東京奠都の真相1

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このページは、岡部精一著『東京奠都の真相第一章 徳川時代の遷都論者を、松永英明が全文現代語訳したものである。

第一章 徳川時代の遷都論者

一、賀茂真淵の東国遷都論

 徳川幕府覇政三百年、一方には皇室をおさえ、他方では諸侯を制し、幕府の座である江戸の地はおのずから政治の中心となって、非常な繁栄をいたし、ほとんど帝国の首府としての観を呈し、皇城の地である京都はひとつも重要視されず、人は江戸があるのは知っていても京都があるのを知らない有様であった。このような間にあって、早くすでに遷都論を唱道して王政の統治を欲した学者がいる。これは誰であろうか。かの国学三大人の一人である賀茂真淵翁その人である。真淵翁の遷都論は『県居集言録』に収められた『都うつし』の一編において知られる。もとより具体的な論述でもなく、またこれを朝廷に建白したものでもない。わずか一小家言にすぎない。しかし、また真淵翁の平生を知ることができ、しかもその唱道の早い点においてこれを称揚するに足るものである。今、まずそのいわゆる「都うつし」の全文を左に挙げようと思う。

都うつし
ことの心を思うに、いにしえは御名を末の世に伝えようと思われて都を移されたのがもとである。后皇子などで、御子がいらっしゃらねければ、その御名代を置かれるなどなさったのは、すなわちこの類である。さて、これより上に、都を移されたのは、おのずからよいことである。なぜかといえば、ある人が言うには、「同じ都が久しく伝わるときは、民の心が穏やかになりすぎて、様々な変化ができる。そもそも都だけであろうか。天の下はみなそれにならうため、四方八隅まで変化が至るのである。よって、都のうちの人の苦しむのは物の数にもあらず、折々に移させられるのが天の下ためとなるであろう」と。(この間、原文欠け)
都をいにしえに移されたのも、みな大和の中をもっぱらとされたころは、すべらぎ(皇)の御勢いが盛りであったが、今の都に移されて三代ばかりはまたいにしえの御勢いもあったものの、文徳・清和の御時からは、臣の権のみ強くなって、ついに帝を立て替えるようになった。その後いよいよ衰えなさったのをみれば、今の京は天皇の御ためには大変悪いところである。さて、思うに、皇の都が東に移されたならば、天が下は平らかにして、御勢いは盛んになるであろう。それはなぜかというと、西の国は治めやすい。東の国は治めにくいこと、古も今もそうである。だから東に寄って都されれば、おのずから治まることわりである。その上に、上はうるわしき中つ国に生まれなさって、政をとる臣たちもそういう国人にして、遠国人だけ強い国にあっては、事があるときに治まらない。上をはじめとして強い国土に生まれなければかなわない。上強ければ、下はおのずから従うのである。

 真淵翁は宝暦・明和のころに盛えた人であるので、八代将軍吉宗の中興を経て十一代家斉の武政の極治を致すまでの間に当たってこの議論をなしたものであって、実に東遷論者の先鋒というべきである。翁は徳川時代における国学の泰斗にして、国粋唱道者の先鋒であるので、その東遷の論拠はおのずから尊王の大義に基づき、国粋発揚の意を有するものとなる。そして東国をもって遷都の地とする理由は、それが強大であって治めにくいからであって、ここに都してその強大さを利用しようということである。これはわたしの緒論において論じてきたことと一致するではないか。このため、わたしは真淵翁の高見を敬重し、その卓論を世に紹介すると同時に、翁が東遷論者の木鐸であることを賞讃せずにはいられない。しかし、翁の「都うつし」は、これを世に公にしてあえてその持論を天下に鼓吹したわけではなく、ただ一家の説としてこれを筆にとどめおいたまでであって、当時にあっても翁がこのような議論を有していたことを知っていた者がいたかどうかは、いまだ明らかではない。わたしは幸いに県居集言録があるためにこの卓見があることを知り得た。とすれば、翁の議論が当時他の学者に影響して、同一論者を出すまでには至らなかったはずだ。それはともかく、わたしは、真淵翁こそ徳川時代における遷都論者の第一位に置き、あえてその議論を劈頭に掲げることを躊躇しないのである。

