「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2

 以前「こっそりやっているサイトには、あえてリンクしないという配慮も必要ではないか」という話題が一部で取り上げられ、そのキーワードとして「儀礼的無関心」という言葉が使われるなど、いろいろ考えるところがあった。このサイト内でも「ネットでの儀礼的無関心」かコミュニケーション優先かという記事を公開した。

 しかし、ARTIFACT -人工事実- 2004/01/31「ネット教習所をシステムとして作る-儀礼的無関心について-」を読んで、自分自身がその話題の発端を間違って受け取っていたことに気づいた。

 アクセスが集中した小規模サイトが焦って記事を削除したり、サイトを閉鎖したりすることがある。そんなことがないように思いやりを持って、あえてリンクしないであげようよ……という趣旨だとてっきり思いこんでいたのだが、何のことはない、最初に言いだした人は「こっそり見る権利(チラ見)を失わせるな、と言ってる」のだった。要は覗き見である。その出歯亀行為を「公共の利益」にすり替えて議論が進められていた。このあたりを完全に見落としていたのは、私の大きなミスだ。

 そこではっきり言わせていただく。「覗き見の権利など、守る必要は一切ないと。

※2/6追記。法的な意味で「権利」は誰にでもある、という言葉尻を捉えた反論が来たので、余計な議論を避けるため、上記取消線部分を以下のように訂正します。

「覗き見する人の覗き見環境を他人がわざわざお膳立てしたり維持したりしてやる必要は全くない」
覗き見する先がなくなったからと言って文句を垂れるのは筋違いだし、ウォッチャーとしても恥ずかしい態度である。ウォッチ対象が潰れたら黙って次の対象を探すウォッチャーには何も言わないが、外からバカにして見ていただけの人が「せっかく俺が見ていたのに」と文句を言うのはおかしくありませんか?そして、それこそバカにされ続ける人の尊厳を損なう行為ではありませんか?

2004年2月 1日19:47| 記事内容分類:ウェブ社会| by 松永英明
この記事のリンク用URL| ≪ 前の記事 ≫ 次の記事
| コメント(26) | トラックバック(14)
twitterでこの記事をつぶやく (旧:

 加野瀬さんの文章では「■こっそり覗き読む権利を守る必要性はない」という一節にこの点が詳しく書かれている。つまり、最初に問題提起した人は「ウォッチ対象のサイトが潰れたら覗き見できないじゃないか!」と怒っていたにすぎない。そんな権利は守ってやる必要などどこにもないし、そこに公共の利益など存在しないのは当たり前のことだ。
 「こっそりのぞき見できる可能性が失われ」て困るのはウォッチャー連中だけである。

「そんな権利は守ってやる必要などどこにもないし」を「そんな権利を主張する人がいたとしても、そのような環境を周囲の人がお膳立てして維持してあげるような必要などまったくない」に訂正します。

 なお、人数が少ないがゆえにうまいぐあいに盛り上がっていたサイトを大サイトがリンクしたがために、変な投稿が増えて、その雰囲気を壊してしまった、という場合は問題が少し違っていて、単にリンクした人が「空気を読めない」ということになろう。
 何が違うのか。ウォッチ対象となっている弱小サイトにリンクしない、というのは、単にウォッチャー側の都合でしかない。影でコソコソ笑われているよりは、のぞいている奴がいるとわかった方がずっといいともいえる。
 しかし、人数が少ないがゆえに盛り上がっているサイトにあえてリンクしないのは、そのサイトの人にとっての利益を守るのが第一義といえよう。
 つまり、ウォッチャーの理論はエゴイスティックなものでしかない。そこに公共の福祉だの社会学理論だのを持ち出すのはおかしな話である。私はそれにすっかり「釣られ」てしまったわけだが。

 Artifact 2004/01/10には「リンクしないで言及するという行為」という記事があった。この中ではあまり触れられていないが、「ウォッチ対象を触らず、見られていることにも気づかれないように注意して、相手を笑い者にする」という場合も少なくないように思われる。これはものすごく「いやらしい態度」に感じるのだが。

 その意味で、2ちゃんねるのウォッチ板で「言及するときは直リンクしない」というルールを設けているとか、あるいはリンクしたときには一旦ime.nuやime.stを間に挟んで、どこから言及されているかわからないよう偽装工作をしているのは、非常にいやらしいものとしか思えないのである。

