「ググる」は「考える」ためのとっかかりを探すこと

Life is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?の記事を発端に、「ググる」ことと「考える」ことの関係についての議論がいくつかのブログで行なわれている。

これらの議論は、切り口は異なるものの、いずれも妥当な問題意識の上に成り立っていると思う。その上で、屋上屋を重ねる形で、リテラシーという観点から述べるならば、「ググって得られる情報を鵜呑みにするのはリテラシー不足」ということになろうかと思う。

2008年6月19日23:18| 記事内容分類:メディアリテラシー| by 松永英明
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ググったところで終わりじゃない

今回の議論の発端は中島聡さんのこの記事であった。

学生たちに小論文の課題を与えたら、同じようなものばかり出てきた。それはググってコピペしたものばかりだったからだ。

私が問題視するのは「自分で考える前にまずググる」習慣であり、「ググれば答えが見つかるにちがいない」という錯覚である。

中島さんの論点は明快である。

特に仕事でネットを使う時には、ネットにはでたらめな情報・勝手な意見があふれている、ということをキチンと認識した上で使いこなしてほしいということ。

 難しい問題に直面したときに、自分で考える前にまずググって答えを探してしまっていませんか?ネットで見つけた解決方法をろくに考えずもせずに採用してしまっていませんか?

これはまさに、リテラシーの問題である。ただ、「自分で考える前にググっていませんか?」という表題は、内容を適切に表わしていないように思う。中島さんの論点は「考えてからググれ」ではなく、「ググった結果を鵜呑みにするな」だからである。

そこで、二つのブログがこの記事に反応している。そちらのタイトルは適切だと思う。

ぼくは自分の考えというものにあまり期待していない。自分が考える程度のことは誰かがとうに考えている。そう思っている。自分ひとりの考えには限界がありすぎる、そういう自覚がある。そんなぼくにとって「ググる」ことは、自分の小さな限界を広げるための手段となる。

求められるのは自分なりの答え、という広義での「答え」である。他人の「答え」を見て思考停止するのは、思考の愉しみを放棄することである。

問題は単一の情報源で満足し、その内容を検討せずにコピーしたりすることである。

どちらもそのとおりである。というより、中島さんのミスリード的(とあえて言う)タイトルに引っ張られて、「ググる」と「考える」の順序を問題にしているかのようなタイトルになってしまっている。しかし、言っていることは三者とも同じことなのだ。「ググった結果をちゃんと検討しないとね」という点で、いずれも同じことを言っている。

情報の断片の海面から、根拠ある情報の海底へダイブしよう

そこで、私もこれらの見解を肯定した上で、さらに屋上屋を重ねる形で少し述べてみたいと思う。

果たして、ググって見つかるものは何なのか。それは、単に「ネット上にこういう情報を載せている人がいた」という事実を表わしているにほかならない。その情報の正確性や妥当性についての担保はまったくないのである。(綴り字や誤字脱字を正してくれる辞書としては極めて役立つのだが)

ある意味、ネットでは「声の大きい者勝ち」という側面もある。報道サイトなどの記事は、数多くのブログで特に検証されることもなくただコピペされ、何の検証もなく拡大再生産されていくことが多い。それは、「多くの人がこの情報を受け入れた」という事実を示しているが、だからといってその内容が適切なのかどうなのかについては、まったく触れられていないのである。

では、ウィキペディアに載っていたら大丈夫なのか。私自身もよくウィキペディアの記事を参照することがある。しかし、ウィキペディアは「集合知」である。そして、ウィキペディアの編集方針に明記されているとおり、ある程度の査読精度のある報道機関による報道など(「信頼できる情報源」)の集大成をする場所がウィキペディアである。つまり、内容が正しいかどうかについてはウィキペディア内ではまったく検証せず、ただ論文や大メディアで報じられたことをまとめることになっている。

「ウィキペディアに載っているから正しいだろう」と鵜呑みにするのは、知的態度として根本的に間違っているのである。

それでも、私はググるし、ウィキペディアを参照する。なぜなら、自分が調べたいことについて、何を調べればいいのか、どういう言葉をキーワードにすればよいのか、といったことがわかるからである。つまり、「ググる」というのは「答えを見つける」のではなく、「ヒントを拾い集める」というのと同義なのである。

