幸福実現党の研究(12)映画「仏陀再誕」徹底分析

公開前日に駅前で簡単なアンケートに答えるとただでチケットがもらえた幸福の科学の映画「仏陀再誕」。無駄にするのももったいないので、幸福実現党の研究の一環として、先日、丸の内TOEI1にて観賞してきた。

再誕の仏陀として描かれる「空野太陽」のルックスが、大川隆法氏の長男・大川宏洋氏と、あろうことか元オウム真理教マイトレーヤ正大師こと「ひかりの輪」代表・上祐史浩氏を足して割ったようであったのが最大のツッコミどころであろう。

空野太陽

結論から言えば、仏陀は再誕せず、大川隆法氏はゴータマ・ブッダの再誕ではなく、幸福の科学は仏陀の教えを知らず、映画としてはストーリーが甘い。

この映画について、硬軟両面から研究分析を進めてみたい。なお、以下の文章でゴータマ・ブッダと記しているのは、いわゆるお釈迦様、釈尊、釈迦牟尼仏のことである。

2009年11月 3日00:35| 記事内容分類:宗教・神話学, 幸福実現党の研究, 映画| by 松永英明
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本物の仏陀「空野太陽」は上祐史浩氏にそっくりだった

もはやこれはキャラクターデザインのミスとしか言いようがないだろう。おそらくは大川隆法総裁の長男で総裁室長、本作の企画脚本を担当している大川宏洋(おおかわひろし)氏をイメージしたかったのだろうが……

大川隆法・大川宏洋

残念ながらどう見ても、かつてオウム真理教でマイトレーヤ正大師としてロシア支部長や緊急対策本部長などをつとめ、後継団体の一つアレフ(アーレフ)において代表となり、その後分離してもう一つ別のオウム真理教系後継団体「ひかりの輪」を主催している上祐史浩氏そっくりなのである。

空野太陽 joyu1.jpg

上祐史浩右はおまけ。2001年ごろスワミ・ヴィヴェーカーナンダの生まれ変わりと自称していた上祐氏が、ヴィヴェーカーナンダのポーズを真似て撮影した『覚醒新世紀』の表紙画像である。

なお、大川総裁の息子だからといって、大川宏洋氏がラーフラということは特にないようである。

仏陀再誕を主張する大川隆法氏

では、この研究シリーズの常として、幸福の科学による文章を正確に引用しよう。映画館でパンフと一緒に購入した『仏陀再誕』(携帯版)のまえがきである。

今から二千五百数十年前、
インドの霊鷲山にて、
マガダ国の首府ラージャグリハ(王舎城)の街を
見おろしながら、
弟子たちに説法した、
あの感慨が蘇ってきます。

あの頃、あなたがたは、頭を丸め、柿色に染めたそまつな衣を身にまとって、
私の法話に随喜の涙を流していました。

時代は変わり、国名も変わり、
あなたがたの服装も変わりました。
しかし、仏法真理を感じとる心は同じでしょう。

師と弟子とは、法によって、永遠に結ばれています。
仏―法―僧は一体です。
この永遠の書を、再びあなたがたに贈ります。

   幸福の科学総裁  大川隆法

二千五百年前の「感慨」を語っている以上、大川隆法総裁自身がゴータマ・ブッダであったという宣言である。ブッダの霊言ではない。大川総裁が再誕したブッダ自身として語っているのである。

しかし、そもそも「仏陀再誕」というタイトル自体が仏教(その中でも特にゴータマ・ブッダの教え)と完全に矛盾する。すなわち、ブッダの教えを知っているならば「仏陀再誕」という言葉は出てこないし、「仏陀再誕」という言葉を使うならブッダを知らないということになる。あるいは、「私はブッダの再誕である」と主張する人は、絶対にブッダではない。

ブッダは再誕せず、再誕しないのがブッダ

そもそも、仏教において、ブッダとは何か。これは、普通名詞としてのブッダすなわち「覚醒した人」(覚者)であると解釈することもできるし、あるいは2500年前にネパール・インド方面で活躍したゴータマという名のブッダ個人を指すとも解釈できる。

幸福の科学では、大川隆法氏がゴータマ・ブッダの再誕であると考えているようなので、どちらの意味も含むと思われるが、そのどちらもが仏教において成り立たない。一般的にブッダが「再誕」しうると考えたり、あるいはゴータマ・ブッダがその後また人間として「再誕」してくるなどという教えは、少なくともゴータマ・ブッダの教えとは完全に矛盾するのである。