 というわけで、今回の記事は「儀礼的無関心」を言いだしたウォッチャーの人のサイトには「あえてリンクせず」に公開してみる。自分に気づかれないようになんだかんだ言われることがどれだけ気持ちの悪いことか、その人が立場を入れ替えてわかってくれれば、と思う。



2月3日 18:45追記。

「ネットでの儀礼的無関心」結でこの記事への返答が出ている。まあ「長文UZEEEEEE!!!!3行目から読んでないけどな」で済ませずに一応コメントしておこう。

■前提
 ABCではわかりにくいのでまとめておく。
  A:目立たずにネットで情報発信したい人
  B:人気サイトの人
  C1:Aサイトを見ていた「普通の閲覧者」
  C2:Aサイトをあざ笑っていた「ウォッチャー」

 松谷さんは意図的にC1とC2を混同することによって議論を誘導している。
 私は「Aの人に対して、Bの人があえてリンクしないという選択肢」について問題提起されているという部分については、今も異論はない(ここは「誤読」されぬよう)。しかし、実は松谷さん自身がC2であり、その覗き見の権利を守ろうという主張が根本動機、あるいは追加された段階で、そのC2の権利についてはやはり否定したい。

■ウォッチャーの類別
 ウォッチャーもいくつかに類別できよう。
  C2a:相手に知られてもかまわず、あからさまにウォッチする人
   (「真・バトルウォッチャー」等)
  C2b:相手に知られぬように裏でウォッチしているのに、対象が消えると怒る人
   (松谷さん、2ちゃんねるの一部ネット珍走団ども)
  C2c:相手に知られぬように裏でウォッチし、対象が消えたら諦める人
   (のら氏等)
 私はaとcについては特に批判しない。aは責任をとっているし、cは立場をわきまえている。問題はbで「ウォッチ対象が潰された」と怒って、その原因となったBさんを批判するのは、あまりにも独善的すぎる。ここで誰もが独善的であるなどという一般論に落とし込んではならない。独善的なりの責任を取るか、それとも立場をわきまえて静かに引っ込んで次のウォッチ対象を探すか、どちらかであればいいのだ。

 独善的なC2の3タイプいずれも、他の人が思いやりをもってあげる必要はない。aならトラブルになっても自分で責任を取るだろう。cならさっさと諦めるだろう。bなどは単に優越感を持ちたいためだけのわがまま勝手なのだから、思いやったりせず、痛い目に遭わせるくらいがむしろ彼らのためでもあろう。

 なお、他のサイトを閲覧するのに、あざ笑う/ネタにすることを動機として行動するC2と、一般的なサイト閲覧者C1を混同するのは、あまりにも恣意的な議論である。

 そして、Aに対する思いやりには、C2に対する思いやりを含めてはならない。C2を思いやることと、Aを思いやることは矛盾するからである。松谷さんがいくら「C2だけではない。C2とAの両方のことを思いやっている」と主張したところで、C2の権利を含めた段階で、もうまるでダメなのである。「AとC2の関係」などは、C2がいくら自己正当化しようとしたところで、それが「笑われる人、あざ笑う人」の関係である限りはまったく尊重し得ない。それが対等の立場に立つことが必要なのであり、その対策としてサイトを閉じるのであれば、それはそれで正しい選択だ。笑われ続けることがAの社会的義務だなどというのはおかしな話である。

 決定的なポイントを述べれば、松谷さんは「ウォッチャー擁護」であり、私は「C2型ウォッチャーは少なくとも権利を主張できる立場にはない」という主張である。その前提が違う以上、議論は永久にかみ合わないと思うので、今後、この件についてあまり立ち入るつもりはない。

■きちゃないたとえですが
 インターネットは公道のようなものである。そこで野グソをしていたら、見られても仕方がない。だから、そういう人にはちゃんとトイレに行けと教えてやることが必要だ。あるいは、見てもいいけど、これ以上人を呼ばないでね、とお断りするか、どちらかしかない。それなのに、覗き見して喜んでいた奴が、「なんでそういうこと教えるんだよ」と怒り、しかもその怒りを「公共の利益」「儀礼的無関心」などというレトリックで正当化しようというのは、あまりにもおかしな話である。

