わたしは当然「場所の歴史」を重視しますから、縄文・弥生以来の下北沢周辺地域の歴史を踏まえ、旧下北沢村・代田村の範囲の地形や歴史などを調べた上でその歴史を継承するような「あとち」案を出したいと考えました。
その調査の途中で、このメルマガで謎として提示してきたことが一つ、判明したように思われます。
その「謎」とは、本誌104号から107号まで追いかけてきた、「世田谷区東部の八幡神社は、なぜ丘の南斜面にあるのか」ということです。その理由を解明するには、実はいくつかの前提が必要でした。
その前提の一つは、昨年8月に神田神保町の南洋堂書店で開催された「東京の微地形模型展」と、そこで聞いた話です。それが、今回調べた「下北沢村・代田村の歴史」特に両村の字名の変遷と組み合わさったとき、世田谷区東部の八幡神社がなぜ丘の南斜面にあるかという謎が解けたのです。
その謎解きの結論については少々お待ちいただくとして、今回は「東京の微地形模型展」の話を(半年のタイムラグで)いたしましょう。
実は、この微地形模型展では八幡神社の件とは別の謎が一つ解けたように思ったのです。
]]> 東京の微地形模型展2011年7月23日~8月27日に神田神保町の南洋堂にて開催された「東京の微地形模型展」には、開催終了前日の26日、閉店1時間ほど前に行ってそれから閉店時間までずっと模型を眺めていました。
当日はカメラを持っていかなかったので(痛恨!)携帯で撮影した写真が以下のとおりです。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No113/?sort=old
東京の皇居(=江戸城)を中心とした地形模型で、建物ではなく地形そのものの高低が見事に表現されています。木を貼り合わせたものを削ったとのことで、その自然な色の濃淡によって見やすく、また美しい地形模型でありました。
たとえば、皇居を東の方から眺めた写真がこれです。
東側の入り江を堀として利用する一方、北や西の内堀は台地を掘り込んでいることがよくわかります。
左の谷が渋谷川水系、右の谷が目黒川水系。(北西方面からの撮影)山手線は渋谷駅から目黒駅に行く途中で、渋谷川水系から目黒川水系へと分水嶺を超えて進んでいきます。
渋谷川と目黒川の分水嶺は近いうちに歩いてみたいと思っています。
こうやって地形そのものを実物(3D)で見ると、地図で眺めているのとはまた違ったものが見えてくるように思われます。
さて、この模型を見ていてふと気づいたことがありました。今、上野公園のある上野の丘(忍岡=しのぶがおか)の東側、つまり下谷・入谷から千束・浅草方面にかけて広い低地が広がっているということです。
この写真は東側からのものですが、下に流れる広い川が隅田川、画面上の右側に長方形に伸びる丘が上野の丘(忍岡)。栓抜きにも見える三角形の通路のある池が不忍池、その向こうが向丘。忍岡と向丘の間の谷が谷中・根津・千駄木の「谷根千」にあたります。
そして、上野の丘から手前、隅田川までの間が広い低地となっていることがわかります。ちょうど模型では少し濃い色になっており、その一帯が広い池にも見えてきます。
あれ、上野の丘の東に池?
上野とセットの池といえば西の不忍池だけだと思っていましたが、そういえば浅草周辺は低湿地帯だったはず、と思い至り、そして昔からの疑問と結びつきました。
それは上野の東叡山寛永寺にまつわる話です。天海僧正が江戸城の北東に位置するこの地に「東叡山」すなわち「東の比叡山」を置くことで、京の都の北東にある比叡山を模した、という話が(どこまで裏付けられるかは別にして)広く伝えられています。そして、中の島に弁天様を祀っている不忍池は琵琶湖(と竹生島)を模したのだ、と。
しかし、わたしはどうしてもそこに疑問を感じずにはいられませんでした。一つは不忍池は忍岡の「西」にあり、比叡山の「東」にある琵琶湖とはまるで逆位置になること。もう一つは、不忍池はかなり小さく、比叡山の東側に広大に広がる琵琶湖と比べるとかなり見劣りがすること。
また、京都の清水寺になぞらえたとされる清水観音堂は丘の南西斜面にあります。比叡山からはかなり離れているものの、京都の清水寺も比叡山よりは南にあり、また東山の西斜面にあるわけですから、これも方角はおおよそ合っています。しかし、さらにその清水観音堂の「西」に、東にあるはずの琵琶湖を模した不忍池があるとすれば、これは詰めが甘いと言わざるを得ません。
その疑問が一気に解けるような気がしたのです。つまり、上野の丘を比叡山に見立てたのだとすれば、その東側の下谷・入谷・千束・浅草あたりの低湿地帯が「東の琵琶湖」だったのではないか――と考えれば、非常につじつまが合うように思われます。
この点について、帰宅してから調べ直してみると、まさにその直感を裏付けるような情報が次々と出てきました。
ウィキペディアの「下谷」の項には、こんな記述があります。
1590年 領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられる。 寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄える。
寛永寺の創建は1625年なので、家康の江戸入りからは35年の歳月が経っていますが、この地域にかつて二つの池があったことは記憶に残っていたはずです。
姫ヶ池は上野の南東、今の新御徒町から南へ下がった小島一丁目・鳥越一丁目あたりから蔵前に伸びていた「三味線堀」がその名残だったといいます。また、新吉原遊廓のあった一帯が今の「千束四丁目」ですが、この千束という地名はおそらく千束池の記憶をとどめているのでしょう。
社団法人東京都地質調査業協会
技術ノート(No.39)特集:東京の地名と地形 平成18年11月
http://www.kanto-geo.or.jp/tokyo_note/No39_2.pdf
このPDFファイルの26ページの図26では、千束池と姫ヶ池がつながって一つの大きな池にも見えます。まさにこれは江戸城から見て「東の琵琶湖」と呼ぶにふさわしい規模の池だといえるでしょう。27ページの図30には旧千束池の範囲が明示されています。
隅田川西側の当時の浅草区や下谷区であった低地には、 現在の浅草公園の西側から吉原にかけて「千束池」と呼ばれる巨大な沼地があった。 この沼地は深さが20m以上もある深いものであったとの推定もあり、 浅草区北部や下谷区北部での地震・揺れの大きい地域に関連していると思われる。 現在、台東区千束はこの沼地のほぼ中央に位置し、 かつての沼の名称を継承した町名となっている。
つまり、家康が江戸にやってきた時代には浅草の西には大きな池があり、それが埋め立てられた後も「浅草田んぼ」というような低湿地帯が残っていました。この広大な「山の東の低湿地・池」があるがゆえに、上野の丘を東の比叡山に見立てることが可能になったのではないか、とも思うのです。
もう少し調べると、この一帯の「低湿地」ぶりがよくわかります。
入谷
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/iriya.html
昔、この入谷一帯は千束池の底であった。 天正の頃(1573~92)、鳥越村民がその千束池を埋立てて田圃にしたという。 江戸時代を通じて、大部分が田圃で、殆ど変化もなかったという。
なお、寛永寺は天海が二代将軍秀忠から賜った地に創建されたもので、藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の三大名の下屋敷だったものをわざわざ天海に賜ったものです。それはまさに「東の比叡山」を実現するためにこの場所がどうしても必要だったからなのでしょう。
さて、千束池が「東の琵琶湖」だとすれば、必要不可欠なのは弁天様です。琵琶湖の竹生島の弁才天は奈良時代に聖武天皇の命により作られたもので、湖の交通を守る水の神として祀られたのがはじまりです。
なお、竹生島のウェブサイトによりますと、竹生島の観音堂と唐門は「豊臣秀頼の名を受け普請奉行の片桐且元が1603年に移築した」、重要文化財の舟廊下は「豊臣秀吉の御座船日本丸を利用して作られた」と記されており、豊臣氏が深く関わったことが伺えます。
では、不忍池ではなく上野の東の浅草近辺に弁才天は? 有名な弁天様がおりました。浅草寺弁天堂にいまも祭られている白髪の「老女弁財天」です。これは由緒書きには「小田原北条氏の信仰が篤かった」と紹介されています。とすれば、家康が江戸城に入る前から老女弁財天は浅草で信仰対象となっていたといえるでしょう。
もう一つ、千束三丁目の吉原神社に弁天様が祀られていますが、これは新吉原遊廓が作られたときに土地造成でできた弁天池に祀られたものということで、寛永寺よりは後ということになります。
すなわち、千束池を東の琵琶湖に見立てるならば、東の竹生島弁才天に当たるのは浅草老女弁財天ということになるでしょう。
ただ、この対比は「忍岡=東叡山」と見立てるまではよかったものの、すでに埋め立てられた千束池では竹生島を再現するのは難しかったのではないでしょうか。そこで、方角は異なるものの、池として残っている不忍池に中の島を作り、そこを第二の東の竹生島として弁天様を置いた――というストーリーを想定してみたいと思うのです。
もちろん、この想定には今のところ文献的な裏付けはありません。しかし、「千束池(の名残の低地)こそが東の琵琶湖に見立てられた」と考えれば、あえてこの場所を選んだ天海と秀忠の思惑が見えてくるようにも思えるのです。
さて、この模型を見に来ていた方の雑談の中で、気になる言葉を耳にしました。それは「霜柱理論」というものです。これこそ、この模型と下北沢の地形を結びつけ、ひいては「世田谷東部の丘の南斜面の八幡神社」の謎の解明につながる重要なキーワードだったのです。
以下、次号。
]]>2011年7月22日、「グリーンライン下北沢」のキックオフセミナーの第2回に参加していました。
「グリーンライン下北沢」キックオフ・連続セミナー
「鉄道あとち」が「あとち」ではなくなる未来に向けて
このとき、実際に「あとち」の模型を見ながら参加者みんなで思いついたことをぺたぺたと付箋で貼っていくというワークショップもあり、楽しい雰囲気の中でいろいろなアイデアが出ました。
この中で、今回取り上げたいのはある参加者が提案した「七福神のようなものを設定して、それをめぐるようにすれば楽しいのではないか」というアイデアでした。
わたしはこの意見には諸手を挙げて賛同します。七福神巡りはこのメルマガでも過去に扱いましたが(No.065:小石川七福神、No.066:深川七福神)、スタンプラリーがあるとついつい参加してしまうわたしのような人間にとって、いろいろ巡るポイントがあるというのは非常に魅力的です。
ただし、七福神といっても通説の七福神に従わなければならないということはないと思います。それよりは地元の伝承などを踏まえて作ってしまってもかまわないのではないかと思います。
上記の小石川七福神は平成七年(1995)に始まったものです。そもそも七福神のメンバー自体が江戸時代半ばにようやく確定したもので、それ以前には定説もしっかり定まっていなかったものです。
下北沢近辺の地域になじみの深い、平成の新しい七つの福の神を設定するのも、これまでの伝承を踏まえてさらに積み重ねるという点では面白いのではないかと思います。
そういうわけで、一アイデアとして「下北沢の新七福神」を考えてみました。本当は「スズナリの隣のカトリック世田谷教会の岩窟のマリア像」なども入れたいとは思うのですが、さすがにキリスト教を混ぜるのは無理かと思い、神道・仏教系に絞ってあります。同様に、東北沢よりも東で代々木上原駅の領域と思われるモスク「東京ジャーミイ」も入れていません。
]]> ◎下北沢の寺社・祠まずは下北沢周辺の既存の寺社や祠をピックアップしてみましょう。
森巌寺の淡島堂に本尊の淡島様(少彦名神)とともに祀られている大黒天と、その隣の新しいお堂に安置されている弁財天は、ともに通常の七福神にも含まれるレギュラーメンバーです。
もちろん、下北沢の節分を彩る天狗まつりの大天狗も見逃すわけにはいかないでしょう。
それから、北沢八幡神社は文明年間(1469~87)に吉良氏によって、また代田八幡神社は1591年に吉良家家人七家によって創建された、江戸時代以前にさかのぼる由緒ある神社です。どちらも下北沢周辺の神々としては外せません(昔からの代田地区の住人には、「うちはシモキタじゃない、代田だ」という誇りもあるようですが、グリーンラインの範囲を基準に考えれば下北沢の西の要として重要な場所にあると思います)。
また、代田八幡神社の近く、北沢川緑道と環七の接するところにあるのが円乗院。吉良家家人七人衆によって1625年に建てられたということで、いわば代田八幡の兄弟寺院のようなものといえます。また、ここには円乗院遺跡という弥生時代の遺跡が発掘されています。
円乗院に接して、小さな神社ですが三峯神社があります。
街の中の祠として有名な南口の庚申堂は、映画などでも象徴的な場所として扱われており、また下北沢の商業地区の南端に近いところにあって「外界から村を守る」存在として貴重なものといえます。一方で、同じく商業地域の北端に近い北口の庚申堂があり、南北で街を守っているかのように見えます。
それ以外の石仏や小さな祠などは、細かいものまで見て行くと大変なことになるのですが、ランドマークとしてそれなりに存在感のあるものを二つピックアップしてみました。
一つは、東北沢と池ノ上をつなぐ東京都道420号線沿い、計画中の補助54号と交わるあたりにある延命地蔵尊です。この向かいには大正時代のものですが富士講の碑もあり、ちょっと古い記憶をとどめる一画となっています。
もう一つは、下北沢駅の西にある下北沢第二踏切脇の通称「踏切地蔵」。踏切事故をなくしたいという祈りを込めた地蔵で、こういう「線路の記憶」もきちんと残して伝えていきたいものです。
こうしてピックアップすると、すでに「七」を超えています。ひとまず気にせず、さらに考えてみましょう。
どうしても一つ、ここで追加したいのが「ダイダラボッチ」です。代田という地名自体が巨人ダイダラボッチ伝説に由来しています。守山小学校の近くにダイダラボッチの足跡と伝えられた沼の跡地もあり、通称ダイダラボッチ川の跡は下北沢に深い谷を刻んでいます。
柳田國男の研究でも取り上げられているくらいですから、この伝説の巨人も下北沢・代田地域ならではの「福神」の一に数えていいでしょう。そこで、「あとち」とダイダラボッチ川跡の交わるところ、世田谷区案でも公園になる場所(世田谷保育所や、最近までスポーツクラブのあった谷付近)にダイダラボッチ記念スペースを置いてみます。
以上、マッピングしてみたのがこの地図です。
より大きな地図で 下北沢「新七福神」ことのは案 を表示
では、七にするにはどうするか。二つ考えがあります。
まず、近いものをまとめてエリアとして考えてみます。東北沢に近い方から、次のようになります。
代田八幡と円乗院は代田七人衆ゆかりの寺社としてセットにしています。このエリア別七福神だと、周遊ルートが設定しやすいのも魅力です。たとえば……
代田八幡→円乗院・三峯神社→北沢川緑道→森巌寺・北沢八幡→森巌寺川緑道→南の庚申堂→ダイダラボッチ川跡→踏切地蔵・ダイダラボッチ→グリーンライン→下北沢駅→商店街→真龍寺→北の庚申堂→延命地蔵
という川沿いをたどるルートがきれいに描けます。
もう少しすっきりさせるためには、同じ神様が重複する場合に一と数えること。実際、小石川七福神でも弁財天が二箇所にあったりします。そこで残念ながら円乗院と三峯神社はカットすることにしましょう。
そうするとこんな感じで七尊になります。
グリーンラインに接しているのは代田八幡・踏切地蔵と新設のダイダラボッチだけではありますが、こんな感じで下北沢の新七福神を設定しても楽しいと思います。
故・毛綱毅曠という異端の建築家がいます。毛綱氏は建築に神秘学的な視点を盛り込み、派手にぶっ飛ばしたアイデアを出していた人物ですが、その提唱の一つに「都市の弁天軸」という概念があります。
毛綱毅曠『七福招来の建築術』には、「都市の弁天軸」についてこのように書かれています。一部引用しましょう。
神社仏閣があれば、その前で歌や踊りなどの芸能が奉納される。それが定着して見世物小屋や劇場ができる。お詣りかたがた、そうした娯楽を目的にして人が集まってくる。さらには、神社などにいる巫女が転じて、遊女になって体を売ったりする。それを目かけて、また男が集まる。もう、どんどん集まっちゃうのである。
交易のための市場ができる。そこでは、もちろんいろいろな珍しい品物、必需品を売る店が並ぶ。それを買いにやってきた人たち目あての、食い物屋も出る。ついでに体も売っちゃう女が立ったりする。どうも女が必ず出てくる。こういうところにも、人が集まってくる。人間は、いかがわしいことが好きなのだ。
そうなのだよ。この市の立つ場所、これを無縁の地というんだけれど、そのとっつきは市姫サマという女性の神様をまず勧請してから、モノや情報や愁波の交換が始まるんだ。わかるかな。そんなところから私はこれを「都市の弁天軸」とひそかに呼んでいるのだが、建築学界では、いまだに誰も、相手にしてくれないのだ。
東京の浅草は、そういう右脳都市の典型だったのではなかろうか。浅草寺の観音サマは、六二八(推古三六)年、漁師の網にかかった金の観音像を祀ったのが始まりといわれている。その後、近隣の人びとの信仰を集めたが、とくに鎌倉幕府を開いた源頼朝の尊崇を受けて、大いににぎわったらしい。
それと同時に、浅草は古くから帰化人の技術者集団が棲みついていた土地であった。瓦や陶器を焼く窯業の民、金属の鋳鍛や細工をする金属工、建築にたずさわる大工など、これらの技術者は、第三章でも述べたように、いわば異界に棲む「鬼」と見なされた人びとだ。当然、これらの技術者が造り出す物品を目あての人たちが集まってきて、活気ある市場を形づくっていたことだろう。
一説では、頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、その街造りのために、多数の技術者が浅草から徴発されたという。それほど、彼らの技術が高く評価されていたわけだ。
やがて、徳川家康が江戸に居を構えたとき、江戸城という左脳都市の中核の出現によって、江戸は世界一の巨大都市への道を歩み出す。そのとき、浅草の地に龍宮城のような「吉原」の遊廓を置いたことは、まさに都市として画竜点睛の「快挙」だった、と言ったらヒンシュクを買うだろうか?