まず、普通名詞としての「ブッダ」から検討しよう――と思うが、これについてはすでに日本テーラワーダ仏教協会に所属する佐藤哲朗さんの明快なブログ記事があるので、こちらを参照していただきたい。

この二つめの記事でも指摘されているが、ゴータマ・ブッダ自身が生まれたときに語ったという「天上天下唯我独尊」の言葉を全文読めば、ブッダは二度と「生存」しないことが堂々と宣言されている。

私は世界の第一人者である、私は世界の最年長者である、私は世界の最勝者である、これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない

「生存」そのものから解脱する存在、それがブッダなのである。もしまた生まれてくるようなら、それはブッダではなかったということになる。つまり、「再誕」という言葉を使うのであれば、再誕したとされた人はそもそもブッダでなかったということになるわけである。「仏陀再誕」とは、ある意味、ゴータマ・ブッダに対する大いなる冒涜ともとれよう。

ゴータマ・ブッダは再誕しない

次に、ゴータマ・ブッダという特定のブッダの再誕もありえないことを示そう。

たとえば、仏陀再誕という言葉があたかも仏典に根拠をもつかのごときデマ情報を流布しているサイトがある。仏陀再誕の予言 - Prophesy on Rebirth of Buddhaでは、このように書かれている。

仏陀・釈尊(ゴータマ・シッダールタ)は、過去七仏(かこしちぶつ)として、釈尊以前に転生していただけではない。未来にも再誕することを、二千六百年前に予言していた。

これと同趣旨の内容が「仏陀再誕」パンフレットにも書かれているので、引用する。

現代インドに伝わる「仏陀再誕」伝説

 インドの観光都市オーランガバード近くの渓谷にある、アジャンター石窟寺院。世界文化遺産のその石窟群のひとつに、「過去七仏と未来仏」の壁画がある。

 ここに描かれているのは7人の仏陀。左から、6人目までが「過去仏」。7番目がお釈迦さま(ゴーダマ・シッダールタ)、そして8番目が「未来仏」だ。未来仏は王冠をかぶり、ネックレスやブレスレットを身につけ、洋服を着ている。つまり、お釈迦さまが未来に生まれ変わること(仏陀再誕)を予言しているのだ。

この記述は全面的に間違っている。「ゴー"ダ"マ」は誤植として、過去七仏は、ゴータマ・ブッダが転生したものではないし、未来仏メッテーヤ(マイトレーヤ)はお釈迦さまが転生するものではない。まったく別人物(あるいは別仏陀)である。

ゴータマがかつてスメーダという名前であったとき、ディーパンカラ・ブッダ(燃灯仏)が仏陀として登場した。このときスメーダは、ぬかるみをブッダが歩くことを防ぐために、ぬかるんだ道に自分の長髪を投げ出し、ブッダにその上を歩かせた。この供養により、スメーダは未来においてゴータマという名のブッダとなるであろう、とディーパンカラ・ブッダから予言されたのである。これがいわゆる「授記」である。となれば、ディーパンカラ・ブッダとゴータマ・ブッダが同一人物ということはありえない。

その後、南伝仏教の記載によれば、ヴィパッシー、シキー、ヴェッサブー、カクサンダ、コーナーガマナ、カッサパという歴代のブッダが出現した。これらはいずれもゴータマとは別の存在である(たとえば、カッサパ・ブッダの時代には世尊はこれこれこういう生まれで云々等々の記載も仏典に見られる)。このヴィパッシーからカッサパに至る6人のブッダに加えて、ゴータマ・ブッダが「すでに現われた七人のブッダ」すなわち「過去七仏」と呼ばれるのである。

過去七仏についての記載がゴータマ・ブッダ自身の言葉かどうかを疑う原始仏教研究者はいるかもしれないが、「過去七仏=ゴータマの七度の転生」などという妄言を吐く仏教徒は世界中探してもいないし、そういう妄言を吐くとしたら仏教徒ではない。

ちなみに、ジャータカではこれ以外にもカウンディーニャ、マンガラ、スマナ、レーヴァタ、ソーヴィタ、パドゥマ、ナーラダ、パドゥムッタラ、スメーダ、スジャータ、ピヤダッシー、アッタダッシー、ダンマダッシー、シッダッタ、ティッサ、プッサなど多くの過去のブッダの名前が登場する。これらはすべてディーパンカラとヴィパッシーの間に出現したブッダで、いずれもゴータマが未来においてブッダとなるであろうと予言したとされている。

