日本の女帝8人10代+4人の系譜 女性天皇即位の経緯を探る

 女性天皇を認めるか否かという問題が検討されつつある。そこで、今回は歴代の女性天皇(+α)についての即位の経緯やその治世についての状況を簡単にまとめてみた。今回取り上げた日本の女帝は以下のとおり。

  • 卑弥呼
  • 台与
  • 神功皇后
  • 飯豊皇女
  • 推古天皇
  • 皇極/斉明天皇
  • 持統天皇
  • 元明天皇
  • 元正天皇
  • 孝謙/称徳天皇
  • 明正天皇
  • 後桜町天皇
2004年12月 7日23:35| 記事内容分類:日本史, 日本時事ネタ| by 松永英明
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卑弥呼

 歴史書・三国志の『魏書』東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)に描かれた邪馬台国の女王とその後継者。個人的には、卑弥呼=天照大神説が妥当と考えている。つまり、天皇家につながる「日の巫女」として卑弥呼は存在しているのではないだろうか。これは個人名ではなく、職名かもしれないという見解もある。

 卑弥呼は鬼道に仕え、その霊力でうまく人心を惑わしていたという(この鬼道や惑わしていたの意味には諸説あるが正確な内容については不明)。歳長大であったが夫を持たず、弟の男王がいて彼女の政治を助けていたらしい。女王となってから後は、彼女を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、神託をうけるために彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていたとのこと。(卑弥呼 - Wikipediaより)

台与

 卑弥呼の後継者。

 古事記等に書かれた天照大神の事跡のうち、「天の岩戸」以降の記述は台与についてのものであるという説は説得力があると思う。また、天照大神を祀った伊勢神宮の外宮に祀られているのが「豊受大神(トヨうけのおほかみ)」であることも興味深い。

神功皇后

 神功皇后(気長足姫尊=おきながたらしひめのみこと)は#14 仲哀天皇の皇后。

 日本書紀によれば、仲哀天皇は即位八年九月、九州南部の熊襲を討伐することを群臣と協議した。皇后に神託させたところ、神は「天皇はなぜ熊襲が服従しないことを憂えるのか。これは痩せた土地だ。どうして挙兵して討伐するほどのことがあろうか。この国よりも宝のある国、たとえば処女の眉のような海の向こうの国がある。眼にもまばゆい金・銀・彩色、多くがその国にある。これを新羅国という。もし吾を祭れば刃に血塗ることなく、その国は自ずから服従するだろう。また熊襲も服従するだろう」と語った。

 ところが仲哀天皇はこの神の言葉を信じなかった。神は「我が言葉を信じないのだから、お前はその国を得ない。しかし、今、皇后が孕んでいるが、その子が得るだろう」と述べた。

 仲哀天皇は強引に熊襲を攻撃し、勝利できなかった。そして九年二月に病気となって崩御した。神の言葉に従わなかったために寿命が縮んだとされている。

 皇后は神の言葉に従って新羅攻撃を行い、筑紫に凱旋した後に#15 応神天皇(誉田別尊=ほむだわけのみこと)を生んだ。その後、亡くなるまで「摂政」として統治に当たったとされている。その後で応神天皇が即位しており、神功皇后は実質的に天皇位にあったとみることも可能だ。江戸時代までは実際に#15として数えられていた。

 日本書紀では、神功皇后=卑弥呼とするが、卑弥呼の時代には新羅(またはその地域)はまだ繁栄しておらず、時代がずれていることは明白である。

飯豊皇女

 飯豊皇女(いいとよのひめみこ)、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、忍海飯豊青尊(おしうみのいいとよあおのみこと)、忍海部女王(おしうみべのひめみこ)など多くの名前がある。#17 履中天皇の娘とも、履中天皇の息子・市辺押磐皇子の娘とも書かれている。

 市辺押磐皇子の息子に億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ)がおり、飯豊皇女はこの二人のおばまたは姉妹となる。

