丹下健三――代々木競技場、フジテレビ、新宿新都庁……コンクリートの威圧感

 丹下健三はやはり日本を代表する建築家であった。新宿の新都庁舎、代々木競技場、お台場のフジテレビなど、丹下健三は昭和・平成の大建築家として歴史に残ることは間違いない。

 この丹下健三氏が亡くなった。

 だが、私自身は丹下健三の建築物を見て、複雑な思いにとらわれる。

2005年3月23日12:27| 記事内容分類:都市計画・建築学| by 松永英明
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コンクリート打ちっ放しへの違和感

 先に挙げた代々木競技場、新宿の新都庁舎、お台場のフジテレビという3つの建物は、自分自身、特に強い印象を受けるものとして例示した。代々木もフジテレビも、通常の建築物のデザインからは考えにくい独特の形を持っており、ひねった屋根にしろフジテレビの銀色の球にしろ、意表を突きながらも、それがきちんとデザインの中に収まっている。

 新都庁は奇抜な意匠というわけではないのだが、ツインタワーの重厚壮大さ、権威的でありながらも新しさを感じさせるイメージはやはり印象的である。

 しかし、丹下健三氏にしろ、その弟子筋にあたる磯崎新、黒川紀章といった大建築家たちにしろそうなのだが、自分としてはそれらの建築物に対して落ち着かなさも感じるのだ。鑑賞や観光の対象としてはおもしろみを感じるのだけれども、そこで仕事をするとか、そこに住むといった形で、自分の定位置としてこれらの建築を取り入れることは、感覚的・生理的に受け付けないものがあるのだ。

 それは、「コンクリート打ちっ放し」を基調とする丹下・黒川流の感覚と自分の感覚が相容れないということかもしれない。

 遠藤真建築設計事務所の「コンクリート打ち放しについてのご質問とお答え」に、こう書かれている。

> 打ちっ放し仕上げには、どんなメリットがあるのですか。また室内もコンクリートの地肌そのままの建築をみかけますが、断熱材はいれなくてもよいのでしょうか。

意匠的な面以外は、耐久性、防汚性、断熱性、防露性、どの面から見てもコンクリート打ち放しには建築性能上のメリットはありません。内部も打ち放しにした場合は、夏暑く、冬寒いことを覚悟しなければなりません。それがいやならガンガン冷暖房をするしかありませんし、防露のためには、物入れの中まで十分な換気・除湿をする必要があります。当然光熱費は上がり、これまた不経済きわまりないことになります。

 コンクリート打ちっ放し建築は、確かに住環境としては(少なくとも日本の風土において)合ったものではない。それをあえて導入するということは、機能性(使い勝手)よりも意匠性(デザイン)を優先するということでもある。

 デザインは建築において非常に重要だ。だが、機能に基づいたデザインでなければ、という思いがどうしてもわき上がってくる。

自分の生活・仕事の環境としての建築

 JR大塚駅に近い某中堅出版社のビルは、この系列の有名な建築家の設計で作られている。住宅街の中にありながら、コンクリート打ちっ放し、前面はガラスで囲まれ、要所に木材を取り入れたデザインは、確かに独特の存在感を示している。2階の打ち合わせ空間の上は吹き抜けになっていて、木の螺旋階段が取り付けられており(ただし法律上の問題で使用禁止)、書籍編集・雑誌編集その他のフロアはまた別に区切られている。

 この打ち合わせホールから見上げると、私は何となく落ち着かなくなるのだ。照明が暗いことに加えて、吹き抜けによる開放感よりも空虚感を強く感じるのである。がらんどうの空間に、エネルギーが満ちることなく、散漫になってしまう……。風水的な言い方をすれば、建物の中に“気”が満ちていないという感覚だ。

 ホールの横の個別の会議室に入って、ようやく落ち着く。それこそ単なる会議室なのだが、意匠をこらした応接ホールより、普通の壁・普通の机と椅子の並んだこの空間の方がおさまりがいいという感じだ。

