『万葉集』第二巻所載の石川郎女(いしかわのいらつめ)をはじめとして、巨勢郎女(こせのいらつめ)、依羅娘子(いらのいらつめ)、坂上郎女、阿部郎女などはことごとく遊女であると見るのである。

その事実の証明としては、第一の石川郎女のごときは、久米禅師、大津皇子ほか多数のなじみ男があるというのに、さらに押しかけ売春として大伴宿禰田主の家に行き、それをハネられたので、「風流男(みやびを)と吾は聞けるを宿貸さず、吾を帰せり をぞ(愚鈍)の風流男」と詠んで、押し売りに応じない男を馬鹿者と罵っている。これこそ放浪的売春の遊行女婦サブルコ、うかれめでなくて何であろうか、と言いたいのである。

古い『平民新聞』に、婦人の独身生活という思想が売淫行為を助成するという例として下田歌子を挙げた。彼女は名誉と権勢を得るために、伊藤博文、井上馨、土方久元、山県有朋、田中光顕らに淫を売り、さらに勤めの鬱散としての情夫には黒田長成、秋山定輔、望月小太郎、林田亀太郎、三島通良らがあった、と掲載したが、これを事実とすれば、石川郎女は下田歌子のような女であって、本職の遊行女婦ではあるまいとわたしに語った友もある。しかし、奈良時代前後の遊行女婦は紳士閥の淫奔娘であって、賤家の出でなく、生活のための売春でもなく、当時の名門権勢家に近づくことを名誉としての行為で、物品の報償を唯一の目的としたのではなかった。とすれば石川郎女には、下田歌子のような女子教育というような本職はなく、また定まる夫もない独身生活者で、まったくの遊行女婦であったのである。

次に身を老嬢(オールドミス)で終わった坂上郎女などは和歌の達人として数十種の名歌を残しているが、その歌の過半は男たらしの挑発的呼び出し状である。このほか、阿部郎女、紀郎女、娘子児島の歌などもみな同型のものである。ある学者は『万葉集』所載の歌を評して、真率なる思想の流露であると言ったが、わたしは、同集にある数百種の歌は、淫奔なる遊行女婦が男をあざむき翻弄した「虚偽の恋文」にほかならないものと信ずるのである。

そして、この時代になぜこのような売春婦が排出したかというと、この種の売春婦はこの時代に初めて発生したのではなく、すでに上代から行なわれていたもので、虚偽恋愛的な和歌も盛んに贈答したのであろうが、ただその記録がないだけで、おそくとも人皇時代の当初からすでに行なわれていたものであろう。

男子専横の極み、女子を奴隷扱いにし、物品扱いにし、一方階級制度を樹立して、その一部の上級者が労役を卑しんだ結果、職業婦人たることを好まない淫奔女子、あるいは強制服従を快しとしない新しい女どもが、男を翻弄すべく、その美貌と言葉を看板にして愉快な放縦生活をするに至るのは、当然の帰着であらねばならない。

これに加えて、この時代から鎌倉時代ごろまでの社会道徳は、個人の独占に属しない女の放縦はとがめることなく、むしろ上流者の遊戯物として必要視されていたことは、遊行女婦として尊貴の顕門にも出入りできた一事を見ても明らかである。

それでは、この時代には、貧のための売春はなかったか否か。男が女を手なずけようとする手段として、女に物品を贈るとか、労力を貸すとか、歓心を買ったり、慰籍のために、雄鶏がよいエサを雌鶏に与えて誘うがごとき報償を出すことは、女子中心の時代から行なわれていたのであるが、男子専制の時代になっても、なおその習性が失せないので、下等な石川郎女が各所に散在していたに違いないと思う。また、仏教の輸入以来、僧侶が多くでき、その僧侶の妻帯を禁じたので、各所に隠し妻である妾商売の女も増加し、よって一夜妻の発生も必要となったであろう。

流れの君と白拍子の時代

「いらつめ」「をとめ」の汎称名詞から特殊な専門名詞に変わったサブルコ遊行女婦とは、浮浪的行商淫婦、すなわち押しかけ売春婦の意味であるが、平安時代になってからは、いつしかその遊女が一定の場所に常住して行旅の客を捉えることになった。

川尻、江口、神崎、蟹島、室、高砂など、船舶の出入りが頻繁な地、国司巡使や月卿雲客(公卿と殿上人)の往来の多い渡津に居を構えた船饅頭、朝妻舟、いわゆる「流れの君」がそれである。しかし、この時代に遊女すべてが渡津に集まったのではない。都会および各地の宿駅には従来のウカレメが存在していたのであるが、それはその土地限りの勢力であった。

