「マルモリはアイヌ語」デマはなぜ拡散したのか

芦田愛菜と鈴木福が歌ったドラマ主題歌「マルモのおきて」の歌詞について、「マルマルモリモリとはアイヌ語で「侵略者、侵略者、死を与えよ、死を与えよ」という意味」というデマが昨年師走、2011年12月9日にツイッターに投稿され、拡散されていった。投稿者は直後に「うそです」と記していたが、過去ログをたどりにくいツイッターの仕様も相まって、「マルモリはアイヌ語で怖い意味だ」という情報が広まっていった。

その後、アイヌ語研究者による否定ツイートも流れ、わたしもそれをtogetterでまとめた(「マルマルモリモリはアイヌ語」というデマと、アイヌ語の真実 - Togetter)。こちらも拡散されるようになって一応デマは鎮火した……かのように見えた。しかし、約2か月経った今、再びこのデマがツイッター上で見られるようになっている。

なぜ「マルモリはアイヌ語」デマがこんなに拡散し、一度否定されてもなぜまた再び拡散してしまうのか。それは、ツイッターの仕様やユーザーのリテラシーもさることながら、「幽霊アイヌ語」がいまだに放置されていること、そしてアイヌ文化・アイヌ語への無知、ひいてはアイヌへの「未開人」視があると思われる。

※ブクマコメントで「ラテン語だろ」「ラテン語というデマも2chで」と書かれているが、ラテン語についても最初から本文で書いてある。タイトルだけ読んで反応しないようにお願いしたい。

2012年1月30日17:14| 記事内容分類:日本時事ネタ, 民俗学・都市伝説, 言葉| by 松永英明
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デマの発生

今回のデマは、以下のツイートから始まった。

マルマルモリモリとはアイヌ語で「侵略者、侵略者、死を与えよ、死を与えよ」という意味(maroni_chang 2011/12/09 01:48:21

その直後にネタであることが簡潔に明かされている。

うそです(maroni_chang 2011/12/09 01:48:27

しかし、ツイッター上では「前後のツイート」を見る機能が弱い。ブログと違って、過去ログを読もうと思ってもなかなかたどり着けないことが多い。一方で、リツイートで拡散されるのは単独のツイートである。しかも、世の中には受け取った情報を「とりあえず真実」として受け取る人が多い。その結果、最初の「ネタ」投稿はあっという間にデマツイートと化した。

少なくともツイッターでネタをやるのであれば、ネタの中にネタだと明記すべきである。たとえば虚構新聞ネタはサイト名自体がネタだと明かしているから騙される方が悪いともいえる。もし、今回のネタが二つのツイートに分割されておらず「……という意味 #うそです」とか「……という意味 #ネタ」とか書いてあれば、それは信じた方が悪いと言い切れただろう。しかし、このように分割して一方のみが拡散された場合、虚偽の情報を流したことになってしまうのである。

さらにその後、ネットで検索した結果をもとに「アイヌ語でマルは食料、モリは小山」という誤情報をもとに「アイヌ語でも意味がとれる」と主張する人物が現われた。それはおそらく火消しの意味もあった「善意」だっただろう。ところが、実際にはアイヌ語にそのような言葉は存在せず、結局はデマにデマを重ねる結果となってしまった。それどころか、専門家に否定された後にも「ネットにソースがある!」ということを主張するような流れにもなった。

togetterでまとめられてからは「それはデマです」という情報も広まり、2011年12月末にはいったん火の手は収まったようであったが、1月末になって再びこのデマツイートがリツイートされる状況が出てきている。わたしは、まとめtogetterをお気に入りにする人がまた増えていることから、そのデマが再拡散されている状況に気づいたのだった。

なぜ「アイヌ語」でなければならなかったのか

この「ネタをもとにしたデマ」の問題として、このネタ自体にアイヌ人を野蛮人・未開人視する意識、すなわち見下す意識が含まれていることを見逃すわけにはいかない。最初のネタに反応したある拡散者は、こう発言した。

マルマルモリモリがアイヌ語で「侵略者、侵略者、死を与えよ、死を与えよ」という意味と知って次の「皆食べるよ」ってカニバリズムにしか聞こえなくなった恐い(izaya4213sizu 2011/12/09 16:38:17