 自分のすごす空間のデザインというものは、その中ですごす人の意識にも強く影響を与えることは間違いない。渋谷セルリアンタワーのロリポップ本社におじゃましたことがある。また、青山一丁目の泉ガーデンタワーの13階には女子十二楽坊のレコード会社プラティア・エンタテインメント本社オフィスがある。こういった都心の、壁面がガラスで構成された高層オフィスビルからの眺めはすこぶる気持ちがいい。

 だが、貧乏性の自分としては、もし仮にこういうところで毎日仕事するようなことになったら、自分がどう見られるかということを気にしなければならなくなって、ストレスがたまるだろうなと思ってしまうのだ。小汚い自室で普段着のまま、ちゃぶ台で豆乳を飲みながら原稿を打つ環境の方が性に合っているもので、「お前は貧乏性だな」と一蹴していただければ結構なのだが、もし六本木ヒルズの38階で働くようなことになったら、仕事の内容などは別にして気がおかしくなってしまうかもしれない。

 先日はgooブログの件で大手町のgooオフィスにおじゃましたのだが、古くさい大手町ビルの扉を開けた瞬間にメタリックなトンネル廊下が出現し、それを抜けると今度はコンクリート打ちっ放しのフロアに光ファイバーをイメージしたデザインの明るい空間が出現した。工事中かとさえ思わせる打ちっ放しのコンクリートに、サイバーパンクという言葉をつい使いたくなるようなメタリックな壁面、そしてガラスの自動扉。窓の外には大手町のビジネス空間が広がっているのだが、ここはサイバーなデジタルオフィスという印象を受けるものだった。

建築の内と外

 空間によって受ける印象はまるで違う。そして、それを作り出すのが建築である。

 そして、建築には二つの要素があると思う。そこに住み、あるいは使い続ける人という内への要素と、外から眺めるだけの人や来訪者に対する外への要素だ。

 内への要素としては、使い勝手の良さなどの機能性や、長時間すごす場合の精神的影響などを考慮する必要があるだろう。その点において、コンクリート打ちっ放しは日本の風土に合っていないように思う、というのは、すでに述べたとおりだ。一方で、外への要素としては、それによって権威や威厳を示したりするというデザイン的な要素は非常に大きなものとなる。

 丹下・黒川系の建築は、外への要素は申し分ない。だが、(少なくとも貧乏性の自分にとって)内への要素があまりにも空々しく、冷たく、言ってしまえば非「人間的」なものと感じてしまうのである。そういう建築があってはならないということではないし、実際、自分も見て楽しんでいるわけだが、自分が住んだり仕事をしたりするときには別の発想の建築家の方がいいなあという気になるのである。

最後に

 建築論について、自分は素人である。こんなことはもう散々論じられてきたかもしれない。また、磯崎新氏のように建築家の域を超えて芸術評論家としても活躍している人からみれば、このような感想・印象の類は稚拙なものに見えるだろうと思う。

 松岡正剛の千夜千冊『建築における「日本的なもの」』磯崎新――こんなページを読めば、自分などのしゃしゃりでる場合ではないというのもよくわかるのだが、まあちょっと書かせていただいた。

関連リンク

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さらにおまけ

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コメント(2)

以前「光の教会―安藤忠雄の現場」を読んだ時、同じような違和感を感じました。
本は、建築家、教会の牧師や教会員、施行業者などがアイディアをだしあい・・・というかほとんどぶつかり合いながら、一つの建築を作ってゆくという感動のノンフィクションものだったんですが、目玉となる壁の十字の切れ込みなどをめぐって「冬寒い。年寄りも多い。それはやめてくれ」「寒い中祈りを捧げての教会だ」的な(正確なところは忘れました)問答が続いている様子が書かれていて、「・・・居住性を犠牲にしてまでの意匠に意味があるのだろうか。モニュメントを作る感覚が強いのかなあ」と。
まあ、自分も完全素人なんで、きっとこのあたりのことって、最後に書かれているように、建築の世界でずっと論じられてきてることなんでしょうが。建築家と施工主側の力関係というか発言力のバランスが必要なのかなあと思ったりもしました。

はじめまして。

丹下健三さんの建築はとても好きなのです
が、こちらで書かれている違和感のようなも
のも分かるような気がします。常人のスケー
ルを超えているのですよね...きっと。

私が書いたものをTBさせていただきました。
お暇なときに覗いていただければ幸いです。

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