顕門貴紳の多くがみな「流れの君」を愛するに至ったことは、『大和物語』や『大鏡』所載の亭子の帝(宇多天皇)が河尻の遊女白を召し寄せられたことや、同じ遊女の「大江玉淵の娘」に袿衣袴(うちきはかま)などを賜ったことで明らかである。(その記事の一節「ていじのみかど鳥養の院に御座にけり、例のごと御遊びあり、此わたりのうかれめ共あまたまゐりて侍らふ中に、音おもしろくよしある者が侍りやと問はせ給ふに、遊女ばらの申すやう、大江の玉淵が娘といふものなん、珍しうまゐりて侍ると申しければ」云々とある)

また、この後、太政大臣・藤原伊通が川尻の遊女・加禰(かね)の方へ通ったことや、関白・藤原道長が川尻の遊女・小観音を愛したことや、宇治大納言・藤原頼通が江口の遊女・中君を愛したことや、その他月卿雲客が神崎に遊び蟹島に遊んだ事実が旧記にあるので、「流れの君」の全盛が察せられる。

なお、『松屋筆記』に抜粋されている大江匡房の遊女記(原漢文)というのによると、神崎の項に「門を比し戸を連ねて、人家絶えることなし。倡女は群をなし、扁舟に棹して旅舶に着き、もって枕席をすすめる。声は渓雲をとどめ、韻は水風にひるがえる。経過の人、家を忘れないものはない。洲蘆浪花釣翁高客、舳艪あい連なってほとんど水なきがごとし。けだし天下第一の楽地なり。……みなこれ倶尸羅(くしら=ホトトギス)の再誕、衣通姫(そとおりひめ)の後身である。上は卿相より下は黎庶に及ぶまで、牀第(寝室)に接して慈愛を施さないものはない」とある。また、枕席の報償物を分配する項には、「所得のもの、これを団手という。均分のときになれば、慮恥の心は去り、忿厲おこり、大小のいさかいは闘乱そのものであり、ある者は麁絹尺寸を切り、ある者は米を分かつこと斗升、けだしまた陣平分肉の法あり」云々とあるが、その艶冶(なまめいて美しく)嬌態(色っぽい様子)の美貌に似ず、物貨争奪のいやしい状況は察するに余りある。

ここに至って、異性籠絡・貴紳翻弄の名誉を主としたイラツメ・サブルコの正体は次第に失せて、その報償物件を主とするようになったことが明らかである。やがて抱主占有の商品制度に変化する基礎を形成したものと見ねばならない。言葉をかえて言うならば、第三者の囚われ者になる可憐な少女が増加するようになったのは、この時代であろうと思うのである。

そしてまた、このように「流れ者」が全盛を極めるに至った原因は種々あるが、要は当時、上流の風俗が乱れて『伊勢物語』や『源氏物語』の題材にされたほど淫蕩淫靡に陥っていた時代の産物である。とすれば、遊女も顕門貴紳の嗜好に迎合すべく、歌を詠み、舞曲を巧みにする者であったが、だんだん売春を専門とする傾向を生じてきた「流れの君」の末路は、一方に舞曲を本意とする「白拍子」という売春婦を発生させることとなった。

白拍子は鳥羽天皇の永久三年(1115年)に「島の千歳(せんざい)」と「和歌の前」が舞い始めた曲名から出た舞妓の名称で、磯の禅師(静御前の母)が元祖であるという説もある。その服装は白の水干に立烏帽子で白鞘巻の太刀をおびたものであるが、酒宴の席にはべって座興を助ける特殊な職業婦人としてその独立を保ちがたいのは当然で、酔客の要求に余儀なくされて一種の売春婦に化したのである。

それで、後鳥羽天皇と亀菊、平清盛と祇王・祇女、源義経と静御前のような関係をも生ずるに至ったのであるが、この白拍子はあまり永続せず、源平時代の後はまったく廃滅に帰してしまった。そして、社会道徳もいささか進歩したので、上臈が女郎になるということも、この時代の後は次第に少なくなったのである。

クグツメの時代

鎌倉時代になってからは、諸国にクグツメ(傀儡女)という宿場女郎が盛んに行なわれることになった。これは従来の土娼(下等売春婦)の発達したもので、それに流れの君や白拍子などの変形も加わったのである。

