大阪維新の会のエセ科学的「家庭教育支援条例(案)」逐条批判

大阪維新の会大阪市会議員団が提出しようとしている「家庭教育支援条例(案)」が大きな批判を浴びている。特に「発達障害は親の育て方が悪いから」というエセ科学理論を前提とした提案であることが批判の的となっている。エセ科学と伝統偽装に裏打ちされた提案は、現実には害悪しかもたらさないだろう。

この条例の思想のバックボーンには、ある一般財団法人が絡んでいることも見逃せないポイントだ。その財団法人の付与する民間資格を支援するとも明記されている。

以下、自由法曹団のサイトで公開された「大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1~23条)」をもとに、逐条批判していきたい。

2012年5月 3日17:04| 記事内容分類:政治学, 日本時事ネタ| by 松永英明
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家庭教育支援条例 (案)

平成24年5月 「大阪維新の会」 大阪市会議員団

* 第1章 総則 * 第2章 保護者への支援 * 第3章 親になるための学びの支援 * 第4章 発達障害、虐待等の予防・防止 * 第5章 親の学び・親育ち支援体制の整備

これは「大阪維新の会」大阪市会議員団が提出した案である。橋下徹氏のシンパの中には「新聞記事によれば、この条例案は議員提案であり、橋下市長自身は条例案の中身については知らないということなので、維新の会を叩く根拠にはなっても橋下市長を叩く根拠にはなりませんよ」と主張する人もいる。もっとも、後述するように、橋本市長は「市民に義務を課すのは基本的に好きじゃない」という観点で発言しており、この条例案の根本的な問題点は認識していないようである。

前文1 伝統偽装

(前文)
 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。

 前文の第一パート。初っ端から「かつて子育ての文化は」という伝統偽装の文面が踊る。昔はよかった、という黄金時代回想論の多くは、具体的な時期を明記しない。もしくはごく限られた時代のみを「これまでずっとそうだった」と述べる。

 しかし、理想的な子育ての時代は本当にあったのか。戦前までは間引きもあった。伝統的な子育て文化としては乳母も見過ごせない。

 子育て文化を担うのが親だけでなく地域社会なども含まれる、というのはそのとおりである。この点、「親だけに子育ての責任を負わせる」という自民党の主張とは正反対である――かのように見えるが、実はこの維新案も同じである。いや、子育ての全責任を「親の親心の喪失と親の保護能力の衰退」に押しつけているという点で、この前文の言葉とは完全に矛盾しているのである。

 各条文で見るとおり、地域社会が親を支援する(つまり、親が負担を負いすぎなくてよいようにバックアップし、時には代行して親を休ませる)ような内容は何一つとしてない。すべて「親の親力が衰退しているから、特定の子育て思想に基づいて親を鍛え上げよ」という提言となっている。

 第二段落で「これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず」というのは、「これまでの祖父母や親族からのルートでは」という但し書きが必要である。現在はそれを補う存在として、プレママ雑誌や子育て雑誌、通信教育(ベネッセ等含む)、母親学級・両親学級、その他自治体や民間の支援サポート体制があるわけだ。

 ちなみに、ここまでの「伝統偽装」として、核家族化以後おかしくなったと言いたげだが(そうすると、40代のわたしの世代も当然、「親心を喪失し、保護能力を失った親」に育てられたということになるのだろう)、実際は日本において家事や育児に専念できる「専業主婦」が定着したのは高度成長期の「男の稼ぎで一家を支えられるようになった」時代だけである。それ以後の景気低迷の中で再び兼業主婦が増えたということは、「専業主婦の時代」は高度成長期のたかだか数十年の幻想といえるだろう。

 そもそも、主婦という言葉の発祥は大正六年(1917)つまり約100年前、『主婦の友』創刊時の造語であり、「主婦は一家を支える二つの柱、主人に対しての主婦」という理念だった。それ以前は主婦という概念すらなかったわけである。

