普通文章論 第1部

出典: 閾ペディアことのは

幸田露伴著『普通文章論』第1部「文章を難しいと思うな」。現代語訳=松永英明。

目次

文章は論じにくい

 文章というものは、その功は広大で火が燃えるように盛んなものであり、その徳は深く厚く悠久な、実に人間のなすことの中でも一つの大事といっていいものである。で、そういう素晴らしいものであるから、文章をわが心のままに書きこなそうということは、なかなか容易なことではない。まして文章の批判や談論をしようとするのは、いよいよもって難しいことである。

 明の王弇州[1]は、学問もあれば才識もあった人で、欧陽永叔[2]を罵っては「仏教の教えも知らず、書経も知らず、詩経も知らない」とけなしたり、黄山谷[3]をあざけっては「小乗とするにもたらず、これは外道でしかない」とバカにしたり、蘇東坡(子瞻)[4]を評しては、「子瞻の文を読めば才能があるのはわかるが、書を読んでいないようにみえる。子瞻の詩を読めば学識があるのはわかるが、しかしものすごく才能がない者のようにみえる」といって軽んじたりしたくらいの人であった。

 ところがその弇州が『芸苑巵言』四巻を著わして、盛んに文章を論じて威張りまわしたのはよかったけれども、晩年に及んで李西涯という人の『楽府』に序文を書いた中では、『巵言』を著わして批判談論をあえてしたことを後悔していたり、死に臨んだときには手に蘇東坡の文集を捨てなかったという事実を残していたりする。

 弇州の学問才識をもってしてさえそうなのであるから、不学短才の自分などが文章を論じたり何ぞするのは、力の乏しい者が力業をあえてするようなもので、はなはだもっておぼつかないことであり、さらにまた僭越限りないことである。

 しかし、自分は今、このようなことを思っている。なるほど、力の乏しい者が力士の真似はできないけれども、力の乏しい者でも力相応のものは持ち上げることができるというのは事実である。力が乏しければ、一俵の米さえも持ち上げることができない。しかし、一俵の何分の一かの三升とか五升とかいう量の米であれば、危うげなく持ち上げることができる。

 この道理によって、文章という素晴らしい大きなもの全体を批判したり論じたりしようとするのではなく、文章の何分の一かに当たる一部分を議論しようと考えるのであれば、これに耐えることができるかもしれない。自分は、今まさに文章全体を議論しようとは考えていない。文章の中の一小区画について議論しようとしているのである。

 と、こう思っていて、そしてこれを無理とは思わないので、この企てを放棄しようとは思わないのである。

文章の二種(A:実用的文章 B:美術的文章)

 文章というものの全体を仮に大別すれば二つになるようである。二つとは何だろうか?

 まず一つは実用的な文章である。そしてもう一つは美術的な文章である。

 実用的な文章というのはどういうものだろうか? 実用文章というのは、すなわち、実世間で実際に役立って、何らかの任務を果たすものをいうのである。例を挙げていって見れば、商業上の往復照会の文書であるとか、調査報告の文書であるとか、商品の説明であるとか広告であるとか、売買その他の契約であるとか、あるいはまた社交上の慶弔の文であるとか、種々雑多な用事の書簡であるとか、あるいはまた学術上の論説であるとか記録であるとか弁難であるとか、あるいはまた政治上の意見の発表であるとか、批評の応答であるとか、何だかんだと際限もないほど多種類であるが、要するに、短いものは電報や受領証の簡単なのから、長いのは科学上や宗教上や政治上の大著述に至るまで、すべて美術的であることを目的としない文章、すなわち実用に供される文章を指して、実用文章というのである。

 美術的文章というとどういうものだろうか? すなわち詩であるとか歌であるとか、小説であるとか戯曲であるとか、叙景または叙情の詩的散文であるとか、すべて世の実際の要務に対して直接には関わらない文章を指していうのである。これらの文章は間接には実際に世間とも接するが、直接には実際に世間と接触しないものであって、手近な例を挙げれば、和歌や俳句が受領書や電報のように実際の役に立つものではないことでもわかる。

 が、それならば、この美術的文章はすべてまったく世の役に立たないものであるかというと、もちろんそうではない。人の世にとっては、やはり実用的文章同様に重要な位置を占めているものである。ただ、これらの文章はそのもともとの性質として、人に対して虚しい感じ、つまり美感を得させるのを目的として存在しているものである。直接に、実世間の実際上に何らかの任務を帯びて使われている文章ではないのである。

二種類の文章を一緒くたに論じるのはおかしい

 そこで美術的文章と実用的文章の間には、二つをごっちゃにできない厳然たる壁が存在していて、その壁が二つを明白に区別している。

 つまり、実用的文章の側からいってみると、実世間における直接の任務の有無ということがその壁に示されている。また、美術的文章の側からいってみると、美感の有無ということがその壁に大書してあって、人に美感を与えない文章はこちらに入ってはならん、と拒絶しているのである。

 この美術的文章と実用的文章では、その目的が各々異なるので、おのずからその性質や機能や色彩や様子がみな異なってくる。で、二者を混同してしまって一緒くたに論じることは不可能で、かつ不合理なことである。

