現代中国語の中の日本語「外来語」問題

出典: 閾ペディアことのは

現代中国語の中の日本語「外来語」問題(现代汉语中的日语“外来语”问题/現代漢語中的日語“外来語”問題)

王彬彬(日本語訳:松永英明)

※見出しの( )内の部分は訳者が付けたものである。

目次

一(中国語の中に非常に多い“日本語「外来語」”)

 日中間の文化交流史上、非常に興味深く、また意義深いことがある。その中でも二つの時期の状況が特別に注目を引くものである。一つは中国唐代で、一つは近代である。唐代においては、日本は貪欲に中国から学習した。中国文化と接触した後、大和民族は初めて文字と遭遇したのであり、このときから書写を学び始めたのであった。日本語の仮名は漢字の変形にすぎない。近代にあっては、中国は必死で日本から学習した。他の分野はともかく、言語・文字の分野でいえば、近代には、逆に日本が漢語の輸出国となったのである。日本の「漢語」は東アジア各国の言語システムに衝撃を与え、中国の漢語の中に大量に侵入し、中国人の日常語の重要な構成要素となっている。

 近代において日本から輸入した漢語語句は、日本語「外来語」と呼ばれているので、ここでもこの言い方を借りる。「外来語」という言葉をカッコでくくっているのは、直接西洋からやってきた外来語(沙发=ソファー、咖啡=コーヒー、逻辑=ロジックなど)と区別するためである。この二つは異なるところがあるからだ。

 現代中国語の中の日本語「外来語」は、驚くほどの数がある。統計によれば、わたしたちが現在使用している社会・人文科学方面の名詞・用語において、実に70%が日本から輸入したものである。これらはみな、日本人が西洋の相応する語句を翻訳したもので、中国に伝来後、中国語の中にしっかりと根を下ろしたのである。わたしたちは毎日、東洋のやり方で西洋の概念を論じ、考え、話しているのだが、その大部分が日本人によってもたらされたものである。このことを思うと、わたしは頭がかゆくなってしまう。

 実際上、日本語「外来語」を離れてしまえば、わたしたちは今日ほとんど話をすることができない。わたしがこの日本語「外来語」を論じる文章を書くとき、大量に日本語「外来語」を使わなければ、根本的に文章が成立しないのである。この問題はここ数年、何度か複数の人々によっていろいろな角度から説かれてきた。たとえば、雷頤先生はアメリカの学者・任達の『新政革命与日本』という本の「黄金十年」という一文で、このように書いている。

 大量の翻訳引用紹介を経て、日本語の語彙が大量に現代中国語の中にとけ込んでいる。面白いことに、これらの語彙は「厳訳」(注:厳復の翻訳を指す)の大部分の用語に急速に取って代わってしまった。これらはほとんど各種の学科の新しい語彙に及んでいる。現代日本が新しく作ったものもあれば、古い言葉を新しい意味で用いたものもある。現在多数の中国知識分子が借用しているこの極めて豊富な漢語語彙は、中国語の多くの方面における変化を促進し、中国の現代化運動の非常に重要な土台を打ち立てるものとなったのである。現在、わたしたちが常用している基本用語・語彙は、ほとんどがこのとき日本から舶来したものである。服務・組織・規律・政治・革命・政府・党・方針・政策・申請・解決・理論・哲学・原則などなどが実にすべて日本語から来た「外来語」なのである。また、経済・科学・商業・幹部・健康・社会主義・資本主義・法律・封建・共和・美学・文学・美術・抽象……数え切れないほどの言葉がすべて日本語から来たのである。

 雷頤先生は肯定的な口調で日本語が中国語に侵入したことを論じている。李兆忠先生の『漢字的圏套(漢字の計略)』という一文では、雷頤先生と似た紹介をした後、残念そうにこのように書いている。

 これは本当に思索するに値する問題である。ある一つの西洋の科学用語が同じように中国と日本に到来して、訳されて二種それぞれに大きく雰囲気の違う語となり、最後には中国語訳が失敗し、日本語訳が勝利を告げた。これはなぜなのだ? 少々合理的というわけではない質問に変えてみよう。厳復・梁啓超たちはなぜ明治初期の日本学者のあのような比較的自由で通俗的な意訳法を採用しようとしなかったのだ? 同様に、明治初期の日本学者はなぜ、二十年後の大陸学者のやったように、経典から引用するような訳し方を採用しなかったのだ? ここで梁啓超や厳復を同列に論じるのはあまり適切ではないが、提出された問題は確実に思索する価値のあるものである。汪丁丁先生の『“経済”原考』という一文では、「経済」という二字の漢語の原意をさかのぼって調べているが、実際には同様に日本語「外来語」問題に関わることとなった。というのも、「経済」というのは数多くの日本語「外来語」の中の一つだからである。また、考古学者・陳星燦先生の『考古学就在我们身边(考古学はわたしたちの身近にある)』という一文では、中国の考古学が「自らの言語系統を打ち立てる」ことを提案している。なぜなら、「いわゆる国家・文明・私有制などの概念はすべて国外から輸入したものである」ため、それらを用いて中国古代の情景を説明するのはあまりにも不適切だからであるという。陳先生の述べた概念は、西洋に由来するのだが、つまるところ日本人がそれらを訳して現在このような漢語のことばとして使っているのである。これらの概念について考えると、翻訳過程についての問いを引き起こすことになる。

 以上は、わたしが近年偶然見かけた、日本語「外来語」に関する文章の一部である。これらの文章によって、わたしはこの問題に興味を持った。

 20年前、わたしが日本語を学習し始めたとき、日本語の中にはこんなに多くの漢語があるのを見つけて、ちょっといぶかしく思ったものである。その後、中国語の中にこんなに多くの日本語の言葉があると知ったとき、わたしは驚きを止められなかった。