この土娼が発達したのは、これ以前に長者という娼業専門の資本家ができ、人買という女子仲買の専業者ができて狩り出しに努めたのと、一方には戦敗者の遺族が衣食に窮して堕落し、戦乱後の不景気と人情の軽薄化とで娘を売る親が増加したなどが原因であるらしい。

そして、関西と鎌倉との交通も頻繁になったので、道中の無聊を慰めるべき施設の必要が増大したことなどがあいまって、その繁盛を助成したものとみるのが正当であろう。

こうして、この時代に全国各地の宿駅には売春婦のないところはないようになり、ことに東海道中の各宿駅には、舞曲兼業の上妓から、飯盛兼業の下妓に至るまで、貴賤旅客の要求に応ずべき設備が充分であった。その中でも、鎌倉幕府に近い相模の各宿駅、片瀬・手越・黄瀬川・腰越・稲村ヶ崎・小磯・大磯・宿河原・化粧坂などには立派な娼家があって、源頼家、工藤祐経・祐成などの関係で、手越の少将、黄瀬川の亀鶴、大磯の虎御前、化粧坂の愛寿などという名妓は後世にも知られるようになった。

このように宿駅の土娼が盛んになったのは、無論、交通旅客が多くなったためであるが、また一面にはかれこれの戦争が絶えなかったので、陣中に武将が売女を引き入れたこと、「妓者待軍士無妻者(妓女は妻のない兵士を待つ)」で兵卒が下等娼婦を買いに行ったこと、また平時には武士が狩りに出てその宿泊中の遊興が豪奢に行なわれたなどで、いっそう土娼を盛んなものとしたのである。そこで遊女の総論を裁決させる「遊女別当」という官職もでき、芸能あるものを選び置いて、召に応ずべしとの命令をも発するに至ったのである。

そして、このクグツメ時代は、奴隷制度のいよいよ完備したものであって、長者という抱え主の権力は強大であり、娼婦に対する圧迫も尋常ではなかったのである。このクグツメは鎌倉幕府が倒れるとともに相模の各宿駅は衰微したが、全国各地の娼家は相変わらず盛況でその営業を持続し、その後、なんら大した変化もなくて、足利時代も過ぎ、元亀天正の戦国時代に至ったのである。

ただここに特記すべきは、室町時代の前ごろより、クグツメのほかに湯屋風呂女(湯女)という湯屋を根拠とした売春婦が各地にできて、その湯女が明治の初年ごろまでも連続していたことである。

次には、足利義晴時代に、幕府が「傾城局」というものを新設して遊女取締の新令を布き、遊女稼ぎはいちいち官の免許を受けさせることにし、遊女一人に年税十五貫文を課したことである。従来、公娼・私娼の別はなかったが、このとき初めて公娼制度が行なわれたのである。

これより公娼たる遊女は倍々低下して劣等の者となるとともに、一方には「カゲマ」と称する変態売春の男娼が流行するようになった。この男娼の流行は、戦国時代に陣中へ女子を引き入れることを厳禁した反動として、美少年の小姓を同伴して枕席にはべらせたもので、その風習が伝播して、市井にも現われるようになった。

公娼・私娼 大跋扈の時代

官許の遊女という公娼制になって後、その遊女が都会に散在するのよりは、一か所に集まってにぎやかな方が、景気が良く客足も多かろうとの見込みで、天正十七年(1589年)に官許を得て、京の冷泉万里小路[2]に新屋敷を開いたのが例になって、慶長・元和・寛永のころ、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町などの大遊郭ができた。

一か所に集まると抱主たちの競争心も起こり、また金遣いの多い遊客を迎える策としては、遊女そのものの選抜を第一とせねばならないので、人買を八方に走らせて、芸能ある尤物(美女)を狩り集めることになった。それで、足利末期の遊女よりはだんだん上品な者も多くなったが、後には世の泰平無事が続いて、その上玉を手に入れることが困難になったので、容貌美しい貧家の幼女を買い入れて、遊芸はもちろん、書画や和歌の修養までも仕込む「子飼」法が行なわれることになった。

かくして幕府はこの集娼制の遊郭を利用して、謀反人や大盗賊を捕らえることにし、なお江戸参勤交代のお国侍どもには、吉原を性欲発展の遊興所としたのであるが、後には、大大名である仙台の伊達綱宗、高田の榊原政元、名古屋の徳川宗春らも遊びに行ったそうである。

