ハワイ古代史

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ハワイ史は、ポリネシア全域と複雑に結びついている。ハワイはポリネシアン・トライアングルの北端にあたる。ポリネシアン・トライアングルとは、太平洋地域の中で、ハヴァイイ(ハワイ)、ラパ・ヌイ(イースター島)、アオテアロア(ニュージーランド)を3つの頂点とする範囲である。ポリネシアン・トライアングルの中の多くの島嶼文化は、5000年前に東南アジアで使われた原マレー・ポリネシア語を起源とする似た言語を共有している。ポリネシア人は、宗教、社会組織、神話、物質文化などの文化的伝統も共有していた。人類学者は、東南アジアから移住したアウストロネシア(マレー・ポリネシア)人によって作られた南太平洋原始文化からすべてのポリネシア人が生まれたと考えている。

ハワイ諸島への航海

ポリネシアの船乗りたちは熟練した水先案内人であり、天文学者でもあった。西洋の船が陸地の見えないところにはほとんど行かなかった時代にも、ポリネシア人は、海風と波に耐えられるよう慎重に作られたカヌーの船団で長距離旅行をすることがしばしばあった。

ハワイの初期の植民史はいまだ完全には判明していない。最初のポリネシア人が3世紀にマルケサスからハワイに到着し、西暦1300年ごろ、原住民を征服したタヒチ人移住者に追われたと考える人たちもいる。ただ一回の長期にわたる植民があっただけだという人たちもいる。Patrick Kirchは、2001年の著書『Hawaiki』で、長期間にわたる接触があったが、タヒチ人による侵略が必ずしもあったとは言えないと述べている。

ハワイへの植民は西暦800年以後にはなく、300年~500年ごろにさかのぼりうるという、考古学的・古生態学上の重要な証拠がある(Kirch 1985; Athens 1997)。ハワイへ植民してきた人々の直接の起源は、南マルケサスであった可能性が高い。しかし、ハワイと中心的地域の諸島に常に交流があったことは、言語上の証拠(タヒチ系からの語彙の借用)、豊富な口承伝承(Cachola-Abad 1993)、植物相、ナンヨウネズミの個体群におけるミトコンドリアDNAの共通性(Matisoo-Smith ほか 1998)、さらには考古学的様式の変化からも裏付けられる。しかし、ハワイと、中心的な東ポリネシアの中核との長距離公開は、西暦1200年以降にはそれほど行なわれなくなり、ヨーロッパ人との接触時まで、それはハワイの口承伝承の中に記憶としてとどめられるにすぎなくなった。

ハワイ諸島をタヒチ人が征服したという唯一の証拠は、ハワイロア(Hawai?iloa)と、航海神官パッアオ(Pa?ao)の伝説だけである。パアオは、ハワイと「カヒキ」(タヒチ)島の間を航海し、多くの新しい習慣をもたらしたといわれている。ハワイ人の中には、パッアオは歴史上実在したと信じる者もいる。FornanderやBeckwithといった初期の歴史家も、このタヒチ人による侵略説を唱えたが、Kirchなどの後世の歴史家は、単純にこのことに言及しなくなっている。

カラカウア王の著書『ハワイの伝説と神話』では、パッアオはサモアから来たと書かれている。パアオがもたらした宗教、カフナ教はサモアからのものだった。パアオは、サモアから大首長ピリ(Pili)を連れてくることにことに尽力し、ハワイの島を支配させた。ピリはサモア神話でよく知られた存在である。その子孫は、今日に至るまでサモアで最高級の一族の一つであった。カラカウア王が示した系図によれば、カメハメハ王もピリの子孫だった。サモア群島のサヴァイイ(Savaii)大島は、古代にはハワイキ(Hawaiki)という名前であった。

ハワイにはまた別の先住民がいて、新しい移民によって遠くの谷へと戻るよう強いられた、と考えている著者もいる。ヘイアウと養魚池を作った小さい人たちメネフネについての物語は、ハワイ人以前に諸島にやってきた古代人がいたことの証明だというのである。Luomalaは、1951年のメネフネについてのエッセイで、これらの物語は深い森に住んでいる尾のある「犬人」物語と同様、民間伝承であって、先住民の証拠として解釈することはできないと論じている。考古学的には、先住民の移住を示す証拠を見つけておらず、現在の考古学文献では、メネフネ伝説について言及も議論もされていない。

