○△×の歴史

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日本において良い・普通・よくないの3段階を示す○△×マル・サンカク・バツ)の起源について、明確な資料はない。しかし、適塾で「△○●」が使われ、その後明治後期から大正時代に絶対評価として「○△×」という簡略化された評価記号が使われたこと、競馬の記号はそれを模したものであること、などが事実として伺われる。

概論

記号には固定的な意味があるわけではない。あくまでも記号はその時代・その社会における約束事であり、絶対的に固定された意味合いが存在するわけではない。ただし、歴史における積み重ねによって、それが強固な約束事となることがある。

○△×という三段階の評価が現在の日本で一般的に使われているが、幕末ごろには善悪を○●(白丸と黒丸、白星と黒星)で表わすこともあった(相撲を見よ)。また、これらの評価は学校での教育評価記号を経て、競馬などの予想印に発展するが、たとえば「◎○▲△×注」などの記号が競馬紙ごとに違った順序で用いられていることもある。

「○×」が使われるのは日本と韓国くらいで、欧米等では「✓x(tick and cross)」が用いられることが多い、というのが通説であるが、実際には×が投票の意味を示す肯定的な用法があるなど、一筋縄ではいかないのが実態である。

マルとバツ

日本ではマル(丸・円)にはよい意味合いがある。「欠けたところのないこと、完全」「数が満ちること」といったニュアンスがあるため、マルが「よい」こととなり、それと結びつく「○」が「可」の意味を持つようになった可能性は充分に考えられる。

一方、「×(バツ)」の語源は「罰点(バッテン)」とされ、また関西での「ペケ」という呼び方は、一説には中国語の「不可(buke)」であるともいわれている。なぜ「罰点」や「不可」が「×」の形と結びついたかについては不詳である。

○△×前史

活字としての「○」

日本最古の活字による書籍として、キリシタン版に「○」の活字が用意されている。ただし、これは、段落・文の始まりや箇条書きを示すために使われたり、句点代わりに使われたもので、是非や優劣を示す記号としてはいまだ使われていなかった。

キリシタン版の記号では、十字架記号は見られるが、×は見あたらないようである。

その後、江戸時代以降の書籍などでは、○や△(や◎や●など)が箇条書きの見出し、文の区切り、圏点などとして用いられる例が見られる。評価記号としてではなく、目立たせる印としてはおなじみのものであったといえる。

削除を示す×印

源氏物語湖月抄(宝暦八年=1758年以前)には、「真淵の書き入れは尋常のそれとは異なり、『湖月抄』の注釈部分を大胆に墨で罰点を付けたり貼り紙をしたりして、自説を欄外などに墨や朱で書き込んでいる」ものがある。間違いを消すための×印は江戸時代から使われていたと考えられる。ただし、それが小さな×印につながった経緯は不明である。

適塾の△○●

福沢諭吉は安政二年(1855年)から、蘭学者・緒方洪庵の適塾にて蘭学を正式に学び始める。安政四年(1857年)には適塾の塾頭となった。ここでの勉強法について、福沢諭吉は「福翁自伝」に以下のように記している。

原書写本会読の法

 それから塾で修業するその時の仕方は如何いう塩梅であったかと申すと、まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかというと、そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカといい、一をセインタキスという。初学の者には、まずそのガランマチカを教え、素読をを授ける傍に講釈をもして聞かせる。これを一冊読了るとセインタキスをまたその通りにして教える。如何やらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。会読ということは、生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞いていて、出来不出来によって白玉を付けたり黒玉を付けたりするという趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、それから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、また質問を試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書というものは、物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取り集めて僅か十部に足らず、固よりオランダから舶来の原書であるが、一種類ただ一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原害を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本をもって毎月六斎ぐらい会読をするのであるが、これを写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかということは籤で定めるので、さてその写しようは如何するというに、その時には勿論洋紙というものはない、みな日本紙で、紙を能く磨って真書で写す。それはどうも埒が明かない。埒が明かないから、その紙に礬水(どうさ)をして、それから筆は鵞筆(ガペン)でもって写すのがまず一般の風であった。その鷲筆というのは如何いうものであるかというと、そのとき大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切った鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。これは鰹の釣道具にするものとやら聞いていた。価は至極安い物で、それを買って、研ぎ澄ました小刀でもってその軸をペンのように削って使えば役に立つ。それから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壷というのは、磨った墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用いるのは、ただ墨を磨ったまま墨壷の中に入れて、今日のインキのようにして貯えて置きます。こういう次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから、写本はなか/\上達して上手である。一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入って、颯々と写してスペルを誤ることがない。こういう塩梅に、読むと写すと二人掛りで写したり、また一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に回す。その人が写し了るとまたその次の人が写すというように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚かあるいは四、五枚より多くはない。