補足しておくと、日本のイチキシマヒメ=市姫さま(市寸島比売命)が市の中心に勧請されるわけですが、そのイチキシマヒメは実はインドのサラスヴァティー女神(弁才天/弁財天)であると考えられてきました。もともとは学芸・芸能の神ですが、弁財天とも書かれたことから福徳の神ともされるようになっていきます。
また、弁財天は宇賀神とも同一視されるようになりました。宇賀神は人頭蛇身で蓮に乗る姿をしている出所不明の神で、琵琶湖の竹生島や江ノ島などでは宇賀弁才天として祀られています。
サラスヴァティーは河の神、イチキシマヒメは宗像三女神の一人で島の神様(神に仕える島の女神という名前)、宇賀神は蛇の姿ということで、いずれも水と深い関係があると考えられています。
後に七福神の一人にも取り入れられた弁天様。モノや情報の交差点としての市姫=弁天が都市の一画に右脳的(直感的・感覚的)な存在としてたちあらわれる、というのが都市の一要素として必要不可欠だった、というのが「都市の弁天軸」という考え方ということになります。
今回の下北沢「新七福神」について調べ始めたとき、森巌寺に弁財天がいらっしゃることに気づいておらず、どこかに弁財天を新設しないといけないかとも思っていたのですが、ちゃんと下北沢の南に弁天様はいらっしゃいました。「音楽と演劇」の街でもある下北沢にとって、技芸の神でもある弁天様はもちろん重要です。
また、大黒天と大国主は由来こそ違えど同一視されてきた神格で、森巌寺で大黒天と一緒に祀られている淡島様=スクナビコナはまさに大国主のパートナーの神様です。
真龍寺は昭和四年の創建と新しいのですが、その天狗まつりはすでに定着しています。特に「鬼は外」と言わず「福は内」だけ言うという非・排他的な風習はすばらしいものです。このお寺は小田原の大雄山最乗寺の分院で、大天狗こと道了尊はもともと修験道の行者だったとのこと。
八幡神は応神天皇を神として祀ったものですが、軍神として、また出生の状況から安産などの神様などとしても知られます。
ダイダラボッチの御利益など知りませんが(笑)、武蔵の平地にいた巨人というだけでも親しみが持てるでしょう。
庚申はいくつもの神々が習合したものです。日本の「塞(さえ)の神」は境界をまもり悪を内側に入れない神であり、それが中国系の道祖神とも同一視されました。また、天の神に人間の悪事を報告する虫を天に行かせないようにみんなで集まって徹夜するという風習も加わり、「地域の人々のコミュニケーション」の象徴ともなっています。
そして、地蔵菩薩は以上の神々とは格の違う「菩薩」ですが、子供をはじめとして人々を大地のように優しく包んで守り、慈悲の心によって救うといわれています。
弁天・大黒・天狗・八幡・ダイダラボッチ・庚申・地蔵の「下北沢の新七福神」は、きっとこれからも下北沢の街を守ってくれるだけでなく、盛り立ててもくれるのではないかと思うのです。
もちろんこれはブレーンストーミング的に出してみた一つのアイデアでしかありません。こんな風にいろいろと考えてみるのも楽しいのではないか、という提案です。
12月4日(日)13:30~16:30 代沢小学校講堂(体育館)
「みんなでつくるグリーンラインと下北沢~公共空間を楽しもう!」
*保坂展人(世田谷区長) *吉見俊哉(東京大学大学院情報学環教授) *太田浩史(建築家/東京大学生産技術研究所講師/東京ピクニッククラブ) *柏雅康(しもきた商店街振興組合理事長) *吉田圀吉(下北沢南口商店街振興組合理事長) *渡辺明男(おやじネット下北沢代表) *首藤万千子(羽根木プレーパーク世話人) *高橋ユリカ(グリーンライン下北沢代表)
小林正美(明治大学理工学部教授)モデレーター
*主催:グリーンライン下北沢 *共催:しもきた商店街振興組合 *後援:世田谷区 *協力:下北沢南口商店街振興組合、おやじネット下北沢
ちらしの写真はこちら→ http://bit.ly/tjmUbg
グリーンライン下北沢 http://www.greenline-shimokitazawa.org/
いろいろな立場の人たちが勢揃いする有意義なパネルディスカッションになりそうです。
※前号・前々号でグリーンライン下北沢のリンクが前身である「あとちの会」へのリンクになっていましたので、訂正しました。
]]>小田急線の東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅の三駅区間が地下化することにともなって、その地上部(あとち)の利用について「グリーンライン下北沢」を中心に議論が高まっています。
前号の最後で、ケヴィン・リンチによる都市の五つの要素を取り上げました。
線路はパスでもあり、同時にエッジでもあります。線路の進行方向に向かっては当然パス=移動路ですが、それを横切ろうとする瞬間、線路はエッジ=境界となってしまいます。
そのエッジが、あとちになることでエッジとしての性質を弱めます。それは地域のつながり方を変えることにもなるでしょう。
]]> ニューヨークのハイライングリーンライン下北沢第1回セミナーで高橋ユリカさんが発表された「ニューヨークハイラインレポート」のPDFが公開されています。
http://www.greenline-shimokitazawa.org/111110highlineREPORT.pdf
ハイラインは高架跡地をそのまま公園にしたもので、下北沢とは事情が異なる面もありますが、ほぼ同じくらいの距離の計画として非常に注目すべきものです。
詳しくはPDFをじっくりお読みください。
このハイラインのようなものをそのまま下北沢にも、というわけではありません。当然、場所に合った計画というのはまったく異なるはずです。しかし、ハイラインの事例を参考にするとき、学ぶべきことは多々あります。その中でも最も重要なのは、「数多くのアイデアが寄せられた」というところにあります。
下北沢のあとち利用のデザイン案については、公募が行なわれていません。グリーンライン下北沢が中心となって計画案を募集しようという動きもありますが、実際に決定権を持つ小田急電鉄と世田谷区にもその動きを取り入れてもらう必要があります。
市民案を検討することは、区は当然として、小田急にとっても利益こそあれデメリットはないと思われます。少なくとも市民・住民・利用者その他興味を持つ人たちの意見に「耳を傾ける企業」であるというアピールは決してマイナスではありませんし、社会と企業がともに作り上げる事例を打ち立てるのはむしろよいプロモーションにもなると思います。
このメルマガでしばらくあとち利用について集中して書いてみようと思っているのも、自分なりのアイデアをまとめたいという思いがあるからです。
グリーンラインというのはあくまでも仮称で、横浜地下鉄と名称がかぶるというような指摘もありますが、「緑の帯」ができることには違いがありません。グリーンベルトでも何でもいいとは思います。
ただ、このグリーンラインを地図上に置いてみたとき、一つのことに気づきました。下北沢周辺には、これからできるグリーンライン以外にも緑が多くあります。
有名なのは北沢川緑道です。これはもともと北沢川・北沢上水を一旦暗渠(地下水路)にし、その上に改めて浄水済みの水を流しているものです。
特に環七から烏山川緑道・目黒川緑道との合流点までは下北沢地域南部の美しいせせらぎとして、地元の人たちも誇りに思っているすばらしい緑道です。これは松沢病院の敷地内に水源があり、小田急線沿いに東へ流れ、梅ヶ丘駅からやや南に折れて東へと流れていきます。この支流として、下北沢駅東側を南北に流れて茶沢通り沿いに進む森厳寺川緑道もあります。
また、梅ヶ丘駅の名称のもとになった羽根木公園は、梅の木で有名な丘です。
こういった緑地をイメージしたところ、グリーンラインと合わせるとぐるりとめぐるグリーンサークルになるんじゃないかと思いつきました。そこで作ってみた地図がこちらです。
より大きな地図で 下北沢グリーンサークル を表示
こうやって見ますと、二つのイメージが見えてきます。
仮に「グリーン・トライアングル」と「グリーン・サークル」と名付けてみましょうか。
グリーン・トライアングルは下北沢南口から南・南西方向に伸びる形となります。小田急線あとち・(梅ヶ丘駅または代田八幡)・北沢川緑道・(森厳寺・代沢八幡)・森厳寺川緑道で囲まれた三角形です。
もしあとちが緑化されて安心して歩ける空間になるのであれば、一周六キロくらいの周遊路ができることになります。徒歩で回遊できる緑のルートが都会にできるとすればすばらしいでしょう。また、都市デザインにおいては「回遊性」、すなわちぐるりと回ることのできるルートは非常に重視されます。
下北沢の街の賑わいと、それにすぐ接する回遊性グリーン・トライアングル。そう書いてみただけでもワクワクしてきます。
もう一つは、広域下北沢地域をぐるりと囲む緑の環、グリーン・サークルです。
グリーン・サークルはもう一回り大きくなります。西の端は羽根木公園、南の端は北沢川緑道、東の端は東大駒場IIキャンパスの西端の急斜面の緑、北の端は下北沢北部のランドマークとして有名な五本のヒマラヤ杉を想定しましょう。これをぐるりと囲んだ範囲が下北沢グリーン・サークルです。
一般的に広域の下北沢居住圏と比べると、北が少し欠け、西にはみ出している感じになります。もう一回り大きく北に拡大すると玉川上水の緑道や宇田川の水源近辺も含まれるのですが、さすがにそこまで拡大すると遠いようにも思われます。このサークルがおおよそ下北沢圏のイメージにも合っていると思います。
(下北沢の範囲については藤谷治さんの小説『下北沢』でも不毛な議論として扱われていますが、このサークルのイメージは共通理解に近いと思います)
地図には公園・寺社などの公共空間を中心にマッピングしましたが、これ以外に学校や小公園、そして個人宅の緑なども加えると、緑の多い空間がイメージされます。その中で、サークルを斜めに横切るグリーンラインは、グリーン・サークルの中軸として大きな意味を持つことになるでしょう。
長さ約2km、幅約40メートルの「線」としてとらえるだけでなく、トライアングルの一辺でもあり、サークルの直径でもあると見て、広い視野からグリーンラインの意味を見直すことも必要だろうと思われます。
また、この地図で浮かび上がるのは、森厳寺川の緑道が現在南北で分断されていることです。井の頭線・小田急線で分断されており、その一部は駐輪場になっています。
ところが、井の頭線は斜面の法面を削って高架に変える計画もあり、もちろん小田急も地下化するわけですから、これをつなぐこともできるのではないかと妄想します。少なくともかつての川の名残としての細道がつながるだけでも、地域の記憶をよりよく伝承できるようになるのではないでしょうか。
]]>東京都世田谷区の下北沢の再開発については、大きく二つの要素があります。一つは「小田急線複々線化・地下化工事」という鉄道の問題であり、もう一つが「補助54号線・区画街路10号線」という道路の問題です。この二つは本来は別のものなのですが、予算的には密接に絡んでいるというややこしい状況です。
とりあえず、予定より遅れてはいるものの、小田急線の地下化工事はすでに進んでいます。一方で、道路の方はまだ着工されていません。
下北沢の再開発問題について、小田急線の地下化そのものについては反対は現在ほとんど見られません。開かずの踏切解消や駅のバリアフリー化などについて、駅デザインや構造について意見は出されているものの、地下化自体に反対という声はほとんどないのが現状です。
一方で、すでに栄えている商圏のど真ん中に広い道路を通すことについては、賛否両論の激しい議論が展開されています。これは、東西を結ぶ幹線道路としての補助54号線と、駅前ロータリー整備の区画街路10号線の計画ですが、ロータリーによって外国人観光客にも評判の高い「下北沢北口驛前食品市場」がなくなるなど、数々の問題があります。
そして、地下化工事と道路の工事がセットで認可されているため、慎重論があるにも関わらず、道路を「作らねばならない」という前提がありました。
また、下北沢では駅周辺に商業地があり、そのすぐ外側を住宅地が取り囲んでいます。古くからの住人、新しい住人、道路の通る北口の商店街、道路の影響のない南口の商店街、本多劇場に代表される演劇・音楽の街に集まる人々、東大・明大などの学生……。それらの人々の間に微妙な対立意識もあり、意見もまとまりにくい状況にあります。
ただし、東日本大震災後、状況は少し変わっています。元社民党の保坂展人氏が区長となり、防災の観点も含めてこの下北沢再開発問題を根底から見直そうという流れになってきているのです。
さて、これからしばらく扱いたい「グリーンライン下北沢」は、小田急線の地下化と結びついています。
新宿に近い方から、小田急線の東北沢駅、下北沢駅、世田谷代田駅の三駅が地下化されます。ということは、当然、その「あとち」に空白地帯が生まれることになります。
全長2.2km、幅40メートルの巨大な「あとち」が、都会のど真ん中に突如生まれることになるのです。このあとちをどのように利用するか。それが「グリーンライン下北沢」という仮称で考えられています。
地図はこちらをご覧ください。Googleマップの航空写真に、駅名や通り名だけを入れてあります。しかし、東北沢駅・下北沢駅・世田谷代田駅をつなぐ空間として、航空写真でもわかるくらいの幅のラインがはっきりと見えると思います。
日本においては、これまで線路の立体化はほとんどが高架化によって行なわれており、今回のように地下化によって地上部に広大なあとちができるという事例はほとんど経験していないようです。
法的には、あとちの所有権は85%が鉄道会社、残り15%が自治体ということになっているのですが、これも従来の高架下は用途が限られることなどから決められた数字で、グリーンライン下北沢の場合はこれまでとは事情が異なっています。
世田谷区の案では、全体を歩けるように(また緊急時に緊急車両が通れるように)歩道を整備するということにはなっていますが、具体的にどのような空間にするかについてはどうしても「お役所仕事」としての制限があるようです。一方、小田急については駅舎付近のデザインぐらいしか提示されていないのが現状です。
そこで、近隣の住民をはじめとしてあとちの利用に興味のある人たちが、その利用法について考え始めています。
2011年の動きをまとめておきましょう。
グリーンライン下北沢3回連続セミナー開催『みんなでつくるグリーンラインと下北沢』
このように、みんなで考えていくという前向きな動きが始まっているのは、非常によいことだと思います。
住人・商人・来訪者のすべてにとって「よい空間」を作れるならば、それは全国的にも注目される事例となるでしょう。昔からの住人(特に高齢者が多い)も、下北沢の雰囲気や文化が好きな若い人たちも、商店主も、みな喜べる空間をいかにして作っていくか。
わたしはこのプロジェクトに強く興味を持っています。連続セミナーにも過去2回続けて参加しました。第3回にも参加予定です。それだけではなく、このメルマガという媒体を持っているわけですから、自分自身のアイデアも出していきたいと思っています。
できるだけ多くの人がいろんなアイデアを出す。それが今大切なことなのです。批判よりもまずは自分の案を出すことです。
ケヴィン・リンチは都市を五つの要素に分類しました。
下北沢では特にパスとノードが目立ちます。
下北沢駅自体が「ノード」の最たるものといえるでしょう。それは、新宿と小田原を結ぶ小田急線、渋谷と吉祥寺を結ぶ京王井の頭線という二つの「パス」の交点です。また、南北のラインとして茶沢通り・鎌倉通りが駅近くを通り、また環七も少し西を走っています。