「カニバリズム」という言葉で想起されているのはほとんど「食人族」の光景であろう。その未開人・野蛮人の風景とアイヌが結びついているわけである。もしこれが(日本人にとっては文明国と思われている国の言葉である)「英語で」や「ギリシア語で」というネタであったならば、そもそも「侵略者に死を与えよ」というような意味だというネタを思いついたり、あるいはそれが「カニバリズム」という言葉と結びついただろうか。

そう考えると、最初にネタを考えた人物が「なぜアイヌ語を選んだのか」ということに思い当たる。その理由は大きく二つ考えられる。

一つは、アイヌ語がほとんど知られていないこと。「英語でマルマルモリモリは「侵略者、侵略者、死を与えよ、死を与えよ」という意味」というようなネタを書いたところで、なんじゃそりゃ、ということになる。みんなマルマルモリモリが英文として解釈し得ないことを理解しているからだ。しかし、アイヌ語ならほとんど知られていない(うえに、後述するようにいい加減な解釈が広まっている)ために、これが「ネタ」として成立する。現在の日本国の領土内に住んできた民族の言葉であるにもかかわらず、である。それどころか、日本語とは音韻体系も文法体系も大いに異なるというのに「日本語の方言の一つ」だとか「語彙はほとんど日本語から借りたもの」だというような誤解さえ流布されているのが実態である。アイヌ語はほとんど日本人に知られていないといってよい。だから、デタラメな解釈がまかり通ってしまう。

もう一つは、「侵略者に死を与えよ」という非文明的な言葉のニュアンスが、アイヌの未開イメージと合致したことである。このような「ネタ」が生まれ、それが拡散される背景には、「アイヌ人ならそういう言葉を使いかねない」という未開視が潜在的にあることを認めねばならない。

実は、「マルマルモリモリ」はラテン語だともっと怖い意味になる。malus/mala/malumは「悪い」「邪悪な」という形容詞の単数主格(男性/女性/中性)、もしくは副詞marus(男らしく)に当てはめられる。moriは動詞morior「死ぬ」の不定形(メメント・モリ=死を思え、という成句で知られている)。したがって、文法上はおかしいが「邪悪な、悪しき、死、死」とでも言った方がまだそれらしいデマとなる。

あるいは、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」のコーラス部分 "Marchons, marchons ! Qu'un sang impur Abreuve nos sillons !"は「進め、進め!敵の汚れた血で田畑を満たすまで」という意味である。フランス革命のときに歌われた好戦的な歌詞だが、これはまさに「侵略者に死を与えよ」という意味そのものとなる。

となれば、「フランス革命の際のラテン語由来の隠語で「侵略者に死を与えよ」の意味」とでも言っていればもっと信憑性の高そうなデマとなりえたのだ。それなのに、「アイヌ語」が選ばれたのはなぜか、ということである。その答えはつまるところ、「日本国内の言語なのにアイヌ語が知られていないこと」と「アイヌへの未開視」ということになる。そんな野蛮な意味を持つ言葉を、文明人であるヨーロッパ人のものとするわけにはいかなかったのだ。

念のために蛇足として明記しておくが、ここに挙げたフランス革命説だのラテン語説だのはまるっきりのウソである。なぜなら、詩の作者自身が「意味はない」と明言しているからである。それよりなにより、単純に日本語として「まるまる、盛り盛り」とご飯をよそう、と言えばすんなり意味が通じる。「ツルツルテカテカ」もやはり日本語で解釈できる。深読みしすぎる必要など毛頭ないのに、深読みの方に信憑性を感じてしまう心理にも問題があるといえよう。

※追記。2ちゃんねるでは「マルマルモリモリはラテン語で「死ぬ死ぬために邪悪な悪」という意味」という情報が流されているようである。これはGoogle翻訳でそのように訳されるというだけの話である。しかし、いかにも自動翻訳っぽい、日本語になっていない翻訳であり、すでに述べたように文法的に性や格が一致しないため、この訳文は採用できない。もちろん、すべての前提として作詞者自身がそのような意味を込めていないことが明白であるから、この情報を拡散することは結局、デマの流布ということになる。わたしが見た範囲では、ラテン語デマにかぶせて「真相はアイヌ語らしい」とツイートされる例が多く、結局ラテン語よりアイヌ語説が信じられる傾向が見受けられる。アイヌ語よりラテン語の方がよく知られていること、ラテン語の場合は偶然の一致と見られがちなのにアイヌ語だとカニバリズムとまで受け止められて拡散し続けている点において、上記の論を裏付けていると考える。

