猥褻風俗史 (神体)

出典: 閾ペディアことのは

このページは、宮武外骨著『猥褻風俗史』の「神体」の節を松永英明が現代語訳したものである。

目次

神体

西洋諸国においては、往古、男女の生殖器に似た物形を神体として崇拝したといい、インドでも男勢を祭って種々の祈願をこめたことがある。後の仏像に御賓頭盧(おびんづる)というものがあるのは、その男勢崇拝の変化したものであろうという憶説などもあるが、他国のことはここでは言わない。

我国往古の人は、陰陽は万物の始めであるとして、一切を陰陽の男女に分かち、土地山海のごときにも配偶者があるとして、伊予を愛媛と称し、讃岐を飯依彦と称してこれを一対とし、大和吉野に妹山・背山の妹背山ありとし、伊勢の二見の婦夫岩(めおといわ)、男滝(おたき)・女滝(めたき)、男波(おなみ)・女波(めなみ)、男体山・女体山の二山に分けるなど、陰陽の両性を尊崇するあまり、男女の生殖器に似た陰石・陽石を神体として崇拝したのである(石器時代の雷槌というものも男勢をかたどったものであろうという説もある)。

今ここに、古来の刊行雑書中に散見されるその男女生殖器疑似物崇拝の事実を列挙しよう。


(引証記事)

○陰形

享保四年(1719) 新井白石著『紳書』巻九

奥州名取郡笠島の道祖神[1]は、都の賀茂の海原、二条北の辺にある出雲路の道祖神[2]の娘であったが、大切に養い育ててよき夫にめあわそうとしていた。しかし商人に嫁して勘当されて、奥州に追い下げられなさった。国人はこれを崇敬して、神事再拝した。男女所願あるときは、陰相を作って神前に奉る。祈ることがかなわないことがない。

わたしが先年奥州へ下ったとき、信夫郡八丁目[3]というところで昼餉しようとして民家で休んだところ、新しく建てた家に萱で屋根をおおっていた。何となく屋根のうらを見上げたところ、陰形を作ってさしはさみ、その前に鰹節・柳樽のようなものを作り物にして供えてあるのを見て、不思議に思ったが、この故事によるのだろうか。このあたりの村俗にこういうものがあるということは、馬子に尋ねると答えたのであった。

○弓削道鏡の社

延享三年(1746) 菊岡沾涼著『本朝俗諺志』二之巻

常陸国茨城郡高原(府中より一里あり)。このところの畑の中、一茂りの中に弓削道鏡の社がある[4]。神体は石に刻んだ一尺四五寸(約42~45cm)の男根である。

一つ谷を隔てて、山かげに○○○○の宮[5]がある。この神体は石の女根である。これを女法皇男法皇(めほうおう おほうおう)という。

縁の遠い男女がこの両社を祈ると、ふしぎにその験あり。先頃無法者があって、これを誠しからぬ神体であると内陣から取り出し、力持ちにして投げ捨てなどした。たちまち熱を出していろいろなことを口走り、その後下疳(陰部の腫瘍)を病み、永く苦痛して死んだという。

同国の塩子というところに○○○○を観世音にあがめ、これを大○の観音と称す[6]

奥州南部領三ノ戸岡山の金精神の社[7]は、祭神を猿田彦命という。また弓削道鏡を祀るところである。神体は金の男根であり、金○○大明神と号す。○○の弱い人が立願すれば必ず験あり。

同所笠島に同社あり[8]。実方朝臣がここに来たとき、里人は「これは物とがめなさる御神です。下馬しておわたりください」と言った。どういう神かといえば「金○○大明神といって道鏡の宮です」「そのような卑劣の神に下馬に及ばず」と過ぎていったところ、果たして落馬したという。

○幸の神(さいのかみ)

寛政七年(1785) 橘南谿著『東遊記』巻三

出羽国渥美の駅[9]あたりの街道の両方に、岩のそびえたところには、幾所ともなく、必ず岩より岩にしめ縄を張り、そのしめ縄のもとに木で細工よく陰茎の形を作り、道の方へ向けて出しているものがある。その陰茎ははなはだ大きく、長さ七~八尺(2~2.5m)ばかり、太さ三~四尺(1~1.2m)周りもある。あまりにもけしからぬものであるから、地元の人に尋ねると、これは往古からやってきたことで、幸(さい)の神と名付けて毎年正月十五日に新しく作り改めるものである。地元の神のことであるから、なかなか粗略にはせず、たとえ御巡検使や御目付などがご通行されるときもこのままであって、若者が戯れたものなどではない、という。