さらに、私が軽く目を通したことのあるパーリ仏典に、「Birth Stories Of The Ten Bodhisattas, Dasabodhisattuppattikatha」(ダサボーディサットゥッパッティカター、十のボーディサッタ(菩薩)の生誕の物語)というものがある。これは、十の未来仏について書かれた経典である。また、「Anagatavamsa Desana」(アナーガタヴァンサ・デーサナー)でも未来のブッダについて書かれている。

ここで十仏の最初(つまり、ゴータマの次に出現するブッダ)として書かれているのがメッテーヤ(マイトレーヤ、弥勒)である。そして、アナーガタヴァンサによれば、メッテーヤはアジタ仙、すなわちゴータマ・シッダールタが(2500年前に)生誕したとき「この子はブッダか転輪聖王になる」と予言した人物であると書かれている。この説については異説もあるが、少なくともゴータマとメッテーヤが別人(あるいは別仏)であることは言を待たない。言い換えれば、ゴータマは「メッテーヤとして再誕」しない。

この未来の十仏の中には、たとえば「(ゴータマ)ブッダに襲いかかるようけしかけられた象」が未来においてブッダとなるといった記載も見られる。過去仏も未来仏も、ゴータマ・ブッダの「再誕」ではないのである。もっとも、これらの未来仏についての経典はやや後世のものとなる。しかし、ブッダが「再誕」するなどと書いた仏典は存在しない。菩薩として(人間や動物や天やその他の世界における)転生を繰り返して、その最後の「上がり」がブッダだ、と言えばわかりやすいだろうか。

なお、メッテーヤがブッダとして現われる時代については、『仏陀再誕』は弥勒(未来仏)とも無関係。楳図かずおは天才。 - ひじる日々 東京寺男日記 ehipassiko!に詳しいので、こちらを参照のこと。

ちなみに、未来仏マイトレーヤとして56億7000万年後にブッダ/タターガタ(如来)となる魂であると自称していた麻原彰晃でさえも、それまでの間は菩薩として転生すると述べており、自らを釈迦の再誕と称したことはなかった。また麻原著『キリスト宣言』においても、自ら「世紀末に再臨するキリスト」と宣言していたものの、その「キリスト」とは一般名詞としての「救世主」という意味であり、イエスという人物とは別の魂であると明言していたのである。

仏教的世界観と相容れない幸福の科学の世界観

さて、映画の中で主人公・天河小夜子の大学生の彼氏で真理団体「TSI」会員の海原勇気が手書きする世界観図がある。それは、あまりにも仏教的な世界観からかけ離れたものであるため、対比してみることとした。左側は、「字が汚い」と小夜子に罵倒された勇気の手書き図(映画パンフより)。右側に仏教的宇宙観を必要なところだけまとめた。

sekaikan.jpg

自殺霊は本来の寿命が尽きるまで、この世にもあの世にも行けないのだそうだ。とまあそれは置いておいて。

注目すべきは、幸福の科学の世界観が「この世」と「あの世」の二項対立でできていることである。これは、2500年前にゴータマ・ブッダであった人物なら絶対に描き出せない世界観なのだ。

この世とあの世という二つで対置するのは、日本の伝統的アニミズムを土台とする宗教に共通して見られる世界観である。ここでは、どちらが正しいかという話は一切しない。そんなものは私の知ることではない。ただ、指摘したいのは、ゴータマ・ブッダが仏典中で説いている世界観(あるいは宇宙観)とまったく相容れない、すなわち「再誕のブッダ」が絶対に説くわけがない世界観をもとに、この映画ができているということである。

仏教の世界観では、五つとか六つの世界の中を延々と「輪廻転生」し続けるのが我々であるということになる。その六道輪廻から逃れること、つまり再生し続けることから解放されることが仏教の目的の一つといえる。そんな世界観を持つ仏教では、生きた人間の世界である「この世」とその他の「あの世」という括りは絶対にしない。もし、そういう括り方をしたら仏教ではない。

