「崖の上のポニョ」のプロットは大国主神話だ

今年見に行った映画の一つとして「崖の上のポニョ」がある。そろそろ多少ネタバレ的な話題を書いてもいいかと思うので、「崖の上のポニョ」についての神話学的解釈を書いてみたいと思う。

結論から言えば、「崖の上のポニョ」のストーリーは、「異界の者との結婚を果たし、異界(あちら側の世界)の者を人間の世界(こちら側の世界)に連れてくる」という流れになっている。つまり、日本神話の大国主(オオクニヌシ)と須勢理毘売(スセリビメ)の物語のモチーフが描かれているのである。

まあ、そもそもこういう「解釈」自体が不粋なものであるというのは承知の上で、つらつらと書かせていただきたい。

2008年12月13日01:24| 記事内容分類:宗教・神話学, 映画| by 松永英明
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まず最初に、いわゆる宮崎アニメ映画は(ハイジとかの時代を除けば)全然見たことがなかったことを断っておく。ナウシカもトトロも千と千尋ももののけ姫もまったく見ていない。

それから、以下の論考において、ネタバレを気にせず書くことにする。したがって、未見であってネタバレが嫌な人は読まないでほしい。

これまでの「ポニョの神話的解釈」について

もともと「ポニョ」は神話的要素を組み合わせている。人魚姫、北欧神話、海底二万マイルなどを出典とする要素が盛り込まれていることは、オフィシャルにアナウンスされているとおりである。

しかし、それに加えていろいろな神話学的解釈がなされているようだ。わたしがネットで見た限りでは、以下の二つが参照されているようである。

クトゥルフとの対比は半分ネタとして面白く読んだ。わたしが非常に考え込んでしまったのは、2ちゃんねるのログであるが「崖の上のポニョが神過ぎた件」のほうである。匿名氏は神話学的にかなり詳しいようで、「この世界」と「異界」との交渉という観点からポニョのモチーフを読み解いている。この視点についてはわたしも賛同する。しかし、その結論がわたしとは逆なのである。

「神過ぎた件」の匿名氏は、ポニョについて最初の方でこうまとめている。

俺の個人的な結論を書く。

「崖の上のポニョ」は、宮崎映画史上、初めて

境 界 を 決 定 的 に 越 え る 物語だ。

宮崎作品で描かれるのは、いつも、境界の向こう側とこっち側が重なったときに起こる話だ。

主人公は境界を行ったり来たりするけど、今までは絶対に「帰ってきた」。


アシタカははっきりと別々に暮らすことを宣言するし、

ハクは「振り返らずに行け」と送り出して、

千尋は手を振って決別する。

「ジブリ映画には『元の世界には戻れないかもしれない』というスリルが足りない」

と言われていたくらいだ。


今までは頑なに守ってきた

絶対に戻れない一線を越えて、

宗介(宮崎)はとうとうあちら側に行くことを「選んで」しまった。

しかも、周りの人全てと、母も道連れにして。

この点で、ポニョは他の作品と決定的に違う。

この投稿以降、詳細な検証がなされているので、詳細が気になる方はぜひリンク先で原文を読んでいただければいいと思う。ここでは結論を押さえておこう。匿名氏は「主人公が(周りの人すべてを道連れにして)境界を越えてあちら側に行くことを選んでしまった」のがポニョだという。

わたしの解釈はまったく逆である。「境界を決定的に越える物語」であるという点はまったく同じなのだが、方向性が逆なのだ。「こちら(人間の世界)」から「あちら(異界)」へと「越えていく」のではなく、ポニョを異界からこちらへと「連れてきた」のである。

こちら側の世界と異界

「神過ぎた件」の匿名氏もしつこいぐらいに断りを入れているのだが、ここでいう「こちら」と「あちら」は、一般的にイメージされる「この世」と「あの世」の対比ではない。つまり、「生者の世界」と「死者の世界」という対比なのではない。もちろん「この世」と「冥界」が対比される説話も多いのであるが、必ずしも「生と死」というわけではないことを最初に確認しておきたい。

言い換えるならば、肉体的要素が強い「物質的なものが優位なこの世界」と、霊的・精神的要素が強い「非物質的なものが優位な別の世界」との対比である。

こちら側の世界と異界は、普段は接触しないことになっている。しかし、特定の場所や特定の条件のもとでは交流が生まれる。たとえば、場所でいえば、日本においては「辻」はこの世と異界の「境界領域」であり、異界との接点であると認識されてきた。また、時間で言えば「黄昏時」「彼誰時」、あるいは「丑三つ時」がこの世と異界の境界が弱まる時間帯である。

そして、この世と異界の住人が交流すると、いくつかのパターンが生まれる。

  • いったん異界に行くが、帰ってくる
  • 異界に行ってしまう
  • 異界に行った妻を夫が異界から連れ戻そうとするが、失敗し、夫のみ帰還する
  • 異界の住人をこの世界に連れてくる
  • 異界とこの世の間で何となくそのまますれ違う