二、佐藤信淵の宇内混同秘策と両京定置

 賀茂真淵翁に次いで徳川時代に遷都のことを論じた者が佐藤信淵である。信淵は文化・文政のころにおける先覚の士であって、その卓論高説は一世に超絶している。その著作は一つとして衆俗の意表を突かないことはなく、文明の今日においても傾聴するに足るものである。その中の名著『宇内混同秘策』において、日本は天然の位置、万国に超越し、地霊人傑、世界を鞭撻すべき実徴を具備し、天下を支配する使命を有するとして、大いに宇内を混同する(世界を統一支配する)秘策を論じ、中外古今を抱擁して経国の大綸を立てた。そうして遷都論はこの大経綸を実現させる一手段として立論したものであって、信淵のためにはむしろ一小副事業であるにすぎない。彼の主たる目的は宇内の混同にある。その大策を実現させる準備として、兵法を講明し、富国の本源を開発して、もって強兵の実を挙げ、その他政治・教育より病院・貧院・育児院等の細部に至るまで設備の順序方法を説明し、その大目的を企画するにおいて遺算ないことが見られる。信淵は実に十一代将軍家斉が千代田の大奥に栄華の夢円かなったいわゆる大御所時代において、すでに明治維新の大業の経綸を予定していたのみならず、さらに日清・日露の大役における偉略を暗示してわれわれを指導したような感もある。そして、その遷都のことを論ずるようなのは、彼にとっては一些事にすぎないが、それでも尋常の遷都論ではなく、日本全国を八つに区分し、江戸をもって東京となし、大阪をもって西京となし、日本に両京を置くべきであるというところにある。後、明治維新に至り、数多英俊の士が経営画策もって皇謨を翼賛し、鴻業を大成したものは、数十年以前において早くもすでに信淵によって策立させられていた。今、まず宇内混同秘策の中、主として帝京を論ずる一節を左に引用して、もってその宏大なる気宇に接触したい。

