「ステマ」が成立する理由と、ステマに振り回されない考え方

「ステマ」(ステルスマーケティング)という言葉がネットの一部で話題になっている。宣伝とはわからないように宣伝行為を行なうことであり、ネットでは特に「利害関係のない第三者のクチコミであるかのように偽って、宣伝行為を行なうクチコミサイト上の書き込みやブログ記事」がステマとして批判されている。

ステマが批判されるのは「やらせ」や「サクラ」の延長上にあると見なされるからだろう。そして、わたしもステマを倫理的および戦略的に否定する。

しかし、一方で、なぜステマというものが成り立つのか(あるいはなぜステマだとばれると批判されるのか)、という根本的な部分があまり考察されていないように思う。この点を突き詰めれれば、仮にステマが使われたとしてもそれに振り回されないで済むようになるだろう。

2012年1月18日14:38| 記事内容分類:メディアリテラシー, 日本時事ネタ| by 松永英明
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ステマが成立する理由

ステマはなぜ成立するか。簡単な話である。「当事者の声より、利害関係のない第三者の声の方が信頼に値する」という判断が多くの人の中にあるからである。

当事者の「宣伝」は、いいところだけ述べて悪いことを言わない(かもしれない)。一方、利害関係がない第三者は、誉めてもけなしてもかまわない。いや、誉めてやる義理がないのに、それでも誉めているとしたら、本当にいいものなのだろう……という判断が働いているはずである。

もちろん、この判断が当てはまる事例は多いだろう。あえて広告でデメリットを表現するとしても、それを上回るメリットを強調できるという計算があるからにほかならない。総ての宣伝が「メリットを伝え、それによって購買意欲をかき立てる」ための手段であるというのは紛れもない事実だ。わたしたちはそのことを前提として踏まえた上で、対比し、比較して、自分にとってよりよいものを選ぼうとしている。

一方で「第三者の声」は「自分の感想」を伝えようとしているものであり、純粋な事実関係である、とされることが多い――が、厳密には違う。このことはすぐ後で説明するが、ともあれ「否定的な情報も伝えられる」という意味で少なくとも「宣伝」とは違うものだと捉えられている。

その「宣伝ではない、伝えようと思えば否定的情報も伝えられる」第三者情報であるかのように偽って、「宣伝(すなわち否定的情報を伝えないようにする情報伝達)」を行なうのがステマである。それは、「第三者情報は宣伝よりも信頼性が高い」という受け手の潜在的な判断があるからこそ、それを逆手に取っているわけだ。

宣伝と純粋なクチコミの中間に、利用者の声を宣伝に利用する例がある。特に、タレントが自分で実際に使った感想を述べているというCM等は、当然ネガティブ要素は伝えないだろうという点を視聴者が差し引いた上で、「本当にその効果があるのかな」と思わせる要因になっている。

クチコミ絶対視という「情弱」

これらの事実を踏まえた上で、一つの思考停止が生まれうる。それは「宣伝は自分たちに都合のいいことしか言わない。いっぽう、クチコミは真実である」という固定的な考え方である。その病状がさらに進むと、特に自分の個人的な好みと合わない対象について、「こんなものに対してクチコミでいいことを書くのはおかしい。誉めているのは社員か工作員」のような決めつけが行なわれることがある。これは当然、リテラシーの欠如した判断であり、それこそ「情弱(情報弱者)」と呼ぶにふさわしい。

たとえ宣伝が「よい情報のみを伝え、悪い情報を隠す」という「広義のウソ」だったとしても、そこで伝えられる「よい情報」にウソがあれば、それは虚偽広告であり、場合によっては詐欺である。つまり、一般的な宣伝ならば、宣伝だということを理解していれば少なくとも「よい面について提供者が伝えたいと思っている情報」については確実に得られるわけである。これは、上手な宣伝であればあるほど、受け手が求める情報をもれなく、しかもポイントを的確に絞って伝えているはずだ。

一方で、第三者のクチコミには、当然不正確さもついて回る。特にクチコミで期待されるのは「おいしい、まずい」「面白い、面白くない」といった感情・情緒の部分だろう。もちろん、感情・情緒は重要な判断材料なのだが、それは個人差、あるいは同じ人物でも状況によって大きく異なる。わたしのように関西人としての味覚に染まっていて出汁味が最重要な人間と、関東出身で塩味大好きな人では、もちろん同じ塩ラーメンを食べても評価が大きく異なるはずである。

また、クチコミといっても「よい点、悪い点」をきっちりと対比して述べている例は少ない。多くは○か×か、もしくは星一つから星五つの断定的な評価である。そこには、第三者がまず「ほめたいか、けなしたいか」という判断を下し、その中で「文句なしに星5つ」「完璧とはいえないがまあよいから星4つ」「可もなく不可もなくだから星3つ」「どっちかというと嫌だが、サイテーというほどじゃないから星二つ」「絶対嫌い。評価落としてやる。星1つ」といったランク付けがされている。

