将門首塚の新聞記事

出典: 閾ペディアことのは

将門首塚についての古い新聞記事を集めてみた。

目次

平将門の墳墓

読売新聞 明治40年(1907)6月4日朝刊

現今の大蔵省は徳川幕府御老中役屋敷の跡にして泉水の辺りなる小丘上に平将門の墓と称する一小祠あり前年末松男が此れに関する私見を公にしてより考古学者の問題となり居れるが此頃京都に於て石田三成の古墳と云ふ者を発掘し俗耳俗目を驚かしたる挙ありしより此れに感染せし者が同省の有志家は将門古墳の発掘を思ひ立ち過日の事人夫を督して盛んに堀り散らしたるは世人の知る所なるが何らの材料をも発見し得ざりと然もありなん因に言ふ将門の事跡に関して異説百出或は乱臣賊子と言ひ或は東国名誉の武将にして武功赫々たる為め叔父常陸大掾国香の疾詛する処となり反逆を以て誣ひられ憤慨の極此を殺して東国(主に国香部下の所領)を押領し天慶二年下総国猿島に於て一族亡滅したりとも伝へ其死所に就ては異説怪談百出して一笑の値だになき者あり吾人の検聞する処に因れば御老中の役屋敷は将門の妾が其死後庵室を構へて彼の後世を弔ひし古跡にして彼の松平信綱が其志を諒とし祠を建てたるものなりと何にせよ将門の遺趾とありては眉に唾するに値す

将門の霊よ 鎮まり給へ きのふ大蔵省で

読売新聞 昭和3年(1928)3月28日朝刊

首塚となって大蔵省の縁の下に埋って居る平将門、朝な夕なに端下役人の泥靴にまで遠慮会釈もなく頭……否首の上を渡られるので怨霊立どころに役人共に取りついて省内にバタバタ病人をこしらへ早速蔵相の死亡もつまりはこの怨霊の祟りだなどゝ誰れいふとなく縁起を担つぎ始めたので、兎も角将門の霊におわびして置くにしくはないと廿七日午後四時から庁内に神田明神の宮司や浅草日輪寺本山の河野大僧正を招いて鎮魂祭を行った(写真左二人目から阪谷芳郎男、三土蔵相、祝詞を朗唱するは神田明神宮司)

成仏せよ平将門 大蔵省が塚跡に厄払ひの建碑

読売新聞 昭和16年(1941)3月13日朝刊

大蔵省跡(現企画院)北隅の将門塚に建てる高さ七尺余本小松石の“故蹟保存碑”は十二日仕上げも終り十四日大蔵省の手で地鎮祭が行はれることゝなつた

明治卅九年時の蔵相阪谷男が拓本に依り板碑を建てゝ置いたのが震災のとき庁舎の再建で場所を少し移してから今は碑文も二字残ってゐるといふ後輩ぶり、高橋、井上両蔵相、それに昨年夏の雷火事などの凶事続きにどうやら将門の怨霊らしいと昨年暮首脳部が鳩首、早速元の場所に石碑を建てようと河田蔵相が達筆を揮って青山の石〓に作らせたもの【写真は将門の碑の仕上げ】

怪談丸の内

朝日新聞 昭和45年(1970)7月19日 東京版

たたりと近代ビル 手つかずの一等地

 地価一億八千万円の都有地が、千年前の首塚(くびづか)にまつわる怨霊(おんりょう)伝説のため売れず、ビル化をまぬがれている。千代田区大手町一丁目一番一号。塚の主は平安末期の武将平将門。周囲に日本長期信用銀行、三井生命保険相互、労働省、東京国税局などのビルが群立するオフィス街。新社屋建設を予定して塚の隣接地を手に入れた三井物産が「ついでに塚の土地も」と都に打診したところ「塚を勝手に動かすとたたりがあるとかで……」。ほかの理由もあるそうだが、物産は入手をあきらめた。ネコの額ほどの空き地でもひく手あまたの丸の内に起きている“怪談”。

