「塞翁が馬」と「白い子牛」

 「塞翁が馬」(人間万事塞翁が馬)という言葉はよく知られています。ところが、この故事にはもう一つ同趣旨で対になる「白い子牛の話」があった――ということが、江戸時代の作家・滝沢馬琴の『燕石雑志』というエッセイに載っていました。以下、この項目を全文訳してみます。

 なお、『燕石雑志』は面白いので、今後も取り上げるつもりです。

2004年9月22日14:41| 記事内容分類:言葉| by 松永英明
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燕石雑志 巻之五

(五)塞翁が馬

 塞翁が馬の故事((塞翁が馬 [淮南子人間訓] 塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、ために戦士とならず命長らえたという故事。人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。塞翁失馬。(広辞苑)))は、『淮南子((【淮南子】えなんじ〈書物〉二一巻。漢の劉安(前179~前122)の編。成立年代不明。諸家の思想・学説を総合的に記した書。……形而上的な宇宙観から、現実的な生活技術に及び、さらに各国の地理風俗、古今の神話伝説など、あらゆる分野を含む。また儒家をはじめとして、道家・法家・墨家・農家・兵家など、戦国時代にあらわれた諸子百家の学説は、すべてその中に見える。(漢字源)))』の「人間訓」が出典だということはよく知られている。しかし、その本では牛の話と馬の話を対にしてあるのである。王充の『論衡((【論衡】ろんこう 後漢の王充撰。三○巻。もと一○○編というも、今本は八五編(第四四編を欠く)。当時のあらゆる学説・習俗に対し独自の批判を記したもの。(広辞苑)))』には、牛の話が載っているが、馬の話は載っていない。これより後の類書記録には、馬の話を載せているが、牛の話を収めていない。このために世の中の子供たちは、塞翁が馬の故事に対があることを知らないようで、大変残念なことである。今、子供たちのために本文を抜粋する。王充は完全に『列子((【列子】れっし 中国,戦国時代の思想家列禦寇の作といわれる思想書。8編。<荘子>に基づく部分,仏教に関係ある部分などが混在し,後漢以後の加筆があると考えられる。道家の中に属するが,内容的統一に乏しい。列禦寇は生没年・伝記とも未詳。宋代以来,列禦寇の実在には疑問が出されている。(マイペディア)))』を基にしている。『列子』巻の八「説符」の編を参照のこと。

(※以下、漢文で原文が引用されているが、訳しておく)

 『淮南鴻烈解』(『淮南子』の正式名称)にいう。むかし、宋の人で善を好む者がいた。3代にわたって怠ることがなかったのに、その家で、理由もなく黒い牛が白い子牛(白犢)を生んだ。そこで先生に質問したところ、
「これは吉祥です。鬼神に捧げなさい」
とのことであった。
 それから一年。その家の父が理由もなく目が見えなくなった。そして、牛がまた白い子牛を生んだ。父はまた子を先生のところにやって質問させようとした。
「前にあの先生の言うことを聞いて失明したんだよ。今また尋ねるのはどうかな」
と子は言ったが、父親は
「聖人の言葉は、最初は合っていないようであっても、後で合ってくるものだ。これはまだ結果が出てしまったわけではない。とにかく行ってまた尋ねてみなさい」
と言うのだった。そこで子がまた先生に問うと、
「これは吉祥です。また鬼神に捧げなさい」
とのことであった。帰って父親にそのことを言うと、先生の言うとおりにしろという。
 それから一年。今度は子の方が理由もなく目が見えなくなった。
 その後、楚の国が宋の国を攻めて城を包囲した。このとき、城内では子を取り替えて食べ、死体を割いて調理した。壮年の者は死に、老人・病人・童子は城に上って固く守り、下りてこなかった。楚王は大いに怒り、落城させたときには城を守っていた者すべてを殺してしまった。
 例の親子だけは、目が見えないために城に行かずにすんだ。軍の包囲が解けたとき、この父子の目は再び見えるようになった。

 つまり禍福は転じて、お互いに生じるものである。その変化は理解しがたい。

 辺境の塞に近いところの人で、占術をよくする人の馬が理由もなく逃げて胡(胡は北方異民族)の地へ行った。人々はみなこれをなぐさめたが、その父は
「いやいや、これがすぐに福となりますよ」
と言う。
 それから数カ月。その馬は胡の駿馬を連れて帰ってきた。人々はみな祝ったのだが、その父は、
「これがわざわいとなるかもしれません」
と言うのである。
 さて、この家は良馬に恵まれたので、その子は乗馬を好むようになった。ところが落馬してすねを負ってしまった。人々はこれをなぐさめたが、父は、
「これも福となるでしょうよ」
と言うのだ。
 それから一年。胡人が塞に攻め寄せてきた。壮年の者たちは弓を引いて戦った。塞に近いところの人は十人中九人が亡くなった。しかし、足が傷ついていたためにこの父子だけは無事だった。
 こういうわけで、福は禍となり、禍は福となる。変化してとどまることがない。深くて見極めることができないものだ。

