「タイガーマスク運動(伊達直人現象)」の限界を超えるために

2010年12月25日、前橋市の群馬県中央児童相談所に「伊達直人」を名乗る人物からランドセルが届けられたことをきっかけに、特に2010年1月4日以降、伊達直人/タイガーマスクその他の匿名で児童福祉施設に様々な寄贈が行なわれた。この動きは「タイガーマスク運動」「タイガーマスク現象」などとも呼ばれる。1月末の現在、報道は下火となっているが、おそらくこれは「何か人のためになることをしたい」と多くの人が願っていることの表われであると肯定的に受け止めたい。

この「好意」をよりよい形にしていくために、いろいろと考えてきたことをまとめてみたい。

※なお、アフィリエイト関連で仲良くさせていただいているあびるさんが「お願いタイガー! - 福祉施設への寄付マッチングサイト」というサイトを開設した。興味深い試みだと思うので同時に紹介させていただく。

2011年1月26日21:01| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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タイガーマスク運動のよいところ

タイガーマスク運動は、「児童福祉施設」への寄付を匿名で行なうというものである。匿名である以上、それは「売名」のためではあり得ない。直接的に感謝されることや見返りを受け取ることを想定していない点において、それはかなり純粋な慈善行為といえる(自己満足の問題については後述する)。

そして、児童福祉施設というのは基本的に厳しい財政状況にある。したがって、この慈善行為は困っている人たち(児童)への助けとなっている。困っている人に対して役に立つ慈善行為を行なうことは、非常によいことだ。

つまり、

  1. 見返りを求めない純粋な好意による
  2. 困っている人に対して役に立つ内容である

という二点において、この運動は歓迎できると思う。私自身はこういう「見返りを求めずに困っている人を助けること」を究極の目的として生きることが最高に価値のある生き方だと思っているので、そこまで大げさにいわずとも「何か役に立てそうだから寄付をしたい」という気持ちを持つ人が多いことを嬉しいと思う。

(某宗教政党は選挙演説で「自分たちが汗水垂らして働いて稼いだ金を、働いていない連中にばらまかれるのは許せない」と主張していたが、私は、自分が汗水垂らして働いて稼いだ金が生活に困っている人の足しになるのなら、それこそ嬉しいことだと考えている。)

タイガーマスク運動の限界

一方で、この運動についてあえて問題点/限界を考えてみたい。

まずは「ランドセル」の問題。ランドセルの寄贈は確かに効果が大きい。というのもランドセルは単価が高いので、それを寄贈してもらえれば浮いた予算で別のものが買える(新一年生のみならず他の年齢の子供たちにもメリットがある)ということにはなる。

しかし、皮肉なことだが、タイガーマスク運動のニュースの直後のCMで「ランドセルは選びたいなぁ!」と流れたときにはさすがにぶっ飛んだ。好意だから無にはできないのだが、ランドセルを選べない子供たちに「もらえるだけマシ」と言うのはつらいところだ。

これは「本当に必要なもの」を考えるべきだということである。実際、タイガーマスク運動もしばらくすると、施設に「寄付をしたいがどういうものがよいか」を尋ねる電話があったり、あるいは何でも買える現金や商品券が送られてくる例も増えてきたようだ。これは施設側にとってもありがたいことだろう。

これはたとえば地震などの被災地でも同様で、「現地で実際に不足しているものを、現地ボランティアなどに確認した上で送る」というのがベスト、次いで「必要なものが何でも買える現金類」による寄付というのが「役立つ寄付」ということになる。もちろん、物品や金銭に余裕がない場合にせめて「励ましの声」を届けるというのもありだが、ただ現地でどう受け取られるかは考えた上で行動しないと、「海外の被災地に千羽鶴を送って喜ばれなかった」というような結末になってしまう。千羽鶴を折った人たちの好意は疑えない。しかし、本当に役立つものは何だろうと考えるところまでやって初めて、好意が実を結ぶのである。

