著作権ジャイアニストの理論武装に抵抗する

 Proving grounds of the mad Internet: そして退屈へからトラックバックがあって、週刊!木村剛 : 「BLOG of the Week」の再開に向けてという記事を木村剛氏が書いたことを知った。

 おそらく、わたしの意見は「著作権の侵害だと考えられる第三者の方々もいらっしゃいまして難渋しておりました」という部分に含まれているのだろう。まあ、転載した人でもされた人でもないから「第三者」というヨソモノの横槍扱いなのだろうが(そして、そこで「第三者」を明記しないいやらしさは相変わらず変わっていないのであるが)、それはともかく、「投稿」と明記されたトラックバックのみを転載するという方針そのものについては、別に何も問題はないと思う。お互い納得しているなら別に口を挟む必要はない。

 しかし、木村氏はなぜ「自分のブログに転載する」=「他人のものを自分のものとして取り込む」ことにこだわるのか。この点を掘り下げて考えていくと、世界的な潮流の中での「知的所有権の解放と保護」という大問題にぶつかってくる。

 著作権を保護しようとする旧勢力、解放しようとする自由主義者――しかし、ことはそれほど単純ではない。著作権の解放を唱える人にも2種類ある、というのが最近のわたしの感想である。それは、「自分が利用するため」に他人に著作権の一部放棄を求める人と、「自分のものをもっと利用してもらえるよう」に自分の著作権を一部放棄する人の2種類である。

 そこで、ネット内での著作権に絡む問題をおおざっぱにまとめた上で、いろいろ意見を述べてみたい。

(★なお、このブログの記事に対する「適正な引用」はご自由に)

2005年1月24日09:31| 記事内容分類:ブログ/ウェブログ, 著作権| by 松永英明
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著作権を解放する動き

 著作権(コピーライト)は、著作者が作品や表現を独占することができるようにする権利ということができる。しかし、完全に独占させてしまうと、他の人がそれを土台にしてさらに発展した創作物を作るという可能性が失われてしまう。つまり、著作権をガチガチに規定すると、文化の発展が損なわれるわけである。

 そこで、例えば日本の著作権法でも、著作者に無断で作品を「引用」することが認められている。

 さらに進んで、プログラム開発やインターネットの世界では、自分の著作を独占することなく、他の人にも使いやすくしようという動きが見られる。これはいろいろなレベルがある。

  • パブリック・ドメイン(著作権が放棄、あるいは消滅した著作物のこと。ただし、それを利用して作った作品が再び独占状態に置かれる可能性はある)
  • コピーレフト(著作権は守りつつ、自由な利用を永久に妨げない)

 現状のコピーライトの使われ方が、著作と著作者の保護を越えて独占することに重きが置かれているため、コピーレフトは、共有を前提にした著作と著作者の保護として捉えることが出来る。(コピーレフト - Wikipedia)

 著作権を完全放棄するか(パブリック・ドメイン)、著作権を守りつつ誰もが完全自由に使えるようにするか(コピーレフト)、それとも著作権法の範囲で運用するか(コピーライト)といったいくつかの方法があるわけである。

 これらの権利を具体的にあらわすライセンスとして、いくつかの種類のオープンソース・ライセンスがある。これはソフトウェアのためのものだ。もっと一般的な著作物に対して、著作権を守りつつ、一般に使用しやすい条件を自分で選んで明記できるのがクリエイティブ・コモンズだ。

著作権を全て留保する"All Rights Reserved"と、いわゆるパブリックドメインである"No Rights Reserved"の中間の"Some Rights Reserved"が、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが規定する領域である。(クリエイティブ・コモンズ - Wikipedia)

 ネットの世界では、コピーレフトやオープンソース運動の理念によって情報共有が進んだことは間違いないと思うし、わたしも著作権を解放していく動きには賛成である。しかし、「webの世界は基本的にfreeだと解釈」(Proving grounds of the mad Internet: そして退屈へ)とまで言うのは、現時点では少なくとも「著作権アナーキズム」に近い極論だと思う。ネット内著作物のfreeさにもいくつかの段階があっていいはずだし、また、著作権に対する認識が行き届いていない現状では、このような「free」は悪用される弊害の方がメリットより大きくなりかねない。

著作権を平気で踏みにじる人々

 実際、ネット内には、著作権を無視して「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」というジャイアニズムを主張する「ぱど厨」「NAVER厨」「パクリサイト運営者」も存在する。これは著作権解放ではなく、単なる著作権侵害だし、もとの著作者に対するリスペクトも何も存在していない。