また、このしめ縄に紙を結んで多く付けてある。これはどういう理由かと問えば、これはこのあたりの女が、よい男を祈ってひそかに紙を結んでいるのだという。まことに辺国古風のことである。京都の今出川の上にあるところの幸の神というのはどういう神であろうか。すべて田舎にはいろいろな名で呼ばれていても、陰茎の形の石、陰門の形の石を神体として、地元の氏神などとして祝い祭って尊びかしずくところが多い。日本の古風であろう。神代の巻にいうところ、あるいはセキレイの故事[10]など古く言い伝えることが多いため、神道の秘事にはこういうこともあるだろうと思う。

○縁結神

享和二年(1802) 玉田永教著『幸神阡陌の立石』

奥州に金勢大明神(こんせいだいみょうじん)と祭る、また鈿女命(うずめのみこと)を鉄開大明神(てつかいだいみょうじん)と申し奉る。願望のある人、男であれば金勢の社へ陽物の形を奉納し、女は鉄開の社へ陰物の容(かたち)を納める。大神は奥羽地方にこのような教えを残されたが、開闢より人気が強いため、縁を結ぶのに艶めかしい教えを残された。十符の菅薦(とふのすがごも)、侠の細布、錦木を立てるなどは、西国では聞き及ばぬことである。女たるものが縁結びに勧請する神はこの二神である。

○道辻塚跡と道辻の祠、雄子尾・雌子尾

享和三年(1803) 村上石田著『播州名所巡覧図絵』巻二巻四

道辻塚跡、今は姫路総社[11]に道祖神として移されたけれども、もとはこの市の(国衙ノ庄)西に立っていた。

今川了俊が九州に行く紀行『道ゆきぶり』にいう。「川のほとり近くに石の塚が一つある。これは神のいますところだという。出雲路の社の御前にみえる物のかたちが一つ二つあるので、何ぞと尋ねると、この道を初めて通る旅人は貴きも賤しきも必ずこれを持って石の塚をめぐってのち、男・女のふるまいのまねをして通ることという。大変かたはらいたきわざではなかろうか。実際、この神の本社はほど近いところの海の中に立っているが、このようにまねて行なうごとに御社がゆるぐというのは、軽薄なことである。つたへきく神代のみとのまくばひをうつす誓の程もかしこし」

この記文にて、みだらなまねをしていたことが知られる。

道辻の祠、飾磨市中に小祠の残っており、今、幸の神という。この祠のことは、姫路志深[12]道辻祠として源貞世(今川了俊)の文章に書かれている。昔は社も大きくて、年の末には男女陰形の供物を供えて、里民の男女、女なし男なしの者は、この拝殿にうち交じり入って戸を閉じて縁を引いた。また宮守は竹の杖をもって祓った。その杖をもって妻妾をえらばず腰を打って安産のまじないとする。さらに猿楽・手妻・曲鞠などでにぎわっていた。今はすべて絶えた。

雄子尾・雌子尾(をこを・めこを)、神出の庄にあって神出山という[13]。三木より三里ばかり南東の方向にある。両山東西に並び立って、登ればともに五丁ばかり。雄子尾は上が平らで立っている。木もなく、小祠に帝釈天を祭って、例祭は九月十日。山に水晶あり。西の方、雌子尾は、嶺が鬱々と茂って小祠厳重である。祠の前に舞台あり。素戔嗚尊・稲田姫の夫婦を祀っている。言い伝えに、大己貴命がここに降臨されて百八十一神を産まれたために神出の名があるという。また、雌子尾の名については、かたわらに陽石・陰石の形がある。陰石は屈曲した石が集まっている。その石のあいだにおのずからくぼんで○○などよく似ている。また、陽石はたいてい二尺(60cm)ばかりにきわめて隆起して立っている。これは鳥居の折れたのを使って作ったようである。近郷の俗はみなこれを貴いとして、ことに婚儀を祈る者が多い。