 ちなみに、今回の記事を、私が「怒って」書いたのではなく、「呆れて」書いたのだということぐらいは理解してほしいものだ。
 不思議に思ったのは、以前の私の意見は松谷さんから誉められていたのだが、今、それは「誤読していたのだ」と断じられていることである。彼の意見に対しては、誤読したほうがよい意見を導き出せるというのだろうか?
 あと、感心したのは、松谷さんは「自分の方が正しい」「世論は自分に賛同している」「彼らは読解力がない」「松永は思考停止して噴き上がっている」(=バカだ)という記述を巧妙に文中に埋め込むのがお上手ということである。テクニックとして非常に参考になったことについては、素直にお礼を言いたい。自分では使わないけどな。

【広告】★文中キーワードによる自動生成アフィリエイトリンク
以下の広告はこの記事内のキーワードをもとに自動的に選ばれた書籍・音楽等へのリンクです。場合によっては本文内容と矛盾するもの、関係なさそうなものが表示されることもあります。
2004年2月 1日19:47| 記事内容分類:ウェブ社会| by 松永英明
この記事のリンク用URL| ≪ 前の記事 ≫ 次の記事
| コメント(26) | トラックバック(14)
twitterでこの記事をつぶやく (旧:

トラックバック(14)

※当ブログへトラックバックされる場合は必ずこのページへのリンクを入れてください。こちらへのリンクのない一方通行トラックバックは承認されません。

トラックバックURL: http://www.kotono8.com/mt5/mt-tb.cgi/179

・ARTIFACT 〓人工事実〓 |... 続きを読む

〓思いのままに[前記事]  〓「儀礼的無関心」の人って、そうだったのか。やっぱり[続編]   [1]ARTIFACT:ネット教習所をシステムとして作る〓儀礼的無関心について〓   [2]あそび... 続きを読む

*[another view]「ネットでの儀礼的無関心」結 ●火付け役からのコメント  『ARTIFACT』の加野瀬さんが、以下のよ... 続きを読む

ご無沙汰しております。最近仕事(飲み会など含む)が忙しく皆さんのコメントに対する返事もしないで申し訳なく思っております。る。さて、今回は前々から言いたかった事があったの... 続きを読む

儀礼的無関心から派生してまたいろいろ思ったことを書きました。 続きを読む

議論への割り込みになるかなと思い、ウオッチャーとして(コメントではなく)日記のほうに書く:p。 でも、結局単なるウオッチャーであるのが嫌なので、トラックバックは一応しておいた... 続きを読む

スレッドからのpingです。ネット珍走団で悪かったな!グラァ 続きを読む

ウェブログ@ことのはのエントリーとTRiCK FiSHのエントリーで喧嘩(討論とは言えへん状況になってる)してる大人達が見れる。特にTRiCK FiSHの方はツッコミ満載なエントリー。最初は卒業... 続きを読む

[A]ウェブログ@ことのはvs[B]TRiCK FiSH  -- ウェブログ:覗く人・覗かれる人 それぞれの思い --  A氏の記事で展開されたコメントを介した対話が面白い  その後、B氏がどんな反応を... 続きを読む

ちょっと流行を追いかけてみたい。 最近儀礼的無関心のエントリがたくさんあって、発端はTRiCK FiSHのエントリで、それが紆余曲折を経て「ネットでの儀礼的無関心」結にたどり着いたよ... 続きを読む

さまざまな人種  〓人間の性格分類[おもいっきりabout]  [趣味趣向分類]   AN:ネットが嫌い、使わない[Anti-Net]    N:ネット大好き、ネット依存症、ネットがないと生きていけな... 続きを読む

「儀礼的無関心」の発端は実は覗き見の権利から始まっていたみたいです。 続きを読む

リンクを張る、というネタ系blogにとっては日常茶飯事の行為についての議論を見つけました。 「儀礼的無関心」という言葉をキーワードにここ数ヶ月blogでのひとつのトレンドになってい... 続きを読む

参加させていただきます。 ■結論から ブログを始めてまだ1週間だからかもしれませんが、好きです。 トラックバックщ(゜д゜щ)カモーンです。嫌になるかもしれませんけど、、 その時... 続きを読む

コメント(26)

あなたはいったい、誰に向けて何を語っているんでしょうか?

