「歴史にifはない」とはどういう意味か(歴史における「偶然」と「未練」)

「歴史にifはない」という言葉がある。歴史家が歴史上の仮定を語るとき、「歴史にifはないと申しますが……」と枕詞のように言い訳する言葉としてよく用いられるが、そもそも、なぜ歴史で仮定を語ることがいけないことであるかのように言われるのか。「歴史にifはない」と言い出したのは誰なのか、またそもそもどういう意味合いだったのか。

調べてみると、歴史学者E・H・カーの『歴史とは何か』(1961年の講演録)がその発端になっているようである。それは、近現代史において未練たらしく「こうだったらよかったのに」という思考を批判する趣旨での「might-have-been school(こうだったらよかったのに派、未練学派)」批判であった。

2009年1月19日19:44| 記事内容分類:歴史学| by 松永英明
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調査過程

2005年6月のBIGLOBEなんでも相談室では、バタフライ効果などの理論が挙げられているが、直接的にこの言葉そのものの起源を語ってはいない。

2007年8月のYahoo!知恵袋の質問では、「歴史にifはない」という言葉には「特定の根拠はない」という結論に落ち着いている。Yahoo!知恵袋では自分の意見や感想を回答として書く人も多いが、この時点では結論が出なかったようだ。

そこで改めて人力検索はてなで質問してみた。2008年10月のことである。

「歴史にifはない」という言葉はいつ、誰が言い出したのでしょうか。この言葉の言い出しっぺ、出典、原典を教えてください。

これに対して、id:kanan5100さんの回答が極めて的確なものだった。

E.H.カーの『歴史とは何か』(岩波新書)の記述がもとになっているのかもしれません。

http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/EHCarr_What_is_Histroy.htm...

歴史上の未練を話題にして楽むことはいつでも出来ることです。しかし、これは決定論とは関係のないことです。決定論者なら、そういう事実が生ずるには、また別の原因がなければないであろう、と答えるほかはありますまい。同様に、こういう仮定は歴史とは関係のないものです。

また、東京大学法学部の塩川伸明教授は以下のように書いています。

http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/carr.htm

過ぎ去った事象をそれ自体として考察し、ああすればよかったとか、こうしたのはまずかったと考えるのではなく、過去のことは既成事実として受けとめた上で、未来に向けてどのような予測を引き出せるかを考えることこそが重要だというのが彼の考えのようである。この点を最も明白に示すのが、本書の中でも有名な個所の一つである「未練学派('might-have-been' school of thougt)」批判(一四一頁以下)である。

「未練学派」批判はしばしば「歴史におけるもし(if)」の批判という風に理解されている。

これに対してわたしはこう答えた。

核心に近づいてきたように思います。

歴史とは何か - Wikipedia

What is History? Edward Hallett Carr 1961

回答していただいたページは、訳書の誤りを訳し直していますが、以下の部分は「歴史にifはない」という言葉をよく説明しているように思われます。

「歴史上の「あったかもしれぬ」を話題にして楽むことは常に可能です。しかし、このように別の原因を想定することは決定論とは何の関係もありません。というのは、それに対して決定論者は、もしそういう事が生じたとしたら、原因もまた違っていたはずだ、と言うだけだからです。また、このような想定問答と歴史とは何の関係もありません。」

「その具体的な現れとして、彼らは歴史を読みながら、起ったかも知れぬもっと快い事件について勝手気儘な想像をめぐらせたり、歴史家に腹を立てたりするのです。というのも、歴史家は何が起ったか、なぜ彼らの快い夢が実現しなかったかを明らかにするという自らの仕事を淡々とやり続けるだけだからです。」

二つめのページの記述を読むと、確かにこのE.H.カーの『歴史とは何か』における上記の記述が「「歴史におけるもし(if)」の批判」であると指摘されています。

とすると、現時点では、「歴史にmight-have-been(○○だったかもしれない)を導入しない」というE.H.カーが「歴史にifはない」の言い出しっぺ/出典と考えて間違いないように思われます。

E.H.カーの本は、訳書には問題が多いと指摘されていますので、原著にも当たってみたいと思います。

『歴史とは何か』の原著に当たる

ここまできたら、解説書やネット情報等々の二次資料だけではなく、やはり一次資料としての原典に当たるべきである。というわけで、(ウェブ情報では訳文に問題があるとされる)岩波新書版の訳書と、ペンギンブックス版の原著を購入して通読した。