○陰形を神社の傍に置くこと

文政二年(1819) 栗原信充著『柳庵随筆』巻一

『扶桑略記』にいわく。天慶二年(939)ある記にいう。近日、東西両京の大小の路にて、木を刻んで神を作り相対して安置する。およそその形状は男子を彷彿とさせ、頭上には冠をかぶり、鬢のあたりには纓(冠の装飾・ひも)が垂れ、丹で身を塗って緋袗色をなす。起居は同じからず、それぞれに姿は異なっている。あるものはまた女形を作って男に対して立たせ、へそ下の腰の底に陰陽を刻んでえがき、机をその前に構え、坏器をその上に置く。児童が猥雑に拝礼すること慇懃、幣帛を捧げたり、香花を供えたりする。岐神といい、御霊とも称する。いまだつまびらかに知られず、時の人これを奇とする。

『伊呂波字類抄』温泉三和社(摂津国有馬郡にいます)陰形を作り社辺に置くこと。古老いわく、参詣する輩はまずくだんの物形を造り、社頭に置くのがならわしである。温明神は婦女の姿を受けしめたまう、云々。近頃すなわち故入道太政大臣雅□が参詣されたとき、くだんの形を造り置くことについて止めることができず、見つけるたびに取り捨てた。その後、夢告あり元のごとく作らせた。(按ずるに、入道太政大臣雅□は源雅実公であろう。六条右大臣顕房公の子息である。大治二年二月十五日(1127年)、六十九歳にて没)

『金川瑣記』、夷地では喇嘛寺多く釈迦像を塑る。一如中士多至千百、みな青面藍身で男女交媾の状につくる。機捩は手に随い展動は寸縷を穿たず。あるいは立ち、あるいは座り、醜態万端云々。

『耳袋』、出羽国に金精大明神といって石にて陰形を作って祭るところあり。云々。

○陽物を祭る

文政十三年(1830) 喜多村信節著『嬉遊笑覧』巻七

東国には石で刻んだ男根を祭るところが多い。津軽などには銅で作るものもある。もとはこれ道祖神である。むかし、遊女はことに道祖を祭っていた。今、娼家で男根の形を作り、神として祭るのも理由があると思われる。しかし、これはたいへん近い風俗に思われる。古きことなど知ってからではないだろう。

『耳袋』に、ある商人が中国の旅店に宿り、亭主である者が神を祈るのを見て、その家の妓女に何の神を祈るかと尋ねた。すると、「この主はもとは貧しかったが、石で作った男根を拾いました。これは陽気第一のものであってめでたいとして、朝夕これを祈っていたら、それから日増しに富み、今は我らごとき女ども百人にも至ったのです」という。そこで夜中ひそかにその神とあがめている陽物を盗み、知らぬふりをして帰って、その陽物を祭ったところ、これもほどなく富を得たという。これは今では珍しくないことであるが、このように記したのは明和・安永のころ(1764~1781)までも妓家にこれを祭ったことがなかったからであろう。

○各地の陰陽石

天保三年(1832) 宮負定雄著『陰陽神石図』

信濃国小諸郡根津村[14]の根津大明神の神体石。この神石は自然のままで陰陽配偶の形をしている。先年、ある人がこの石を損なったことがあるが、いたく祟り、その家ことごとく滅亡したという。

下総国香取郡松坂村の陰陽神石。この神石は熊野大神[15]の社内にあって、陰陽ともに酒を好まれるゆえに酒呑石ともいう。祈願する人は酒を献上して、この石にそそげばたちまち吸う。この陰石は、むかし寛永十一年(1634年)、ゆえあって里隣の府馬村に立ち去って後は、松沢村と府馬村で男女の結婚がととのわなかった。しかし、189年を経て、去る天保二年(1831年)卯正月二十二日、松沢村にお帰りになり、陰陽二柱相ならんで鎮まっている。

備前国犬島[16]の陰陽石。犬島は備前の城府から四里あまり東南にある。この島は奇石が多い。陽石はその島の東北の山腹にあり、高さ二丈あまり周りおよそ三丈。陰石は島の東南にあり、陰陽二石の間は十町あまり隔たっている。

越後国三島郡石地村[17]の陽石。海浜にある。子のない婦人が○○をこの石に付ければ子を孕むという。またこれと配偶の陰石は海中にあるという。

武州西葛西渋井村の陽石。御客大明神(おきゃくだいみょうじん)という[18]。江戸吉原の遊女らが祭りの料を奉り、常にこの神を祈ると必ず験ある。ゆえに御客大明神というのである。