皇大御国は大地の最初に成った国であって、世界万国の根本である。ゆえに、よくその根本を経緯するときは、すなわち全界ことごとく郡県とすべきであり、万国の君長みな臣僕となすべきである。謹んで神世の古典を考えると、「所知青海原潮之八百重也(青海原の潮の八百重を治めよ)」とは、皇祖イザナギ大神がハヤスサノオ命に命じられたことである(※訳注:日本書紀ではこれは月読命への言葉である。古事記ではスサノオは海を治めよと命じられたが、この言葉は使われていない)。それであれば、すなわち世界万国の蒼生を安んずるのは、最初から皇国に主たる者の要務であったことがわかる。(中略)
けだし世界万国の蒼生を救済するのはきわめて広大な事業であるから、まずは万国の地理形勢を明らかにし、従って天意の自然に妙合する処置がなければ、産霊の法教をもってしても施すことができない。そのため、地理学もまた明らかにしなければならない。今、その万国の地理をつまびらかにして、わが日本全国の形勢を察するに、赤道の北三十度より起こって四十五度に至り、気候穏和、土壌肥沃、万種の物産ことごとく満ち溢れないものはなく、四辺はみな大洋に臨み、海舶の運漕も便利であることは万国無双、地霊に人傑にして勇決は他邦に殊絶し、その形勝の勢いは自ずから八表に堂々として、天然宇内を鞭撻すべき実徴をすべて備えている。この神州の雄威をもって蠢爾たる蛮夷を征すれば、世界を混同し、万国を統一すること、何の難しいことがあろうか。ああ、造物主が皇大御国を寵愛なさること、至れり尽くせりである。(中略)
今の世に当たってこの道を講究するものを求めるなら、わたしを措いて誰がいるだろうか。しかし、世を挙げてみな悪俗に沈み、わたしを知る者はいない。苦思慷慨するといえども、わたしを信じる者など誰がいようか。必ずや名君が出ることがあってから後に用いられる者なのである。
さて、世界の地理をつまびらかにするに、万国は皇国をもって根本とする。皇国はまことに万国の根本である。子細を論じさせてほしい。そもそも、皇国から外国を征するには、その勢いは順であって易く、他国より皇国に寇するには、その勢いが逆であって難しい。皇国より易くして他国より難しいという理由は、云々(中略)ゆえに皇国より世界万国を混同することは難事ではない。しかし、まさに疆外に事をあらしめるには、まずよく内地を経綸すべきである。その根底が堅固でないのに枝葉を繁衍する者は、本が傾くという患を発することがある。ゆえに日本全国の地理を講明し、山海の形勢を弁論しよう。
およそ四海を治めるには、まず王都を建てなければならない。王都は天下の根本であるため、形勝第一の地を撰ぶべきである。浪華は四海の枢軸であって万物輻湊の要津である。しかし、分内狭く、人民極めて多く、土地から生じる米穀は居民の食うに足りない。ゆえに、この地に大都を建て皇居となすのは深く慮るべきところがある。とすれば、王都を建てるべき地は江戸に及ぶものはない。関東は土地広平であって沃野千里、かつ相模・武蔵・安房・上総・下総の五州をもって内津を包み、斗禰(トネ)・秩部(チブ)・鬼奴(キヌ)・多麻(タマ)の四大河が内洋に注ぐため、水路がよく流通し、百穀・百果、その他諸国の産物の運漕にはなはだ便利である。万貨豊饒、人民飢餓の患あることはすくなく、ことに峨々たる崇山三方を囲み、もって他鎮と境界を分かち、東方一面大洋に浜し、進んではもって他国を制すべく、退いてはもって自ら守るに余りある。郊野曠漠にして馬も強健、民人は衆多にして勇壮、実にその形勢は天下に雄たるものである。およそ重にいて軽を馴し、強をもって弱を征するのが、永静の基礎を立てるのによろしい。ゆえに王都を建てる地は江戸をもって天下第一とする。王都をこの地に定めて永く移動しないのがよい。浪華もまた天然の大都会であるから、これを西京として別都とすべきである。その他、駿河の府中(※静岡)、尾張の名護屋(※名古屋)、近江の膳所(※大津)、土佐の高知、大隅の大泊(※鹿児島県南大隅町)、肥後の熊本、筑前の博多、長門の萩、出雲の松江、加賀の金沢、越後の沼垂(※新潟)、奥州の青森・仙台・南部(※盛岡)、以上十四カ所には省府を建て、節度大使を置き、もって各部内の政治を統理させるべきである。上に述べたとおり、東西両京を並び立て、かつ別に十四省を置くといえども、仁義をあつく行なって律令を厳格にするのでなければ、日本全国をわが手足のように自由にすることはできない。もし自国の運動が自由自在でなければ、どうして他邦を征する余裕があろうか。東西両京がすでに立ち、十四省府もすでに設け、経済大典の法教がすでに行なわれ、総国の人民がすでに安んじ、物産が盛んに開け、貨財多く貯え、兵糧が満溢し、武器が鋭利、船舶すでに裕足し、軍卒すでに精錬し、そうして後にはじめて海外に事あるべきである。かつまた日本の土地の妙なることには、南には敵国は少ない。ゆえに意をもっぱら北方を開くことができるのである。(下略)
以上は実に宇内混同策の総論ともいうべきものである。そして、信淵はさらにその各論に入って、最も具体的に日本全国内の区画を論じ、まず左の目録を掲げて、それから後にその細論に及ぶことにする。
混同秘策目録
第一本
東京(すなわち関東の地であって、相模・武蔵・上野・下野・常陸・安房・上総・下総の八州である)
皇都および宗廟・大学校・三台(※太政大臣・左大臣・右大臣)・六府などの制ならびに畿内その他の諸州諸城邑の治方、諸侯および世禄諸士の諸例、工商・雑客などの落着、養院・病院・防海などの処置、外国征伐・親征などの節度、江戸と熊本の軍卒は交代に南洋を横行して水軍を操練し、かつ高知省節度使の心得の事
関西(すなわち甲斐・信濃・伊豆・駿河・三河・尾張・美濃・飛騨・伊勢・志摩の十一州である)
駿府、名護屋
第二本
西京(すなわち近江・若狭・丹波・丹後・山城・大和・伊賀・河内・和泉・紀伊・摂津・播磨・淡路、都合十三州の地である)
浪華、膳所
南海(すなわち阿波・讃岐・伊予・土佐の四州である)
高知
第三本
中洲(すなわち但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・美作、都合十一州の地である)
松江、萩
筑紫(すなわち豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬、都合十一州の地である)
博多、熊本、大泊
第四本
古志(すなわち越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡・会津・米沢・最上・庄内、都合十州の地である)
金沢、沼垂
陸奥(すなわち仙東・仙台・南部・津軽・仙北・由利・秋田・松前、都合八州の地である)
青森、仙台