 こういった「他人の努力を安易にコピーペーストで利用する“ただ乗り”パクリサイト」は、インターネット普及当初からしばしば話題になってきたことだ。こういう連中は「ネットは自由利用」という概念を自己正当化に悪用し、言い訳に使うのである。

 小中学生はスクラップなどして遊ぶことから創作能力を磨くという考え方もあるが、著作権の概念は早めに学んでおく必要があるだろう。その一方で、自由に利用できるコンテンツを増やしたり、適正な使用を学んでいったりすることは不可能ではないはずだ。

著作権を必要以上に囲い込む人たち

 一方で、著作権を拡大解釈して、著作物の独占を守ろうとする動きもある。これは特に企業に多い。

 インターネットが普及した90年代末には、新聞社などのニュースサイトに対して自由利用を求める動きが活発だった。新聞社は個別の記事へのリンクを許さず、リンクはトップページのみ。「無断転載」を許可せず、場合によっては警告も発する。そもそも新聞記事にどこまで著作権が認められるかということすらグレーゾーンだというのに(単なる事実の羅列には著作権がない)、新聞記事の利用は拒絶されていたのだ。

 最近になってようやく、ネット上の新聞記事利用の制限は緩められてきた。新聞記事の見出しとリンクを一覧にして並べても著作権侵害にはあたらない、という地裁判決が出たこと、またGoogleニュースなどで記事見出し一覧を取得するシステムが普及したこともあって、現在はやや柔軟になってきたように思う。朝日新聞がRSS出力するようになったのは画期的なことだった。

 これ以外にも、企業系のサイトを作るときには「無断リンク禁止」「トップページへのリンク」「一切の転載(引用含む)を禁止」といった主張がなされることが多い。わたしも実際にコンサルじみたことをした某企業サイトでそういう規定があったので「外した方がいいですよ」とアドバイスして利用規程を変えてもらったことがあるのだが、確かに言いたいことはわかるのである。変なサイト(アダルトとか)からリンクされたり、誹謗中傷リンクされた場合のイメージダウン、勝手にコンテンツを利用されることへの不安。

 しかし、これもインターネットの特性上、ある程度仕方のないことだろう。そもそもパソコンで閲覧する以上はPC上にデータを複製されているわけだから、頭を切り換えるべきだ。わたしは、「画像を勝手に使われるのが不安なら、その画像に全部、サイトのアドレスを入れればいい。使われれば逆に宣伝になるから」とアドバイスした。こうなると逆に、どんどん掲示板に貼っていいですよって感じにもなってくる。

マイナスイメージのリンクを気にするのはリテラシー不足

 もう一つ、マイナスイメージのリンクを気にするのは、特にネットに慣れていない人によくある傾向のようだ。

 今はさすがに少なくなってきたが、90年代半ばには、あるサイトからリンクされた先の内容を、もとのサイトの開設者の作ったページと勘違いして妙な抗議や意見を述べる人があとを断たなかった。週刊アカシックレコードにおいて「以下のリンク先(を含む他のすべてのリンク先)に、本誌の内容や筆者の個人情報について問い合わせることは、絶対におやめ下さい」といった注意書きが書かれているのはその名残である。

 このあたりはメディアリテラシー(情報判断能力)とも関連するが、「リンクすることは、相手の意見に賛同すること」「リンクは提携」と受け取る人たちがいるわけである。本来、リンクそのものは単なる接続・参照であるし、たとえ誹謗中傷をともなったリンクや、望まれない相手からのリンクがあったとしても、悪いのは誹謗中傷の意見そのものであってリンクではない。むしろ、酷評されたリンクをたどって見てみると、批判した奴の方が馬鹿なんじゃないの?と思うこともある。

 このあたりはコモエスタ坂本氏の「嬲リンク」騒動など、やはりネット草創期から話題になっていた(参照:CJHV - 「嬲リンク事件」の内幕)。

 リンク問題については、「自分のサイトは自分のものだから、自分の望まない外部からの干渉もすべて排除したい」人と、「ウェブに公開するってことは多くの人が自由に見ることのできる環境に置くことなのだから、リンクは当然OK、批判を受けるのも仕方ない」という人の対立であり、これは現在も形を変えて続いているように思われる。