しかし、カウアイ島には謎めいた人工物がある。ワイメア川沿いにある古代の水道橋「メネフネ溝」である。この水路は、タロ畑を灌漑するために、ワイメア川から水を引いてきていたことがあった。岩は直方体のれんがの形に整形され、慎重に組み合わされている――大量の労働を必要とする石細工方法で、それはハワイの石細工方法の典型とは異なっている。この溝は現在、キャプテン・クックの最初の来訪より前に建設されたと信じられている。

ハワイへの入植

入植者は、衣服、植物、家畜をもたらし、海岸や大きな谷に沿って村落を築いた。移住者たちはカロ(タロイモ)、マイア(バナナ)、ニウ(ココナツ)、ウル(パンノキ)を育て、プアア(ブタ)、モア(ニワトリ)、イリオ(イヌ)を飼ったが、これらの食物よりも果物、野菜、海産物をよく食べた。よく使われる香辛料には、パアカイ(塩)、丸いククイの実、リム(海草)、甘味料としても薬としても使われたコ(サトウキビ)などがあった。移住者たちが持ってきた食物に加えて、ウアラ(サツマイモ)も手に入ったが、これは南アメリカ起源の植物であるため、うまく説明がつかない。古代ハワイ食にサツマイモがあることは、コロンブス以前にアメリカと海を越えた接触があった証拠だと主張する研究者もいるが、大半の研究者はその考え方を退けている。

新しい移住者たちは、到着するとすぐにハレ(家)とヘイアウ(神殿)を建てた。考古学者は現在、最初の村落はハワイ島(ビッグアイランド)の南端にあり、それからまもなく、海岸と、行きやすい川谷に沿って北方へとすばやく広がっていった、と考えている。人口が増えるにつれて、村落は遠くの島にも作られるようになった。

村落

古代ハワイの伝統的な村落には、いくつかの組織があった。重要な順に挙げる。

  • ヘイアウ……神々の神殿。高くそびえる石組みを土台とし、木と石像で飾られている。偉大なるマナ(神力)の源である。ヘイアウに入れるのは、アリッイ(王)とカフナ(神官)に限られていた。
  • ハレ・アリッイ……首長の家(宮殿)。大首長の邸宅であり、小首長たちの集会場として用いられた。社会的な地位が高いことを示すため、常にくみ上げられた石の土台の上に建てられた。王権を表わすカヒリ(鳥の羽根飾り) が外に置かれた。女性と子供は入ることが許されなかった。
  • ハレ・パフ……神聖なフラ楽器の家。ここにはパフ太鼓があった。フラは女神ラカを祀る宗教的行為であったため、ここは神聖な場所として扱われた。
  • ハレ・パパッア……首長の貯蔵庫。これは、織物、褒賞としての魚網と釣り糸、棍棒、槍その他の武器など、首長の道具をしまっておくために建てられた。
  • ハレ・ウラナ……織物の家。村のかご、扇、むしろ、その他、乾燥したパンダーヌスの葉(ラウハラという)から作られる道具を作るために、毎日職人が集まる家。
  • ハレ・ムア……男の食事の家。石で彫刻したアウマクア(先祖の神々)像を使っていたため、神聖な場所と認識されていた。男と女は一緒に食べることができなかった。男は、食べているとき、マナ(神霊)を女に取られてしまうおそれがあったからである。女はハレ・アイナと呼ばれる別の食事の家で食べた。
  • ハレ・ワッア……カヌーの家。漁船置き場として海岸沿いに建てられた。ハワイ人はコア(カヌーを造るのに使われたマホガニー材)もここに蓄えた。
  • ハレ・ラワイッア……釣りの家。漁網や釣り糸を収納するために、海岸沿いに作られた。網と釣り糸は、織り込んだココナツ殻から作られた頑丈な糸で作られていた。釣り針は、人・ブタ・イヌの骨から作られていた。ハレ・ラワイアにある道具は、村中で最も貴重な所有物とみなされていた。
  • ハレ・ノホ、生活の家。ハワイの家族が眠り、生活する領域として建てられた。