歴史とは何か (岩波新書)
カー
岩波書店 ( 1962-03 )
ISBN: 9784004130017
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What Is History? (Penguin History)
Edward Hallett Carr
Penguin Books Ltd ( 1990-11-29 )
ISBN: 9780140135848
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

エドワード・ハレット・カーは1892年ロンドン生まれのイギリスの外交官、歴史学者、政治学者である。特にロシア革命の研究で有名な人物で、1948年には国連「世界人権宣言」起草委員長を務めた。

この『歴史とは何か』は1961年、ケンブリッジ大学における歴史学に関する連続講演をまとめたものだ。1回ごとの講演内容が1章としてまとめられている。岩波新書版の目次を引用すれば、以下のとおりである。

  1. 歴史家と事実
  2. 社会と個人
  3. 歴史と科学と道徳
  4. 歴史における因果関係
  5. 進歩としての歴史
  6. 広がる地平線

この本については「歴史とはどういう学問なのか」ということを考える人にとっての必読書ともなっているようで、ネット上でも読書記録がいくつか見つかる。

北大経済学部高井ゼミでのまとめは、本書の内容について章ごとにまとめているので、概要をざっと把握するのに便利である。また、塩川氏の読書ノートは、『歴史とは何か』の内容紹介と、その評価についてまとめているので非常に参考になる。また、岩波新書版の訳文に不満を持つHanafusaさんの指摘も参考になった。

これらを踏まえて、わたしは第4章「歴史における因果関係」全文を独自に訳し直してみた。その全文(原注を含む)は「歴史における因果関係 - 閾ペディアことのは」に掲載しておいた。以下、主にわたしの独自訳の文章に基づいて論じることにする。

「歴史における因果関係」

以下、「歴史における因果関係」の内容について概略をまとめてみる。

E.H.カーの主張としては、「単に歴史的事実を列挙するだけでは、歴史とはいえない」ということが非常に強調されている。そして、この章においては、「歴史上の出来事についての"原因"を突き止めるのが歴史家の仕事だ」という。当時、原因などは置いておいて、ただ歴史上、実際に起こった出来事だけを列挙することこそが歴史家の仕事だ、というような見解が広まりつつあったようで、カーは舌鋒鋭くその態度を批判する。

しかし、歴史上の出来事の原因について、何かただ一つの原因を挙げたらいいというわけではない。物事には複数の原因が絡み合っている。それを列挙していくが、ただ列挙しただけでもだめだ。それらの原因の中で最も根源的、最も中心的な原因を突き止めなければならない。

ただし、最終的にどのような原因を選ぶかということは、歴史家一人一人の歴史観によって変わってくる。どれが重要であるかということを決めるには、それぞれの人の「解釈」が関わってくる。この「解釈」が歴史学においては極めて重要なのだ、とカーは主張するのである。

ここで、カーは「歴史における偶然」の扱いに焦点をしぼって話していく。偶然というものはなく、すべての出来事には原因と結果の関係(因果関係)があるという「決定論」と、歴史は原因によって決定されておらず偶然によって左右されるという「クレオパトラの鼻」論が対比されていく。

カーは、「クレオパトラの鼻の形、バヤジットの通風、アレクサンドロス王を死なせたサルの一噛み、レーニンの死」といった偶然が歴史の流れを変えたこと自体は認めるが、しかし、これらの偶然によって歴史が決定されたという歴史観には強硬に反対していく。これらの「偶然」そのものも実際にはある原因の結果であるという事実、また因果関係を無視した完全な偶然論では人間は通常の生活ができなくなってしまうということ(カフカの小説は、因果関係が求められない「不条理」を描いており、それは通常の生活さえも困難なものにしてしまう)といった論証を進めていく。

さらに、カーは「ロビンソンのたとえ」で、歴史における偶然を過大視する見方に反対する。

ジョーンズは、ふだんよりも多めにアルコールを飲んだパーティーから帰る途中、ブレーキの調子が悪かった車に乗って、視界が悪いことで有名な見通しのきかない角で、ロビンソンを轢き殺してしまいました。ロビンソンは、その角にあるお店にタバコを買いに行こうとして道を渡っていたのです。