それから大切になるのは、できる限り一次情報に近い情報へとダイブしていくことである。ググって見つかる情報の浮かんでいる海面から、本当に必要な海底の原情報へと近づいていかなければならない。

それは、ネットで調べがつくこともあるし、図書館に行かなければならない場合もある。プレミアのついた古書を買わねばならないかもしれない。ときには、実際に当事者・関係者などに問い合わせなければならないこともあるだろう。

そして、ある程度確信の持てる情報が手にはいるまで、判断は保留しなければならない。「こうに違いない」「ああに決まっている」という「自分の独自の考え」は、途中までは邪魔である。なぜなら、自分の思いこみに合わせて証拠を解釈してしまいかねないからだ。充分な根拠があると確信できる情報が手にはいるまでは、決して結論を出してはならない。

しかし、そうやって少しずつ情報をたどっていくことは、極めて知的スリルに満ちたことである。性格もあるのかもしれないが、わたしは根源的情報に近づくにつれて、ワクワクする。そして、これだというポイントにたどり着いたとき、わたしは歓喜する。

秋葉「犯行予告」への道

たとえば、今回のアキバ無差別殺人事件について、私は、【秋葉原通り魔事件】これは本当の犯行予告か? - エアロプレイン-で、無料掲示板サービス・メガビューの「究極交流掲示板(改)」掲示板の「秋葉原で人を殺します」スレッドで犯行予告らしきものが書かれていた、という情報を得た。そこで「わかった」と安心してしまうのは、私の流儀ではない。実際に携帯を持ってきて、実際にアクセスしてみた。そして、読んでみたところ、自分なりに「これは本物ではないか」という感触を得たので、それをPCで書き写したのだった。

そして翌朝、もう一度「究改」を読んでみたら、「俺も話し相手をしていた“不細工”が立てたスレッドはここ」という感じで、「【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】」スレッドへのリンクがあった。そこには3000件の投稿があった。PCからは接続できない設定になっていたので、携帯で飛び飛びに読んでいく。1ページあたり10件しか表示されないので、非常にもどかしい作業だった。

しかし、断片的に伺える情報は、加藤容疑者の前日までの行動を指し示しているのではないかというキーワードに満ちあふれていた。「福井市でナイフを購入」「前日、秋葉へ」……わたしは、これは本物の可能性があると思い、まずは投稿者の行動に関する投稿をPCに書き写していった。そして、それは警察発表の供述と見事に一致していた。これは間違いない。

ある程度「写経」を続けたところで、それまで記録に残さなかった部分が気になってきた。それは、投稿者の感情を表現した部分だ。最初は単なる愚痴だと思ってとばしていたが、本人の投稿であるとすれば、むしろそこが動機につながる重要な部分である。わたしはもう一度、同じところを読み直し、写経し続けた。

そうして記録したのが、「閾ペディアことのは退避場所 - 秋葉原通り魔事件」に公開した、5月19日~20日、ならびに6月3日~事件当日までの掲示板ログ抜粋である。

なぜ全てではないのか。それは、ここまで記録した翌朝、起きてきたら掲示板が非公開にされていたからである。

マスメディア各社もこのスレッドには注目していた。しかし、きちんとメモを取り切れていなかったようだ。完全な記録を持っている社はなかったようで、わたしのまとめサイトに連絡が次々舞い込んだ。この情報が重要だと気付いた人は多くいたはずだが、それを写経するというバカげた努力をする酔狂な人はほとんどいなかったようだ。

そういうわけで、わたしは加藤容疑者による一次情報を配布する立場になってしまった。それは決して予期していたことではない。しかし、少なくともわたしにとって、「報道された加藤容疑者の言葉」を見ただけでは満足することができず、実際の加藤容疑者の書き込みそのもの(一次情報)を見なければ気が済まなかったというのは事実である。

(実は、これとは別に、加藤容疑者が残した約1000スレッドを現在保存中である。データがまとまったら公開する)

判断を保留する知的勇気

多少、話がずれた。要するに、本当に必要な情報にたどり着こうという気があれば、ググって見つかる程度の情報で満足はできまい。必ずや根本的な情報に向かって進み、最終的に納得できる情報を見つけ、その確固たるデータに基づいて自分の考えを構築するだろう。そうなれば、何となく受け売りの知識で話すのとは比較にならないほど、広い視野に立って厳密な考え方を述べることができるようになるはずである。