だからこういう「儀礼的無関心」を行使すると気持ち悪いでしょ?
というか、リンク先のページをちゃんと読んでいただければ何を言っているのかちゃんとわかるはずです。

はじめまして。Magiと申します。
「儀礼的無関心」って、言い出しっぺの人や、いろいろな方のBlogを読んでも正直ピンとこなかったのですが、やっとわかった気がします。
「儀礼的無関心」、なんとなくの理解はしないほうがいいなぁ、と。そんな気がします。

何ていうか、言葉は悪いですが
「すげー!」って感じです。

何の何処がどうしていけないのかが多分完璧です。見事!

だんだん盛り上がって最後にサイトを閉じるような、よくある流れになってきましたね。。。

半分「それだ!」と思うと同時に
半分「えー!?」って感じ
善意も悪意も至近距離すぎて、コミュニティなんてものが成立しているのかどうか....

質問です。
C1とC2は、観察者がどのようにして判別できますか? その心の内側はどのようにして覗けますか? また、私をなぜC2だと判断されますか?

心の内側は行動や言動において表現されます。普通にサイトを見ている人であれば「匿名掲示板の人たちも永遠に見られなくなる」「こっそりのぞき見できる可能性」「こっそり見る権利(チラ見)を失わせるな」という言葉づかいそのものが異質なものでしょう。

私も当然、いろんなサイトを見ますが、いちいち痕跡を残すわけではありません。しかし、覗き見したり、相手をなま暖かく見守るような暇があったらもっと生産的なことに時間を使えばいいと思っているので、単に「閲覧する」ということになります。それは、当該サイトの閲覧数が多かろうと少なかろうと関係ありません。ただサイトを「見る」か「見ない」かだけのことです。

その場合、「匿名掲示板」の人たちの動向だの、「こっそり覗き見」といった言葉づかいだの、「チラ見」といった発想そのものが、自分の中から生まれることはありません。逆にいえば、そのような思考があるからこそ、松谷さんのコメントでそのような言葉が使われているのだと判断します。

「心の内側は行動や言動において表現されます」という部分は了解しました。となると、では、私が「こっそり覗き見」という表現をしなかったならば、この「儀礼的無関心」というトピックを松永さんは評価し続けたということになりますね。それでいいでしょうか?

そうだと思います。

「覗き見する人に対する思いやり」という議題が浮上しなかったならば――つまり「あまり多くの人に閲覧されることを想定していない人」をそっとしておく、という意味だけであれば――以前書いた記事だけで充分であり、このように再度取り上げて補足することはなかったでしょう。

そして、Aさん(見られる人)だけに限定するのであれば、私は今も、前の記事の内容は妥当であると考えています。

チミの負けじゃよ、松谷君。いわゆる、全面敗北。
性格の悪さと、それを見透かされる頭の悪さを今回もまた露呈したんじゃからのう、ホッホッホ。

ところで松谷君、チミ自身がヲチ対象になってサイト畳んだのって、

「次で何回目だっけ?」

>松永さん。
わかりました。
ただ、先に書きましたが、私はA&Cさん両者に対しての配慮を踏まえて当初のテクストを書きました。
そして、それは「多様な読み」をされました。なかでも、松永さんを含め多くの人は、「Aさんだけへの配慮」として読まれました。私はそれについては、否定しないし、またその後の展開も踏まえてそれで良かったと思います。
ただし、それ以外の読みの可能性のヒントを「覗き見」とか「チラ見」という表現で示唆したのです。それは先に書いたように、いい人扱いされてなんか「痒かった」からです。つまり、話の展開の流れを変えようとしたんですね(実際は変わりませんでしたが)。
それが実際の「本音」です……というのはとても後出しジャンケンで嘘臭いですね。もちろん信じていただかなくてもけっこうです。
そして、これも繰り返しますが、なぜ、それほどまでに松永さんは、私の「執筆の動機」について拘るのでしょうか? そしてそれに拘ったところで、なぜ一連のテクストは、その影響と拡がりを否定されるのでしょうか? 逆に言えば、それに拘ったところで、その影響と広がりは変わりません。
私には、この点に松永さんが拘り続けることがいまだに大きな疑問です。