自身自力の研究
 さてその写本の物理書医書の会読を如何するかというに、講釈の為人(して)もなければ読んで聞かしてくれる人もない。内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一もこれを犯す者はない。ただ自分一人でもってそれを読み砕かなければならぬ。読み砕くには、文典を土台にして辞書に便る外に道はない。その辞書というものは、ここにヅーフという写本の字引が塾に一部ある。これはなか/\大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。これを一部こしらえるということは、なか/\大きな騒ぎで、容易に出来たものではない。これは昔、長崎の出島に在留していたオランダのドクトル・ヅーフという人が、ハルマというドイツオランダ対訳の原書の字引を翻訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、それを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲に寄り合って見ていた。それからモウ一歩立上ると、ウエーランドというオランダの原書の字引が一部ある。それは六冊物でオランダの註が入れてある。ヅーフで分らなければウエーランドを見る。ところが初学の間はウエーランドを見ても分かる気遣はない。それゆえ便るところはただヅーフのみ。会読は一六とか三八とか、大抵日目が極っていていよ/\明日が会読だというその晩は、如何な懶堕生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋という字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している。それから翌朝の会読になる。会読をするにも簸でもってここからここまでは誰と極めてする。会頭は勿論原書を持っているので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割り当てられたところを順々に講じて、もしその者が出来なければ次に回す。またその人も出来なければその次に回す。その中で解し得た者は白玉、解し傷うた者は黒玉、それから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んでしまったという者は白い三角を付ける。これはただの丸玉の三倍ぐらい優等な印で、およそ塾中の等級は七、八級ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三カ月占めていれば登級するという規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いてやり、至極親切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験にあうようなものだ。そういう訳けで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読み尽して、いわば手を空しうするようなことになる、その時には何か六かしいものはないかというので、実用もない原書の緒言とか序文とかいうようなものを集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、または先生に講義を願ったこともある。私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にもさま/"\先生の説を聞いて、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度のことで、講義終り塾に帰って朋友相互に「今日の先生の卓説は如何だい。何だか吾々頓に無学無識になったようだ」などと話したのは今に覚えています。
 市中に出て大いに洒を飲むとか暴れるとかいうのは、大抵会読をしまったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があるという時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなると、いわゆる月に六回の試験だから非常に勉強していました。書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面をごまかして何年いたから登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うというのが事実に行われて居ったから、大概の塾生は能く原書を読むことに達していました。

  • ガランマチカ……蘭 Grammatica=英 Grammar 文法書
  • セインタキス……蘭 Syntaxis=英 Syntax 構文書
  • 礬水……どうさ。ミョウバンを溶かした水に、にかわをまぜた液。墨や絵の具などがにじむのを防ぐために紙・絹などに塗る。
  • ヅーフ……ドゥーフ・ハルマ(Doeff-Halma Dictionary)。オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが編纂を開始した蘭和辞典。

