Gypsy Blood「愛すべき場所は二つ」/松永的愛国心論まとめ編

 3編ほど愛国についての記事を書いたところ、いろいろ反響がありました。最近の事件を話題に触れたため、どうもその件について中国を擁護しているかのような誤解を招いたこともあり、また私の前提としている考え方がどうも一般的でないことがわかってきたこともあるので、前3編は一旦ボツとしたいと思います。

 そして、改めてこのエントリーにて、私の愛国心論について改めて清書してみたいと思います。ただ、これもまだ完成稿とは言えないでしょうが。

2004年7月28日20:20| 記事内容分類:政治学| by 松永英明
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「所属」を「自分」と思えない……って変ですか?

 まず、前提として、私は所属する国や会社や地域や家族といった枠組みに対して、「自分」とは別のものと感じています。それはどうやら少数派らしいのですが。

[No.16] 投稿者:服部弘一郎[2004年07月28日 12:03]

ほとんどの日本人は、「日本人」という属性を自分のものだと感じていますよ。だから大リーグでイチローや松井が活躍すれば、「同じ日本人として」嬉しく感じるのです。日本人がノーベル賞を受賞すれば、多くの日本人は「同じ日本人」として誇らしく思うのです。「日本人」であることを『自分自身の属性じゃない』と断言する松永さんには、こうしたことも理解できないかもしれませんが……。

 服部さんの言われるとおり、自分ではそういう感情を持てないんですよ。オリンピックでも、日本選手がどれだけメダルを取るかとか、全然興味ない。何国人であろうと、すばらしい競技を見せてくれれば拍手したい。

 愛国心を他者から問われるのはおかしいというMAOさんでさえ、blog::TIAO: 愛国心を語ることは難しいでこう書いています。

「愛国心」「国を誇りに思う気持ち」についてだが、これは他者から踏絵のように問われる問題ではなく、自分自身の内面の感情の発露だと考えている。オリンピックで日本人が活躍すれば些かそれを誇らしく思うのは自然だし、個人としての日本人、企業などが国際的に評価されるような素晴らしい実績をあげたときにも同じ日本人として頼もしく感じるだろう。また、日本政府が世界平和や人類の共存と発展のために素晴らしい提案をして率先してそれを実行できたら、国民の一員として胸を張りたくなる。とまあそういうものなのだ。

 私にはここが「当然」として理解できない、というか、そういう気持ちが自分の中に生まれてこない。「同じ日本人として」という気持ちがまったく起こってこないんですよね。ああ、素晴らしいことをした人がいるね、というだけで。

 じゃあ日本が嫌いかといえば、もちろんそうではないです。日本という国が大事ではないというわけでもない。いや、それどころか「自分は日本の文化の中で育った日本人だなあ」と思うことも多いのです。

 問題は、単に「日本という枠組み」の中にいる他の人たちの栄光を、自分の栄光として感じることができないだけ。

 だから、「日本」が侮辱されても自分が侮辱されたとは思えないし、「日本」が誉められても自分が誉められたとは思えません。抽象的なことを言う人だなあ、という感想が生まれる程度です。

 もちろん、「私」個人を侮辱するために「日本人はこれだから……」と面と向かって言われたらその悪意は伝わりますし、「私」を喜ばせようと思って「日本人は勤勉ですね」と言われたのなら喜びますが、それは個人に対する相手の思いだから理解できるのです。

優れた日本人が多くても、あっしとは関わりのないことで

 少し前から話題になった「歴史教育における自虐史観か、自由主義史観か」という話も、私にとっては議論の前提――つまり、日本に対する評価を一生懸命どうにかしようとする――という行為自体が「よくわからない」のです。

 自分の祖父は兵隊として満州に出征していました。逆に言えば、それは自分の爺さんの問題であって、そこから学ぶことは必要ですが、いつまでもその子孫だというだけで自虐的に頭を下げ続ける必要はないと思っています。「日本人の残虐行為」とやらも(それが存在したか否かは別問題として)、私がそういうことを現代においてやってやると思わない限り、反省しろと言われる筋合いはないと思っています。

 しかし、歴史的に「日本人は優れていた」ということを強調することによって日本人の誇りを取り戻そう、という風潮についても理解の範囲を超えているのです。

 いや、確かに優れた日本人は多くいましたよ。諸外国から悪い悪いと言われている時代でも、実はそんな悪意によって動いていたわけではない、というのも事実かもしれません。しかし、それはその当時の日本人、いや厳密に言えば個々の偉人たちの業績じゃないですか? いくら聖徳太子や上杉鷹山が優れていたとして、そして、そういう人々を輩出してきた素晴らしい日本列島の日本文化の中に生まれ育ったとしても、自分は聖徳太子でもなければ上杉鷹山でもないんです。

 私の爺さんのやったことが(仮に)侵略ではなくアジア解放のための聖なる戦いだったとしても、逆に残虐行為だったとしても、私自身は満州に出征していないのです。

 歴史上の日本の偉人たちから学ぶことは大切だと思います。しかし、それは偉人たちの優れたところが自分の中に一部なりとも取り込まれて初めて、誇るべきことになるんじゃないでしょうか?

 そして、学ぶべきは日本人だけじゃないというのも当然のことだと思います。

「故郷に錦を飾る」というのも理解できないのです

 もう少し範囲を狭めれば、地域についても同じように感じます。

 たとえば、何かひどい犯罪がある県、あるいはある市で発生したとします。そのとき、「こんな事件が起こるとは○○県の恥だ」「○○市の名前を汚すものだ」というような意見を目にすることがあります(実際、ブログ等でもそういうエントリーを見ます)。

 これは2つの側面があるでしょう。つまり、犯罪とかがあったら、その地域の人たちを「○○事件を起こすような地域の住民」というふうにレッテルを貼って見てしまう人たちがいるということ。そして、もう一つは、そういう風に見られるのではないかと考え、そのような評価を自分自身に対する評価と受け止める人たちがいるということ。

 しかし、たとえば保険金殺人事件がA市で起こったとして、A市の人たちは犯人を除いて犯罪者じゃありませんよね。毒カレー事件が起こったからといって「和歌山の人はカレーにヒ素を入れるからなあ」というのは冗談としても最低のものです。

 その裏返しが、地元出身者が「故郷に錦を飾る」という発想でしょう。しかし、錦を飾ったのは、その素晴らしい業績を成し遂げた個人であって、地域がその人をバックアップしたというのでない限り「虎の威を借る狐」にしか思えないのです。

 私の出身地から言えば、「邪馬台国は大和(近畿)にあった」と主張するのが「郷土愛」あふれる態度のようです。しかし、私個人は邪馬台国=九州説です。歴史的な事実をゆがめてまでも、自分の生まれ育った地域に何でもかんでも起源をもたらそうとは思いません。歴史を無視して何でも地元発祥と主張することが「郷土愛」なんでしょうか? 韓国の人が何でもかんでも自国起源だと主張するような話もありますが、それも、何やってんだかという気になります。

 また別の例。自分の会社のプロジェクトが成功したとしましょう。それが大なり小なり自分の関わっているプロジェクトなら嬉しく思うでしょう。まるで関わっていない場合は? 友人・知人が関わっていたら、その友人たちの成功として喜びます。しかし、それを自分の手柄のように話すのはおかしいと感じてしまうのです。ましてや、単に会社の別部門が成功した場合、それは自分の栄光でもなんでもないわけです。(今、私は会社に属しているわけではありません。念のため)

 自分の出身校の後輩たちがスポーツとかで素晴らしい成果を上げたとしましょう。しかし、それを「俺はあの○○高校のOBなんだ」と自慢する気にはなれません。自分はその成果に何ら寄与していないのですから。でも、選手たちには「よくがんばったね」とは言ってあげたいと思います――でもそれは他校でもまったく同じですね。

 もちろん、私も、自分の故郷は「好き」だし、自分の関わった仕事の人たちは「好き」です。しかし、それと自分への評価は混同「できない」んですね。

 そういう私は「日本人の犠牲者はいませんでした」という報道を耳にすると、「だから何? 何がよかったんだよ」と思ってしまう一人です。

自己責任と連座の範囲

 自分がやったことは、自分の責任において、いいも悪いもその評価を受け止めるべきだと思います。それは当然のことでしょう。

 しかし、家族や自分の大切に思う人が、自分と関わりのないところでやっていたことについては? それはその人の業績あるいは罪であって、もちろん「監督不十分」みたいな話はあるかもしれませんが、連座する必要はないだろうと思うのですね。だから、「家族だから特別」とか「親の顔が見たい」という感覚は、自分には希薄です。

 子供のころ、よく「そんなことをしたら世間様に恥ずかしい」と叱られたことがありますが、「それは単に俺が恥ずかしいんであって、別に親が恥ずかしがる必要ないじゃないか」とずっと思っていました。この辺から私はゆがんでたんでしょうかねえ?