前文2 エセ科学的断定

 近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。

 前文の第二パート。このあたりから文章が右往左往する。ここでは「児童虐待の背景」として「親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題」を結びつけている。虐待をする親に情緒的その他の問題があることは確かだとしても、それが「ながら授乳が8割を占める」ということとは何の関係もない。児童虐待している親とそうではない親(大多数)を比較して児童虐待の親のながら授乳率が有意に高いなどという調査は、寡聞にして知らない。むしろ、「ながら授乳」と児童虐待には相関性はないと見るべきである。

 ここでは「児童虐待=親の能力衰退」と決めつけていることを押さえておこう。

 さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。

 「気になる子」「新型学級崩壊」と「ひきこもりとその予備軍」を並べ、「ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている」という。特に後文は意味不明である。というのも、「虐待」というのは親から虐待を受けたことを指す言葉である。一方、ひきこもり・不登校・非行というのは情緒障害と深い関係がある。そして、器質的要素が非常に大きい発達障害は、また別のことである。

 これらの相関関係については、「明らかになっていない」というのが現在の研究成果である。たとえば横谷祐輔・田部絢子・石川衣紀・髙橋智「「発達障害と不適応」問題の研究動向と課題」(東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 61(1): 359-373, 2010-02-00)によれば、

「発達障害と非行等に関するレビューでは以下のような課題が明らかになった。事例研究においても量的な調査においても,その母集団において特殊なケースが多く,解釈にはその特殊性を十分に考慮しなければならないにもかかわらず,発達障害と非行・行為障害・触法行為を直接的な関係・要因として般化してしまっている研究も多いという問題が明らかになった」

ともある。つまり「発達障害と非行・行為障害・触法行為を直接的な関係・要因として般化」することは適切ではないということだ。

また、虐待を受けた児童に問題が起こりやすいとしても、それらの問題の原因をすべて虐待とするわけにはいかない、というのもまた至極当然の話だろう。いま仮に「虐待を受けた児童に発達障害が多く見られる」としても(これも否定する実証研究がある)、発達障害の子供は親に虐待を受けたからだ、という結論は絶対にありえない(ある、と思う人は、論理学の基礎中の基礎をやり直すべきだろう)。

しかし、この条例案の中では「親心の喪失・親の保護能力の衰退」→「虐待」→「発達障害」→「引きこもり・非行・不登校・気になる子・新型学級崩壊」という「エセ因果関係」が前提となっていることが読み取れる。とんでもない話である。「笑えたり、楽しんだりできないものは除く」というトンデモの原義から言えば、これはトンデモですらない。単なる「エセ人文科学」である。

前文3 親のみに責任を問う

 このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。
 これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。
 このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。

 大阪市の条例案で「本県」というのは、この案を日本全国に適用させようとしているからだ、という意見もあるので、ここでは深く突っ込まない。

 この前文3で強調されているのは、「親を鍛え直さなければならない」という主張である。それは「保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援」するという教育基本法の条文とは食い違う。なぜなら、それに基づく「母親学級」などの施策とは異なり、「親の利便性」(と彼らが主張するもの)を激しく敵視した上で、「子供の「育ち」が著しく損なわれている」というズレた現状認識のもと、「親の学び・親育ちを支援する」というより強制することを宣言しているからである。

 わたし自身も経済より幸福の物差しへ転換するという言葉自体には賛同したいが、残念ながらここで言っている「幸福の物差し」とは、「特定のゆがんだ、エセ科学的な前提に基づいた親たちへの“洗脳”」にほかならない。

第1章 (総則)

第1章 (総則)

(目的)
第1条
1項 親およびこれから親になる人への「学習の機会及び情報の提供等」の必要な施策を定めること
2項 保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定めること
3項 前2項の目的を達成するため、家庭教育支援推進計画を定めること