これによれば、適塾での原著の「会読」すなわち原著翻訳の会において、

  • ○解釈できた者は白玉
  • ●解釈できなかった者は黒玉
  • △自分の読む範囲を少しも滞りなく立派に読んだ者は白い三角。丸玉の三倍くらい優等

という印が付けられたとされている。すなわち「△○●」という評価であった。白と黒の評価については、相撲の星取表と一致している。

大阪日々新聞のなにわ人物伝 -光彩を放つ- 福沢 諭吉(2)には、以下のように書かれているが、上記とは食い違いがあり、出典も不明である。

 適塾の勉学ぶりはすさまじいの一語に尽きた。学力によって一級から九級に分けられ、各級は十人前後、それぞれ会頭がおり毎月六回会読(原書の決まった個所の翻訳)が行われる。発表する担当者は質問攻めに遭い、会頭が正訳△、議論で勝った者○、負けた者に×が付き、△○の多い者が進級する。なにしろ塾生は郷里で秀才といわれた若者ばかりだ。プライドをかけて目をむき口角泡をとばし議論する。辞書はヅーフの蘭和辞書一冊しかないから、深夜でも眠らず奪い合う。

明らかに上記『福翁自伝』の記述に基づいているが、「勝ち負け」とされている点、「負けた者に×」と書かれている点に疑問がある。同じ内容について、慶應義塾ではこのように記しているからである(福澤諭吉と大阪:[慶應義塾 -慶應義塾創立150年、未来への先導-])。

適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、上手に訳せると名簿に白丸、失敗すると黒丸、特に上手にできた者には白い三角が付され、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。

なお、この『福翁自伝』の記載を根拠に、「○×」の起源は福沢諭吉あるいは慶應義塾とする見解もあるが、あくまでもこれらの記述は緒方洪庵の適塾における内容であり、また×はなく「△○●」の三段階であった。適塾でこの方式を始めたのが緒方洪庵なのか、福沢諭吉なのか、または塾生によって自然にできあがったのかについてはわからない。また、福沢諭吉が江戸築地鉄砲洲に開いた蘭学塾「一小家塾」(後の慶應義塾)にこの方式が受け継がれたかどうかについても詳細は不明である。

通信簿の評価記号

○△×の由来としては、教育評価における評価記号が重要な役割を果たしていたようである。

江戸時代

江戸時代の手習塾では、以下のような評価記号が用いられた。

  • 大極上々吉・大上々吉・上々吉・上
  • 絶佳・大佳・佳々・佳
  • 松・竹・梅・桃・栗
  • |||(上)・||(中)・|(下)、その中間レベルには「ヽ」、最上レベルには「○」をつける6段階評価

明治前半

明治前半までは評価記号は特に用いられなかった。「当時の小学校での試験答案を調べてみると、子どもの誤答に○印が付されて、その数を合計して差し引き算の方法で点数の付されていることが多い。いわば「目立つ」マークとしての○が用いられているのであって、「正答」という意味は与えられていないのである」[1]

明治後半

1880年代後半から1990年代にかけて通信簿が採用され、家庭と学校の通信が進められることとなった。

1890年代には、教育上、順位をつけることなく、簡略化された評価が与えられることとなった。明治二十四年(1891年)十一月十七日文部省令第十一号「小学校教則大綱」についての文部省説明「学事表簿様式制定ノ事」には以下のように書かれており、比較を行なわないことが指示されている。

成績ヲ評スルニハ成ルヘク適当ナル語ヲ用ヒ点数若クハ上中下等比較的ノ意味ヲ有スルモノヲ用ヒサルヲ可トス(成績を評するには、なるべく適当な語を用い、点数や上中下など比較の意味を有するものを用いないようにする)

明治三十三年(1900年)八月二十一日文部省令第十四号「小学校令施行規則」では、学年の修了および卒業の認定にあたって、以下のように定められていた。

別ニ試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ムヘシ(別途試験を行なうことなく、児童の普段の成績を考査して定める)

この「考査」は「試験」ではなく、日常普段の学習進度状況を教員が総合判定することを意味していた。そこで、なるべく簡単な略号や符号が必要となり、○△×の三段階、◎○△×の四段階程度のラフな記号が選ばれた。

なお、この「小学校令施行規則」により、校長の作成する「学籍簿」の形式が一定され、子供の「学業成績」(操行含む)「在学中出席及欠席」「身体ノ状況」などを記録する公簿が確立し、その形式に従った通信簿が編成されることが多くなった。

