八百長

提供: 閾ペディアことのは
2011年2月7日 (月) 00:30時点における松永英明 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成: 八百長 '''八百長'''(やおちょう)は、本気で試合をせずにあえて示し合わせて力を抜いて、勝負の行方を変える行為。特に相撲で…)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動検索に移動

八百長

八百長(やおちょう)は、本気で試合をせずにあえて示し合わせて力を抜いて、勝負の行方を変える行為。特に相撲で問題とされる。力士同士の「星の貸し借り」の場合もあるが、多くは賭博と関連しているものと推測される。

語源・由来

八百屋の斎藤長吉

明治時代、両国の回向院前に住んでいた八百屋の斎藤長吉こと八百長がこの言葉の由来[1]。伊勢の海五太夫と囲碁を打っていたが、本来長吉は非常に囲碁にすぐれていたにも関わらず、あえて伊勢の海に勝ちを譲った。このことから、試合でごまかして甘く繕うことを「八百長」というようになったという。

新聞での初出は、現在確認した範囲で明治三十一年=1898年(朝日新聞)[2]。八百長こと斎藤長吉が亡くなった記事は1901年(明治三十四年)である。

明治時代の用法

明治時代の新聞記事における用法としては、「ペテン」と「八百長」が対比的に使われる例が多く見られる。この場合、ペテンとはいわゆる禁手行為に当たるようなズルい手を使うこと、八百長は「わざと真剣に試合をしないで、引き分けあるいは試合を預かりにしてしまう」(試合結果を出さない)こととして使い分けられている。

現在の用法として、「事前に打ち合わせをして勝ち負けを決めておく」ことが八百長とされているが、これは明治時代の用法とは異なることになる。明治時代には、わざと試合をしないで勝ち負けではなくすわけである。

明治時代には、大場所で8勝以上した力士が「負け」を増やさないために引き分けに持ち込もうとして試合を長引かせたことが「八百長」として激しく非難されているのである。

新聞記事

1898:新聞記事初出

1898年(明治三十一年)2月5日朝日新聞

怒上戸曰く (前略)それから業が沸て/\馬鹿馬鹿しくつて堪らないのは花相撲だ大場所は格別だけれど抑々花相撲と位が下れば肝腎の眼ざす幕内力士等めがグデン/\に酔ぱらって土俵へ出(いで)くさる龍虎相闘ふといふ風が見えなければ観客に充分力瘤の入るものではないとは明かにわかってゐるのに渠等は相対すればニコニコと笑ふ其上また勝負に頓着せず恰も小児が戯れるやうに巫山戯てばかりゐて少しく可厭になると故意(わざ)と倒れて敵に勝たせる或は差引が悪ひと思へば八百長(申合せ勝負の符牒)にして預りとか分(わけ)にして了(しま)ふといふ弊習が募ってきた何と悪むべき限りでない乎可哀さうなは観客で銭を出汁ながら馬鹿にされに行くのだ

※現時点での新聞記事への「八百長」の言葉の初出。これは大場所ではなく「花相撲(ご祝儀相撲)」でのことであるが、「わざと倒れて敵に勝たせる」という今の意味の八百長とは別に、対比する形で「差引が悪いと思えば八百長(申し合わせ勝負の符牒)にして、預かりとか分(わけ)にしてしまう」という悪習が述べられている。

1901:八百屋斎藤長吉の死亡記事

1901年(明治三十四年)10月4日讀賣新聞

相撲社会の名物男死す 東京相撲社会で有名な八百長事斎藤長吉(七十一)は一昨日午後南葛飾郡(ごほり)寺島村の縁者を訪ね同家の門口で車から下りる時ウント一声叫んだまま死去した、同人は以前呼出しであって後太鼓の方に廻されたが太鼓は朝が早いので大儀だとて近年木戸の方に替って余暇ある時は二期大場所の土俵を仲間なる新宿の千代吉と両人して製造するのが勤だ、同人は元回向院前に住居して八百屋を営みし故同社会で単に八百長と呼来った、八百長の囲碁は初段に五六目位を打ち先代伊勢の海太夫より四五目は大丈夫上手なのであるが両人勝負を争ふ時は互ひ先で伊勢の海へ勝を譲るので伊勢海は実地勝利を心得て居る、其処で同業社会では其場を胡魔化し甘く繕ふ事を八百長と言て居る、近年は回向院内の水茶屋島屋と呼ぶが住宅であったが先頃新宿千代吉が死亡(しきょ)したので八百長は非常に落胆して居たから千代が淋しがって迎ひに来たのであらうと年寄九重は真面目で話した