第一条1項はまあいいだろう。問題はその学習・情報の内容である。

第2項。ここが大変なところである。発達障害は、決して親の責任ではない。まずこの科学的前提を踏まえる必要がある。発達障害の「予防・防止」など、現在の日本にはそれを可能とする理論も技術も存在しない(実効性のないトンデモ私論を除く)。「保育、家庭教育の観点から」といって発達障害と虐待を同列に扱っている時点で、この条例案は非科学的な妄想でしかないと言い切ってよい。

なお、発達障害の原因として虐待が関係するかどうかについては、たとえば中根成寿「障害は虐待のリスクか?~児童虐待と発達障害の関係について~」(京都府立大学福祉社会研究 8, 39-49, 2007)を参照してみよう。この論文自体は「子供に発達障害があると親は虐待しやすくなるのか否か」ということを考察しており、今知りたいこととは逆のアプローチといえる。ただ、その中で、「田中(2003、2005)は児童の障害(発達障害含む)と児童虐待は本来直接の因果関係や関連が証明されているわけではなく、障害をもつ子どもの多くが虐待されているわけでもない、と指摘している」という。(ここで参照されている論文は、田中康雄(2003)「発達障害と児童虐待(maltreatment)」『臨床精神医学』3(2):153-159、同(2005)「発達障害と児童虐待(maltreatment)」『子どもの虐待とネグレクト』7(3):304-312)

また、中根氏の論考のまとめでは以下のようにも記されている。

「虐待のハイリスクグループ、つまりすでに虐待が起こった家族においては児童の障害は当該家族にとって数多くある虐待要因の一つであることが先行研究から確認された。だが、児童の障害があっても虐待とは無縁な層も数多く存在しており、なぜその家族にとって児童の障害が虐待へとつながらないのかという補償要因の調査は、現実的に実現が難しい。
 また本稿では虐待と児童の障害の種類において、行動障害や自閉傾向を示す児童により高いリスクがみられることから発達障害に注目したが、児童虐待の二次的被害と発達障害の症状とは、実際の臨床場面では判別不可能に近いという指摘もあり、どちらが原因であるかが明らかにならない「微妙な関係」(田中 2006:193)である。」(※参照論文は、田中康夫(2006)「軽度発達障害と児童虐待の微妙な位置関係」『現代のエスプリ―スペクトラムとしての軽度発達障害I』474:187-194)

「児童の障害は児童虐待のリスク要因ではあるが単一の発生要因ではない。児童の障害に加えて、貧困や社会的孤立、親自身の健康状態や障害という他のリスク要因が加わって初めてリスクが顕在化する。山野(2006)が言うように児童虐待の増加は児童の障害や子育てのストレス、母親の孤立よりも、生活保護世帯の増加や失業率の増加との相関も高い。」(※参照論文は、山野良一(2006)「児童虐待はこころの問題か」上野加代子編『児童虐待のポリティクス―「こころ」の問題から「社会」の問題へ』明石書店:53-99)

 この条例案が目の仇にしているのは、ネグレクトすなわち育児放棄であろう。ネグレクトは立派な「児童虐待」の一つである(肉体的な暴力を振るわないタイプの虐待である)。ところが、その児童虐待と発達障害の因果関係については、「明らかにならない」とされている。子供に障害があるから虐待した、という親は確かに存在するが、そうでない層もある。つまり、虐待と無縁なのに発達障害という子供は、例外どころか普通に見られるのだ。

 つまり、「発達障害」を「予防・防止」するために「親」をなんとか教育しよう、というのは、まったくもって見当外れのエセ科学的方策としか言いようがないのである。

(基本理念)
第2条
家庭教育の支援は、次に掲げる条項を基本理念として、推進されなければならない。
(1) 親は子の教育について第一義的責任を有すること
(2) 親と子がともに育つこと
(3) 発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること

 こういう理念を持つこと自体は「言論表現の自由」から言っても認められるべきだろうとは思うが、エセ科学に基づいた発想で作られたこの条例案の中で「科学的知見を共有」というのは何かの皮肉であろうか。

 なお、現在の子育て/少子化問題における最大の問題は、「(母)親に子育ての過分な責任が強要される」ことにあると考えている。「母乳がいい」というのは事実だが、「母乳でなければダメ」「母乳を与えない母親は失格」「母乳でなければ育児とはいえない」というような発言が普通に見られ、それが母親もしくは母親になろうかと考えている女性への強大な精神的圧迫となっている。

 これは「保育所に預けられる子供はかわいそう」という圧力も同じで、今の母子手帳では「そんなことはない、社会性を早くはぐくむ利点もある」とフォローされているが、それでも「24時間365時間、母親が育てなかったら育児したと言ってほしくない」「保育所に預けなければいけないような親は子供を産むな」「仕事と子供のどちらを選ぶのか。どちらかだけの二択であって、どちらも両立したいなどは子供への虐待」というような極端な意見も実際にわたしは見てきた――それも「子育てに理解のないオトコ」だけではなく、恵まれた「育児に専念できる母親」からも。中には育児に積極的に参加する「イクメン」さえも「母親の義務の放棄」のようにとらえて批判する例もある。

 このような「母親への過剰な負担要求」が、「子供を持っても負担が大きいだけ」という意識を増大させ、結局「じゃあ子供なしの人生を選ぼう」という人を増やしているのも事実である。そして、この条例案の背景に、そういう「母親への過剰な負担要求」こそが「伝統的なあり方」だというエセ科学的思考が存在するのが、最大の問題点であると言える。単に条文の一つ一つの運用上の問題などではなく、根本理念が狂っているのである。

(社会総がかりの取組)
第3条
前2条の目的および基本理念にもとづき、家庭教育の支援は、官民の区別なく、家庭、保育所、学校、企業、地域社会、行政が連携して、社会総がかりで取り組まれなければならない

 いや、そんなことはない、親への過分な負担の押しつけだなんて言いがかりだ、この第3条を見れば社会全体が支援すると言ってるじゃないか――という反論が予想される。しかし、これは巧妙な詐術である。なぜなら「育児の支援」ではなく「家庭教育の支援」だからである。つまり、育児全般をバックアップするのではなく、「親への強制的教育=洗脳」を「社会総がかり」で取り組まなければならない、と主張しているからだ。

 先の論文でもあるように、「生活保護世帯の増加や失業率の増加」が虐待と相関しているというデータも示されている。少なくともカネがすべてではないとしても、虐待を防止するための経済的支援・就業支援あるいは待機児童ゼロ化政策などについてまったく触れることなく、ただ「親心教育」のみを「総がかりで取り組」もうというのは、見当外れとしか言いようがない。

第2章 (保護者への支援)

第2章 (保護者への支援)

(保護者への支援の緊急性)
第4条 現に子育て中であるか、またはまもなく親になる人への支援は、緊急を要するため、以下に掲げる施策が、遅滞なく開始されなくてはならない

 「親の学び」というものが、しかもそれだけが「緊急を要する」ものとして扱われている点で、何らかの思想団体による訴えのようにみえる。

(母子手帳)
第5条
母子手帳交付時からの親の学びの手引き書の配付など啓発活動の実施、ならびに継続的学習機会の提供および学習記録の母子手帳への記載措置の実施 

(乳幼児検診時)
第6条
3ヶ月、6ヶ月、1歳半、3歳児検診時等での講習の実施ならびに母子手帳への学習記録の記載措置の実施

 ここで書かれているのは「親の学びの手引き書」を配ること、その「学習記録」を「母子手帳に記載する」こと、定期的な乳幼児検診のときに「講習」を行なってその「学習記録」を母子手帳に残す、という思想強制策である。これで「学習」を拒否したら発達障害の原因となる虐待親とでも認定されるのだろうか。

