パクリの芸術 歌舞伎の「世界」と「趣向」

 正しいパクリ方論第二回。前回の正しいパクり方――藤原定家の「本歌取りの方法」に続いて、今回は歌舞伎の世界の話に入ります。

 その前に私の個人的な「正しいパクリ」と「正しくないパクリ=盗用」の境界線を明確にしておくと、それは「他人の着想を自分のものとは言わない。他人のものを使ったことをはっきりわかる形で示す」「先人に対する敬意を払う」という精神があるか否か、が最大の基準で、それ以外の形式的なものはその精神を反映するだけのものという程度にしかとらえていません。したがって、先日の「iframe問題」も完全に「盗用」と考えています。(※利用した作品の作者が「名前を出さなくていい」「出さないでくれ」という場合でも、「自分が発想した」と言わないのが筋でしょう)

 というわけで歌舞伎の話。

2004年4月 6日10:46| 記事内容分類:執筆・書き方・文章, 演劇| by 松永英明
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 ちょっと長めになるが、解説として非常にわかりやすいので、中山幹雄『近松 南北 黙阿弥――歌舞伎ノート』(高山堂出版社)から引用する。

 歌舞伎の脚本は、「世界」と「趣向」とのからみ合わせによって構成される。竪筋にあたる「世界」は時間性を、横筋にあたる「趣向」は空間性をもっている。「世界」とは、脚本の背景となる時代、ストーリー、登場人物の役名とキャラクター、主要な場面の条件など、あらゆる面にわたって、大きな変更を許さない、作劇の大前提としての枠組みのことをいう。例えば、――時代物では、前太平記、天神記、曾我、平家、義経記、六歌仙、太平記、太閤記など数多くの「世界」があり、世話物では、お染久松、八百屋お七、五大力、累、その他、様々な「世界」を数えあげることができる。これらは、近年までの日本人ならば誰でもが知っている物語ばかりであったろう。この定められた「世界」の中に、どのような新しい味を持ち込むかの脚色の工夫が「趣向」と呼ばれた。変わらない大筋としての「世界」と、いかに変化させて新しく見せるかという「趣向」とは、松尾芭蕉の“不易流行”説とも通底するところがあるだろう。

 「趣向」が発展した形態として、歌舞伎の作劇の技法には、「書替かきかえ」と「綯交ないまぜ」というものがある。「書替え」とは、先行の人気狂言や有名狂言のプロットを用いつつ、人物や場面を変えたり、男女を逆転させたりして、“本歌取り”のごとく、新しい作品に仕立て直して上演する手法である。……(中略)……

 一方の「綯交ぜ」というのは、まったくかけ離れた二つ以上の世界を組み合わせ、複雑にからませることによって、新しいストーリーを生み出す手法をいう。

 この「世界」と「趣向」については、大塚英志氏が『物語消費論』でも指摘しているように、同人誌の世界でも当てはまる考え方だ。商業ベースの作品の「世界」に「書替え」や「綯交ぜ」を行なうことで新しい「趣向」を盛り込んでいるわけである。ちなみに、私も少し小説じみたものを書いたりすることもあるのだが、その場合は「綯交ぜ」を極めに極めたものが多いように思う。

 さて、この歌舞伎の場合でいうならば、他の脚本の一部をそのまま引っ張ってきて、何の工夫もなく黙って使用したならば、これは明らかに「盗用」としか言いようがない(たとえそれがiframeでも。笑)。
 しかし、先行作品をうまく「綯交ぜ」にしたり、「書替え」することで、それは単独で見ても面白く、もちろんモトネタを知っているとフームと感心するような作品になるわけだ。

 その意味では(ちょっと古いが)ゆうきまさみのマンガ『究極超人あ~る』などは優れた「書替え」作品だろうと思う(いや、ちょうど高校生の時にリアルタイムで同年代登場人物の話として読んでたので印象が強いんですよ)。
 そもそも「R・田中一郎」という主人公のアンドロイドの名前からしてアシモフだし、あーる君の乗っている自転車は「轟天号」で映画「海底軍艦」からとられているし(と挙げ始めるとそれだけでサイトが一つできてしまう⇒「『究極超人あ~る』元ネタ・リスト」)、その他登場人物の多くが実在の人物の書替えだし……とまあ数々のネタが仕組まれているわけだが、しかし、モトネタをまったく知らなかったとしても笑えるあたりが偉いところなのである。

 わかりやすい言葉でいえば、「ひねり」があるかないか、がすべてを決めるといってもいいだろう。
 安直に他人の作品を自分の作品の中に「はめ込む」のは、活用でも何でもなく、他人の成果の横取りでしかない。しかし、それを一ひねり二ひねりしていくことで、利用された元作品の作者も喜べるようなものを作れるわけである。

 とまあこういう風に書いてくればおわかりいただけると思うが、私は他人の作品を自分の中に取り込むことそのものを悪いとは思っていない。むしろ、上手にパクることでいいものを作ることができると思っている。ただし、そのパクるときの「精神」が、単に手を抜きたいのか、それとも一層の手間をかけたいのか、によって大きく違ってくるだろう、ということを言いたいのだ。

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2004年4月 6日10:46| 記事内容分類:執筆・書き方・文章, 演劇| by 松永英明
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ある程度事前に情報収集は済ませていたのですが、物足りなくなったのでここで自分用 続きを読む

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ソクラテスだったかと思うのですが、古代ギリシャの哲学者が「この世の全ての事物について言葉は出尽くした。これからはメタファー(本来とは違う意味の言葉に新しい意味を与える)の時代だ」と言っていたのを思い出しますね。実際、私たちの生活にはメタファーが溢れ返っていますし、それを意識もしません。そう考えると、他人の作品をメタファーとして扱うというのは、人間知性の自然な行いなのかもしれません。

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