※八百屋の斎藤長吉が明治三十四年に七十一歳(数え)で亡くなったという記事。もともと回向院に住んで八百屋を営んでいたために八百長と呼ばれるようになった。

八百長の囲碁は初段に五六目くらいを打つ実力で、先代伊勢の海(七代目)よりも四五目くらいの上手なのだが、この二人が勝負を争うときは伊勢の海へ勝ちを譲ってしまうため、伊勢の海は結局勝利を得ている。そのため、相撲の世界ではその場をごまかし、甘く繕うことを八百長と云うようになった[3]

長吉は以前「呼出し」から太鼓の方に回されたが、太鼓は朝が早いのでたいへんだと言って、近年は木戸の方に変わっていた。そして暇があるときには二期大場所土俵を、仲間の新宿の千代吉と二人で作るのがつとめであった。近年は回向院内の水茶屋島屋というところに住んでいた。

ところが、一昨日(十月二日)午後、南葛飾郡寺島村(今の墨田区東向島)の親戚を訪ね、同家の門口で車を降りるときに「ウーン」と一声叫んだまま死去した。先頃に新宿千代吉が死亡したために八百長は非常に落胆していたという。「千代が寂しがって迎えに来たのであろう」と年寄の九重が真剣な顔で語ったという。

1901年の八百長死亡記事以前に新聞では「八百長」の言葉が使われている。一方、七代伊勢ノ海が亡くなったのが1886年。現時点で確認できた「八百長」の新聞での初出が1898年であり、先代伊勢ノ海が亡くなってからこの言葉が広まったと考えられる。

1902:八百長対策

1902年(明治三十五年)1月29日讀賣新聞

●相撲だより ◎地方興行の改良 東京相撲が地方興行に対する勝負に付ては近来八百長とか又は纏頭(はな)付なり抔(など)の風説あるより協会は大に苦慮する処あり一昨夜協議の末大坂及び京都興業は本場所同様給金を上げ且つ各地方興業も取締検査役等に於て厳密に其成績を取調べ置き大場所番附の席順昇降に加ふる事に定めたり

八百長、纏頭付が行なわれているという「風説」があるので、給金を上げる一方で取締を強化するという記事。纏頭付とはご祝儀・チップつきということで、まじめに試合をしない相撲が問題視されていたことは今も昔も変わらない。

1908:帝国議会での発言に「八百長」の語

1908年(明治四十一年)1月29日讀賣新聞

議院雑観 (前略)▲望月君が演壇に立って愈々質問演説に取掛る前口上として「諸君本員が今茲に我が外交の失策を鳴して誠心誠意之を攻撃するに誰か予を以て八百長演説をするものと云ぞ」とやったときは傍聴席に哄笑の声が起こった(後略)

  • 明治四十一年一月二十九日 第二十四回帝国議会衆議院本会議

〔望月小太郎君登壇〕
○望月小太郎君 諸君、事苟モ外国ニ関係致シマシタル重大問題ニ関シマシテハ、成ルベク精密ニ、仔細ニ、彼我当局者間交渉ノ実際ヲ調査致シマシテ、其賛クベキハ之を助ケ、其譴ムベキハ之ヲ責メ、而モ或係争問題ニ対シマシテハ之ニ仮スニ一定ノ時日ヲ以テシ、而シテ後、断案ヲスル、之ヲシモ猶且八百長演説ト云フナラバ本員ハ敢テ言ハン、凡ソ外交質問ノ最上式ハ八百長ナラザルベカラズ、定九郎ガ与市兵衛ヲビックリ仰天セシムルガ如キ暗打演説ハ国家ニ忠良ナル代議士ノ断ジテ避ケナケレバナラヌコトデアルト、本員ハ斯様ナル信念ヲ有ッテ居ルノデアリマス、此信念ヲ有スルニモ拘ラズ、而モ本員ガ茲ニ質問セント欲スル移民問題並ニ対清問題ニ対シマシテ当局ノ経過ヲ見マスレバ、本員ハ遺憾ナガラ冒頭第一ニ我現当局者ノ外交政策ハ遅鈍ナリ、緩慢ナリ放縦ナリト云フコトノ疑ヲ抱クモノデアル、(後略)

※帝国議会衆議院の本会議において、望月小太郎議員(山梨県選出)が、外交上の失策についてはきちんと批判攻撃しているのに「八百長」などと言われるのは心外だ、ということを冒頭に述べたもの。

1909:国技館落成

1909年(明治四十二年)2月8日

三面時事 丿乀子 (前略)
▲相撲 常設館落成と共に協会内部に大改革を断行し年寄力士の品位を向上し武士道の精華を発揮すと遅蒔も蒔かぬに優る▲改正規則に云幕内力士は十日間全勤(まるづとめ)の事、取組は従来(これまで)の方法を捨てて随時適当に定む、一場所毎に双方の星数を調べ勝越しへ優勝旗と賞金を与へ東西を転換すと▲八百長の弊風地を払て去り初日より横綱同士の顔合わせを見る事も出来る好角家の満足思ふ可し▲其他地方巡業中の汽車汽船は横綱大関一等幕の内二等、旅行中は筒袖等野卑な風采を為す可からず、場所入の際は角帯又は縮兵児に限るなんど珍規程もあり