わたしが最近強く思うのは、パスは同時にエッジでもあるということです。特に強固なパス、すなわち通行量の多い道路や線路は、一方で二つの場所をつなぎながら、その左右の交通を遮断してしまいます。小田急の場合は、いつまで経っても踏切が開かない「開かずの踏切」がありました。この存在自体が、「エッジとしての小田急線」の性質を示しているように思われます。 世田谷代田の駅近くにはかつては中原という地区が栄えていましたが、環七が通ることで分断され、今はその面影はほとんどありません。
96号(有料版)「水の東京を訪ねて東京水辺ライン」のときには、逆にこれまで「エッジ」だと思ってきた隅田川がまさに「パス」であるということを体感しました。川もまた「エッジ」であり「パス」なのです。
ディストリクトは、ひとまとまりの街の雰囲気といえばいいでしょうか。下北沢駅周辺の低地=沢の一帯が商圏になっているのに対し、そこから少し丘を登るとすぐに住宅地が広がります。これほどの規模の商業的な街のすぐ近くに住宅街があるというのは、世界的に見ても珍しいそうです。これは、下北沢が丘と沢のある起伏に富んだ地形であるということも関連していると思います。
リンチの5つの要素は、必ずしも揃っていなければいけないものではありません。下北沢の場合、無理に「ランドスケープ」を設定する必要はないでしょう。特に視覚的なランドスケープとしては、高い建物が低地に建てられていることもあって、建物の形自体の印象はさほど強くありません。あえて言えばスズナリなどの印象的な場所はありますが……。
リンチの都市の5要素をざっと見てみましたが、次回から、これまでのセミナーなどで学んだことなど含めて自分の案を作っていきたいと思います。
12月4日(日)13:30~16:30 代沢小学校講堂(体育館)
「みんなでつくるグリーンラインと下北沢~公共空間を楽しもう!」
モデレーター:小林正美(明治大学理工学部教授)
ちらしの写真はこちら→ http://bit.ly/tjmUbg
グリーンライン下北沢 http://www.greenline-shimokitazawa.org/
いろいろな立場の人たちが勢揃いする有意義なパネルディスカッションになりそうです。
]]>No.085:東京都内の都道府県「アンテナショップ」巡り(前編)2010年06月07日
No.086:東京都内の都道府県「アンテナショップ」巡り(後編)2010年06月14日
東京都内には都道府県の「アンテナショップ」が多数出店されています。
アンテナショップとは、もともと製品紹介や、消費者の反応を見るために
作られるショップのことで、どうやら和製英語のようです。
東京都内、特に日本橋・京橋・銀座・有楽町・新橋一帯のエリアには、都
道府県が出店しているアンテナショップが集中しています。これは地元の
観光ガイドや特産品紹介のみならず、企業誘致などのアピールを行なって
いるところもあります。
去年5月のアンテナショップめぐりでは、2日間で都道府県アンテナショッ
プ37軒(34都道府県)、総合的アンテナショップ5軒(うち1軒は営業時間
終了後)を回ることができました。このときのルールとしては、「同一都
道府県のショップが複数出店されているときには、必ずしも回らなくてよ
い」ということにしていました。その結果、長崎を除いて都内にアンテナ
ショップが展開されている都道府県はすべて網羅できたのでした。
さて、今回の東日本大震災では、東北の太平洋側沿岸を中心として大きな
被害が出ました。経済を回すことが大切だとも言われていますが、被災地
の産品を積極的に購入することができれば現地の収入を支えることにもな
り、一石二鳥とも考えられます。
そこで今回、特に被害の大きかった青森・岩手・宮城・福島のアンテナシ
ョップを、重複をいとわずにできるだけまわる計画を立てました。
今回、該当するアンテナショップは以下のとおりです。このうち、◎は前
回も訪れたところ、○は初訪問、△は今回訪問を断念したところです。
【青森県】
○飯田橋:あおもり北彩館東京店(千代田区富士見2丁目3-11)
◎新富町:青森県特産品センター(中央区新富1-3-9)
○戸越銀座:JA全農あおもり(品川区平塚2-14-8)
○亀戸:青森物産ショップむつ下北(江東区亀戸3丁目60-17)
【岩手県】
◎東銀座:いわて銀河ショップ(中央区銀座5-15-1)
【宮城県】
◎池袋東口:宮城ふるさとプラザ(豊島区東池袋1-2-2)
【福島県】
◎八重洲:福島県八重洲観光交流館(中央区八重洲2-6-21)
△葛西:アンテナショップふくしま市場(江戸川区東葛西9-3-3
イトーヨーカドー葛西店内)
葛西はちょっと遠くなるために断念しました。
一方、アンテナショップ密集地は日本橋~有楽町・銀座~新橋のエリアな
ので、飯田橋や戸越銀座は前回未踏に終わりましたが、今回はこちらを含
めることとしました。また、ツイッターで亀戸に新しいアンテナショップ
(むつ下北)ができたという情報も得ていたので、それもルートに入れる
ことにしました。
これ以外のアンテナショップもルート上にある場合は立ち寄るというのが
今回の計画です。
なお、茨城・千葉も被害は大きいのですが、都内にアンテナショップを出
していないのでこのリストからは漏れています。
また、日本海側の東北二県ショップは今回は見送りとしました(前回立ち
寄っています)。
◎おいしい山形プラザ(中央区銀座一丁目5-10)
◎秋田ふるさと館(千代田区有楽町2-10-1東京交通会館1F)
今回のコースはこんなルートとしました。
飯田橋→(JR総武線)→亀戸
→(JR総武線→浅草橋駅→浅草線→宝町駅)→新富町
→(徒歩)→築地・東銀座・銀座・八重洲
→(東京駅→JR山手線→五反田→東急池上線)→戸越銀座
→(東急池上線→五反田→JR山手線)→池袋
池袋起点にすると、池袋→(有楽町線)→飯田橋と一本で行けて無駄がな
いのですが、こちらの出発地が渋谷か新宿経由であること、池袋の宮城シ
ョップは何度も行っているので時間切れの際は断念することを想定して最
後になりました。
写真はこちら
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No109/
カメラの設定が失敗していたようで、全体にピントが甘くなってしまいま
した。参考程度にご覧ください(携帯で撮った方がマシな感じでしたので、
その写真も加えてあります)。
○飯田橋:あおもり北彩館東京店
最初は飯田橋のあおもり北彩館です。飯田橋駅の西口(神楽坂の方)から
早稲田通り沿いに歩いてすぐ。こちらには青森県の特産品が一通り揃って
います。ここは品揃えも悪くありません。
購入品:ぐるっと八戸味めぐり むしりたら(八戸市・味の海翁堂)
続いて飯田橋からJR総武線に乗って亀戸駅まで一直線に向かいます。
○亀戸:青森物産ショップむつ下北
亀戸周辺を歩くのは初めてです。亀戸駅北口へ向かいます。ショップは亀
戸香取神社参道の商店街の中にあるというので、駅に置かれていた亀戸周
辺マップで神社を目指して歩きます。
駅から5分少々で、亀戸香取・勝運(かちうん)商店街の入り口に着きます。
江東区で「レトロ商店街」としてアピールしているようで、なかなかおし
ゃれな感じのお店が多く見られます。その一角に「むつ下北」がありました。
実はこのお店は震災翌日の3月12日オープン。そのため、来る予定だった
取材なども軒並みキャンセルになったようです。店主の方からいろいろお
話をうかがいました。店主はもともと下北半島出身でしたが、東京生活も
長く、下北半島の物産を紹介したいということでアンテナショップを開店
することにしたそうです。つまり、このお店は個人によるお店で、行政が
絡んでいる他のアンテナショップとはちょっと毛色が違うようです。また、
都道府県単位でなく、県内の一部地域を扱う店舗としては初めてではない
かとのこと。
いろいろアンテナショップをめぐって研究されているようで、こぢんまり
としたお店ですが商品のセレクションもバランスよく感じました。下北の
ひばもプッシュされていたり、これから楽しみです。
ただ、震災で物流が滞っており、前日やっと入荷したものもあるという話
でした。
購入品:
直火焼りんごカレー・ルー(弘前市・岩木屋)
ほたて煎餅(むつ市・八戸屋)
神社の参道なので、突き当たりが亀戸香取神社です。亀戸の名前の由来に
なった「亀が井戸」が復元されており、まさにここが亀戸の中心というこ
とになるようです。
そこから5分ばかり歩いて亀戸天神社へ。ここは東京十社の一つにも入って
います。東京十社ではそれぞれ小さな絵馬を販売しており、それを全部集
めて貼ると大きな絵馬になる仕組みがあるのですが、これで4つめの絵馬が
揃いました。
亀戸天満宮からはスカイツリーがよく見えます。スカイツリーと赤い橋、
古い神社の組み合わせが見られるという意味では、極めてよいロケーショ
ンだと思われます。
池にはかなり多くの亀がいました。その横に一羽の鳥が。アオサギのよう
ですが、絵柄的にはちょうど「鶴と亀」っぽい雰囲気でめでたい様子です。
さて、ゲニウス・ロキっぽい神社をめぐって、亀戸駅に戻ります。
◎新富町:青森県特産品センター
亀戸からJR総武線で浅草橋駅へ。そこで地下鉄浅草線で宝町へ向かいます。
新富町の青森県特産品センターは前回も行きましたが、他のショップから
一つ離れて建っており、しかも最寄り駅が宝町・八丁堀・新富町と、いず
れの駅からも少しずつ離れています。
宝町から高速をくぐって新富町一丁目交差点の角へ向かうと、小さなスー
パーのような特産品センターがあります。こちらのお店では、商品ごとに
青森県のどのあたりの産品かを小さな地図にマークで教えてくれるので、
非常に参考になります。アンテナショップでは、その県の地図を用意する
こと、商品がそのどこからきたのかがわかりやすくすることは大事なこと
だと思います。
今回は震災復興支援ということで主に太平洋側のものを選びました。
購入品:
紫蘇梅漬(※八助梅=杏)(八戸市南郷区・島守農産加工グループ)
テレビでも紹介されたもののようです。
http://www.kenminkan.com/user/scripts/p_product.php?product_id=49
杏の梅漬け | 秘密のケンミン館
☆築地・東銀座
さて、ここからもう一度浅草線に戻って戸越駅まで行けば4軒目の戸越銀
座の青森ショップに行けるのですが、他の県のアンテナショップがありま
すので少し回っていくことにします。
徒歩で築地の方向へ。ちょっとした散歩という感じです。
築地の場外市場に長崎ショップと高知ショップがあります。こちらは前回
完全に見逃し、その後別の機会に訪れたときには時間が遅くて閉店してい
たという、なかなか出会えないアンテナショップです。
今回は長崎ショップはやはり閉まっており、高知ショップがかろうじて開
いていましたが、片付けが始まっているようでした。やはり築地は朝に来
るべきでしょう。
築地から東銀座に向かいます。途中のナチュラルローソンの中に信州ショ
ップがあります。そこからさらに進んで、すでに取り壊された歌舞伎座の
向かいが、アンテナショップの中でも極めて充実度の高い、いわて銀河シ
ョップです。
◎東銀座:いわて銀河プラザ(中央区銀座5-15-1)
前回のアンテナショップめぐりでの個人的ランキングでは、沖縄わしたシ
ョップと一位・二位を争うほどの充実度を見せているいわて銀河ショップ。
ところが、今回は店内の棚ががらんとしてしまっています。入荷が滞って
いるようなのです。
三陸名産いちご煮(ウニとアワビのお吸い物)の缶詰などはありましたが、
これも一度売り切れたら次に届くのはいつになるでしょうか……。
購入品:
ウニとアワビのお吸い物三陸名産いちご煮(洋野町種市・宏八屋)
いわて盛岡発 じゃじゃ麺(奥州市胆沢区・小山製麺)
☆東銀座から銀座へ
いわて銀座プラザから少し行くと、私のすきな「ぐんまちゃん」が待って
います。群馬県アンテナショップ「ぐんまちゃん家(ち)」は、改装して
広くなっていました。
さらに銀座・有楽町方面へと向かいます。ソニービルのPLAZA GINZAの角を
南に行くと、熊本県アンテナショップ「銀座熊本館」の向こうに、めざま
しテレビの全国物産ショップ「めざマルシェ」があります。前回来たとき
には13階建てのビルまるまる使った47都道府県総合物産アンテナショップ
になっていたのですが、現在は4階のみに縮小、しかも節電のため1階・2階
のみの営業となっていました。以前はてっとりばやく都道府県物産を手に
入れるならここが一番お手軽だったのですが、品揃えも少なく、ちょっと
寂しい状況になってしまっていました。
さて、有楽町には多数のアンテナショップがあります(秋田県の「秋田ふ
るさと館」もその一つ)。しかし、今回は先を急いで北上します。
間もなく見えてくるのが、私の評価ではアンテナショップ最高峰の沖縄
「銀座わしたショップ」です。立ち寄ると時間を過ごしてしまいそうなの
で、表のシーサーに挨拶だけして終わりにします。
その隣に新しくできた店が、高知の「まるごと高知」です(2010年8月21日
オープン)。ここもなかなかよいお店で、築地のコウチ・マーケットと吉
祥寺の高知屋に続く店舗として非常に力が入っています。地下の「とさ蔵」
もお酒や工芸品などが揃っていい感じでした。
◎八重洲:福島県八重洲観光交流館(中央区八重洲2-6-21)
そこからさらに東京駅に向かって行くと、八重洲ブックセンターの手前に
福島県のアンテナショップがあります。看板が「ほっとするふくしま」に
なっていました(ちょくちょく変わっているような気もします)。以前店
頭にいた赤ベコの姿が見当たらないのですが、震災前から修理に出ていて、
今も元気だそうです。
さて、震災もさることながら原発の被害も大きい福島ですが、できれば福
島産の食品を買って応援したいなと思いました。しかし、なかなか浜通り
(福島県の沿岸地方)の産品がありません。全体にかなり品薄とはいえ、
会津や郡山などの産品はけっこうあるのですが……。
購入品:
いわき名物 長久保のしそ巻(いわき市・長久保食品)
鮫川 達者の味噌(鮫川村産大豆「ふくいぶき」100%使用)(製造者=鮫川村)
ちなみに、先日、福島産の米を買いました。収穫は去年の秋で、都内にず
っと保管されていたのだから、たとえ原発から数キロ以内で収穫されたも
のだとしても放射性物質を気にしなくていいのは当然です。しかし、買い
控えが多いのも事実。
買えるうちに福島米を使った味噌を買っておこうと思ったのでした。
さて、ここからは東京駅へ。八重洲口の高速バスターミナルを通って気づ
いたのですが、いわき駅までは高速バスが復旧していたのですね。
東京駅から山手線で五反田駅へ。五反田あたりはあまりなじみがないので、
東急池上線の五反田駅ホームが地上4階にあることに少し驚きました。池上
線ホームからJRホームを見下ろすとなかなか壮観です。
○戸越銀座:JA全農あおもり アグリショップ東京店(品川区平塚2-14-8)
以前から来たいと思っていた「戸越銀座」初上陸です。「○○銀座」と名
が付く第一号商店街で、これは震災後に銀座のがれきで低地を埋め立てた
ことに由来します。足下の銀座の名残に思いを寄せつつ、JA全農あおもり
アグリショップ東京店へと向かいます。
こちらはずらりと並んだリンゴが4個400円(1個120円)と壮観。青森も入
荷が減っているとはいえ、岩手・宮城・福島に比べればまだ品揃えが復旧
している方だと思われます。
購入品:
豚トロスモーク(パストラミ)(田舎館村・青森畜産公社)
パストラミというのはそのまま食べられるらしく、パンやレタスで挟んで
食べると美味しいらしいです。
最後の池袋はさすがに体力的に無理かと思いましたが、山手線で座れたの