 このようにまず目録を掲げて、次にその子細に及んでいる。今、遷都のことを主とするため、他はことごとく略し、東京および西京の両都に関係する部分のみを左に引用したい。

第一本
 東京
東京の畿内は関東八州である。西は越後・信濃と接するのに浅間・碓井・三国・保鷹(※穂高)などの諸山があり、東は大洋に浜し、北は陸奥の会津・白川・棚倉などの地に接し、南は足柄・箱根の険をもって関西と境域を分かつ。後ろには二毛(※上野・下野)の富実あり、前には三総(※安房・上総・下総)の豊饒があり、湾海(イリウミ)を襟にして銚江を帯とする。雄州が雲のごとく連なり、厳城が星のように列し、甲信を控えて、奥羽を引く。土壌は膏腴にしておびただしく五穀百菓その他の物産を出し、天気晴朗にして江山錦繍のごとく、百川流れて内海に注ぎ、地は平に水は穏やかにして、漕運きわめて便利である。沃野広曠で実に天府の国たることは論をまたない。ことに江戸は四通八達の街、万物輻湊の衢(ちまた)、人民繁庶、都邑壮麗、山水をめぐらし、左右は映帯して、陸商海客・風帆浪船・江濤煙雲の間に出入りする。盛んであるというべきだ。ゆえに皇都はよろしくこの地に建て、永く移動することがないようにすべきである。
さて関東の地は荒野がはなはだ多いといえども、土は肥え、水は甘く、耕牧によいことはその名がすでに高い。中古、源頼朝がはじめて覇業を興してから源氏三世、北条九世、相州鎌倉に都して天下を制したときに、人民はますます蕃息し、田野は大いに開け、土地の富実したことは言語に絶する。しかるに正慶・建武以後、関東は大いに乱れ、諸侯は雄を争い、合戦が連なること二百七八十年、人民は流散し、田畠ことごとく荒蕪した。その後、徳川氏の覇府を江戸に建てるに及んで、日本総国の諸侯はことごとく皆妻子を率いて来て、都下に家居したため、市井は殷富し、人民が繁盛することは千古に比べようもない。ここによって、年々土地を開発し、賦税の増えること昔の百倍ともなった。武蔵・下総などは蘆葦の場であったが、今はことごとく開拓して大半は膏腴の壌となった。利根川の近傍は毎年水難がはなはだしく、住む者もなかったが、堤防を厳しく築いて、人居はなはだ稠密となり、酒を醸造し、醤油を作り、もって都下に売ることによって家々は皆富み、鐘を鳴らして鼎に食うというような豪商も多い。また東海魚塩の産業もその利ははなはだ厚く、往々にして一挙千金を漁獲する網師もいる。かつまた、桐生・栃木・藤岡・結城・川越・秩父などの織物、および青梅・八日市・真岡などの木綿、ならびに常州西ノ内・烏山などの楮紙はその産がはなはだ広大であって、あまねく他邦に輸出し、年々数千万の金銀を得ている。その他の産物ははなはだ多く、すべて記載することはできないほどであるため、部内人民の大数六百余万に余る。そうしてその生じた穀物・諸産はこの地の人を衣食するに余って、つねに他邦に糶(せり)している。しかし、江戸の都下には別にまた百五六十万の寄寓(やどかり)がいて、食物衣類その他の物品を日用に費やすことはなはだ多く、そのため常に他州の穀物を漕運してこれを養っている。この寄寓百五六十万人は皆これ関東の土着六百万人の外にある者である。ゆえに関東の地が米穀を生ずることが多いといっても、どうしてこれを食べさせるのに足るだろうか。他州の穀を引いて食うということが考えられる。しかし、二百年来すでに因襲してきたのであるから、騎虎の勢いであって、とどめようとしても止むことはできない。天災流行は聖世といえどもないわけではない。もし関東荒凶の年に当たって、万一南海に外冦が来て海運の水路が絶えることがあれば、戦を交えることを待たず、まず困窮するであろう。かつまた、その難が速やかに解けず、海路が長く遮られてしまえば、大衆が飢餓に迫ることもないわけではない。飢餓が甚だしくなれば、同類が食い合い、必ず内乱を発するものである。ゆえに大都を建てる方法は、まずその部内の食物を量り、それから後にその衆を斟酌して、繁華の度に過ぎたものはついに自滅するに至る。このため、わたしの経済の法は、産霊の法教を講明して、天理の精微を尽くし、人心の至誠を究極して、禍乱の根源を絶し、世界万国の蒼生に早く上神することを得させる。もし真主が興ることがあれば、必ず取るであろうものである。
およそ皇都を建てる法は、皇城は中央にして西に皇廟あり、東に大学校あり、北に教化台あり、南に神事台あり。またその南に大政台あり。学校の東には農事奉行・物産奉行・百工奉行・融通奉行の四府を配し、西北には陸軍奉行の府があって、陸軍三十六営ことごとく皇城の西北を囲繞する。東南には水軍奉行の府があって、水軍三十六営ことごとく皇城の東南を囲繞する。またその間に諸侯参勤中滞留館および諸国の使臣・賓客・逆旅などの旅館・酒楼・歌館・娼家・戯場ならびに所々に数多の交易場を立てるべきである。
およそ皇城の三十六門には、城門校尉および都尉など、各その部下の兵を率いて勤番する。これは皆水陸七十二営の軍官が兼ねて定め置いて、十日替わりで交代する。また城内にも種々の役所があって、三台六府の官人および待営の諸臣などが勤番する。また、皇宮は美麗を尽くすといえども、広く造営するには及ばない。それでも万国の君長および百官が朝勤するのであるから、よく勘弁して造建すべきである。後宮は、皇后のほかは次女七八人のみであるから、別に小さくてもよろしい。