※相撲が国技とみなされるようになったのは1909年の国技館(ここでいう「常設館」)建設以降のことである。このとき、相撲の興行の「改良」(改善)が試みられていた。この記事の内容を裏返せば、「八百長の弊風」がそれまでは存在していたということにもなる。

1910:板垣退助が八百長対策に乗り出す

1910年(明治四十三年)1月24日

▲太刀 対駒嶽常陸対太刀皆八百長で終る日比谷館の晴場所之れに学ぶ者無き乎

1910年(明治四十三年)1月30日

●板垣伯の八百長 去廿六日板垣退助伯が友綱部屋で太刀山、国見山以下を集めて八百長相撲を攻撃して一場の訓示演説を為し太刀山以下は今後一切八百長はやらぬと云ふ証書を書た訓示は兎に角証書はチト臭いなと思って居ると其実今場所打上後八百長に就て八方より攻撃を受け殊に退隠する筈の国見山を或る関係から登場させたりして大相撲が徹頭徹尾八百長に終ったと奮慨した者すらあるので是では次場所の人気にも関すと遂に老伯爵を煩はして訓示演説及誓の証書となったのだと素破抜く者がある八百長訓示などは愈々以て馬鹿にしてトテ居る処が少々早まって東方に相談に及ばなかったので目下東西重訳の間に衝突を起して居ると

※板垣退助が、八百長で問題になった太刀山・国見山らの力士に対して、八百長をするなと訓示し、さらに八百長をやらぬという証書を書かせたという。八百長問題が非難を浴びる中、引退するはずだった国見山が結局出場したりしたためにさらに騒動が大きくなり、次場所に影響するようになったので老伯爵にお願いして訓示・証書という次第になったのだという。

1910年(明治四十三年)5月12日

●角界雑俎
▲分預星(わけあづかりほし)の処分法 十五日公表すべく八百長の相撲は仮令ひ勝負ありとも相当の厳罰を与ふるやうなるべし

1911:八百長おさまらず

1911年(明治四十四年)2月14日

◎国技館大相撲八日目
▲八日目雑観
△困った八百長沢山 本場所も取り進むで八日目となると好成績なものはお互に顔が合ても勘定角力から偶意的の八百長をやる幕下で先づ目についたのが雲の峰に真龍、玉の川に輪飾、幕内で老巧両国と新進の八甲山、元気の鶴渡りと綾浪、共に土俵の真ン中で動か無いで引分けに終った鶴渡りの前身が八百屋の清さんなので八百長じゃ無い八百清だなどと駄洒落なら見物一同が斯様な角力には不平/\

※八百長が目についたという記事で、その八百長の内容はいずれも「土俵の真ん中で動かないで引き分けに終わった」とされている。この節の直前には、(板垣から八百長を諫められた)太刀山が「ペテン」を行なったという文章が書かれており、現在の八百長の意味(裏で事前に決めておいた勝ち負けに従って試合をする)とは大きく異なっていたことがわかる。

  1. ただし「語源由来辞典」やウィキペディアでは「八百屋の長兵衛」とされている。長吉の出典は明治三十四年十月四日付の讀賣新聞記事。いずれが正しいかは継続調査の必要あり。
  2. 読売の歴史データベースにおいて「八百長」と検索すると1891年の記事なども引っかかるが、実際に記事を確認すると「八百長」という言葉が使われているわけではない。今でいう八百長にあたる不正行為が行なわれたという記事である。つまり、データベースで検索の便宜として、八百長に該当する内容を報じた記事にキーワード「八百長」が付けられている。この点、言葉自体の出典としては使えないので注意。
  3. wikipedia:伊勢ノ海では「なお、八百長の語源は、八百屋の長兵衛と初代伊勢ノ海である伊勢ノ海五太夫との囲碁勝負で、長兵衛がわざと囲碁で負けたことに由来する。」と書かれている。しかし、同ページにて初代は襲名期間記載なし、二代目の襲名期間が「1774年10月-1782年2月」とされている。八百屋の長吉が数え71歳で亡くなったのが1901年とすれば1831年生まれということになり、すでに亡くなっているはずの初代伊勢ノ海がこの八百長と囲碁対戦することはあり得ない。記事中では「先代」と書かれている。1901年時点での伊勢ノ海は八代であるから、1886年3月に亡くなった七代伊勢ノ海(柏戸宗五郎)が「八百長」囲碁の対局者ということになる。