「物語派」と「キャラ萌え」と「属性萌え」の対立

 これはもうだいぶ以前からなのだが、小説やマンガなどの作品に接するとき、物語世界全体を総体的に楽しむ見方と、そうではなく、ある特定の登場人物(キャラクター)に思い入れる人たちがいて、この二つの立場の人たちはかなり相容れない場合が多かった(このブログ的に言うなら、それこそ「物語文化圏」と「キャラ文化圏」の衝突である)。

 さらに、特定の「登場人物」ではなく、「属性萌え」とでもいうべき現象が起こっていることは、東浩紀氏が提唱した話である。

 「物語」総体として受け入れるか、「キャラクター」に思い入れを込めるか、それとも特定の「属性」さえ有していればそれでいいのか。この3つの見方について、改めて思うところを書いてみる。

2006年12月13日17:27| 記事内容分類:創作活動| by 松永英明
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書こうと思ったきっかけ

 これは「キャラ萌え」の読み方をしている人が、「キャラ萌えは断片的な読み方ではない。キャラクターなくして物語はない」と主張している。しかし、これに非常に違和感を覚えたので、いろいろ書いてみる次第である。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会
講談社
東 浩紀(著)
発売日:2001-11
おすすめ度:3.5
おすすめ度5 時代の精神
おすすめ度5 解り辛いけど、解り易い。
おすすめ度5 サブカル系評論
おすすめ度3 オタクって・・;
おすすめ度4 オタク論と現代思想の融合の試み

キャラ萌え作家によるキャラ萌え小説だった「グインサーガ」

 高校のときに友人から薦められて読んだのが、栗本薫の超長編小説「グインサーガ」だった。当時はまだ二十数巻までしか出ていないときだったと思う。とりあえず、ロバート・アーヴィン・ハワードの「コナン」シリーズのような重々しい第一巻から始まり、最初のうちはヒロイックファンタシィ小説なのだと思って読んでいた。

 ところが、途中でどうも気になるところが出てきた。たとえば、荒野ノスフェラスから見て「北」とされていたケイロニアが地図上では「西」に当たるとか、グイン一行の日程をたどってみると日数が合わないとか、そういう「設定上の錯誤」が目につき始めたのである(その後、グインサーガ正誤表みたいなのを勝手に作ったこともある)。

 トールキンが言語・地理・歴史に至るまですべて細密に作り上げた『指輪物語』からファンタシィの世界に入った自分としては、このような「いい加減な設定」はとうてい許容できるものではなかった。だから、そういう錯誤が積み重なるにつれて、物語に入り込めなくなっていった。つまり、私は「物語派」だったわけだ。

 ところが、特にこれは女性読者にその傾向が強いように感じたのだが、そんなことはまるで関心の範囲外だというのである。それよりも「イシュトヴァーンがカッコイイ」とか「私はナリス様派」とか、そういう「キャラクターのファン」としての読み方をする人たちが多いようだった。いや、読み進めていくうちにわかったのだが、栗本薫という著者自身がそのような「キャラ萌え」的性向を有していたのである。40巻あたりでは延々とキャラクターの一人語りが続いたりもする(このへんで読むのを断念した)。だから、栗本薫にとっては、物語世界の整合性よりも、いかに登場人物を魅力的に書くかということが重要課題だったのだ。

一つの視線しか持たない「キャラ萌え」

 もちろん、物語にとって魅力的なキャラクターは重要な要素だし、キャラクターなくして物語はありえない。しかし、「ナリス様が好きだからイシュトヴァーンはむかつく」とか、「ヴァレリウスが登場するところしか読まない」とかいうような読者も実際にいたわけで、少なくとも世界ではなくその好きなキャラクターの角度から、一部分しか見ていないというのは否定できない事実だろう。

 いわゆる「物語」や「世界」を総体として楽しむ読者にとって、それはあまりにも偏った見方であると感じられる。なぜなら、物語派は、登場人物のそれぞれに感情移入し、多くの登場人物の視点で見ていく。その切り替えができず、ある固定された登場人物の立場でしか物事を見ない。それがキャラ萌え的読み方であるように感じられるのだ。もちろん、キャラ萌えの人が途中で「浮気」、つまり別のキャラにもはまったり、あるいは所属を変えてしまうこともあるが、それでも「すべての登場人物」に関心を持つことはない。あくまでも自分の関心あるキャラクターの言動のみ、自分の好きなキャラが活躍するか否かしかそこにはないのである。

