長野の戦争遺跡訪問【1】松代大本営象山地下壕

6月28日~29日、東大・立教大の立花隆ゼミで、長野県の戦争遺跡を訪ねるツアーが行なわれた。立花隆氏とゼミ生ならびに立花隆事務所関係者の参加するツアーであったが、どういうわけかそこに参加させてもらえることになったので、同行させてもらった。地元の人たちによる説明も受けられて、なかなか興味深かったので、写真を中心に記録を残しておきたい。

全行程

  • 6月28日:長野俊英高校 土屋光男副校長、同校郷土研究班の案内
    • 松代大本営地下壕:イ地区・象山地下壕
    • 「信州松代 れきみちの家」
    • 松代大本営地下壕:ロ地区・舞鶴山地下壕
    • その後、地元新聞記者の方の話
  • 6月29日:松本第一高校 平川豊志先生
    • 松本市里山辺地下工場(名古屋三菱航空機製作所)

なお、この記録は、立花隆氏を含む他の参加者の意見を反映していないことをあらかじめ断っておく。他の参加者はそれぞれに別の感想や考え方を持っているはずである。

2008年7月15日01:16| 記事内容分類:日本史| by 松永英明
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前段

長野市松代(江戸時代には真田氏が治めていた)に、大東亜戦争末期、大規模な地下壕が作られて、本土決戦に備えて大本営や天皇陛下、NHKなど政府中枢が疎開する予定であった、という概要は知っていた。しかし、さすがにその程度の知識で行っても仕方ないだろう。ということで、事前にいくつかの本で予習をした。

読み始めて不安になった。「日本人の加害責任」だとか「朝鮮人強制連行」について強調されている本が多かったからである(全部がそうというわけではないのだが、そういう論点が強調されているものが記憶に残った)。自分としては、小林よしのりだの新しい教科書を作る会だのの歴史観はあまりにも「自高・自大史観」が行きすぎていると思っているが、逆に一億総懺悔だのといった「日本はすべて加害者、中国朝鮮はみな被害者」というのも受け付けない(などと言うと、右からも左からも攻撃を受けかねないのが現状なのだが)。いずれにしても、戦争遺跡を見学するだけで、「侵略戦争の反省の思いを込めて」というような背景を持っていると受け取られかねないということには、少々危惧を覚えた。

しかし、わたしは何でも実際に見てから感想なり評価なりをすればいいと思っている。もしかしたら、案内の人とは全く違った感慨を抱くかもしれないが、それはそれで行ってからの話だ。

――そう思っていたら、よい方に期待を裏切られたのが今回の長野行であった。

松代

長野新幹線で長野駅に集合。その後、全員で松代に向かう。「れきみちの家」で車を降りて、徒歩で象山地下壕へ。

江戸時代以来、真田氏の城下町であった松代。佐久間象山をはじめとする思想家を生み出した地でもある。

山寺常山邸。

恵明禅寺。土屋先生によると、この寺の娘さんが、朝鮮からやってきたイケメン労働者と恋に落ちて結婚したという話があるらしい。この話は「日本人=加害者、朝鮮人=被害者」という一面的な見方を打ち消すものとなりえる。土屋先生があえてこの話を強調した意味については、あとでわかることになる。

松代大本営 象山地下壕


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さて、いよいよ象山地下壕である。昭和19年11月、本土決戦を控えて政府機能を松代に疎開させる計画が立てられた。この象山の地下壕には、政府機関やNHKが入ることを想定されていた。終戦を迎え、未完成のままに終わったが、その内部は現在、一部が公開されている。

象山地下壕入り口。

長野俊英高校の土屋副校長が先頭に立ち、立花隆氏以下一同、地下壕へ入る。

地下壕内は暗い。

長野俊英高校郷土研究班の生徒たちが、手書きの図解などを使って解説してくれる。

地下壕は山腹の少し高いところから掘られていた。掘り出した石屑(ズリという)を下に落とせるようにである。さもないと入り口がズリで埋まってしまうのだ。

削岩機の図解。「削岩機は、コンプレッサーから送られる圧縮空気を操作する搾手部と、回転する鉄棒のロッド部と、その先端についた岩を砕くビットから成っている。当時はこの削岩機により岩に穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛け破砕した。この時抜けなくなったロッドが壕内に数本ある。なお、削岩機のロッドによる穴跡は壁面に無数に残っている」(案内板より)。天井に、先端部のロッドが突き刺さったまま残っている。