 例を上げれば、数理を解くときの文章は実用的文章で非美術的文章であるし、詩はもとより非実用的文章で美術的文章である。

 そこで、数理を解いた文章にもし論理の筋道が幽玄で補足しがたいところがあったりなんかしたら、大いに責めとがめなければならない。しかし、詩の方では、感じが曖昧模糊としてさえいなければ、論理の筋道はいささかぼんやりしていて隅々まで明白でなくても、さほどとがめられないのである。ちょうど、地図は正確明瞭でなければ不可だが、絵は雲・霧が山川を覆うところを描いても差し支えない、というのと同じ道理である。

 さらに一つ例を挙げてみるならば、美術的文章の方では擬古文というのも許される。すなわち、場合によっては荘重でありたいという希望から、非常に古い言語や文字や文法を用いて書いても、それはそのやり方で成功さえしていれば、別にとがめ立てはしないのである。しかし、実用的文章の方では擬古文は不可としなければならない。『書経』や『左伝』の調子で数学の本を書かれたり、『源氏物語』や『伊勢物語』のような文体で商業視察の報告を書かれたりしたら、実に困ることになるから、絶対に排斥しなければならない。「鄭伯、段に鄢に克つ」というような調子や、「……あんなれ」「……べかんめる」などという古くさい文体を持ち出されたりした日には、実際世界の用事は果たせない。それゆえに、美術的文章の方では擬古文を許しても、実用的文章の方では擬古文は許せない。

 そこで、実用的文章と美術的文章の二種類の文章を一緒に論じることはできない、という結論になる。しかし、この事実を無視して、ただ一つの「文章」という言葉なんだから、文章とさえいえば同じもののように見なしてしまって、それでいて修辞法や作文法を教えるなどと言っているものがいるのは、本当に大づかみの議論で、詳細を尽くしていないと思われる。

 つまり、同じ定規をもって取り扱うことのできない、まるで異なった性質のものを、一つの定規で律しようというのは、元来無理である。

 古来、このことを無視して文章を論じたり、あるいは作文法を教えたりしているのは、たとえば兵士と農夫とは志すちんおろがおのおの異なっているのに、二者を混同して論じたり教えたりするようなもので、不合理であることは言うまでもない。田んぼで耕し、収穫するときの態度と、戦場においてかけずり回るときの態度を一緒にすることはできない。鋤をとって土をいじる道と、剣・戟を振るったり銃砲を扱ったりする道とは、その精神も異なっていれば、手段も違っている。作業も違っていれば、希望するものも違っている。それを同一にしてしまって、「田んぼを耕す動作が遅い。戦場で駆けるように敏捷にすべきである」などといったところで、それは気が狂ったような言葉であるし、小銃の持ち方を教えるのに「鋤の持ち方のようにすべきだ」と言ったならば、それも気の違った言葉であろう。

 で、そんな馬鹿げたことは誰も言ったりしない。しかし、文章上ではちょうどそれと同じような論じ方や教え方をしていて、それでも不思議に思っていないのが世間の常である。習慣が長くなると何ごとも疑わないものであるが、美術的文章と実用的文章を同列に論じたり教えたりするようなのは、実に不合理である。

文章本来の約束

 記事文は同じ記事文でも、実用的な記事文と美術的な記事文が同じようなものであるべき道理はない。美術的な記事文ならば、それが美術的であるということ、すなわち美術的であらねばならないということが第一に主要な約束である。実用的な記事文ならば、それが実際の役に立ちえるものであらねばならないということが第一に主要な約束である。その文章の本来の約束ということは実に大切なことである。

 奈良の吉野は桜の花の美観で有名な場所であると同時に、材木の産地としても有名である。今、もし林業者が同地を視察してその記事の文章を作るとすれば、それはすなわち実用的文章で、そしてその文章はもちろんのこと、林業者にとって何らかの参考になったり、利益になったりすることを目指しているのである。で、その一事がその文章本来の約束となっているのである。だからその文章は、事実を離れないように、浮いた言葉のないように、明らかに、わずらわしくなく、漏れのないようにできさえすれば、それで十分であり、上々であるのである。

 しかし、もしその文章の中に、支那風の悪く難しい形容の言葉や、日本古代の生ぬるい死語などがたくさん埋め込まれていたり、あるいはまた「白髪三千丈」などというような誇張はなはだしい文字が使ってあったり、「これはこれはとばかり花の芳野山」などというように人の感覚に訴えようとする気の利いた詩的言語が多く使われていたりするとするならば、それは面白くない、よろしくないと言わなければならない。なぜといえば、それらのことは、その文章本来の約束で求められている明瞭さ、確実さ、詳細さというものをいくらか損なう一方、不要な別の意味を付け加える傾向があるからだ。