 地域における名士の業績、あるいは歴史的な由緒、逆にそこで起こった不祥事については? それは自分が積極的に関わっていない限り、単にそこに住んでいたというだけのこと。

 会社も、あるいは国についても、同じように思います。

 別に持ち上げもしませんが、おとしめたりもしません。自国の国旗にしろ、他国の国旗にしろ、「ていねいに」扱えばいいと思っています。それを崇拝するわけでもないが、破いたり燃やしたりしようとも思わない。だって、良くも悪くも単なる「シンボルマーク」にすぎないのですから。


愛国心は、自分に自信を持てない人が対象を国にスライドしたもの

 このようにちょっと普通じゃないかもしれない発想を持っている人間が「愛国心」についてどう思っているか、ということで、以下の文章を読んでいただければ幸いです。

 自分の国が褒められたら自分のことのように喜ぶ、国がけなされたら自分のことのように腹を立てる。それは世界的に見ても多数を占める考え方なのかもしれません。「お前のような奴は、日本にしかいないよ」と言われるのかもしれません。

 しかし、「自分」と「枠組み」を同一視できない私から見れば、愛国心というのはよくわからないものになります。日本が好き、というのはわかりますよ。自分の住んでいるところ、自分の生まれ育った地域の風習が好きというのもわかります。しかし、「日本人としての誇りを持つ」というような言い方についてはまったく理解できなくなるのです。

 自分が胸を張れるような人間になることと、日本人としての誇りを持つことが、まるで結びつかない。もし無理やり結びつけるとしたら、「自分自身の実力ではなく、国という枠組み・レーベル・ブランドに対する評価を“自分”と錯覚/勘違いしている」と思えてしまうのです。

「愛国心ってのはあれだろ。自分に自信の無い奴が自信の対象を国にスライドさせているだけだろ」

「そういう極端な意見は置いといて」

「いんちき」心理学研究所 | 日本の反中問題より)

 極端と言われていますが、しかし、私にはこれが最も実感の持てる考え方なのです(そして、今回、愛国を取り上げたのも、そこにポイントがある)。

 「日本」という枠組みは「ブランド製品」と同じように思えます。

 プラダやエルメスを持っていることで自分の価値が高まったように感じたり、乗っている車でステータスが高まったように感じる、というようなものに思えて仕方がないのです。もし、それらのものを持てるとしても、それはそれだけの財力やセンス(あるいはおねだり能力)があったという一面しか表わさないのであって、その人の価値そのものとはいえません。

 立派な豪邸を建てた――それはその人の人格すべてを評価するものではなく、その人が財産を築く能力があったという一面を示しているだけです。

 いや、自分で働いて買ったブランドや豪邸なら、その人自身の努力の結果でしょうから、まだいいと思います。「日本人」ってブランドは何ですか? 日本に生まれ育った、ただそれだけの「偶然」あるいは「幸運」(不運とはいいませんよ、日本好きだから)だと思うのです。そこにその人の「努力」も何もないじゃないですか。だから、「日本人」であることを誇る――というのは、まさに「自分の力ではなく、他から与えられたブランドを誇る」というふうにしか思えないのです。そして、自分を磨き上げる努力をさぼっているように感じてしまいます。

 あなたの毛皮のコートは素晴らしいね(でも中身はどうかなあ)……国を誇ることに一生懸命になって、自分自身のことを忘れてしまっているように見える人は、ちょうどそんな感じに思えて仕方ありません。

 学歴で他人を判断するというのも同じように思います。もちろん、「いい学校」に入った人はそれだけの知識・問題解答能力があったわけですが、それでその人の評価がすべて決まるというのはどういうものかと。

 私個人に対して「さすが日本人」と言われても、むしろ嫌味に感じて「俺は日本人という以外に取り柄がないのんか」と思ってしまうのです。


 日本人とロシア人のハーフ、川村かおりの歌「Gypsy Blood」(作詞:KAORI/高橋研)より。

Gypsy Blood 帰る場所が何処なのか

わからなくなる時もあるけれど

Gypsy Blood 愛すべき場所は二つ

この星と今いるここさ


愛することは嫌うこと?

愛国心というのは、他国をにくむという心である。わが家を愛し、わが母をいつくしむという心は、わが家以外の家を愛さないという心であり、わが母以外を愛さないという心である。

寺山修司「さかさま世界史」より

blog::TIAO: 愛国心と正義・・・<今日の箴言>より孫引き)

 第1の問題、つまり「自分と、自分自身でないものを一緒のものと考え、自分自身でないものの評価を高めようとする」ということについて、私の考えていることは大体(納得しないとしても話の筋道としては)おわかりいただけたかと思います。

 そして、このレベルにおいての愛国心は、度を超さなければ無害なものだと思いますし、どうこう言えるものではないとも思います。

 そこで第2点、草稿では「偽りの愛国心」として書いた「身内への愛を示すために、他への嫌悪を示す」という問題に入りたいと思います。

 私の親がまだ生きていたころ、親とのトラブルがありました。話が話なのでちょっと抽象的な言い方しかできませんが、家族と同様に近所の人たちのために便宜を図ったところ、「身内に対する思いやりが足りない。身内の分を削って他の人たちの利益をやるなんてどういうことだ」と怒られたのです。別に身内を犠牲にしたわけでも何でもなく、同じように利益をもたらしていたのですが、身内以外に恩恵を与えたのが親には気に入らなかったようです。

「お前は家族に対する愛というものがない! 他人のことなんか考える必要はあれへん!」

「どこが悪いねん!?」

「身内のことだけ考えてたらええねん! 家族よりも他人を大切にするのは家族に対する裏切りや!」

 こんなことを言われたもので、余計に反発を感じたわけですけれども。

身内への裏切り?