この中でも、仙台様が三浦屋の高尾にフラレたという事実は著名なことであるが、武家に大権力のあった武断専制時代、町人百姓が小侍の刀の鞘に触れても斬り捨てにされた時代に、氏素性も知れぬ遊女ばらの身が、もったいなくも奥州六十二万石の大殿様にひじ鉄砲をくらわせたということは、古来絶無の容易ならざる大問題で、今ならばお上の威信を損ない、社会の秩序を乱すものとして、政府当局者が新聞記事の差し止め命令を発すべき重大事件であるが、当時はこれを遊女の思想悪化とも認めず、抱主さえ何らのとがめも受けなかったのである(高尾が船中でつるし斬りされたということは嘘で、まったくの捏造である)。

そもそもこれは何故かというと、当時の遊女にはこの「フリ」という絶対不可侵の大権威を有させていたのである。そのわけは、男には上淫を好む性情があって、王侯の妃をも犯したいと思うものであるが、吉原の遊郭では商略上、この性情を利用して、遊女に上﨟風の粧飾をさせ、それに権威と見識を持たせ、「大夫様」「此君様」と敬称して、客よりも上席に座らせ、またことわざにも「遊女にあいさつなし」というように、客に対して低頭の礼式をさせず、「ハリ」という意地と「フリ」という一種の拒否権を有させるなど、ことさらに倨傲尊大(傲慢)な態度をとらせたのである。

そして、客を「買人共」とか「すて坊」「とられん坊」とか呼んで侮ったが、この商略は甘く当たって、都人士は我勝ちに遊女の歓心を得ようとし、逆鱗に触れないようにと苦心と注意を払って通ったのである。

吉原大火後の仮宅営業がいつも繁盛したというのは、客の好奇心による点もあるが、主とするところは「鳳凰も目白押し」のその混雑中に行けば、ふだん権式高い花魁でも、真逆フリはしないだろうと、あるいは大いにモテタとかで通い行く客が多かったのであろうと察せられる。

それほど、吉原の娼権は強大であって、客は何者でもおのれの気の向かない時には遠慮なしにフッタのである。特に旗本・御家人・お国侍などの武士に対しては、それがいっそう猛烈であった。中でも勤番者を大いに嫌って「浅黄裏」と貶め、「新五左」と呼び、「武左衛門」と称して蔑視したが、これはその「ぐわち」その不粋なのによるばかりではなく、一種の反感から出たのであろうと思う。士農工商の四階級外に置かれた賤しき遊女の身としては、権勢ある武士との添寝を名誉と心得ねばならぬはず。それで多少の無理も嫌味も我慢して、柔和に服従すべきであるのに、廓の掟以上その正反対の虐待に出るのには、何らかの理由がなくてはならない。

その理由、彼らは常に武士と威張って庶民を土芥視する横暴者である。この庶民の敵はこの治外法権の地において膺懲(こらしめ)せねばならぬという暗々の憎悪心、少なくとも江戸っ子客の教唆で、「武士たる者を背中にてあひしらひ」「昨日は宿直、今晩は床の番」の憂き目を見せたのであろう。

とすれば、高尾が綱宗をフッタのも、野暮の馬鹿殿様がイヤであったばかりでなく、大名面の権柄を憎んだ結果であろうとすれば、奴隷制度の濁渦中にも民権を主張する反抗者、武断政治を呪う危険思想家があったと見ねばなるまい。

しかし、「フリ」というこの大権威の発揮も長くは続かず、遊女堕落し、遊客堕落して次第に俗化し、芸能あり見識ある者は失せて、寛政以後は京の島原、大阪の新町、その他全国の各宿駅津々浦々にいる娼婦と変わりのないものとなった。これも徳川幕府が漸次その権勢を失ったような経路に似ている。

却説、元和偃武(大阪夏の陣終結後)の泰平は、全国の娼家が全盛を極めることになっただけでなく、私娼の跋扈もまた甚だしかった。古くは大阪の商家に蓮葉女を抱え置いて仕入れ客を饗応するものがあった。湯治場・風呂屋には湯女が盛んに行なわれ、勧進歌比丘尼は丸太に化け、綿摘み・草餅はそれが本職でなく、戸外には橋姫・辻君・夜鷹・引っ張りあり、水上には下関の手たたき、大阪のピンショ、鳥羽の把針兼、江戸の船饅頭、函館の鴈の字、吉原外の岡場所は金猫銀猫・蹴転・麦飯・アヒルなどの類が数十か所にあって日夜の客が絶えなかった。変態売春の若衆陰間は寛文・延宝・元禄・享保(1661~1736年)にわたって最も横行し、その若衆の向こうを張った深川の羽織芸妓、「粋者は吉原行を野暮として両国辺の茶屋遊び」。