幸福の科学では以前から「輪廻転生」ではなく「転生輪廻」というひっくり返した言葉を使っている。輪廻ではなく転生に重きが置かれているわけである。そして、書籍『仏陀再誕』にはこう記されている。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、おまえたちに、これだけはどうしても言っておきたいのだ。
おまえたちの最低限の仕事として、
人びとに永遠の生命を教え、
また人間が
この世とあの世を転生輪廻している存在であるということを、 教える必要があるということなのだ。
実は、この思想こそが、
人間として生まれ、生き、成長してゆく過程において、
発見するところの最大の真理であるのだ。

「この世とあの世を転生輪廻」が「最大の真理」だなどとは、お釈迦様でも気が付くめぇ……。

なお、映画では津波のシーンで「地獄の修羅霊」が取り憑くといった表現が出てきたが、本来、修羅/阿修羅は天部の一部であったものが後世に分離されたものである(興福寺の阿修羅像の美しさは、もともと彼らが天部であることをよく示している)。修羅道を人間道の下に置く宗派もあるが、修羅が地獄の住人であるというような仏教宗派は存在しない。

「荒井東作」のモデルは池田大作だけではない

ニセのブッダである敵役、「操念会」会長・荒井東作。その演説シーンがあまりにもガンダムのギレンの演説っぽかったので吹き出したのだが、後で調べてみたら荒井東作とギレンの声は同じ銀河万丈氏だった。ある意味、ホンモノだったわけである。

さて、このギレン荒井東作だが、週刊誌報道などでは創価学会の池田大作名誉会長をモデルとしているといった見解が一般的なようである。週刊新潮では「幸福の科学アニメで悪の超能力者だった池田大作らしき人」と書かれている。

しかし、同じなのは「作」の字一つだけだ。そして、創価学会は超能力を売りにしているわけでもない。つまり、これは「創価学会VS幸福の科学」という単純な図式とは言えないのである。

荒井東作の「東」の字は、ワールドメイトの深見東洲教祖(旧称:深見青山)と関係がありそうである。荒井東作のキャラデザイン的には法の華三法行の福永法源氏にも似ている。操念会という名称はインナートリップ霊友会に似ているし、念を操るといえば阿含宗・桐山靖雄管長あたりが想起される。

おそらく、超能力系の他宗教全般をごちゃまぜにして作ったのが操念会・荒井東作ということになろう。特定のモデルはない、というのが正解だと思われる。

なお、その背後で操っている大悪魔・覚念については「「仏陀再誕」の覚念のモデルは真言宗の覚鑁? - 完全教祖マニュアル」が的を射ていると思われる。

子安武人と幸福の科学

敵役がギレンの声なら、再誕の仏陀である「空野太陽」は誰か。子安武人である。といってもアニメ系は詳しくないので調べてみたら、いろいろと出演しているようだ。私の知っている中ではエヴァの青葉シゲルくらいだが、キャリアは長いようだし、アニメファンの間では結構有名らしい。

その中で、一連の幸福の科学映画で一貫してヘルメスやエル・カンターレや仏陀やトスといったキャラクターの声を演じている。

  • 1997 ヘルメス-愛は風の如く(ヘルメス)
  • 2000 太陽の法-エル・カンターレへの道(エル・カンターレ、ヘルメス、仏陀 / ゴータマ・シッダールタ、エル・ミオーレ、ラ・ムー、トス、リエント・アール・クラウド、オフェアリス、根本仏)
  • 2003 黄金の法 エル・カンターレの歴史観 (ヘルメス/釈尊)
  • 2006 永遠の法 (ヘルメス/トス)
  • 2009 仏陀再誕-The REBIRTH of BUDDHA(空野太陽)

つまり、ヘルメスでありエル・カンターレでありゴータマ・仏陀であり、その他云々である大川隆法総裁の声は子安氏が担当することとなっているらしい。大川総裁はよほど子安氏の声を気に入っているようである。

実際のところ、しゃがれ声でたどたどしく始まり、やがて興奮するとうわずったアジテーション口調になる大川隆法総裁の声をそのまま再現するのであれば、むしろギレンの方が合っていそうだ(YouTube - 「幸福実現党」政見放送など参照。外山恒一の政見放送画像にギレンの演説を乗せたMAD動画もYouTubeにアップされているが、大川総裁はまだいじられていないようで一安心)。いずれにしても、救世主の「声」としては、子安氏の方が大川総裁よりもはるかにふさわしそうである。

ところで、トスと書かれているのは、西洋神秘学の系譜においてヘルメスと同一視されたエジプトのトート(Toth)のことであろう。トート・ヘルメス・トリスメギストスといえば錬金術などで非常に有名である。なぜそれが現代英語読みなのか、理解に苦しむところである。