 まず漢字と漢語語彙が日本に侵入し、日本の文章語を作り上げた。日本が近代に西洋と相まみえてからは、大量に漢字と漢語を使って相応する西洋の名詞・用語を翻訳した。日本の学者の手によるいくつかの訳語は、清朝の末に潮流のごとく中国になだれ込んできた。この過程は非常に複雑だが、非常に興味深い。わたしが接触できた資料には限りがあるが、その概要をまとめてみたい。

二(具象名詞と抽象名詞)

 言語の中の語彙には、名詞・動詞・形容詞などの数種の区分がある。現代中国語の中のいわゆる日本語「外来語」は、基本的に名詞類に属する。ただし、名詞自体も2種類に分けることができる。その一種類は、見たり感じたり触ったりすることのできる具体的な事物・情景の命名である。たとえば卓・椅・草・木・山・川・日・月などである。もう一つは一種の抽象的な意味を表わすもので、いわゆる専門用語・概念である。たとえば、政治・経済・民主・自由・科学・文化などである。前者は具象名詞、後者は抽象名詞と呼ぶことができる。

 日本語「外来語」の中には、具象と抽象の両方の名詞がすべてある。具象名詞で今日もなお使われているものとしては、「電話」と「倶楽部」の二つの言葉を例としてあげられる。「電話」は日本人が製造した漢語で、英文のtelephoneを意訳したものだ。当初、中国人はこの英語に対して音訳し「徳律風」と訳していた。一時期には「電話」と「徳律風」の両方の言い方が通用していた。しかし、その後、「徳律風」という言い方は滅んでしまう。この訳名について、わたしはある興味深い資料を見つけた。20世紀の初年、日本にいる紹興籍の留学生の一群が、連名で郷里に一封の長い手紙を書いており、その中で詳細に日本の近代化の状況を紹介している。魯迅もそこに名を連ねていた。手紙の中で「電話」について述べるとき、特に注釈されている。「電気をもって言語を伝達することを、中国人は徳律風と訳しているが、電話の簡潔さには及ばない」。ここには、日本語が中国に輸入される経緯の一端を見ることができる。「倶楽部」というのは日本人が英文のClubを音訳したものである。これらの漢字は、音・形・意味の3点においてすべてよく選ばれており、そのため中国では今でも使われている。しかし、日本語訳の具象名詞の中には、中国に進入した後にまた淘汰されたものもある。たとえば「虎列拉(コレラ)」である。中国では相当長期間にわたって使われていたが、今は「霍乱」に取って代わられた。

 具象名詞自体はもしかしたら多くを語る価値がないかもしれないが、わたしが興味を覚えるのは抽象名詞である。ただし、具象名詞と抽象名詞の間には明確な境界があるわけではない。いくつかの名詞は、古来の漢語の中ではもともと抽象的な意味を持っていなかったのに、日本語に入ってから抽象化した。

 漢字と遭遇する前には、大和民族は自己の文字を持っておらず、独自の言語システムを持っていた。もともとの日本語の中に、具象名詞は非常に豊富で、種々の具体的な事物はみな正確に命名されていたが、抽象名詞はほとんど発達していなかった。これは不思議なことではない。ある民族が文字を持っていないとき、抽象的な思惟は発達することができず、大量の概念を生み出すこともできないのである。中国語と接触した後、中国語の中の多くの抽象名詞は日本古来の言語のに進入した。中国語の中の種々の具象名詞、たとえば山・川・草・木・日・月・雲・霧なども日本に伝わったが、日本人はもともと独自に持っていた発音でこれらの漢字を読むようになった。しかし、中国語の中の自然・道徳・政治・経済・風流・文学といった抽象名詞については、日本語の中にもともと相応する言葉がなかったため、中国語の発音を模倣してこれらの言葉を読むようになった。大和民族が中国語と遭遇したとき、中国語の中の抽象名詞は、音・形・意味の3つともなじみがなかったのである。

 近代において、日本と西洋の言葉が遭遇した後、漢語の抽象名詞が西洋の概念を訳するのに大量に採用された。たとえば、「経済」が「economy」の訳語として用いられ、「自然」が「nature」、「文学」が「literature」の訳語となった。中国人としてわたしたちは、日本人が西洋の語彙を訳すのに使ったこれらの言葉が、もともと中国から輸入したものであることを知っておくべきだろう。しかし、わたしたちはさらに、これらの漢語の言葉が日本に伝わった後、その中の少なからぬ意味がある程度変化したことも知っておくべきである。抽象名詞はある民族から別の民族に伝わったとき、もとの風味を保つことは不可能である。文化発展のレベルが等しい二つの民族の間であっても、誤読や誤解が生じる可能性がある。いわんや、当時の日本は文化発展レベルにおいて中国とは当然差があった。中国文化の中に根付いていた抽象名詞は、日本に移植された後、日本文化の中に根を下ろして成長し、必然的に漢語の原意とある程度分離を生じることとなった。日本の現代の学術界は、これらの漢語の言葉に対して、古い漢語の中の原意と日本に伝わった後の意味の変化をよく考察している。たとえば「経済」という言葉は、古い漢語の中では「経世済俗」「治国平天下」を指すが、日本に伝わった後には意味が狭まり、もっぱら財務経営・財政措置を指す言葉として使われている。また「自然」という言葉は、古い漢語の中では人力によらないもの、人の能力の及ばない現象を指していたが、日本に伝わってからは、「偶然」「万一」「意外」といった意味を備えるようになった。