イム……共同の土かまど。地面を掘って、プアッア(ブタ)など村中の料理を作るために使われた。イムを使って料理したのは男だけだった。

階級制度

古代ハワイは階級社会であった。人々は特定の社会階級に生まれる。社会的地位が変えられたかどうかはわからないが、まれなことであった。主要な階級は以下のとおり。

  • アリッイ……首長階級(王族)。この階級は、大首長と小首長がいた。マナと呼ばれる神の力で統治した。
  • カフナ……神官と専門家の階級。神官はヘイアウその他の場所で宗教的儀式を執り行なった。専門家には、大工や船大工の棟梁、詠唱者、踊り手、系図学者、医者、治療者がいた。
  • マカッアーイナナ……一般的な階級。庶民は農作業、漁労をおこない、単純な仕事で働いた。自分と家族を養うためだけでなく、首長とカフナのためにも働いた。
  • カウワ……奴隷階級。戦争捕虜、または戦争捕虜の子孫であったと考えられている。高い階級とカウワの結婚は厳しく禁じられていた。カウワは首長のために働き、ときにはルアキニ・ヘイアウでの人身御供として用いられることもあった (カウワだけがいけにえとなったわけではない。どの階級でも法を破った者、敗れた政治的対抗者もまたいけにえとなることがあった)。

土地所有

大首長たちは統治する地域すべての土地を所有していた。首長は血族と家臣に土地の一部の統治権を割り当て、その土地はさらに庶民に割り当てられた。

ある首長が亡くなって他の者に受け継がれたとき、土地は再分配された――かつての「所有者」の中には土地を失う者もあり、新たに土地を得る者もあった。ある首長が他の首長を破ったときにも土地は再分配され、征服された土地は戦士に褒賞として再分配された。

実際には、庶民は家や農場をいたずらに差し押さえされないよう、ある程度守られていた。庶民は通常その場所に残り、新しい首長に従って労働力を提供し、新しいコノヒキ(監督官)の監督下に置かれた。

土地所有のこのシステムは、中世ヨーロッパの封建制度に似ている。

ハワイにおける主な土地所有単位はアフプアッアで、島の中央の山から海岸に向けて土地を三角形に切り取ったものである。一つの島は、パイのように、多くのアフプアッアに区切られる。それは多くの場合、川谷によって決められていた。多くのアフプアッアは、生活に必要なものすべてを含んでいた。釣りや珊瑚を集めるための海岸、飲み水・水浴・潅漑のための川、材木と野生食物のための森の台地。アフプアッアのすべての住民は、共有の水域で魚を釣ったり、台地で採集する権利を持っていた。部外者は、住人の許可を得たときのみ、釣りや採集をすることができた。アフプッアには他より大きいものもあり、それは小さな単位に細分化されることがあった。アフプッアの中には、不完全なものもあった。岩の岸の上の漁村は、魚は多いがその他は何もないアフプアッアになるかもしれない。この村民は、魚をタロやサツマイモと交換しなければならなかった。

たいていの村落は、漁場に行きやすいように、岸辺近くに作られた。しかし、時代を経てハワイの人口が増えたとき、内陸の村もできるようになった。それは漁村と同じく、自分たちで得られない食物を手に入れるには物々交換をしなければならなかった。

すべてのアフプアッアは課税されていた。それは、その土地を「所有」している首長に対する産物、技能、労働の形で支払われた。これらの要求は重い負担となることもあった。古代ハワイの物語では、庶民の仕事を搾取した首長が、貪欲な土地横領者として語られている。

カプ制度

古代ハワイ社会を束ねていたのは宗教であり、習慣・ライフスタイル・働き方・社会方針・法律に影響を与えていた。法律制度は宗教的なカプ(タブー=禁忌)に基づいていた。生活し、礼拝し、食べ、セックスすることにまで、正しい方法があった。カプの例として、男と女は一緒に食べてはならないという条項があった。釣りは一年の特定の季節に限定されていた。アリッイの影には触れてはならない。そのマナを盗むことになるからである。事故であってもカプを破ることは、死をもって罰せられた。