 また、今もしある詩人が芳野の花を見てその記事文を書いて、まだ知らない人に吉野の美しい景色を想像させようとしたとすれば、その文章の本来の約束は、優美さだとか崇高さだとか、何らかの美を有するということである。で、その文章には、何の谷に桜の樹が体積にして何百何十本あるだの、何の谷に杉の根回り何尺以上のが何百何十本あるだのといった記事や、どこそこの地質は輝石安山岩だの凝灰岩だの水成岩だのという記事なども、必ずしも必要ではない。挿入するのは任意だが、林業者の視察のメモや、地質調査の報告書のようなものになってもらってはむしろ不本意なのであって、要するに何でもよいからいわゆる美的感覚を提供するものであってほしいのである。どんな文体で、どんなことを書いてもよいのだが、要するに読者に美感を感じてもらえればそれでいいので、そうでないならそれはよろしくないのである。失敗したのである。

文章の目的、約束、用意

 以上、概略を語ったとおり、文章はその目的が異なればその約束が異なる。その約束が異なれば、その用意が異なるというのは自然な道理で、曲げることのできないことである。文章と一口には言うけれども、二種類あることを忘れてはならない。目的の異なる文章は約束が異なり、約束が異なる文章はそれを作る用意が異なるものであるということを忘れてはいけない。名前だけが同じなのに惑わされて、実質が違うものを同じように見てはならない。

 さて、この書で論じようというのは、二種の文章の中の一種、すなわち実用的文章についてだけである。詩や小説や劇や詩的散文や、すべてそれらの芸術的文章は除いてしまって、余ったもの、すなわち文章の中の一区画について議論しようとしているのである。決して大胆に文章全体を議論しようというのではない。詩や小説といった美術的文章に比べて、実用的文章ははるかに複雑でなく、また遥かに多岐にわたっておらず、神秘的ではなく、論ずることのできないものではない。むしろ、浅く近く、平凡で、ありふれていて、容易で、簡単で、そして明晰で、説くことができるものである。

 しかし、実用的文章はまた美術的文章に比べて、はるかに広大な領域を文化の上に有しているものである。文字が始まって以来、世界の文章の7~8割までは実用的文章ではないだろうか。実用的文章は世界の実質である。美術的文章は世界の色であり、香であるのだ。文章としては美術的文章の方が価値が非常に高いのかもしれないが、必要性がこの世の中で切実にあるという点では、実用的文章こそ美術的文章に勝ること、はるかに遠いものである。

文章の分類

 文章というものはおのずから大別されて二種となる。その一つは実用性を主とするもので、他の一つは美感に訴えることを主とするものである。理解しやすいように、その概略を表にしてみれば、下に記したとおりである。

 この表を見ればわかることであるが、実用的文章の領域は実に広大なものである。宗教・法律・政治・軍事・科学・技術・生産・商業・文学・歴史・地理・社交における文章、すなわち人の世の文章のすべては、ただわずかに詩の一部分を除いてみな実用的文章である。

 しかし、世にはまた種々のものがあるものであって、実用的文章とも言いかねるが、詩とも言いかねるものがある。けれども、それらは深く論ずる必要もない。なぜかといえば、それは詩がまるでひどく失敗したものであるか、さもなければ、実は実用的文章に属すべきものなのに、たまたま変わった書き手の物好きによって奇妙な書き方をされたにすぎないものなのであるから。

  • 非実用的文章 詩(広義)
    • 詩(狭義)
      • 叙事詩 ●散文的 ★有調的
      • 叙情詩 ●散文的 ★有調的
      • 叙事・叙情を兼ねた詩 ●散文的 ★有調的
      • その他種々 ●散文的 ★有調的
      • 悲壮劇 ●散文的 ★有調的
      • 滑稽劇 ●散文的 ★有調的
      • 悲喜を兼ねた劇 ●散文的 ★有調的
      • その他種々 ●散文的 ★有調的
    • 小説
      • 近代的
        • 単 ●散文的
        • 複 ●散文的
      • 古代的
        • 演義・伝奇 ●散文的
        • 神仙譚 ●散文的
        • 譬喩談(たとえ話) ●散文的
        • 瑣談(細々としたつまらない話) ●散文的
        • その他種々 ●散文的
    • 雑文
      • 紀行(ある種の) ●散文的
      • 諧謔文(お笑い) ●散文的 ★有調的
      • 随筆(ある種の) ●散文的
      • 擬作 ●散文的 ★有調的
      • その他種々 ●散文的
  • 実用的文章 非詩
    • 宗教上
      • 経典解釈 ●散文的
      • 儀軌(儀式細則) ●散文的
      • 記録 ●散文的
      • 評論弁難 ●散文的
      • 勧誘 ●散文的 ★有調的
      • その他 ●散文的
    • 法律上
      • 闡理 ●散文的
      • 記録 ●散文的
      • 解釈 ●散文的
      • 応用弁論 ●散文的
      • 判決 ●散文的
      • その他 ●散文的
    • 政治上・軍事上
      • 学説 ●散文的
      • 政見主張 ●散文的
      • 命令 ●散文的
      • 記録 ●散文的
      • 上申書 ●散文的
      • 弁論 ●散文的
      • 報告 ●散文的
      • その他 ●散文的
    • 科学上・技術上
      • 理論 ●散文的
      • 記載 ●散文的
      • 解説 ●散文的
      • 評論 ●散文的
      • その他 ●散文的
    • 生産上・商業上
      • 意見発表 ●散文的
      • 記録 ●散文的
      • 報告 ●散文的
      • 解説 ●散文的
      • 勧誘 ●散文的 ★有調的
      • 証書契約書 ●散文的
      • その他 ●散文的
    • 文学上・歴史地理上
      • 論議 ●散文的
      • 批評 ●散文的
      • 記載 ●散文的
      • その他 ●散文的
    • 社交上
      • 往復文書 ●散文的
      • 契約 ●散文的
      • その他 ●散文的

