女子十二楽坊 わたしはこう見る

出典: 閾ペディアことのは

2004年3月13日、中国・世纪星碟论坛でkwng2222さんが「我看「女子十二乐坊」」という文章を発表されました。それを矢(Shiye)さんが日本掲示板で翻訳してくださいました。以下、その訳を少し修正し、訳註をつけて掲載します。


目次

【前言】

 去年女子十二楽坊が日本で大ヒットしてから、わたしはずっと自分の個人的的な見解を発表する機会を探っていました。私は音楽研究の仕事に携わっており、特に中国の唐から日本に伝わった音楽の日本における発展とその変遷を研究しています。中国の女子十二楽坊が日本でヒットした現象と、1000年以上前に中国唐代(西暦618~907年)の俗楽が日本で非常に流行した状況には、少し似たところがあるのではないかと考えるようになりました。多くの人が認めるように、楽坊が日本で大ヒットした主な理由としては、宣伝方法がうまく、若く美しい女性演奏家を打ち出したことに加えて、偶然の要素として、ここ数年、日本では「癒し系」文化が流行していたことも挙げられます。もちろん、わたしもこれらの点が楽坊の日本におけるヒットの大きな要素であったことは否定しませんが、楽坊が日本でヒットしたのはさらに大きな歴史的背景があると考えています。中国楽器が日本で流行るという状況は、1000年以上前に日本ですでに起こったことだからです。

【歴史】

 日本史学者John Whitney Hallは、7世紀と19世紀の日本は完全に外国文化に包囲されていた、と指摘しています(Japan: From Prehistory to Modern Times. Tokyo: Charles E. Tuttle Company, 1995. P.35)。それによれば、7世紀の日本は中国文化の影響を受けており、19世紀の日本は西洋文化に強く引きつけられていきました。

 7世紀から9世紀には日本は中国を学ぶべき対象とみなしており、大量の遣唐使船を中国に派遣して、中国文化を学んでいきました。そして音楽もまた学ぶ対象の一つだったのです。しかし、当時の日本人が学んだのは、祭祀儀式の雅楽ではなく、娯楽を主とする俗楽でした*1。

 そのころの中国の俗楽の中心は、主に西域から伝来した「外国」音楽でした。中国では漢代(紀元前206~紀元220年)から西域文化の影響を受け始め、インドや中央アジアから伝わった音楽・楽器・舞踏は、当然のように、当時の中国にそれまでにない衝撃を与えることになりました。庶民であろうと貴族であろうと、みな伝来した外国の音楽のハーモニーやメロディにあらがうことはできなかったのです。

 わたしは、当時の日本の遣唐使も、この「流行音楽」に強く引きつけられたのではないかと思います。中国の雅楽には長い歴史がありますが、娯楽性・普遍性が欠けていました。日本人はこのような高尚すぎる雅楽ではなく、西域音楽を主とした俗楽を実際に学んだのではないでしょうか。中国唐代の俗楽は、このような状況のもとで日本に伝えられることになったのです。

 このような歴史と女子十二楽坊にはどのような関係があるでしょうか。

 女子十二楽坊が日本で最初にプロモートした曲は「自由」です。「自由」はオリジナルの曲ではなく、トルコの作曲家サントゥーリ・アドハム・エフェンディの「シャーフナーズ・ローンガー」でした(筆者はトルコ音楽には詳しくないので、詳細な解説ができないことをご了承ください)。この曲はもちろん、曲調・音階・旋律などすべて百パーセント中東の雰囲気にあふれています。このような「西域」的な音楽が中国経由で日本で再び大ヒットしたという構図は、1000年以上前に俗楽が中国から日本に伝わった状況とよく似ていないでしょうか。もっとも、この曲で使われている音階と、中国や日本で現在普通に使われている音階には少し違いがありますし、さらに中国楽器と電子楽器を組み合わせて演奏するために、この曲は大幅に改変されています。

 また、中国と日本で広めるとき、レコード会社は「シャーフナーズ・ローンガー」というタイトルを使い続けることができませんでした。残念ながら「シャーフナーズ・ローンガー」というタイトルの意味がわかりませんが(もしかしたら音楽形式の一つかもしれません*2)、しかし、「自由」というのは中国語でも日本語でも使われる言葉で、しかも意味は大体同じです。