 さらに、漢語ではもともと一種の具象的な場合にしか用いられず、明らかな抽象的な意味を持っていないにもかかわらず、日本に伝わった後、語義が次第に抽象的な方向へ発展した言葉もある。たとえば、現代中国語の「社会」という言葉は、すでに抽象名詞となっているが、これは日本語「外来語」の一つである。これは日本の学者が西洋の「society」を翻訳したものである。しかし、「社会」というのは古い漢語の中では、基本的には具象名詞であって、特に毎年春と秋に郷村学塾が挙行する土地神祭祀の集会であった。『辞海』では『東京夢華録・秋社』の中の一段を挙げてこの言葉の説明をしている。「八月秋社……市学先生はあらかじめ生徒から金を集めて『社会』を作り、倩・祗応・白席・歌唱の人を雇う。帰るときにはそれぞれ花籠・果実・食物・社糕(菓子)を携えて解散する。春社・重午・重九もまたこのようにする」。ただし、この語句が日本に伝わった後、次第に別のものを指すようになった。日本の学者・鈴木修次の考証によれば、江戸時代末期、日本では教会を中心とする教団・教派を「社会」と称しており、これはこの言葉がすでにある程度の抽象的な意味を持って使われている。

三(日本での西洋語翻訳の各種方式)

 日本の近代の学者が漢語のことばを使って西洋語の概念を翻訳する過程について、わたしはずっと興味を持っている。この過程において、必ず種々の考えや取捨があり、なかなかふさわしい訳語にたどり着かない苦悩があって、脳汁を絞りきった後にようやく一つの訳語をひねり出す歓喜があった。当然、しばらくあまり適切でない訳語をやむを得ず使わねばならないときは、残念であっただろう。資料の限界があるので、この過程についてはそれほどよく知ることができない。しかし、断定できることは、日本の近代の学者は西洋語の概念を翻訳するとき、大体以下のいくつかの方式をとっていた。

 第一種の方式は、やはり中国に学ぶことである。すでに述べたとおり、中国が西洋文化に接触したのは日本と比べてはるかに早かった。すでに7世紀の時点で、キリスト教の僧侶が中国に布教しに来ている。その後、13世紀のマルコ・ポーロ、16世紀のマテオ・リッチはよく知られている西洋文化の古代の使者であった。マテオ・リッチのとき、西方語の漢訳事業が始まった。徐光啓とマテオ・リッチの共同作業で、ユークリッドの『幾何学原本』を翻訳し、人々に知られるようになった。1870年、プロテスタントの宣教師ロバート・モリソンが中国にやってきた。彼は『新約聖書』を中国語訳し、『新遺詔書』全巻を1814年に出版した。さらに重要なことに、彼は一冊の漢英辞典を編集した。辞典第一巻は1817年に発行され、四折判辞書全6巻、4595ページを1823年に出版した。宣教師と中国の協力者が従事した西洋語翻訳の事業、特に漢英辞典の編纂は、近代の日本の学者が西洋の概念を翻訳するのに参考となった。彼らは別に宣教師と中国の協力者の訳し方を踏襲したわけではないかもしれないが、このように西洋語を東洋語に翻訳した先行者から少なからず啓発を受けたことは疑いない。日本の現代の学者は、本国の近代の翻訳事業について論及するとき、マテオ・リッチ、徐光啓、モリソンという先行者が提供したものを参考にしたと述べている。わたしたちが現在使用しているいくつかの名詞・用語は、まさに当初から中国にいた宣教師と中国の協力者が共同で作った訳語なのだ。この種類の訳語を全面的に列挙するのは大変なことだが、日本の学者の考証によれば、少なくとも「数学」「理論」「銀行」「保険」「批評」「電気」といった数例は、日本の近代の学者が中国にすでにあった訳し方を踏襲したものであると述べている。人々が現代中国語の中の日本語「外来語」について論じるとき、これらも含まれることが多いが、それは正確ではない。

 第二種の方式は、漢語のことばの原意に改造を加え、西洋語の概念に適合させた訳語として使うものである。この方式を通して作られた訳語は非常に多い。たとえば革命・芸術・文化・文明・文学・封建・階級・国家・演説・民主・自由・経済・社会などはみなこれに属する。すでに述べたとおり、いくつかの漢語のことばは日本に輸入された後、意味がひとりでに変化した。たとえば「経済」「社会」などである。日本の学者はこれらの漢語を「economy」「society」など相応する西洋語の概念に当てはめるとき、さほどためらわなかったようだ。さらに多くの場合、日本の学者は漢語のことばの原意に対して意識的な加工を加えてようやく、ある西洋語の概念のために一個の大体合っている訳語を選定することができたのだった。まさに漢語の言葉の意味が抽象化したのは、日本の学者が漢語の語彙を改造した一つの道筋だった。たとえば「階級」という言葉は、漢語の原意は階段と官位俸禄の等級を指しており、抽象的な意味はそなえていなかったが、日本の学者が「階級」を西洋語の「class」の訳語とした後、この言葉は大いに抽象化したのだった。また別の過程では、漢語のことばの原意が縮小し、その原意の中の一部分だけが取り出されて西洋語の概念の訳となった。たとえば「文学」という言葉の漢語の原意はひじょうに広く、一切の文字形態の書籍文献はすべて「文学」に含まれていた。漢・唐では「文学」というのは官職名でもあった。それを日本の学者が「文学」を西洋語の「literature」の訳としたとき、その中の一部分の含意だけを取り出したのである。さらにもう一つの道筋があり、漢語のことばの字を借りるだけでその意味は完全にはとらず、甚だしい場合は漢語の原意と完全に相反する意義を与えることがあった。たとえば「民主」という言葉は、漢語の原意は「庶民の主宰(=君主)」であったのに、日本の学者が西洋語の「democracy」の訳語として用いたときから、漢語の原意とまるきり対立する意味を表わすようになったのである。