言い換えれば、クチコミを行なう第三者は、利害関係がないにもかかわらずお店や商品について「プラスの宣伝をしよう」「マイナスの宣伝をしよう」という気持ちを投稿時点で持っているということだ。つまり、第三者も中立のようで実は中立ではない、ということは頭に入れておく必要がある。もちろん、宣伝では「プラス宣伝」しかないのに対し、第三者はどちらに転ぶかわからないという違いはあるが、個々のクチコミを切り出せばそこには明確に「意図」があるのである(単にレビュー数を稼ぎたいという場合でも、何らかの誉め言葉やけなし言葉がある以上は潜在的にいずれかの「宣伝」に加担している)。

ファンは自ら率先して宣伝に加担する。が、やはり第三者であることには違いない。こういう人たちを「信者」と呼ぶ人たちも一部に見られるが、信者はステマではない。成功したクチコミマーケティングである。信者を装って初めてステマなのである。ここはごっちゃにしてはならない。

クチコミと「逆ステマ」

クチコミ時代のマーケティング戦略において、宣伝側としてはいかにこの「プラスの宣伝をしよう」と思ってくれる顧客を作り出すかが最大のポイントで、そのためには小手先ではない本当の「良質な製品・サービスの提供」こそが唯一絶対不可欠の手段ということになる。そうではなく、小手先の技術でプラス宣伝を増やそうとするのが卑怯・卑劣という印象を与え、ひいては「商品に自信がないからそういうことをするのだろう」という憶測を与える結果にもなる。

一方で、クチコミにおいては一定の集団的行動によって「ネガキャン」(否定的クチコミ投稿)が行なわれることがある。Amazonレビューに多数の人たちが星1つをつけ、罵倒や非難を書き連ねる。ときには虚偽情報や名誉毀損に該当するような情報を書くものもある。これらが実際に購入した結果の怒りのレビューであればさておき、掲示板でネガキャンを呼びかけたりするのは「逆ステマ」とでもいうべき問題行為である。実際、そういうネガキャンが行なわれたレビューでは「読んでないけど」というようなコメントさえも見られる。もはや商品を評価するのではなく、その商品を叩くことで自分の趣味嗜好的・思想的・政治的立ち位置を明らかにし、自分の考えが多数に受け入れられているという「証拠」を作り上げたいという、ゆがんだ動機に裏打ちされている場合さえある。

このようなネガキャンを「真実の消費者の声」であるかのように述べるのは、ステルスマーケティングを行なう企業と実は同じ発想だという事実が浮かび上がる。どちらも「第三者の声」を絶対視しており、また同様に絶対視する人たちをターゲットに情報操作を行なっているのである。企業がやれば悪で第三者がやれば善ということはない。

また、極端な判断として「誉めているのは自作自演か信者、けなすのが中立的な意見」という偏った見方も存在するが、この見方にリテラシーが全く存在しないことは、もはや言うまでもないことだろう。

ハズレを引きたくない怠惰な心理

単純に言えば、クチコミが重視される背景には「みんながいいと言っているものは、いいものだろう」という単純な判定基準がある。しかし、その判断基準というのは多くの人が無意識のうちに採用しているものでもある。「行列ができる店」や「混んでいる店」や「友達が行ってよかったと言っている店」には行ってみたくなり、「周りの店は混んでいるのに、一軒だけ全然客が入っていない」店には何かまずい理由があると思ってしまう。そして、当然「並んでみたけどたいしたことはなかった」ということも多々あるだろうが、多くの場合はそれほどのハズレではない。

しかし、「クチコミでいいと言っていたから行ったのに、まずかった」というようなクチコミ絶対視となると事情は異なる。大体、他人がいかにいいと言おうが悪いと言おうが、それが自分自身の判断と必ず一致するものではない。関東人がいかに誉めようといかに上質なものであろうと、わたしは納豆を旨いと思ったことは一度もない。それは極端な例だとしても、「世間的にはこっちに人気があるだろうけど、自分の好みはこっち」とか、「スマイルをウリの人気シェフがまずいといったけど、自分にはおいしかった」とか、「売れている本だけど、読んでみたらサイテーだった」とか、「ファンが少ないので人気投票で下位になるけれど、自分は断然イチオシ」というようなことは多々あるはずだ。

つまり、自分自身が行って体験しない限り、本当の評価は下せないのである。クチコミは、その当たり確率を高める一手段にすぎない。だから、クチコミと自分の体験がずれるとき、「こんなウソを書いて許せない」と怒りを示すのは筋違いというものである。

クチコミが「正確」であることは、個々の嗜好が違うという意味でほとんど望むべくもないことである。それなのにクチコミの正確さを厳密に求めること(ひいては、ステマなどヤラセがないことを絶対視する考え方)は、「自分の体験の中で、ハズレを一度も引きたくない」という怠惰な考え方に基づくものであり、そんな生き方は間違っていると思う。

