「猥褻風俗史」の版間の差分

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2009年3月19日 (木) 23:27時点における版

宮武外骨『猥褻風俗史』表紙

猥褻風俗史(わいせつふうぞくし)は、宮武外骨の著書である。当サイト編集者所蔵の和装本の奥付は以下のとおり。

  • 明治四十四年四月五日発行(百部製本)
  • 編輯兼発行者 大阪市西区江戸堀南通四丁目十番邸 宮武外骨
  • 印刷者 大阪市西区京町堀通四丁目廿八番邸 福田友吉
  • 発行所 大阪市西区江戸堀南通四丁目 雅俗文庫

ここでは、宮武外骨著『猥褻風俗史』の全文を現代語訳した上で全文掲載する。現代語訳者は松永英明である。

訳者解説
本書は日本の「猥褻」に関する風俗の歴史をまとめたものである。宮武外骨は、本書ではかつて刊本に書かれたものを資料として採用し、出典を記すことを重視している。また、猥褻なものを「公然」とすることは野蛮な風俗であり、文明開化の人はおのずからそのようなものに対する羞恥心を持つものであると主張している。そのため、近代における猥褻物取締についても許容する姿勢を見せている。本書の内容としては、約半数のページを割いて、「神体」として陽物・陰物が祭られる例を詳細に記している(猥褻風俗史 (神体))。陰陽石や金勢大明神・金精大明神に対する信仰について、過去に書かれた文献が多く引用されており、重要な資料といえよう。後半の歌謡・刊本・見世物等についての記述はやや記述が少ないが(猥褻風俗史 (歌謡・刊本・観物))、当時の言論取締の状況を考えれば、やむを得ない部分も多々あろう。
21世紀の現在から見れば、「文明が進めば羞恥心が強まり、公然たる猥褻はなくなっていく」という外骨の主張とは反対の状況が展開しているように思われる。

目次


かれそのしまにあもりまして あめのみはしらをみたて やひろどのをみたてたまひき こヽにそのいもいざなみのみことに みましのみはいかになれるととひたまへば あがみはなりなりてなりあはざるところひとヽころありとまをしたまひき いざなぎのみことのりたまひつらく あがみはなりなりてなりあまれるところひとところあり かれこのあがみのなりあまれるところを みましのみのなりあはざるところにさしふたぎて くにうみなさむとおもふはいかに とのりたまへば いざなみのみことしかよけんとまをしたまひき 和銅四年(ふることふみ)

自序

この『猥褻風俗史』は、今日猥褻の事物と認められるものを、昔は法律上あるいは道徳上何らの制裁もなかったことを歴叙するものである。

ここに「猥褻」というのは、男女の交接またはその陰部を形容した器物・絵画・言語・動作などを総称し、また公然の交接および公然陰部を露出するをも包含する。「風俗」とは時代の状態、すなわち複数の習慣をいい、「史」とはその風俗を歴叙するをいう。

現行日本刑法第百七十四条および第百七十五条にいわく、

公然猥褻の行為を為したる者は科料に処す(十銭以上二十円未満)
猥褻の文書図画其の他の物を頒布若くは販売し又は公然之を陳列したる者は五百円以下の罰金又は科料に処す、販売の目的を以て之を所持したる者亦同じ

この罰則は、ただ我国のみならず、現今文明各国においてひとしく制定されている。

しかし、野蛮時代・半開時代においては、これを禁止する法律はなかった。下って半文明と称すべき時代においても、これを禁止するものもあれば、禁止しないものもあった。否、遠い往古を尋ねるまでもなく、近い明治四十年の前後に至って初めて禁止した事物もあったのである。

今、古学者の記録およびわたしが考究したところ、実地見聞したところを総合して、その事実を挙げる。

人は難ずるかもしれない。「猥褻の風俗を叙することもまた猥褻ではないのか」と。そう言ってはならない。考古癖者の見地として修史の著を公刊すること、何の卑猥であろうか。みよ、生理学者の著には極端な男女生殖器の解剖図を描出して細叙しているではないか。いわんや、現今の道徳(羞恥心)に背くことなく、法律(禁令)に接触しないよう、その極端な図画や文章を除いて筆を執ったこの著においてをや。

「辞気を出して茲に鄙倍を遠ざく(言葉遣いに気をつければ、いやしく道に背くことから離れられる)」。真君子もまた閲覧されて大丈夫である。

   明治四十四年三月二十日

総説

西洋の哲学者で進化論者の説によれば、男女が公然交接するのを猥褻の行為であるというのは、原人時代における生存競争上の習慣が道徳的観念を生ずるに至った結果であると論じている。男女の配偶は子孫繁殖の必要から起こった天法であって、これは人倫の大道である。人類が飲食し、話すのと同じく、房事もまた公然行なって不可はないのであるが、これを恥ずべきこととして秘密に行なうのは、闘争略奪をこととしていた野蛮時代の原人が、他人に婦女略奪の機会を与えない用途したのに基づくとして、「他人を羨ましがらせる交接のようなものは、決して公になさなかった。その公になさなかったのは、他人にはばかり恥じたためではない。これを公行するときは、他人に掠奪の機会を与えるからである。このように防御上から出た習慣がついに後世に伝わり、防御の必要のない今日においては、一種格別の道徳感情を生じて、これを公行するのを猥褻であるとするに至ったのであろう」と説いている。

神学者はこの説を否定するというが、証明世態学(※社会学)の挙証によれば、原人に道徳観念のなかったことは歴然としており、かれらにいまだ羞恥心が発生していなかったことがわかる。なおまた「個人発育の順序は全人類進化の程度を追うものである」といって、野蛮時代の縮写図と考えられる小児の行為を見ると、小児が陰部を出して少しも恥じないのは、すなわち原人時代に羞恥心のなかったことを証明するものではないだろうか。

とすれば、原人時代にはたがいに裸体であっても恥じる心はなかったであろう。陰部に木の葉を覆い、布片をまとうに至ったのは、やや進化した時代であっただろう。

要するに、羞恥心の発達は、野蛮から文明に進化した表徴と見るべきである。

この著は、その羞恥心の薄弱であった野蛮時代、半開時代の状態を叙して、ようやく道徳制裁・法律制裁の起こった事実を説明するものであるから、いまこれを本邦文明史の一部と見ることも不可能ではない。