大僧正天海1-06

提供: 閾ペディアことのは
2011年1月26日 (水) 16:55時点における松永英明 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成: 『大僧正天海』第一編 修学 第六章 甲府論席 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳…)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動検索に移動

大僧正天海』第一編 修学 第六章 甲府論席 の全文現代語訳である(松永英明訳)。本文中、(※)での注記ならびに脚注は訳注である。

大僧正天海 第一編 修学

第六章 甲府論席

元亀二年(1571)秋九月十四日、世に起こるとは思えないような稀代の大椿事が起こった。

そもそも近江国滋賀郡比叡山延暦寺といえば、第五十代桓武天皇の御代、延暦四年(785)七月中旬、伝教大師最澄が年齢わずかに十九歳のとき、慣れ親しんだところを出て寂静の地を求めようと思い、峰をよじり山を登って初めて草庵を結んだ霊場である。同七年(788)、大師はさらに一大誓願を発起し、霊木で尊像を彫り、庵を転じて比叡山寺を創建し、根本中堂に末代不滅の常灯明を点じた。

あきらけく後の仏の御代までも ひかり伝へよ法のともし火

と詠じ、天台法華宗を開立した唯一無二の聖境である。それだけでなく、桓武天皇が深く信仰され、延暦十三年(794)九月に車駕山門に幸して、親しく七僧供養の大会に臨み、この山を鎮護国家の道場とし、とこしえに天下太平を護持させることとされた。

こうして弘仁十三年(822)六月十一日には、嵯峨天皇が深く大師の円静を追悼され、生前の意思に沿って、南都七大寺や僧綱(※僧や尼を監督し寺を管理する職)の反対をおして円頓戒(※天台宗の大乗戒)を勅許し、一乗の大戒壇を山門に建立させられた。翌十四年二月には勅を下して比叡山寺を改めて、延暦寺の寺額を下し賜われた。

延暦十三年、叡山行幸のことは『日本後紀』には欠けて伝わらず、『類聚国史』にも載っていない。仁忠の『叡山大師伝』、円珍の『行業記』、三好為康の『伝教大師伝』ともに伝えず。しかし、『天台座主記』『叡嶽要記』『九院仏閣抄』『初例抄』などという山門の旧記には明らかに記されている。大僧都非際の『伝教大師伝』にも国史にも見えないのを疑いながら、一応このことを上げておく。仮に疑いがあるもののここに掲げておく。

それ以来、歴朝列聖いずれも崇拝されてきた。座主には竹園の法親王(※出家後に親王の称を許された皇子)を当てられ、法灯はとこしえに輝き、宗風は四方をなびかせたが、今八百余年を経て第百六十六世の座主・覚恕(かくにょ)法親王(曼珠院門跡)[1]の代に至り、仏敵が劫火を放って山上を襲い、玉殿金社一宇を留めず、三塔三千の坊舎、ことごとく一焦土と化して、鎮護国家の道場、帝王崇仰の霊山がまったくその跡を絶つに至った。

随風は今、甲府の国府に入ってこの一大凶変を聞き、天を仰いで長く嘆き、地に伏して慟哭した。これより先、織田信長は武田入道信玄と講和して姻戚の縁を結んだために、両国の間の干戈は治まり、甲州路からであれば中山道の通路は自由であると聞いていたので、随風は喜び勇んで笈を負い、急いで登嶽の道を上っていた。しかし、朝倉義景・浅井長政が兵を坂本に出して信長の背後を襲ったところ、信長が当の敵をうち捨ててとって返し、朝倉・浅井に迫ってきたため、叡山に登って陣を布いたのだった。信長はそれと知って使いを山門に遣わし、朝倉・浅井を追い下して戦禍を避けよと言わせたのだが、荒大衆(※大衆=多数の僧侶)らはこれを受け入れず、朝倉・浅井を庇護した。このため山門は包囲され、鳥は別として獣さえも登る道が絶えた。このことを確かに伝える人がいて、余儀なく一時登嶽を見合わせた。

その後、一年を経て、両勢いずれも兵を解いて、三塔の包囲もとけたことを知り、今回こそは必ず望みを達しようと勇み進んで甲斐の国府まで来たところ、意外にもこの悲しく嘆かわしい大凶聞に接したのである。

甲斐の国守、武田大膳大夫晴信入道信玄は、わかくして禅宗に帰依し、去る天文二十二年(1553)に落飾して禅門となったが、近年は深く天台の教旨を喜び、永禄九年(1566)に一乗止観の門に帰して、毘沙門堂を建立し、玄旨灌頂を受けて、自ら法性院大僧正と称するに至った。たまたま山門満蔵院の已講・亮信法印、正覚院の僧都・豪盛法印がなんとか九死に一生を得て、学徒とともに一方の血路を開き、信玄のもとに投じてきた。信玄は大いに喜んで、毘沙門堂で大論議を開くべく、関東の天台宗徒三百人を招致した。