ネットの情報は、あくまでも間接的体験である。そのことを忘れて絶対的な真実だと思ってはならない。ネットの情報を総合して得られる判断はあくまでも「ネット情報をまとめた段階にとどまる中間報告」であって、決して最終報告にはなりえない。自分が接した情報がどの範囲のものかを常に見極め、自分の判断はまだ最終的ではない(ので実体験に基づく情報を含めて継続的に集めていく)という「積極的な判断保留」をすることが最も大切なことである。

自分自身の試行錯誤で自分自身の中に個人的なクチコミを培っていくしかない。もちろん、自分と趣味嗜好の似たレビュアーを見つければ、それは大いに参考になるだろうが、それも絶対的なものというわけではない。そういう判断をするリテラシーある人ならば、たとえ仮にステマがなされていたとしても自分自身の経験に基づいて判断できる。ステマに誘われて一度体験したとしても、それを好きになるか却下するかは自分自身の判断である。そのリスクは、自分に合わないレビュアーに誘われて体験するのと同程度のリスクでしかなく、ステマそのものを無効化する生き方ということになるだろう。

しかし、単に一般的な星の数だけで判断していれば、それはステマにも振り回されるだろうし、ステマと判明したときに腹も立つだろう。あるいはレビューが「ステマか否か」ばかり気になったりするようでは、実は情報に振り回されているということになる。ステマ摘発に躍起になるのは、実は情報弱者だからこそなのだ、という言い方もできよう。

大体、実際に体験もせずにネットの情報だけで「これは正しいか、ステマか、ネガキャンか」などうだうだ考えている時点で何かが間違っていると気づくべきである。

安易な「ステマ認定」という思考停止

ここしばらく、大きな実例が浮かび上がったことでバズワード化した感もある「ステマ」という言葉だが、それを濫用する人たちがいる。これは決して、世間からステマそのものをなくすようなプラスの方向には向かわず、逆に正当なクチコミ行為を萎縮させたり、真実のステマから目をそらさせ、ステマではないものにステマのレッテルを貼る中傷・名誉毀損行為にもなりうる。

これまで、わたしは自分のブログにおいて、いいと思ったものはいいと言い、悪いと思ったものは悪いと言っている。いいと思ったものについてのアフィリエイトリンクをつけていても、別に「儲けるために誉めている」のではなく、いいと思ったから紹介し、その紹介料をアマゾンさんからちょっともらうというくらいの話である(それにうちのブログのアフィリエイトやGoogle Adsenseの収入は、同じくらいのアクセス数のブログと比較すれば極めて低い、非効率的なブログである)。しかし、それでも「アフィリエイトのために、この文章を書いたのだ」と曲解されることは多々あったし、そういう曲解をする人に限って「俺は真実を見抜ける」と誇っていたものだった。

安易なステマ認定も、そういう曲解者と心理が一致している。「自分はウソをウソとして見抜ける人間だ」「自分は情報強者だ」という思い上がりがあり、自分の脳内での勝手な認定こそが真実であり、その真実にたどり着けずに「ステマだと見抜けない」人たちを「情弱(情報弱者)」と見下すことによって、実態にそぐわないプライドを満たそうとする。

一方、何でもかんでもステマだと認定されそうになるのであれば、純粋にいいと思って誉めることすらできなくなってしまう。わたしは献本された本の書評を書くときには必ず「献本された」と書いてきたが、別に献本されたから誉めるのではなく、献本された本がよかったから誉めているのである。献本されても誉めるところがなければ、いただいた方に申し訳ないのでけなすような書評を書かないということはあるが(書評を書いていない献本が悪かったという意味ではない)。一方で、自分で買った本もよければ誉めるし、悪ければ悪いと書く。けなしづらくなるから自分で買わないと、という思考はない。

たとえば速水健朗『ラーメンと愛国』は自分で買ったが、非常にすばらしい本だと思う。書評も書きたい。だが、速水氏とわたしに交流があり、しかも友好的な関係だということを「事実」として持ち出して「松永が書いた書評はステマだ」と言い出す奴が出てくるんじゃないか、という想定がリアリティを持つほど、今、「ステマ認定」は濫用されている。たとえば、わたしが過去にステマをやっていた、という決めつけによるニヤニヤ笑いを伴った嫌がらせも一部で流布されているようだが、それはステマの拡大解釈と具体的な「ステマを計画したという実証」を欠いたものであり、単純に中傷もしくは名誉毀損行為となっている。最近問題になったステマ事例の検証サイトでも、一部には相関図を用いた強引な結びつけによる関係妄想も含まれているようである。

それは極端な例だとしても、ステマ認定は慎重でなければならないし、さらに言えばステマ行為自体は非難されるとしても、仮にステマをやられたところでリテラシー力があればステマだろうと通常のクチコミだろうとまったく関係なく、適切に処理することができる。ステマであるかどうか、見抜けるかどうかにこだわっている時点で「情報強者」にはなりえないことに気づくことが必要だろう。

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