 実際のところ、「家族にだけ便宜をはかり、家族外にはそれよりも冷淡に対応する」なんていうのが自分には「美徳」とは思えませんでした。

 家族と他の人が論争になったとき、相手の方にも理があると思う、と言ったら、「お前はあいつの肩を持つのか!」と非難されたこともあります。別に肩を持っているわけではないし、一部の論点について納得しただけだったのですが、それが「家族への裏切り」と思われてしまったわけです。

[No.11] 投稿者:服部弘一郎[2004年07月26日 11:10]

自分の身内を何よりも上位に置き、自分の身内の欠点や落ち度はひた隠しにして他人を非難するのが、つまりは「儒教道徳」というものなのですよ。それは「論語」や「孟子」を読めばよくわかることです。身内に対する依怙贔屓(えこひいき)を正当化する儒教道徳の上に「愛国心」が乗っかれば、ここで非難されているような見苦しく浅ましい「愛国心」がのさばるようになるわけです。

これは自分自身に対する「自信のなさ」とは、ちょっと違うんですよね。儒教的な「身内優遇」を道徳的な価値として認める社会では、他国をおとしめて自国をほめちぎることこそが「正しい」のです。儒教的な価値観のヒエラルキーは、価値観の「違い」など認めません。一元化された尺度のもとで、すべては「優劣」で判断されてしまうのです。

(……後略……)

 そういう儒教道徳的な愛なら、要らないと思ってしまいます。もっとも、孔子が本来説いた仁愛は、もっと博愛に近いものであろうと思うのですが。

 そのような「偏った愛」が愛だというのなら、家族愛なんかいらない。単純に身内を愛するだけで十分じゃないんですか? 「身内外を罵り、身内を誉めちぎる」のが愛だとしたら、そんな愛は要らないと思います。

 私に対しては褒めちぎるが、他の男性については悪口ばかり言っている……そんな女性とはつきあいたくないですね。全然うれしく感じませんし、逆にその人の人格さえも疑ってしまいます。

反日感情と、反・反日感情のぶつかり合い

 嫌悪を元にした「隣国」との関係。不幸にも日中・日韓の間にはそういう関係ができてしまっています(日朝となると極端すぎるのでこれは今回触れません。民間レベルでの交流もありえないし)。また、中台問題、さらには台湾内でも国民党と民進党の感情的とも言える対立があります。

 もちろん、これは近ければ近いほど燃え上がるものなのかもしれません。英仏、仏独でもことあるごとに罵りあいですし。

 さらに中国・韓国では日本に対する被害者意識が強く植え付けられ、反日教育が行なわれているという実態があります。日本人と見ると、教育の成果として、反射的に憎むべき対象と考える人も多くいます。それは事実です。親日的と言われる台湾でも、実際には日本に対する反感は根強く存在しています。

 逆に、それぞれの国に親日派がおり、若い人たちの中には日本文化どっぷりという人たちも多くいます。「反日教育の中国」でも、山口百恵のドラマが流れていて多数のファンを獲得し、一休さん(一休)やちびまる子ちゃん(桜桃小丸子)やドラえもん(机器猫)は、若い人たちならテレビで見てよく知っているようです。

 これらの「政府による反日政策」については、すぐにでもやめてほしいと思います。すでにある反日感情はともかく、人々の憎悪感情を今もなお増幅するような政策は、対立と紛争しか生み出しません。それに、この反日政策が国内での愛国心高揚(あるいは内政への不満の解消)に使われていると考えていいと思いますが、愛国は憎悪と結びつけるべきではない、というのが私の考えだからです。

 しかし、一方で日本人の一部にも、そうして培われた「反日感情」に対して過剰反応している節が見受けられます。反日教育がなされているという事実、潜在的に反日感情があるものだという知識は必要ですし、それに応じた対応を取ることも必要でしょう。しかし、「あいつらは日本を嫌っている!」ということを一生懸命訴える背景に「だから日本人は中国を嫌うべきだ!」「中国という国はおかしい!」「共産主義で洗脳されている中国人は馬鹿だ!」といった侮蔑的感情(あるいは傷つけられた自尊心の裏返し)が見え隠れするのにうんざりします。

 この部分が草稿のときには前面に出てしまったために、「おまえは中国を擁護するのか」「中国が反日だというのは事実」「重慶の事件では中国が悪い」といった反応が多く返ってきたのですが、「反日を愛国と勘違いしているのはおかしい」と言っていたはずの私の文章にそういう反応が返ってくること自体、「中国の悪いところは徹底的に攻撃しなければならない。日本の態度などを振り返って中国の悪さを薄めるようなことをしてはならない」というような感情の発露に思えてなりません。

なぜ個々の問題が全体のレッテルに置き換わるのか

 改めて言いますが、重慶で開かれたサッカーのアジアカップの試合で、日本チームへ対して反日行動としてのブーイングがあまりにも激しかったこと、これはそのような行動に出た人たちに100%の非があります。そして、そういう「憎悪」に基づいた行動は、愛国を標榜していようといまいと(ただ反日というのであれば愛国と絡むでしょう)認められるものではないと思います。

 しかし、それに対して日本人が「中国人は反日感情を持っている。だから中国は劣っている」というように「国単位」の評価をすることについて、私は理解できませんでした。だから、最初の草稿を書いたのです。

 「日本人だから」ということで攻撃を受けた。それは悲しいことだと思いました。そしてそのような教育を素直に受けて行動に出た個々の中国人について、それが正しいと思っているというのは悲しいことだと思ったのです。彼らは「憎むべき日本人」という思想を植え付けられ、その抽象的なイメージによって「日本」を攻撃したのですから。

 しかし、それに対して、悲しむ以上の感情は私には理解できませんでした。日本が侮辱された、日本人の身に危害が及んだ、だから腹が立つ――というのは、「日本」という枠組みへの帰属意識の希薄な私には、言われてみないとわからない範囲に入ってきます。それはこの文章の前半で書いたとおりです。しかし、それはまだ理解可能といえます。

 わからないのは、それが中国という国への批判になったり、中国人全般への評価となったりすること。そして、甚だしい場合は近所の中国人にその文句を言ったりすること。

 国の責任は個々の国民の責任とイコールと考えている人には、当然すぎる考え方なのかもしれませんが、わたしにはそこが理解できないのです。

これは外交のやり方を言っているのではない

 ここで述べていることは、外交のやり方、つまり国と国――というより政府対政府のやりとりにおいてどうこうすべきだということではありません。国家組織レベルのことは国家組織レベルのこととして別途語ればいいわけで、ここではまったくその点について触れてはいません。

「自称」愛国者と呼ばれてしまった人たち、「自称」と言われるのがイヤならば、匿名掲示板で毒を吐いたり、他人のブログで日本人の管理人さんを困らせたりしていないで、自分たちの主義主張をまっとうに政治に反映させる手段を是非身につけて欲しいと思います。日本は民主主義国家であり、その為の手段がきちんと用意されているのですから。

中国の過激な若者を真似して同じような行動をとる必要など、さらさら無いのです。

PurpleMoon blog: 中国韓国の反日感情を日本人が理解できない理由より)

 これはそのとおりだと思います。

 また、このoutisさんの意見はそのとおりだと思います。

[No.9] 投稿者:outis[2004年07月26日 19:52]

中国政府を批判すべきところで中国人を批判するのが間違ってるというだけの話だろうと。あるいは、その特定の行為をした連中を、まさしくその特定の行為ゆえに批判すればいいのであって、そこで民族国籍をはじめとした属性を持ち出すことが間違っている。ここで一連のエントリーへの批判的言説をみると、一貫して、中国政府への批判や警戒感と、中国人への批判や警戒感が混同されている。たとえば日本政府が仮に糞だったとして、それで私が糞だといわれる筋合いはないし、どこかに百万人ほど糞な日本人が仮にいたとして、それで私が巻き添えで糞だといわれる筋合いはない。とくに中共は参政権がかなり制限されているのだから、なおさら政府の排外主義的教育の責任を個人に問うのは間違いだろう。排外主義的教育をうけてもそういう行動を取る人もとらない人もいる。ならば、まさしく、排外主義的行動をとったひとを、それゆえにそのひとたちだけ批判して、そういう行動をとらなかった、すくなくともまだとっていない人々をまきぞえにして、中国人は、あるいは政府と曖昧に一括した形で中国は、という形で非難することは、愚劣以外のものではない。

考えが違っている人とつきあえないんですか?