随風は山門炎上の失望をいやすべきよい知らせを受けて、亮諶とともにすぐにこの招きに応じた。ここ数年来、師事したり兄事したりしてきた名山の知識・大徳らも好機を逸してはならないと思ったのだろうか、みな甲府にやってきた。

山上の学徒らがかれこれ語るところによれば、今年(元亀二年、1571)九月十三日、織田弾正忠信長が瀬田の本陣にあり、「今夜比叡山に火を放って一宇も残さず焼き滅ぼすべし」と命じたとき、諸将はいずれも色を失った。佐久間左衛門尉信盛・武井肥後入道夕庵はすぐに御前に進み出て、「叡山は伝教大師が末代不滅の法灯を点じられた、本朝無双の霊山であります。王城鎮護の山門であります。それゆえ、歴朝の帝王も山徒の強訴には聖耳を傾けられ、代々の武将も山王の神輿には弓矢を伏せました。今は澆季(※末世)に及ぶといえども、この霊場を滅ぼされるのであれば、冥の照鑑(※神仏が照覧あること)の懼れもあります。このような不思議な命を承るのは前代未聞のことであります」と面を冒して諫めた。

だが、信長が言うには、「信長は決して諫めを妨げるのではない。心を鎮めて聞け。この寺は信長が滅ぼすのではない。いわゆる自業自得の結果である。そもそも信長は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、一命を軽んじ粉骨を尽くし、私欲を去り士に代わるものは、ひとえに四海の逆浪を治め、王道の衰えたのを再興し、風を移し俗を易え、政教を無窮に垂れようと思うからである。しかし、去年、摂津国野田福島を取りつめ、落城しようとしていたところに朝倉・浅井がその隙をうかがい、数万騎で当滋賀郡へ差し出てきた。そこで彼の地より引き返し、坂本口を追い払い、かの賊徒らを笠坪山に追い詰めて、越路の通路が雪に埋もれるのを待って、ことごとく討ち果たそうとしていた。それなのに山門の衆徒が逆意を企てたのは言語道断である。よって信盛に稲葉を差し添え、逆徒に協力しないよう申し含めた上で、同意しなければ根本中堂・山王七社をはじめとして、一宇も残らず焼き払い、僧徒ことごとく首をはねると伝えたが、ついに同意しなかった。これは信長をないがしろにしたのではなく、天下政道の護持を妨げるものである。逆徒を助けるのは国賊である。もしここで滅ぼさねば、また天下の災いとなる」と言って、長暦(1037~1040)以来、仏徒の分を忘れて威福におごり、権勢にたかぶり、兵仗を帯び、弓矢をもてあそぶ亡状を数え上げて、理義を尽くして説き立てたため、両人は返す言葉もなく、唯々としてその命を承った。

こうして十四日の未明から焼き討ちが始まった。名に負う山法師も今日を限りと防戦したが、いずれも鋭い太刀風になぎ倒され、しかも山風が火を煽って、三塔の堂宇、谷々の坊舎がことごとくみな赤土となり、仏像経巻から歴朝列聖の宸翰御筆は数を尽くして猛火の煙と消え、碩学老僧は鑊湯爐炭清凉界と観じ(※煮えたぎった湯も燃えさかる炉の火のような地獄も清涼な世界だとみなす)、雛僧稚児は地に伏して哀を乞うた。こうして伝教大師の我が立つ杣は一鳥鳴かない焦山となってしまった。この顛末がようやく明らかに知れ渡ったのだった。

これを聞いた随風の旨には、どれほど無量の感慨が満ちたのか、目をつぶり口をふさいで、あえて一語も発しなかった。

当時山門の学徒というのは、学識深遠であって究めない経典はなく、道徳は高邁にして通じない行はないと考えるのが、辺境の地の沙門の常であった。そのため、山徒は関東の天台宗徒をあなどっていた。「彼らは田舎に住み、山寺で学んで、円理の微を知らず、密法の秘に通ぜず、堂々たる論席に列して、何を論じ何を難じることができようか。しかし、華夷を分かたず、臘次を問わず、くじで座席を定め、彼らをひれ伏させよう」と評議が決まった。そこで山徒の一人が提案した。「山上山末の優れた人たちがはからずしてこのように一堂に集うこと、まことにこれは優鉢の会であります。この光輝を累葉に遺すため、前もって問題を定めず、難題百個のうち、くじを引いて示されたものに任せるのはどうでしょう」という。大衆はすぐこれに賛成して、その結論はたちまち決まった。そこでくじを引いて「隣虚細塵空不空(りんごのさいじんくうふくう)」を得た。

この題では、問者は毘曇有門[2]の意によって、隣虚の細塵は空すべからずという義を立てる。答者は毘曇数家の処立によって、極微も空ずることあるべしという意を立てる。

このとき、山徒はまた説を立てて、講師もくじによって選ぶべきだと決まり、すでに講席も定まったので、みな戦々恐々として、心密かに講師のくじに当たらないことを祈っていたが、そのくじを開くと、随風が講師のくじを引き当てた。随風は当年三十六歳。臘中﨟にあたっており、関東三百の学徒中にも老成した人たちが連なっていたので、山徒らは嘲弄のまなざしで随風の顔を見た。一方、関東古老の面々には、奥の会津から出てきたという田舎僧がこのような公の論席で講師となって、しかもこのような難題に対し、何を弁じ、何を講じようとするのだろうかと、少しも穏やかではいられなかった。