 第三種の方式は、漢語のことばを新しく作ることである。西洋語の概念に対して、現在ある漢語の語彙の中に訳語として使える相応語がみつからないとき、日本の学者は漢字を利用して新しいことばを作った。この種の方式で作られた西洋語の訳語は少なくない。具象名詞の中で、すでに述べた「電話」がこの類型に属する。抽象名詞の中では、個人・民族・宗教・科学・技術・哲学・美学などがすべて日本の学者の作った漢語である。たとえば「哲学」という言葉は、西洋語を東洋語に訳するのに卓越した貢献を行なった西周の造語であるが、これは西洋語の「philosophy」の訳語として用いられた。「美学」は「東洋盧梭」と称えられた中江兆民が作ったことばで、西洋語の「aesthetics」の訳語として用いられた。

 以上数種の方式は、日本の現代の学者がみな例示しているものである。しかし、わたしはもう一つ別の形を発見した。それは、日本の近代の学者が漢籍の中から選択して西洋語の訳語として用いたが、中国語の原本では一つの言葉ではなかったものである。たとえば「主義」という言葉は、古い漢語の中には存在しない。日本の現代の学者は、「主義」の語源を考証するとき、「主義」という言葉が漢籍の中にあるように述べてきた。たとえば『史記・太史公自序』の中の「敢犯顔色以達主義」という語句を証拠とし、日本の近代の学者は漢籍の中に「主義」という言葉を見いだして、英文の語尾「ism」の訳語としたのだという(訳注:日本の学者は「あえて顔色を犯し、もって主義を達する」と読んだことになる)。しかし、太史公はこの発言の中の「主」で主上、すなわち漢の文帝を指しており、全体のもともとの意味は、「あえて顔色を犯していさめ、もって皇帝に考えを伝えた」ということになる。「達主義」は、自己の堅持・実現する信念について言っているのではなく、主上に考えを伝えたということを言っているのである。この句の中で「主義」はもともと独立した言語成分を構成していない。面白いことに、日本で出版された『大漢和辞典』の中でも、『太史公自序』の中のこの句が「主義」の漢文の出典とあするえている。日本の近代の学者が漢籍中の「主義」を一つの単語として誤読し、字面だけを見て憶測解釈した理解により、西洋語の「ism」の訳語とした可能性がある。しかし、日本の近代の学者の漢文能力は非常に高く、根本的に漢文を誤解していたわけではない可能性もある。「主義」とは彼らの作った一つの言葉であって、「以達主義」という漢文中の「主義」とは無関係なのかもしれない。誤解・誤読というのは、後付けの考証である。

 これは述べておく価値があるが、現在、日中両国はこのように作られた西洋語の訳語である名詞や概念を広範に使用しているが、それは最初から日本でも普遍的に認められたものではなかった。日本の近代のはじめにおいて、西洋の著作を大量に翻訳したとき、往々にして同じ西洋語の名詞・概念が何種類かの訳され方をすることがあった。そして、相当長期間にわたって数種類の訳し方が併存し、最終的にどれかの訳語が定着することとなった。それはその他の訳語との闘争の中で生き残ったものである。たとえば、「literature」という西洋語は、はじめ日本では「文章学」と「文学」の両方の訳語が使われたが、最終的に「文章学」が淘汰され、「文学」が普遍的に認可された。しかし、1930年代、日本の学者・岡崎義恵は「文学」という訳名に疑義を示した。「文学」は「詩文」と「詩文の学」の両方の意味を含んでおり、言葉の意味が曖昧不明であるというのである。そして「文学」という言い方を捨て、詩文を指すのには「文芸」、詩文の学を指すのには「文芸学」という言葉を用いるよう提案した。当然、こういった疑義をもってしても「文学」という概念がゆらぐことはなかった。また「art」という概念は、はじめは「芸術」「美術」「文学技芸」など数種の訳語が平衡していたが、20世紀はじめに「芸術」がその他の訳語に最終的に勝利し、堅固な地位を得た。訳語が生まれ、定着するまでに経る過程は、艱難・曲折に満ちている。たとえば「個人」という概念は、現在は日中両国で使われる頻度が非常に高い。これは西洋語の「individual」の訳語である。漢語の中ではもともと「個人」という語はなかった。日本の現代の学者の考証によれば、「個人」という訳語の選択にあたって、もともとは漢語の「一个人(一個人)(=ひとりの人)」の略であった。はじめは「一個人」が「individual」の訳語として使われたが、長期間にわたって、この西洋語の概念は日本では多くの訳語が併存していた。「各殊之人身」「独一者」「人」「独一個人」「私人」などの訳語がみな使われており、「個人」という訳語は最初に出現したものではなかったが、最終的に勝利したのであった。

四(梁啓超と厳復)

 1898年秋、戊戌変法が失敗した後に、梁啓超は日本の軍艦「大島号」に潜入し、東瀛(東海=日本)に亡命した。会場の時間はゆっくりと流れ、退屈であった。暇をつぶすため、日本語に通じていなかったが、梁啓超は日本の作家・東海散士の小説『佳人之奇遇』を借りた。開いてみると、一部の日本語の格助詞を除いて紙面に満ちていたのは漢字であり、「之」「乎」「者」「也」の字が頻出していたため、梁啓超は概要を理解することができ、興味も起こってきた。同時に梁啓超は悟った。小説を用いて民智を啓発し、変法維新思想を宣伝するというのは、非常によい方法だ、と。ここに思い至り、梁啓超は興奮した。横浜に住んだ後、国内読者のために『清議報』を創刊誌、創刊号に『訳印政治小説序』を発表した。この宣言風の文章の後には、『佳人之奇遇』の漢訳が連載された。『佳人之奇遇』の連載が完了した後、すぐにまた日本作家・矢野竜渓の小説『経国美談』の漢訳が連載された。この二つの小説の訳文は、すべて日本語に通じていない梁啓超の手になるものであった。