それぞれについて簡単に説明しよう。

「いったん異界に行くが、帰ってくる」パターン

「いったん異界に行くが、帰ってくる」というパターンは非常に多い。

たとえば、天狗界に行って帰ってきたという寅吉の物語(平田篤胤が記している)などが挙げられよう。また、同じく平田篤胤が紹介した『稲生物怪録』では、稲生平太郎の家に多数の妖怪変化が次々と訪れるが、それをすべて退けてしまう。これは、異界からの「侵略」にもかかわらず、異界へと連れ去られないよう踏みとどまった事例であるから、ここに含めてもいいだろう。

異界に行って帰って来るというのは、英雄の試練としてもメジャーなので、例を挙げればきりがない。

稲生物怪録絵巻集成
国書刊行会
杉本 好伸(編集)
発売日:2004-07
おすすめ度:5.0
稲生物怪録絵巻(いのうもののけろくえまき)―江戸妖怪図録
稲生物怪録―平田篤胤が解く
角川書店
発売日:2003-10
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「異界に行ってしまう」パターン

さて、次のパターンは「異界に行ってしまう」というものである。行ったきり帰ってこない、あるいは一時期しか帰って来れない。典型的な例としては、ギリシア神話のペルセポネー説話がある。冥府の王ハーデースに連れ去られた彼女は、冥府の食べ物(ザクロ)を食べてしまったがために、一年の三分の一は冥府で過ごさなければならなくなった。この「異界の食べ物を食べたら、こちらに帰って来れない」というのは、世界的に共通するモチーフとして現われる。

わたしの好きな泉鏡花も、このパターンの小説をいくつか書いている。というより、わたしの好きな泉鏡花作品といえば筆頭に『天守物語』『夜叉ヶ池』『海神別荘』の三作が挙げられるのだが、そのいずれもが「こちら側に住んでいた人間が、異界の住人になることを自らの意志で選ぶ」というモチーフである。

「神過ぎた件」の匿名氏は、ポニョがこのモチーフに当てはまると考えているようだが、わたしは違うと思う。それは後で詳細に述べる。

むしろ、ポニョの父であるフジモトがこのパターンに該当する。彼は人間であったのに、「あちら側の世界」へ行ってしまい、魔法使いとなり、人間を忌避するようになっている。

夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)
岩波書店
発売日:1984-01
おすすめ度:4.5
海神別荘―他二篇 (岩波文庫)
岩波書店
発売日:1994-04
おすすめ度:5.0
鏡花夢幻―泉鏡花/原作より (白泉社文庫)
白泉社
発売日:2000-06
おすすめ度:5.0
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「異界に行った妻を夫が異界から連れ戻そうとするが、失敗し、夫のみ帰還する」パターン

妻が死んでしまう。その妻を夫が冥界から連れ戻そうとするが、失敗し、夫のみがこの世界に帰ってくる。このパターンの物語として有名なのが、ギリシア神話と日本神話に共通してみられる。ギリシアではオルペウス(夫)が妻のエウリュディケーを冥府から連れ戻そうとするが、「決して振り返ってはいけない」という言いつけを破ってしまい、失敗する。

日本ではイザナギ(夫)が妻のイザナミを黄泉の国から連れ戻そうと考えるが、イザナミは「ヨモツヘグイをしてしまった(黄泉の国の食べ物を食べてしまった)」ために生き返ることはできないと告げる。その後、イザナミは黄泉神に相談しようとし、その間自分の姿を見ないようにと言うが、待ちきれなかったイザナギはイザナミの死体をのぞき見てしまい、その恐ろしい姿に恐怖して逃げ帰ることになる。「冥界の食べ物」のモチーフもここには含まれている。

ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)
岩波書店
Thomas Bulfinch(原著)野上 弥生子(翻訳)
発売日:1978-01
おすすめ度:5.0
古事記 (岩波文庫)
岩波書店
発売日:1963-01
おすすめ度:4.0
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「異界とこの世の間で何となくそのまますれ違う」

なんとなくこの世と異界が共存しているというストーリーもある。たとえば今市子のマンガ『百鬼夜行抄』シリーズなどはその典型例であろう。この物語では異界の住人がこの世界に干渉するが、それを「見る」ことができてしまう主人公がいろいろな厄介ごとに巻き込まれる。このストーリーで重要な約束になっているのが、異界の住人とこの世の住人は「できるだけ干渉し合わないこと」が原則だということだ。

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「異界の住人をこの世界に連れてくる」

そして、最後に回したのだが、「異界の住人をこの世界に連れてくる」というモチーフが考えられる。わたしは、ポニョのストーリーはまさにこのモチーフに当てはまっていると考える。