席上には国守信玄入道が近臣を引き連れて耳を傾け、庭上には教門の碩師、禅林の古老、五条袈裟に頭を包んで巍々として息を呑む。そのほか一国の武士や庶民が群を成し団を結んで囲んでおり、その儀の荘厳なことは前後無比と称せられる。そもそも亮信は歳こそ三十七歳だが、山門の学匠としてはるかに群を抜き、三十にして擬講となり、今年進んで已講となった碩学である。豪盛は歳すでに四十六歳、正覚院に住んで小僧都に補せられ、山門の執事として一山の重望を負う大徳である。衆はみな龍虎が風雲を望むように深く畏れ、大いに敬っていた。

しかしながら、随風は神色自若として講師の選に当たり、堂々として高壇の座に登り、泰然として講説の任に応じた。その意気は満場の学徒を呑み、雄風まさに内外の聴衆を圧していた。亮諶がこの豪壮な威儀を見て心の中で思うには、「随風師がこの屈請(※僧侶を招くこと)に選ばれたのは、おそらく護法神のなされたことであろう。道徳の美悪、衆儀の猶予、すべて一座の変にあるのみ。まことに恐るべし、慎むべし」と密かに随風の一挙一動に注視していた。

随風はいよいよ広長の舌を転じた。その音声は亮々として広野をわたる玉笛のごとく、聞く人の心を爽快にし、その語辞は朗々として大海に落ちる名月のごとく、問う者の陰影を照らしていく。湫(いけ)を傾ける智弁を振るい、岳(やま)を倒す妙機をあらわし、辞気勇壮、義旨深宏、じつに「高談雄弁四筵を驚かす」というのはこういうことを言うのではないかと思われる。環の端がないように問難反覆し、朝から夜まで声色は衰えず、言葉も顔つきも代わらなかった。この間、聞く者は少しも飽きることなく、精義が終わってから初めて日が没したことに驚いたのだった。

山門の大衆も傲岸の鼻柱をくじかれ、節を折って嘆じて言うには、「随風師は天縦の智弁だ。その鋭鋒が当たらぬことなどあろうか」と。これより朝市山林、みな随風の名声を知らぬ者はいなくなった。中でも豪盛僧都は大いに随風を評価し、懇篤に教誨誘導することは他の大衆と比べてもぬきんでていた。随風もまた豪盛の学徳に帰して、熱心にその教えを聴いたため、やがて慧心一流の奥懐、四個の大事、三個の教行をもってことごとく手を払って随風に教え終わった。そこで証位得解の偈を題して、三重透得の印証を受けた。

国守信玄入道は遠州出兵の軍務で忙しいのにもかかわらず、深く随風の秀発さを尊んで、帰依はますます厚く、常に優遇していたが、随風の道名があちこちに響いて、はからずも故郷会津の領主、葦名修理大夫盛氏に知られた。

この盛氏は、随風の外祖父・修理大夫盛高の次男、遠江守盛舜の息子であるため、歳こそ違うがまさに再従弟(またいとこ)の親族であった。随風がいま甲州にいて、三年前から武田氏の客になっていることを聞き知って、追慕の念がやむことはなく、ついに近臣を使いに送って、「今は緇素(※僧と俗人)に分かれているものの、もとは一家の系族である。ねがわくば出生地に戻って、父母の冥福を弔い慰め、さらに我ら一族の迷津も度してください」と懇切に招請させた。随風も叡山が炎上した以上はどこで学ぼうというめあてもなかったので、こうして永く信玄の客となっているのも本意ではなかった。「宗族の丁寧な誘いはよい機会だ。ここを去って故山に帰ろう」と思い立ったので、信玄に向かって身のいとまを請うた。

信玄は国家の法宝を愛惜しながらも、仕方なく帰国を許した。このころ同胞のように親しんできた亮諶は、亮信已講の座下に参じて、師資の礼をとっていたので、たもとを分かつにはこれも好機であった。いざ久しく見なかった故郷の山河に向かおうと、ここに錫をめぐらしたのである。実に天正元年(1573)二月、随風三十八歳の春であった。

参照・注記

東源記、諶泰記、大師縁起、日光山列祖伝、年譜、信長記、後鑑、新撰座主伝、華頂要略、続史愚抄、野史、読史余論

  1. 覚恕法親王:大永元年(1522)~天正二年(1574)。後奈良天皇の第二皇子。元亀元年に天台座主となるが、翌年織田信長に延暦寺をやきはらわれ、責任をとって辞任した。
  2. 毘曇有門:薩婆多部(=説一切有部)の阿毘曇(アビダルマ)論の宗旨。一切諸法は実を有するとし、成実宗の空門に対して有門という。


大僧正天海