 #21 雄略天皇は即位直前に市辺押磐皇子を暗殺した。そこで、億計と弘計の兄弟は逃げて身を隠した。その後、#22 清寧天皇の治世に中央に復帰。清寧天皇には子がなかったので、二人は皇子となった。

 ところが清寧天皇が崩御すると、互いに皇位を譲り合った。「このため天皇の姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮で臨朝秉政なさった。自ら忍海飯豊青尊と名乗られた」とある。「臨朝秉政」は天皇の代わりに政治を行うという意味だが、即位したとも受け取れる。皇女について「尊」「崩」「陵」という文字が使われているが、これは天皇かそれに準ずる人にしか使われない言葉だ。扶桑略記には「飯豊天皇、廿四代女帝」、皇胤紹運録には「飯豊天皇、忍海部女王是也」と書かれている。

 飯豊尊の崩御後、弟の弘計王が#23 顕宗天皇として即位し、さらにその崩御後、兄の億計王が#24 仁賢天皇として即位した。

推古天皇 #33(在位592~628)

 推古天皇(豊御食炊屋姫尊=とよみけかしきやひめのみこと/額田部=ぬかたべ)は、現在公式に認められている日本初の女帝である。#29 欽明天皇の皇女で、#30 敏達天皇(異母兄)の皇后。#31 用明天皇は同母兄、#32 崇峻天皇は異母弟。

 母は大臣・蘇我稲目の娘の堅塩媛で、蘇我氏系である。

 崇峻天皇は、権力を握った蘇我馬子の暗殺をほのめかしたが、馬子は逆に崇峻天皇を暗殺し、先々代の天皇の皇后で蘇我氏の血を引く推古天皇を即位させる。推古天皇は、甥の聖徳太子を皇太子とし、摂政として実質的に政治を執り行わさせた。冠位十二階・憲法十七条・遣隋使・「天皇記」「国記」の編纂などの事業が進んだのはこの時代である。

皇極天皇 #35(在位642~645)

 皇極天皇(宝皇女=たからのみこ/天豊財重日足姫尊=あめとよたからいかしひたらしひめのみこと)は、#30 敏達天皇の孫。舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(#38 天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(#40 天武天皇)を産んだ。

 舒明天皇の崩御後、16歳だった中大兄皇子は若すぎるため、皇后が即位することとなった。在位中は蘇我蝦夷・入鹿が国政を握っていた。

 645年(在位四年目)に中大兄皇子が蝦夷・入鹿を暗殺(乙巳の変→大化の改新)。そこで皇極天皇は譲位しようとしたが、候補となった中大兄皇子や古人大兄皇子は固く辞退、結局、皇極天皇の弟の軽皇子(#36 孝徳天皇)が即位した。

斉明天皇 #37(在位655~661)

 孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が再び即位(=重祚)した。二度目の即位後は斉明天皇と呼ばれる。この時期、政治の実権は中大兄皇子が握っている。中大兄皇子がなぜなかなか即位しようとしなかったかについては、謎のまま残されている。

 斉明天皇は仏教・道教に深く傾倒し、大規模な土木事業を行った。

持統天皇 #41(在位686~697)

 持統天皇(鸕野讚良=うののさらら/大倭根子天之広野日女尊=おおやまとねこあめのひろのひめのみこと/高天原広野姫=たかまのはらのひろのひめ)は#38 天智天皇の娘、#40 天武天皇の皇后。父・天智と夫・天武(大海人皇子)の間の不和は壬申の乱へと発展した。

 天武天皇が崩御するとすぐに大津皇子を謀反容疑でとらえ、処刑した。これは実子の草壁皇子を即位させるためであったが、草壁皇子は神経を病んで逝去する。

 そこで数年後に自ら即位して持統天皇となった。藤原宮に遷都した後、697年に草壁皇子の子(つまり孫)の軽皇子(#42 文武天皇)に譲位して、自らは太上天皇を名乗り、政治を後見した。初の院政ともいえる。