以下、宗廟・大学校・三台・六府の制とその内容とをいちいち詳説し、その他諸州城邑の治法から海防・外征ならびに水陸軍卒などのことに至るまで細大漏らさない。しかし、今本論に密接の関係がないため、これを略し、次にはすぐ西京の説明に入ろう。

第二本
 西京
西京の畿内は摂津・河内・和泉・播磨・淡路・紀伊・伊賀・大和・山城・丹波・丹後・若狭・近江の十三州である。その地は西は播磨の船坂(※兵庫県赤穂郡上郡町の船坂山・船坂峠)から、東は近江の伊吹山に至り、北は丹後の経崎(※京都府京丹後市丹後町の経ヶ崎)から南は紀伊の出雲崎に至り、南北ともに大洋に臨み、日本全国を東西に横断し、形勢極めて雄壮であって、はるかに東京に連絡し、中洲および南海・筑紫を圧鎮する。部内はすこぶる広大なため、分けて二鎮とし、南境六州を摂津の浪華城をもって治所とし、北境七州を近江の膳所城をもって治所とする。さて、この部内は皇国の最初に開拓した国土であって、歴代帝王建都の地、ことに気候良和・土壌膏沃であって百穀百果みなよろしく、また綿花・絹糸および薬物等を生ずることはなはだ多く、かつ土人みなよく百工を起こし、織物を励み、商売につとめるため、郷邑はなはだ豊富であって、貧困な者があることは少ない。そのため、諸物産を出すことは日本総国の第一である。このため、盧舎の美麗にして衆多く、人民の隆殷にして蕃盛なることまた日本総国に冠たるものである。しかし、人民が極めて多いため、土地の生ずるところの穀類はその大衆を養うのに足りない。かつまたこれに加えて、伊丹および灘の諸邑に造酒家はなはだ多く、年々米を醸すことがややもすれば数百万石に至るため、他鎮諸州の余米をことごとくこの地に輸送し集めてその用に給することとなっている。これが西京には離宮のみがあって皇居には堪えられない理由である。しかし、日本総国の物産はこの地において平準されなければ、その平均を得ることができない。西京は日本総国の権衝であって、実に天下第一の要津である。
浪華府はすなわち西京城にして、皇帝の離宮あり。河内・和泉・摂津・播磨・淡路・紀伊六州を統括する。教化台あり、中師一人、小師一人、亜師三人、その他西京の留主これに居して属州の政事を聴く。清官数十人ここに居す。また神事台・太政台あり。またそれぞれ中師一人、小師一人、亜師三人、清官数十人あり。三台調和して西京の政を聴く。また六府あり、各長吏一人、その下数十人あって属州の諸政事を行なう。西京は淡路島をもって喉とし、播磨を右肘とし、紀伊を左肘とする。浪華は日本第一の津港、天下の産物の輻湊するところである。三台六府あり。それぞれ東京より官員を置いて、天下の貨物を平準し、かつ属州の政事を行なう。水陸軍営数多あり。将軍常にその兵政をここに治める。この六州の男女を数えるに、およそ三百五十万に余る。五十歳以下二十歳以上の男子を撰んでも八十万人に近い。その中の最も強健な者を募って軍卒となせば、精兵七万余人となるだろう。これを水陸二営に分かち、常に戦法を調練し、大銃火器その他の武具・火薬・矢玉などをおびただしく造り貯え、もって諸鎮の不給を補い、常に精卒を発して四方を援助すべきである。