○道祖祭、その外

天保十年(1839) 喜多村信節著『画証録』

『懐橘談』(承応二年(1653)、出雲の紀行である)「松井邑に道祖の神社あり。出雲風土記意宇郡に「狭井社、今の能義郡にある」というのがこれであろう[19]。今、童の道ばたの道陸神というのがこれである。正月十五日に童ども寄り合って、竹の葉・松の枝を取り集めて社を作り、道祖神を辻々に祭り、陰相を造って女を叩き打ち、螽斯(イナゴ)を祝するもこの遺風であろう」というのはよろしくない。これは、粥杖のことによる。またこの日、道祖の祭りもするので、この神の陰形付けるのを思い寄せ、人打つ杖をやがて陽物の形に造るようになり、これを孕み棒という。なおさまざまに称えるところがあり。かれこれ取り混ぜて新婦を祝することとしたのは滑稽なことというべきだろう。

江戸本所亀戸邑[20]より、正月十四日には童ども小さい舟の形を造っていたが、ささやかな幣を多く建てたのを二人してかつぎ、そのほかは木で作った陽物など持って、多く打ちむれて、「千艘万艘(せんぞうまんぞう)お船が参る」と言い歩く。天満宮氏子のまちまちを歩いて、銭を取らせる家々に幣を一本ずつ置いていく。朝まだきから出て昼頃にはその村に帰る旧例がある。これが道祖祭であって、船を用いることは道祖公の故事にかなっている。

『新猿楽記』に「五条道祖[21]、粢餅(神前に供える餅)千乗手を奉る」とあるので、その昔、人はよく知って祭っていたとみえる。幸の神というのも同じであろう。衣冠の人形、男女の形を作り据え(陰根を作り備える)乗ったというのが『扶桑略記』などに見える。今も阪東の国々で、丸い石や陰根に作った石を、「いし神」とも「しゃくじ」とも呼ぶ。武蔵国豊島郡石神井(しゃくじい)[22]、足立郡石神(しゃくし)[23]などの村名もある。下野国には所々に石の陽物があって、これを金精明神などという。津軽のご城下より東六里ばかりの関というところの寺に、長さ四尺あまりの銅像もあるという。

その昔は陰像も所々にあった。『沙石集』に、和泉式部が貴布祢(貴船)の社に参詣したことを述べているところ、年をとった巫女が赤幣たて並べた周りで、様々な作法をして鼓を打ち、前をかきあけて叩き、三辺めぐってから、「同じようにしなさい」と言った。和泉式部は顔を赤らめて言う。「千早振神のみる目も恥ずかしや、身を思ふとて身をや捨つべき」。この巫女がやったことは、鈿女命の天の岩戸の俳優の遺事であるろう。

また、猥褻な仏像もあちこちにある。『新編鎌倉志』巻七、延命寺[24]は米町の西にあり、浄土宗安養院の末寺である。堂に立像の座像がある。俗に「裸地蔵」また「前出し地蔵」ともいう。裸形で双六局を踏んでいる。厨子に入れ、衣を着せてあり、参詣人に裸にして見せる。普通の地蔵に女根を作りつけてある。昔、平時頼がその婦人と双六の勝負を争った。互いに裸になることを賭けにしたが、婦人が負けたので地蔵を念じたところ、たちまち女体に変じ、局の上に立ったと言い伝える。鎌倉鶴ヶ丘に、まろやかな石に女陰のついたものがある。自然のもののように見えるが、彫ったものであろう。これにも願掛けなどしているようだ。今、妓家では、神棚に張り子の男根を物々しくすえて祭るが、これは遊女くぐつが百太夫を祭ってきたのにかなっている。

『四神地名録』九の巻、武蔵足立郡新皇村毛長明神[25]と号する社あり。以前、毛を箱に納めて神体としていたが、いつごろの別当であろうか、不浄の毛をもって神体とするのはあるまじきことであるとして、水の出たとき、毛長沼へ流したということで今はない。往古は人の心は直であって、陰陽は万物の始まりとして男根・陰門の形を作って祭ったものである。後世の人は利欲に走って願望を叶えない神社を神のように思わず、無用の社と心得て再興しないため、ついに失せ果てて跡形もなくなるのである。しかし、奥州南部巻堀村という地には金精大明神とあがめて[26]、いにしえより伝える男根・陰門の形を失わず神体とする。また、舎人村にもこの毛長明神の鳥居と相対して男根の社があるということが口碑に残るのみで今はない。惜しいことである。どこでも傾城屋には男根を祭って鎮守としている。殊勝なことである。