(保育園、幼稚園等での学習の場の提供)
第7条
すべての保育園、幼稚園等で、年間に1度以上、保護者会等での「親の学び」カリキュラムの導入

 すべての保育園・幼稚園に「親心・育児能力の衰退が虐待を招き、それが発達障害を生み、さらに引きこもり・不登校・非行・学級崩壊などの原因となる」というエセ科学的な理論を受け入れさせようというものである。

(一日保育士、幼稚園教諭体験)
第8条
すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化

 【激動!橋下維新】「市民に義務、好きじゃない」、維新市議団の「家庭教育支援条例案」に橋下市長異論 - MSN産経westによれば「保護者の一日保育士・幼稚園教諭体験の義務化が盛り込まれたことについて「市民に義務を課すのは基本的に好きじゃない。維新の会の政治行動ではない」と述べ、否定的な見解を示した」とある。

 だが、これは条文的には「すべての保育園・幼稚園」が「体験」を実施することを義務化する、と読める。橋下氏が理解していると思われる「保護者がみんな受けろ」ではなく「保育園・幼稚園は義務として実施しろ」という主張である。しかも、橋下氏の反論ポイントは、「市民に義務を課すな」というところであるので、どうも論点が違うように思われる。

 もしこれが橋下氏の理解どおり「保護者がみんな受けろ」なのであれば、なんですでに家庭で育児に追われている親にわざわざ「一日保育士・幼稚園教諭体験」までさせるのか、という点が問題になろう。

(学習の場への支援)
第9条
保育園、幼稚園、児童館、民間事業所等での「親の学び」等の開催支援

 「学び」という言葉自体が自己啓発系の胡散臭い用語であることは別にしても、ここで「学ばされる」ことが「親心や保護能力の衰退があるから、発達障害になるんです!ながら授乳が悪いんです!」みたいな思想であれば、それはエセ科学への招待としか言いようがない。その洗脳教室を自治体が開催支援しろとはあきれ果てる。

第3章 (親になるための学びの支援)

第3章 (親になるための学びの支援)

(親になるための学びの支援の基本)
第10条 これまで「親になるための学び」はほとんど顧みられることがなく、親になる自覚のないまま親になる場合も多く、様々な問題を惹起していることに鑑み、これから親になる人に対して次に掲げる事項を基本として、学びの機会を提供しなければならない。
(1) いのちのつながり (2) 親になることの喜びと責任 (3) 子供の発達過程における家族と家庭の重要性

 親になる自覚は確かに必要だろう。しかし、それが「親心と保護能力を高めれば発達障害にもならないし、非行や学級崩壊も防げる」というのであれば、そんなエセ科学など学ばない方がずっとマシである。

(学校等での学習機会の導入)
第11条
小学校から大学まで、発達段階に応じた学習機会を導入する

 学習することはよいが、導入する内容が根本的に問われている。

(学校用家庭科副読本および道徳副読本への導入)
第12条
小学校から高等学校まで、発達段階に応じて、次に掲げる事項を基本とした家庭科副読本および道徳副読本を作成し活用する
(1) 家族、家庭、愛着形成の重要性
(2) 父性的関わり、母性的関わりの重要性
(3) 結婚、子育ての意義

(家庭用道徳副読本の導入)
第13条
前12条の内容に準じて、保護者対象の家庭用道徳副読本を作成し、高校生以下の子供のいる全ての家庭に配付する

 家庭科のみならず「道徳」というところに思想性が強く表われている。

 (1)は家族至上主義であることが問題だ。適切な「愛着」形成であればよいが、家族・家庭至上主義は逆に家族への反発を生む場合も多い(わたし自身そうである)。子供への過剰な愛情の押しつけが逆に非行を生むことも多い。

 (2)は父性的関わり、母性的関わりと書いている以上、男女のジェンダー役割を強調するものと考えられる。後述するこの思想の提唱者の傾向から見ても、たとえば「母親が稼いで主夫が育児する」ような家庭は完全否定されるものと思われる。