こうして徳川は明治、江戸は東京と変わるに至った。

続いては偽自由の明治大正

王政復古の大維新と叫んで首尾よく政権を奪取した明治政府の役人ども、開港通商・文物輸入の唱道で、人権の擁護をてらわねばならぬことになって、明治五年に奴隷売買制の娼妓解放を断行したのはよかったが、それはホンノ束の間、従来の妓楼を貸座敷営業として許可し、娼妓は任意の出稼ぎという鑑札、その実、貸座敷は旧のままの牢獄で資本主義者の横暴、出稼ぎは名目のみで自由廃業も容易にやれない可憐な囚われ者、それで今日までなお連続しているのである。

この明治大正にも時々の栄枯盛衰はあっても、下層社会は漸次生活難の声高くて、「勤めすりゃこそお召の着物、うちぢゃ御飯も食べかねる」の遊女が年々歳々その数を増し、なお海外に輸出される娘子軍もまた少なくない。一方、各地の私娼は旧にまさる繁昌で、手段や名称は異なって、矢場女が銘酒屋女になり、円助・半助が大正芸者、高等内侍、ハイブロと新しい名に変わったのみで、要求は倍々多く、供給もまたそれに相応するようになって、いかに警視庁や各府県の警察部がその撲滅策に苦心しても何ら効果なく、至るところでモシモシの呼び声、チューチューの鼠鳴を聞かされている。

虚偽の生殖行為である売春は、これを人道問題の上からいえば人権蹂躙であり、個人道徳の上からいえば破倫破廉恥であり、社会風教の上からいえば陋俗邪淫であり、国民衛生の上からいえば悪疾媒介である。この醜い行為の非道悖理(ひどうはいり)は誰もが理解することであるにもかかわらず、なおこれを売り、これを買う者が多い。

また、古今内外の為政者はこれを根絶しようとして、種々の法を実施したが、何ら効果がなかった。それはないはずである。

かつて新人某氏は「売淫制度の基礎をなしているものは、私有財産制の確立による富の懸隔と婦人の屈従とである。ゆえに私有財産制の上に立つ現在の社会組織が根本的に革新されない限り、いかなる予防策、いかなる救治策も、売淫業の存在を根絶することはできない」と喝破した。この論を外にして救治根絶の法はない。ともあれ現制度の革新、これを新人に待つのみである。(了)

真か偽か遊女「雲井」の文

遊女の誠はお客の実より引き出され、お客の誠はこちらの実にて引出すのですから、嘘も誠もお互いの心にあって、別にむつかしいわけはないのでございますが、人はただ疑いと申すこと一つが面倒でございます。つれづれ草には迷いの一つをおそろしと書いてありますが、迷いよりまだまだむつかしいのは疑いでございます。なぜと申すに、迷いはおもてに見えるものなので、捨てるにも捨てやすいのですけれども、疑いは心に隠れておりますから、取ることも捨てることも成りがたいのです。しかし、思いが内にあれば、色が外にあらわれるならい、嘘も誠も長いあいだにはおのずからわかることでございます。されば、世に物事をつつみかくすほど道具なることはございません。これは嘘、これは誠と知れながらも、嘘を誠といい、誠を嘘といい、好かぬを好きといううちに、嘘も誠も根ざしはまずその嘘のうらに含みまいらせるのでございます。よって、始めはいやと思っていた客も、馴染めばいつとなく可愛くなり、繁々に来られれば、惚れ惚れとし、呼びまいらせたくございます。これ、元は偽りのつけ心であったのに、重ねてみれば心もおけないのです。とすれば、誠は不興の始まりと考え、嘘を誠の種であるとお心得ありたくございます。「悟」と申す字は「吾心」と書き、「偽」という字は人の為と書き申します。まことにまことに文字は苦界の理をせめてございますから、よくよくご思案ありたくございます。めでたくかしこ。

注釈

  1. 評論家・正岡藝陽の著書『嗚呼売淫国』1901がある。
  2. 冷泉万里小路は後の島原遊郭になる。

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