しかし、ググっておしまい、という人は、非常に不安定な状態に置かれる。なぜなら、ググった段階では、矛盾する情報が引っかかるため、錯乱してしまいかねないからだ。あるいは、声の大きな(ページランクの高い)情報だけを採用し、他の重要な情報に気づかず、素通りしてしまう危険もある。

もちろん、根本的な情報にたどり着くだけの時間と労力がかけられないこともある。そんなとき、「今自分が得ている情報は、中途の段階のものである」という認識をしっかり持てるかどうか。それが、冒頭の中島さんの提言とつながっていく。「このことについて、わたしは○とも×とも言えるだけの根拠を持っていないが、どちらかといえば○といえる材料が多いように見受けられる」と、最終的な判断を保留する勇気が持てるかどうかというのは、非常に重要なことだと思う。

あえて言おう。充分に確信できるだけのデータがそろわないうちは、判断を保留すること。それは、一見、「思考停止」にも見えるかもしれない。しかし、いわゆる「疑似科学」の論理に陥らないようにするには、極めて必要な思考態度だと思うのである。

Mr. Danの別話

さて、以下、補記的に。小飼弾氏は、話題になっているテーマを取り上げながら、自分流の話に持って行くのが得意なのだが、今回もそういう感じである。

ここでは、自分の文章を大いにコピペしてほしい、ただし出典明記の上で、という話が展開されている。そのこと自体はわたしも同意する。出典さえはっきりさせてもらえば、わたしの書いたものが採用されるのは非常にうれしいことでもある。

で、本題からどんどんずれていく弾氏につきあってみよう。

One more thing. 人の言葉を自分の言葉にしたかったら、(cmd|ctrl)-C + (cmd|ctrl)-V よりも、自分で打ち直した方がいい。いわゆる写経って奴だ。コピペはあまりに簡単なので、コピペした本人すら忘れてしまう。覚えたかったら、ある程度筋肉を使うやり方のほうがいい。「メモは手書き」にこだわる人が少なくないのにはわけがある。

これは、まったくもってそのとおりだと思う。わたしは合計1000ほどの加藤容疑者の投稿(と思われるもの)を、携帯の画面で見ながらPC上で入力していった。まさに「写経」だった。おかげで肩は凝るわ、腱鞘炎気味になるわで大変であった。しかし、彼の投稿を入力していって、彼の心境が伝わってくるような気がした。それは、共感するとか同意するとかいうことではない。むしろ「どんだけネガティブやねん! お前は太宰か!」と突っ込みたくなる内容が大半だったが、少なからず彼の思考回路をかいま見ることができたような気がする。そして、写経していて、彼の独特の言葉のリズム感や、彼の独特の考え方にだんだん馴染んできて、彼の言葉か、他人の言葉かの区別が(おおよそ)つくようになっていった。

「写経」は、決して無駄ではない。たとえウィキペディアの引き写しをしていたとしても、自分で入力しなおしていたら、何となく根拠の弱い部分などに気づくのではないだろうか。

蛇足:「確信犯」

蛇足であるが、中島さんは“確信犯的に「徹底的に手を抜きたいからコピペしているだけ」ならまだ許せる”と述べている。この「確信犯的」という言葉の使い方は、いわゆる「誤用“確信犯”」である。

簡単に言えば、「これは正しいことであって、社会の方が間違っているのだ」と確信して悪いことを行なうのが、本来の「確信犯」の意味であり、「本当は悪いことだってわかってるんだけどやっちゃうよ」という必要悪みたいな感じで悪いことをやるのを「確信犯的」と呼ぶのは誤った用法なのである。

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2008年6月19日23:18| 記事内容分類:メディアリテラシー| by 松永英明
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「写経」のくだりに、
思わず「肉体言語」というコトバを思い出して
しましました。
文字通り、「コトバが“血肉になる”」(笑)
冗談抜きで、視覚を通して“意味”として一旦脳内に捉えられた情報が
「書く」という出力行為によってさらに脳内に定着するから
なのでしょうね。

ググって得た情報も、それを「そのままコピペ」
ではなく、一旦己の脳内を経由することで
(思考という名の「脳の体操」を経る事で)
己が“血肉”としてから再出力する事こそに
意味がある、といった所でしょうか。
いわば「思考の“肉体言語”」(笑)です。

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