何度も書いているとおり、私は「Aのみを対象とした思いやり」については否定していません。Aに加えてCを思いやる場合には否定する、ということです。

Aに対する思いやりだけを論点としている場合は、自分自身がAの立場ならどうか、というふうに考えているのだと思います。実際、私自身もあまり外部からリンクしてほしくないかもな、という掲示板で書いてたり、はてなの方ではほとんど読まれてないことを前提に書いてたりするわけですが、そこに多量のアクセスが来たら、ということも考えていろいろコメントしたつもりです。

一方、AとCの両方の視点で語るとき、それは勢い、Cの利益を守るためにAという弱者を守ってやるという一方的な視点に陥りがちではないかと思います。Cの利益は「そのサイトをいつまでも見られる」という、絶滅を目前にした種の保存みたいなことになり、一方でCから見たAの利益は「さらされていることに気づかず更新し続けられる」というものになります。それは本当にAの立場からすれば、なめられているとしか言いようがないと思います。

したがって、私は動機にこだわっているのではなく、この「儀礼的無関心」をAの立場に立って見るか、それともCの立場に立ってみるのか、というところにこだわっているのです。そして、私はCの視点を尊重する必要は全くないよ、と考えているわけですね。

松永さん、以上の点、内容は把握しました。やはり私と松永さんのもっとも大きな違いは、Cさんに対しての配慮をするか、しないか、ということですね。そして、Aさんへの配慮については、われわれは共通の認識をしていますね。繰り返しの確認失礼いたしました。

しかし、私は残念ながらその考え“だけ”には、賛同できません。
Aさんの権利を尊重することについては同意しますが、やはりCさんの権利もあるんです。
そして、そこでAさんが優先されてCさんが優先されない、という論拠を松永さんは示されていませんし、示すことができないと思っています。なぜなら、権利は誰のそれの原初的には等価で、それは各人の立場が平等だからです。近代社会において、それは基本的な理念で、ここを無視することはできません。
本来的に「公共の利益」というのは、これらさまざまな立場の方々の権利を平等的に扱い、その上でバランスを考えて決められていくものです。ゆえに論拠なくCさんの権利を無視することは、本来的にはできません。それは逆にCさんへの配慮が欠けています。そしてまた、誰かひとりかが正しく、誰かが間違っている、なんてことを決めてもここでは仕方ないのです。
そのようにCさんの権利を無視することとは、ムラ社会的な発想といえます。そして、そのような主張が吟味なく通ることになれば、それはたんに「公共の利益を維持するための技法」ではなく、「ムラ社会の掟」となってしまいます。
私はそれには極めて反対です。
残念ながら、松永さんの言う「ネット珍走団」の人たちにも「珍走」する権利はあります。2ちゃんねる等で「晒す」自由も、法的には保護されているんです。それが否定されるのは、その方々が法を犯したときのみです(ただし、最近はネットでの「名誉毀損」で逮捕者も出ていますから、それらの行為は決して推奨できませんけれどね)。
私もそのような「ネット珍走団」の方々を良くは思ってはいません。が、その方々が法に抵触した迷惑を他者にかけていないかぎり、そういう人たちとも共生していかなくてはならないのです。残念ですが、これが「ムラ」ではなく「都市」であるインターネット社会の現実だと考えております。

森達也さんという方のドキュメンタリー映画『A』『A2』は、サリン事件以降のオウム信者が流転していく過程を撮った作品です。オウム信者は、地方自治体も含め各地で、排斥され続けています。
彼らがやってしまった非道な行いは、もちろん決して誉められたものではありません。しかし、刑に服している者以外は無実で、そしていくらカルト的であろうともそれを信仰する権利があるのもまた事実です(実際にこれらは法的にも認められています)。
このように、自分とは相容れない他者をいかに許容するかが、近代社会の維持には不可欠です。

そのような観点から、私は松永さんの意見は、「都市」ではなく「ムラ」を志向するものにしか思えませんし、その点でまったくもって賛同いたしかねます。

権利という言葉が合わないように思いますね。

私は別に「ウォッチャー」を潰そうとしているわけではなくて、単に嫌いと言ってるわけですし(笑)、Cさんが覗き見することそのものを規制しろといった覚えはありません。むしろ、Aさんがサイトを公開した時点で、すべてのネットワーク接続者に閲覧の「権利」はあります。