でそのまま向かいます。
◎池袋東口:宮城ふるさとプラザ(豊島区東池袋1-2-2)
池袋東口の宮城ふるさとプラザはこれまで何度か行ったことがありますが、
棚ががらがらになってしまっていました。ずんだ餅があれば買おうと思っ
ていたのに、全然なくて断念。
ちなみに、節電と在庫薄のために、営業時間が18時までとなっていました。
今の時期にアンテナショップに行かれる方は、できるだけ早い時間に行か
れることをおすすめします。
購入品:
手造り銘品 しそ巻くるみ揚(大崎市鳴子温泉・狩野食品)
仙台麩(あぶら麩)(登米市・山形屋商店)
カラフルリーフレタス(宮城県産)
というわけで、ここで今回のアンテナショップめぐりは終了となりました。
葛西にはまた改めて行きたいと思います。
◎行程を振り返って
東北産品を積極的に購入することが現地の復興の役に立つことは間違いな
いと思います。アンテナショップ以外でも東北の品物を買っていきたいと
思います。
また、今回アンテナショップを回って、これらのお店が「東京に地元の商
品や観光情報を紹介する」という機能だけではなく、もっと広い意味で、
東京と各都道府県を「つなぐ」役割を持っていると感じました。入荷がと
どこおって品薄であるという事実一つを見ても、現地とのつながりが深く
感じられます。
◎推奨ルート
実際にアンテナショップを回りたいという場合、以下の点にご留意くださ
い。
・青森県ショップは4店舗ありますが、品揃えはやはりかぶっているもの
がけっこうありました。4店舗すべてを回ろうと無理をせず、別の県のシ
ョップを回るように考えた方がよいと思われます。
・今の時期、節電や在庫の関係で営業時間が短縮されています。5時くら
いまでに全部回れるように余裕をもってルートを決めるのがよいと思われ
ます。
・東北6県すべてをまわる最短ルートは、
池袋(宮城)→(有楽町線)→飯田橋(青森)→(東西線)
→(日本橋駅乗換)→(都営浅草線)→東銀座(岩手)
→(徒歩)→銀座一丁目(山形)→(徒歩)
→有楽町東京交通会館(秋田)→(徒歩)→八重洲(福島)
となると思われます(徒歩少なめを考慮し、アンテナショップ密集地の
銀座・有楽町近辺を中心としました)。
山形・秋田を省略する場合は、いわて銀河プラザから銀座駅まで歩き、
メトロ銀座線で一駅の京橋駅下車が楽です。
思ったよりも意外と歩きますので、無理のないように計画を立ててくだ
さいね。もちろん、健脚の方はその限りではありません。
─────────────────────────────────
■がんばろう!福島フェア!!
─────────────────────────────────
八重洲ブックセンター隣の福島アンテナショップで、4月2日・3日(土日)
に「がんばろう!福島フェア!!」をやるとのことです。
販売品目は、いちご・アスパラガス・きゅうり・しいたけ・たらの芽。
売上金は福島県内被災者のための義援金として、福島県災害対策本部へ寄
付されます。
さて、この「はやぶさ」試乗会があるということで、ダメもとで応募して
おりました。ネットから切符を予約できる「えきねっと」と、モバイル
Suicaの会員であることから当選確率はアップして4倍くらいになっていま
したが(ジパング倶楽部会員だとさらにアップのはずでしたが、さすがに
年齢制限あり)、当たればラッキーくらいの感じでした。
報道によると応募者数は当初の定員の実に60倍に及び、急遽当選者数を増
やしたもののそれでも56倍になったといいます。
ところがなんとその56倍の抽選に当たってしまったので、2月19日土曜日、
試乗会に参加してきました。
午後4時までに集合とのことで、大宮駅に3時すぎに到着して手続きをしま
す。資料と「おみやげ」の入った紙袋をもらいました。当たった席は2号車。
まだ早いかなとも思いつつ試乗会当選者用の入り口を通ってホームに上が
ります。すると、そこにはすでに青緑色の「はやぶさ」がすでに待ち構え
ていました。
なかなかの風景なので急遽「にわか撮り鉄」になって、はやぶさの外観を
撮影。どうやら下り電車なので後ろが1号車になるようです。ひとまず座席
に荷物を置いてから、ホームに出て先頭まで行ってみることにしました。
写真はこちら。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No108/
いつものようにはてなフォトライフでちゃんと「撮影順」に並んでくれな
いものがあるので順不同になっておりますがご了承ください。
動画はこちら。
東北新幹線E5系「はやぶさ」試乗会外観2011/2/19
http://www.youtube.com/watch?v=GP_Jm7VowdM
途中のパンタグラフが、ガンダムのホワイトベースの艦橋のような形にも
見えます。このパンタグラフの横についた翼が停車時に広がってブレーキ
の補助となるらしいのですが、停まっているとその様子はさすがにわかり
ません。
先頭に向かうと、座席のランクが急激に上がります。グリーン車の入り口
は上品なワインレッドで縁取られ、席もかなりゆったりしているようです。
そしてその先、立ち入り禁止だったのですが新幹線初の「ファーストクラ
ス」が売りの「グランクラス」の座席がありました。非常にゆったりして
いて読書灯もおしゃれな感じです。まさに高級感あふれる「ワンランク上
の」座席という差別化がよくわかります。ちなみに料金も普通車の倍くら
い。
先頭まで行くと向こうのホームに従来の東北新幹線や秋田新幹線の車両が
やってきましたので、新旧車両のツーショットを撮ってみたりもしました。
そして再び普通車に戻ります(我々試乗会組は普通車しか入れませんので)。
座席の下にはコンセントがついていて、ノートパソコンなども電池切れを
気にせず使うことができます。
そしていよいよ16時26分、仙台駅に向けてはやぶさは出発しました。隣の
ホームの先頭に群がって写真を撮っている「撮り鉄」集団を横目に、はや
ぶさはなめらかに運行開始しました。
◎300キロとアテンダント
出発後しばらくして、車内アナウンスではやぶさの案内が流れました。こ
の案内についてはデジカメで録画していましたので、動画をご覧ください。
東北新幹線「はやぶさ」試乗会2011/2/19
http://www.youtube.com/watch?v=tUqMTZw-A0Q
時速300キロ(当初。いずれさらに高速化)というスピードと安定性・快適
性をともに追求したというはやぶさ。確かに揺れは少ないですし、トンネ
ルに入った時の変な衝撃もほとんど感じず、売り込みどおりの「快適さ」
を感じました。
ただ、個人的には時速300キロについてはすでに上海リニアで体験していた
こともあり、それ自体に感じるところはあまりありませんでした。体感的
にも時速300キロといっても違いがよくわからないレベルだと思います。
さて、このはやぶさの最大のポイントは、新幹線初の「アテンダント」の
存在です。飛行機のキャビンアテンダント同様、グランクラス・アテンダ
ントがサポートすることになるようです。このアテンダントのお披露目も
車内で行なわれ、しかも写真撮影可ということで撮らせていただきました。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20110219170559 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20110219170653 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20110219170705
1時間半ほどの行程で仙台に時間どおりに到着。快適さは文句なしだと思
いました。
◎仙台にて
さて、実は翌朝に都内で用事があったので、仙台では一泊するのみ、朝は
7時14分の新幹線に乗って帰らねばならないというハードスケジュールで
した。仙台駅に着いたのも6時ごろですので、行けるところも限られています。
土曜日は天文台のプラネタリウムが特別に遅くまでやっているという事前
情報がありましたので行こうかと思いましたが、天文台が仙台駅から結構
離れた場所に移転してしまったので、時間がもったいないのでやめにしま
した。
そこでまずは青葉城へ。寒い中、ほとんど人もいませんでしたが、とりあ
えず伊達政宗の像の足下から仙台市内の夜景を見下ろします。
それから仙台の夜の街・国分町へ向かって牛タン屋へ。どういうわけか2軒
ハシゴしてしまいました。最初は「閣 ぶらんど-む店」にてタタキとたん
焼き。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20110219193101
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20110305134300
お通しの「たんの角煮」も美味しく、たたきは絶品でした。
2店目はちょっと庶民的な雰囲気の小さなお店、稲荷小路の「味楽」へ。
こちらのタン焼きは、とにかくスジをまったく感じない柔らかさが素晴ら
しく、ゆず酒と一緒に(二軒目なのに)どんどん食べてしまう勢い。お客
さんも和気藹々とした感じで楽しめました。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20110305134301
ゲニウス・ロキ的な場所にはあまり行けなかったのですが(商店街の不動
尊も閉まってました)、今回は時間の都合もあり、牛タンを堪能して終わ
りという感じでしたが、時にはそういうこともあるということで……。
翌朝は新幹線車内にて仙台伊達弁当。それからお土産に笹かまぼこと「む
すび丸」人形を買って帰りました。
前回まで「世田谷の八幡宮のうち、吉良氏にゆかりのある八幡神社は、丘 の南斜面にあるものが多い」ということを実際に回っていきました。
百パーセントではないものの、かなりの法則性が見られるように思われま す。そこで、2011年1月1日、初詣を兼ねて世田谷区八幡神社最後の一つ、 自由が丘・奥沢の奥沢神社を目指すこととしました。
ちなみに、事前に軽く調べたところでは、奥沢神社も吉良氏系の八幡神社。 さてどうなりますやら。
今回の写真はこちら。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No107/
どうも最近ははてなフォトライフがちゃんと「写真の撮影順」に並べてく
れなくなってきたので困ります。前後混乱していますがご了承ください。
(写真のEXIF順にきちんと並べてくれてフォルダ単位で管理できるサイト
があればぜひご教示ください)
今回歩いたルートはこちら。
]]> ◎九品仏(九品山浄真寺)渋谷から自由が丘駅まで乗って、それから通称「九品仏」こと浄真寺に向 かいます。ここに立ち寄ろうと思ったのは、今まで行ったことのない有名 なお寺だったというのもありますが、このお寺の場所が吉良頼康の建てた 吉良氏の城だったという歴史があったのが大きな理由です。
そう、田園調布八幡神社が「奥沢城の入り口に当たる川港の岬」にあった という話がありました。田園調布八幡の港は、九品仏の奥沢城と深い関係 があったのです。世田谷吉良氏の旧跡として、やはりここは訪ねずにはい られません。
小田原の北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後は廃城となり、その後江戸時代 に入って浄土宗の寺が建てられました。
最寄り駅は「九品仏駅」ですが、電車で一駅の近いところにあるので自由 が丘駅から歩いて行くことにします。
元日の東京は人口が減っているとはいえ、初詣のスポットにはやはり人が 多いようです。お寺の境内に入るとやはり賑わっていました。
九品仏というのは、九体の阿弥陀仏が名称の由来です。悟りに至りやすい 人間からそうでない人間まで、上から「上品(じょうぼん)」「中品(ち ゅうぼん)」「下品(げぼん)」に分け、さらにそれぞれを上生・中生・ 下生の九段階に分けます。つまり、上品上生・上品中生・上品下生・中品 上生・中品中生・中品下生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の 「九品(くほん)」です。
上品上生は仏教の教えをしっかり守っている聖人レベル、下品下生といえ ば地獄行き間違いなしの極悪人というわけです。世間で言う善人レベルが 中品下生あたり。
そして、阿弥陀仏はその九品それぞれをすべて救われる、という浄土教の 教えに従って、それを九体の阿弥陀仏で表現したのが九品仏ということに なります。
ちなみに、私が「九品仏」に初めて出合ったのは子供のころ、奈良から京 都府に入ってすぐのところにある「浄瑠璃寺」(京都府木津川市加茂町) でした。そこのお坊さんの説明が非常にわかりやすく、この九品の説明も 非常に印象に残っています。ちなみに、阿弥陀仏の浄土は西にあるとされ ます(いわゆる「西方極楽浄土」)ので、九品の阿弥陀仏は西側に東を向 いて並んでいます。浄瑠璃寺も九品仏浄真寺もその点は同じ。
浄瑠璃寺の場合は、西に九体阿弥陀、中央に池があって、東に薬師如来が います。薬師如来の浄土が東方浄瑠璃浄土。薬師如来に送り出していただ いて、こちらの岸(此岸)から煩悩の海を超えて向こうの岸(彼岸)まで 渡れば、そこには阿弥陀如来の西方極楽浄土が待っている、という教えを、 浄瑠璃寺は建物の構造・配置で表現していたのです。
自由が丘の九品仏は、中央が池ではなく庭園っぽく仕立てられており、そ して東側の「本尊」が釈迦牟尼仏(お釈迦様)でした。そして、参詣者は ほとんどがこの金色の本尊釈迦如来に向かって並んでいました。一方、九 品仏阿弥陀如来の方にはあまり人が並んでいないのがちょっと気になった ところです。
私はといえば、行列が長いので後ろから軽く釈迦如来に挨拶した後、九品 阿弥陀仏をお参りしていきました。ここは釈迦如来に背を向けて押し出し てもらい、阿弥陀仏に引っ張り上げていただこうというのが、本来の伽藍 配置の趣旨だと思うのですが……。
さて、この九品仏浄真寺の境内の端には、土が盛られたところがあります。 これが実は奥沢城の土塁の跡とのことです。しばし昔に思いを馳せます。
◎奥沢神社
家を出る時間がやや遅かったので、御朱印だけいただいて先を急ぐことに します。目指すは世田谷の八幡神社最後の一つ、奥沢神社。神社名に「八 幡」の文字はありませんが、メインの祭神が八幡神であります。
神社に向かうまでの道筋で、結構高低差があることに気づきます。駅のす ぐ近くに谷底があったり……。奥沢城は台地にあったことがわかります。 では、奥沢神社の周辺はどうでしょうか。
住宅地の中にある奥沢神社に到着すると、こちらはさらに長い列ができて いました。並ぶのも大変なので、参拝は後日ということにしてぐるりと境 内を回ってみます。
奥澤神社
世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として 勧請したと伝えられる。
例祭の九月十四日・十五日に、江戸中期より伝えられている「厄除の大 蛇」の特殊神事が行われ、境内の「八幡小学校発祥の地」の碑は、かつ て八幡小学校校舎があったからである。
この吉良氏とはおなじみ吉良頼康のようです。奥沢城の建築が「天文~永 禄年間頃」とされています。天文は1532~1555、永禄は1558~1570年です ので、1587年の世田谷八幡宮よりわずかに古いことが推測されます。
奥沢城の守護神ということで奥沢城に近い場所が選ばれたのでしょう。で は、本題。この神社の地形的な立地は?
