日本語教育史

出典: 閾ペディアことのは

ここでは日本語以外の母語話者のための(第二言語・外国語としての)日本語教育・日本語研究の歴史を概観する。

目次

近世

宣教師時代/キリシタン資料

1549年のフランシスコ・ザビエルの不況開始から1639年の鎖国令(ポルトガル船来航禁止)まで、90年間のイエズス会による布教期間が存在した。

イエズス会宣教師が日本での宣教を行なうにあたって文法書・辞書をまとめたのが、本格的な第二言語としての日本語教育資料となる。イエズス会のポルトガル語を用いて日本語が記述されている。イエズス会が日本で刊行した書物はキリシタン資料(キリシタン版)と呼ばれ、当時の日本語の状況をよく伝える資料になっている。

特に日本語文典・日本語小文典をまとめたジョアン・ロドリゲスが重要である。なお、日葡辞書もロドリゲスによるものとされていたが、現在は否定されている。

  • 1581年:豊後の府内コレジヨにて初の日葡辞書が作られる。
  • 1585年:長崎の有馬セミナリヨにて日葡辞書が作られる。
  • 1592年:天草版『平家物語』刊行。
  • 1593年:天草版『伊曽保物語』刊行。
  • 1598年:キリシタン版の日本語漢字字書『落葉集』
  • 1603~1604年:長崎で『日葡辞書』刊行。見出しの日本語がポルトガル語式のローマ字で書かれているため、当時の発音が判明する。話し言葉、女性語、文語等の区別も記され、当時の生活状況なども反映されている。
  • 1604~1608年:長崎でロドリゲス『日本語文典(Arte da Lingoa de Iapam)』刊行。
  • 1620年:マカオでロドリゲス『日本語小文典(Arte Breve da Lingoa Iapoa)』刊行。初学者向け。拍・モーラについても記している。

江戸時代

  • 1696年:大坂谷町の質屋の息子伝兵衛(デンベエ)がカムチャツカに漂着(ロシアへの初の漂着民)。デンベエはモスクワに連れて行かれてピョートル1世に謁見し、ロシアにおける最初の日本語教師、日本人初の正教徒となった。
  • 1728年:薩摩から大坂に向かっていた若潮丸がカムチャツカに漂着。ゴンザとソウザという二人だけが生き残った。二人は5年後にサンクトペテルブルグに送られてアンナ・ヨアノヴナ女帝に謁見し、日本語教師となった。ソウザの死後の1738年、ゴンザは『新露日辞典』を完成させた。ロシア語を鹿児島弁で和訳している。
  • 1867年:ドイツの言語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann)の『日本語文典』刊行。ホフマンはアムステルダムでシーボルトに出会い、後にオランダのライデン大学教授となった。

近代の日本語教育

朝鮮留学生

  • 明治9年(1876):日朝修好条規
  • 明治14年(1881):朝鮮からの視察団から3名が留学。福沢諭吉の慶應義塾が2名、中村正直の同人社が1名を受け入れた。

清国留学生

  • 明治27年(1894):日清戦争
  • 明治29年(1996):清国から13名が留学。柔道家でもあった嘉納治五郎が牛込に亦楽書院(えきらくしょいん)を設立して受け入れた。校長は松本亀次郎。魯迅もここで学んだ。亦楽書院は後に「弘文学院」に改名し、さらに「宏文学院」となる

清国からの留学生は後に一万人近くに増大した。松本亀次郎は昭和まで中国人に対する日本語教育に尽力し、『言文対照漢訳日本文典』を著している。

台湾

日清戦争での勝利により明治28年(1895)に日本は台湾を領有することになる。これ以来、台湾での日本語教育が行なわれることとなった。

  • 明治28年(1895):台湾総督府。台湾では同化政策がとられる。
    • 同年、伊沢修二が台湾総督府学務部長となり、日本の師範教育、音楽教育を進める。伊沢は台北北部郊外の芝山巌恵済宮という道観を借り、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)という小学校を設立して日本語を教え始めた。伊沢の日本語教育法は漢字をルビとして用いる対訳法であり、ろう教育のメソッドも取り入れられていた。
  • 明治29年(1896)1月1日:芝山巌事件。抗日ゲリラによって芝山巌の教師六名(六氏先生)と用務員が惨殺された。伊沢は講習員募集のため他の教師一名とともに日本に一時帰国していたため難を逃れた。
    • 同年、「国語伝習所規則」が制定され、14か所の国語伝習所が設置された。
  • 明治31年(1898):台湾人のための公学校が設置される。原住民のための蕃人公学校も開かれた。
  • 明治32年(1899):山口喜一郎らがグアン式教授法での授業を実践する。グアン式は学習者の母語を使わない直接法で、幼児の言語習得過程の観察から生まれた教授法である。
  • 大正8年(1919):台湾教育令。日本語教育政策が確立する。
  • 大正11年(1922):新台湾教育令。内地人(日本人)と本島人(台湾人)が上級学校では共学となる。
  • 昭和16年(1941):小学校、公学校、蕃人公学校がすべて国民学校に改編される。皇民化教育の一環として、日本語使用が徹底された。国語常用家庭制度も設けられた。