(以下第四本に至るまですべて略す)

 以上は実に宇内混同秘策中の東西両都建設に関する部分を抄出したものである。信淵の宇内混同の大経綸は、この秘策のほか、さらにその名著『経済大典』および『天刑要録』などと相まってはじめて完備するものである。しかし、今、この秘策の一部のみを見ても、その秩序が整然として画策の遺算なく、気宇の壮大にしてまことに宇内的であるのがわかる。わたしは百年前の信淵その人の脳裏においてすでに百年後の今日の社会の明らかに表現されたものがあるのを見る。ましてや、江戸時代の気分が全国に汪溢していた文化・文政の天地において、すでに将軍の幕下である江戸を東京とし、皇城の基礎を論定していたことに及んでは、その識見が高遠であることを驚嘆せずにはいられないのである。後年、明治維新の当初、大阪をもって海陸軍組織の基地としたようなのは、信淵の高見によったものではなかろうか。ことに大久保利通が海軍興隆を一理由として大阪遷都の大論を建てたのも、また信淵の議論に私淑したのではないともいえまい。わたしはまだ、両者の連絡の証拠に接触していないため、あえて極論することができないけれども、この間の機微を想像せずにはいられないのである。その東西両京を並立させるという卓論に至っては、後年、木戸孝允などの主張に始まり、廟堂の決議となり、明治天皇の嘉納あらせられて、その東幸を見、ついに今日、東京は京都と並んで帝国の首府となっているのみならず、世界大都の列に位置している。こうして、その根本は実に信淵の立論に出たといっても過言ではなかろう。信淵というものはもって地下に瞑すべきである。

三、膳所藩士高橋作也の遷都論

 明治維新に至る以前において第三に遷都を論じた学者が近江国膳所の藩士・高橋作人也という人である。明治の東京遷都を論ずる者は、是非ともこの人の議論を看過すべきではない。わたしは今、その遷都論を説くに先立って、まず作也その人がどういう人物であったことを紹介しようと思う。

 高橋作也は膳所藩の中でも傑出した勤王家であり、諱は正功、坦堂と号し、謹厚謙遜、君子の風があった。かつて大阪に遊び、篠崎弼(※しのざき たすく、篠崎小竹)の門に入って学ぶこと三年、帰藩の後、藩学・遵義堂の教授となった。同藩の名士・川瀬太宰(定)と深く交わり、正義を唱道した(※膳所藩は佐幕派であったが、尊皇派の正義派があり、川瀬はその筆頭であった)。膳所藩士で義を唱え、事に死んだ者の多くはその門下に出ている。その懐抱していた思想は、やや急進主義であって、当時幕威がなお盛大であったときにおいては、危険思想と目せられるものであった。このため、慶応元年閏五月十四日、ついにその徒とともに獄に下り、その年十月二十一日をもって死刑に処せられ、むなしく大志を齎らして黄泉の客となった。作也の著わしたものに『蠡測篇』と称するものがある。蕞爾たる(非常に小さい)一小冊子であるが、その言うところは鑿々(内実をうがっていて確実)、時勢の肯緊にあたり、時には急激に馳せるものもある。このために忌憚をはばかり、、深くこれを箱の中に蔵していたが、その死語に至って人はようやくこれを知り、後には遂に上梓して世に公にされるに至った。そうして、その遷都論は実にこの書の中の一編である。わたしは順序としてまずこの書を紹介し、そして後にその遷都の意見を論じようと思う。