 このころ、大量の西洋の名詞・用語が日本語の中に進入してしまっており、「政治小説」として書かれた『佳人の奇遇』と『経国美談』の中には、自然とこの種の訳語が多く含まれていた。日本語に通じていない梁啓超は、その訳文の中で、いくつかの日本人の訳語についてはもちろんそのまま模倣することしかできなかった。これこそ、日本語「外来語」が中国に入り始めた最初だったのである。梁啓超はこのように模倣するとき、特に深く考えることなく、簡単に民主・科学・政治・経済・自由・法律・哲学・美学といった語彙を中国の読者に紹介したようである。これが意味することは、日本語「外来語」が中国にもたらされたのは、やむを得ない、自覚的ではない状況のもとで始まったということである。

 しかし、梁啓超が国内に日本政治小説を翻訳紹介したのと同意に、雷頤先生の『「黄金十年」』という文章の中で説かれた日中関係史の「黄金十年」も始まり、国を挙げて上下とも日本から学ぼうという潮流が起こったのである。すでに日本語に翻訳されていた西方の著作は、この時期に中国語に転訳された。日本の中級教科書がすべて翻訳され、教材として用いられたこともあった。魯迅は日本留学から帰ってきて師範学校で教えていたとき、日本教科書と日本籍の教員の講義を自らの手で翻訳する仕事をしていた。現代中国語を構成する不可欠な一部となっている日本語「外来語」は、このころに大規模に中国に侵入してきたのだった。

 本来、洋務運動は西方から学び、西方を理解し、西方の著作を翻訳することが当然必要であった。しかし、日本を師とするように方向転換があり、西洋文化を学ぶ人たちはたちまち減っていった。日本に学ぶことは、単に日本を通じて間接的に西方を学びたいという希望であった。そのとき朝野ともに、このようにすることで努力は少なく効果を上げることができると考えていた。しかし、このような日本に学ぶ風潮に対して、中国近代の第一の翻訳家・厳復は堅固たる反対の態度を示していた。『外交報』で発表された『与〈外交報〉主人書』の中で、厳復はこう書いている。

 吾は学術のことを聞くとき、必ずやこれを原典に求め、それから真意を得る。自ら耳目・心思の力を奮い、両間(天地の間)の様子を見る者から知識を得るならば、これは上の上である。その次には簡策(書物)の伝えること、師友の授業することに集中する。この二つは、もともと用いられた文字で学ぶならば疑いはない。最も下であるのは翻訳を求めることで、隔絶は大きく、真から遠く離れてしまう。今、科学術芸、我国で試みに訳したものはきわめて少ない。すなわち日本が苦労して作ったものを得ただけで、もともと有していたものではない。これは必ずしも我国のタブーではない。かの国が古きを去って新しきに就いたのは、わずか30年のみである。今、西洋2000~3000年にわたってはぐくまれてきた学術を、三十年努力しただけで得た日本に求めているが、いくら訳書が盛んであろうと、その名義はいまだ安定しておらず、その考訂もいまだ満足ではない。いたずらに我国に近いがゆえに、一斉に天下の学者達が群がっていくが、世の中にこのように学ぶのをよしとせず、好まない者がいるだろうか? こびとは天の高さを、修めた人に問い、それによっておのれを癒し、信じることを遂げるのである。分に応じたふるまいといえば、これ以外のものがあろうか。

 厳復は、西方の思想・学術を深く理解するには、直接原著を読むことが必要だと強調している。翻訳の助けを借りて読むだけではすべては得られず、さらに翻訳の助けを借りた翻訳では隔絶やノイズが大きくなり、真実はさらに遠くなるという。厳復は日本による西方の概念の翻訳は多くが不正確だと考えていた。このため、無条件に借用することができず、往々にして自己流の訳語を堅持していくこととなった。たとえば、厳復は「経済」という日本の訳語に反対し、その代わりに「計学」を用いた。『原富(国富論)』の巻頭の「訳事例言」の中でその理由を説明している。「計学、西洋名は葉科諾密(エコノミー)で、もとはギリシア語である。葉科(エコ)は「家」である。諾密(ノミー)は聶摩(ノモス)の転で「治」をいう。「計」とは、その意味ははじめ「家を治める」ことであった。それから料量・経紀(経営)・節制・出納についての広い意味となったが、国や天下の生・食のために「経」の字を用いることとなった。その意味が大衆に至って、日本ではこれを経済と訳し、中国ではこれを理財と訳した。整合性を求めるなら、経済はあまりに範囲が広すぎ、理財では満足できない。わたしはそれで計学を当てることにしたのである」。厳復は「経済」という語について、西洋の「economy」の原意に比べて広すぎるため、訳語には不適切だと考えていた。そのほか、厳福は日本の訳語である「社会」を借用することを拒絶し、西洋語の「society」の訳語として「群」と訳し続けた。「社会学」は「群学」としている。このほか、「capital」の日本語訳は「資本」、厳訳は「母財」。「evolution」の日本語訳は「進化」、厳訳は「天演」。「philosophy」の日本語訳は「哲学」、厳訳は「理学」。「metaphysics」の日本語訳は「形而上学」、厳訳は「玄学」……。

 ただし、厳復は日本の訳語に対して一概に拒絶していたわけではない。彼自身の著作の中で、日本の訳語が使われている例も珍しくはない。一部の日本の訳語については肯定している。たとえば、西洋語の「liberty」と「freedom」の訳語を「自由」とするのには、厳復はいささかも異議を唱えることなく、かえって「西洋語の東洋訳では、もとより失われるものが多いが、これだけはそういうこともなく、ほとんど変更がない」と述べている。