 私は、台湾にも友人がいるし、香港にもメインランドにもいます。それぞれの政治的立場をぶつけたら、それこそ殴り合いの大げんかになると思われるくらい異質な友人たちですが、でも「朋友」でいられるのです――「一事が万事」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」といった考え方をしない限りは。

 「あんたの政治的考えには賛同できないけど、だけど君のことは好きだよ。でもやっぱりあんたの言ってることは変だと思う」と主張することは可能ですよね。それは、憎悪や嫌悪を増幅させない態度ではないでしょうか。

 意見は違うが、友人である――そう考えられない人がいるようです。相手の意見に賛同しないことが、相手の人格すべてを否定することとイコールだと思っていたり、あるいは意見と人格を切り離して考えられない人がいるように思います。

 ○か×か。反日か否か。そういう基準で一人の人間、一つの国家を断定できるものなのでしょうか。「ここはいいけど、ここは悪い。でも、その人を好きかどうか、つきあえるかどうかはまた別問題」という私の発想は、やはり少数派なのでしょうか。

 ちなみに、憎悪や怒りといった感情は、たとえ湧いてくるとしてもそれを武器に使うべきではないものだと思います。だから、「社会の矛盾を解決するためには、怒りをもとにして闘争すべきだ」というような左翼的発想は絶対に受け入れられないし、逆に怒りを噴出させるような右翼も同様に思います。

では、反日感情を超えて愛される国民となるには?

 中国や韓国における反日教育をなんとかする作業は、国のお仕事。それを後押しするなり何なりというのはここでの議題ではないので措いておくとして、例えば反日感情を持っている人とはどう接していくべきでしょうか。

 日本人だからといって卑屈になる必要もなければ、ふんぞり返る必要もありません。むしろ日本人という枠にこだわるから相手も反日を持ち出さなければいけないのであって、純粋に一対一の人間同士として接すればいい――と私は思いますし、それで今までも外国人とつきあってきました。だから、日本という枠組みの栄光に頼ることなく、あるいは日本という「過去ある国」のレッテルに怯えることなく、自分は自分、一人の人間として向かっていったらいい。そこには「国」という単位を元にした発想は必要ない、と思っていたのです。

 しかし、「国」という単位について価値を見いださない私はどうやら極めて少数派のようですね。私から見れば「国」という単位を基準にし、その「国」の評価を高めようというのはすべて「愛国」と見えるわけですが、その辺は多数の人たちとの間に感覚のズレがあったようです。

 私個人としては、自分自身が隣国から一目置かれるような人間に成長していくこと、そしてそういう人が増えて、「日本には立派な人が多い」と思わせることこそが、結果としては多数の人の愛する「日本」をよいものとすること、つまり本当の意味で「国を愛する」結果になるのではないかと思っています(私個人としては別に国を愛そうと思ってやってるわけじゃありませんが)。

女子十二楽坊に「ニッポン大好き」と言わせたもの

 ここで女子十二楽坊の話。24日発売された「女子十二楽坊 ベストセレクション」(DVD+CD2枚組合計3枚で3500円)は、演奏の音と画面だけではなく、「思い」が伝わってくる最高のアルバムだと思います。

 さて、このCDは5月8日、日本ツアー最終日の模様を完全収録しています。また、そのハイライトシーンはDVDのおまけドキュメンタリーにも入っています。

 最高に圧巻なのは、琵琶の張爽の最後のMC(コメント)。(これ書きながら、思い出すだけで泣けてくるのだが)最後の最後に、張爽は感極まって、泣きながらこう叫んだのです。

「ほんとうにありがとうございました。ニッポン大好き!」

 このセリフは予定にはありませんでした。彼女たちを暖かく迎え、大歓声で受け入れた日本のファンに対して、彼女はまさに心の底から100%言葉通りの思いをほとぼらせたのです。おそらくは学生時代の「反日教育」さえも超えて……。

 こんなに心のこもった純粋な「日本大好き」は(日本人からさえも)聞いたことがありません。そして、こんなことを言ってくれる人に対して反感は抱きようがないでしょう。日本人だけど日本が誉められても関係ない、と思っている自分でさえ、張爽がこの言葉に込めた思いに心を馳せると、やはり感動せずにはいられません。

 もちろん、女子十二楽坊ファンの日本人が、そんなふうに言わせるだけの大きな歓迎をしてきたのも確かです。

 「みなさんの応援に対してわたしたちができることは、いい演奏を聴いていただくことです」と、まあ多少は優等生的な発言かもしれないが、それでもそんな風に言ってくれる彼女たちとの間に、どんなわだかまりが生まれえましょうか。

 この張爽の叫びは本物です。そして、反日教育ではなくこの叫びに込められた思いが中国全土に伝わってほしいと思います。中国人は、日本に反発を感じる必要はないのだ、ということが広まっていってほしいと思うのです。

(でも、女子十二楽坊掲示板に、中国の演奏家が好きだからというだけで「お前らは中共の手先」みたいな投稿がある現状を見るとうんざりしますが)


 以上、単行本ならばわずか20ページ余りの短い小論ですが、とりあえず今はこの辺で。

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2004年7月28日20:20| 記事内容分類:政治学| by 松永英明
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コメント(179)

国(くに)と国家(こっか)は分けて考えたいとぼくは思っています。ぼくが感じる日本への愛情というのは自分のお国としてのものであって、国家としての日本ではないのは確か。

国家なんてのは近代社会(ヨーロッパ)が生み出した擬制であるし、偽制でもあるわけです。その辺の議論は長くなるから、どこかで自分のサイトにまとめてみることにします。

自分が理解できないことやわからないことについて批判しても、その批判は当然のように的外れなものに終わるでしょう。松永さんはそもそも「愛国心」が理解できないのですから、それについて批判してはいけなかったのです。

自分に理解できないことについて、「理解できない」「私には縁のない話だ」と述べるのは構いませんが、わからないことについて勝手な解釈をして相手を批判すれば、それに対して反発を食らうのは当然でしょう。『愛国心は、自分に自信を持てない人が対象を国にスライドしたもの』というような言葉は、まがりなりにも「愛国心」の本質を掴み得ている人が口にすべきものだと思います。

確かに自分に対する自信のなさを、「愛国心」や「郷土愛」や「民族意識」に転嫁している人も少なからずいるでしょう。しかしそれがすべてではないのです。自分は何も努力せず愛国心にすがって生きる人もいれば、愛国心によって自分自身を高めようと努力している人々もいるわけです。問題は「愛国心」ではなく、「愛国心」のありようでしょう。

(「愛国心」に似ているものに「信仰」がありますね。信仰に溺れて身を持ち崩したり家族を不幸にする人がいる一方で、信仰によって世界的な偉業を成し遂げる人もいます。)

以下は本論を離れた蛇足ですが、孔子のとなえた「仁」は、聖人や君子のレベルになれば「博愛」と同じようなものになります。しかし世の中のほとんどの人は、それほど器の大きくない小人(しょうじん)なのです。そこで儒教道徳では、まず「孝」や「弟」といった、家族愛のような徳目を重要視するわけです。まずは家族に対する「徳」を積み重ね、その延長上に「忠」や「仁」といった、より大きな徳目を育てていくわけですね。

しかし「忠」と「孝」とが対立した時どちらを優先するかというと、これは「孝」を優先しろと言うのが儒教なのです。国家に対する忠誠忠節よりも、家族の方が大切。だから儒教道徳が根強い国では、役人や政治家が親戚に露骨な便宜を図ることがよくあります。国家の不利益になっても(国家に対する不忠を働いても)、家族や親族の利益を優先するわけです。これが儒教です。

こうした身内贔屓の儒教に反発し、すべての人を等しく愛するべきであると「兼愛」を主張したのが墨子でした。しかし墨子思想は儒教思想家によって論破され(批判勢力の筆頭が孟子です)、中国の思想史の中では傍流になってしまいました。でも現代の日本人の目から見ると、墨子の思想は共感できる点も多いと思うんですけどね。たぶん松永さんも墨子を読めば、共感することが多いと思います。

中国や韓国で急進的なナショナリズムが台頭し、それが「反日」や「反米」という排他的な心情を生み出している一番の原因は、国民が抱える「自信のなさ」ではなく、急激な経済発展が生み出した「都市化」にあるのは明白でしょう。個人が「家族」や「親族」や「地域共同体」に自らの帰属意識を求められなくなった時、最後に残るもっとも身近な存在が「国家」なのです。経済発展によって肥大した「自信」と「自意識」が、「国家」へと急速に傾斜しているのが現在の中国・韓国の現状。韓国はよくわかりませんが、中国などはこうした「草の根ナショナリズム」を国家が「官製ナショナリズム」と結びつけようとしているように見えて、どうも嫌な感じを受けますけどね。