 『蠡測篇』は元治元年(1864年)の春に著わしたものであって、(一)富国、(二)強兵、(三)崇敬、(四)革俗、(五)遷都の五編から成る。この書が何者であるかを知るには、その巻首における作也の自叙を読めば最も早いであろう。そこで今、まずこれを左に掲げて、本書の性質と作也その人の抱懐とを示そうと思う。

蠡測篇 高橋正功著
自序
わが皇国が万国の中において卓出することは、おそらく万国中第一である。わが琵琶湖の皇国中において鐘秀することは、おそらく皇国中第一である。琵琶湖下流には勢多橋があり、橋の下には蜆(シジミ)を産む。そのものは微に至り、その味は淡くて厭わず。それは潔く、もって神明に薦めることもできる。それは湘であり、もって王侯にもすすめることができる。その穀の文ははなはだ鮮明ではないけれども、またよく気を吐き、楼閣を空中に構えるのである。おそらく西海の蜃に学んでそうなったのであろう。シジミは外文内潔である。また湖中第一品である。世にいう、至微をもって至大を議すことを、蠡(ひさご)をもって海を測るという(※「蠡測」(れいそく):ひさごで海水の量を測る。狭い見識で大事をはかることのたとえ)。今、シジミの味をもって豊かな海産物に対抗してすすめようと欲するのは、蠡測しているだけではなかろうか。しかし、区々たる誠、綣鑓の至り、遂げることあたわず。論文五編を作り、蠡測を名とするのはこのためである。
 元治紀元甲子季春蜆味方嘉之日  琵琶陰士 功識

 膳所は蕞爾たる小藩であるとはいえども、その地は京師の喉をつかみ、海道の要衝に当たる。幕府が本多氏をこの地に封じたのは、おそらく大いに意味のあったことであろう。しかし、この豁達明察の志士を出し、大義を明らかにし、国運の進展を説かせ、王政維新に際して譜代の諸侯であるのに方向を誤らなかったのは、晴々の内にこの影響がなかっただろうか。さて、『蠡測篇』の中でも富国・強兵・崇教・革俗の四編は、今しばらくこれを略し、ただちに遷都篇を左に掲げて、論旨のあるところを明示したい。