五(西方語翻訳にあたっての論争)

 西洋の専門用語をどのように訳すかという問題について、当初、中国では論争があった。大体三種の観点がある。第一の主張は、できる限り中国独自の訳し方をし、日本語訳を無条件に借りるのに反対するというもので、厳復はこの観点の代表であった。第二の主張は、できる限り日本がすでに行なった訳語を借用するというものである。さらにもう一つの観点があって、西洋の専門用語の音訳を進めようという主張であった。

 王国維は、日本に既にある訳語をできる限り借用しようと主張した。『論新学語之輸入(新しい学術語の輸入を論ずる)』という文章で、まず新しい学術語を輸入する必要があることを強調し、その輸入の問題については、このような見方を表明した。

(1) 王国維は、日本の訳語を借用することの実行可能性と便利さを強調した。「ここ数年、形而上学が次第に中国に流入しており、また日本でも同様である。この間を取り持つ駅騎(伝令)によって、日本で作られた西洋語の漢文訳は勢いよく中国の文学界に進入している。物好きな者はこれを濫用し、古いものにこだわる者はこれを唾棄するが、どちらもよろしくない。普通の文字の中では新奇な語は必要ないが、学問を講じ、芸を修めるには、新語を増やさなければならない。日本の学者は我国より先にすでにこれを定めてしまっている。これに沿って用いるなら、どうしていけないことがあろうか? あまりにも妥当でないというのでなければ、わたしたちはもとより創造してこなかったのだ。……しかも日本人の定めた名称は、これだけではなく、専門家数十人の考究・数十年の改正を経て、今日あるものである。ひそかに言えば、日本人の訳語を採用するのには多くの利便がある。踏襲するのはたやすく、創造するほど難しくないというのがその一つだ。両国の学術には交通の便があり、固く拒んで入れないというおそれもないというのが第二である。……この二つの利便があって二つも難はない。嫌ったり疑ったりして用いないというのはいかがなものか?」
(2) 王国維は、厳復の日本語訳に抵抗し、「自分で作る」の態度を批評し、同時に、厳復が訳語の古雅を追求したことを否定している。「侯官出身の厳氏は、今日学術語を創造する有名人である。厳氏の造語の工夫は多いが、不当なものもまた少なくない。最近の著書においては、Evolutionを天演とし、Sympathyを善相感するといった風である。進化と天演、同情と善相感はそれぞれ、EvolutionとSympathyの本義に対して、いずれが合っていていずれが外れているか、いずれが明でいずれが暗か、少しでも外国語の知識のある者なら、朝飯前で決められるだろう! また西洋の新名詞は、往々にして古語で表わすのに不適当なことがある……たとえば侯官厳氏の訳した『名学』は古きも古し、その意義を理解できないのではないか?」
(3) 王国維は、日本人の訳語は必ずしもすべてが正確ではないことを指摘している。たとえば「idea」の訳が「観念」であったり、「intuition」を「直観」と訳すのは、原意をよく伝えていない。しかし、翻訳そのものがもともと限界のあるものであり、これもそれほどのことではない。すなわち、いくつかの不正確な日本語訳であっても、中国人の訳語よりも合理的である。双方の問題を比較しても、やはり日本語訳を借用するのが適切である。
(4) 王国維は、日中両国の西洋専門用語を翻訳する方法が同じではないことを指摘している。日本人は二文字または二文字以上の言葉を組み合わせて西洋語を訳してきたが、中国人は単漢字を用いるのが習慣であった。「精密・不精密の違いは、すべてここにある」という。これは、実際には厳復への批評であった。単漢字を用いて西洋専門用語を訳すのは、まさに厳復の習慣であった。たとえば「玄学」「理学」「計学」「群学」などはみなこのたぐいである。

 王国維はつまるところ王国維である。日本にはすでに訳語があって、それは思いつきで作られた言葉ではなく、「専門家数十人の考究・数十年の改正を経て」最終的に確定したものである。それは実情に合っており、同時に中国人が日本語訳を借用すべき有力な理由だ、と彼は述べている。また、西洋専門語を翻訳するとき、日本人は二文字以上の言葉を組み合わせるのが習慣であり、このために中国人が単漢字を用いるのと比べて正確に原意を伝達できると指摘している。それは熟練した役人が一言で断罪するかのようである。実際、王国維のこの文章で、なぜ日本語訳が中国に全面勝利し、厳復の訳語が淘汰されて尽きてしまったのかを基本的に説明できる。

 当時にあって、もう一つの非常に影響のある翻訳上の観点があった。それは、西洋専門語に対して音訳を進めよという主張で、章士釗がこの観点の代表である。実際、いくつかの西洋専門語は、音訳方式が流行したこともあった。たとえば「徳謨克拉西」(民主=デモクラシー)、「賽因斯」(科学=サイエンス)などである。章士釗が主に編集した『甲寅』では、西洋専門語は音訳を多用している。厳復もまた、西洋専門用語の音訳を試みて成功している。たとえば「Logic(ロジック)」を音訳して「邏輯(ルオチー)」とするのは、厳復によるものだといわれている。「邏輯」の二字は、音・形・意味の3つの選択が絶妙で、そのために定着した。「邏輯」に対して日本では意訳と音訳の両方があり、意訳は「論理」だが、後に音訳がさらに流行した。「邏輯」という漢語の言葉も日本に伝わって、現代の日本の著作の中でもこの二文字はよく出現するが「ロジック」と読み仮名がふられている(※訳注:これは筆者の誤認と思われる。日本では邏輯はほとんど見られない)。日本では「邏輯」という言葉は中国・日本・西洋の三種の文化が混血したものなのである。つまり、中国の字、日本の音、西洋の意味である。これはもちろん非常に味わい深いことだが、同様に興味深いことに、「邏輯」という音訳用語は厳訳用語の中で最も生命力を有しているということだ。このため、「邏輯」については探究する価値があると思われる。