首塚にコワゴワ 伝説に生きる“将門”

 まず、怨霊伝説――

 その一 大正末年。関東大震災で灰になった大蔵省が首塚の上も整地、仮庁舎を建てた。間もなく同省の役人の中に病人続出。一年ほどの間に当時の大蔵大臣はじめ部長クラスの幹部十四人があいついで死んだ。「これは将門公の塚を粗略にしたたたり」と塚の上の庁舎を取りこわし、省内の不安を取除いた。

 その二 昭和十五年六月二十日。雨の中、突然、落雷した。大蔵省本庁舎炎上。省内に再び「慰霊祭をおろそかにしていた罰」の声があがり、将門公没後千年とあわせ一千年祭を挙行。河田烈大臣みずから筆をとり古跡保存碑を建立(現存)。

 その三 昭和二十年暮れ。進駐してきたマッカーサー司令部が、コンクリートと雑草で荒れる塚周辺をモータープールにしようと着工。この工事中、整地作業をしていたブルドーザーが突然、横転。日本人運転手と作業員の二人がブルドーザーの下敷きになり一人即死、一人は大けがをした。古くからのいい伝えを知る近くの材木商遠藤政蔵さんが司令部に出頭「あの塚は日本の昔の大酋長(だいしゅうちょう)の墓。ぜひ、つぶさず残してほしい」と陳情、塚は残された。

 その四 昭和三十六年。モータープール撤収後の跡地、首塚の東側土地が日本長期信用銀行と三井生命保険相互に払いさげられ、ビル工事に着工。このとき長銀の建った場所は塚の旧参道の上だった。三十八年ごろ、塚に面した各階の部屋の工員がつぎつぎに発病。「たたりなんて、ちょっと本気になれないが」と思いながらも、塚の管理者神田明神の神官を呼び盛大なおはらいをした。現在も、同銀行の塚に面した部屋で仕事をする行員の机などは窓側を向くか、横向きだ。「塚にシリを向けては……」という配慮とか。

 “たたり”なのか、偶然が重なったのか。これらのわざわいを受けた当事者やまわりのものも大部分「偶然に決っていますよ」という。が、なんとなく気味が悪い。神田明神の氏子総代で「将門塚保存会」副会長の遠藤達三さん(五二)=千代田区内神田一丁目=はいう。「モータープールの事故のとき、私は父といっしょにマッカーサー司令部なんかにもいきましたし、直接、前後のことを見聞しましたが、なんとなく信じたいような気持ち。アメリカ人だって案外、迷信深いんですよ。ちゃんと、塚を残したんだから」。

 長銀の慰霊祭以後、現在まで「たたり」はない。怨霊伝説もいつしか忘れられていた。ところが、三十九年、塚の西北部の土地を入手した三井物産が、昨年ごろから新社屋建設を計画。地下鉄大手町駅との連絡地下道建設工事や、社屋横に作る労働省方面への通路建設などから塚の土地も入手できれば好都合と考えた。そこで、管理する神田明神、同塚保存会に意向を打診した。「建物ならともかく塚を動かしたら古跡の意味がなくなる。また、昔からこういう怨霊伝説もある」との返事。地主の都も「払下げてもかまわないが」といいながら、何とはなしにさわりたくない様子だ。新社屋建設室までつくっている三井物産も、あきらめた。同室の城田一雄参事は「塚の土地はなくてもかまわないんです。科学の時代に、たたりなんて本気にはしませんが、そんな話を聞くとどうしてもという気にならないのはたしか」と苦笑する。

 一平方メートルあたり約六十五万円。二百八十七平方メートルある塚周辺の土地を手放せば都には一億八千万円見当の金がはいる。磯村光男財務局長はいう。「土地利用から見たら払下げるべきでしょうねえ。ま、保存会側や買手など八方まるくおさまりゃ、売ってもいい。たたりはあたしが受けてもいいですがねえ。ハ ハ ハ」。