遷都
国はすでに富む。兵はすでに強い。教えはすでに崇められている。俗はすでに革まる。そして天下を果たしてまた患すべきものはないだろうか。いわく、未だなり。天下は大器である。器を用いない者は、久しくして必ず蠢めく。動かない者は久しくして必ず朽ちる。不蠢不朽になる前に、このための計をあらかじめ与えておかねばならない。このための計はどのようなものであろうか。天下の耳目を変えることにある。制度を改革し、服色を変え、正朔(こよみ)を改める。なお天下の耳目を変えるに足るものとして、都を遷すことがある。鏡も時にふれてぬぐえば常に光る。人も時にふれて勉めれば常に強い。都も時にふれて遷せば常に繁昌するのである。ゆえに都は時にふれて遷すものである。国はこうすれば困窮しない。兵はこうすれば弱くならない。教えはこうすれば濫れることはない。俗はこうすれば壊れることはない。また、創業のとき、外はいまだ全うされずとも、内には実がすでに備わるのである。守成の世には、外はすでに備わっていても、内実は不全である。おそらく、事物の活動を得ると得ないとは、これによるのであろう。都は遷さないべきではない。ああ、神代はるかなり。
神武天皇は日向高千穂宮からはじめて、大和に遷り、定めて都となす。その後、
綏靖天皇は葛城に遷る。
安寧天皇は片塩に遷る。
懿徳天皇は軽地に遷る。
孝昭天皇は掖上に遷る。
孝安天皇は室地に遷る。
孝霊天皇は黒田に遷る。
孝元天皇はまた軽地に遷る。
開化天皇は春日に遷る。
崇神天皇は磯城に遷る。
垂仁天皇は纏向に遷る。
景行天皇はまた纏向にあり。近江に行幸して志賀にて崩御する。
仲哀天皇は越前に行幸し、また筑紫に幸して崩御する。数帝しばしば遷ることやまず。遠くに幸するのも逸れず。皇威が膨張したためであろう。
応神天皇は軽島に都す。
仁徳天皇は難波に居る。
履中天皇は磐余に遷る。
反正天皇は河内丹比に都す。
安康天皇はまた大和石上に遷る。
雄略天皇は泊瀬に都す。
継体天皇は山背で即位し、後に大和に遷る。
孝徳天皇はまた難波に遷る。その間、数帝また居を遷さざることなし。一帝の世に三遷四遷することもあったが、およそ大和国から出ることはなかった。
天智天皇の中興もまた近江に遷る。
天武天皇はまた大和に都す。
元明天皇は平城に遷る。その後、数帝は平城を都と定めたけれども、幸遷は無数であった。
桓武天皇延暦十三年、地を山背国に相し、大いに宮城を営し、山背を改めて山城とし、平安城と称する。これよりその後法制が大いに定まり、遷都のことはまた聞くことなし。ただ、その列朝、民政に勤め、民力を蓄え、民利を与え、民害を除き、孳々勉々(休みなくつとめた)。こうして紀綱を維持し、基本を培養した。それでも天下の勢いは次第に鎮静を過ぎ、安佚に向かった。王綱は一度紐が解けたのであった。文臣が権を竊(ぬす)み、武臣が命をたがえる患があったのである。後醍醐天皇の英明剛健があったといえども、常に京師を恋うて事を誤り、小南朝に終わったのみであった。くだって近世に至り、武臣が諸国に地を受け、棊布星列をもって王室の藩屏とした。慶長・元和以来、興る者、廃する者があり、甲は昌え、乙は亡んだ。嗣子なくして除かれるものあり、罪あってうつされるものあり。東の者が西に遷され、南の者が北に替えられ、大をもって小を控え、小を以て大をふさぐ。将帥は重禄の念なく、士卒は懐土の累なし。天下の勢いは壮健充実し、国威は膨張し、夷賊はひそんだ。百年前、このことは次第に行なわれなくなってきた。将帥は己の城邑に拠って不易となり、士卒は己の屋宅を守って固有となる。その外を見ればすなわち誠に太平無事であるが、その内を察すればすなわち実に長嘆大息に足る。国は次第に困窮し、兵は次第に弱くなり、教えは次第に乱れ、俗は次第に壊れ、天下は次第に変わっている。それはまさにどういうものであろうか。これこそ、天運自然であり、安坐静観であろう。その機会を得てなおかつなさず。これは安んずべきか安んずべからざるか。ああ、大業を興そうと欲するものは、大いに廃棄することなくしては不可能である。大衰を起こそうと欲する者は、大いに振作するものなくして不可能である。旧典に復し、都を遷し、居をうつして天下因循の疾病を一新しようと欲する者は、鬼に遭って瘤を失うことをおそれないのでなければ不可能である。

今、この文によって作也の遷都の主意を考えると、その都を遷すのは必ずしも「いずれの地においてなすべし」というような具体的議論ではない。ただ単に数百年来蠧朽(※虫食い)の国家を革新し、それによって天下の耳目を一変し、さらに強大隆昌の活動的社会を造り出そうということにある。すなわち、後に現われた大久保利通の浪華遷都の議あるいは大木喬任・江藤新平らの東京奠都の建白のような具体的意見ではない。かつまた、この高橋作也の議論が必ずしも後の大久保や大木・江藤らに影響を及ぼした事実は一つも認められない。しかし、元治元年のころにおいてすでにある一派の急進的思想家の間には、このような革新の意見が流れつつあったことを認めなければならない。このため、わたしはこの議論をあえて幕末維新における遷都の卓論として、これを江湖に紹介するものである。

 以上叙述してきたものは、わたしの知れる範囲において徳川時代における遷都論者とその遷都論の大要である。しかし、これら遷都論者はいずれも一個の学者に過ぎないため、その言論を直ちに天下に実施させる地位と勢力とを持っていなかっただけではなく、幕府の威力はなお隆盛であって、これら碩学の意見を実行させるような時期に到達していなかった。このため、その言論はただ一家言として葬り去られ、いたずらにその主唱者が奇禍を幕府に買い、その終わりを全うさせない結果に陥ったに過ぎなかった。それでは、明治維新に至り、溌剌たる勢いをもって起こった遷都の議論とその運動とは、いかなる動機より発し、いかなる経路を取って進行したか、これを次章において叙説したい。