 というわけで曲亭子(馬琴)が申します。吉凶はあざなえる縄のごとし。さいわいもさいわいにあらず、わざわいもわざわいにあらず。
「人間万事塞翁が馬 推枕軒中 雨を聴いて眠る」という詩(※元代の僧・煕晦機の詩)を吟じるときは、何を喜ぶことがあるだろうか、何を悲しむことがあるだろうか。
 ある本に詩の序を引いて、「塞翁の姓は李である」とあったが、信じられない。もともとこれはたとえ話である。

 塞は北にあるから、和歌では「きたのおきな」と詠まれている。
 『壒嚢鈔((あいのうしょう【壒嚢鈔】仏教を主とした和漢の故事、国字・漢字の意義・起源などを解説した書。七巻または一五巻。行誉著。一四四六年(文安三)成る。「塵袋(ちりぶくろ)」に倣ったもの。一五三二年(天文一)僧某が「塵袋」により増補して「塵添(じんてん)壒嚢鈔」二○巻とした。(広辞苑)))』によれば、後鳥羽院が承久の乱によって隠岐の国へ流されなさったころの述懐の御製に
  いつとなく北の翁がごとくせばこのことわりや思ひ入れなん
  (いつの日か北の翁のようになって、こんな道理を受け入れられるようになりたいものだねえ)
とある。このほか、塞翁を詠んだ歌は『夫木集((ふぼくしゅう【夫木集】夫木和歌抄の略称。
ふぼくわかしょう【夫木和歌抄】(「夫木」は日本国の意の「扶桑」の偏旁) 私撰類題和歌集。三六巻。藤原長清撰。一三一○年(延慶三)頃成立、後日の補訂があるという。万葉集以後の家集・私撰集・歌合・百首などから、従来の撰に漏れた歌一万七三五○余首を集め、四季・雑に部立し、類題に細分したもの。夫木集。(広辞苑)))』にたくさん入っている。

 また、世俗のことわざに「わざわいも三年おけば役に立つ」というのも、塞翁の故事から出たものだ。塞翁はよく倚伏((【倚伏】いふく よりかかったり、中に隠れていたりする。禍(わざわい)が福のもとになり、また福の中には禍が隠されているという、禍と福とが互いに生じる因果関係のこと。「老子」五八章の「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏=禍ハ福之倚ル所、福ハ禍之伏ス所」から。))を知っているものである。

 小説を書いて、人の世の栄枯・得失のことわりを述べようとするものは、みなこの翁から説を起こすものである。
 『醍醐随筆』(中山三柳著)にいう。平治の乱の敗戦で頼朝が父・義朝についていけず捕虜となったのは凶事のようだが、義兵を起こして平氏をみなごろしにし、天下の権をとるに至ったのだから、吉事がその中にこもっている。義経は西海の軍功が抜群だった。これは吉事であるが、頼朝に憎まれて身を滅ぼすに至ったのは、凶事がその中にこもっている。梶原景時が主君に重く用いられて引き立てられたのは吉事のようだが、一族みな滅ぼされるに至ったのだから凶事がその中に込められている。足利尊氏が朝敵となって新田義貞に負け、鎌倉で出家し、西国の果てまで没落したのは凶事のようだが、天下の武将と仰がれ、室町幕府十四代のもとを開いたのだから、吉事がその中にこもっている。
 とすれば、吉凶は常にともなっている。これは枚挙にいとまがない。

 考えてみると、『孫子』に「将は福艾の相を選ぶ」と言っているのも同じ趣旨だ。福は字のとおり、艾は老である。福相・寿相の大将は、百戦を経て何度もその身が傷ついたとしても、無事功績を立てることができるからだ。いわゆる塞翁は福艾の相あるものだろうか。
 人の骨相は、一日の天気に晴雨があるようなものだ。はじめ吉であってあとで凶事に遭う人は、朝に晴れて夕べに雨が降るようなものである。また、富貴の家に生まれて一生変わらない人は、明けてから暮れるまで快晴の日のようなもので、貧乏の家に生まれて生涯艱難辛苦に遭う人は、朝から晩まで風雨がやまないようなものである。
 とすれば、吉凶についても、人によってその吉凶に最初・途中・終わりがある。これはその道の博士に尋ねるべきである。

 また『淮南子』の塞翁が馬のことは、『荘子』に基づいているのかもしれない。『荘子』にはたとえを牛・馬にとることが多い。『荘子』斉物論に、「天地は一指なり。万物は一馬なり」とあり、応帝王編に「一は己をもって馬となし、一は己をもって牛となす」云々とある。このような例は枚挙にいとまがない。

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