これも傍流の突っ込みだが。
儒における孝たるや、日本でいう人情のごときものにあらず。仁や忠と同じく、孝も儒においては、情ではなく義です。親族びいきは儒教的徳目ではない。忠も国家による忠節などというきわめて日本武士道的なものではない。倫理的誠実さのことだ。忠ならんとすれば孝たらず云々は非常に日本的。儒の建前からいえば、まず仁と孝から判断されるべきであり、主君への「忠誠」などというものは、倫理的問題にはならない。主君に誠実であるべきなのは、「忠」という社会的誠実さ一般、約束はまもるべし、というのの一環の話。

この場合の「理解できない」は
「受け入れられない」ということだろう。
はまっていない人が批判してもいいと思うが。

「愛国心は、自分に自信を持てない人が対象を国にスライドしたもの」
ってありますが、それだけが愛国心(郷土愛と言い換えてもいいです)なんでしょうかね?
先日ドキュメント番組でパラオで自然保護に取り組む日本人を取り上げてましたが、この方がどうしてこういう活動を行うのかという、日本的な情緒の部分に大変感銘を受け、その日本的な部分を自分も同じ下地を持っているということを大変うれしく思いました。
無論、「日本人的」なものには良くない部分、悪い部分もたくさんあります。それを受け入れた上で良い部分を良いと思えること、その下地を持つ文化を享受できることを感謝する、それを「愛国心」と呼ぶのは間違っている、あるいは恥ずかしいことなのでしょうか?
無論、中国の方には中国の方の「愛国心」があり、日本への敵愾心という形ではなく、自国への「愛」を感じることはしばしばあり、「愛国心」というもの全てを否定するということは、他国の方のそういう気持ちも否定するということだと思うのですが。

文化が好き、考え方が好きとかいうのはわかるんですよ。でも、それが「国」への愛になるというのが「理解できない」「少なくとも自分の思考ではまったくむすびついてこない」のです。だから、自分の価値と他の価値を一緒と考える人が多いのだな、とは思いますが、まあこの辺は各自の勝手とも言えると思います。
ただ、愛することに憎悪が伴うと、そんな愛国だったらない方がましで害毒を垂れ流していると思いますが。

親と国というのは概念として近いものがあるのかもしれない。自分の親を嫌悪してる人で国に対して親近感を抱ける人はあまりいないように思われる(それこそ少数派)。つまり何がいいたいかと言うのは上の方々が巧みに言ってくれているので。

No.8にお答えして。
ひとつには「国」というものの定義の仕方なんじゃないでしょうか?
自分としては、「国」は必ずしも「国体」を意味しません。知り合いの自国に誇りを持つ中国人もほぼ全員、中国共産党を崇拝していません。
個人的には「国」ってのは例えば文化だとか言葉だとかで括られる「人のかたまり」で、様々な側面があり、好きな部分嫌いな部分はありますが、その中の好きな部分への気持ちってのも「愛国」じゃないんでしょうか? 無論、だからって嫌いな部分まで肯定する必要はないので、一部の人の排外的言動への松永さんの批判はちっとも間違ってないと思います。「国体」を国と定義し妙なイデオロギーを撒き散らす連中には私も賛同しません。
ただ、そういった諸々の「国への愛情」を全部ひとからげにして、「変なのがあるから愛国というものは全部ダメ」と言われているようでそこが引っかかります。「愛国」「愛国」と喧伝してるのは多分に胡散臭く、自分も好きではないのですが、「言葉の否定」というのはちょっと言葉狩り的な感じもしてしまいます。

愛国心という考えが「理解できない」「、分らない」「受け入れられない」なら最初からそう言えばいいのに、今までの記事を読むと「自分が本当の愛国者。中国に腹を立ててるお前等はまがい物だ!」と言ってるようにしか聞こえなかった。でも理解できないなら「何で、ブーイングされたからって関係ない被害にあった訳じゃない日本人が怒ってるの?疑問」で済ませればよかったのにね~
何で「偽りの愛国心」なんて言ったの?愛国心が理解できないのに、「偽りの愛国心」云々を語ったの?偽りがあるって事は「本当」の愛国心があるってことよだね?愛国心が良くわかんない人が本当・偽りの区別がつくの?もうね、訳わからない・・・

それと、
>愛国心は、自分に自信を持てない人が対象を国にスライドしたもの

これ、本当なの?
あるテレビでスポーツマンたちが色々話す番組があるんだけど「ナショナリズム」の話になった時、やっぱりみんな外国に出ると愛国者になるみたいな話をしてたよ。日の丸や君が代に特別な想いを抱いたり、日本がバカにされたら憤ったり・・・そんな話をしてた。
自分に自信があろうとなかろうと、自分が所属している物が好成績を収めたり評価されらなんだか嬉しくなるんだよ。理解出来ない人に何を言ってもしょうがないけどさ・・・

とうに終わった話なんですよ、これは。
国は国で、個人は個人。たったそれだけの話です。
普通はその感性を両方ともちゃんと持っていますよ。
松永さんが、片方しか持ってないってだけなんです。

愛国心とはネガティブなものばかりではないと言う人がいるけど、いわゆる「愛国系サイト」ってほとんど他国への憎悪か、自分たちと考えの違う日本人に「反日」「サヨク」「売国奴」のレッテル貼って憎悪してるところばかりじゃん。それとも俺も知らない「愛」に満ちあふれた「愛国系サイト」もあるのかな?知ってたら教えてくれないかな?。

「所属」を「自分」と思えない。
これは、団体行動、共同行動での成功体験、満足感等により、責任感を感じていく事で徐々に変わっていく事が多いかもしれません。
勿論、そうではない、教育などによって不自然に養われる「団体への忠誠」と言う物も有るかもしれませんが・・・
少人数、例えばペアで行うスポーツで、自分の不得意な点を相手に見事に補助してもらい、ペアの不備を自分の力で補えた事を自覚し、成功を収める、試合に勝利する、等の経験を得た時、そのペアと言う団体は、自分にとって掛け替えの無い物となり、また、このペアを自分が運営している、という充実感を得る事になると思います。
これは、スポーツに限らず、会社や部署、地方なら町内会、都市部ならマンションの自治会と言った地域の団体にも言える事だと思います。
会社やチームでの成功、地域での防災活動、消防団などの災害救助活動、また家族の運営などでもそうだと思いますが、若い者、未熟な者は自分が引っ張り、意見の合わない者とも折衝し、団体を運用していく。
「自分はその団体の一員だ」と自覚する事で、多少は愛着も出るでしょうし、「自分はその団体の運用に責任が有る」まで行けば、それはもう、「所属を自分と思う」の段階でしょう。
まぁそれ以外にも、単純にその団体が好きだとか、その団体に恩が有るとか、色々な場合もありえますが。
日本の場合、この責任感の対象が「国」に変わった時、急に腫れ物に触るような感じになってしまいます。これらは一応、過去の反省と言う事になっているのでしょうが、ちょっと行き過ぎていると思います。
色々なパターンにより、日本と言う国に愛着を持ったとしても、日本に暮らしているのだからなんら不思議では無い筈なのですが。
そんな人たちが、あの重慶の有様を見れば、それは間違いなく不愉快でしょうし、中には血の気の多い人もいるでしょうから、行き過ぎた反応も出てもおかしくないですね。行き過ぎは思い止まって頂きたいですが、不快な事に対する反応としては当然かとも思います。
一方で、確かに国と言う団体は大きすぎるし、同じ国民とは言え、テレビに出てくる政治家は大抵怪しく、悪役に見えるし、国と言う者に愛着を持てない人も多いんだろうな・・・とも思えます。