学籍簿の学業成績欄では、時代を追って「甲乙丙」「一~十点」「優良可」などの表現が用いられた。

戦後の「教育正常化」運動

戦後の教育では、相対評価である五段階評価が採用され、1~5の数字などで通信簿に記載されることとなったが、これに反対する運動も展開された。その中でも有名なのが兵庫県の八鹿町立八鹿小学校での運動である。ここでは、評価記号として「○」「◎」と三重マルが使われた(△や×のような否定的な記号は用いられなかった)。

戦後教育においては「○×」式のテストが重視され、○か×か、100かゼロかの○×式思考が植え付けられていくことになったとの批判もある。

スポーツ関係

競馬等の予想印

競馬においては、昭和六年(1931年)の競馬新聞が予想印を初めて採用したとされている。この予想印は、大まかには似ているものの、実際には予想紙ごとに独自のマークを採用している状況であり、固定的な表現は存在しない。

主な記号は「◎」「○」「▲」「△」「×」と「無印」である。×は「悪い」ではなく、むしろ無印よりも高い評価となる。このほか、☆・★や「注」、あるいは「二重三角」や「中が黒い二重丸」なども使われることがある。また、「本命・対抗・単穴・連下(複穴)・大穴」に「◎○▲△×」を当てはめる場合があるが、厳密にはその意味合いは一致せず、記号は単に有力度の順を示すことが多い。

  • 競馬ダービー:「◎○▲△×無印」。◎は軸馬。○はそれに次ぎ、▲は逆転可能性がある。△×はそれに続く。
  • 競馬ニホン:「◎○▲△×無印」
  • 競馬ブック:「◎」「○」「▲」「(二重三角)」「△」「無印」の順。

その他の競馬新聞でも、「×」を使わないものが数紙見られる。

この予想印の起源について、ディック・フランシス著『配当 Twice Shy』のハヤカワ・ミステリ文庫版の後書き解説(結城信孝「予想屋稼業は儲かるか?」)で以下のように述べられている。

 参考までに◎○×△のルーツを書いてみると、×(バッテンと呼んでいます)をのぞいた印はすべて、大正時代の小学校の通信簿からというからおもしろい。

  ◎(本命)――たいへん良い
  ○(対抗)――良い
  △(連穴)――もう少し

 という評価が当時の通信簿につけられていたそうで、それが実際に競馬予想の印として使用されたのが、馬券発売が復活した大正の終わりらしい。
 前述した◎○△の説明のなかで、×印だけは大正時代の通信簿には使用されていなかったが、さしずめD・フランシス作品では、『配当』に×(単穴)の印をつけてみましょうか。
 これは通信簿の評価とは無関係で、ルーツはアルファベットのX(エックス)。転じて、未知数の魅力を持った謎の馬というのが起源だそうで、『配当』にピッタリだと思いませんか。

馬券発売が復活した大正十三年(1924年)に「中島高級競馬號」が発刊されており、結城氏はここで予想印が使われたと考えているようである。しかし、ここに述べられている「大正時代の終わり」説は誤りである。

河出書房新社『競馬新聞の楽しい読み方―予想オッズは誰がどう算出しているか? (KAWADE夢文庫)』にはこのように書かれている。

◎○▲△は誰が考え出したのか?

 競馬新聞では、◎○▲などの印が使われる。それぞれ、本命、対抗、単穴を表し、競馬ファンにはおなじみのものだが、この便利な印、いつ誰が考えたかは、よくわかっていない。
 「本命」「対抗」「単式の穴」という言葉は、すでに、大正一五年ごろには使われている。都新聞や読売新聞、国民新聞、時事新報、東京日日新聞、中外商業新報といった関東の五大新聞の記事に見られるのである。
 しかし、当時の競馬は、出走馬の発表が、レース当日。競馬雑誌などの専門誌は、添付した勝馬予想引換券と交換で、予想を提供していたが、そこでも、本命、対抗などの言葉を使っていた。
 本命などの言葉に代わり、◎○▲△の印が使われるようになったのは、昭和六年のことだったという。出走馬が、開催前夜に発表されるようになってからである。
 当時の競馬専門誌でも、「出馬表」をガリ版印刷して即売するようになったが、その紙面の馬番号の隣に、◎○▲△の印をつけるようになったのである。
 各社によって記号の意味は違っていたが、どこも小学校の採点方法をマネたといわれている。当時の小学校の成績は、甲が◎、乙が○、丙が△で表されていた。印についての説明もなく、いきなりはじまったのも、読者に、その意味がわかっていたからだろう。