 このように、ネット内では「リンクフリー」と「リンク許可制」の闘いが長く続いてきた。

 著作権的に言っても、通常のリンクは相手のサイトへの誘導であって、自分の内側に取り込むものではない。むしろ、相手のサイトを独立させたまま、自分のサイトとの連携を作り上げるという点を考えると、WWW(ウェブ)の根幹をなすリンクという機能は非常にすばらしいものだ。リンクは参照であるから、著作権的に何ら侵害とはならず、むしろ自分の意見のもととなったものや、さらに優れたサイトを紹介することができる点で有効活用すべきものであろう、と、いわゆる「リンクフリー」派の筆者は考えている。

 そして、最近はブログなどが増えたこともあって「リンクは問題ない」という見解が大勢を占めるようになってきたようだ。未だにリンク許可制という鎖国サイトは少なくなったように思う。

 なお、通常の<a href="サイト名">タグによるリンクと、インラインフレームによる表示や、他のサイトを自分のサイトと誤認させるような表示は別ものである。

雑誌無断掲載に対する反発

 最近はあまり目立たなくなったが、90年代には「雑誌等による無断掲載」が大きな問題となっていた。ネット内で使われるのはいいとして、銭儲けのネタとして勝手に使われて連絡一つない――というやり方に対しては激しい抗議が起こったのである。ソフト開発をしている御茶義理の人による「無断掲載について考える」などは当時の雰囲気をよく伝えている。少し補足しておくと、ネット内で使われる場合と、有償紙媒体で使われるときにはルールが違ってくる、と考える人は多いし、それはそのとおりだと思う。そして、御茶義理の人も別にネット内で紹介されることに目くじらを立てたことはない。

 これは、新聞社サイトへのリンクや記事転載を自由にさせろという主張とは、一見すると反対の動きのように見える。一つは他人の使用を許さず、一つは他人に自由な使用を求めている。しかし、それは矛盾するものではなかった。

 なぜなら、条件が違うからだ。「ネット内」と「ネット外」、厳密にいえば「無償」と「有償」の利用において対応が変わったとしても、決しておかしなことではない。ネット内、特に無償の空間ではできるだけ自由に情報を共有できるようにしたいが、ネット外、あるいはそれで金儲けにつながるときは仁義を通せ、というだけのことだ。これは多くの素材集サイトの規約を見れば、同じように考える人は多いことがわかるし、また、それはごく普通の考え方であることも理解されるであろう。

 この観点から見ると、最近のブログサービスがブログ書籍化を睨んでユーザーの「著作者人格権の放棄」を求めようとして大きな反発をくらったことも、同じく「ネットでは自由だけど、書籍化して儲けるなら話は別」という点で共通しているといえる。

著作権に対する5つの態度

 このように、著作権についてはいろいろな次元、いろいろなレベルでの議論がある。ここに挙げた以外にも、JASRACの「著作権法を超えた制限の押しつけ」(たとえば著作権法では認められるはずの歌詞の引用に対する課金等)や、WinnyやWinMXによる著作物の流通などは大きな問題である。

 したがって、ここでそのすべてを概観するわけにはいかないが、おおざっぱにいって、

  1. 著作権を振りかざして権益を守ろうとする独占派
  2. 著作権を適正に守ろうとする著作権尊重派
  3. 著作権を守りつつ、他者の利用を柔軟にしようとするクリコモ/コピーレフト派
  4. 著作権なんか放棄してみんなに使ってもらおうとするパブリック・ドメイン派
  5. 著作権なんか知らないよという「ぱど厨」「NAVER厨」などジャイアニズム派

 といった人たちがネットに存在しており、特に「独占派」「ジャイアニズム派」とそれ以外の人たちと戦いを繰り広げているというのが現状だと思う(もちろん、2~4はそれぞれ適正だし、共存可能だと思う)。

 ところが、最近話題になっているのは、上記の5つのパターンとは少々毛色の異なる「第6の考え方」の持ち主への激しい批判である。それは、中国の方興東、日本の木村剛という二人の「ブログコミュニティ」宣教師への批判だ。

そっくりな方興東と木村剛

 少し前のエントリーで書いたが、中国で『博客(ブログ)』という本も書いてブログ普及に努めている方興東(ファン・シントン)という人物がいる。

 この記事に対しては中国のブロガーからトラックバックがあったが、この問題は本質的に「知的所有権(IPR)」の問題なのだ、という指摘だった。

 方氏の『博客』という本はわたしもずいぶん参考にしたし、はじめてのウェブログでもいくつか訳文を載せたものである。方氏の主張で特徴的なのは、

  • ブログは、メディアのオープンソース運動のためのツールである。
  • ブログは、ネットにおける新しいコミュニティである。
  • ブログは、マスメディアに対抗する新しいメディアである。