しかし、本質的にAさん(またはそのサイトの掲示板への熱心な参加者や、メールを送るなど密接な関係のある人)ならともかく、本来Aさんが想定していない読み方をするC2タイプの人たちが、「Aさんにリンクをするな」という「権利の制限」を主張する「筋合い」も「資格」もないと思います。

私はすでに書いたように、C2a、C2cのタイプのウォッチャーについては「許容」しています。いや、C2bタイプについても、存在することについては「許容」しているつもりです(批判しつつも許容することは可能なはずです)。しかし、C2bタイプの人が「他人をあざ笑う権利」を守れ、と言ったら、それは変じゃないの、という気がするのです。「他者を傷つける権利」といったら言い過ぎかもしれませんが。

ウォッチしているサイトが消えたとき、黙って去っていくウォッチャーも多いと思います。まあそれは次の獲物を探しているのかもしれませんが。こっそり見ていたのなら、こっそり立ち去るというのが潔いのではないか、と、これは個人的見解。それに、Aさんはそもそも「ウォッチされる=人にバカにされる」ためにサイトを開いていたはずはないので、バカにされ続ける義務はないと思います。

したがって、松谷さんの出されている例は、この件には該当しないし、むしろ「信者を排斥する権利を認めろ」に近いと思えるのです。

書いたヾ(°▽、°)ノ゛

松永さん。
まず、「権利という言葉が合わないように思います」と言いますが、それを表題にまで使っているのは、松永さんご自身です。もし本当にそう思うなら撤回することをお勧めします。なぜなら、私がずっと引っかかっているのは、その点についてだからです。

「本来Aさんが想定していない読み方をするC2タイプの人たちが、『Aさんにリンクをするな』という『権利の制限』を主張する『筋合い』も『資格』もないと思います」という部分ですが、その主張そのものは、認められるか認められないかはべつにして、それ自体はけっして否定できません。ですから、「『資格』がない」というのはおかしいのです。「資格」は誰にでもあります。
もちろん、この点について松永さんはご理解されているようです。
「存在することについては『許容』しているつもりです(批判しつつも許容することは可能なはずです)」というのは、そのとおりだと思います。私も「珍走団」なんて嫌いですが、しかし、認めざるをえない。

しかし、問題は以下の部分です

>しかし、C2bタイプの人が「他人をあざ笑う権利」を守れ、と言った
>ら、それは変じゃないの、という気がするのです。「他者を傷つける権
>利」といったら言い過ぎかもしれませんが。

「変だ」とか「嫌いだ」というふうにして批判するのは構いません。
が、しかし、「(法を犯さないかぎりは)他者を傷つける権利」は、残念ながらあるのです。それをも主張できるのが自由な社会なんです。
また、何らかの言動は、どんなものでも常にだれかを傷つける可能性を有しています。ニュートラルで、無色透明な言葉はありません。

それと、もうひとつ。
私がこのトピックにおいて、「『優しさ全開で万事はオッケー』なんて思っていない」と書きました。それは、文脈上いろんな意味を孕ませたつもりですが、この場合において簡潔に書きますと、自分が「他者を思いやること」が、とても横柄な態度に思えるからです。
もちろん、だれかを「思いやる」のは勝手です。しかし、それはその相手から「余計なお世話だ」と言われた瞬間に却下されます。それでも相手の意をくまずに「思いや」り続けるのは、相手が主張する権利を剥奪する行為となります。
ですから、松永さんが「(Aさんが)バカにされ続ける義務はないと思います」と「思いやる」のはもちろん勝手ですが、私は、以上のことを頭に入れると、それほど「思いやり」全開でAさんのことを考えることはできません。ここも私と松永さんの大きな違いだと思います。

さて、そんな松永さんには、本を紹介します。
ひとつが、現象学系哲学者である鷲田清一さんの『じぶん:この不思議な存在』(講談社現代新書)です。これの前書きに、とても重い哲学的命題が提出されており、この本はそれへの応答(≠解答)となっています。
もうひとつが、大平健さんの『「やさしさ」の精神病理』(岩波新書)です。これは、「やさしさ」=「だれかを思いやること」が膨張する現代社会を精神科医が分析したものです。