「同盟」と「帝国」と「全体」に3分された銀英伝ファン

 田中芳樹の『銀河英雄伝説』という小説がある。ラインハルト率いる帝国軍と、ヤン・ウェンリーを中心として戦う同盟軍の二つの陣営に大きく分かれ、そこにいろいろな人物が絡んでくる。

 初めてSF大会というものに行ったとき、そこで銀英伝ファンが二派に分かれているのを目にした。一方は帝国側、もう一方は同盟側である。つまり、自分の思い入れのある「キャラクター」が属する陣営によって、作中人物のみならず読者までもが2つの陣営に分かれてしまっていたのだ(他にもフェザーン派や地球教派が考えられるが、それぞれ一派をなすほどの人数のファンがいなかった)。

 別に双方がケンカをするというほどではないのだが、帝国側にとっては同盟などは完全に「敵」であり、よくて「好敵手」である。同盟側にとっては帝国は圧政の象徴にほかならない。

 このような「銀英伝ファンの2陣営分裂」現象は、まさにキャラ萌え的な読み方をすることから生まれたものであった。もちろん、作品全体を通して受け入れる読み方をしている人が第3派として存在していたのは間違いないが、「熱心なファン」ほど、特定のあるキャラクターに思い入れをしている傾向があったように思われる。

 銀英伝については、田中芳樹氏自身はあくまでも作品世界全体を見通す作家だと思う。氏の理想は帝国でもなければ同盟でもなく、その融合した形、すなわち「法治主義に基づく優秀な指導者と民意を吸い上げる民主的プロセス」のようなものが理想政体だと主張しているように思われるのだが、そうなると、帝国と同盟のそれぞれの立場に立ち、さらに一度そこから離れて客観視することでようやく伝わるものであろう。

 単に「キルヒアイス素敵」という読者が本当に田中芳樹氏にとって「作品を読み取ってくれている読者」と感じられるかどうか――田中芳樹本人ではないから結論は出せないが、自分なら「読んでくれてありがとう」以上の感謝の気持ちは持てないと思う。

キャラ萌え的な読み方はしていなかった

 そういうわけで「この作品で一番好きなキャラクターは?」という質問そのものに違和感を感じるのが、物語派としての自分の実感である。指輪物語を原著も合わせて30回通読したのは、誰か一人の登場人物の活躍を読みたいからではない。スメアゴル・ゴクリとミスランディアとエオウィンの間に差違はない。そういう質問は「ロミオとジュリエット、どちらが好き?」というくらい、私にとっては意味のない質問である。

 よく聞かれるので、グインサーガならマリウス、銀英伝ならローゼンリッターのカスパー・リンツというふうに「お気に入りキャラ」は決めていたが、キャラ萌えの人から見たら愛情の足りないお気に入りっぷりであったろう。したがって、

いったんあるキャラを好きになってしまえば、そのキャラがほかのキャラと絡む、それだけである種の快楽性が生まれる。(Something Orange

というような読み方をしたことはなかった。あるいは、そのような内容を中心に据えた「キャラクター小説」には興味を持てなかったというべきか。要するに、物語世界を楽しむという観点からすれば、キャラ萌え的な読み方はなかなか受け入れがたい見方であった、という話である。

二次創作ではキャラ萌えが中心

 さて、作品へののめり込み方がさらに進めば、二次創作的同人誌を作る人たちが出てくる。つまりオリジナル創作ではなく、登場人物の世界観やキャラクターを借りて新たな別物語を作り上げるという行動につながっていく。そこにも世界観を中心としたものと、特定の人物についての外伝的物語(あるいはやおい的アレンジ)の2種類がある。

 テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームをやっていた人たちなら、そのゲームのリプレイ(ゲームの再現小説)を書いたりもしていた。これは必然的に世界観が大きな役割を果たすことになる。あるいは、作品についての総合的なファンジンを作ったりする人たちもいた。もちろんこれは物語世界の全体を扱うことになる。

 一方で、特定のキャラクターへの愛情を込めた外伝的物語は、世界観も他の登場人物もすべておまけにすぎない。しかし、このようなキャラクター的な読み方、キャラ萌えの傾向を持つ二次創作作品が大半を占めるというのが現状だと思われる。

物語とキャラ萌えの違い

 ここまで書いてくれば「物語派」と「キャラ萌え派」には大きな断絶があることがわかるだろう。Something Orangeでは伊藤剛氏の引用をさらにわかりやすくして、