○隠相を造て神前に懸

天保未年(1835) 小山田与清著『松屋筆記』巻九十二

『源平盛衰記』七巻(十丁左)笠島道祖神事条に、「奥州名取笠島の道祖神に蹴殺された。実方は馬に乗りながら、あの道祖神の前を通ろうとしたところ、人がいさめて「この神は効験無双の霊神、賞罰分明である。下馬して再拝して過ぎたまえ」と言った。実方は問うて「いかなる神ぞ」と言う。答えは「これは都の加茂の河原の西一条の北の辺におはする出雲路の道祖神のむすめでした。大切に育ててよい夫にめあわせようとしていたのに、商人に嫁いだため勘当されて追い下げられたのです。国人はこれを崇敬して神事再拝します。上下男女、祈願あるときは隠相を造って神前に懸けかざり奉り、これを祈り申すにかなわないことはないといいます」」云々。『観迹聞老志』『三才図絵』『和歌名所追考』『曽我物語』『今川貞世道行振』

○出雲古浦の陰陽石

明治十三年(1880) 星野文淑著『出雲名勝摘要』上巻

陰陽石、秋鹿郡古浦にあり[27]。ともに天然の巨岩であって、陽石の高さ一丈(3m)、海岸にあって対峙している。その距離はおよそ十間(18m)。北風が岸を打って水波鳴る。陽石の下部に海苔・貝殻をまとい、陰石の上部に蘆葦が水滴を帯びる。形状はあたかも玉茎・玉門のようである。社があってイザナギ・イザナミの二尊を祭る。

おのづから かかる形もなりなりて、なりあまる石なりあはぬ石  島重養

○各地の生殖器崇拝

明治三十五年(1902) 加藤咄堂著『日本宗教風俗史』

生殖器崇拝は諸所に行なわれ、陰陽の二石は至るところに崇拝され、民家青楼(女郎屋)は土製の生殖器を祭るものが少なくない。道祖神もしくは庚申の名においてこれを祀るのは、山城のみならず畿内一般の風習である。『扶桑略記』に記されている「近日、東西両京の大小の路にて、木を刻んで神を作り相対して安置する。およそその形状は男子を彷彿とさせ、頭上には冠をかぶり、鬢のあたりには纓(冠の装飾・ひも)が垂れ、丹で身を塗って緋袗色をなす。起居は同じからず、それぞれに姿は異なっている。あるものはまた女形を作って男に対して立たせ、へそ下の腰の底に陰陽を刻んでえがき、机をその前に構え、云々(天慶二年の条)」という風習は今はみられないけれども、その面影は今も残って、「迷信の日本」記者のいうところによれば、

伏見の稲荷の後丘に御倉上殿といって宇賀御魂神(うがみたまのかみ)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)の三神を祭ってある。毎年二月初午の日、本社に参詣する遠近の子女の往来は織りもののような雑踏で、なかなかの繁昌である。沿道の人形店に売ってある着色塑製の男女生殖器を買って、神前に捧げる習慣があるので、いかにも陰茎崇拝としか思えない。

と、由来京都の地、淫風盛んであり、したがって生殖器崇拝、縁結びの祈り、梅毒根治などを目的とする信仰が少なくない。前例のほか、さらにこれを挙げれば、紀伊郡宇治の県神社[28]は弓削道鏡の霊を祀ると伝えられ、愛嬌を守るところとして遊女らの崇信参拝するものはなはだ多く、その例祭(五月)の日になれば、社頭夜を徹してすこぶる雑踏(野合)を極め云々。

富士の胎内竇(たいないくぐり)[29]は甲斐の吉田口からの途中にあり、洞口六尺ばかり(2m)、奥に入るにしたがって次第に狭く、歩くことができないので膝頭にわらじをつけ、ろうそくをつけて腹ばいで入る。はじめをあばらといって岩石の形が肋骨に似ている。次第に進んで臍石がある。それからさらに狭く、わずかに洞をくぐることができ、これを腹帯といい、行くこと六~七間(10~12m)でようやく広い。これを子宮という。ここからまた帰ってくるので、その尽きるところはわからないという。この洞窟に入った者の襟を懐胎している婦人の腹帯に用いれば安産するという。女体の神(木花咲耶姫)であるため、このようなことを付会したものであろうか。