という3点が強調されていることだ。

 これは、まさに木村剛氏の主張とそっくりではないだろうか。いや、そっくりどころか、すっかりそのまま当てはまると言ってもいいだろう。「紙媒体での条件よりもずっと自由にネット上では転載を認めるべきだ」という主張はオープンソースあるいはコピーレフト的な主張である。2点目については言うまでもなく、週刊・木村剛をブログのポータルサイト化する野望を木村氏自身が書いているし、第3点はまったくそのまま。ブログを、既成マスメディアと対立する存在としてアピールしている。

激しい批判にさらされている方・木村両氏の「転載」

 しかし、この両者はともに激しい批判にさらされている。その批判される理由もよく似ているのだ。

 方氏は、自らの主宰する「博客中国」というブログポータルサイトで、多くの「素敵だと思った」記事をあちこちから転載してきて掲載している。それは出典も明記されているものの、全文転載のみでページが成り立っている。

 これに対して、中国で歴史の古いもう一つのブログポータルCNBlogの主催者たちが激しく批判している。博客中国は単にパクリサイトであって、知的所有権を侵害している、という観点である。

 木村氏も、自らの主宰する「週刊・木村剛」で、多くの「素敵だと思った」記事をあちこちから転載してきて掲載している。特に「Blog of the Week」は、出典も明記されているものの、適正な「引用」の域を遥かに超えた全文(または大量の)転載が主たる内容としてページが成り立っている。

 これに対して、多くのブロガーから批判的なトラックバックが集まった。木村氏を擁護する人の中には論点をずらす(あるいは論点を理解できていない)人も少なくないようだが、本当に「紹介」が目的であればリンクあるいはキモとなる部分の一部引用だけでもかまわないはずなのに、なぜこのような大量の「転載」(他者のものが主となっているときは引用とは呼べない)を繰り返すのか、という疑問だ。

 現在、木村氏はBlog of the Weekを中止するに至ったが、考え方を改めたからではなく、単に批判されるからやめただけにすぎない。

「著作権解放は俺のため派」のいやらしさ

 ここで注目したいのは、方・木村両氏が「著作権解放」を錦の御旗に掲げて「転載」というスタイルを取ったのに、オープンソースやコピーレフトに理解のあるブロガーから激しく批判を受けたということだ。言い換えれば、方・木村両氏の取った方法は、少なくともその表現された形としては、決して「著作権解放」ではなく、単なる「著作権侵害」でしかなかったということである。

 なぜここまでの批判を受けたのか。それは、「著作権解放」が「だれのため」であったかということがポイントとなる。

 方氏も木村氏も、自分の書いたものを「どうぞお使いください」という文脈ではなく、逆にみんなの書いたものを「別にこれくらいいいだろ」という文脈で「著作権解放」を主張している。つまり、「著作権解放は俺のため」なのだ。

 しかし、これまでのネット上での「著作権解放」は、パブリック・ドメインにしろ、コピーレフトにしろ、あるいはクリエイティブ・コモンズにしろ、すべて「自分の作品をみんなにも自由に使ってほしい」という主張であり、ライセンスなのである。つまり、自分の与えられた権利をわざわざ放棄することによって、ネット内外の社会に貢献しようという考え方である。もちろん、「使わせてください」もあるだろうが、「自分のもどうぞ」が言えなければどうしようもない。鋼の錬金術師風に言えば「等価交換」だ。

 だが、方氏も木村氏も、彼ら自身がどれだけのものを提供するのかという観点が欠けている。「著作権解放で理論武装したジャイアニズム」なのである。

木村剛氏は「著作権解放の等価交換」に耐えられるのか

 実はちょっと思いついた企画があった。他のブログの転載については、出典さえ明記してあればどんどんやるべきだ、という木村剛氏の主張を検証するために、出典明記の上で氏のブログをすべて「転載」した「ゴーログ@NAVER」をNAVERブログ上に開設する、というアイデアである。

 NAVERブログでは他人のブログの記事をそのまま取り込める「スクラップ」機能があるので、「スクラップ推奨」しておく。木村剛氏の言葉が本物なら、これは非常によろこばしいことのはずである。しかし、これに抗議するなら、彼は「自分のところに他人のものを取り込むのはいいが、同じように他人に自分のものを取り込まれるのは嫌」というダブルスタンダード、わかりやすく言えば「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」というジャイアニズムの持ち主であることが証明されるわけである。