 そのとき、シャアかっこいい、と感じるキャラ萌え心理と、このあとシャアはどうなるのだろうと期待する物語読みの心理と、このコマ割りの構図は巧いな、と感心するメタレベルの批評家心理は、同時に駆動されることがありえる、ということである。

 むしろそれは密接なかかわりあいをもちながら同時に立ち上がってくるというべきだろう。もしシャア=アズナブルというキャラクターに何の興味も抱けなければ、かれが危機に陥ったところでなんの関心も生じないに違いない。

 と書いて「キャラ萌えは作品を読む上での重要な要素」と主張しているのだが、それは肯定できない。なぜなら、「物語読み」の人たちは決して「キャラクターへの感情移入をしない」のではないからである。キャラクターへの感情移入なくして、作品にのめり込むことはありえない。したがって、「物語読み」の人たちがいつも冷めた冷静な目で見ているかのような見方は誤りである。

 では何が違うのか。キャラ萌えの人は、ある限定された人物にしか感情移入しない。他の人物に対しては敵視あるいは第三者としてしか見ない。シャアに感情移入したら、ララアには好意を持っても、アムロには敵対心を抱き、ギレンに対してはバカにする――たとえばこういう状況に陥るのがキャラ萌えの読み方である。

 一方、物語派の人たちは、多くのキャラクターに対して感情移入する。すべてとは言わないが、その物語に関わるすべての人たちの存在が重要である。つまり、すべての登場人物の立場から物語に参加するわけである。シャアに感情移入した後には、ララアの視線で見たり、アムロの立場で考えたり、ギレンの演説そのものに歴史的壮大さを感じたり――そうして1年戦争の全貌とその流れに興味を抱く。もちろん、感情移入しやすいキャラとそうでないキャラという違いは当然生まれるだろうが、そこから離脱して世界を見る余裕がある。それが物語派だ。

 言い換えれば、ある特定個人の内面に引き寄せられるキャラ萌え派と、人と人との外的関係に興味の強い物語派という位置づけもできるかもしれない。少なくとも、いい悪いは別にして、その視点には大きな違いがあるということは言い切っていいはずだ。

 大塚英志の『物語消費論』風にいえば、ビックリマンチョコの特定のカードに思い入れを持つことと、多くのカードから読み取れる壮大な物語に心を馳せることは、やはり違った視点だと言わざるを得ないのである。

アイドルグループファンにも見られる「グループ派」と「個人派」

 このような「全体」と「個人」への関心の違いは、アイドル系グループなどにも見られる特徴である。おニャン子クラブやモーニング娘。(ハロープロジェクト)のファン、あるいはSMAPやV6やw-inds.やKAT-TUNのファンという場合、やはり「グループ全体」が好きなのだというファンと、特定のメンバー好きという人たちで分かれてくる。もちろん、「あるメンバーが特に好きだが、グループ全体もやはり好き」という境界上の考え方もあって当然なのだが、どちらかといえば、小説などよりもはるかに個人への関心度が高いように思われる。

 つまり、キャンディーズファンなのか、ランちゃんのファンだからキャンディーズのコンサートを必ず見に行くのか、という軸足の違いがあるのだが、何となく全体から入っていくというよりは、たまたま見た誰か一人のメンバーに強く関心を抱いたのがきっかけということは多いはずだ。もちろん、何となく全体によさそうだから見ているうちに、特定の「推しメン」「自担」ができてくるという場合もあるだろうが。

 この場合でも、ファンの中で「グループ全体派」と「特定個人派」で微妙な温度差/軋轢が生まれたりすることもある。どこに主な関心があるかということは、やはりその対象のとらえ方の違いを生むのである。

歴史ファンにも「時代派」と「個人派」

 歴史ファンにも同じような傾向が見られる。

 最も顕著なのは、女性の新撰組ファンである。新撰組全般がとにかく好きという人もいるにはいるが、土方様のファン、沖田様のファン、斎藤様のファン、というような発言が非常に多く見られる。あるいは、男性なら坂本龍馬や織田信長や武田信玄といった人物に心酔するような場合である。これは、立場的には「キャラ萌え」であり、「特定個人派」といえよう。

 一方、時代物全般が好きという人たちもいる。幕末ものが好き、戦国ものが好き、という場合、もちろんその中にある程度のお気に入り人物がいたとしても、そこだけにとらわれるわけではない。幕末の動乱、戦国の乱世を、主人公の目を通して見ていくわけである。