実用的文章の特質

 さて、今これから実用的文章がどういうものであるべきかということを説き、続いて、実用的文章はいかにして書くべきかを説こう。

 実用的文章というものは、まず第一にその特質として、書かれるべき必要があって書かれるものなのである。

 詩歌・小説の類の芸術的文章は、書かれるべき必要があって書かれるというよりは、むしろ作り出そうという希望があってから作り出されるといってもいい。あるいはまた清水がわき出たりとかするように自然に作り出されるものであるといってもよいものである。

 しかし、実用的文章はそうではない。まずその文章の上に書かれるべき事柄があって、それから書かれるものである。自然に流出するものでもなければ、一つ文章を作ってみようという好事に近い願望から作られるものでもない。知らせようと思うある事情があるとか、論じようと思うある理屈があるとか、あるいはまた訴えよう、勧めようと思うある事柄があって、そして書き出されるのが実用的文章である。

実用的文章は手段であって目的ではない

 であるから、実用的文章においては文章は手段である。目的ではない。文章はある意義を表わすまでの手段として用いられるのであって、文章そのものは目的でも何でもない、借り物なのである。

 芸術的文章はこれに比べて大いにおもむきが違っていて、その文章を作ることそのものがすなわち目的なのである。

 実用的文章はたとえば弾丸のようである。弾丸というものは、その弾丸の使われる理由があって、それから用いられるものである。それと同じように、何かその文章の使われる理由があって、それから書かれるものである。

 芸術的文章は、石膏の像や木彫りの置物などのように、そのもの自体が制作される目的として作られるのと同じように、その文章そのものが直接の目的として書かれるのである。

 弾丸を飛ばすのは、鳥を捕ろうとか獣を撃とうというためであるし、実用的文章が書かれるのは、後払いの料金の請求であるとか、商品の注文であるとか、何かしらの役目を果たすためなのである。

 ここで商売上の後払い料金回収の督促の文章を書くものとしよう。そのお金を手に入れるということが目的であって、文章はただその目的を達するまでの手段とか道具とかいうものにすぎない。すなわち、文章は鳥獣を捕るために用いられる弾丸にすぎないのである。で、弾丸に望むのは、ただその鳥獣を捕るという目的にかなう弾丸であってほしいというだけである。それと同じく、文章に望むこととは、ただその文章を用いる理由となった本来の目的にかなう文章であってほしいというだけである。

 この道理をいい加減に見過ごしてしまうと、非常に愚かな結果を生ずるのであるから、十二分にこの点は注意しておかねばならない。

 弾丸はただ弾丸であればよいのである。文章はただ文章であればよいのである。しかし、不規則な多角形なのも弾丸ならば、まん丸型なのも弾丸であるが、散弾の理想としては真円形の弾丸がいいというのと同じように、アラの多い文章も文章ならば、よく整った文章も文章であるが、理想の文章としてはよく整った文章がいい。

 それだけではなく、同じ散弾でも普通の散弾以上にロンチルド弾のような精良のものもある。ロンチルド弾は普通の散弾に比べて、体積が同じときには重量が多く、重量が同じときには体積が減る、つまりある方法を加えて圧縮してできているために、届く距離も長く、貫く力も勝るという優等弾である。ちょうどそれと同じように、実用的文章も、実用に使う上で、普通の価値の文章もあれば、卓越して優れた文章もある。そこで、理想としてはそういう文章を書きたい。しかし、忘れてはならないことは、それはただ実用ということにおいて卓越して優れた文章を書こうというのであって、決して芸術的文章を書こうというのではないのである。

実用的文章を作るのは容易である

 実用的文章が本来持っている約束はすでに述べたとおりであるが、さて、この実用的文章を性質上から分類してみると、何通りもないものである。

 魏伯子[5]が「詩文は情(叙情詩)と事(叙事詩)と景(叙景詩)のどれかである」と言っているが、実用的文章であれば、

  • 実用的文章は
    • 事を記録する
    • 事を説く
    • 意を伝える
    • 情に訴える
    • 以上四種または三種または二種の混合

にすぎないのである。

 報告だの記録だの契約だのは「事を記録する」のである。

 論難だの解釈だの批評だのは「事を説く」のである。

 命令したり主張したりするのは「意を伝える」のである。

 勧誘したり陳謝したりするのは「情に訴える」のである。

 言い換えれば、芸術的文章が情という経路を取って人の思いに訴えるのとは違って、実用的文章は直接に人の知に訴え、意に訴え、情に訴えるものである。そして、その分量を言えば、知に訴えることが最も多くて、情に訴えることが最も少ないものである。