幸福の科学の見解はここが浅い

では、映画全般の感想に移る。けなしてばかりでも何なのでまず褒めるところを探すと、一つは声優をよく集めていると思う。それから、絵の質については場面ごとに差が見られたものの、スペクタクルシーンのCGなどはなかなかよくできていたと思う。ただし、空から下りてくる天人たちが90年代ネット3Dアイドル的な、ちょっと怖い感じの3DCG人形だったのは残念だった。

さて、ここで主に取り上げたいのは、この映画全体のメッセージである。

一つは唯物論の否定である。それは、唯物論者であった金本記者が自殺し、唯物論だった小夜子の父が空野太陽の奇跡を見て改心するといったシーンで示されている。

もう一つは、他宗教の否定である。それは操念会・荒井東作会長が代表的な存在である。

唯物論もダメ、誤った宗教もダメ。だから、再誕している仏陀の教えに従いなさい、ということになる。「ザ・リバティ」11月号の「仏陀再誕」特集記事によれば、「真実の仏陀の証明は霊能力と「心の教え」」とされている。「イエスや釈尊も「巨大霊能者」だった!」として、イエスの奇跡や釈尊の「六神通」が挙げられている(この点はオウム真理教でも強調されていたことである)。

その上で、「空野太陽のような正しい霊能者と、荒井東作のような危険な霊能者を見分けるポイントは?」と話は展開する。「真実の仏陀の証明は、霊能力そのものよりも、霊的な悟りを踏まえた普遍的な「心の教え」が説かれていることにある」という。

この基本原則に沿って作られている映画「仏陀再誕」であるが、この後半部分の設定があまりにも甘い。というのも、操念会があまりにもわかりやすすぎる悪役宗教団体として描かれているからである。操念会は、信者たちを支配し、服従させること、日本人すべてを恐怖によって従属させようとする。

荒井東作は、この世は弱肉強食だと主張し、勝ち残ることだけが必要だと説く(それは幸福実現党の夜警国家論、福祉ばらまきの否定と共通しているようにも感じたのだが、それはともかく……)。

そんなわかりやすい「悪の宗教」など、滅多なことでは存在しない。世間でカルトと騒がれ、霊感商法が問題となっている宗教団体であっても、「心の教え」を説いている部分があるからこそ信者としてついていくのである。その教えに何らかの心洗われる要素があるからこそ、信仰するのである。

必要なのは、その教えがなぜ正しいと言えるのかを明確に説けることではないか。再誕の仏陀の言葉だから正しい、というのでは証明にならない。なぜそれが正しいのか、なぜそれが「普遍的な善」といえるのか、それが証明できなければならない。「心の教え」を説いていない宗教など、現実にはあり得ない。その心の教えの内容やレベルが問題になるはずなのである。そこが、幸福の科学の浅いところなのである。

雑誌「リバティ」のインタビューで、大川宏洋氏は、「宗教にも良い宗教と悪い宗教があるのを知っていただきたいです。そして、両者の違いを判別するのは教えの中身だということを伝えたかったので、2つの教団の教えを明確に示しました」と述べているが、そんな子供だましの「明確さ」によって、この映画自体が台無しになってしまっている。

映画の中で説かれた空野太陽の教えは、簡単にいえば、貪瞋痴(とん・じん・ち)の三毒を離れよということであった。そして、その方法として説かれるのが「反省」である。反省ごときで三毒が抜き去れるという安易な教えにも驚くし、どのように反省するのが正しいかという基準も明確に示されてはいない。

また、作中で空野太陽は、「仏陀はその時代に応じた真理を説く」というような趣旨の発言をしていた。全然「普遍的」ではないのである。その時代、あるいは聴衆に合わせ、彼らが理解しやすい「方法」で説くことはあっても、教えそのものが変わっては困るのである。時代ごとに変わるのであれば、宇宙の法則でも何でもない。ただその場限りの教えにすぎない。

結論としては、空野太陽の演説は一見素晴らしいものであるように感じさせる雰囲気はあるものの、詳細に検討すれば決して仏陀の言葉とは見なせないということになる。

ストーリーの甘さ

スペクタクルシーンの派手さに反して、ストーリー構成自体も非常に甘いところが多々見受けられる。

たとえば、小夜子が操念会の講演会を聞きに行く。もしかしたらこの人が仏陀かもしれない、と思っているのである。そこで、話を聞いて、自分の判断で「これは違う」と思うのだったらまだいい。あるいは、一度は小夜子が操念会に入ってしまうような展開が見られてもおかしくないところである。