 『唐会要』(961年ごろ成立)の記載によれば、天平十三年(754年)に唐王室の太楽署も、西域から伝来した大量の楽曲名を、比較的わかりやすい中国語の名称に改めたといいます。たとえば、「バラモン」は「霓裳羽衣*3」となっています。中国の文献には、西域伝来の音階を改変したかどうかについての詳細な記載を見つけることはできませんが、中国の音楽理論を用いて外来の曲調を解釈した状況については詳しい記述があります。例えば、『隋書』(630年ごろ成立)の「音楽志」には、蘇祗婆(西域から中国に来た音楽家)が演奏する七音階を、中国の音楽理論で解釈した内容について記述しています。このように、外来の楽曲を改名して、自国の需要に合わせていくという方法は、唐代にもすでに普通に行なわれていたのです。

 当然のことだが、このような歴史的事情を示したからといって、女子十二楽坊と唐代の日中音楽交流に直接の関係があると述べているわけではない。また、今回の女子十二楽坊が中国楽器をもって日本に来た状況(女子十二楽坊が演奏しているのは中国音楽じゃないという人もいるかもしれないが、その点については後述する)と、千年以上前に唐楽が日本に伝来した状況には、少なからぬ違いがあります。最も明らかな違いとしては、唐代の俗楽はまず中国で広く受け入れられた後に日本に伝えられたのに対し、女子十二楽坊の音楽は中国国内ではまだ完全には受け入れられていないことが挙げられます。日本はすでに中国楽器に触れ、受け入れた歴史があるため、女子十二楽坊が日本でヒットしたことにはこのような歴史が何らかの関係を持っているのではないかと思います。

 実のところ、わたしが最も興味深いと思っているのは、女子十二楽坊のレコード会社と、編曲担当である梁剣峰さんが一体どんな理由でサントゥーリ・アドハム・エフェンディの「シャーフナーズ・ローンガー」をメインの曲に選んだのかということです。もし、彼らがその昔、「西域」の唐代俗楽が日本で流行ったことがあることを承知の上で、この中東音楽をメインの曲に選んだのだとしたら、まったく感服の至りで、脱帽するしかありません。しかし、それが単なる偶然であったとしても、この偶然には大きな意味があったといえるでしょう。

女子十二楽坊の音楽は中国音楽か?

 最近、中国のマスメディアやインターネットの訪問者は、女子十二楽坊の音楽は「民楽」と言えるかどうかという問題についていつも論じています。 実のところ、わたし個人としては、「民楽」という用語は好きではありません。「民楽」とは「民族音楽」を指しているのか、それとも「民俗音楽」を指しているのでしょうか? 「民」は中国人民を包括しているのでしょうか? また、もし「民楽」が「民俗音楽」のことであるならば、中国のすべての民族を含むのでしょうか? もし「そうだ」というのであれば、「民楽」について人々が言及するとき、いくつかのよく知られた楽器の器楽曲についてばかり討論されることになるのはなぜなのでしょうか? 民族音楽を「民族器楽」「民族声楽」「民族戯曲」など細かく別々のカテゴリーに分けたとしても、それは中国の民族の音楽に含まれるのでしょうか? 1987年に出版された『民族器楽』(袁静芳編、北京:人民音楽出版社、1989)という本では、中国少数民族の音楽についてほとんど触れていません。また、独奏音楽については、笛・簫・二胡・板胡・箏・琵琶・古琴の音楽についてのみ紹介しています。蕭・阮・揚琴・チャルメラ・管などの楽器は、上記の楽器ほど普及していないがゆえに記述されなかったのでしょうか? また、わたし個人は中国唐代音楽の研究をしていますが、わたしが研究している音楽を「民楽」だという人はほとんどいません。古代の中国人は、「民楽」のなかの「民」には数えられていないのでしょうか? そして、ここ百年間の西方音楽学術界は「Ethnomusicology」の理論と研究方法を発展させました。Ethnomusicologyは一般的に「民族音楽学」と訳されています。この「民族音楽」は、多くの中国人の認識している「民族音楽」とは異なるものです。

 ここからわかるのは、「民楽」という用語には時間・地域・空間の問題があり、「民楽」という言葉についてそれぞれの人がそれぞれの解釈をしている、ということです。実際には、中国のマスメディアとインターネットの来訪者は、「民楽」を、現在どこでもよくみられる中国器楽という意味で言っているようです。