さて、最後は少々反論です。
「信者を排斥する権利を認めろ」とはなにを論拠にそう言いますか? これは不明です。
そして、松永さんが「権利」についておわかりになってないな、と思うのはこういうところです。
ちなみに「信者を排斥する権利」はだれにも認められません。私は先に「原初的にはどんな権利も認められる」と書きました。しかし、そのなかで、唯一認められないのは、「『他者の権利』を侵害する権利」です。
それは、このトピックの流れでもちょっと途中で書きましたね。「『他者(公共圏)の自由』を著しく阻害する“自由”」は認められない、と。

松永さんがご理解されていないのは、この基本的なことです。
「権利」という言葉を使わずに、「私は、ただ嫌いだ」と言えばいいのではないでしょうか? 
ただし、その思いを一般化するときにだれかの「権利」を否定することは決してできません。
あなたが「嫌い」という感情レベルで、だれかの「権利」の阻害を主張することとは、つまり、その逆に、あなたの「権利」が感情レベルで否定されることを許すことになります。

そのリスクをあなたが背負えるなら、いいでしょう。しかし、私も松永さんも、誰もが背負えないからこそ、感情レベルでの噴き上がりは否定されるべきだと思いますよ。

言葉尻の話になってきたようなのでこの辺で打ち止めにしたいと思います。こういう議論をいくら続けても生産的ではないので。

他人を殴っておいて「泣くな」と言った人間がいたとして、他の人が「お前にそんなことをいう権利はない」と言ったりしますよね。そのレベルの日常語としての「権利」として書いていたのですが、法的レベルでの「権利」のことを持ち出されるとはっきりいって議論のための議論にしか思えません。

また、法律で規制されていないなら何でも権利はある、なんていうなら、Bさんが遠慮なくリンクする権利はあるし、それをCさんが制約しようとするのは権利の衝突でしょう。

しかし、松谷さんのいう「権利の侵害」という言葉はあまりにも大げさに感じますし、不適切だと思います。本文の趣旨ではなく言葉尻に反応されているようにしか思えません。権利の侵害という言葉をそんな安易に使うのはやめてほしいとさえ思います。

タイトルはすでに引用されたりしているので本文に注記を入れて、「権利」という言葉を使わないように変えます。これでこちらからの主張はすべて述べたつもりですので。

権利という言葉を使った部分を白囲みで修正するという作業をしていて、何がすっきりしないのか、把握できました。

「権利」があったとしても、世の中にはその機会が与えられるとは限らないことが多い、という事実です。

例えば私は芥川賞をもらう「権利」があります。しかし、私が「芥川賞をもらう権利を失わせるな」といったら、あちこちでプクスされておしまいでしょう。

私には参議院議員にになる「権利」(被選挙権)があります。しかし、私が仮に立候補して落選したときに「参議院議員になる権利を失わせるな」といったら、それは異常でしょう。

松谷さんには覗き見をする「権利」があります。しかし、覗き見をしていた対象が他の人のリンクに気づいて内容を書き換えたり、あるいはサイトを閉じたりしたときに「今までの内容を覗き見する権利を失わせるな」といったら、やはりおかしいと思います。

この議論については、これで終わりにしたいと思います。下にコメントを付ける「権利」は誰にもありますが、「返答をもらう権利を失わせるな」とだけは言わないでください。

あとは読者に振ります(勝手に)
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040205
読者は最後の最後まで議論してくれると思いますので

松永さん。
「言葉尻の話」などではありません。
いや、もしあなたが私と同じ物書きの端くれならば、決して「権利など守る必要がない」なんて言ってはなりません。それはあなたが言葉に対して不用意すぎます。あなたは、それを「大げさ」だと思っているようですが、私に言わせればあなたが「軽薄」すぎます。
「権利の侵害という言葉をそんな安易に使うのはやめてほしいとさえ思います」のも、そのままあなたにお返ししたい。

>そのレベルの日常語としての「権利」として書いていたのですが、法
>的レベルでの「権利」のことを持ち出されるとはっきりいって議論の
>ための議論にしか思えません。