 先に言っておくと、わたしは非常にいやらしい性格の持ち主で、相手の主張通りのことをやってさしあげることによってその矛盾を示すのが大好きである。ただ、今は非常に忙しいので、まだこのアイデアの実施にとりかかっていないだけなのだ。

おまけ:ブログコミュニティに「司会者」はいらない

 あともう一点、木村剛氏の「ブログコミュニティ」構想について大きな問題がある。それは、本来の文中リンク・参照・引用とコメントやトラックバックによって構築されるブログコミュニティには「司会者」の存在は想定されていないにもかかわらず、木村氏はそのコミュニティの「司会者」あるいは「主催者」になりたがろうとしている、ということだ。

 本来のブログコミュニティは、記事と記事のつながりによって自然発生的に生まれた「網」であろう。いくつかの情報の集結ポイントはあっても、基本的に分散型のネットワークである。しかし、木村剛氏のブログコミュニティは、週刊・木村剛を頂点とした中央集権型ネットワークなのだ。

 そして、木村剛に賛成してコミュニティに「隷属」するブログは「味方(弁護士の視点)」であり、逆に氏に反対し、木村剛コミュニティに入らないブログは、「敵(検事の視点)」なのである。あるいは、客観的に述べていれば、そのどちらでもない「第三者」なのだ。

 2ちゃんねるのネットウォッチ系の厨房どもは、あるサイトの読者を「信者」「敵対者」「ウォッチャー」の3種類に分けないと気が済まないようだが、木村剛氏もまったく同じレベルの認識しか持っていないようである。

 著作権解放主義を掲げた木村剛将軍様の独裁による中央集権ブログコミュニティ「週刊・木村剛民主主義人民共和国」は、決してブロゴスフィアにおいて中心的な役割を果たすことはありえないだろう……と書くと言い過ぎだろうか。まあ、ブログ界において、数々の話題はこれからも提供してくれるだろうけれど。

おまけ2:「このサイトに著作権はない」という言い方

 ところで。

 著作権完全フリーをうたう人の中には「このサイトには著作権がないので転載自由」とか「自分の書いたようなものに著作権を主張するのは恥ずかしいから主張しない」と発言する人が一部に存在している。しかし、これは著作権を知らない物言いだ。というのは、幼稚園児が落書きしたとしても、その瞬間に著作権は発生するのが日本の著作権法だからだ(ただし、ねこがキーボードを押して書いてる屑千代日記については、ねこの屑千代の著作権は認められないかもしれない。飼い主の著作権が発生するかもしれないが。笑)。

 それ以外に、「たんなる事実の列挙で編集していないもの」や「書籍のタイトル」などには著作権は発生しない(もっとも、商標登録されていれば著作権とは別のところで保護されることとなるが)。

 というわけで、「このサイトでは著作権を主張しないので転載自由」「著作権を放棄したので自由に使ってください」はOKである。そして、そのように主張することは著作権者の権利として守られている(「著作者を記させない権利」もあるわけだ)。ただし、著作者人格権は譲渡できない権利であることも確認する必要がある。

おまけ3:InternetArchiveとGoogleキャッシュはなぜ問題視されないのか

 無断転載も何でもかんでもOKと主張する「著作権アナーキズム」の人たちが必ず持ち出す論法がある。「無断転載などに抗議する人は、InternetArchiveやGoogleキャッシュについてなぜ何も言わないのか」と。

 InternetArchiveは過去のサイトをそのまま保存するものであり、Googleキャッシュも限定的とはいえ少し前のサイトをそのまま保存している。これこそ完全パクリなのに、なぜこれには文句を言わず、個人が転載したらガタガタ騒ぐのか、という理屈である。

 実は、今回の記事のなかでも、すでに消滅したサイト(嬲リンク関係)についてInternetArchiveへのリンクを張ってある。

 では、なぜ人間に全文(あるいは大幅に)転載されると気分が悪く、GoogleやInternetArchiveなら気にならないのか。いや、気になる人もいるだろうが、そういう人はすでにrobot.txtなどを使って自分のサイトのデータ取得を禁止しているだろうからとりあえず除外する。

 googleもInternetArchiveも、取得したデータが自分たちのものではなく、他者のサイトの内容であると明記している。そして、それがメインコンテンツである――と考えると、確かに木村剛のゴーログと何が違うのか、いや、そっちの方がひどいじゃないか、ということになるだろう。