一連のBlog読んで、やっぱし思うこと。。

(前blogの引用)
> 自分の国に誇りを持つとか持たないとかいうのは私には関係のないことで、
自分自身に誇りを持つか持たないかしかありません。

自分が国に、=日本人であることが誇りに持てないのに、どうして自分自身に誇
りが持てるんだろう・・
氏の考えで物を言えば、

「私は地球市民だ。皆とは価値観が違うのだから相容れなくて当然」

とでも言いたい様に私には見えてしまうのだけれど、氏を形成する価値観に「環
境」は一切存在しないと言い切っているようなものだからやはり歪であると思え
てしまう。。

何語をしゃべって、どこの小学校に行って、幼少期に何をして・・・
親はどこで生まれ育って、友人・同僚はこういう性格で・・・
実家は~にあって、そこの土地の人たちは~で、・・

そういったものの積み重ねの中に、「日本人」というアイデンティティは空気の
ように混ざっていて、意識はしないけれど必ずその要素を取り込んで「個」とし
て存在しえているはずなのに、その「個」に対しては誇りを持てて、どうしてそ
の土壌である国という単位に誇りを持てないというのはやっぱしおかしいよ。

逆を言えば、その土壌が否定されると言うことは、そこで培った物っていうのの
大部分は否定される事なんじゃないの?

別に私自身は特別な政治活動とかをしている訳じゃありません。
が、やはり氏の持つ不自然さだけがどんどん強調されているように見えてならなく
て、

こういった思考を、このBlogを読んだ人間に継承して欲しくなくて、

コメントを残します。

所属を自分と思えないのは「変」です。
おそらく一般的な感覚から言うと。
まあ俺も思えないわけだけど。
でも何故かオリンピックはみんな日本を応援しています。

つーか誇りって何?日本人であるってだけで、寝ころんでてももらえるものなの?

誇りやプライドって努力して獲得するものだとばかり思っていたんだけど?
だからダラダラ流されるように生きている時は自分にも誇りは持てない。
でも何かに向かって努力したり、また努力の後に何かを獲得した時、
自分自身に誇りが持てる。そう思っていたけど?
どう生きていようとただ日本人ってだけで誇りが持ててしまうわけですか?
そうだとしたらずいぶん安っぽい誇りですね。

一点だけ。
「犠牲者に日本人はいませんでした」報道は赴任・旅行等で現地に肉親や知人がいる国民に対する配慮以外のなにものでもなく、愛国心云々の論議とは無関係かと。
まさかこれをも「関わりのないこと」とは言いますまい。

別の方向から質問いいですか。
愛国心って教育の賜物ですよね? 血税納めさせるためですよね?
それ以外に何がある?
義務教育によって、最低限血税納めさせる知識を埋め込む。そこで、愛国心も埋め込む。で、所属国家(地域でもよし)の地位向上は嬉しいという意識の植え付け。これにより、同じ所属国家(地域)の他人が、虐め(まぁ、今回は中国サポーターのブーイングですが)を受けると非常に怒り覚える。って感じじゃないですか? 今回の話は。

>何語をしゃべって、どこの小学校に行って、幼少期に何をして・・・
>親はどこで生まれ育って、友人・同僚はこういう性格で・・・
>実家は~にあって、そこの土地の人たちは~で、・・
これは愛郷心というものではないだろうか。
そしてもちろん愛郷心と愛国心は等号で結ばれない。
「お前自分の住んでるところさえ良ければいいのかよ?もっと日本全体のことを考えろ!」みたいな。
愛国心とは実際どういうものなのか、何故持たねばならないのか、ということを踏まえて話をしたほうが「愛国心はあって当然」という観点で松永氏を批判するよりも実るところがあるでしょー。

「地球市民」は揶揄の対象だけど、江戸時代に「日本が日本が」と言ってた人はやはり同じような視線を受けたかもしれない。異星人が来襲したときには愛星心が沸き起こって地球市民として連帯できるかもね。

多国籍企業の社員の愛社精神と愛国心はどのような関係を持つか、なんてのも考えてみると面白いかも。

すえずさん
自分を育てた環境に対して感謝の念はありますし、好きだと思う地域、素晴らしい人たちは当然いますよ。しかし、そういった「自分をはぐくんだ土壌」は「自分自身」ではなく自分の外に位置するものなので、それを私自身の評価に含める発想が浮かびません。つまり、誇りに思うというのは自分のものだと思っているということだと思うのですが、それはあくまでも外部のものだと感じます。
奈良時代の日本が遣唐使によって唐から学んだとして、その日本文化を培ってくれた唐を「誇り」に思うわけじゃないと思いますが、それと似た感覚です。
自分にとって「環境」は、教師でありえても自分ではない。「あの先生すごいよ」と言っても、それは自分自身の評価や誇りとは無関係ですよね。環境そのものを否定しているのではなく、それは自分ではないといっているだけの話です。
 
まさおさん
自分が所属・関与している度合いによって感じ方が違ってくるということについては本文に書いたとおりです。
日本文化や伝統は自分が努力して培ったものではないので、自分とは思えません。
それと、私は「国という枠組みを自分と同一視する」ことがわからないんであって、別に日本という枠組みが嫌いなわけではないです。

この改訂版を読んで「ああ、逃げたな」と思いました。改定前の文章から論理的におかしいところを直したり、指摘されやすそうなところを見直したり、という作業が入ったのですから当然おかしなところの少ない話になっているはずです。通常は例示を変えたり、行き過ぎたところを見直したりと、要旨を変えることなく、表現に修正を加えるものなのですが、(そうでなければその論自体を無かったことにする)あまりに指摘(もしかすると攻撃)されることを恐れて、要旨をそらすことで改訂とされたように思えました。

草稿で「偽りの愛国心」と言ったのは、愛国愛国といいながらヘイトに走っている人たちの行動を見ていると、むしろ自分たちの看板に泥を塗っているような行為にしか見えなかったからです。つまり、「彼らは国の威厳を高めようとして逆に評価を落とすようなことをしている」という意味で「偽りの」と言ったのです。逆効果じゃないの?という意味において。
じゃあ逆効果じゃない愛国はどうかといえば、それはそれでいいと思うけど、自分はそんな「外枠」の評価を高めることに努力するのは意味がないと思っているので参加しないという程度の感じになります。ご自由にどうぞという感じですね。

最初から言いたかった要旨はこれなので、最初の書き方があまりにもまずかったと思っています。
というか、何から「逃げた」のかがわかりませんが。

自分のアイデンティティが本当に自分だけのものと純粋に思える人が羨ましい。
僕は愛国者ではないと自認しているが、CMの影響を全く受けずに買い物できないように、
自分の中からナショナリズムの影響を排除することはできないと思う。
ナショナリズムは無意識に自分の中に存在しているからこそ問題なのであって、
普段自分が黄色人種だと意識してなくても海外で相応の差別をされれば憤るのと同様、
今回のサッカーのように自分を含む日本人全般に対する悪意を発露されては良い気分がしない。
できるとすれば反ナショナリストになって、愛国者のやることの逆をして自分一人悪意の対象外だと思いこむことだけ。
そういう人に限って、自分の敵が幼稚で、暴力的で、差別的な右翼の集合体と決めがちなもの。
さながら某二代目大統領が悪の枢軸やら何やらと敵を大袈裟に規定しているかのように。
右翼的な言動を嫌うのも結局は一種のヘイトなのだし、本当に近隣諸国との平和を望むのなら、
罵り合い程度は容認してお互いの不必要なフラストレーションをためないようにすべきだろう。
ネット上で年中罵り合ってる日韓のほうが日中よりは健全だ。
「アメリカ人はアホだな」と大っぴらに言える事は決して悪いことじゃないはずだ。