 騒ぎがおさまってから、たとえば地元の警察署あたりに集まって、この事故の原因を調査したとしましょう。それは運転手のほろ酔い状態のせいでしょうか?――その場合、起訴されるかもしれません。あるいは、欠陥のあるブレーキのせいでしょうか?――その場合、わずか一週間前に車をオーバーホールした自動車修理工場に何かいうべきでしょう。あるいは、見通しがきかない角のせいでしょうか?――その場合、道路担当の役所の人を招いて注意を向けさせるほうがいいでしょう。

 さて、わたしたちがこういった実際的な問題について論じているとき、二人の著名な紳士が部屋に乱入してきて、たいへん流暢に説得力ある口調で、こう言ったとします。「もしロビンソンがその晩、たまたまタバコを切らしていなかったら、道を渡ることもなかっただろうし、死ぬこともなかっただろう。つまり、タバコを吸いたいというロビンソンの欲望こそが、その死の原因なのである。そして、この原因を無視する調査はいずれも時間の浪費にしかならないし、そういったものから導かれる結論はいずれも意味がなく、役に立たないのである」と。

歴史学というのは、歴史的に重要な原因かどうかを選ぶことである、とカーは述べている。ロビンソンのたとえの場合、アルコールを飲んだこと、ブレーキの修理が不完全だったこと、角の見通しが悪かったことなどは、原因として考えても意味のあることである。それは過去の出来事から教訓を学ぶことができる。しかし、「ロビンソンがその日たまたまタバコを吸いたがったから、車に轢かれたのだ」などと考えたとしても、それは交通事故を防ぐ役には立たない。つまり、確かにロビンソンがタバコを吸おうとしなかったら轢かれなかったかもしれないが、その「タバコ」という原因をこの事故の原因として採用することは、意味のないことといえる。

歴史における偶然の要素(クレオパトラの鼻の形、バヤジットの通風、アレクサンドロス王を死なせたサルの一噛み、レーニンの死)を強調する歴史家は、その歴史から重要なことを何も読み取ることはできない。役に立つ説明なのか、役に立たない説明なのかということを見極めるのが、歴史家にとって必要だ、というのが、この回のカーの言いたいことだとわたしは読み取った。

「こうだったらよかったのに」派と「歴史でifを言い出すな」の論理

さて、この章の流れの途中で、カーが「might-have-been school」と名付けたものに対する痛烈な批判が載っている。岩波新書版では「未練学派」と訳されているが(その訳本をテキストとして論評する塩川伸明さんもこの用語を使っている)、わたしはこれをもう少しくだけて「こうだったらよかったのに」派と訳してみた。

ノルマン・コンクエストやアメリカ独立戦争について、「もしそれが起こらなかったら」とか、「別の可能性」について述べず、淡々と「起こったこと」とその原因についての解釈を書いたとしても、歴史家が批判されることはない。それはごく普通の歴史的態度だろう。

しかし、カーは自分の体験から述べる。1917年のロシア革命についてカーが執筆したとき、「起こった出来事が起こるべくして起こったことであるかのように描写し、ほかに起こっていたかもしれないことをすべて精査していない」という理由で批判されたのだ。「ストルイピンが土地改革を完成させていたり、ロシアが戦争に参加しなかったら、おそらく戦争が起こらなかったであろう。ケレンスキー政府が成功したり、革命指導者がボリシェヴィキではなく、メンシェヴィキあるいは社会革命党に握られていたとしたらどうなっていたかを考えてみろ、というのです」とカーは述べる。

どうしてこういうことになるのか。それは、ロシア革命は近い時代のことであるため、「起こりえたかもしれない」もっと好ましいものごとについてあれこれと想像力をほとばしらせてしまうのだ。物事が起こる前には選択肢はいくつもある。その時のことを覚えている人たちが「こうだったらよかったのに」と思うとき、歴史家がその妄想をくじくと批判の対象になるというのである。

そして、「こうだったらよかったのに」派(「未練学派」という訳語は、意訳としては意味を十分にくみ取っていると思う)の人たちは、自分たちの没落や失敗の原因を、必然的なものではなく「偶然」に求めようとする傾向がある。それは、ローマに征服された古代ギリシアの歴史家から、第二次大戦に敗れたドイツの大歴史家に至るまで共通して見られる病癖といっていいだろう。しかし、遠く離れた過去については、直接的利害がないため、未練をもって歴史の「if」を語る人はいない。