少なくとも周囲は平坦です。「丘の南側」かどうか以前に「斜面」にはあ りません。
奥沢神社から出て少し南へ歩くと、数分もかからないところに奥沢駅があ ります。その駅の向こう側はなだらかな降り斜面になっていますが、ちょ っと距離が離れています。
一方、奥沢神社から北側に向かうと、かなり角度のある下り坂がありまし た。そして、その先には「九品仏川緑道」が東西に流れています。つまり、 奥沢神社は東西に延びた丘の上にあり、北の九品仏川(九品仏ができる前 にはそんな名前ではなかったとおもわれますが)の南にある、つまり「丘 の北斜面近く」にあるということです。
残念ながら「吉良氏八幡宮南斜面の法則」は、最後の最後で裏切られるこ ととなりました。
◎奥沢神社の弁天さん
参拝の列が並んでいる本殿を横目に境内の奥へ進むと、興味深いものがあ りました。それは弁天さんの岩室と「八幡小学校」の碑でした。
弁天さんの岩室……有料版のころからお読みの方は、1年前の記述を思い 出されるでしょうか。私は昨年の正月に小石川七福神と深川七福神を訪問 したのですが、深川の方の冬木弁天堂の裏に小さな岩室がありました。ま た、小石川の徳雲寺の弁財天と極楽水弁財天(このルートは弁財天が二箇 所あります)はいずれも祀られているのが蛇神でした。蛇神信仰というの は実は日本では古くからあるもので、奈良の三輪神社も蛇の神様、三輪山 の円錐形も蛇のとぐろを想起させた可能性があるという説もあります。 (この辺は星野之宣『宗像教授』『神南火』シリーズでも何度か取り上げ られているネタです)。
そして、この奥沢神社最大の神事が「大蛇お練り神事」と呼ばれていると いうのです。説明板によれば以下のとおり。
江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行して、病に倒れる者が多かっ たとき、ある夜この村の名主の夢枕に八幡大神が現われ、『藁で作った 大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良い』というお告げがあっあとい う。早速新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、たちまちに流 行疫病が治ったという言い伝えがあり、これが厄除の大蛇として鳥居に からまり、大蛇お練りとして現在に伝えられている。蛇の形のものを作 ってかつぎ歩く祭りは、全国的にあるが、都内では珍しい祭りである。 蛇の形(水神の意)をかつぎ歩くことによって農耕に必要な水の確保や 生産の順調なることを予祝する行事にほかならない。
奥沢神社では毎年九月の第一日曜日に氏子が集まり、大蛇づくりが行 われる。これは社殿に安置され、社殿にあった昨年の大蛇を鳥居にかけ られる。そして九月十四日の大祭に大蛇お練りが行われる。
ここで憶測してみます。もしかしたら、この八幡神社はもともと蛇神の社 があったところに建てられたのではないか。丘の上の水源に水神を祀って いた。奥沢城建造に際してその場所に八幡神社が置かれた。その後、江戸 時代に入って再び水神信仰が復活してきたので、ストーリーとして八幡神 のお告げなどが語られるようになった。その水神=蛇神がやがて江戸の流 行神である弁財天とされるようになったのではないか……と(本来、弁財 天は神道ではなく、インド出身の仏教の天部衆です)。
この憶測は、吉良氏系神社なのに丘の南斜面にないこと、八幡神よりも蛇 神信仰の方がメインのように思われることからこじつけたもので、何の歴 史的根拠もありませんが、そういう史実が存在したとしても不思議ではな いと思ったりもしています。
また、この近所(田園調布に近い方向)に「八幡小学校」というのがある のが気になっていたのですが、この八幡という名称もやはり奥沢八幡神社 に由来していたことがわかり、腑に落ちた感じがあります。
◎世田谷区内の八幡神社総覧
というわけで、もう一度改めて八幡神社の一覧を完成させてみましょう... ...いや、その前に一つ補足しておかねばなりません。田園調布八幡神社の ことです。今まで「丘の南斜面」と書いていましたが、もう一度チェック してみるとこれは北東から南西に下る斜面でした。というわけで、△にラ ンクダウンしておきたいと思います。
八幡塚古墳の跡に建てられたと思われる宇佐神社を除けば、○印(すなわ ち世田谷区東部にある丘の南斜面の八幡神社)はすべて吉良系ということ になります。つまり、世田谷の吉良家はほとんどの八幡神社を丘の南麓に 建てた(例外は奥沢神社のみ)と結論づけてよさそうです。
その例外の奥沢神社はむしろ蛇神信仰が強く、宇佐神社のように古くから の霊場であった可能性を捨てきれません(中沢新一のアースダイバー的に は、田園調布は「岬の突端」の神社であり、この三つはセットにできるの かもしれません)。
このあと熊野神社に回ったのですが、今回はかなり長くなりましたのでこ の辺で。
]]>さて、前回まで「世田谷の八幡宮のうち、吉良氏にゆかりのある八幡神社 は、丘の南斜面にあるものが多い」ということを実際に回っていきました。
というわけで、世田谷の北部にある残りの八幡神社を訪ねて、これまでの 法則が通用するのかどうか、さらに探っていきます。
地図はこちら。このルートの後半です。
写真は点数が少ないのですがこちら。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No106/?sort=old
世田谷八幡宮から経堂駅(小田急線)を越え、北へと向かいます。
]]> ◎勝利八幡神社=×勝利八幡神社は丘の上にあります。坂を登っていくので期待していたので すが、丘を登り切った平坦なところに神社がありました。丘の斜面ではな く丘の上ですので、今までの神社とは雰囲気が違います。鳥居と本殿もま ったく同じ平面上。
周囲を少し走ってみますと、すぐ北側に下り坂がありました。そして、日 大のグランドの横がおそらく川が流れていたであろう緑道となっています。 この緑道は神社の北から東にかけて進んでおり、勝利八幡神社は丘の上、 東の際に近いところに建っていることがわかりました。
これはこれまでの吉良氏系・丘の南斜面八幡神社とはまったく異なります。 境内の由緒書きによると、「平安時代 万寿三年(一〇二六)京都府八幡 市に鎮座する石清水八幡宮より勧請し、創建された神社」「天明八年(一 七八八)に再建された社殿は、平成四年十二月に世田谷区指定有形文化財 に指定されました」とあります。
平安時代に創建されたとすればこれは本当に古い神社となりますが、世田 谷区教育委員会の「せたがや社寺と史跡」という資料によれば、 「いいつたえによると、はじめは天からふっできた「お伊勢さま」のお札 を御神体としてまつってあったが、甲斐の武田氏と小田原の北条氏の合戦 の後、小田原の武将鈴木氏一族が上北沢に移り住み、八幡社をまつるよう になったというが、真偽はさだかではない」とあります。鈴木氏は吉良と 同じころに上北沢の地頭となっていたようで、遅くとも16世紀にはこの地 に来ていたことは間違いないようです。
参考→上北沢「鈴木家」考 - 桜上水 Sakurajosui Confidential 桜上水
http://plaza.rakuten.co.jp/sj2006/diary/200806250000/
これが正しければやはり戦国時代の創建ということになります。ただ、吉 良氏と同じ北条氏の武将ではあるものの、鈴木一族の領地であったことか ら、微妙に系統が異なるようにも思われます。
いずれにせよ、吉良系ではなく、南斜面にはない神社でした。
◎八幡山の八幡社=×
さて、次に向かうのが八幡山にある八幡社です。この神社があるがゆえに 八幡山と名付けられたというくらいなので、山(というか丘)にあるのは 間違いなさそうでしたが、地図で見ても高低差はよくわからず、結局実際 に行ってみないと地形の感覚はよくわかりません。
こちらの鳥居前の解説によると、「創立年月並びに古代 由緒沿革等未詳 なれど古老口碑また地名等より古社と推定さる。なお奥宮(新殿に奉斉) には文化七年十月との記銘あり」という、何とも心許ない記述しかありま せん。とりあえず江戸時代末には存在していたようですが、どこまでさか のぼれるかはまったく不詳です。
このあたりは東西に丘が延びており、八幡社から少し南に行ったあたりか ら下り坂にはなっているのですが、どう見ても「丘の上」に位置していま す。
吉良系「丘の南斜面」ではなく、むしろ丘の上ということで勝利八幡と近 い状態にありました。
◎粕谷の八幡神社=×
八幡山の八幡社あたりで日が暮れ始めました。もはや「南斜面」ではなく なってきたのでそろそろ断念しようかとも思いましたが、残るは一つ。環 八を越えればすぐのところにある蘆花公園の北にある粕谷の八幡神社です。
かつて徳富蘆花が住んでいた蘆花公園。『みみずのたはこと』という作品 ではこの「武蔵野」暮らしを描いていますが、「東京が大分攻め寄せて来 た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。」とも書いてい ます。昭和十三年に発表されたこの小編の時代でも、「東京」が迫ってき ていたのです。
平成の今「世田谷区」は完全に23区の一つとして「都会」の一部ではあり ますが、蘆花公園は木々を残していてちょっとほっとします。
さて、神社に行こうと思って、間違って蘆花公園の南から西側をぐるりと 大回りしてしまいました。公園の北東角に近い八幡神社にたどり着いたと きには、周囲はすっかり暗くなっていました。
この神社は今までとはまったく異なるものでした。これまで大半の八幡神 社が南向き(本殿が北、鳥居が南)だったのに、粕谷の八幡神社は東に鳥 居で西に本殿のある東向きの神社だったのです。神社のあたりは少々小高 くなってはいますが、斜面というには少々きついでしょうか。
ここの由緒書きも八幡山と同じような感じです。 「創立年月並びに古代由緒沿革等未詳なれど古老口碑等により開村当時よ りの鎮守として崇敬をうけてきた古社と推定される。明治六年十二月村社 に列せられ……」 これまでの中ではもっとも由緒のはっきりしない神社ですが、吉良系では ないと推測してもよさそうです。
もう真っ暗になってきましたので、この日の神社巡りはこれにて終了しま した。世田谷区内の八幡神社としては、南端の奥沢神社がありますが、こ れは後日として帰宅しました。
◎ここまでのまとめ
これまで回った八幡神社を、推定創建年代順に改めて整理してみましょう。 吉良系(田園調布含む)は★、それ以外は☆のマークをつけてみます。 また、立地を世田谷区内の場所に応じて「東」「北」「南」の三地域に分 けてみます。
これと(ここまでの時点で)未踏の奥沢神社を含めて全11社の八幡神社が あるわけですが、東と南の16世紀を中心とした吉良氏系の八幡神社の多く が丘の南斜面にある一方、西の非・吉良氏系の八幡神社はその法則に当て はまらないことが歴然としています。
吉良家の「マイルール」みたいなものがあったのか否か、その理由はわか りませんが、似たような立地の場所に似たようなスタイルで作られたこと がわかって非常に興味深く思われます。
さて、10月の時点ではこれで終わりだったのですが、メルマガの執筆に合 わせて2011年1月1日、改めて最後に残された奥沢神社に行って参りました。 以下次号。
]]>世田谷区野毛の大塚古墳で毎年開かれている「古墳まつり」。野毛古墳群 散策に参加したところ、終着点は宇佐神社の八幡古墳でした。それは北か ら南へ延びる尾根/丘の南斜面にあったのです。
実は少し前から世田谷区内の八幡神社について、ちょっと気になることが ありました。というのは、「八幡神社が丘の南斜面に置かれているのでは ないか」という仮説です。
「世田谷七沢、八八幡」という言葉もあると聞きました。どれが七つの沢 でどれが八つの八幡神社かは正確には定まっていないようですが、北沢・ 代沢・世田谷の三つの八幡神社は由緒も古いようで、「八八幡」のうち三 つに含まれることは間違いないでしょう。その三つが揃って「南斜面」と いうのはどういうことか……?