朝鮮

朝鮮半島は韓国併合から日本領となるが、その前後から日本語教育が行なわれた。韓国併合後、朝鮮人に対して朝鮮語の完全な廃棄と日本語の母語化を求めたのが時枝誠記である。時枝はそのために朝鮮人女性への日本語教育を重点的に行うことを主張した。

  • 明治24年(1891):英語教育者だった岡倉由三郎が朝鮮政府から招聘されて日語学堂を開き、本格的な日本語教育を開始する。
  • 明治28年(1895):官立外国語学校の中の官立日語学校に吸収される。
  • 明治39年(1906):新学制。日語が必修となる。国語(=韓国語)も学ばれた。
  • 明治43年(1910):韓国併合。朝鮮総督府による統治が始まり、日語が国語と呼ばれるようになる。
  • 大正8年(1919):三一独立運動
  • 昭和12年(1937):日中戦争。学校では授業以外の時間にも国語使用が奨励された。
  • 昭和13年(1938):朝鮮教育令。内鮮一体、皇民化教育が強調される。朝鮮語は随意科目となる。
  • 昭和16年(1941):初等学校を国民学校と改称し、朝鮮語が教育過程から姿を消す。国語常用運動。
  • 昭和17年(1942):国語普及運動
  • 昭和19年(1944):「徴兵制実施に伴う国語全解運動」

南洋群島

南洋群島は第一次大戦後、ドイツ領の一部が日本の委任統治地域となった。

  • 軍政時代(1914~1918):国語教育を中心とした同化政策が推進された。
  • 民政時代(1918~1922):皇民化方針が徹底される。口語教育の強化が図られた。
  • 南洋庁施政時代(1922~1945):すべての教科教育が日本語で行なわれた。

満州国

昭和7年(1932)の満州国建国以前から関東州・満鉄付属地で日本語教育が行なわれていた。

  • 明治37年(1904):金州の南金書院民立小学堂で関東州における日本語教育が開始される。日本語教育は大連、旅順の公学堂へと広まった。
  • 明治39年(1906):関東州公学堂規則
  • 大正4年(1915):関東州普通学堂規則
  • 昭和7年(1932):満州国建国。
  • 昭和12年(1937):「学校教育ニ於ケル日本語普及徹底ニ関スル件」。語学検定試験が国家試験として制度化された。
  • 昭和13年(1938):新学制。日本語は「国語の一つ」として扱われた。

満州では当初から日本語教育は直接法で行なうべきだと考えられていたが、華系教師も多かったため、対訳法も取り入れざるを得ない状況にあった。また、大出正篤の開発した速成法も勢力を持っていた。速成法は、対訳付きの教科書を用い、対訳を利用して自宅で予習させるが、教室では一切中国語を用いない方法である。

「国語」の系譜

明治6年(1873)にお雇い外国人として来日したバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は東京海軍兵学寮、次いで東京帝国大学の外国人教師となり、日本・日本語に関する著作を発表した。チェンバレンの直系が上田万年である。

  • 明治21年(1888):『口語日本語ハンドブック』A Handbook of Colloquial Japanese
  • 明治23年(1890):『日本事物誌』Things Japanese
  • 明治32年(1899):『文字のしるべ』A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing

『言海』の著者、大槻文彦は近代文法学説の最初である。

チェンバレンに師事した上田万年(うえだかずとし)は国語政策について尽力した。特に東京山の手で用いられていた言葉をもとに「標準語」を整備し、方言を根絶しようとしたことで知られる。また「一国家、一民族、一言語」が日本国の特徴ととらえたうえで、それを植民地にも当てはめようとした。日本語を排他的で唯一の「国語」としようとしたのである。さらに、上田は東亜の国語としての日本語を夢想するに至った。政治的学者と評される。「p音考」ほか。

山田孝雄(やまだよしお)は副詞を情態副詞・程度副詞・陳述副詞の三つに分類した。

橋本進吉は音韻史研究を行ない、上代特殊仮名遣いを再発見した。また、文節を重要視する文法理論は「橋本文法」と呼ばれ、これが現在も学校文法(国語文法)として採用されている。ただし、橋本文法については現在、言語学・日本語教育の分野では否定的なとらえ方が強い。