 だが、これはいずれも「読ませる」ために更新されているものではない。検索の利便のためのものであり、あるいは現在のサイトが存在しないとか内容が違っているときに古いデータを参照するときのみに使われるのが基本だろう。あるいはサーバーが落ちているときに少し前のデータでいいから見たいときとか。または検索語をハイライト表示させるという使い方もあるが、ともあれ、「他のサイトを見るときにGoogleキャッシュでしか見ない」というのはよほどの変人だ。

 InternetArchiveも半年以上前のデータしか保存されていないし、Googleキャッシュは少し前のデータだけである。つまり、あくまでも非常手段あるいは一時的手段としてしか使われず、これらが本サイトに取って代わるおそれはないし、利用者もこれはあくまでも代替品と理解している。言い換えれば、これらは「現在」の自分のサイトへ読者を誘導することはあっても、それで読者を奪われてしまうという不安はない。

 そこでパクリサイトや必要以上の転載をするサイトがなぜ嫌なのかという。自分の努力して作ったもの、時間をかけて作ったデータを安直に持って行かれて、安直にコンテンツとして利用される。しかも、その目的は転載していったサイトの読者を増やすこと。純粋に紹介したいなら、必要な部分だけを適切に引用して紹介し、リンクするだけで目的が果たせるのに、木村剛ブログを見れば面白い記事を「転載者のサイト内で」読めてしまうから、結局、「木村剛がいろんなブログを利用してるな」としか感じられない。言い換えれば「木村剛サイトだけ見ていれば済む」感を与え、「木村剛サイトをブックマークさせ、そこだけ読ませる」ものとなってしまう。これが不快感の一つの要因であるように思う。

おまけのあとの結論:取り込みたがる人、与える人

 著作権完全解放の人たちの中には、本当に崇高な人たちがいて、自分たちの努力などみじんも見せず、さあどうぞご自由にお使いください、誰が作ったものかなんて忘れてください、と主張する。これは非常に素晴らしいことだ。

 だが、一般的にはそこまで行かず、やっぱり自分が作ったものをだれかが「俺が作ったもの」として公開していたら嫌な気になるだろう。自分の努力にただ乗りされて、自分にはメリットがないのにそれで儲けている奴がいるとか、そうでなくても安直にパクられるのは悔しいものである。

 パクるというのと、真似る・学ぶのは違う。すでにあるサイトを真似したとしても、それが敬意によってなされるのか、それとも安易に手間を省くためになされたのかによって、見え方はまるで異なってくる(かつて、ムーノーローカルというサイトのデザインを多くのサイトがまねするムーノーデーというのがあったが、あれをパクリと非難する人はだれもいない)。

 木村剛・方興東氏は、出典を示し、敬意をもって紹介しているようでありながら、実際にはそこに敬意は存在していなかった。いいと思ったから紹介している、というだけでは本当の敬意にはならない。なぜそれを「自分のブログの記事として」取り込む必要があるのか。そこに「俺のものにしたい」という根本的な発想が見えてくる。そこに「いやらしさ」が存在しているのである。

 木村剛氏はネットワーク全体に対して、一体、どのような貢献ができるのか。普通のネットワーカー、ブロガーならそんなことを考えなくてもいいだろうが、ブログ界においてリーダー的な立場に立ちたいという野望を持っている木村氏には、どのようなものをブログ界に「与える」のかを問わねばなるまい。

 もっとも、今、わたしの視点の中では、木村剛氏という個人にはほとんど興味がない。ネットにおける著作権問題の中で、木村剛、方興東、ぱど厨、NAVER厨、パクリサイトといった「著作権ジャイアニスト」のほんの一例にすぎないのである。

余談

 大学のとき、サークルの院生で「それぐらいしてくれたっていいじゃないか」が口癖の人がいた。もちろん、信望などはまったくなかった。どうして他人から進んで「してもらえない」のか、好意を受けられないのか、くれくれ君自身は気付かないようである。

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2005年1月24日09:31| 記事内容分類:ブログ/ウェブログ, 著作権| by 松永英明
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敢えて言うならば、違法行為を屁とも思わぬ者は
「社会にとっての敵対者」としか言い様が無いワケだが...。

もちろん、社会秩序が人間にとっての絶対的価値では無いわけで、
アナーキズムの自覚を持って戦っているならば一応の敬意は払いたい。
アナーキストがアナーキストとして主張するのは1つの意見として結構。
(法的リスクも全て承知の上での事だろうから、)
だが、やってる事がアナーキスト以外の何物でも無いのに、
アナーキズムではない、と主張しているようなのが理解に苦しむ。
統合失調か何かで自身の行動が理解出来てないのだろうか。

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