ところが、単に話を聞いているだけなのに、勇気が「救出」しにくるのである。そして、操念会のガードマンたちににらまれ、TSIの名前を持ちだして逃げ出す。聞きに行くだけで何が悪いのか、まったく理解できない。そして、そんな騒動を起こしたおかげで、弟の瞬太がひどい目に遭ってしまうのである。救出などしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないというのに。藪蛇という言葉はこういうシーンのためにある。

さらに、インディペンデンス・デイみたいなUFO群を東京上空に出現させるとか、公共放送をジャックして津波の幻影を日本人に見せるとか、どう考えてもあり得なさすぎる。完全に娯楽映画ならともかく、こんなあり得ない「悪の宗教団体」をでっち上げて対比させ、自分たちの教えが正しいと説くのは、壮大な「わら人形論法」である(→ストローマン - Wikipedia)。もっとも、オバマや金正日や鳩山由紀夫や明治天皇や昭和天皇の「守護霊インタビュー」を刊行することに何の疑問も持たない彼らだから仕方ないのかもしれないが……。

対比

さて、この映画ならびに原作『仏陀再誕 縁生の弟子たちへのメッセージ』は、過去からずっと仏陀(エル・カンターレ=大川隆法総裁)の弟子であった者たちへの呼びかけとなっている。

実は、これに似たものはオウム真理教にもあった。その文章は、過去世から、麻原彰晃の弟子として、救済者として活動してきた者たちへの呼びかけである「集え、我が前生の弟子よ!」である。

ここで、『仏陀再誕』の一節の引用と「集え、我が前生の弟子よ!」の文章を対比させてみたい。現世を肯定する幸福の科学と、現世を否定するオウム真理教には方向性の違いはあるが、呼びかけ自体は非常に似ているといえる。

『仏陀再誕』第1章 我、再誕す
(大川隆法)
集え、我が前生の弟子よ!
(麻原彰晃)
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私の声を憶えているか。
あなたがたは、かつて私の話を聞いたはずである。
幾万年、幾千万年、幾百万年の歳月のなかで、
あなたがたは、私とともに地上に生まれ、
実在界にあって、また我が弟子として、道を学んできたはずである。

目覚めよ

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
我はここに再誕す。
我が再誕を喜べ。
我が再誕に気づけ。
我が再誕に、その事実に、その時に、気づけ。

あなたがたは、かつてあのインドの地で、
私の話を聞いたはずである。
あのインドの地で、我が教えを聞きたる、
幾千、幾万の、縁生の弟子たちよ。
あなたがたは、目覚めなくてはならない。
あなたがたは、まだ深い眠りを貪っているのではないか。
あなたがたが眠っていては、私は本来の仕事ができないではないか。
我が目覚めた時、すべての弟子たちは、目覚めなくてはならない。
我が声を発した時、
すべての弟子たちは我がもとに集いきたらねばならない。

縁生の弟子たちよ。
この懐かしい響きを聞け。
この懐かしい声を聞け。
この懐かしい言葉を想い起こせ。

(中略)

我に従い来よ

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今生にて、ふたたび、相見えることができたことを、我は嬉しく思う。
今生にて、ふたたび、相見えることができたことを、我は嬉しく思う。
我はかつて、あなたがたに約束したはずだ。
末法の世に、ふたたび甦るということを。
末法の世に、再誕し、
あなたがたと共に、仏国土建設のために、
その身を投げ出すということを。
末法の世にこそ、
新たなる法を説かんがために、地上に降りるということを。
我は、かつてあなたがたに約束したはずである。
我は、その約束を違えたことはない。
今、また、末法の時代が来、
時代が我を要請し、
時代が、あなたがたを要請している。