トンネルが格子状に掘られているだけで、ホールや部屋のようなものがあるわけではない。しかし、このトンネルそのものが部屋となるように作られていたようである。

トンネル内をマツやヒノキの木材で囲い、部屋と通路に仕切っていた。ただし、その木材は戦後持ち去られたようである。

坑内をさらに歩く。

終戦後、労働者が壕内に落書きしたものと思われる。左は当初「大阪」と思われた時期もあったが、現在は韓国の地名「大邱(テグ)」とされている。おそらくは労働者の出身地であろう。右の図は、当初は水兵の図とされていたこともあったが、現在は韓国の伝統衣装・帽子をかぶった人の図であるとされている。

ズリを壕外に運び出すためのトロッコ枕木の跡が残っている。「壕内で掘った石屑(ズリ)はトロッコに乗せて壕外に搬出された。トロッコは土木工事用の運搬手押し4輪台車で、枕木によって固定されたレール(軌条)上を走行していた。その枕木の周囲に砂が落ち凹ができた。その凹の跡が当時の作業を如実に物語っている」(案内板より)

さらに壕を進む。当日、外は結構気温が高かったが、壕の中はひんやりしている。なお、この壕はかなりしっかりとした造りらしく、地震などによってもほとんど崩れていないらしい。

写真左に削岩機ロッド掘削跡の穴がある。「壁面の穴は、壕内に多数残されている。この穴は、削岩機で岩石をくり抜いた後、ダイナマイトを仕掛けるためにあけられたものといわれている。また、削岩機で壁面を削った跡も、壕内のいたる所に残されている」(案内板より)

天井の「測点跡」。「壕を精巧な網の目状に掘削するにあたり、壕の東西・水平を測量した跡といわれている。天井に四角い杭がささっており、その先には釘の先端が残されているが、これは測量時に測量器をぶら下げたものと考えられている」(案内板より)

公開されている場所の一番奥で解説する土屋先生。

土屋先生は、この地下壕を「朝鮮人に対する加害遺跡」だとか「強制連行されてきた朝鮮人を死に至らしめた場所」とみなすことには賛同していないようだ。突き当たり右手には千羽鶴などが飾られているが、これについてもあまりよく思っていない風だった。

確かにこの松代大本営を作るのに朝鮮人が強制連行されてきたという事実はあるが、そこでどれだけの虐待があったのかといえば疑問だという(この話は後でも記す)。たとえば、死者が出たという記録が数人分しか認められない。土屋先生もこの工事における死亡者を探そうと、長年にわたって必死で努力し続けてきたが、いくつかの事故の記録が見つかる程度だという。

強制連行されてきた朝鮮人はおよそ7000人。だが、それ以外に、3000人の日本人も労働していた。また、恵明禅寺の娘さんと朝鮮人労働者の結婚話にもあったとおり、現地日本人と朝鮮人強制労働従事者の間には暖かい交流も実際に存在していた。こういった事実を踏まえて考えると、この戦争遺跡を「日本から朝鮮への加害の場」ととらえることは、史実に反することであり、何らかのイデオロギーが先行しているということになりかねない。

ここを韓国の学生が訪れて慰霊の祈りを捧げたりすることもあるそうだが、そういう場所じゃないだろ、というような話っぷりで、わたしとしては非常に共感した。

平和教育あるいは平和運動の観点から、この松代大本営を残そうというグループは、ここ松代にもいくつかあるらしい。そして、それぞれが少しずつ違った立場で主張しているという。その中にはもちろん、「強制連行・慰安婦の歴史を語る遺産」としてとらえるものもある。

そのような状況の中で踏まえれば、土屋先生は、歴史的事実を重視する立場であるように思われた。この点については後でもさらに述べるが、壕内でのお話について、わたしは非常にバランスの取れた説明だと感じた。

この松代大本営が、本土決戦まで追いつめられた当時の政府の無能ぶりを示していることについては、異論はない。しかし、ここを「日本人が朝鮮人強制連行を行なった加害の地/朝鮮人への慰霊の地」として扱うことについて、わたしは反対である。

また、長野俊英高校郷土研究班の生徒たちの解説も、事実を淡々と解説するもので、非常によかったと思う。失礼極まりないことだが、壕の中で高校の生徒がボランティア的に解説してくれると聞いたとき、わたしは、「もしかしてアカ教師に吹き込まれたことをそのまま感情的に伝える反戦高校生じゃないだろうな」などと思ってしまったのだった。だが、それはまったくの見当外れで、生徒たちも自分で見て、いろいろな人たちに話を聞いて、その上で自分の考えをまとめようとしていた。

続く。

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