世田谷区南西にある宇佐神社(宇佐八幡宮が由来ですので、宇佐神社=八 幡神社と見なします)。1063年に源頼義が創建したという古い神社です。
もう一つ訪れたのが田園調布八幡神社。こちらは鎌倉時代(1250年ごろ) 創建で、鎌倉街道の要衝の地、多摩川の水がたまった良港で、舟の出入り を監視する場所に八幡神社が建てられたといいます。これもまた「丘の南 斜面」にありました。
]]> ◎10月23日、調査スタート私が調べた限り、世田谷区の範囲には、 東部:北沢・代田・太子堂・駒留・世田谷 北部:勝利・八幡山・粕谷 南部:宇佐・田園調布・奥沢 の11の八幡神社があります(他の神社の境内の末社などは除きます)。
南部の神社は目黒区・大田区の八幡神社群につながりますが、いずれにし ても八幡神社は結構偏った分布を示しています。このうち、東部・北部の 八つの八幡神社を一気にめぐってきました。これで、世田谷区内の八幡神 社は、奥沢神社以外制覇することとなります。
写真はこちら。どうもはてなフォトライフでEXIF情報をきちんと反映して
くれないのできちんと撮影順に並ばないのですが……。
ゲニウス・ロキ - No105
地図はこちら。次回分も含めてのルートです。
◎北沢八幡神社=○
スタートは下北沢駅・池ノ上駅から南に徒歩10分あまりの北沢八幡神社。 これは下北沢駅から南に延びる森厳寺川跡の谷(現在の茶沢通り付近)の 東側の丘の南端にあります。
写真は南側から丘に向かって撮影。鳥居から石段を登って本殿という立地 であり、「丘の南斜面の八幡神社」としては極めてわかりやすい典型的な 見本といえるでしょう。
文明年間(1469~87)に、世田谷城主であった吉良氏が勧請したものと伝 えられています。その直後、家臣が荏原郡下北沢村に土着してこの村の開 墾を始めたといわれており、下北沢の氏神ということになります。
吉良氏との関係があるため、特に源氏が守り神として崇拝した八幡神が祀 られているのも当然といえます。
◎代田八幡神社=○
北沢八幡の南側を流れる北沢川緑道を西に進むと、環七にぶつかります。 環七を越えてすぐのところにあるのが代田八幡神社。先ほどの茶沢通りの ある谷の西側の丘の南端にあります。
ちなみに環七は道路建設のときに掘り進んでいます。神社の鳥居のところ は環七と同じ高さですが、石段を上がって本殿は環七を見下ろす高台とな っています。
これもやはり「丘の南斜面の八幡神社」でした。
北条氏の家臣で世田谷一帯の領主であった吉良氏は北条氏滅亡後に領主の 座を追われましたが、その家人七家によって天正十九年(1591)に世田谷 八幡宮から勧請され創建されたのがこの神社であるといいます。北沢八幡 より少し後、ちょうど豊臣秀吉の時代ということになります。
◎太子堂八幡神社=○
環七通りから少し東へ戻り、南へ向けて太子堂八幡神社を目指します。 東西に延びる北沢川緑道のあたりがちょうど谷底で、再び坂を登ります。 ちょうど住宅街の真ん中で、何かドラマか映画のロケのようなものをやっ ていました。何の撮影かはわかりませんでしたが……。 そこを越えていくと木の生い茂る下り坂が。ちょうどその横が八幡神社で した。
このルートは北から南に向かっているので、南への下り坂の横が八幡神社 ということは、またもや「丘の南斜面の八幡神社」ということになります。 太子堂八幡は来たことがなかったので、こう一致すると楽しく感じます。
伝承で源義家に由来するかのように書かれているのは、要するに伝統偽装 でしょう。それでも少なくとも文禄年間(1592~1596年)には創建されて いたということで、代田八幡神社よりは少し後ですが、江戸時代の直前に はさかのぼることができるようです。
◎駒留八幡神社=△
世田谷線の線路を越えて、若林交差点で環七に戻ります。そこから環七沿 いに下っていくと駒留八幡神社がありました。
このあたりは高低差があまりよくわかりません。神社の鳥居と本殿もわず かな登りでしかありません。それでも一応、南側の鳥居から本殿には数段 の石段があります。本殿の裏には塚のようなものがありますが、これをも って「丘の南斜面」と言うのはこじつけになってしまうでしょう。
これは外れかな……と思って神社を出たところ、すぐそこに見覚えのある 場所がありました。10月1日都民の日に公開された「桜新町・駒沢の双子 の給水塔」を見学した帰り、三軒茶屋駅までの途中に少し歩いた緑道、蛇 崩川緑道がそこにあったのです。
北から神社本殿、鳥居、そして南西から北東に流れる蛇崩川緑道。もちろ ん緑道が川の跡なら谷がここにあったということです。そのすぐ北側に神 社。
「丘の南斜面」と「川の北側」というのはイコールかどうか、ちょっと迷 うところではありますが、一応「△」ということにしておきましょう。
1308年、領主だった北条左近入道成願が社殿を造営したのが創建というこ とで、北沢・代田・太子堂よりも300年ほど早いのも違いといえそうです。
◎世田谷八幡宮=○
さて、ここから弦巻方面へと向かい、世田谷通りに入ります。これは世田 谷線と平行して走っている道路です。
上町駅で世田谷線は北向きへと大きく方向を変えます。そこで世田谷通り と離れて線路と並行に進むこととします。
宮の坂駅前で左手すぐにあるのが世田谷八幡宮。そもそも「宮の坂」とい う駅名自体が「八幡宮の坂」という地名に由来しており、宮の坂駅から北 に向かって急な上り坂があります。
ここも間違いなく「丘の南斜面の八幡神社」でした。
すでに代田八幡のところで名前が出ていますが、源義家に由来する神社を 天正十五年(1587)に世田谷城主の吉良頼康が新しく建てたものと書かれ ています。
◎7神社中5神社が吉良家と関連して南斜面
さて、世田谷区東部の八幡神社は以上です。そこでちょっとまとめてみま しょう。行った順ではなく、創建年代順にまとめてみたいと思います。
太子堂八幡神社の実際の創建に関わった人物は不明ですが、時代的にも地 理的にも吉良家に関連する者であると推測してもそう外れていないと思い ます。
となると、吉良氏の系列に連なる戦国~桃山時代に建てられた四つの神社 はいずれも「丘の南斜面の八幡神社」ということになります。
前回の世田谷区南部の2神社(宇佐神社、田園調布八幡神社)のうち、宇 佐神社の方は源頼家伝説と結びつけられているだけで実際の創建は不明で す。しかし、田園調布八幡神社に関しては鎌倉時代に淵源はあるようです が、前回も引用したとおり、
天正十八年(西暦一五九〇)小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏 照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び、主家の冥福を祈った。そして、 寛永年間(西暦一六二四~一六四四)、落合某の孫、落合弥左衛門らに よりこの聖地に新たな社殿が創建され、ご神体が祀られた。
とあります。つまり、北条氏(つまり吉良氏の主君)の家臣が逃げ延びた 場所で、さらにその孫が江戸時代に創建したものです。この神社のすぐ隣 にあったという「籠谷戸の港」は奥沢城へ物資を運ぶ場所であり、奥沢城 は吉良頼康が世田谷城の出城として築いた城……つまり、ここもやはり吉 良頼康と縁の深い神社といっていいでしょう。
今まで見てきた7神社のうち、由緒不明の宇佐神社は南斜面ですが吉良家 との関係は不明、駒留八幡は吉良家より古い鎌倉時代末期の北条家による もの、ということで除くと、残り5神社が戦国時代から桃山時代を中心と した吉良家と関係の深い神社であり、そのいずれもが「丘の南斜面」にあ るということになります。
吉良家の作法というものがあったのでしょうか?
そして、この日の後半戦は次号に続きます。
]]>10月16日(土)、17日(日)の二日間、世田谷区立野毛町公園内の野毛大 塚古墳で「古墳まつり」が開かれました。
多摩川に近いこの野毛大塚古墳は都内では有数の古墳です。まあ、奈良で 生まれ育ち、母方の祖父母の家が大阪府堺市の履中天皇陵古墳の近くにあ ったという環境の私からすれば、古墳というのが身近にない方が不思議な 感じなのですが、23区内にある古墳を見るとやはり登って遊びたくなりま す(そういえば、小学校のころは藤ノ木古墳に友達と一緒に登って遊んだ こともよくありました)。
というわけで野毛大塚古墳に登ったりした後、世田谷区教育委員会の方の 案内で「野毛古墳群散策」に行きました。この一帯から大田区の多摩川駅 近くまで、多摩川沿いの丘の上に古墳群があります。その中で今も形をと どめているいくつかの古墳をめぐるというコースでした。
当日歩いたコースはこちら
(古墳群散策の解散後も勝手にずいぶん歩いています)
このあたりの詳細はまた改めて報告するとして、このコースの最終地点が 「八幡塚古墳」と呼ばれる場所でした。
八幡塚という名称は、この古墳が宇佐神社の一画にあることから名付けら れています。宇佐神社はすなわち八幡神を祀った神社であり、八幡宮・八 幡神社と呼ばれる神社と同じ系列の神社ということになります。
そこで、私は宇佐神社の地形を確認しました。そして、今までの仮説と一 致することを発見したのです。
]]> ◎「世田谷区の八幡神社は丘の南斜面?」実は少し前から世田谷区内の八幡神社について、ちょっと気になることが ありました。というのは、「八幡神社が丘の南斜面に置かれているのでは ないか」という仮説です。
下北沢に近い二つの神社、北沢八幡神社と代田八幡神社は、いずれも北か ら南へ延びる丘の最南端、急に下がって低地に下るところに建てられてい ます。北沢八幡の場合はすぐ南を北沢川が流れており、これはまさに谷・ 沢のすぐ北に神社があるということです。また、代田八幡は環七のすぐ横 にあり、これも代田の丘が急に下って梅ヶ丘の低地に下りる境界のところ にあります。
しかし、八幡神社、あるいは神社というのは別に「丘の南端」にあるとは 限りません。たとえば、最近「妖精が見える神社」という奇妙な都市伝説 で話題の「大宮八幡宮」(杉並区)は、北側を川が流れており、神社のす ぐ北が崖になっています。つまり、「丘の北端」にあるともいえます。
あるいは八幡神社の本家本元、大分県の宇佐八幡神社も北側を寄藻川(呉 橋川、月瀬川、浅瀬川)が流れており、東側をその支流が流れていますが、 丘の南斜面にあるわけではありません。
では、北沢・代田が共通しているのは単なる偶然かとも思ったのですが、 そういえば宮の坂駅の名前の由来ともなった世田谷八幡神社は、やはり丘 の南斜面にあり、その隣の「宮の坂」は北から南に下っています。
「世田谷七沢、八八幡」という言葉もあると聞きました。どれが七つの沢 でどれが八つの八幡神社かは正確には定まっていないようですが、北沢・ 代沢・世田谷の三つの八幡神社は由緒も古いようで、「八八幡」のうち三 つに含まれることは間違いないでしょう。その三つが揃って「南斜面」と いうのはどういうことか……?
ゲニウス・ロキ探偵、調査開始です。
◎宇佐神社
そうして野毛古墳まつりに戻ります。このとき、実は八幡神社とはまった く関係ないと思っていたのですが、さにあらず、何とゴールが「八幡塚古 墳」……どう考えたって八幡神社と関係あるはずだ、と思ったら、実際に そこに宇佐神社があったわけです。
古墳群散策が解散になったあと、多くの参加者はそのまま野毛大塚古墳の 方に戻っていったのですが、私は宇佐神社の方へ下りていきました。
その境内はまさに「野毛の丘陵地帯の南端」にあり、多摩川方面の低地が よく見えます。鳥居は丘の下、神社は丘の斜面、そして台地の上に古墳が 築かれているという仕組みです。
このあたり、中沢新一氏の『アースダイバー』の読者の方であれば、ああ、 古墳時代からの聖地がそのまま後世にも神社という形で聖地として受け継 がれたのだな、それが位置する場所が丘の突端=「岬」であるというのも セオリー通りだな、と思われるかもしれません。
まあ、中沢氏の理論も結構思いつきの部分が多いのですが、今回ばかりは アースダイバー理論適合地となっていることは認めざるを得ません。
世田谷区内の八幡神社、北沢・代田・世田谷に次いで4つめの「丘の南斜 面に建てられた八幡神社」が確認されたのです。
この神社は、今から950年前、八幡太郎義家の父源頼義公の創建になると 伝えられているようです。第七十代後冷泉天皇の永承六年(1051年)に安 倍一族平定のためにこの尾山の地に陣を張り勝利を誓い、康平五年(1063 年)安倍一族を平定した後、ここに八幡社を建てて勝利を報告し、感謝し たのが始まりとされます。由緒は古いと考えてよいようです。
今回の写真はこちらを参照してください。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No104/ 最近のはてなフォトライフはアップロード時にどうも不具合があるようで、 うまく古い順に並んでくれないことがあります。写真ごとに説明をつけて いますのでご参照ください。
◎田園調布八幡神社
この後、私は古墳群散策の続きとして、大田区の多摩川駅近くにある多摩 川台公園へと向かいました。ここには蓬莱山古墳・亀甲山古墳という大き な古墳のほかに、8つの小さな古墳群があり、さらに古墳展示室もあると いうので向かってみることにしたのです。
……古墳については後日の号に譲るとして、その途中、野毛の丘から田園 調布の低地に下りていったところに、もう一つの八幡神社がありました。 それが田園調布八幡神社です。
先にグーグルマップで「八幡神社」を検索したとき、この神社も見つけて いました(ただし、普通の検索では出てこない神社もあり、また宇佐神社 は検索しそびれていました)。そこで、せっかくルートから近いところに あるので寄ってみようと思ったのです。
雙葉学園のある急坂を下りて谷に下り、また丘に登り……というルートを 繰り返して、最後に北側から下るとその斜面に八幡神社が鎮座していまし た。
これもまた「丘の南斜面」にあったのです!