猥褻風俗史編者いわく、相模江ノ島の岩窟は山上に祭ってある弁財天の陰部であるというのも、この類であろう。

信濃国上水内郡には「かりた神社」[30]というのがあって、男子の生殖器を祀るというが、まだ見ていないので知らない。当国では生殖器を作って「かりたさま」といって崇拝する風習がある。

生殖器崇拝は日本国中いずれに地方にもその形跡を認められるが、関東より奥羽にかけてことに甚だしい。(中略)

上野国佐波郡赤堀[31]には「まら薬師」と称えて、近村の女で良縁を求める者は正月十四日に木で作った男根を持っていって、大きいのを選んで取り替えてくる蛮習がある。その親たちも競って大きなものを作るというのは言語に絶することではないか。下野日光の奥には金精峠というものがあり[32]、『日光山志』にはこう書かれている。

湯平より西北の間に金精沢という谷間に道がある。その険しい道を伝っていくこと一里半あまりを経て峠に至る。金精の社までは一里である。それよりまた半里のぼって金精権現と称する小祠あり。祭神知られず。往古何者かが納めたか、銅にメッキした男根を神体とした。中古にはまた自然に男女交合の形にできた古木の根株も納めている。諸願を祈ると験あり。

と。今は秘して神体を示さないと伝える。

先年、姉崎正治氏の調査された『中奥民間の信仰』に記されたところによれば、「奥州にリンガ崇拝(姉崎氏はその名の猥雑なるを避けて、男根をリンガ、女根をヨニというインド語を用いられた)の行なわれることすでに久しく、日本の他の地方とともにその起源ははっきりしない。すでに奥州藤原氏のときには六十六の鉄造リンガを作って奥州に崇めたと伝える。今の東中野のリンガのごときは、その一つであるという。それはとにかく、今なお行なわれ、わたしの旅行中に知り得たものだけでも次のとおりである。

  • 岩代国福島町の北 信夫山の頂上(※福島市の信夫山)
  • 陸前笠島村道祖神社(※宮城県名取市愛島笠島西台1-4道祖神社)
  • 陸前愛子村道祖神(実見していないが標本がある)(※宮城県仙台市青葉区上愛子に道祖神社)
  • 陸前仙台市大念寺内道祖神(今は廃す)
  • 陸中一ノ関道祖神(標本なし)(※岩手県一関市)
  • 陸中衣川三峰神社内(※岩手県奥州市衣川区松下64三峰神社/月山神社)
  • 陸中水沢町高見神社内(今は廃す)(※岩手県奥州市水沢区)
  • 陸中前沢町民家(※岩手県奥州市前沢区)
  • 陸中太田代荒神社内(実見せずまた標本なし)(※岩手県奥州市江刺区田原字大平88荒神社)
  • 陸中郡山赤石神社内(※岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1志賀理和気神社=赤石神社)
  • 陸中東花巻町鼬幣稲荷内道祖神(※岩手県花巻市石神町336鼬幣稲荷神社)
  • 陸中東中野村智和気神社(※岩手県盛岡市東中野字金勢1-1智和伎神社)
  • 陸中巻堀村巻堀神社(※岩手県盛岡市玉山区巻堀字本宮2巻堀神社)

このほか民家・青楼に入れば、この崇拝いたるところにあるという。また、特にリンガを発見しないが立石をもってその名を祭っているものは甚だ多い。

リンガあるところにヨニを伴っているものがある。衣川、巻堀などはこれである。リンガはこの地方にて金精神と称することが一般である。ヨニに至っては特別の名がない。リンガを祭っているところはみなリンガを神体とするが、それはみな猿田彦那道祖神、すなわち塞の神(さいのかみ)であるといい、ヨニは淡島明神であるという。あるいは、石に穴があるのをヨニとして崇拝して、「陰門観音」「産形観音(うぶがたかんのん)」と称するものが閉伊郡にあるという。

リンガとヨニは木石の形でこれに近いものを取ったり、特にこれを彫刻したものもあったり、子細に探究すればさらに多いであろう。

わたしはかつて当地を漫遊して、一青年より生殖器崇拝の理由を問われたことがある。その青年の言葉によれば、奥羽二州いたるところほとんどこれを祀る風習がある。あるものは五穀成就の神として、あるものは道祖神として、あるものは縁結びに霊験ありとして、または腰部の病気に効ありとして」云々。