 (3)はこれだけでは何とも言い難い。結婚、子育ての意義についてどういう意義があると教えるのかが大きな問題である。

(乳幼児との触れ合い体験学習の推進)
第14条
中学生から大学生までに対して、保育園、幼稚園で乳幼児の生活に触れる体験学習を義務化する

 まあそういう体験はないよりあった方がいいかもしれない。だが、それがこの条例案の思想による指導であれば、害悪である。

第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)

第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)

(発達障害、虐待等の予防・防止の基本) 第15条 乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる

 ホメオパシーや「水からの伝言」レベルの完全なエセ科学である。乳幼児期の愛着形成は確かに重要であるが、それが「軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」とするのは、どこにそういう知見があるのかという話である。

 そもそも「軽度発達障害」とは医学用語でも行政用語でもない。たとえばAD/HDを軽度発達障害に含めるか否かは研究者によって分かれている。このような曖昧な概念について、その「大きな要因」を「乳幼児期の愛着形成」一つの責任とし、それがまた「虐待、非行、不登校、引きこもり等」に直結するかのような前提を「鑑み」ているような議論は、そもそも成り立たないのである。

 簡単に言えば、「乳幼児期の愛着形成の不足」を防ぐことで「虐待、非行、不登校、引きこもり等」の「予防・防止をはかる」ことができるなどと考えるのがすでに非科学的ということである。しかも「虐待」を行なうのは親、「非行、不登校、引きこもり」を行なうのは子供であるから、条文作成者も混乱していると思われる。

 しかも、軽度発達障害の原因が「親の育て方」にあることは、医学の分野からは明確に否定されている。たとえば、岡山県保健福祉部子育て支援課が発行している「軽度発達障害理解のためのガイドブック」(協力:岡山県保健福祉部健康対策課)は、児童精神科医師・小児科医師・臨床心理士・児童相談所所員らが執筆しているものであるが、その「(3)原因について」ではこのように明記されている。

「いずれの障害も、医学的には環境や心理的な問題が直接的な原因ではなく、器質的な原因(身体の特定の部位が障害された状態)によって発生していると考えられています。生まれつき、または出生後早期に脳の特定の機能が障害されたことが原因で、様々な症状が引き起こされており、決して親の育て方や、しつけ、学校の対応などが原因で発症するものではありません。」(強調:引用者)

 また、同項目内「3)児童虐待との関係について」ではこう書かれている。

「虐待を受けて育った子どもは、情緒的に混乱し対人関係が不安定なため、多動、衝動性、対人関係の障害、こだわりなど、軽度発達障害の子どもと共通する特徴を示すことがあります。逆に、軽度発達障害があるために育てにくく、これが保護者の養育負担感を増して虐待を引き起こす場合もあります。このように、軽度発達障害と虐待との関連は密接であり、慎重に評価する必要があります。」

 つまり、虐待を受けて育つと「軽度発達障害の子どもと共通する特徴を示すことがあります」というのだから、逆にいえば虐待と無関係な軽度発達障害が見られるのは事実である。また、「逆に、軽度発達障害があるために育てにくく、これが保護者の養育負担感を増して虐待を引き起こす場合もあります」というのだから、因果関係がまるっきり逆転してしまう。

 この条例の基本的な発想の元であるといえる第15条は、科学的に全否定されるのである。言い換えれば、この条文一つを否定するだけでこの条例案すべてが否定される。

 この条例案の発達障害に関する内容についての批判としては、大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について - lessorの日記発達障害を「予防、防止」する? - 大阪市・家庭教育支援条例(案)を読んで - Whateverも参照のこと。

(保護者、保育関係者等への情報提供、啓発)
第16条 予防、早期発見、早期支援の重要性について、保護者、保育関係者およびこれから親になる人にあらゆる機会を通じて情報提供し、啓発する