時枝誠記(ときえだもとき)はソシュールを批判して言語過程説を唱え、「時枝文法」を提唱した。また、京城帝国大学で朝鮮の日本語普及にも関与した。ここで朝鮮人に対して朝鮮語の完全な廃棄と日本語の母語化を主張している。

三上章は主語廃止論を主張した。『象は鼻が長い』など。

戦後の日本語教育

長沼直兄は、外国語としての英語教育の方法を学んだ後、米国大使館の日本語教官もつとめ、1931~34年に『標準日本語読本』を刊行した。戦後、長沼は言語文化研究所を設立、1948年には東京日本語学校を開校した。

日本国内での日本語教育の必要性が高まったのは、中曽根内閣による留学生10万人計画以後のことである。

  • 1970年:私費外国人留学生統一試験開始(2001年まで)。日本国際教育協会。
  • 1972年:日中国交回復。中国残留婦人・中国残留孤児の帰国が始まる。
  • 1981年:難民条約に加入し、インドシナ難民(ボートピープル)の受け入れが始まる。
  • 1983年:中曽根内閣が留学生10万人計画を打ち出す。このうち9万人は私費を想定していた。「知的国際貢献」がうたわれていたが、日本への留学生の出身国と、日本からの留学先のバランスはまったく取れていない。当時の留学生数は1万人程度で、10万人という数字はフランスを模倣したものである。
  • 1984年:日本語能力試験開始。国内では日本国際教育支援協会、台湾を除く海外では国際交流基金が実施している。留学生10万人計画に対応。
  • 1985年:日本語学校が急増する。バブル景気のために外国人労働力を確保するためのにわか作りの日本語学校もあった。
  • 1988年:日本語教育能力検定試験開始。日本国際教育支援協会が主催し、日本語教育学会が認定する、日本語教師の資格試験。留学生10万人計画に対応。
  • 1988年11月:上海事件。日本語学校が入学許可書を乱発したが、上海領事館がビザ発給を停止した。これに対し、入学金や授業料を払ったにもかかわらず入国ビザが取れず、返金もされないことに怒った数百人が上海領事館を取り囲み、抗議した。
  • 1989年:(財)日本語教育振興協会。日本語教育振興協会に認可された日本語教育機関が「日本語学校」となる。上海事件を契機に設立された。この後、日本語学校の在籍者が激減する。
  • 1990年:入管法改正。ニューカマー増大。
  • 1999年:就学生受け入れ緩和。
  • 2002年:日本留学試験開始。アカデミック・ジャパニーズの能力を評価するもの。日本学生支援機構が主催。
  • 2003年:「新たな留学生政策の展開について」文部科学省中央教育審議会答申で「質から量への転換」が記される。2003年に留学生10万人が達成された。
  • 2004年1月:福岡一家四人惨殺事件。
  • 2004年:日本経済団体連合会提言により、労働力が足りないという声に応えて外国人庁が創設される。
  • 2006年:総務省「多文化共生プログラム」
  • 2008年:インドネシアから看護師・介護福祉士候補来日
  • 2009年:フィリピンから看護師・介護福祉士候補来日。
    • 留学生30万人計画開始(福田康夫内閣)。2020年目標。
      • 留学生30万人計画の一環として、「国際化拠点整備事業(グローバル30)」開始。世界的な人材獲得競争が激しくなっている状況の下、我が国の高等教育の国際競争力の強化及び留学生等に魅力的な水準の教育等を提供するとともに、留学生と切磋琢磨する環境の中で国際的に活躍できる人材の養成を図るため、各大学の機能に応じた質の高い教育の提供と、海外の学生が我が国に留学しやすい環境を提供する取組のうち、優れたものを支援する。13の大学が国際化拠点整備事業に採択された(東北大学、筑波大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学、慶應義塾大学、上智大学、明治大学、早稲田大学、同志社大学、立命館大学)。
    • 外国人登録法廃止、在留カード発行方式に変更。
  • 2010年:日本語教育振興協会の「日本語教育機関(日本語学校)の審査・認定事業」が事業仕分けにより廃止と決定した。同事業は文科省に移行。
    • 在留資格「技能実習」の新設、在留資格「留学」と「就学」を「留学」に一本化。
    • 日本語教育能力検定試験が新試験に移行。従来の1~4級をN1~N5とし(N3は2級と3級の間に新設)、Can-doリストが策定された。また、成績は素点ではなく、得点等化された尺度点で示される。

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