陸中国岩手郡巻堀の金精明神のこと、『東山誌』に以下のように書かれている。

巻堀村左のかたヒノキの大木八本あり。そこの民家に惣七金勢明神を祭る。この神、いつのころから祀るかはわからない。神体は唐金(青銅)で作った男根である。土俗伝えていう、この村の少女が十三、四歳になれば、一夜夢中に襲われることがある。これ金勢神が淫涜するためであるという。中古、一人の霊人がこの犯暴をにくみ、鉄の鎖でつないだけれども、それでもその淫涜をやめず、時々遊行をなすという。

と。これは少女の春情発動期(すなわち初めて月経の下る期)に付加した迷信であろうとはいえども、また甚だしいことではないか。

安芸国厳島神社の境内にも、諸種の信仰が付随して、かの生殖器崇拝の遺風のようなものがあるようだ。『厳島図絵』には、道祖神社といって陰陽石を神体とする社祠があることを述べている。また、薩摩国鹿児島に賽神祠があり、八衢彦命(やちまたひこみこと)・八衢姫命(やちまたひめみこと)を祠る。この社が生殖器崇拝の迷習を有するか否かはわからないが、道祖神として八衢彦姫の二神を祀るのは、この風習ではないとも言い難い。『日本名勝地誌』によれば、日向国西諸県郡東方村の岩瀬川の上流にも陰陽石がある[33]。陰陽二根に似た石で、一つは勃然として起ち、もう一方は坎然としてくぼむ。これらが生殖器崇拝に伴うのはいずこも同じことである。

○越後宇賀地の花水祝い

天保六年(1835)鈴木牧之著『北越雪譜』中、越後国魚沼郡宇賀地の新堀の内鎮守、宇賀地神社では、毎年正月十五日、花水祝いといって、新婚のあった氏子の家に神使として行く行列の記事中に、以下のとおり書かれている。

二番に仮面をあてて鈿女に扮した者一人、箒の先に紙に女陰を描いたものをつけてかつぐ。次にこれも仮面にて猿田彦に扮した者一人、麻で作った幌帽子のようなものをかぶり、手杵の先を赤くして男根にかたどったものをかつぐ。云々

以上のほか、さらに諸書に散見するものはあるが、概して大同小異の記事である。

淡路の絵島は、往古「おのころ島」と称して、男子生殖器の形であるとし、また天の沼矛(あめのぬぼこ)も同様であるという説がある。

社祠の神体として崇拝した生殖器類似の石、または銅製物のほか、民家・青楼にて生殖器形を祭ることは、以上の記事中にもあるとおりだが、これを製造して販売した者が、大阪では今宮の祭日(正月九日・十日)、江戸では浅草歳の市(十二月十七日・十八日)にあった。弘化ごろ(1844~1848)喜多村季荘の記述した『守貞漫稿』(近世風俗志)の中で、大阪南今宮村戎神社詣での項に「社頭にて張り抜き製の陰茎に金箔を置いたりベンガラを塗ったりしたものを売る」とある。

生殖器形を神体として崇拝した蛮風は、世の開明につれて次第に衰えたとはいえども、今なお愚昧な迷信者の多い妓楼・待合茶屋・芸妓屋などの神棚には安置されていると聞く。明治六年ごろ、東京柳橋の茶屋・芸者屋の各戸に警官出張してこれを河中に捨てさせたとの記事、古新聞紙で見たことがある。

東国地方に最も多くあった陰陽石のごときものは、法令によってその崇拝を禁止されたわけではないが、明治初年以来、太政官・教部省・内務省などから教規の振粛令があってから次第に廃滅するに至ったようである。編者が少壮のころ(明治十八年ごろ)鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に詣でたとき、同所の案内者は境内の陰石を杖で指し、「これは頼朝公の御奥方・政子前の陰門石でございます。このとおり○○までもついております」との説明があったが、当時の警察官はこれを知ってもあえてとがめなかった。

前記の今宮および浅草の張りぬき製、または土焼のごときも、これを公然売買していたが、風教上に害があるとして、明治五年十一月制定の違式註違条例の第九条で「春画及び其類の諸器物を販売する者」(七十五銭以上一円五十銭以下の贖金)という条目によってその販売を禁止された。今なおあるか否かは知らないが、近年までは警察官の目をしのんでひそかに売買されたという。

