三河国

出典: 閾ペディアことのは

三河国(みかはのくに)は東海道にあり、東は遠江国、西は尾張国、北は美濃国信濃国に接し、南は海に面する。東西およそ16里半、南北およそ17里。

その地勢は、北方には飛騨・信濃二国にわだかまる木曽山脈の一部が重なり、答案には、甲斐・信濃・遠江に連なる赤石山脈の余波が国境を走り、国内おおむね山岳に富む。

この国はいにしえ国府を宝飫郡に置き、碧海・賀茂・額田・播豆・宝飫・設楽・八名・渥美の八郡を管轄し、延喜の制で上国に列する。明治維新の後、加茂郡を東西に、設楽郡を南北に分かち、十郡とし、愛知県に治めさせた。

目次

名称

古事記伝

三川は参河国である。この国、男川・豊川・矢作川という三つの大川があるがゆえに三川と名付けられたという。

諸国名義考

参河 和名抄に参河(三加波、国府は宝飫郡にあり、彦麻呂云う、今は飫を飯に誤ってほひの郡という)、名義はある書に引用されている参河国風土記逸文に、「参河国に三川有り、一に男川といい、二に豊川といい、三に矢作川という」(中略)立入信友云う、今遠江に二河という郷があってよく似通って聞こえる。彦麻呂思うに、三大川によって三河国と号するのもどうかと思われるので、また考えるに、数をいわず、ただ大川をたたえて御川と名付けたのかもしれない。これは試みに言ってみただけである。

建置沿革

  • 参河国造 志賀高穴穂朝(成務)、物部連の祖・出雲色大臣命の五世孫・知波夜命をもって国造に定め賜う
  • 穂国造 泊瀬朝倉朝(雄略)、生江臣の祖・葛城襲津彦命の四世孫・兎上足尼をもって国造に定め賜う
  • 国府を宝飫郡に置く
  • 鎌倉の初め、源範頼を州守に任じ、建久・正治の間、安達盛長が守護であった。
  • 足利氏のとき、吉良満貞を守護とし、八名郡西条に居す。その弟・尊義、播豆郡を領し、東条に居す。
  • 寛正の初め、吉良氏大いに衰え、州内擾乱。将軍義政、細川成之を守護とする。
  • 天文年間、今川義元、本州を侵し、東条義安を駿河に幽閉し(義安は尊義の八世の孫)、西条義昭を東条に移し、州東の土地を奪う(義昭は満貞の七世の孫)。このときに当たって、徳川氏額田郡に興り、岡崎を治め、西境近郡を略取する。その後、義元は徳川氏を攻撃し、その地を領有すること十一年。義元が敗死するに及んで徳川氏旧領を回復し(額田・宝飫・碧海の三郡)、ついに東条を取り、西尾(牧野氏)・吉田(小原氏)諸城を抜き、ことごとく全州を併合する。
  • 天正十八年、徳川氏が関東に移る。豊臣氏、池田輝政を吉田に、田中吉政を岡崎に封ず。
  • 関ヶ原の合戦終わり、徳川氏二氏を移封し、松平家清を吉田(後に松平信蔵)、本多康重を岡崎(後に本多忠粛)、本多康俊を西尾(後に松平乗祐)、戸田尊次を田原(後に三宅康貞)に封じ、水野勝成に刈谷の旧村を継がせる(後に土井利信を封じる)。その後、州内に封を受ける者、挙母(はじめ本多忠利、後、内藤政苗)・奥殿(松平乗次)・西大平(大岡忠相)・西端(本多氏)。あわせて九藩。
  • 文久中、奥殿藩(松平乗謨)信濃の田野口に移る。
  • 王政革新、吉田を改めて豊橋と称し、板倉勝達を重原に(旧陸奥福島)、安部信発を半原に(旧武蔵岡部)移封し、十藩となる。その後、皆改めて県となし、またことごとくこれを廃して額田県を置き、岡崎で治めさせる。次いでこれを廃して愛知県から兼治する。

  • 碧海 あをみ
  • 賀茂 かも
  • 額田 ぬかた
  • 播豆→幡豆 はつ
  • 宝飫→宝飯 ほお→ほい
    〔和訓栞〕ほ 三河郡宝飫、「ほ」と読む。宝飯とするのは誤りである。
    〔参河国古蹟考〕古事記開化天皇条に「朝廷別王者三川之穂別の祖」、国造本紀「穂国造、泊瀬朝倉朝、生江臣の祖・葛城襲津彦命の四世孫・兎上足尼をもって国造に定め賜う」とある。これがそのもとであって、古くは穂郡であったものを、大人等の言われるように、民部式「およそ諸国部内郡里等、名は二字を用い、必ず嘉名を取るべし」とある御制によって、一音の名は二字に書くには足りないため、その響音の字を加えて、木国を紀伊、衣郡を頴娃(ええ)、襲(そ)国を曽於などと書いた例によって、宝飫と二字になしたのである。この例によれば、ホオと呼んで良かろう。……しかし、後に飫を飯と誤り、呼び方もホイと誤ったのである。
  • 設楽 したら
  • 八名 やな
  • 渥美 あつみ

日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。


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