 適当な代替地が見つからないこともあり、将門塚は「伝説」をかかえて生きながらえそうだ。

 「すべて科学的、合理的が優先するご時世。東京の真中に“伝説”が生きていくのも面白いじゃありませんか」(遠藤副会長)。

続・怪談丸の内

朝日新聞 昭和45年(1970)8月22日 東京版

 七月十九日付の東京版に、平将門の首塚をめぐる“怪談丸の内”の話が出た。だが、首塚の意味については、みんな忘れているようであった。
 首塚付近は、東京で最初に集落の発生した場所である。この発生の地に、その後、平将門の首塚が生れ、江戸庶民の間でながく大切に保存されてきたものである。
 この事実を、肝心の東京都が忘れ、売りたいのなんのということこそ、まさに怪談ではあるまいか。
 この東京の“へそ”にもあたる場所を、一億八千万円の代価で土地利用の効率化をはかるほど、“地主”の東京都は零落したのであろうか。あるじみずからへそを忘れるところに、際限なくスプロール化する肥満児東京の原因がありはしまいか。
 そこで提案だが、都は、売却などとケチくさいことは考えず、この土地を「東京発祥公園」とでも名づけた公園にして、東京の“へそ”はここだと明示できるような処置をとったらどうであろう。
  (小金井市 勤め人=44歳)

波紋投じた将門の首塚 永久保存の動き 肝心の都は気乗り薄

 大手町一帯は、平川(現在の日本橋川)が海(日比谷入江)に注ぐ河口であり、江戸氏の館も、太田道灌の城も、東京で最も早くからひらけた集落をふまえて築かれた。当時、柴崎村と呼ばれたこの集落の中心に、首塚が生れ、十四世紀初頭、村民によって「神田明神」として祭られた。徳川になって、江戸城の拡張工事のため外神田に移されたが、首塚だけは、幕府の敬意からそのまま残された。江戸三大祭のひとつ、神田明神の祭礼神輿は、現在でも必ず首塚に巡行する。戦前までは、将門の怨霊伝説とともに、江戸発祥の故地として、国、都、庶民の間で大切に保存されていた。

 ところが、戦後、東京がめざましく復興するにつれ、江戸発祥の故地は、しだいに忘れられていった。まわりの土地は、つぎつぎに払下げられ、いまは約二百八十平方メートルの土地がビルの谷間にかろうじて残っている。

 そんななかで「東京百年史」を執筆している学者グループの間で、首塚を“東京の原点”として、永久保存しようという動きが生れている。その一人、東大の杉山博助教授はいう。「首塚は、東京に人間が最初に住みついたところ、町の出来た場所です。東京の庶民にとって、いわば原点ともいえる土地です。何百年もの間、江戸の庶民が大切にしてきたものが、昭和元禄に忘れ去られようとしている。古い庶民の足跡が何もかもなくなっていく東京で、ビルの谷間に残ったこのわずかな土地ぐらいせめて永久保存できないものか」。

 先生たちは、近く、関係方面に呼びかけ、首塚一帯を都の史跡として整備、永久保存することを都知事に要望する。

 神田明神の氏子総代で「将門塚保存会」の副会長遠藤達蔵さんは「私も大賛成。私たちは昭和二十五年から東京の発祥地である首塚を都の史跡にするよう申請している。ところが、教育庁では、都有地にあるものは史跡に指定できない。まず払下げを受けてからという。あの土地を管理している庁舎係は指定を受ければ、払下げてもいいという。責任のがれのイタチごっこで、まるでラチがあかない」と語っている。

 また都庁舎係では「近く払下げるという話は聞いていない。史跡にする予定もない。当分はこのままの状態でしょう」という。いまのところ、都は“東京のヘソ”については全く無関心のようだ。


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