縁生の弟子たちよ、
我が声を信じよ。
我が声に目覚めよ。
我が向かう方向に、つき従え。
我に従い来よ。
我の振る、この白き手に従い来よ。
我は、あなたがたの永遠の師である。
永遠の師の、その後ろに続くことが、弟子の使命であるということを、
ゆめゆめ忘れてはならない。
 君たちは前生の修行の結果として、今生、美しい形状-容姿を有していたり、あるいは非常に豊かな家庭に生まれたり、あるいは大変優れた才能に恵まれたりしているかもしれない。また別の弟子は、今生、この人間世界における無常に気づき、そして何となく空しい毎日を送っているかもしれない。
 どの弟子についても、表層意識において満足した心が生じているかもしれないが、潜在意識、つまり君たちを動かしている意識においては、何となく物足りない人生を送っているはずである。
 そして君たちは救世主を待望し、「必ず今生、救世主が現われるんだ」ということについて確信を持っているはずである。それはなぜだろうか。それは前生からの約束だからである。
 わたしが君たちの宗教上の主として、そして君たちの王として、君臨を約束したのは、前生であった。そして君たちはわたしと会うために、君たちのお母さんの子宮に宿り、そしてこの人間の世界へ生まれてきたのである。したがって、君たちは特別な魂ということができる。
 例えば、ある優秀な子は、周りの優秀な子たちとしのぎを削り、一流大学へ入り、そこでその競争の空しさを味わいながらも、前生の徳によって、その空間でのある程度の満足を得ているはずである。しかしその空間での満足は、君を、人生という点から考えた場合、納得させる人生観を与えてくれているわけではないだろうし、また本当のもの、あるいは光、あるいはグル、あるいは真理、あるいは救済といったような言葉を追い求めているはずである。
 あなたは非常に形状-容姿が美しいかもしれない。そしていろいろな恋愛を行ない、そこでの表面的な喜びを経験しながらも対象に満足できず、そして「わたしの求めているものはこの人ではない」とか、「わたしの求めている価値観はこんなものではないんだ」と苦しんでいるかもしれない。それはそのとおりである。なぜならばあなたが前生において経験した至福は、彼が与えてくれる、あるいは彼女が与えてくれる喜びに比べ、何千倍も何万倍も大きいからである。
 また、あなたは求道心によって本屋に通い、多くの本を読み、そしてどこかに真実の道はないか模索しているかもしれない。しかし、どの本も何となく、八十パーセントは正しいようだが二十パーセント納得できない、そう考えているかもしれない。それはそのとおりである。なぜならば、現代に説かれている本のほとんどが他の本の物真似であり、そして体験に裏づけされていないからである。
 前生の私の弟子であるあなたは、少なくとも小さな悟り、あるいは小さな解脱を経験し、この人間界へ生まれてきたはずである。だとするならば、そのようなまやかしが、例えば本の中に美辞麗句が並べられていたとしても、あるいは宗教上の体験が美しくかつ清らかに書かれていたとしても、それは前生あなたが経験した小さな悟りや解脱に比べると、ちゃちなものにほかならない。
 そしてあなたは今、オウム真理教に出合い、前生のグルであるわたしと出会った。ここであなたは何をなさなければいけないのか。それはグルの教えを実践し、個人的には悟り・解脱である。そして前生、大乗の実践者であったあなたは、わたしとともに救済活動を展開し、そしてあなたと縁深き魂、宗教上での縁深き魂を救済しなければならない。あなたが救済者としてこの世で活動を始めたとき、あなたにはちょうど鳥が古巣に帰るように、一種独特の落ち着いた気持ち、安心した気持ち、そして自分の居場所はここであるということに確信を持つはずである。

 さあ、気づきなさい、わたしとともに瞑想したときを。
 気づきなさい、わたしの説いた法則を聴き、学び、そして多くの魂を救済したことを。
 気づきなさい、あなたが経験した光の空間を、そして神々の空間を。その価値に比べれば、あなたの今有している現世的な美しさ、才能、これはまさに取るに値しない。
 そして、どの道を歩こうか迷っている前生の弟子よ、気づきなさい。すべての本を捨てなさい。そしてわたしの教えに帰依し、真理を実践しなさい。それによってあなたの心は安定し、止まり、悟り、解脱するはずである。
 わたしは今生、またあなたと一緒に座り、瞑想することができることを大変喜んでいます。
 集え、我が前生の弟子よ!