海の女神グランマンマーレと、その夫として「異界の住人になることを選んだ元人間」フジモトの娘であるポニョ(ブリュンヒルデ)。半魚人とも言われたり、治癒魔法を使うことができたり(癒しの力は神聖さの証明でもある)、明らかに異界生まれの異界の存在である。そのポニョが、宗介と出会って「人間になることを選ぶ」。最終的に魔力を失うこともほのめかされていることから、やはりポニョが「異界から人間界にやってきた」のであって、その逆(宗介ら人間が異界へと行ってしまった)ではないと言えると思う。

実は、このパターンの神話が日本神話にきちんと存在している。それは、オオクニヌシ(大国主、オオナムヂ)とスセリビメ(須勢理毘売)の物語である。

兄弟の八十神たちに殺されかけたオオナムヂは、木の国から根の国へと逃れていく。根の国は黄泉国と同一という説もあるが、琉球の「ニライ」と同一であるとか、海の彼方の世界であるという説などもあり、ひとまずは「異界」ととらえておけば間違いないだろう。

根の国はスサノオが支配している。その娘スセリビメとオオナムヂは一目惚れし合う。スサノオはオオナムヂに3つの試練を与えるが、いずれもスセリビメの尽力によって乗り越えることができた。最終的に、スセリビメとオオナムヂは根の国から逃げていく。それに対して、スサノオは二人の結婚を承諾し、大国主という名前も与えたのであった。*1

そもそもスセリビメの父スサノオは「母イザナミのいる黄泉国へ行きたい」と願って根の国の支配者となった神である。そして、映画ではポニョの父フジモトは、もともと海底二万哩のノーチラス号唯一のアジア人船員であったが、結界を張ったり、水魚を操ったりするため、異界の魔法使いとなった者である。いずれも「この世界から異界へと移り住むことを選んだ」者である。なお、「根の国」は「海の彼方の世界」という考え方もあることは先述したとおり。

  • スサノオ=フジモト
  • スセリビメ=ポニョ
  • オオナムヂ(オオクニヌシ)=宗介

ポニョは宗介の怪我を治療した後、ハムを食べてから急激に人間化を進める。ハムは人間界の食べ物である。これは「冥界の食べ物を食べたら帰れない」の逆であろう。フジモトは、ポニョが人間の食べ物を食べたと知って激しく動揺している。

宗介は、船、トンネル、グランマンマーレによる審問といった試練を乗り越えて、見事合格する。それによって、ポニョは魔法を失い、人間として宗介とともに生きることが許されるようになるのである。宗介は見事に「あちら側」の住人を人間界に連れてきて婚礼することが認められた「第二のオオクニヌシ」なのだ。

したがって、わたしはポニョの神話的モチーフ解読としては、「異界の住人を人間界に連れてきた物語」であると考えている。

補記

宮崎駿氏がこのような意図をもって映画を制作したか否かは、わたしの考慮外である。たまたま偶然に、結果としてこのような「オオクニヌシ・スセリビメのモチーフ」と合致するストーリーを作り上げたということも当然考えられるし、その可能性が高いと思う。意図的にオオクニヌシ物語を描こうとしたわけではないだろう。つまり、以上はわたしの深読みに過ぎないことをお断りしておく。

そして余談のついでに、わずか五歳ながら運命の伴侶と出会ってしまった宗介のその後について考えてみる。

実はオオクニヌシは艶福家としても有名で、スセリビメ以前にヤガミヒメと結婚して子供もいた。また、スセリビメとの結婚後、わざわざ高志国のヌナカワヒメに求婚し、スセリビメの嫉妬を招いている。これほどの「恋多き神」であったがゆえに、オオクニヌシを祀る出雲大社は「縁結びの神様」としても有名だ。

……宗介がポニョから嫉妬されるようなことをしなければいいのだけれど。

さらに補記

人魚姫をテーマに扱った非常におもしろい映画として、台湾映画でビビアン・スー主演の「靴に恋する人魚(人魚朵朵)」をおすすめしたい。これは様々なおとぎ話のモチーフをふんだんに盛り込みながらも、オトナの現実をも見つめた「大人のためのおとぎ話」であり、女性監督ロビン・リーの作り上げる水彩画のような画面は、蜷川実花の写真のように鮮烈なイメージを与えてくれる。わたしとしては、文句なしにおすすめ度★★★★★である。

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ロビン・リー(脚本)
発売日:2007-09-21
おすすめ度:4.5
おすすめ度4 大人のための童話
おすすめ度5 かわいい!!

  • *1: ちなみに、オオナムヂとは「大-ナ(土地)-持ち」であると解し、「大国主」と意味においてはまったく同じであるという解釈もある。
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2008年12月13日01:24| 記事内容分類:宗教・神話学, 映画| by 松永英明
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いま、籔田紘一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。

このブログ記事について

このページは、松永英明が2008年12月13日 01:24に書いたブログ記事です。
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