第二の問題点は、今回のタイガーマスク運動が主に「児童福祉施設」への好意という、限定された対象になってしまったことだ。もちろんその他の施設への寄付もあったが、多くは(伊達直人という人物名からもわかるように)孤児院(と昔呼ばれていたもの)への寄付に集中している。しかし、福祉施設への寄付といったときには、老人もいる。他の病気の人もいる。災害被災者もいる。あるいはホームレスもいる。さらに言えば、日本国外の孤児その他だっている。つまり、好意があまりにも限定された対象に絞られてしまったというのが、「タイガーマスク運動」の限界といえる(もちろん、今後の展開ではどうなるかわからないが)。

第三点はよい面も悪い面もあるのだが、個々の施設への直接の寄付となっていることである。もちろん、今回いろいろと寄付する先を調べた人も多いだろう。そして、その中でこの施設に寄付しようと思い至ったことだろう。そして、中間を挟まずに送ることで確実に相手に渡りやすいというメリットも大きい。しかし、「たまたま誰にも寄付してもらえなかった児童福祉施設」は、「運が悪かった」で済ませてよいのだろうか。発信力がある施設、わかりやすい施設に好意が集中するとすれば、それは問題があろう。

あしなが育英会とワールドビジョン

タイガーマスク運動的に実際に寄付したい施設がすでに心に決まっているのであれば、私は止めるつもりはないし、むしろ自分に負担にならない範囲で気持ちよく寄付をすることをおすすめする。

しかし、遺児のために寄付したいという気持ちはあるけれども、具体的にどうしたら役に立てるのか、まだよくわかっていないという人のために、二つの寄付先を提案したい。それは、「あしなが育英会」と「ワールド・ビジョン」である。ある特定の施設への寄付ではないが、それだけに逆に必要としている子供たちに直結する形で届けることができるし、無理のない範囲で継続的に続けることもできる。

あしなが育英会への寄付は、病気・災害・自死などで親を亡くした子どもたちの進学のための奨学金を支援するものである。金額も期間も自由に設定できる。

NPO法人ワールド・ビジョン・ジャパンは、世界の子供たちの環境を改善するためのプログラムへの寄付である(現金が子供たちに渡されるわけではない)。教育や職業訓練、地域のインフラ改善、医療施設整備など広い角度から支援するプログラムとなっている。毎月4,500円だが、チャイルドとの手紙のやりとりなどもあり、精神的な支えにもなる。

これらの団体への寄付は、最も有益な方法で使っていただけるだろうと思っている。

そしてこれはオマケなのだが、これらの寄付は国税庁から税金の寄付金控除の対象として認められている(寄付額全額ではないし上限もあるが)。ちょっと素直ではない考え方だが、「こんな政府に国税を払うのはいやだ。その分、困っている子供たちの支援をしたい」という人は、こういった団体への寄付を考えてもよいだろう(上記2団体はいずれも寄付金控除可。他の団体については各自調べてください)。

今回はタイガーマスク運動に興味を持った人のための紹介として、同様の子供たちへの支援団体を挙げたが、もちろん他にも寄付すべき団体は多くある。

おねがいタイガー

あびるさんが開設した「お願いタイガー! - 福祉施設への寄付マッチングサイト」も素晴らしいコンセプトだと思う。開設されたばかりであるが、必要としている施設に対して必要としているものを届けることができるという仕組みは素晴らしい。興味のある方はぜひ参加してみていただきたい。

そして、現在は児童福祉/老人福祉関連であるが、他の分野にも広がればと思う。

「やらぬ善よりやる偽善」という言葉はおかしい

さて、最後にこういう話題で必ず出てくる言葉「やらぬ善より、やる偽善」について少し触れておきたい。

これは2ちゃんねるでよく使われ(発祥も2ちゃんねると思われる)、「口先ばっかりで何もやらないより、自己満足だろうと何だろうとやる方がよい」という意味合いで使われる。これはほとんどが「俺は募金なり行動なりをやった。やらない奴はいくらいいことを口先で言っていても批判する資格はない」というシチュエーションで使われている。