 厳復と日本の学者はみな漢語を用いて西洋語を訳した。西洋語のレベルでいえば、厳復は決して日本の近代の学者に劣っていなかった。漢文について、日本の学者は精通していたけれども、これは厳復にとっては母語であり、厳復の漢文の造詣が日本の学者のはるか上にあったことは疑いない。しかし、厳復は結局日本人に敗れたのだ。わたしは、その一因として、まさに漢語が厳復の母語であったからだと考える。母語であったために、その語意の精細な体現と深い理解があるため、かえってこれが一種の束縛となり、翻訳には漢語の原意によって厳しく限界が生まれたのである。これに対して日本の学者は、漢語にも精通していたが、それはつまるところ外国語の一種であって、漢語に対して決して厳復のような環状を抱くことはなかった。それゆえに自由に漢語を駆使することができたのである。二音の学者は大胆に漢語の原意を改造し、需要に応じて漢語に新しい意味を賦与していった。漢字を利用して新語を造り、甚だしい場合はある漢語のかつて伝えていた原意と完全に相反する意味を与えることもあった。こういった日本の学者の訳語をかみしめると、彼らは漢字・漢語に対して縦横に筆を揮っており、厳復はかえってそのような境地に達するのが難しかったといえる。

 厳訳が日本の訳語との「生存競争」の中で淘汰された重要な原因は、王国維が指摘しているとおり、古雅にすぎることにある。「信・達・雅」は厳復が訳文に求めた三要素であった。「雅」は最後にあるとはいえ、厳復は翻訳実践の中で訳文の美を重視しており、「信」と「達」の下に置いていたのではなかった。彼は自分の訳文が必ずや絶対的な美文であることを求めており、読めばハーモニーとリズムがあって演奏感に富んでいる。西洋専門用語を翻訳するときに単漢字を常用したのも、訳文自体の語感が重要だったからだ。西洋専門用語を翻訳するとき、厳復は心血を注いでおり、彼自身の言葉を使えば「一つの名を立てるのに、旬月のあいだ踟躇した(行きつ止まりつ歩き回った)」。しかし、厳復は秦以前の文体を用いて翻訳したため、漢語を用いて西洋専門用語の「名を立てる」とき、正確さを考慮するだけではなく、語の雰囲気をも顧慮して、できる限り古雅を尽くそうとしなければならなかった。このため、厳復の作業は、日本の学者に比べて艱難を極めることとなったのである。厳復がこのように古雅な単漢字で西洋専門用語を訳出していたため、原意を伝えることはできなくなり、原意の伝達は非常に曖昧模糊としたものとなった。朦朧として把握されにくいものとなったのである。日本の学者はいささかも語の雰囲気を考慮する必要がなく、用語の古雅を追求することもなかったので、自由度は非常に大きかった。全面的に原意を伝えることをできるだけ正確に行なおうとしたため、二文字以上の語の組み合わせを用いることができた。しかも訳語を選ぶときにはそれが雅か俗かといったことも意に介さなかった。そのため、訳語は明快で直接的なものとなり、一目でわかるものとなったのである。こうして知らず知らずのうちに使うものとなった。このような競争者と出会っては、厳復の訳語が零落し、破棄されたのも仕方のないことである。

 厳復は訳文の美を追究することに力を注ぎ、「立名」の雅を研究していたが、これはまさに苦心するものであった。当時、梁啓超も厳訳の文体に疑義を示している。厳訳は「あまりにも淵雅であり、先秦時代の文体を模倣しようと努力しているため、古書を多読している人でなければ、ひもといてもほとんどが難しくて理解しがたい」。また、このようにも述べている。「ヨーロッパ、アメリカ、日本の諸国の文体の変化は、つねにその文明のレベルと正比例している……これらの学理の深遠な書は、流暢で鋭い筆でなければ、どうして学童が利益を得ることができようか? 著書・訳書においては、まさに文明思想を国民に広めるものでなければ不朽の名誉とはならないのである」。西洋語の翻訳には、啓蒙の意味がある。訳文を使ってできるだけ多くの人に読ませるためには、このように、訳文が通俗的で流暢であり、理解しやすいことを求める努力が必要となる。これは厳復のやり方とはまさに正反対である。このような難詰に対して、厳福の回答は「わたくしの関わっているのは学理の深遠な書であって、学童にふるまって利益を得させることを望んでいるのではない。わたしの訳はまさに中国の古書を多読している人が待っていたものである」であった。もともと、厳復は根本的に学童のような浅学の人を自分の読者として想定しておらず、その訳文は学識ある士大夫が読むものであるというのである。厳復は、古書を多く読んでいて往々にして頑固守旧な思想を持っている人たちを改造することが、最も重要なことだと考えていた。このような人たちの思想改造が起こってから、社会全体の雰囲気にようやく変化が発生するというわけである。そして、中国の読書人はすべて文筆の美を追究しており、厳復は彼らに自分の本を読ませるために、まずは美文をもって彼らを征服する必要があった。あのような本を嫌って西洋の学問を排斥するような人たちに対して、オブラートに包んだ砲弾を送りつけたのである。