現代史について語るときに、未練をもって「こうだったらよかったのに」と語ることは適切ではない――カーはこういう趣旨で述べている。これが言い換えられて「歴史にifはない」という言葉になったものであろうと思われる。塩川氏の『カー「歴史とは何か」』では、「「未練学派」批判はしばしば「歴史におけるもし(if)」の批判という風に理解されている」と記されている。

「こうだったらよかったのに」派批判の真意

架空戦記というジャンルがある。これは「歴史におけるif」を「歴史にifはない」という言葉に反してダイレクトに扱ったものである。あるいは、歴史シミュレーションも歴史にifを造り出すものといえよう。しかし、「こうだったらよかったのに」派批判において、カーはこういった架空戦記や歴史シミュレーションそのものを否定しているとは思えない。

問題は、たとえば太平洋戦争において「栗田艦隊がレイテ沖海戦に向かっていながら謎の反転を行なったが、もしこれがなかったら、日本海軍は壊滅せず、日本勝利もありえたかもしれないのに」と「未練たらしく」想像することであろう。それは、日本の敗戦の理由を、栗田健男中将の「臆病な性格」という「偶然」に帰し、日本軍の大局を見失った戦略ミスという「意味のある理由」から目をそらしてしまうことになる。

「歴史にifはないと申しますが、あのときあいつがああいうことさえしなかったら、これこれこうなっていたのに」というような「未練」を排除するというのは、歴史学にとって必要な考え方であろうと思われる。「未練」は、歴史の原因を「偶然」や「陰謀論」などの「役に立たない理由」に帰しがちだからである。最近の例でいえば、「こうだったらよかったのに」の思いに満ちあふれ、歴史の原因を「コミンテルンの陰謀」に帰する元航空幕僚長・田母神俊雄氏の歴史論文が挙げられる。「未練史観」は事実を追及するのではなく、自分に都合のよい事実を作り上げる方向にも向かいかねない。

逆に、その当時の条件や可能性を調べた上で、偶然以外の原因に基づいてシミュレーションすることは、カーの批判する思考方法には当たらないだろう。むしろ、歴史研究においてそういう「想像力」は求められると思われる。

SFにおける「歴史にifはない」

そもそもifを考え続けるのがSFである。そして、SFで重要なのが「センス・オブ・ワンダー」、すなわち「なぜ?」と問い続ける思考態度である。「なぜ、は必要ない。どのように、だけでよい」という人たちに反論して、歴史家は常に「なぜ?」を問い続けなければならない、とカーは主張したが、それはSFとも共通しているといえよう。

SFにおいて、歴史は改変できるのか、ということは大きなテーマとなっている(それは、歴史小説的な仮想戦記ものよりも強く意識されているように思う)。その結果、「歴史には自己修正能力がある」という設定が好まれているのではないだろうか。

有名な作品で言えば、典型的なのが半村良の『戦国自衛隊』である。

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戦国時代に自衛隊が紛れ込んでしまった。それだけで歴史は変わってしまう――はずである。しかし、本来の歴史に戻そうという大きな力に、自衛官たちは逆らえなくなってしまう。そして、結局、後世に伝わる歴史に対してつじつま合わせが行なわれる。

もちろん、それは作品執筆上の技術的問題もあるかもしれない。いかに改変された過去を元通りに修復していくかというところは、物語の見せ場となりうる。しかし、ただそれだけではないだろう。歴史というものは、「偶然の積み重ね」ではなく、「歴史的必然の積み重ね」でできているのだ、という思想が背景にあるのだと思われる。もちろん、SF的に、歴史が自己修復する「力」というものを過大に描いてはいるが、「クレオパトラの鼻」や「アレクサンドロス1世を死なせたサルの一噛み」のような偶然は歴史の重要事項ではない、ということは認識されているのだと思われる。なぜなら、歴史が偶然のみでできあがっているのであれば、歴史にはどのような進路も可能なはずだからだ。半村良だけでなく、それを受け継いだ福井晴敏も同様な思想に基づいて描いているが、『戦国自衛隊1549』の方では「歴史を改変させないという人間の意志」が強調されている部分もある。

同様のテーマでおすすめしたいのが、マイクル・ムアコックの初期の作品である。イエスの存在を確かめに過去に行ったダメ男が主人公である。

この人を見よ (ハヤカワ文庫 SF 444)
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発売日:1981-08
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コミックでは、かわぐちかいじの「ジパング」が「過去を改変できるか否か」をテーマに扱っている。この作品では、戦国自衛隊1549と同様、過去の改変を人間自身が防ごうとする要素も含まれている。