田園調布という地名自体は新しいのですが、かつては村の社として単に八 幡様を祀った神社として扱われていたようです。
その由緒は古いようで、神社の説明看板にはこう書かれていました。
田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の慶長年間(西暦一二四九~一二五 六)と伝えられる。この時代、鎌倉幕府は執権の北条氏が実権を握り、 国内基盤固めを行なっていた。各地では武士達はもとより村人達も幕府 に忠誠を示す意味もあり、源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛んで、多くの 八幡神社が建てられた。
当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと ...今もそう呼ぶ年配者もいる)と呼ばれる入り江で、多摩川の水が滔々 と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしてい た。また、この村の高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭 谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一帯には多くの鎌倉武士 が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この八幡神社の 地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所 であった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、八幡神社を勧請した。 以来、この八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。
天正十八年(西暦一五九〇)小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏 照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び、主家の冥福を祈った。そして、 寛永年間(西暦一六二四~一六四四)、落合某の孫、落合弥左衛門らに よりこの聖地に新たな社殿が創建され、ご神体が祀られた。
江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田ヶ谷領上沼部村に属し、明治 中期の四村合併まで村社であった。寛政四年(西暦一七九二)には、こ の村の知行主となった神谷縫之助も氏神とするなど、今日まで常にこの 地域の人々の心の拠り所として崇敬されてきたのである。
この説明を見ると、まさに多摩川の入り江の横の「岬」に当たる地形で、 これもまた台地の南斜面にあることは間違いないといえます。
今も神社境内のすぐ南を丸子川という小さな川が流れています。丸子川の 北は急斜面で丘、その南は多摩川の川原から広がる低地となっています。 (専門的にいえば、これは国分寺崖線ということになります)
◎いよいよ本格的調査へ……
というわけで、私がすでに知っている世田谷区内三つの八幡神社(北沢・ 代田・世田谷、いずれも区内東部)に加えて、世田谷区南西部の二つの神 社(宇佐神社、田園調布八幡神社)も見事に「丘の南斜面」であることが 判明しました。
では、他の八幡神社はどうなのでしょうか。 私が調べた限り、世田谷区の範囲には、 東部:北沢・代田・太子堂・駒留・世田谷 北部:勝利・八幡山・粕谷 南部:宇佐・田園調布・奥沢 の11の八幡神社があります(他の神社の境内の末社などは除きます)。
南部の神社は目黒区・大田区の八幡神社群につながりますが、いずれにし ても八幡神社は結構偏った分布を示しています。
その中で少なくとも5つの神社が「南斜面」。これは何かあるかもしれま せん。というわけで、10月23日、東部・北部の8つの八幡神社を自転車で 回ってきました。
そこで判明したのは、世田谷区内にも「南斜面」ではない八幡神社がある こと、そしてそこには一定の法則がありそうなことでした。
……以下、続く。
]]>先日、神田川から日本橋川へのクルーズに乗船した後(この話は追って 電子書籍『水の東京・明治~平成版』にて公開予定です)、東京深川モダ ン館に寄りました。こちらは江東区/深川の観光案内のような場所です。
こちらで「江東区あたりで隅田川以外に船に乗れるところはありますか?」 と訊いたところ、毎週水曜日に横十間川(よこじっけんがわ)親水公園で 和船体験ができるとのこと。
天気のよい水曜日で予定の空いている日、というのはなかなか条件が合わ ないかと思いきや、10月6日にちょうどその条件にぴったり合ったので、 現地に向かってみました。
ちなみに乗船料は無料です。
3月~11月は毎週水曜日(水曜日が祝日のときは翌日)
12月~2月は毎週日曜日
10時~13時45分
今回はまず東陽町まで地下鉄で、それからバスで錦糸町行き(東22系統) に乗って千田バス停で下り、海砂橋のたもとの「海辺乗船場」に向かいま す。
このあたりが「海砂橋」とか「海辺」という地名なのは、昔、このあたり がほとんど海沿いの運河地帯だったことによると思われます。
橋に着いたのが13時、少々のんびりしていたので寄り道していたら間に合 わないところでした。
乗り場では「和船友の会」の皆さんがのんびりと和船を浮かべています。 今回は一人での参加となりましたが、受付に行くと前後特にいなかったの で一人で一船独占という形になりました。名前と住所(町名まで)を書い て、救命胴衣を付けて、いよいよ木の船に乗ります。
今回の写真はこちら
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No102/?sort=old
古い順に見るとよいと思います。
乗った船の名前は「かるがも」。船の前には解説してくださった河合さん、 後ろに船頭さんと、歌の担当の方が乗ります。貸し切りで豪華な船の旅の スタートです。
ここで乗れる船はいろいろなタイプのものがあり、いずれもかつて実際に 使われていた本当の和船だそうです。その和船にもいくつもの種類がある とのことで、私が乗った「かるがも」丸は「網船」というそうです。
網船の前部の蓋を外して見せてくれました。何か収納できそうなスペース があります。
「この網船っていうのはね、網で魚を捕るんだ。その魚を新鮮なまま持っ て帰りたいってことでね、ほら、ここにいけすを作ってあって、ここに魚 を生きたまま入れて帰るんだよ」 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025010705
いけす付きの船!なかなか粋じゃありませんか。
船はけっこう揺れます。揺れるといっても傾いたりはしないのですが、な かなか心地よい揺れに感じたものの、ちょっと怖いと感じる人もいるそう です。
「あの向こうを通ってるのが猪牙(ちょき)船。遊郭まで行くのに、とに かく気が急いて、早く行きたいって若い衆が思ったわけだね。それで、揺 れても何でもいいから、とにかくスピードの出る船を作った。それが猪牙 船なんだ」 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025010706
船の種類をおもしろがって聴いていると、次々教えてくれます。どうやら 乗客に合わせて話をしてくださっているようです。
夏以来、東京の川の船にいろいろと乗ってきましたが、橋の下をくぐる感 覚は楽しいものです。今回の和船は往復800メートルを20分というのんびり スピードで、時速2.4キロ、歩くよりもずっと遅いわけです。のんびりと川 面を揺られながらただよっていく感じで、何とも楽しい時間と感じます。
さて、南へ進んで横十間川ボート場近くにやってきます。和船がある日は ボートには乗れないのでご注意(逆にいえば、和船がなくてもボートには 乗れるということです)。
「前にいるのが荷足(にたり)船っていうんだ。荷物の荷に、人の足。つ まり、荷物も人も運ぶ船ってことだね」 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025010708
この荷足船にはお母さんと子供が乗っていて、二人とも楽しそうでした。
このあたりでUターンして戻ります。途中で「木の間にスカイツリーが見 えるよ」と教わったので狙っていたのですが、ほんの一瞬だけ木陰に見え て、すぐにビル影に入ってしまいました。
また橋をくぐっていきます。
「あそこに泊まってる船の側面をよく見てね。船を作るときに釘を内側か ら打つんだけど、それが外に飛び出るんだ。それが格好悪いってことでね、 江戸の漁師たちは外から銅をはめた。しかも、その銅を釘のないところに も付けて模様に見えるようにしたんだよね。これが江戸の粋ってことでさ。 その銅がさびると緑青っていって青緑になる。それが船のデザインになっ てるんだ」 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025010712
こうしてスタート地点に近いところに戻ってきます。
「向こうに行ってるのが伝馬船ね。ここの和船は4種類ある。また別の船
にも乗りに来てよ」
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025010714
20分の船の旅。あっという間に終わったように思われました。 けっこう終了時間に近かったので「もう一回」とは言えませんでしたが、 もう少し早めに来ていたらもう一周していたと思います。
この和船は、もともとは文化財的に江東区が保存していたものだそうです が、ただ保存しておくのはもったいない、乗れるようにできないかと和船 友の会の方が働きかけて、こんなふうに週一回、和船乗船体験ができるよ うになったということです。和船を操船する技術もまた文化財というわけ で、歴史や文化も体感できるよいイベントだと思います。
無料のイベントであり、もちろん案内などもみんなボランティアとのこと ですが、和船を楽しいと思ってくれる人が増えるのが何よりうれしいとの こと。
時間と都合の合う方、揺れに耐えられる方はぜひ乗船を。揺れるといって も「思ったより揺れる」程度であって、ディズニーのなんたらマウンテン みたいなことはありません。聞くところによると、片側の舷に大の大人が 十人座ったとしても、多少傾いたとしても落ちることはないとのこと。と いうのも、和船は木の船なので、自重があって、転覆しないようになって いるそうです。
なお、事前に申し込めば船を漕ぐこともできるようです。詳しくはこちら
江東区 和船乗船体験
http://www.city.koto.lg.jp/seikatsu/douro/7476/7477.html
……さて、この横十間川、実は南北に流れています。そして、少し北には 「竪川」が東西に。縦と横が通常のイメージとは90度ずれているのがこの 江東区(深川・両国)の水路です。これはお城(江戸城)の方を向けば、 西向きが正面となり、縦が東西・横が南北になるのも当然ということにな ります。
この日はこのあと、ぐるりと歩いて行ったのですが、それは追ってご報告 といたします。
]]>前号で書いたとおり、2010年10月6日、江東区の横十間川親水公園で和船 に乗った後、北に向かって竪川→大島緑道公園→再び横十間川→仙台堀川 →木場公園→木場親水公園→木場駅というルートを歩きました。その間約 10キロ。
これは、現在作成中の『水の東京 明治~平成版』の取材ということで、 実際にこの付近の水路を実見したいと思って歩いたものです。
この間のルートのハイライトシーンをまず写真でご紹介しましょう。
今回の写真ページ(前編)はこちら。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No103a/?sort=old
写真の撮影時刻情報がうまく入っていない写真があるので多少前後してい
ます。以下、歩いた順。
竪川のあったところは首都高速7号小松川線が上空に。 そこをまたがる線路はJR貨物の越中島線のようです。遠くからディーゼ ル車が走るのが見えたのですが、遠すぎて撮れませんでした。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006141351
五之橋。竪川にかかる橋は、隅田川側から順に一之橋、二之橋……と続き、 三之橋のところが三ツ目通りだったりします。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006141817
子安稲荷神社。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130237
大島緑道公園。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130416
小名木川にかかるJR貨物越中島線。向こうにスカイツリーが小さく。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006145237
横十間川と仙台堀川の交わるバードサンクチュアリのカワウ。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130414
仙台堀川公園。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130417
木場公園の木場大橋からスカイツリー。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006154647
木場親水公園。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130419
さて、これで木場駅まで来たのですが、ここまで来たら、ということで、 洲崎遊郭跡へと足を伸ばすことにしました。
◎洲崎神社
洲崎編の写真はこちら。こちらも少し写真の順序が前後しています。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No103susaki/?sort=old
神社の手前にあった屋形船の「吉野屋」 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130421
そして洲崎神社に向かいます。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006161411
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006161745
波除碑。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130422
寛政三年(一七九一)九月四日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によっ て付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西二八 五間、南北三〇余間、総坪数五、四六七余坪(約一万八千平方メートル) を買い上げて空地としこれより海側に人が住むことを禁じた。そして空 地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。 当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。……
このあたりはもともと海岸だったのです。何もない場所だったからこそ、 その隣に遊郭ができたというわけです。
神社のすぐ横の公衆トイレの壁に、江戸八景の一つ「洲崎雪晴」の図。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130424 今は埋め立てられて全然わかりませんが、昔はこんな海岸だったのです。
さて、隣の正方形に近い一画、今の東陽一丁目がまるまる昔の洲崎遊郭で した。明治20年の東京帝国大学校舎新築にともなって根津遊郭が移転する こととなり、その前年、湿地を整備してこの洲崎に遊郭が作られた、とい うのがこの発祥です。
ちなみに落語「辰巳の辻占」の舞台は同じ江東区でも、江戸の南東=辰巳 の方角にあった深川遊廓を指します。これは江戸時代から続く古い遊廓で、 今の富岡八幡宮の周辺に岡場所(私娼の遊廓)がありました。今の門前仲 町駅にも名前の残る「仲町」など、「深川七場所」と呼ばれる場所が並ん でいました。前回の話に出てきた猪牙船は、こういう岡場所通いに使われ たようです。
洲崎遊廓の歴史はそれに比べると新しいといえます。開業は明治21年。そ の後は大遊廓として発展しました。
(ウィキペディアの「洲崎(東京都)」の記述で「大正末期には300件前 後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街(吉原の『北国』 (ほっこく)と同様に、『辰巳』(たつみ)の異名を持つほど)に発展し た」と書かれていますが、もともと辰巳は深川を指す言葉であり、洲崎と 深川が混同されている節があるように思われます)
洲崎は東京大空襲で焼け野原になりましたが、戦後は復興し、「洲崎パラ ダイス」の舞台にもなりました。しかし、昭和33年に売春防止法のために 遊廓は終わり、住宅地となっていきます。