>明明徳さん

儒教で言うところの「孝」は肉親同士が愛し合う自然な感情に発してはいますが、家族愛に似て非なるものですね。つまりそこには、強烈な「義務」が付随しています。伝説の聖人・舜は実の父や異母弟に何度も殺されかけますが、それでも孝心は少しも揺るがなかったとか。こんなものが、通常の家族愛であるはずがありません。

日本人は道徳を何かしら気分や感情のように理解するようになってしまいましたが、もともと道徳とは人をある特定の行動に強いるものなのです。この道徳律の中にいる限り、その取り決めに反した行動は取れません。

「忠」はもともと「真心」や「思いやり」という意味ですが、儒教2千年の歴史の中でその意味が「臣下による主君への忠誠心」へと限定されていきます。「忠経」のような書物もありますしね。

一般的には「家庭内での上下関係」にまつわる下から上への真心を「孝」とし、主君と家臣や上司と部下のような「社会的な上下関係」にまつわる下から上への真心を「忠」と解釈することが多いようです。僕も便宜的にそのように使っています。

サモクさん。
愛郷心の延長線上に愛国心があるって、少なくとも私はそう思ってますけど・・・

yu-riさん。
日本の教育では「愛国心」は育たないと思う。少なくとも私はそのような教育を受けた覚えはないです。近頃見直そうという動きは出ていますが・・・
むしろ「反政府」「反権力」的な事を教わりますよ、ホントに(笑)公務員で、公立校の教師なのに「国なんていらない!地球市民だ!」とかそんなのばっかだった。
それでも私は自然と日本贔屓になってしまった(笑)最初はやはり私も松永さんほどではないけれど、「愛国心」って無いと思ってたんですけどね。いつの間にか日本に愛着を感じるようになった。・・イツ頃からか、歴史が好きになったんでそれから、日本を見直すようになったんですけどね。
教育が占める比率は大きいけど、必ずしもそれが決定的なわけじゃないし、現状では「愛国心教育」なんてほとんど行われてないと思います。
愛国心=税金とかちょっと悲しいかなと考え方が・・・

続き。
松永さんの話、分ったような、分らないような、私の周りには松永さんのような考え方をしている人はほとんどいなかったのでなんとも言えないというか、新鮮なキモチさえしますね。
これはもう考え方の違いなので何も言えないのだけれど、やはり私は日本人で、そんな自分を生み育んでくれた両親も日本人で、さらにその両親を生んでくれた祖父母も日本人で・・・
不思議な気がしますね。我が家の家系図の中で一人違ったりいなかったりするだけで「私」という存在は産まれてさえいないんだ、と。
だから先人に感謝の気持ちがある。「精一杯生きてくれてありがとう」と。そして両親やさらにその祖父母を育んでくれた人たちにありがとう、と。
そして生れ落ちた「日本」という国は豊かで、問題は多数あるけれど、暮らしやすく、食べ物も豊富で娯楽も多数あり、国際的にも信用がある国で・・・
そんな国に偶然生まれ落ちた奇跡を感謝したいと思う。そしてその国を築きあげた先人・偉人たちの偉業・功績に感謝したい。
私の愛国心はそこから始まりました。
もちろん、ずっとそんな事考えているわけじゃないですよ。でもたまに、ふとそう思う事があるんです。

AUTHOR: ズンドコベロンチョ
EMAIL:
IP: 61.210.176.253
URL:
DATE: 07/29/2004 12:27:00 PM
AUTHOR: ズンドコベロンチョ
EMAIL:
IP: 61.210.176.253
URL:
DATE: 07/29/2004 12:27:00 PM

> だから先人に感謝の気持ちがある。

どうして「日本人限定の先人」なのか全然わからないんですよ。

重慶のブーイングに反応して、程度を落としてしまった日本人に対し、「それは良くない!」と憤る気持ち、この気持ちの中にも、愛国心のカケラとも言えるものが隠れているのかもしれません。
今後、中国代表チームを日本に向かえた試合で、日本人サポーターがお返しとばかりに無礼な態度をとった場合、私は他人事ではいられないと思います。「うわ、止めてくれ」と言う気持ちが必ず発生してしまうと思います。これは、「同じ日本人として」と言う事なのかもしれません。
表に出す愛国心と言う物の他に、隠れていて自分でも気付かない愛着と言うものもあり、そこを刺激される事で、表面にいろいろ出てくる、と言う事もあるかも知れませんね。でもやっぱり無い人には無いのかも。
まぁこんなに沢山の投稿を受け付けて、同胞の啓蒙に励む松永さんは、実は超愛国者だ。とも言えますが。

個は全を成し、全は個(の生命・財産)を守る。ひとつの国で生まれて成長するということは、基本的にはそういうようなことではないかと思います。
そしてまた、全の一部が攻撃を受けたのなら、同様に全の一部である自分にも波及するかもしれない(そう考えることに無理があるとも思えません)。だから嫌うのでは?
攻撃も受けずに外部を嫌おうという動きがもしもあるのだとしたら、それは臆病な防衛行動かもしれませんね。

特に愛国心のない人間の発言です。

>毒カレー事件が起こったからといって「和歌山の人はカレーにヒ素を入れるからなあ」というのは冗談としても最低のものです。
これは本当に最低なのか?
あなたは、中で何度も「所属を自分と思えない。わからない。」と書いている。
又、「悪意は分かる」とも書いてるが、この話は「冗談」という設定だ。
つまり、あなたは分からない物に対して「最低」と言ってるが、それは一体どこから来ているのか?
 
一つ聞きたいのは、松永さんは相手が不法で攻めてきても、正法で相手をするのか?
場合によりけりだと思うが、私は不法には不法でおかえしする人間の方が世界的に普通だと思っている。
例え正しくても、潰されてしまえば、死人に口は無いのだから。
言われている問題の対象の中には、そういう心構えの人も多いのではないだろうか。例え間違っていても、潰されるよりはましだと思って声高く叫ぶ人間が。
特に日本人は、アメリカの戦後占領政策の成功例を何時でもみる事が出来るのだから。

しろつさん、No.31さんに賛同。
松永さんがいうほど愛国心というのは形のあるものではないと思うんですが…。普通に大体の人が愛国心に対するスタンスは松永さんと一緒ですよね?ただ現実を感じていれば今はまだ宇宙世紀でもないのに国という概念をそこまで無碍にするのはいきすぎではないかと。まだ確かに存在するものを知覚するの諦めるのはどうかと。大体、訴えてる対象のズレがややこしいですね。

もしかしてみんな重慶爆撃とか知らないんだろうか?
重慶爆撃で多数の「中国人」が死んだのは歴史的事実で、それは原爆で「日本人」が死んだのと同じレベルの事実なんだけど、でも日本の教科書で教えられてる原爆の扱いと、アメリカの公教育や私学で教えられる原爆の扱いは全然違うものでしょう。日本の教科書に書いてあるようにアメリカで原爆を教えたら「この共産主義者め!」とかバカな事を言われそうだ。でも原爆によって大量の「日本人」(本当は日本人だけじゃないが)が虐殺されたことは事実だ、その事実と同じく重慶で大量の「中国人」が虐殺されたのも事実だ。事実を教育によって教える行為を反日と言うのは、大量に虐殺したヒストリーをバックグラウンドに育ったと言う事実を隠蔽したいだけだと思う。都合の良い事実だけを教えるのが愛国だと言うなら馬鹿としか言いようが無い。
あとスポーツ選手が国際試合なんかでナショナリストに豹変すると言うのは、アメリカ帰りの学者にも良くあるパターンで(最近はアメリカ留学すら「できない(バカだからアメリカの大学に呼んでもらえないし入れてもらえない)」学者にも同様のメンタリティを持ってる馬鹿が増えたが)単純に個人的業績をその土地で残せなかったので最終的にナショナルな代物にすがりついただけでしょう。大体スポーツ選手なんて筋肉バカなんだから(ヤクルトの古田やロッテの小宮山なんかは除いて)愛国心だとか思想だとかそう言うのを考える必要な無い。そんな事より自分のやってる競技で良い結果を残せるように何とかするべきだろう、それができれば「愛国心とかそんな事より、自分のやってきた事を見て欲しい」と言えば良いんだ、言えないから愛国者になるんだろう、バカだよね。
役者バカとバカ役者は二つとも意味が違うがどちらも「役者」である、しかし愛国心にかぶれたら単なるバカにしかならない。自分が何者であるか、なにをしているのか、それを誇りに思うべきで、個人的な業績以外で何かを誇るのは筋違いも良いところだ。

何年も前の重慶爆撃をいまだに抗議するなんておかしい、とか言うバカは原爆で死んだ人たちや残された遺族になんて言うつもりなんだろう?