 厳訳の専門用語は日本人の訳語に敗北したけれども、それは厳訳が全体的に失敗したということにはならないし、厳復が訳文の美を追究したのは道理のないことだったと言うことも当たっていない。今年(※1998年)は厳訳『天演論』(ダーウィンの進化論)の出版100周年である。100年前、『天演論』が世に問われたとき、知識界は激震に見舞われた。人々は奔走して語り、相争って読んだ。多くの人たちはこの作品を枕元の書とし、一読しては再読、片時も手放せないほど夢中になった。これはなにより、厳復の訳文の優美さと切り離すことができない。人々は争って厳復の訳書を読んだ。それは新しい知識を求めたということもあれば、美しい文を味わったということもある。西洋の学問に抵抗していた守旧者であっても、厳訳のこの作品の美文を鑑賞することを禁じ得なかった。中国の状況と日本の状況は同じではなく、厳復が訳文に対して日本の学者と異なったものを求めたのも不思議なことではない。

 もし、1898年に梁啓超が日本小説『佳人之奇遇』を翻訳したのが日本語「外国語」が中国に輸入された発端だとすれば、現在まさに100周年である。これはもちろん記念すべきことである。

 わたしたちが思考・演説・記述を行なうのに用いている概念の中で、実に70%が日本人の作り出したものであることを思うたびに、わたしはこの問題を考える。この事実は、100年来、中国人の思惟に対してどのような影響を生み出しただろうか? 言い換えれば、もし当初から日本のような隣国がなく、長期間にわたって、人々が厳訳概念だけを使い、厳訳概念を通して西洋思想を理解し、中国の問題を思考していたならば、日本で訳された概念を通過するのと差異があっただろうか、なかっただろうか? 日本で訳された概念の輸入がなかったとしても、もしかしたら厳訳は淘汰され、誰かが西洋文化の概念のためにもっと適合する訳語を探し出していたかもしれない。しかし、これとわたしたちが現在使っている日本の訳語は大多数がみな違っていたことだろう。もしこのようであれば、この100年来の中国人の思考と問題を論じる方式は異なっていた可能性があるだろうか? 最終的にこの100年来、中国の歴史の過程は完全に同じものとなりえただろうか? 具体的にいえば、「政治」「経済」「文化」「革命」「階級」「社会主義」「資本主義」といった概念に替わる言葉がわたしたちの眼前に出現していたら、わたしたちはこれらの問題の感受・理解について変化を起こしていただろうか?

 日本語「外来語」の大量輸入は、100年来の中国人の思惟に対して、100年来の中国文化に対して、100年来の中国の歴史過程に対して、確かに影響を与えてきたといえる。しかし、現代中国語を用いることで全体の思考に与えているこのような影響は、厄介なことでもある。日本語「外来語」の影響を考えるとき、日本語「外来語」を使わなければならない。これは、一匹の蛇が自分のしっぽを咬んでいるようなものである。これは西方の中国学者にとっては極めておもしろい課題にほかならない。

 日本語「外来語」の影響を全体的に論じることはできないけれども、具体的な例はいくつか挙げることができる。

 中国古代に「資本主義」の萌芽はあったか否かという問題について、史学界では数十年間にわたって論争が続いている。しかし、論争が繰り返されても、実質的にはすべてが概念についての争いであって、分岐は「資本主義」という概念の理解におけるものである。同じ歴史事実について、ある人は「資本主義」の萌芽であると説明できると考え、ある人はできないと考える。これは「資本主義」の萌芽についての争いではなく、何が「資本主義」なのかという争いであるということになる。「資本」と「主義」の両方の言葉はどちらも日本人が作ったもので、資本主義は西洋語の「capitalism」を訳したものであり、それは日本人によるのである。もし仮に「capitalism」が別の漢語のことばで訳されていたら、この争議は発生しえたであろうか? 発生していたとしたら、表現方式上、異なるところはあっただろうか?

 80年代以来、中国美学界ではいわゆる「醜学」という考え方が提唱された。「醜学」は「美学」に相対する言い方である。「美学」は日本人の中江兆民が西洋語の「aesthetics」を翻訳したものだ。ただし、「aesthetic」の原義は「感性学」である。もし「美学」という訳し方が最初からなく、たとえば「感性学」というように別の訳し方がなされていたら、いわゆる「醜学」というものは成立していたであろうか?

 わたしたちは現在、短いものは数百字から長いものは数百万字の虚構の作品をすべて「小説」と読んでいる。ここには長編小説と短編小説の区分しかない。長編小説と短編小説という命名は、ただ作品の長さの区別を指すだけであり、これ以外に何ら説明をしていない。これに関して、いわゆる長編小説と短編小説の審美的な意義において、本質的な差異があるか否かという研究と論争がある。ある人は二つの意味は審美方式について違いがあることを意味していると言い、ある人は二者の区別は字数にしかないと言う。実のところ、わたしたちが現在使っている「小説」という概念は、日本の近代作家・坪内逍遙が『小説神髄』で英文の「novel」の翻訳をおこなったものである。英文の「novel」は本来、比較的長編の朔辺を指しており、短い作品については「shortstory」という言葉を使っていた。このように違った命名があるということは、これら二つが一つの分類ではないことを強調しているわけである。「小説」という言葉を用いて「novel」を訳すのは、原意の全体を伝えることはできないといわねばならない。もしわたしたちが長編小説と短編小説をひっくるめて「小説」と言わず、別々の異なる言い方をしていたら、わたしたちはこの二つの認識について最初から違っていただろうか、そうではないだろうか? 長編と短編の論争は、そもそも発生しただろうか?

 例はいくらでも挙げることができる。最後にわたしは言いたい。わたしたちが使用している西洋の概念について、基本的には日本人がわたしたちに替わって翻訳したものであり、中国と西洋の間には、永遠に日本というものが挟まっているのである。

 この意見を知らずして、筋が通るものであろうか?

出典

王彬彬「现代汉语中的日语“外来语”问题」(《上海文学》随笔精品·第二辑·守望灵魂)1998 [1]


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