しかし、その名残が一部の建物に残されているようです。ちょっと下調べ が足りない状態で訪れたのですが、それなりに雰囲気のある建物が見つか りました。
洲崎の中央を走る大門通り。向こうの東陽弁天町アーケード街には遊廓の なごりのような建物も見えます。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130425
旧大賀楼の建物。今は日本共産党の区議会議員さんの事務所として使われ
ています。柱などに遊廓の名残が感じられます。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130426
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006164503
旧洲崎川の跡が今は少し高い緑道となっているのが奥に見えます。その手 前の飲食店の並びが、何となく遊廓の記憶を残しているようにも感じられ ます。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006164738
はるみ不動産。この不動産屋さんのところに洲崎交番があったようです。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101006165208
洲崎橋跡地の碑。この橋を渡れば遊廓、という境界でした。 http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/20101025130431
元遊廓の跡地というのは、私には非常に気になる場所です。
京都にいたときは上京区の千本中立売の近くに下宿していましたが、ここ はまさに「五番町夕霧楼」の舞台になった五番町遊廓の一帯でした。住ん でいた長屋は「築・古い」と書かれるほどの物件でしたが、これももしか したら遊女がいたかもしれない雰囲気がありました。千本日活やすっぽん 料理の「大市」も古い雰囲気を伝えていました。
アルバイトしていた居酒屋の板前さんから「戦後の一時期は千中(センナ カ)といったら夜は四条にも負けない繁華街やったんやけどな」と聞いた こともあります。
いわゆる「悪所」ではありますが、その繁栄は人々の活気の集まる場所だ ったようにも思えます。その名残が残る場所には、最近のパワースポット とは別の意味で、人々のエネルギーや記憶が感じ取れるように思います。
もし都知事によって「歌舞伎町浄化作戦」が完璧に行なわれ、あの一帯が 「清潔」な町並みになったとしても、今の歌舞伎町の混沌としたエネルギ ーはどこかにこっそり残っていきそうな気がします。
]]>10月1日は都民の日らしいです(東京で生まれ育った人にはおなじみなのか もしれませんが……)。この日に、年に一回、駒沢給水所が一般公開され ています。
「桜新町の双子の給水塔」としても知られる給水施設で、建造は大正十二 年(1923)。ちょうど関東大震災を挟んで完成したのですが、地震でもま ったく損壊がなかったそうです。およそ90年近い寿命のこの建物は、王冠 のように見えるデザインの給水塔が二つ並んでいて、かわいい感じもしま す。
駒沢給水塔風景資産保存会 - 愛称:コマQ
http://setagaya.kir.jp/koma-q/
この給水塔のある駒沢給水所は、年に一回一般公開されています。外から
は何度か見ていますし、このメルマガ(有料版時代)でも一度取り上げた
ことがあります。
(No.040:世田谷・駒沢給水塔(桜新町の双子の給水塔)2009年06月22日)
今回撮影した写真から。
http://f.hatena.ne.jp/GeniusLoci/No101/?sort=old
(古い順でスライドショーがおすすめです)
その横で販売物もあり、ごっそりまとめ買いをしました。
・『そうとう』バックナンバー(No.3~6)
・駒沢給水所の昔の絵はがきの復刻版
・コマQ制作のポストカード
・コマQ制作のDVD3枚
双塔 駒沢給水塔への水の道 2007年12月
私たちの近代化遺産 駒沢給水塔を守ろう 2008年12月
給水塔を残そう 世田谷の歴史遺産 2010年8月
このDVDを制作された大塚光彦さんは先日他界されたそうです。
◎見学会
さて、集まった100人ほどの参加者を前に、コマQと東京都水道局の関係者 の方が簡単に挨拶した後、3班に分かれて実際に給水所を案内していただき ました。前半は曇り、最後にかなり天気がよくなりました。
駒沢給水所はもともと都市化する「渋谷町」への給水のために作られた施 設で、「世田谷町」の中でもとりわけ高いこの駒沢の丘の上に給水塔を建 て、丘の標高からさらに18メートルの高さに貯めた水を流すことで、自然 落下の力で渋谷まで水を供給していたのです。この施設は日本初の本格的 な配水塔として建造されました。塔の高さは30メートルです(ちなみにガ ンダムが18メートル)。
二つの貯水塔は王冠のようなデザインで、おとぎ話のお城のようにも見え る楽しい建物です。三つめの塔も計画されていたようですが、戦争が始ま って結局着工されませんでした。
現在は地元の緊急時のための水瓶となっているとのことです。
正面入り口すぐのところに昭和七年建造レンガ造りの第一排水ポンプ所が あります。レンガのおかげで今もまったく耐久性には問題がないとのこと。
その前を通って、小さな池へ。心字池と呼ばれる池には魚やアメンボもい ます。
その奥をぐるりと回って記念碑へ。給水塔をバックに、ライオンの口もつ いた記念碑+池がきれいに作ってあります。正式には「渋谷町水道布設記 念碑」で、表の銘板には「昭和二年 東京府豊多摩郡渋谷町町長従六位勲 五等 藤田信次郎」の署名で非常に長文の解説が刻まれています。
最近、この記念碑の中に建設関係者の名前を書いた定礎も見つかったとの ことで、その中身も見せていただきました。碑文の建設費が当時の価格で 7500円だったこともわかります。
さあ、いよいよ給水塔へ。手前の第一号給水塔には「清冽如鑑」(清冽な ることカガミのごとし)という文字が刻まれています。文字を書いたのは、 内務大臣・水野錬太郎。給水に込められた当時の思いが伝わってきます。
この給水塔を回ったところに鉄の蓋がありました。「渋谷町 阻水弁」と 刻印されていますが、「町」の字の旁が丁ではなく「巧」の右側のように なっています。また、弁の字は正確には「合」の下に「廾」を書いた字で す。さらにもう少し古いものだと町が「甼」字になっているとのこと。こ んなところにも歴史を感じます。
二つの給水塔の間にはトラス橋がかけられています。安全のために登るこ とはできませんが、その上からの眺めはすばらしいようです。
第二号給水塔には「滾々不盡」(滾々=コンコンとして尽きず)の文字。 こちらも渋谷町にとって水問題は非常に重要な課題だったことが伺えます。
その先に今は使われていない地下の弁室があり(酸欠になるらしい)、そ して敷地の先にベンチュリー・メーター室が建っています。こちらはぼろ ぼろの小屋ですが、量水計すなわち給水塔から送られる水量を自動調節す る設備が置かれていました。
そして、その先、敷地の角のところで案内してくださった職員の方が指を 指します。その先には三軒茶屋のキャロットタワー。「ここから三軒茶屋 まで一直線の水道道路が走っていたんです」。つまり、駒沢から三軒茶屋 まではまっすぐに水道が走り、その先の渋谷へとつながっていたようです。
一通り回って、再びポンプ所へ戻ります。今度はポンプ所の中へ。案内の 職員さんが「この中で霊感が強いとおっしゃる方はいらっしゃいませんか? ここは幽霊が出るっていう噂なんですよ」と怖いことを言います。幸か不 幸か私は霊感が強くないので何も感じませんでしたが……。
単に四角い建物に見えますが、入り口の意匠など非常に優れたものに思い ます。これもぜひ残したい建物だと感じました。
ここを出て案内は一通り終わり。ところが、ここから空も晴れ上がり、絶 好の撮影環境となりました。これはもったいないので、少し戻って給水塔 などを撮影しに行きました。カメラを構えた参加者が粘りに粘っていい写 真を撮ろうとしています。
こうして見学会は終了しました。やはり間近で見ると迫力が違います。
◎水道道路を歩く
さて、このあと少し時間がありましたので、先ほど話を聞いて気になった 水道道路の方へ向かうこととしました。
西門から桜新町の駅の方に向かう水道道路は以前歩きましたので、今度は 反対側を目指すことにします。敷地をぐるりとまわって裏側に出ると、確 かに給水所から三軒茶屋に向かってまっすぐ伸びる道路があります。その 道路の先にはオレンジ色のキャロットタワーが小さく見えます。
これくらいの距離ならば、歩いてもいいでしょう。
最高地点の給水塔から丘の坂を下っていきます。その先の駒沢中学校のと ころで左から来た道路と合流します。これが弦巻通り。二車線の弦巻通り がまっすぐ三軒茶屋まで向かっていきます。
ちょっと交通量が多いように感じたので、そのすぐ北にある蛇崩川緑道の 方を歩くことにしました。昔の川の跡で暗渠の上の緑道です。当時はこの あたりが谷底だったはずです。
駒留陸橋で環七通りにぶつかりますが、水道道路と緑道は相変わらず並行 してまっすぐ進んでいきます。三軒茶屋小学校の裏手を進んでいくと、や がて緑道が大きく右に曲がって水道道路と交差します。そこに書かれてい たのが「すいどうばし」という名前。まさに渋谷町水道道路との交点の橋 だからというわかりやすいネーミングです。
そしてついに三軒茶屋の町へ。世田谷通りにぶつかって、今の水道道路は 終了となります。キャロットタワーを見上げて、「確か展望ロビーがあっ たよな」と思い出します。ここで展望ロビーに向かうのは初めてでした。
26階展望ロビーは、東半分が展望レストラン、西半分が一般開放のロビー で、FM世田谷のスタジオもあります。幸い、双子の給水塔は南西方向で すので、展望ロビーからよく見えます。
……足下からまっすぐに伸びる道路があります。その突き当たりには小さ な丘と森があり、その中に双子の給水塔が確かに見えました。少し向こう に用賀のビジネススクエアヒルズのビルがそびえ、その手前にちょこんと 不思議な形で見える給水塔がしっかりと見えます。その間、およそ1.5km ほどでしょうか。
キャロットタワーから給水塔まで、一直線に(緑道に寄り道しつつ)行っ てみるのも楽しいかもしれません。
駒沢給水所
東京都世田谷区弦巻2丁目41番
メールマガジンにご登録いただき、ありがとうございます。 現在は無料版への移行期間ということで正式号ではありませんが、これま での有料版の経緯と流れ、そして無料化で変わるところなどをご説明した いと思います。
]]> ◎発端有料版のスタートは2008年9月1日。そこでのタイトルは、
「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く 松永英明のゲニウス・ロキ探索
というものでした。創刊のきっかけは、まぐまぐプレミアムの担当の方か らご連絡をいただいたことで、何か有料メールマガジンを発行してもらえ ないかとの相談があったこと。
そこで単に時事問題を語るだけなら他にもいくらでもありますので、いろ いろと話し合った末、「場所」をテーマに語るメールマガジンというのは どうだろうかということになりました。実は場所論というのは範囲も広く、 また切り口としても通常は見かけない視点です。
多くの時事解説はたいてい「どういう人・組織がどういうことを考えてこ ういうことをしたのか」ということを言いますが、「なぜこの場所で事件 が起こったのか」という視点はあまりないと思われます。
そこで「場所」をテーマにするに当たって、ちょうど気になっていたキー ワード「ゲニウス・ロキ」をタイトルに持ってくることにしました。これ は(一部ではゲームなどでも使われるようですがここではそういう意味で はなくて)、それぞれの場所が持つ歴史や雰囲気、意味合いといったもの を指します。それぞれの場所が持つ「空気」とでも言ったらいいでしょう か(もともとゲニウスはラテン語で「精霊」を意味します)。
場所の精霊、つまりその場所に長い間に込められたいろいろな思い、刻ま れた歴史、あるいは土地の形状が与える雰囲気……そういったものをたど っていくメルマガにしようと思ったのでした。
◎約2年間の配信
それから約2年間、まもなく100号を迎えます。 当初は時事ネタを場所という切り口で解析するという記事も多かったので すが、次第に「実際にいろんなところへ行ってみた紀行」という記事も増 えてきました。また、一方で哲学的な「場所論」なども扱うこととなり、 それによって当初考えていたテーマがかなり掘り下げられていくように思 われました。
一方で、メルマガのタイトルの「社会を読み解く」という言葉から外れる 傾向もありました。当初は時事ネタを場所という切り口で、と考えていた わけですが、場所そのものを体感していく、あるいは都市計画や地域論、 観光業について考えていくといった方向になり、つまり「場所」そのもの が切り口ではなく直接のテーマに変わってきました。
つまり、当初のまぐまぐ担当者の方との話では、時事ネタメルマガではあ るが切り口を変える、という意味合いが強かったのですが、時事ネタは添 え物的になっていったということです。
そして、歩くこと、レポートすることが主要な記事になっていきました。 ある意味、散歩コースになりえるルートの紹介や、撮影した写真紹介メル マガに近い回も増えていったのです。
◎有料メルマガの制約
今までの記事で結構好評だったのは、私自身の独自の考え方や思いなど、 あるいはエッセイ的な内容でした。逆に、書評やソフトの感想、あるいは 単に歩いたという記録だけの回はそれほどでもありませんでした。
しかし、常に何か「オチ」がきちんとつくような内容を書こうと思うと、 週刊というのはかなりきついペースです。また、読者数もそれほど多くは なかったため、有料版のためにここで使ったネタを他に使い回しづらい (あるいは他のところで使ったネタをメルマガで使い回すこともできない) という制約もあり、それはかなり負担となっていました。
また、毎週1回必ず出さなければならないというのもかなり負担でした。 ネタの多いときは回数を増やし、少ないときは間を開けてもいい、という 感じならもう少しやりやすかったのでしょうが……。そのために予告して いながら時期を逃してしまったネタもいくつかあります(さすがに雪の話 を春になってから出すのはどうかとも思われました)。
もう少し気楽にやってみたい、という思いが強くなり、またメルマガを最 初に持ちかけてくださった担当の方もすでに退社していることから、無料 化してもう少し気楽にやってみようと思うようになったのです。
◎今後の方針
有料ではなく無料ということですが、今まで好評だった内容をできるだけ 出すようにしたいとは考えています。ただし、それにこだわることなく、 ちょっとゆるい感じで進行したいと思っています。
たとえば、イベントの紹介がメインとなる回もあるでしょう(もちろん、 興味のある方にとっては有益な情報となるはずですが、読み応えだとか私 の見方を知りたいというのが主目的の方にはちょっとつまらないかもしれ ません)。書評やソフト紹介などの回も設けることになるでしょう。
ただ単に歩いたというだけで、私の見方が強く出ない回もあると思います。 ただ、そのルートのセレクションや、何を記録に残したかということに独 自性は出ると思っています。
◎ライフワークとしてやりたいこと
「ゲニウス・ロキ」というキーワードに巡り会って私がそれをライフワー クにしようと思い立ったのは、「東京繁昌記」や「江戸名所図会」といっ た本に出会っていたことが大きいと思います。これらの本は、江戸の情景 や維新後まもない東京の文物を生き生きと描いていました。これらの記録 があったからこそ、当時の様子に思いを馳せることができます。
私は東京の出身ではなく、むしろ「東京がなんぼのもんや」と思って育っ た奈良出身者です。だからこそ、その部外者が東京に住むようになって感 じ取った「平成の東京」の風景を記録にとどめておきたいと思うようにな ったのだと思います。
東京は変化の激しい町です。変わらない要素もありますが、五年十年で全 然違う町に変わったりもします(電気街から「萌え」の町になった秋葉原 のように)。それを淡々と記録に残せれば、という思いが常にあります。
そのライフワークの一環として、このメールマガジンを配信し続けようと 思っています。回によっては全然関係なさそうだったり、あるいは単なる 記録にとどまったりすることもあると思いますが、それらをすべてひっく るめて「ゲニウス・ロキを記録にとどめる作業」そのものの記録と受け止 めていただければと思います。
10月に入れば、101号から無料版を正式発行いたします。 よろしくお願いいたします。
]]>【ゲニウス・ロキ探索】無料版準備号にて、 「メルマガ「ゲニウス・ロキ」のこれまでとこれから」 というテーマで書きました。こちらでは、皆さんご存じのとおりのこれま でのメルマガの経緯や、今後の無料版での方針について書いています。
http://archive.mag2.com/0001184451/index.html
ぜひこちらをご参照ください。
その中で、「ライフワークとしてやりたいこと」として書いた部分につい て、こちらで詳しく書いてみたいと思います。そして、それがこの有料版 の締めくくり、100号の言葉になるものと考えています。
]]>