ジパング (1)
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かなり話がそれた。タイムマシンが実用化されておらず、タイムスリップ現象も現実には確認できないから、「歴史は改変できるのか否か」という命題自体が事実に基づくものとはなりえないが、「歴史は偶然ではなく必然の積み重ねである」あるいは「偶然の影響力は極めて小さい」という見方が、歴史学とSFに共通して見られるように思われる。

補論:決定論は呪術なのか

というブログ記事において、「呪術の支配する世界では、偶然などというものは存在」しないと記されていた。また、「「たまたま」「ぐうぜん」「うんがよい・わるい」というコトバは、呪術思考の辞書には」ないとも書かれている。

この記事において批判されている本質自体について異論があるわけではないのだが、「呪術=決定論」(あるいは逆に「偶然を否定したら呪術」)というようにも受け取れる表現はどうだろうかと思って、このページへのブックマークコメントに「呪術思考についてのとらえかたが偏っている(偶然はないという考え方は、必ずしも弱者排斥に結びつかない)。」と記した。コメント文字数が少ないため、意を尽くせなかったので、ここで補記する。

偶然の否定(いわゆる決定論、条件付きのものも含む)は、科学的態度として正しい。何もかも偶然であると言ってしまったら、自然界の法則など発見できようはずもない。たまたま今日は雨だったのではなく、低気圧と高気圧の境目に前線ができ、そこに雨雲が発生したから、と考えることは、まさに科学的態度だろう。

量子力学の不確定性理論が確認されたことから、完全な決定論は否定されたと言ってもいいのかもしれないが、日常の認識レベル(量子力学レベルではなく、ニュートン力学レベル)においてはやはり因果律は成立しているといえる。そして、自然現象などについて偶然以外の原因を求めることは、科学的態度として正しいはずである。

では、呪術と科学を分けるものは何か。それは、実際に確認できる理由付けがあるのかどうかということになろう。つまり、原因を偶然以外に求めるのはいいのだが、その求めた原因が自然科学の法則にのっとっているか、そうではなく飛躍した原因に求めているかということだ。フレイザーの分類によれば「類感呪術」や「感染呪術」があるが、ものごとの原因をこういった法則に求めるか、そうではない「科学的」法則に原因を求めるかの違いである。

上記記事においては、「派遣村に行っているような奴ら」に対して、「それらの境遇を本人のせいにすること」を「呪術的」と呼び、「被抑圧者・被差別者などに対して「きたない」「ずるい」「能力がひくい」「やるきがない」というレッテル貼りをする」と説明している。「そして、差別する側は、自分たちが差別されていないという偶然から、自分たちは「清く正しく美しい」という結論を引き出すことができるのです」とも書かれている。

後半部分、「差別する側」が「清く正しく美しい」という結論を引き出している、という点については、実態として共感する。中には「悪(と自分が名付けたもの)」を叩くことで「正義の味方」にお手軽になれると思いこんでいるような人たちもいる。しかし、それは「呪術的思考」の結果なのだろうか。

いや、(呪術という言葉の定義にもよるが)そうではないだろう。本人の原因、本人以外の原因(社会的な状況など、本人の努力ではどうしようもない部分、あるいは本人の原因を生み出した原因)などいろいろ考えられるが、それを十分に検証できていないことが、このような差別感を生み出す第一の理由であろう。本人の原因もあれば、そうでない原因もある。多数ある条件の全体を見通していない。カーによれば、そのような態度は歴史を研究する者にとってまったくふさわしくないというのだが、こういう時事的な問題の分析でも同じことがいえるだろう。

「本人が悪い。おわり」というのは、極端なリバタリアン的な短絡的な「原因の指定」である。一方で「資本家が悪い。自民党政府が悪い。おわり」というのは、極端な日本共産党的・社民党的な短絡的な「原因の指定」である。どちらの原因も(そしてそれ以外の原因も)あるはずだ。そして、その多くの原因の中から、重要な原因を探せ――というのが、カーの指摘に基づいた「原因の分析方法」ということになると思う。

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2009年1月19日19:44| 記事内容分類:歴史学| by 松永英明
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