 私は個人的に、天武・持統朝に「日本」の伝統的な土台が確立したと考えている。初の伊勢神宮の式年遷宮は持統天皇のときに行われたし、「日本」という国号、「天皇」という称号もこの時代に始まったと考えられる根拠がある。古事記には、太陽を祭る女神・天照大神が、息子の天忍穂耳命に統治させようとするが、実際にはその子(つまり天孫)の邇邇芸命(ニニギ)が天降りするという神話がある。これは、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の関係を模したもの(あるいはその正当性を強調するもの)という説があるが、納得できるものがある。なお、古事記・日本書紀の編纂が始まったのは、天武・持統朝のことである。

元明天皇 #43(在位707~715)

 元明天皇(阿閉皇女=あへのみこ/日本根子天津御代豊国成姫=やまとみこあまつみしろとよくになりひめ)は#38 天智天皇の娘、草壁皇子の正妃、#41 文武天皇と#44 元正天皇の母である(持統天皇の姉妹であり、息子の嫁でもある)。

 文武天皇が病に倒れたとき、その息子・首皇子(#45 聖武天皇)はまだ幼かったため、母・阿閉皇女への譲位を求めていた。そこで、首皇子との中継ぎとして即位することとなった。

 和同開珎、平城京遷都、古事記はこの治世である。

 715年、老齢を理由に譲位、首皇子はまだ若いので、娘の氷高皇女が即位した。

元正天皇 #44(在位715~724)

 元正天皇(氷高皇女=ひたかのみこ/日本根子高瑞浄足姫=やまとねこたまみずきよたらしひめ)は、草壁皇子と#43 元明天皇の娘、#42 文武天皇の姉である。独身とされている。

 養老律令、日本書紀が完成したのはこの治世である。また、藤原不比等、その死後は長屋王が権勢を振るった時代だった。

 724年、甥の首皇子(#45 聖武天皇)に譲位、以後は太上天皇として政治の後見を続けた。

孝謙天皇 #46(在位749~758)

 孝謙天皇(阿倍皇女=あべのみこ/高野姫=たかぬひめ)は、#45 聖武天皇と光明皇后(藤原不比等の娘)の第二皇女。748年に立太子し、史上初の女性皇太子となった。これは、弟の基皇子が早逝したため。

 天平勝宝元年(749年)、聖武天皇の譲位により即位。しかし、天皇を後見する光明皇太后のための「紫微中台」が置かれ、その長官は藤原仲麻呂だった。この二人が政治の実権を握っており、実質的には藤原氏政権だったといえる。藤原仲麻呂は後に恵美押勝という名前を授けられる。

 天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、光明皇太后と仲麻呂の推す大炊王が#47 淳仁天皇として即位する。

称徳天皇 #48(在位764~770)

 光明皇太后の死後、孝謙上皇は看病にあたった僧・道鏡を寵愛するようになる。これを批判した#47 淳仁天皇・藤原仲麻呂と孝謙上皇・道鏡の対立から、上皇は天皇を廃すると宣言。そこで仲麻呂が挙兵し、恵美押勝の乱が勃発した。

 勝利した上皇は淳仁天皇を追放し、孝謙上皇が重祚、称徳天皇となった。

 称徳天皇は道鏡を重用し、宇佐八幡宮の託宣によって道鏡を皇太子としようとしたが、和気清麻呂が阻止。その翌年、称徳天皇は病死し、道鏡も失脚した。

 称徳天皇には子がなく、天武天皇からの系統はここで断絶した。次の#49 光仁天皇は天智天皇の孫であり、その後の平安時代以降の天皇はすべて天智系となる。また、これから850年間にわたって女帝は登場しなかった。

明正天皇 #109(在位1629~1643)

 明正天皇(女一宮、興子=おきこ)は#108 後水尾天皇の第二皇女、母は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の娘・東福門院和子。