No.31の人と、それに賛同しているNo.37の人に質問。

No.31の人はかくも美しく愛国心を描写されていますが、
ネット上にある「愛国的サイト」がほとんどヘイトによって成り立っている
という厳然たる「事実」をどう説明しますか?

私は「愛国心とはなにか」を、ネットで学びました。
ネットを見る限り、その根底は「憎悪」であるとしか思えません。

AUTHOR: ズンドコベロンチョ
EMAIL:
IP: 61.210.176.253
URL:
DATE: 07/29/2004 02:41:07 PM
AUTHOR: ズンドコベロンチョ
EMAIL:
IP: 61.210.176.253
URL:
DATE: 07/29/2004 02:41:07 PM

No.14を書いたのも俺なんだけどね。故意かどうか知らないけど
返答は誰からもなかった。
だから再度質問してるんですよ。誰か答えてくれないかなあ。

重慶爆撃?だからなんだね?
原爆を落としたアメリカ国民に今になって
日本国民が嫌がらせをしていいという理屈
なのかね?犯罪者の家族は全員犯罪者かね?
加え我々の世代が今まさに行った爆撃でも
あるまい。なぜ今の世代の者がそれを盾に
して暴虐の限りを尽くしてよい理由がある?
そしてなぜその悪行への反発を「自称愛国者
の愚行」と乱暴に一まとめにする意味がある?
 
熱心に他国を憎悪する「自称愛国者」とは
どこの誰の事だ?ずっと質問しているが
ついぞそんな輩は見当たらないわけだが?

日本語が不自由な人がいるので再掲。


ネット上にある「愛国的サイト」がほとんどヘイトによって成り立っている
という厳然たる「事実」をどう説明しますか?

愛国者と言うのはズンドコベロンチョのようなアホしか居ないわけだな。

>>46
すみません、ではその愛国的サイトというのを
いくつか紹介してください。その愛国の基準が
今回のサッカーの暴力事件に対する反発を
しているもの、という括りであるならそれは愛国
とは全く関係のない問題です。いったいどこから
愛国心なんて言葉が出てきたのか。
しかしこうにも国家の構成員としてのまとまりに
欠ける人間が跋扈する世の中になっていることに
背筋が寒くなる。「シンボルマークにすぎない」
という発言も「シンボル」という巨大な意味を
持った単語に対して「すぎない」と見下している。
これは本当に恐ろしい。日本への愛国心以前に
他国のシンボルにさえそのように吐き捨てているのだから。
 
>47
中傷合戦をする気はありませんので
そちらも控えてくださいませ?

>その愛国的サイトというのをいくつか紹介してください。

いまさらこういう質問が出るとは驚きだけど?
2ちゃんねるとかいろいろあるでしょ?
あとは「中国」「韓国」「サヨク」「自虐」「反日」
「プロ市民」「朝日新聞」など、愛国者好みの単語で
検索すればいくらでも出てきますよ。

逆に根底にヘイトがない、「良い愛国的サイト」があれば
教えてください。

馬鹿に馬鹿というのは事実の指摘であって中傷ではない、馬鹿。

そもそもトラックバック送ってあるのに読みもしないのは馬鹿だとしか思えないし、仮に俺の書いたテキストを読んであの返事を出したならやっぱり馬鹿としか言えない。

ほい→No.49
http://www.aikoku-u.ac.jp/
http://www.aikoku-sangyo.co.jp/
http://www.gainax.co.jp/soft/daicon/dai.html
最後のはちょっとhateかな?(笑
上のURLは冗談ですが、「日本が好き」で検索してみてください。政治的に云々とは関係ないサイトはいくらでも出てきます。(それとも「日本が好き」というのは「愛国心」とは呼べないと?)
レッテル貼りする人たちが対立概念として自分たちの側を「愛国」と必要以上に強調するのはある意味当たり前の話で、もしそういう連中がいるから愛国心と呼べるようなもの、そんなようなものはすべてダメ、というなら、あなたはむしろそういう人たちに近いんじゃないでしょうか?

>49の人
 あなた大本が間違っている。皆呆れているからレスがつかないだけです。No14を見直してください
>愛国心とはネガティブなものばかりではないと言う人がいるけど、
>いわゆる「愛国系サイト」ってほとんど他国への憎悪か、自分たちと考えの違う日本人に
>「反日」「サヨク」「売国奴」のレッテル貼って憎悪してるところばかりじゃん。

 「愛国心がネガティブなものばかりではない」という命題を否定するのに、「(あなたしか
わからない定義の)いわゆる「愛国系サイト」の様子」を出して、それで何事かが言えていると
本気で思ってるんですか? ご自分の頭の中では整合性が取れているのかもしれないが、傍から
見ると幼すぎます。

 愛国心というのは、たまたまあなたが見たこと(もしくは話を聞いたこと)がある、あなたの定義
する「愛国系サイト」というところにだけ置いてあるものだと言うのですか?
 ご自分にきちんとした返事がこないのは、自分が妙なことを喋っているからではないか、とあなたの
場合は自戒なさったほうがよろしいかと思います。

>49
それのどこが愛国心と関係あるんですか?
ぜんぜん関係ない別個の問題ではないですか
故意のミスリードがそんなに楽しいですか?
 
>50
私人への中傷はアウトです。残念。
公的利益に基づきませんからね。 
 
>51
はい?自分ルールの提示は脳内で
おねがいします。。。
 
とにかくこの松永という人と、それに付和雷同
する者たちは日本国民に対して「愛国」という
言葉を嫌わせようとしているわけですよね?
御丁寧に逃げ道をいっぱい作った上で。
今回のサッカーの問題に対して反発するのは
至極普通であたりまえのことなのに何故か
突然愛国心を盾にそのようなことをするのは
おかしい、と発言なさったわけで。
別に愛国を盾にしようがしまいが反発があって
あたりまえでしょうよと、何度言われたらわかるんですかね。
そしてなぜ突然愛国心などという問題にすり替え
ているのか?どう呼んでも意図的に愛国心への
イメージダウンをしたいとしか思えないわけだよ。
どんな書き方をしたっていつもそこだけが唐突に
現れて、常に同じであるんだもの。
 
しかも、反対意見を書き込んだ人に対して
まっとうな反論ではなくホストかなにかで判別
してブラウザクラッシャーを強制的に踏ませるという
卑怯きわまりない行為。これは絶対に許せない。

>ss
どうも。
確かに「政治的ではない」サイトにヘイトは少ないかもね。
でもそれは国家というより風土や文化が好きと言ってるような。

ただ政治的なサイトだとやっぱりヘイトが出てくるね。


>そんなようなものはすべてダメ
誰もそんなこと言ってないんだけど・・・

>>[No.39] 投稿者:あめぐりの人[2004年07月29日 14:06]

>>何年も前の重慶爆撃をいまだに抗議するな>>んておかしい、とか言うバカは原爆で死んだ>>人たちや残された遺族になんて言うつもりな>>んだろう?
 
「アメリカ人に鉄の棒を投げろ」と言えと?
あなたはなにが言いたいのですか?
まるっきり関係ない話題ですよ、ハウス!

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このページは、松永英明が2004年7月28日 20:20に書いたブログ記事です。
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