 軽度発達障害や虐待について「早期発見」は非常に重要だし、適切な「早期支援」は必要だが、予防は不可能であるし、また早期支援の内容が「親心の涵養」などであれば逆に必要な医学的支援を妨げるものともなりうる。

(発達障害課の創設)
第17条
1項 発達障害の予防、改善のための施策は、保育・教育・福祉・医療等の部局間の垣根を廃して推進されなければならない
2項 前1項の目的達成のために、「発達障害課」を創設し、各部局が連携した「発達支援プロジェクト」を立ち上げる

 こんな課が創設されれば、児童福祉相談所の仕事を妨げるのみならず、科学的に否定される政策を市が率先して行なうという事態にもなりかねない。

(伝統的子育ての推進) 第18条 わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する

 ツッコミどころ満載である。まず「我が国の伝統的子育て」とは何か。現代の医学で予防・防止できない器質的な問題である発達障害を「予防・防止できる」方法など存在するのか。また、「我が国の伝統的子育て」が仮に「予防・防止できる」とするのであれば、かつて日本には発達障害の児童は予防・防止されていたという実績はあるのか。それは単にそういう障害が認識されていなかっただけではないのか。

 かつての日本(がいつの時代を指すかはともかく、おそらくこの条文からいえば明治から終戦ごろまでの百年くらいを指すのだろうが、その時期の日本)においては、むしろ、発達障害の児童は間引かれ、捨てられてきた。あるいは逆に「福助」のように福を招く「まれびと」として扱われてきた。だが、発達障害そのものを「我が国の伝統的子育て」なるものが発生させなかった、あるいは発生率を低く留めていたという事実は認められない。

 子育ての知恵を伝えていくというのはいいが、もしそれが「布おむつ絶対、紙おむつは育児放棄」というような旧態依然の実情に合わない「知識」をもって「親」への強迫観念を強めるだけであれば、百害あって一利なしである。

(学際的プロジェクトの推進)
第19条
保育・教育・福祉・医療等にわたる、発達障害を予防、防止する学際的研究を支援するとともに、各現場での実践的な取り組みを支援し、また、その結果を公表することによって、いっそう有効な予防、防止策の確立を期す

 少なくとも医療の現場からいえば「発達障害を予防、防止する研究」というもの自体が非科学的であるし、もし支援されたとしても、その研究結果は、発達障害の原因が「親心」や「親の保護能力」の衰退、もしくは「乳児期の愛着形成」にはない、という、この条例案を根底から覆す結論となることはすでに明白である。

第5章 (親の学び・親育ち支援体制の整備)

第5章 (親の学び・親育ち支援体制の整備)

(民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築推進)
第20条
親としての学び、親になるための学びの推進には社会総がかりの取り組みが必要なため、民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築を支援し、推進する

 すでに触れたが、「育児」に対する「社会総がかりの取り組み」ではない。「親としての学び、親になるための学びの推進」に対する「社会総がかりの取り組み」である。そして、この「学び」の内容が、結局は「乳幼児期の愛着形成」や「親心」や「親の保護能力」で「発達障害を予防、防止できる」という非科学的な内容である以上、社会にとって害悪しかもたらさない。

(民間有資格者の育成に対する支援)
第21条
親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する

 「親学アドバイザー」というのは一般財団法人 親学推進協会による民間資格である。このサイト自体が「-親が変われば、子どもも変わる-」という言葉をキャッチフレーズにしており、この条例案のバックボーンとなっているようである。

 お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 「親学」問題について、とりあえずのまとめ。では、この「親学」は「脳科学と称するものを主張の根拠にしており、その点において似非科学でもある」と分析し、「少なくとも発達障害ないし自閉症については、はるか30年以上前に息絶えたはずの古い誤った主張が、「脳科学」という現代的フレーバーで古さをカモフラージュしつつ、ある種の政治思想を伴って復古してきたものであり、思想的にはむしろ障害・障害者への差別・排除意識がある」という。