 わずか7歳の明正天皇が即位することになったのは、「紫衣事件」がきっかけだった。

【紫衣事件】

 江戸初期の幕府と朝廷との確執をあらわす最大の事件。元来,紫衣(高僧が着用する紫色の法衣)の勅許は朝廷の権限であったが,1613年徳川家康は「紫衣着用の際はあらかじめ知らせること」という法度を出した。26年に後水尾天皇は大徳寺・妙心寺等の僧に着用を許可,幕府は翌年その勅許状を無効とし,さらにこの処置に抗議した大徳寺の僧沢庵らを流罪にした(1629)。これにより後水尾天皇は退位。この事件を機に幕府の朝廷に対する優越性が明らかになった。(マイペディア)

 後水尾天皇は幕府への抗議として独断で譲位し、その後4代51年間にわたって院政をとり続けた。明正天皇は20歳のとき、異母弟で当時11歳の素鵞宮紹仁(すがのみや つぐひと)親王(#110 後光明天皇)に譲位した。

後桜町天皇 #117(在位1762~1770)

 後桜町天皇(以茶宮=いさのみや/緋宮=あけのみや/智子=としこ)は、#115 桜町天皇の第二皇女。母は関白二条吉忠の娘・女御舎子(青綺門院)。

 異母弟・#116 桃園天皇が22歳の若さで崩御したが、その息子で皇太子の英仁(ひでひと)親王が5歳だったため、元服までの中継ぎとして24歳で践祚。8年間在位した。

 明和7年(1770年)、英仁親王が13歳で元服したので譲位(#118 後桃園天皇)。しかし、後桃園天皇も皇子を残さず22歳で亡くなり、傍流の閑院宮家から急遽養子に迎えた9歳の#119 光格天皇が即位した。その後も後桜町院は上皇として補佐したという。

 現在の日本の歴史では、後桜町天皇が最後の女帝となる。


最近の「女性天皇」関連報道

 複数の政府関係者によると、こうした検討は1年ほど前から政府内で行われていた。まず有識者懇談会を設置して諮り、その後、政府内で改正案作りを本格化する案などが浮上。ただ、「天皇や皇太子の意向も踏まえなければならない問題。政府だけでは決められない」(政府関係者)などの事情から、現在、検討は中止されている。

 政府関係者も1日、「女性天皇を否定する理由はない」と言明。公明党の神崎武法代表も記者会見で「女性天皇がいてもおかしくない」と述べた。野党では民主党が女性天皇の実現に積極姿勢をとっているほか、社民党も「憲法を変える必要はない。皇室典範の改正でいい」(福島瑞穂党首)と条件付きながら容認する構えをみせている。

 小泉純一郎首相は2日夜、女性天皇を認める皇室典範改正の是非に関して「かつては女性天皇も存在した。今の時代、女性天皇が現れても国民は歓迎するのではないか。そんなに異論はないと思う」と述べ、女性天皇を容認する考えをあらためて示した。

 宮内庁の羽毛田(はけた)信吾次長は6日の定例会見で、女性天皇を認めていない皇室典範について「現在の皇室の状況を考えると課題含みであることは認識している」と述べ、典範改正の必要性を示唆した。


女性天皇反対論の骨子

 女性天皇を考えるは、ネット上で見られる最も過激な女性天皇反対論と思われる。その論点は以下の2つである。

  1. 過去の女性天皇は次の天皇への「つなぎ」として即位したものであり、天皇としての仕事はほとんどしていない
  2. 天皇祭祀は男性天皇が行うことを前提としている

 ただ、歴史を客観的に見るならば、「天皇としての仕事はほとんどしていない」というのは極論ではないだろうか。持統天皇や斉明天皇、称徳天皇などは、歴史上事跡を残していない男性天皇よりもずっと「仕事をしている」と言えないだろうか。また、女性天皇が単に中継ぎのお飾りとして存在しただけでなく、譲位後も幼少の男性天皇を後見・補佐した元正上皇や後桜町上皇はむしろ「形式的な男性天皇の実質的バックアップ」となっていたと言えるように思う。