 今も重宝される印のルーツは、昭和六年の競馬雑誌にある。

相撲の星取表

相撲の星取表では現在、以下のような記号が使われている。

  • 勝ち:○(白星)
  • 負け:●(黒星)
  • 引き分け:×
  • 休み:や
  • 痛み分け:△
  • 不戦勝:○(決まり手名称欄に「不」印)
  • 不戦敗:●(決まり手名称欄に「不」印)

白星と黒星がよい悪いの評価であり、△も×も勝負がつかないことを示す記号となっている。ただし、この星取表の記号がいつから使われたかについては未詳である。星取表自体は、宝暦十一年(1761年)のものが現存する最古のものであるとされているが、そこでも同様の記号が使われていたか否かについてはわからない。

英語表現の影響

X記号

X記号(x, ×, X, , , , , )は、十字架から「死」「不運」「不幸」「苦難」、さらに俗語的用法として「ペテン」「八百長」「不正」などを意味することもある。また、数学的には「未知数」を意味することもある。

「×」のネガティブな意味合いは、このX記号の影響を受けている可能性も考えられる。

circle as appropriate

英語表現で「Please delete or circle as appropriate」というものがある。たとえば、以下の出欠を問う文章である。

I will/will not* be able to attend the meeting on Friday 1 September.
  • Please delete or circle as appropriate

これは「適切になるように削除またはマル囲みしてください」というもので、参加できるならwillにマル/will notを削除、参加できないならwillを削除/will notにマルということになる。これが「○=適」「×(削除)=不適」のもとになったと考える人もいるようであるが、明確な根拠はない。

バツイチ、バツニ

離婚歴があると、その回数に応じて「バツ1(ばついち)」「バツ2(ばつに)」……等々と呼ばれる。これは、離婚した場合、戸籍にバツ印がつけられることに由来する。ただし、バツ印は実際には「除籍」の際に付けられるため、結婚の際に新しい戸籍を作る段階ですでに一つバツがついていることになる。また、これは紙戸籍時代の習慣であり、電子戸籍ではバツ印は付けられない。

ネット上の民間語源説

ネット上ではいくつかの民間語源説が見られる。

小飼弾説

404 Blog Not Found:△の起源に関する仮説と深まる×の謎で、小飼弾氏はこのように推測している。

私の仮説は、「あれはもともと半円だったのではないか」ということ。しかし、半円をきれいに描くのは以外と難しい。それが「なまった」結果、△になったのではないか。

しかし、この説はあくまでも小飼弾氏の仮説であり、歴史的に裏付ける資料はない。ただし、佐藤秀夫『学校教育うらおもて事典』には「△が日本で用いられたのは、○同様に一筆書きであって、相当乱暴に書いても○と区別可能な利点があったからであろう。□でもよいのだが、それは急いで書くと○と大差なくなってしまう。」との推測が書かれており、書き方についての視点が共通していることは興味深い。

仏教説

仏教の図版で△○□がある、といった指摘がある。これは、仏教の五大(五つの元素)を表わす記号であり、五輪塔もこの五つの要素から組み立てられている。下から順に、地=□、水=○、火=△、風=半月形、空=宝珠形となる。

また、密教の曼荼羅でもこれらの幾何学模様が用いられることもある。

いずれにしても、これは評価記号としての○△×の由来とは特に関係がない。単に外形的に似ているだけのことである(単純な形であるから、いろいろなものが似るのは当然である)。

関連項目

主な参考文献

  1. 佐藤秀夫『学校教育うらおもて事典』p.85

外部リンク