 しかし、人の何に訴えるにしろ、とにかく実用的文章は、記すべき事柄、説くべき理屈、伝えるべき意思、訴えるべき情といった内容がまず存在して、そして後に文章が作られるわけであるから、直接的には何もないところから作り出される芸術的文章とは大いにわけが違って、品物があればそれで場所がふさがるような道理によって、おのずから文章は容易に書かれるべきである。

 そう、実用的文章はおのずから容易に書くべき道理があるのである。

世の人はどうして実用的文章を作るのが簡単ではないと思うのか

 しかし、世間の実態を見ると、世の中の人はよくこういうことを言っている。

「どうも文章を書くのは難しい、難儀なことである。厄介である。おれは文章家でないから到底書けない」

という言葉であるが、こういう言葉はしばしば私が耳にする。

 なるほど、世の中に容易なことは一つもない。実に一本の直線を紙の上に書くのであっても、また決して容易なことではないのであるから、ましてや文章を書くという複雑なことが容易であろうわけはないのである。

 しかし、文章が文章を書くのは難しいだろうが、実用的文章を普通の人が書くのはそう難しいことではないはずである。なぜかといえば、演説家が演説をするのは難しいかもしれないが、普通の談話を普通の人がするのはそう難しいこともないのとちょうど同じことである。また、俳優が農夫に扮して農夫を演ずるのは――つまり俳優が技を示すのは難しいかもしれないが、本当の農夫が農夫の動作をするのが難しいという道理はない。

 今、ここにある人が言葉を発して何ごとかを語ろうとするとき、その語られるべき内容はすでに存在しているのである。で、その存在している実質をそのまま明らかにするのは、たとえば風呂敷包みの中のミカンをただその風呂敷を取りのけて示すようなもので、何の難しいことはないのである。ふだん我々が「鉛筆を買ってこい」とか「郵便を出してこい」とかいう言葉を発する場合に、その言葉を発するのは実に容易なわけで、それはそれらの言語を発する前に、すでに「鉛筆を買ってきてもらいたい」とか「郵便を出してほしい」というものが存在していたので、言葉を発したのは実はただ一枚の風呂敷を取り除く程度の労力と同じようなものであった。これが容易なのは実にわかりきったことである。

 文章は、我が国においても他の国においても、文章=話し言葉とはいいがたいものであるが、しかし大体において文章と話し言葉とは、その性質・作用・体形や人間との関わりにおいてほとんど近いものであり、場合によっては「文章も話し言葉も同じものだ」と言っても差し支えないものである。

 いずれにしても、話し言葉と遠い距離があるわけではない文章というものの中でも、特に実用的なのに至っては、やはり「鉛筆を買ってこい」「郵便を出してこい」などという言葉とあまり違わないものであると同時に、これを書くこともまた実に容易なのである。


 しかし、「実用的文章を綴るのは簡単です」ということを提言する必要があるほど、世の人は文章を作ることを難しいことだと考えている。

 なるほど、文章は上手に書きにくいものであって、文章はうまく書きにくいという議論は先人もなしてきたことであるから、決してむやみに「簡単なものである」と主張することはできないが、それはそもそも美術的文章についてのことであって、実用的文章の方はそれほど書きにくいものではない。

 もちろん、何でも一通りに済ませてしまうのと、至れり尽くせりにするという差はある。いかに実用的文章が容易に作れるものであっても、至れり尽くせりでこれ以上のものはないというふうに作ることは、決して容易なことではなく、むしろ至難の業である。しかし、要するにそれは、言い換えれば「欲望の満足は得がたいものである」ということであって、「実用的文章は作りがたいものである」ということではないのである。

 さて、それならば、まず書かれる内容があって、それから書かれることになる実用的文章は、すなわちただ一枚の風呂敷を取り除くのと同じくらい簡単に書けるはずだ。実用的文章は、なぜ実際には、世の中の人から、作ることが簡単でないものと思われているのだろうか。なぜ、事実上、世の中の多くの人が、自分の必要とする文章を書くのに悩んで、そしてともすれば他人に依頼したりするのだろうか。また、世の中の人たちが求めることについて、様々な作文指南書が棚からあふれるほどいかに多く出版されていることだろうか。

 これらの事実は、一つの大きな疑問であると同時に、わたしが先に言ったことが間違っている証拠のようにも見えてしまう。さらには、この一編のように実用的な文章を論ずる書も、つまるところは実用的文章を書くことが容易ではないからこそ生まれたのではないかという「言ってることと違うだろ!」というような話になってしまう。

 しかし、わたしの立場から言えば、実用的文章を作ることは容易である。しかし、これは難しいと考えるという事実が世の中に実際存在している。そのために、このような一編の論も書くのである――と言いたいのである。

 ひるがえって、また根本から言うならば、実用的文章を作ることがなにゆえに容易ではないのだろうかという疑問が起こるが、この疑問はおそらく非常に有益で、しかも切実な疑問である。なぜかといえば、その疑問がしっかりと解けるならば、ようするに困難の原因がわかる。原因がわかれば、その原因を取り除く手段・方法も議論できるのは当然だからだ。