 自分自身の場合、信長と聞くとなぜか殺したくなるので、必然的に松永久秀や明智光秀に感情移入してしまうわけだが、これはキャラ萌え的だ。しかし、光秀の一人称語りよりは、時代の状況全般を見通せる話に興味を持つという点で、やはり全体的傾向が強いようにも感じる。

さらに「属性萌え」

 世界、キャラ(人物)と来て、さらに細分化されたのが「属性萌え」、つまり「ねこみみ」や「ツインテール」や「メイド」といった性質と、それにまつわる様々なシチュエーションなどに対して関心を持つ状態である、といえる。

 「メイド萌え」と「メイド属性を持つキャラに萌える」というのは、厳密には別であるはずだが、結果的には(少なくとも表面的には)似た結果となるだろう。その辺はそれぞれの属性萌えの人に蕩々と語っていただくほうがいいと思うのだが、要するに「ある特徴」に対する強烈な好みが先にあり、そこからキャラクターが選ばれる、という流れは充分に考えられる。

 もちろん、キャラ萌えという場合にも、なぜそのキャラクターが気に入ったのかというときに、たとえばその性格が「ものごとをはっきり言う」点にあったり、「なぞめいている」ところにあったりする場合は、それが属性として抽出できるかもしれない。エヴァンゲリオンのアスカが好きな人は、アスカというキャラ全体というより、「ツンデレ属性」に萌えていたのかもしれない、ということは充分に考えられる。まあ、これは普通の恋愛だとか好みのタイプについても言えることではあるのだが。

 こういう話はきちんと境界線が引けるわけではないので、キャラ3割属性7割みたいな感じで考えるといいのだろうが、そういう数値化自体が主観的な話なので、まあどうでもいいといえばどうでもいい。ともあれ、その人の全体を見ているか、それともその一部の性質を強調しているか、という点で、視点の違いが出てくるといえる。

  • 世界全体=物語派←→世界の一部である人物=キャラ萌え
  • 人物の全体=キャラ萌え←→人物の一部の特徴=属性萌え

 こう書いてみると極めて当たり前のことでしかないのだが、視野の広さ、見ている範囲の違いは歴然としているといえよう。

物語派・キャラ萌え・属性萌えと「ヲタク度」

 ここでは厳密な言葉の定義には関わらず、私の印象で述べる。

 物語派(グループ派)→キャラ萌え(押しメン)→属性萌えと並べると、順にマニア度・ヲタク度が高くなるような気がする。もちろん、一概に言えることではないのだが、「一点集中」の度が高くなるにつれて、「マニアっぽさ」「アキバっぽい」感じが強まっていくように思われる。もちろん、マニアとかヲタクというのは、広く浅くより狭く深くの傾向があるわけだから、当然といえば当然かもしれない。

ラノベは「キャラ」&「属性(シチュエーション)」に重点

 本当に乱暴な言い方をすると、「ノベルズ」作品は「物語派」、「ライトノベル(ラノベ)」作品は「キャラ&属性」という傾向があるように思われる。

 もちろん、ノベルズも娯楽小説である以上はキャラクターを重視しなければいけないわけだが、それでも全体的には物語性を重視する(栗本薫などを除く)。

 一方、ラノベ作品は、キャラクターが重視される。キャラクター小説とも書かれるゆえんである。世界設定そのものは、単なる背景の書き割りといえよう。人物を通して世界観をかいま見せるようなストーリーではなく、キャラクターの言動そのものが注目の対象である。

 しかし、これも実は属性重視なのかもしれない。たとえば、お約束のパターン、お約束のシチュエーション、お約束のキャラクター。「お約束」を踏襲したり外したりすることがラノベの文法の要素として大きいように思われる。この「お約束」とはすなわちパターン、言い換えれば「属性」に当たるものではないか。その属性の組み合わせを変えて登場人物を作り出す。登場人物はパターンに当てはめられていく。逸脱させるにも、通常パターンを踏まえた上であるから、やはりパターンを前提に置いた展開となる。

 キャラクター造形がパターンに支配されている以上、ラノベには属性重視の傾向があるといって差し支えないように思われる。

 そこで、「サルまん」風に極端な表現をするならば、ラノベを書くなら世界設定などはある程度つじつまが合っていればそれでいい。ラノベの定型パターンを把握した上で、キャラクター中心に描け、ということになる。