「日常」とは法によって守られた空間です。その「外部」はありません。そしてそれは「議論のための議論」などではありません。
繰り返しますが、最初から「権利」という言葉を安易に使用して感情的に噴き上がったのは、松永さんご自身です。大した知識もなく不用意に「権利」の剥奪を振りかざしたあなたに、私は、基礎的な説明を丁寧にし続けてきただけです。

>松谷さんには覗き見をする「権利」があります。しかし、覗き見をし
>ていた対象が他の人のリンクに気づいて内容を書き換えたり、あるい
>はサイトを閉じたりしたときに「今までの内容を覗き見する権利を失
>わせるな」といったら、やはりおかしいと思います。

私は、Aさんだけでもなく、そしてCさんだけでもなく、「AさんとCさんの関係」をスポイルすることが、公益をスポイルしている、と言っているのですね。ちゃんと読んでいただきたい。
そして、松永さんは、なぜ「やはりおかしいと思います」か? ちゃんと“論拠を提示して”説明してみてください。あなたは結局それができていません。これは私の何度目の問いかけですか?

「返答をもらう権利を失わせるな」とはもちろん言いません。ですから、上の私の質問にももちろん答えることは要求しません。いまわれわれがお互いがとても合意しているのは、もはやこの議論が面倒だということくらいですよね。

ただし、最後に書き残しておきます。

先のテクストで、基本的に松永さんは「俺はあいつが気にくわない。あいつの権利などない!」と言っているにしかすぎません。
そのようにあなたが、たいしたロジックもなく感情を吹き上げて悦に浸ることとは、半径50センチの道徳を振りまくだけの自己満足的なふるまい以外のなにものでもありません。
上野千鶴子の言を援用して名付けるならば、それは「ムラ人」を満足させる「オヤジ慰撫レトリック」以外のなにものでもありません。
そのレトリックとは、「ネット素人」と呼ばれる人と「ネット珍走団」という対照的な存在が共生することを、否定する論調のものです。私は、オヤジでもムラ人でもないので、それには断固反対です。
「他者の自由を侵害する自由」だけは、認められないのです。なぜなら、これを認めると、「自由」が機能しなくなるからです。

ここまでしつこく書いたのは、あなたのようにネット界隈で注目される人が、このような稚拙な感情をむやみに振りかざしていることに、非常に危惧を覚えているからです。
自己満足を目的に、だれかの権利を安易に損なうような言説は慎んでいただきたい。先に述べたように、それを自己正当化するということは、あなた自身の権利すらも脅かすことになりますからね。

たとえば、もし「松永は気にくわない。だからお前の権利などない!」と、あなたが言われたらどうしますか? 私がずっと松永さんの当初の言説を批判をし続けているのは、自分だけでなく、あなたの権利も守るためなのです。そこを、もう一度考えていただきたい。

以上は、ここを読んでいる多くの方にもお伝えしたいことです。
松永さんに安易に賛同された方にも、心して読んでいただきたいと思います。

以上です。
(また不用意なこと書かれるようでしたら、また出てくるかもしれませんので、ホントに終わらせたいのならば、なにも書かないほうがよいですよ)

松谷が顔を真っ赤にして長文反論。
(ほんとに、惚れ惚れするぐらい頭悪いなあ)

まあ、ここはホレ、あれだ。今こそ「儀礼的無関心」を松谷ボーイのために使ってあげどころというやつですか>ALL

>また不用意なこと書かれるようでしたら、また出てくるかもしれませんので、ホントに終わらせたいのならば、なにも書かないほうがよいですよ

↑これってやっぱり、松っちゃん(松谷のほう)勝ったつもりになってるということなんですかね?

>また不用意なこと書かれるようでしたら、また出てくるかもしれませんので、ホントに終わらせたいのならば、なにも書かないほうがよいですよ

↑これってやっぱり、松っちゃん(松谷のほう)勝ったつもりになってるということなんですかね?

コメントする

OpenID対応しています OpenIDについて

このブログ記事について

このページは、松永英明が2004年2月 1日 19:47に書いたブログ記事です。
同じジャンルの記事は、ウェブ社会をご参照ください。

ひとつ前のブログ記事は「ウェブログを始めるな!」です。

次のブログ記事は「「Start! JUGEM!」で記事投稿しました!」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。
過去に書かれたものは月別・カテゴリ別の過去記事ページで見られます。