 そもそも、実用的文章を作ることがどうして容易でなかろうか。風呂敷を取り除いて品物を示すのと同じことがどうして容易でなかろうか。逆に質問してみたいほどである。

 試しに、実用的文章を作るのは容易ではないと主張する人に、虚心になって考えてみていただきたい。

「なぜ容易ではないのか。どの点が容易ではないのか」と。

 そうしたら、おそらくその人も、容易でない理由や個所を発見するのに苦しむことだろう。容易でない理由や個所を発見するのに苦しむ理由は、それこそ本当の理由とすべき理由や指し示す個所があるわけがないことを語っているのであるが、だからといって、「それならばすでに容易ではないなんてことはないだろう」と押しつけるわけにはいかない。事実は事実として存在しているのである。

 それもまたそのはずで、病人は必ずしも病気の原因を知っているものでもなく、また病原が潜んでいる場所を知っているとは限らない。それと同じで、一般の人が実用的文章が難しい理由や個所を知らないからといって、おかしなことは何もないわけである。

 しかし、病人自身が聞かれたことに答えられないからといって病苦がないのではないのと同じく、一般の人が文章を作ることを難しいと思うという事実はやはり存在しているのである。

文章は難しいという観念を打破する必要性

 さて、こういうふうに難しいという思いが生じてくる源を観察して、そしてこれを排除することを工夫してみるならば、まず第一に「文章は作りにくいものである」という前提観念を打破することが大必要である。なぜならば、このような前提的観念がいつのころから一般の人々の間に起こったことであるか不明であるが、とにかく甚だしい有害無益の観念であって、この観念は確実に実用的文章を作る人を失敗させる主な原因となっているに違いないのである。

 なぜならば、何ごとによらず、自己の目的を遂げることが無理だとか、遂げることは難しいと信じるならば、物事に当たる勇気を減殺し、精力の充実を妨げ、智慮を萎縮させ、技量を衰えさせて挫折させるための条件となるからである。したがって、文章は作りにくいものであるという観念が前もって定まっているのは、確実に一般の世の中の人に文章を書きにくくさせている一大原因なのである。

 力士が二度も三度もある力士に負けてしまうと、ついにはその力士に対して勝ちにくいものであるかのような予想をしてしまう。で、一度その予想をしてしまうと、その力士に対するときは、他の力士に対して力をふるうときのように存分に働くことができない――俗に言う「固くなる」という状態になってしまって、敵を呑む勇気はすっかり削がれ、精力は満ち足りることがなく、妙にある点にのみ偏ってとどまり、智慮は萎縮して判断力は敏捷さを欠くようになり、技量はありながら「持ち腐れ」になってしまって、ついに不覚をとりがちの形勢になる。

 すると世の中の人は、某力士は某力士の「苦手」であると評するのが常であるが、実際にまた苦手な相手に向かっては、勝つべきところでも負けがちになるものである。

 これは要するに、最初に何度かの偶然の結果からついに面白くない「予想」を生ずるに至った、その「予想」のために自己の本領を発揮できず、その本領発揮が妨げられたところから不幸・不満の結果に至ることは間違いない。

 何ごともこのとおりで、消極的な予想は著しく勇気を削ぎ、したがって縦横に手腕をふるうことができなくなってしまうのである。


 幸いにして、力士の場合は勝敗であって、明確に結果が見えるものだから、「負け癖」のついたものでも、その「苦手」な相手に対して勝つことがあれば、一度勝てば勝つごとに不利な「予想」が減っていって、そうして二度勝ち、三度勝つ結果、以前の形勢を一変してかえって敵を悲観的にさせることもある。

 ところが、文章を書くなどという場合は結果の成否が不明であり、たとえ時に実際に成功に近いくらいの文章が書けていても、当人自らの望むままというほどのものはどんな人でも書けないものだから、みずから顧みて、またいつものようにまずい文章を作ったと信じてしまう。そして、「どうもできない。どうもできない」と暗い色の上塗りを自分の仕事の上にだんだんかけていき、毎回消極的な予想の力を増大させていって、実際にまた自分の能力を衰退させてしまい、ついに一生「文章が書けない者だ」と嘆きながら、非常に不便を感じて終わってしまう傾向がある。

 個人の不幸というだけではなく、そのような事情によってどれほど世界が不利益をこうむっているだろう! いわゆる文章家の文章、詩人の詩以外に、英雄の文章、実務家の文章、経世済民を論じる人の文章、商人の文章、工匠や農民や漁民や、航海者や兵士や女工といった人たちの文章が、この世界に文章家の文章、詩人の詩のように多く存在したならば、どれほどわたしは深く広くこの世界の実態を学ぶことができるだろうか。

 残念ながら、文章は難しいものであるという観念が一般の世の中の人を覆っていて、そうして人々は筆をとって紙に向かうことを厭うようになってしまっている。そのため、世の中には文筆家以外の人の文章というものが少なくなり、人間とその職務との関係についての尊重すべき記録や、経験から教わった価値あることばなどが、どれほど人の骨肉とともにむなしく埋葬されていったかわからない。実に残念なことだ。