最後に

 このように3つのとらえ方(作品の作り方&受け入れ方)が存在しているが、もちろんその3領域に断絶があるわけではなく、ある程度なだらかにつながっている部分もある。ただ、「世界と人のどちらをどの程度重視するか」「人と性質のどちらをどの程度重視するか」という重み付けにおいて、同じ作品なのにまるで違ったとらえ方をされる場合がある、というのは明らかな現実である。

 どちらがいい悪いではないが、異なる見方に対して「どうしてそういう見方しかできないのだろうか」と、主に視野の広い読者の側から批判的な言葉が投げかけられることが多い。そして、視野の狭い読者の側からは、自分たちを否定しないでほしい、むしろこういう見方はお前らだってやってるだろうが、という反発があった(ここで視野が広い狭いと書いているが、よい悪いと結びつけずに読んでほしい)。この対立は前世紀から今に至るまで、形を変えて続いているのである。

 で、商業作品を書く立場に近い自分からすれば、読者対象に合わせた書き方をするとか、あるいは自分の書きたいものの読者対象がどういう層なのかを認識しておくことが必要なので、こういう風にマーケット分析をしてみたくなるのであった。

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特定の著者の作品の絵づら、構図、文体、構成が好きである「作家萌え」というのも存在しますよね。ガンダムでいうと富野信者、私はそうです(笑)
物語派、萌え派どちらもバランスよくファンとして獲得できる作品が、作者として、いちばん安泰ではないでしょうか。これは物語派を読者、萌え派を購買者ととらえる物語派的な意見ですが。

表現を借りると、視野が「狭い」「広い」だけでなく、「浅い」「深い」という軸もあるんじゃないでしょうか!
広く物語を見渡す目と、キャラ心理などに対して深く理解する目というイメージです。
両者は並立できるし、どちらも持てない場合もある。
また他の視点として、シチュエーション萌え!とか、↑のmikazukiさんの言う作家萌え!というものもありそうです。
作品を鑑賞する軸というのは、こうして考えると、3次元、4次元に複雑に絡み合い、あまり安易な単純化は出来ない気もします。

・・とはいえリソースは有限だから、個人の趣向によって、どれをある程度重視していくかという比重の違いは出てくる。

右翼左翼の罵り合いと同様に、比重の違うだけの相手が「相手は○○を全く考慮していない」と見えてしまい、つい煽ってしまう。
ただそれだけのことだと思うのですよー。

対立という視点からすると「属性萌え」については触れなくてよかったのかもしれませんね。あくまで印象なのですが、「属性萌え」というのは他のふたつとカテゴリの分け方と位相が少しずれているのではないのかなと思いました。べつに属性萌えを否定するということではありません。この区分けを入れるから、作家萌えもあるし、シチュエーション萌えもあるだろと言えてしまうのかなと。
マクロな区分けとしての物語派、キャラ派に二分化させて話を単純化させた方が、たがいの対立という論旨についてより明確に論述できたのではないでしょうか。えらそうですね、失礼しました。
Tasoさんの言うとおり、各人の楽しみかたのウェイトがあるんだからほっとけよと思うんですけどね。気に食わないならそういえばいいのに、余計な理論武装までして、全体主義的に相手の思考をまるごと変えてやろうとまでする必要はないのでないでしょうか。人格攻撃は論外です。

■物語とキャラ萌えの違い の要旨は
「キャラ萌えは作品を読む上での重要な要素」が肯定できないということではなく、「キャラ萌え≠キャラクターへの感情移入」ということであり、単に伊藤剛と松永英明ではキャラ萌えの定義が違いますよってだけ話だと思うんですけど

根本的な勘違いがある。
キャラAに萌える人は、Aには感情移入しない。
Aの外面を眺める立場にこそ、自分を置く。

広くて奥まっていて材木とか土管とか色々置いてあるステキな空き地が用意されて、みんなでそこで遊ぶわけですよ
そんでタカオニやって遊んでたら、お前らは遊び方が矮狭だと、ケイドロこそこの空き地を利用するに相応しい遊びなのにまったく恥ずかしい奴らだと、
いちゃもんですよいちゃもん

米9に同意。キャラ萌はなんか応援に近い。運動会で我が子が出たら嬉しいみたいな。共感ではなく「味方」なんですよね。身内の敵は自分の敵な感じであるから、キャラ抗争なんてのがあるんだと思います。

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