 それでは、女子十二楽坊の音楽は中国器楽に含められないのでしょうか? わたしは、含めていいと思います。それは、彼女たちが中国楽器を持って音楽を演奏しているから、というような単純な理由ではありません。

 はじめて女子十二楽坊のBeautiful Enegy アルバムを聴いたとき、わたしはこう思いました。

「だれかがこういう中国楽器を、西方電子音楽やバンド楽器と組み合わせたのだな。このように中国楽器を扱うのは、いいことなのだろうか?」

 率直に言いますと、わたしはこのような音楽会が中国器楽にマイナスの影響を与えることを心配したのです。しかし、このアルバムを聞き込んでじっくりと考えたところ、女子十二楽坊の音楽は中国音楽の先行きの暗さを乗り越えるものであることがわかってきました。

 中国音楽の歴史と文化をもとにして、女子十二楽坊の音楽は中国音楽に帰納できるかどうかを考えました。中国音楽文化の大きな特徴は、強大な吸収力と改造力を有していることです。それは、どの地方の楽器や楽曲がもとになっていようと、多くの人々に歓迎されさえすれば、中国音楽はそれを吸収し、調整と改造を加えて、中国音楽に変化させてきたのです。

 みなさん、現在中国器楽で使われている楽器のなかで、中原地区で発祥した楽器がどれほどあると思いますか? 二胡・琵琶・揚琴・チャルメラ・管子などすべて違います。しかし、これらの楽器の構造や様子は、当初中国に伝来したときのものとは異なっています。

 琵琶という言葉はすでに秦・漢の時代(紀元前221~紀元220年)に見られますが、現在普通に使われている琵琶のはじめは、どうやら千年ほど前の隋・唐の時代に西域から伝来した曲項琵琶のようです。しかし、現在の琵琶は当時の琵琶と大きな違いがあります。当時の琵琶は曲項四弦四相で横に抱えてバチで弾いていました。それが中国音楽文化の強大な改造力の洗礼を受けて、現在は四弦六相二四品で、縦に抱えて手で弾くのが標準の形になっています。

 楽器以外に、楽曲・音楽理論も吸収してきました。これはやみくもに吸収してきたのではなく、吸収した後、中国がもともと持っていたものと融合させていったのです。前文で唐代の俗楽について述べましたが、これについては繰り返しません。

 科学技術が進歩して、国と国との交流も盛んになり、文化交流も増えて、中国は西洋の様々な音楽の影響を避けられなくなっています。このような情況の下で、中国音楽文化の強大な吸収力は、自然に西洋音楽のなかで中国音楽にないものを吸収しつつあるのです。

 女子十二楽坊は、西洋のポップミュージックの要素を吸収しただけでなく、中国楽器演奏と組み合わせています。音楽的な側面から考えるならば(つまり商業その他の要素を除けば)、わたしは女子十二楽坊の出現は、ある程度、中国音楽文化のこれほどまでに強大な吸収力と改造力の影響を受けているのだと思います。

 とすれば、どうして彼女たちの音楽を中国音楽とみなしてはいけないということになるのでしょうか?

【訳註】

  • 1:日本の「雅楽」は、中国の「雅楽」とは意味が異なる。日本では、中国・朝鮮から輸入した曲と、それをまねた日本製の楽曲全般を指す。このとき中国から輸入されたのは、実は中国の「雅楽」ではなく「俗楽」だった。

以下雅楽のルーツはシルクロード?より引用。

 また、中国の雅楽は、(紀元前202年~220年)から各王朝に伝えられてきました。この雅楽は、日本の雅楽と同じ雅楽の名で呼ばれてはいますが、中国と日本の雅楽とでは、少し内容が違うようです。
 また、中国では、これ以外の芸術音楽を 俗楽 (ぞくがく)と呼びましたが、日本の雅楽は、この中国の俗楽を集大成したものです。
  • 2:シャーフナーズは、アラビア音楽の「ニ短調」を表わす用語。また、ローンガーは音楽のスタイルの一つで、四分の二拍子を基調とするものです。
  • 3:げいしょう‐うい‐の‐きょく【霓裳羽衣曲】唐の玄宗が、夢に月宮殿で天人の舞楽を見、これにかたどって作ったと伝える楽曲。原曲は西涼節度使楊敬述が献上した「婆羅門曲」という。(以上、広辞苑より)

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