文章は易しいという観念を持つべし

 これはみな、文章は難しいものであるという観念が間接に、あるいは直接に一般の世の人に働いて、そして世人が筆をとり、紙に向かうことがやっかいだと思わせた結果である。個人にとっても世にとっても、まずもって打破しなければならないのは、不合理かつ不利益な悪い前提である。

 楽しんでいけば険しい山道でも楽しむことができる。楽しまずに歩くなら、平坦な広い道も人を悩ますばかりだ。

 文章は作ることができるということを信じて、そしてそのことに従えば、一字の推敲、一句の修正もみな楽しいことであるはずで、自ずから苦しいこと、心労を抱いている間であっても楽しい思いはできる。

 その楽しい思いは、やがて精力を充実させ、意識を高め、勇気を持続させ、智慧をもたらし、十分な技量を我知らず発揮させるものである。楽しい思いが大きければ大きいほど、労苦を支える力は増大し、労苦を支える力が増大すればするほど、自分のなすことに対して熱心・忠実となり、自然とその結果は良好となる。もちろん、文章もよくできることとなる。

 これに反して、文章は作りにくいものであるという前提を持っていては、文章を書く場合にどうしても楽しんでやるわけにいかない。いやいやながら試すことになるわけだから、その結果がよくないことは言うまでもない。

 そして、楽しんでやった人がよい結果を得たならば、次にまた文章を書くときによい影響を与える一つの精力となり、いやいややった人が悪い結果を得たならば、同様に悪影響を与える悪循環となるわけである。

権利は愛することができる。義務はいとわしい。

 楽しんでことをなすのは、権利を行使するわけである。いやいやながらことに従うのは、義務でやるわけである。一方は自分の花畑を耕すのであり、もう一方は負債を帰そうとするのである。

 権利でやることは苦も快であって、義務でやることはどれも苦である。義務ならとうてい耐えることができないことでも、自分の権利でやるとなれば、人はずいぶんこれに耐えるものである。

 霜・雪の早朝、寒さが厳しいときであっても、狩猟家などはそれを恐れることがない。ふだんは少しの労働にも耐えられぬ御曹司であったとしても、氷を踏み、風をついてかけずり回るのが珍しくも何ともない。

 この道理が表裏をなして、人間の真の勇気の有無を生じ、そしてその勇気の有無の結果が、人々の履歴を光明と暗黒に分けるのが世の常である。

 どの道でも、どの技芸でも、卓越した人は、多くは自分のなすべきことを権利として楽しんでやっている人で、地平線以下の人は、多くは自己のなすことを義務としていやいややっている人である。目を上げて世間を見、歴史をひもといて過去を見たならば、この事実が火の如く明らかであると感じない人はいないだろう。いやしくも世の文明に利益を与えた人は、たいてい、権利として楽しんで、自己のことにあたった人ばかりである。

 富士山や立山や御嶽山に登る者は、みな息も絶え絶えに苦しみながら登るわけだが、夏休みの娯楽として自分の権利として登るがゆえに、ふつうの人も楽しんで登山する。「お前、富士に登れ」「立山に登れ」「御嶽山に登れ」などという命令を受けて、そして義務として登るものとすれば、どれだけの人が登ることができようか! 途中から下山してしまうのはもちろんのこと、第一歩が縮み、筋骨が萎えて、何合目にもいたらぬうちに止まるであろう。

 文明史を飾っている発明家や学者や事務家は、だれもみな厳しい峰を踏破し、艱難を冒した人であって、涙と汗をもって自己の一代記を書きあげたものである。しかし、それはちょうど、富士に登り、御嶽山に登り、立山に登る人が必ず汗をふるい、息を切らせるのと同じである。また、登山者が苦しみながらも自分を奮い立たせるものが心の中にあるように、自ら喜びの思いを抱き、自分の権利として自分のなすべきことをやったのだということは、まったく疑いのないことだ。


 碁を囲む者は手近な例だ。ただ単に勝つことをよろこぶだけの者は、まだ本質をつかんでいない人なので論ずるに足りない。しかし、碁が上手な人は、必ず様々な工夫をするのに苦労するものである。そして、そこで苦しむ人こそ、本当に碁を楽しむ人なのである。

 いわゆる「笊碁党」というような素人は、苦しむことをしないからいつまでたっても笊碁党なのだが、プロが一着を考え、一子を下すには、30分とか1時間とか半日とか一日とか、苦心惨憺して費やすというのがあたりまえのことである。碁を理解しない者、あるいは理解が深くない者からいえば、その苦しみなどバカバカしいこときわまりないものであるが、優れた碁客はその苦慮(他人から見て、だが)において、技術について言葉にならない妙趣を楽しんでいる。つまり、楽しみつつ苦しんでいるのである。そして、またこうして楽しみながら工夫したところから、さらに強い手を見つけているのだ。

 卓越した文章家は簡単に文章を作るのだろうな、と一般人は想像するかもしれないが、その推測は間違いに近い。卓越した碁客は、常に一子を下すにも長々しい苦しみをあえておこなう。それと同じく、卓越した文章家もまた、思いを深め、心を苦しめて、そして一字一句を置くものである。それは、古今の実例が証明しているとおりだ。