この開明に進むにしたがって、道徳制裁・法律制裁はもちろん、各個人の羞恥心発達のため、猥褻の事物を公示することがなくなる実例は、後節においてもなお記述しようと思うところであるが、ここに特筆して読者の注意を惹くべき一事は、前掲抜粋記事中における用語を対比してみることである。むかしの学者や操觚家(文筆家)の人たちは「男根」と書いたり「陰門」と書いたりして少しもはばかるところがなかったのに、明治の近年に至っては、この用語を卑しいとして、「男女生殖器」といい、姉崎正治氏のごときは更に進んで、インド語で「リンガ」といい「ヨニ」というに至ったのを見てほしい。これは文筆における開明の一つの象徴ではないか。

訳注

  1. 名取郡笠島の道祖神:現在の宮城県名取市愛島笠島西台1−4に道祖神社(佐倍乃神社=さいのじんじゃ)がある。
  2. 出雲路の道祖神:現在の京都市上京区寺町通今出川上る西入る幸神町303に出雲路幸神社(さいのかみのやしろ)がある。
  3. 信夫郡八丁目:福島県福島市松川町。
  4. 常陸国茨城郡高原の弓削道鏡の社:茨城県小美玉市竹原の椿山稲荷神社境内に道鏡法皇祠がある
  5. ○○○○の宮:小美玉市竹原字法皇下1443に孝謙天皇宮がある。
  6. 塩子の大○観音:茨城県東茨城郡城里町塩子に大開観音があるという。
  7. 奥州南部領三ノ戸岡山の金精神の社:青森県三戸郡三戸町と思われるが詳細不明。伏せ字は「金魔羅大明神」と考えられる。
  8. 同所笠島に同社:まったく同所ではないが、宮城県名取市の道祖神社の説話である。
  9. 出羽国渥美の駅:山形県鶴岡市温海?
  10. セキレイが男女交合の道を教えたという神代紀上の説話がある。
  11. 姫路総社:播磨国総社である射楯兵主神社。
  12. 姫路志深:兵庫県姫路市御国野町深志野
  13. 神出の庄の神出山:神戸市西区神出町に雄岡山(雄子尾)と雌岡山(雌子尾)がある。
  14. 根津村:長野県東御市祢津。
  15. 下総国香取郡松坂村、熊野大神:千葉県旭市清和乙715に松沢熊野神社がある。また、旭市櫻井1264には櫻井子安大神がある。
  16. 備前国犬島:岡山市犬島
  17. 越後国三島郡石地村:新潟県柏崎市西山町石地。
  18. 武州西葛西渋井村の御客大明神:渋井村は不詳。ただし、荒川区西日暮里3-8-3南泉寺に「お招き様」「御客神」「招客明神」などと呼ばれる石がある。
  19. 出雲の松井邑の狭井社:島根県安来市西松井町88に出雲路幸神社がある。
  20. 江戸本所亀戸邑の道祖祭:東京都江東区亀戸3-57-22亀戸香取神社で江戸時代に行なわれていた道祖祭。
  21. 五条道祖:京都市下京区新町通松原下ル藪下町34の松原道祖神社
  22. 武蔵国豊島郡石神井:東京都練馬区石神井
  23. 武蔵国足立郡石神:埼玉県川口市石神。なお、埼玉県新座市(旧・新座郡)にも石神という地名がある。
  24. 延命寺:鎌倉市材木座1-1-3。今も身代わり地蔵がある。
  25. 武蔵足立郡新皇村毛長明神:埼玉県草加市新里342毛長神社
  26. 奥州南部巻堀村の金精大明神:岩手県盛岡市玉山区巻堀字本宮2の巻堀神社。
  27. 秋鹿郡古浦:島根県松江市鹿島町古浦
  28. 紀伊郡宇治の県神社:京都府宇治市宇治蓮華72の県神社。
  29. 富士の胎内竇:山梨県富士吉田市上吉田の吉田胎内樹形。現在は吉田胎内神社の年に一度の「胎内祭」のときのみ公開。
  30. 上水内郡かりた神社:長野市若槻東条の蚊里田八幡宮と思われる。
  31. 上野国佐波郡赤堀:群馬県伊勢崎市(旧赤堀村)。「まら薬師」は不詳。
  32. 金精峠:栃木県日光市と群馬県利根郡片品村の境にある金精峠に金精神社(こんせいじんじゃ)がある。
  33. 日向国西諸県郡東方村:宮崎県小林市東方に陰陽石がある。陽石と陰石が一体で存在している。

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