結論

そういうわけで、星一つから五つで評価するなら、仏陀再誕はいろんな意味で★☆☆☆☆(星一つ)であった。

主題歌「悟りにチャレンジ」のウ・ソンミンを始めとして、制作者クレジットに韓国系の名前が非常に多く見られたのが印象的だった。

なお、今回は東京の丸の内TOEI1にて、10月29日木曜日の午後4時からの回で観賞した。ギリギリに行って結構真ん中の席だったのだが、その回の観客は10人足らずであった。予告編の最初に「2012」が流れたのが、いろいろな意味で象徴的なような気がした。購入したのは映画パンフレットと『仏陀再誕 携帯版』である。いろいろグッズも売っていたが、そこまではさすがに手が伸びなかった。

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ひじる日々 東京寺男日記 ehipassiko! - [現代仏教論][写経]釈迦族の滅亡 (2009年11月 9日 08:40)

ブッダの伝記をテーマにした書籍の企画がいくつか進んでいて、いくつかのメモを書きました。企画の方向性が変わってきたので、このまま使うことはないだろうから、... 続きを読む

コメント(7)

>制作者クレジットに韓国系の名前が非常に多く見られた
それは、幸福の科学の本質とは関係無くて、製作コストと絡む、日本のアニメ業界の問題でしょうw

どうも。たまたま映画を見て、たまたまここに来ました。

論評が稚拙すぎて笑っちゃった。
引用がブログとかネット情報ばかりだったのが浅薄に感じさせますし、なんか批判の為の批判の意図丸見えで正直このブログの文章の方が気持ち悪かった。

唯物論もダメ、誤った宗教もダメ。だから、再誕している仏陀の教えに従いなさい、ということになる。

↑これは違うんじゃない?

なんか会を引き合いに出さずにご自分の仏教解釈を講じていたらよろしいのでは?
誰も見ないか。

このよ「う」な、個性的な論評をしているのは初めて読んだので、感銘を受けた。
最近の批判は、↑のような、内容についてあえて触れずに、頭ごなしに中傷する脳足りんか、少し前の「天皇陛下を後にした」カルト教祖大統領は危ない という宗教オンチのネット右翼の集団ヒステリーが多く、そういうのに飽き飽きしていた。(右翼から「天皇」取れば、ただのチンピラヤクザと変わりない人格が、日本右翼の真実だ。)
特に映画は、指摘のように実際の宗教正邪の判断とブレている所が多すぎるし、何を仮想敵としているのかぼかされて、「仏陀再誕」を全く説明しきれていない。
事実なら、もっとその説明に時間を費やすべきだろう。子供騙しと言われても仕方のない「仏陀再誕」本とは似て非なる内容だった。
大川宏洋氏はアニメが好きなのだそうだが(リバティ)、それならもっと想像の力を発揮させてもらいたかった。なあ、荘子(の転生と言われている)。

No.2のコメントはひどいね。信者だろう。
「論評が稚拙すぎて笑っちゃった」というが、具体的にどこがどう稚拙なのかも書かない。
「引用がブログとかネット情報ばかり」というのも嘘だし、引用元のブログは著書もあるテーラワーダ協会の専門家さんで、「浅薄に感じさせます」というのは見当外れ。
気持ち悪いコメントですね。

あなたはもう還らない 還る必要もない 悟りを開かれ 涅槃に入られたのだから しかしあなたは また還ってこられた 絶対真理から還ってこられた(主題歌「悟りにチャレンジ」(仏陀霊示))ということで、「人々を救いたい」という深い慈悲の心で、あえて地上に再誕され云々と(ヤング・ブッダ#73)弁明も用意している周到さ。このブログも彼らも結構気にしている?

>>5 さて、具体的にどこがという以前に、そもそもこの話は、基本となる前提に問題があるものなのですから、それに対し付け焼刃の知識を引用して同じレベルで非難するのは、研究ではありませんですし同じように稚拙であると言えます。
そのような稚拙かどうかの議論はさておきまして、幸福の科学の話はそれよりも、大川隆法氏が生まれ変わりなら、ご子息の大川宏洋氏は生まれ変わりでないという所をぜひ研究して頂きたい所で、教祖亡きあとどのように運営していくのか、子息は説法をうけた二千五百年前の弟子の生まれ変わりとして教祖となるのと、現世で教えを受けた新弟子として普通の人が教祖となるのとでは全然違いますので、この映画にその片鱗はなかったかのかぜひ知りたいところですが、さて。

このブログの開設者はパーリ語も読める仏教の研究者なので、「付け焼き刃の知識」というのは失礼ですよ。付け焼き刃の知識というなら、どこがどう浅いのか書かないと、誹謗中傷にしかなりませんよ。

このブログ記事について

このページは、松永英明が2009年11月 3日 00:35に書いたブログ記事です。
同じジャンルの記事は、宗教・神話学幸福実現党の研究映画をご参照ください。

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