 このようなエセ科学に基づく思想を普及する一「財団法人」の思想にのっとり、市がその民間資格をバックアップしようとしている。「ホメオパシーアドバイザーの資格取得を○○市が支援する」というのとまったく同レベルのことが、大阪市で維新の会議員によって提案されようとしているのである。

 なお、親学アドバイザー資格を得るには、親学基礎講座をすべて修了(全4講座で13,000円(税込み、別途テキスト代1,680円))した上で、全6講座(25,000円(税込、認定審査料5,000円を含む。別途テキスト代1,680円))が必要となる。合計で4万円を超える。

 エセ科学に基づく特定の財団法人の思想にのっとって条例案を出し、しかもその民間資格を支援する、と明記されたこの条例案を通そうとしているのである。もはや「維新」どころか「社会破壊活動」といわざるを得ない。

(「親守詩」実行委員会の設立による意識啓発)
第22条 親と子がともに育つ実践の場として、また、家族の絆を深める場として、親守詩実行委員会を設立して発表会等の催しの開催を支援し、意識啓発をおこなう

 「親守詩」とは珍しい言葉である。わたしも初めて知った。ググってみれば、「こもりうた」に対する「おやもりうた」なのだそうだ。愛媛県松山市で生まれたもので、作った人は「明星大学の高橋史朗教授」だという。

 高橋史朗教授は、一般財団法人・親学推進協会の理事長をつとめる人物である。元埼玉県教育委員長でもあり、かつて「新しい歴史教科書を考える会」の副会長をつとめたこともあった。親学推進協会を思想的に支えているのは高橋史朗教授ともいえる。過去の経歴はあえて問わない。わたしは「だれが言ったかではなく、何を言ったか」のみで批判するのがポリシーだからだ。そして、今、わたしはその主張そのものに反論している。

 「親に対する気持ちを詩にしろ」と子供に強いるのは何とも気色悪い試みだが、これまでの実績としては、愛媛県松山市、香川県、奈良県、沖縄県八重山などで実施されてきているようである。いずれにしても、この条例案が高橋史朗教授ならびに親学推進協会と非常に深いつながりのもとで作られていることが、この条文から明らかとなる。

(家庭教育推進本部の設置と推進計画等の策定)
第23条
1項 首長直轄の部局として「家庭教育推進本部」を設置し、親としての学び、親になるための学び、発達障害の予防、防止に関する「家庭教育推進計画」を策定する 2項 「家庭教育推進計画」の実施、進捗状況については検証と公表をおこなう

 最後に、これを市ではなく市長直轄の施策とせよ、という。つまり、橋下徹市長がこれらの事業を強力に推し進められる権限を与えよ、というわけだ。

 検証するなら、まずはこの条例のバックボーンとなっている思想そのもののエセ科学性を検証するところから始めてほしいものである。

まとめ

 今回の条例案ならびにそのバックボーンとなっている親学思想は、器質性の要因によって引き起こされる「発達障害」を親の責任とし、それを子供の問題の解決策としているもので、完全なエセ科学である。いくら親の愛が深くても、いくら親の育て方に問題がなくても、発達障害の子供は一定確率で生まれうる。その発達障害を負った子供の親に対して、「育て方が悪い」「親心が足りない」「親の保護能力が衰退している」などと言い放つのは、人の心を持たない者による暴力となる。親というものは(特に母親というものは)「これで足りているのだろうか、まだ足りないのだろうか」と不安になるものだが、そこへ「親心が足りないから発達障害になるのです」などと言い放つような政策が採用される暗黒社会にならないことを心から願うものである。

補足

この記事をアップした直後、橋下氏の以下のツイートを見た。

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2012年5月 3日17:04| 記事内容分類:政治学, 日本時事ネタ| by 松永英明
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