※追記2。カニバリズム発言の投稿者は最近も「マルモリがアイヌ語でって奴はRTで回ってきただけで私発祥ではございません。本当か否かはわかりませんがただそれを見たら続きがカニバリズムっぽく聞こえるね(笑)と言う話です。本人いわくガセ 私も騙された1人です」とツイートしている。本当ではないという断言を行なわず、今なお笑い話とし、さらに「私も騙された1人です」と被害者であると強調している。どうやら問題点を理解できていないようである。

幽霊アイヌ語の問題

さて、「アイヌ語が知られていない」のは事実だが、一方で「幽霊アイヌ語」が中途半端に流布されていることも問題だ。特にこの幽霊アイヌ語は地名解釈に多く見られる。

たとえば、多くの人が「富士山(フジ)は、アイヌ語のカムイ・フチ(火の神)に由来する」という文章を見たことがあるだろう。しかし、アイヌ語の「フチ」=火が富士山という火山の名前の由来だというのはまったくのウソ、デマなのだ。たしかに「アペ・フチ・カムイ」=「火のおばあさんの神」という言葉はあるが、実はアペ=火であり、フチ=おばあさんなのである。

昭和七年(1932年、実に80年前!)にすでに金田一京助は『北奥地名考』において「要するに、富士はアイヌ語の火だという解釈は、眉唾物であって、アイヌ語を知らない人にだけは本当にされるかも知れないが、真理はそうたやすく手品のように、うまく手捌きで言いくるめられはしないのである」と記している。

マルモリがアイヌ語の「侵略者に死を与えよ」という解釈も眉唾物であって、アイヌ語を知らない人にだけは本当にされるかも知れないが……と、今回の状況にそのまま当てはまりそうな話である。

さて、この「フチ=火=富士山の語源」というトンデモ説の土台になったのがジョン・バチェラーである。宣教師として来日し、アイヌ人を養女にしてアイヌ文化研究を行なった。『蝦和英三対辞典」というアイヌ語・日本語・英語の辞書を編纂し、これが一時期はアイヌ語研究の重要書籍とされたこともあった。しかし、その後、その内容がデタラメだらけであることが判明している。

アイヌ出身のアイヌ語学研究者・知里真志保は『アイヌ語入門』で「いっぱんの信用とはあべこべに、この辞書くらい、欠陥の多い辞書を私はみたことがない。欠陥が多いというよりは、欠陥で出来ている、と云った方が真相に近い」「暴力的にでっち上げた幽霊語がすこぶる多い」と述べているほどである。もはや「トンデモ本」と考えたほうがよい。

ところが、特にアイヌ語由来だと主張する俗流の地名解釈では、このバチェラー辞書をもとにしたものなどがすこぶる多い。さらにそれがネットにも載せられている(バチェラー辞書すべてを載せたサイトまで存在する)。つまり、ネットで安易に検索すると、こういうトンデモ幽霊アイヌ語に出くわすことになってしまうのである。

そこで、「マルモリはアイヌ語で侵略者に死を与えよ」というデマを検証しようとして、ネット検索で見つかったいい加減な情報のみをもとにして、うっかり、

アイヌ語でマルは食料、モリは小山 意訳すると「御馳走、御馳走みんな食べるよ♪」で間違ってない。

とツイートしてしまう人も現われることになる。確かにバチェラー辞書には「Mori, モリ,小山」という記載があるが、これ以外の辞書には現われない幽霊アイヌ語だ。また、「マル」は「Haru, ハル」=食物(もしくはそのHが抜けたアル)の誤りと考えられる。さらに、仮に「マル=食料」「モリ=小山」だとしても、それが「マルモリ=ごちそう」になるというのは単なる憶測であって、文法的にそういうつながり方をするのか、実際にそういう組み合わせでご馳走という意味になるのか、などの点は考慮されていない。それが許されるなら「食料のよくとれる丘」とか「山の幸」といった解釈だって可能なはずだ。結局、部分部分をつなぎ合わせただけの都合のいいこじつけなのである。