 また、憂国のSea Sparrow :「お世継ぎ問題」の本質とは何かでは、男性皇統維持が必要という論が紹介されている。

  • 女帝が即位後に子を作り、その子が跡を継いだ例(この時点で皇統は女系に移る)は一度もない。
  • 男系で皇統が維持される限り、男性の天皇は初代の神武天皇のY1染色体を必ず持っている

 しかしこれについてはY兄のにっき:ダイエットで反論が述べられている。

ただ、第44代の元正天皇は第43代の女帝であった元明天皇の娘であり、父は皇太子(草壁皇子)であったが天皇にはならなかったという例があります。

だから、もう男系天皇制という伝統に例外ができているんだから、改正してもいいんじゃないのかなあというのが僕の意見です。男系天皇制の存続のために「7代前の天皇の子孫」とやらをつれてこられるよりは愛子内親王の方が皇族としての教育を受けている分、ましのような気がします。

 女性天皇反対論は、個人的には「万世一系」幻想にとらわれすぎているような気もする。

関連リンク

女性天皇反対/男系維持派

女性天皇容認派

女性天皇に賛成反対の枠外で

参考文献

関連書籍

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2004年12月 7日23:35| 記事内容分類:日本史, 日本時事ネタ| by 松永英明
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コメント(5)

たいへん勉強になりました。ありがとうございました。

トラックバックおよび引用していただきありがとうございます。
いろいろな方の意見を拝見できて非常に勉強になりました。
今回さらに意見を12/11のblogで述べさせていただきましたので
見ていただければ幸いです。

No.5の12/11 9:14のトラックバックは尻切れになっておりますので
削除していただけますとありがたく存じます。

>ただ、第44代の元正天皇は第43代の女帝であった元明天皇の娘であり、
>父は皇太子(草壁皇子)であったが天皇にはならなかったという例があります。

>だから、もう男系天皇制という伝統に例外ができているんだから、
>改正してもいいんじゃないのかなあというのが僕の意見です。

この元正天皇の場合、お父上が皇族の草壁皇子ですから、
十分、男系での継承は守られていますよ。
だから、「もう男系天皇制という例外ができている」という指摘は間違っています。

私の考えでは、女性天皇は場合によってはOKかな?と思いますが、女系(母系)天皇の場合は、天皇の出自の概念が崩壊するので、反対ですね。というのは、女系も認める場合、双系主義になるので、その天皇の先祖を遡っていくごとに、先祖の数が、2人、4人、8人、16人と倍増していき、大昔の天皇の先祖は、日本全体の人口くらい居たことになります。こうなると、共和制と同じ様な発想になる。だったら、大統領制をひくべき、という考えになる。ただ、だからといって、旧宮家を急に連れて来る、というのは、ここ半世紀、国民の表の目からは消えていた方々なので、今の西欧の立憲君主制でテレビのお茶の間のロイヤルファミリー型の皇室の形では、難しいように思います。結局、今回の論議は、ただ単に皇位継承をどうするか?という問題だけではなく、これからの天皇をどういう存在にするか、そもそも天皇とは何なのか?明治よりも前の天皇とは何だったのか?文化面・宗教面から判断していかなければいけないように思う。

愛子さまが天皇に即位されたとしても、愛子さまは男系です。これまでの皇室の伝統が壊れてしまうのは、愛子さまが皇室以外から夫をもらい、その御子息が天皇になるとき、男系の血筋が絶えてしまうのです。また、愛子さまが夫を皇室以外から夫をもらえば、誰でも皇族になれるという状況になってしまいます。金の力に頼ったどこの馬の骨かもわからない男や、外国人さえ天皇になることができるようになるのである。こうなってしまうと、天皇家の権威自体が地に落ちてしまう。となれば、神武天皇以来の皇室はとうとう途絶えてしまうことになるのである。こうなってしまうのは、今から何十年か後のことになるであろう。今から一人一人が事実を知り、考えていかなければならない。

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このページは、松永英明が2004年12月 7日 23:35に書いたブログ記事です。
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