 つまり、碁客でも文章家でも、技量の優れた人は、労苦の分量が卓越している人にほかならない。言い換えれば、天才というものは、勤勉労苦という犠牲をよろこんで捧げたむくいによって、神から賜わった恩恵であるといっても差し支えないのである。

 ただ、そこにおける重要条件は、楽しんでことに当たるか、楽しまずにことに従うか、という一点であって、その一点こそ実に優秀と凡庸との境界線なのである。

文を作るには楽しんで苦しむべし。嫌がって苦しむなかれ。

 楽しんで苦しめば才能は進む。いやいや苦しめば、苦しみがいは少ない。楽しむということは、実に苦に耐えるからなのである。「好きこそものの上手なれ」ということわざは、簡単な言葉で深遠な道理を見抜いている。好きというのは、すなわち、楽しんでことに当たるということにほかならない。

 わたしの知っている某富豪は、かつてわたしに対して、

「自分のようなものはすでにそれなりの財産をなしたのだが、それでもこつこつと商業に従事している。君は、わたしのことを、金を求めて飽きることのない者のように言うかもしれないが、まったくの偽りなしに言おう。わたしはすでに今もっている富以上の金銭は必要ないので、金銭を得ることはそれほど欲していない。ただ、商業に従事して、利益を生み出すのを見るのが面白くて、老いや死が迫っているというのも忘れてしまっているだけなのだ」

 と語ったことがある。その言葉は決して飾り立てたものではないと信じただけでなく、いかにもそんな調子でことに当たっている人だからこそ、一から立ち上げて百千万の富をも手に入れられたのだと感じた。

 以上、述べてきたところをまとめるならば、「楽しんでことに当たる」というのが成功の秘訣だということになる。どうか、実用的文章を書く人、すなわち一般の人には、楽しんで文章を書いてもらいたい。いやいや書くのではなく書いてもらいたい。作文についての議論を提示する前に、まず熱心に希望することである。


 楽しんで文章を書くということは、確かに能文・妙文の域に入る前にまず通過すべき一大関門の鉄扉を開く秘密のカギである。

 そして、その重要な「楽しむ」ということは、「文章は難しい」という前提観念があるときにはどれほど妨げられることか。それと反対に、「文章はだれでもできるものである」という信念が存在する場合には、筆を執り、紙に向かったとき、これを楽しむ状態になるのも当たり前のことである。したがって、文章は書けるものだという信念を抱くと抱かないとでは、実際のところ、文章をうまく書けるか否かに対して極めて大きな関係を有している。

 そして、一般人、つまり実用的文章を書く人に対しては、特に「文章は難しいものではない」という強い確かな信念を持ってもらうことが最大必要条件なのである。しかし、世の人の多くは、「文章はむずかしいものである」という観念を、いつ、だれから注ぎ込まれたというわけでもないが抱いていて、ここまでくどくどとわずらわしいくらいまで述べてきたことにもかかわらず、それでも「文章はむずかしいものである」と信じ、そしてまた文章を書かねばならないときにも、嫌々ながら筆をとり、紙に向かうことであろう。

 ここで、わたしはさらに一歩進めて、「文章はむずかしい」という悪観念を粉砕し燃やし尽くしてしまうため、どうして「文章はむずかしい」という有害無益・不道理な観念が世の人の頭から抜きがたいものとなったかを考察し、そしてできれば害毒に対して抜本的な対策の道を論じたいと思う。


訳注

  1. 王弇州【王世貞】明の学者・詩人。字は元美。号は弇州山人。江蘇の人。李攀竜と共に古文辞を唱道、文は西漢、詩は盛唐を模範とした。著「弇州山人四部稿」「弇山堂別集」など。(1526~1590)
  2. 欧陽永叔【欧陽脩】北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。著「文忠集」「新唐書」「新五代史」「集古録」「毛詩本義」など。(1007~1072)
  3. 黄山谷【黄庭堅】北宋の詩人。字は魯直、山谷・涪翁と号す。江西の人。江西詩派の祖。師の蘇軾とともに蘇黄と称され、草書にも秀でた。著「山谷詩集」。(1045~1105)
  4. 蘇東坡【蘇軾】北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一。洵の子。轍の兄。字は子瞻、号は東坡(居士)。大蘇と称される。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画をも能くした。諡は文忠。著「赤壁賦」「東坡詞」のほかに「東坡志林」など。(1036~1101)
  5. 【魏伯子】魏際瑞(1620-1677)、字は善伯、原名は祥。17歳のときに際瑞と改名する。魏禧の兄で、伯子先生と呼ばれる。幼いときから学問を好み、記憶に優れ、兵・刑・礼制・律法の各部門で研究を深めた。20歳のとき、すでに三尺以上の詩文を書いていた。著書に『魏伯子文集』十巻、『雑俎』五巻、『四此堂稿』十巻がある。『与師弟論文書』は中国古代現実主義文学の中の傑作。

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