英語でフード=食料、ヒル=小山、だとしても、フドフドヒルヒルを「英語でごちそう、ごちそうの意味」と解していいなどと思う人はいないだろう。そう、マルモリはアイヌ語でご馳走の意味だなどというのは、アイヌ語を舐めているのである。つまり、アイヌ語という未知の未開言語なら単純に言葉を置き換えてつないで意訳しても許されるだろうという意識がそこに見え隠れする。

ちなみに、日本の地名でアイヌ語とのある程度の関係性が見られるのは東北地方の白河の関付近以北のみであるというのが現在の学術的な結論である。それ以外はすべてこじつけにすぎないし、東北地名であってもすべてを(バチェラーの時代以降の)アイヌ語で解釈するのはやはりトンデモということになる。

人間の言語の発音数は有限だから、他の言語をこじつければいくらでもこじつけられる。それは学術的な態度ではなく、トンデモというべきである。こじつければキリマンジャロだって「霧満邪路すなわち霧で見通しの悪い道の山という意味だ」とか言えてしまう。「言えてしまったら偶然とは思えない、真実だ」というのはトンデモ思考だ。それはアイヌ語に限らない。万葉集を古代朝鮮語と称するもので読んでみたり、日本語とタミル語を無理やりひっつけてみたりするのも、この類のこじつけトンデモにほかならない。

さらに、縄文語=アイヌ語と考えるのもトンデモである。縄文時代の日本列島には数多くの集団が存在していたわけで、縄文人=アイヌ人という考え方自体が誤りだし、さらに「日本語は変わったがアイヌ語は縄文時代からまったく変わっていない」と思うこと自体がおかしい。理系分野でのトンデモと同じく、文系分野でもトンデモはトンデモなのである。幽霊アイヌ語にだまされないようにしていただきたい。

「神聖なる未開人」という見方の問題

イザベラ・バードというイギリスの女性紀行作家がいる。バードは明治十一年に日本を訪れ、『日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)』を執筆した。東京から日光、新潟、北海道を旅し、その中でアイヌと出会っている。バードは、文明開化を進めている日本人よりも、未開のアイヌ人を好意的に描いた。

バードの記録の民俗学・歴史学的な価値は当然高い。しかし、その上で、バードの見方の中に「神聖な未開人」という意識があることも指摘されている。未開の「土人」に対して、「先進的な文明に毒されていない、純粋無垢な人たち」という見方をする――それは自らを「進んだ文明人」と認識した上で、その反動で「進んでいるがけがれた文明人」と「遅れている、劣っているが純粋無垢な未開人」という対比を行なっているのである。

そのゆがんだ見方は、現代にも受け継がれている。いや、近年強まっているといえる。たとえばちょっと検索するだけで「アイヌ民族は……自然界と共存共生し慎ましく生きて来ました」「文字も持たずに大自然の中で生きてきたアイヌ」といった文言が出てくるが、それは「未開なるがゆえに純粋・神聖である」という見方と密接に絡んでいる。いわば「ロハスなアイヌ人」である。ここに潜む「神聖なる未開人」という見方に、文明人と自称する側の蔑視やおごりが存在しないかどうかは慎重に反省せねばならないところである。

自然との共存共生が悪いわけではない。しかし、「反科学技術」としての「未開性」を不用意に持ち上げるならば、たとえばアイヌ民族がアットゥシの代わりに洋服を着ることを快く思えなかったり、アイヌ出身者はたとえばIT企業ではなくシャケを採る祭りばかりに従事しているのがいいと思ったりするような、誤った「未開の押しつけ」になりかねない。アイヌ文化やアイヌの伝統を尊重することと、アイヌを未開に留めることはまったく別のはずであるが、往々にしてセットにされてしまうのだ。

エキゾチックだとかロハスだとかいう言葉は、「文明に毒されたわれわれ文明人の失った美しいものを残している人たち」に向けられた羨望のまなざしであるが、その背後には「自分は文明の恩恵に浴している」という自覚と、「文明×未開」という対比が潜んでいることを自覚せねばならない。

「マルモリはアイヌ語」というデマに潜む野蛮視・未開視というわたしたちの「無意識の視線」に気づくことが何より重要なことである。

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2012年1月30日17:14| 記事内容分類:日本時事ネタ, 民俗学・都市伝説, 言葉| by 松永英明
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このページは、松永英明が2012年1月30日 17:14に書いたブログ記事です。
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