カプは、神々、半神、先祖のマナに対するハワイ人の崇拝にもとづく伝統と信仰から生まれたものである。自然の力は、クー(戦争の神)、カーネ(光と生命の神)、ロノ(豊饒と再生の神)といった主要な神々の形で擬人化された。有名な神々には、ペレ(火の女神)、その妹のヒッイアカ(水の女神)などがいる。有名な創世神話で、半神マーウイは、釣りに出かけてなしたちょっとした間違いの後、海からハワイ諸島を釣り上げた。ヘレアカラー火山でマーウイは太陽をわなにかけ、毎日闇と光が同じ時間になるようにゆっくり進むように命じた。

首長

最大の4島、ハヴァイイ、マウイ、カウアイ、オアフはそれぞれのアリッイ・アイモク(大首長、王、土王)が統治した。その元で、従属的な地区アリッイが狭い領地を支配した。

これらの王朝はすべてお互いに関連づけられていた。彼らはすべて、ハワイの住民は、伝説的上の父母であるワケア(大気の象徴)とその妻パパ(大地の象徴)の子孫であると考えていた。

18世紀後半、ハヴァイイ島の王国は、いくつかの独立した首長によって分裂していたことが知られている。血なまぐさい戦争が当たり前になっていた。島を支配するアリッイ・アイモクはもはやいないようだった。

19世紀のはじめ、主要な島々の大首長は、「20数代」のアリッイ・アイモクがその地位を占めてきたと考えていた。これは、ハワイの伝承に基づく各地域の支配者数を数えたものである。生物学的な世代でいうと、1世紀には平均して3~5代がある。兄弟相続などを考慮に入れると、どのような王朝でも1世紀に平均して10代程度の王が含まれる。これから数えると、アリッイ・アイモク王朝は(1800年ごろから)約3~6世紀前にさかのぼることになる。先住民をすべて滅ぼしたと伝えられるハワイ諸島へのタヒチ人侵略は、13世紀ごろに起こったとされている。アリッイ・アイモクの君臨は、おそらく、侵略後間もなく確立されていた。

伝説上の系譜によると、神話上のワケアから最初のアリッイ・アイモク統治者まで30数世代であるが、これはハワイ諸島以外の場所で生きてきたのであろう。

生活経済

古代ハワイの経済は時を経るにつれて複雑になっていった。人々は特定の技能を専門に行なうようになっていった。一族の人たちは、特定の職業に専従するようになった。屋根葺き職人、大工、石切職人、アリッイの羽のマントをつくる鳥取り、カヌー作りなどである。まもなく、島全体が特定の技術職を専門に扱うようになった。オアフ島は、カパ(タパ樹皮の布)製造のトップとなった。マウイ島は、カヌー製造のトップになった。ハヴァイイ島は、乾燥魚の俵を交易した。

ヨーロッパ人の発見

ヨーロッパ人によるハワイ諸島の発見は、古代ハワイ時代の終わりとハワイの近代の始まりとなった。1778年、英国のジェームズ・クック船長はカウアイ島に初めて上陸し、それから南方に航海して他の諸島を観察・探検した。

最初に到着したとき、原住民の中には、クックがロノ神だと信じた者もいた。クックの帆柱と帆は、偶然、ハワイの宗教儀式においてロノ神を象徴する印(帆柱と白いタパの布)に似ていた。船が到着したのは、ロノ神に捧げられるマカヒキの季節だった。

キャプテン・クックは最終的に、原住民と英国船員の間の暴力的衝突の中で殺された。撤退する船員たちは、クックの遺体を海辺に残した。イギリス人は遺体を返すように要求したが、ハワイ人はすでにその遺体をヘイアウ(神殿)でいけにえに捧げてしまっていた。肉は骨からはがされ、骨は埋葬準備されていた。ハワイの歴史家カマカウは、ハワイ人は骨をいくつか返しただけだったという。

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