しかし、私は以前からこの言葉に疑問を持っていた。

本当の偽善ならやらない方がまし

まず、偽善という言葉なのだが、辞書的には「本心からでなく、うわべをつくろってする善行」(岩波国語辞典)ということになる。つまり、形だけの善行である。言い換えれば、相手への思いやりが動機ではなく、たとえば宣伝目的だとか、売名行為として「こんな善をやりました!」と見せびらかすようなのが「偽善」ということだ。阪神大震災のときに現地で救援活動を行なった模様を後日カラー写真集にして書店に並べた団体もあるが、そういうのは偽善といわれても仕方ないだろう。

しかし、ここまでの偽善であれば、その善行を受ける側も嬉しいかどうかは疑問である。いや、「私のなんて偽善です」と偽悪ぶって(つまり謙遜して)言う分には悪い気もしないだろうが、「俺は目立ちたいから寄付した」「何もやらない奴をバカにしたいから参加した」という気持ちでやられてもかえって迷惑ということもあろう。そんな偽善は「やらない方がまし」である。

あるいは、この言葉が「口先ばかり」の人を非難するための口実として使われるのであれば、そこには「寄付や援助を受ける人」への暖かい視線はすでに失われてしまっている。そんなものは偽善ですらない。単なる攻撃材料でしかない。

思いのこもった100円と、「しない善よりする偽善!」と言い放って投げつけられた100万円、どちらが尊いか。私は当然前者だと信じる。

自己満足への自戒なら○

ただ、この言葉を「いやあ、どうしたって自己満足になってしまうから」という謙遜の思いで使っている人もいるようである。「自分がやる善行というのは、結局は利他心というより自己満足の部分が大きいから、本当の善行じゃないんじゃないか」という疑問を持っているがゆえに「私がやってるのは偽善でしかないですよ。でもやらないよりはいいかと思って」という気持ちだというのであれば、私はそれこそ本当に素晴らしい善だと思う。

というのは、常に自分の善行が本当に善行なのかどうかということを見つめ続けているからである。そういう自己満足を感じてしまう自分を知った上で、それでもやはり善行をやりたい、という気持ちは大切にしてよいはずだ。

この言葉が他人に向けられるのではなく、あくまでも自分自身に対して「自分は本当にそれを心からの利他心でやってるだろうか? そこに自己満足はあるんだろ? でもできるだけ自己満足より利他心を強めるような気持ちで、実際に善行をやるのはよいことだ」と自戒および奮起のための思考にすべきである。

その視点に立つとき、他の人がやっていようとやっていまいと、どうでもいいはずだ。「やらぬ善より」という比較あるいは批判的な意識は、そのとき頭から抜け落ちて行くはずである。

「やらぬ善」は本当に悪か

最後に「やらぬ善」について。善行をやろうと思っても、なかなかやれない場合もある。いや、そちらの方が多いかもしれない。しかし、「チャンスがあればぜひやりたい」と思い続けることは、私は悪だと思わない。むしろ、それこそ善行に踏み出すきっかけとして必要なことだと思う。

今回の「タイガーマスク運動」だって、最初の一人は別として模倣者が続出したというのは、「何か善行をやりたい」という気持ちを育ててきた人が「そうか、こういう方法があるんだ」と知ったために続々と行動したということである。つまり、今まで「善行をやりたい」という気持ちをはぐくんできたわけだ。やらないながらもよいことをしたいという気持ちを大切にしてきたからこそ、チャンスが来たときに行動に出られたのだ。

ということは、それまで「やっていなかった」こと自体は、決して責められるべきではないし、むしろ「やらぬ善は何の価値もない」と思ってやる気が失せたりするなら残念すぎる。今は実際に力になれなくても、せめて思いだけでも馳せる。それこそが大事なことではないか。そうすれば自分にできることが見つかることもあるだろう。

  • 寄付や善行などやりたくない、自分の稼いだ金や自分の時間は自分のもの:論外。
  • 寄付や善行を俺はやったぞ。あいつはやってないから文句は言わせない:そんな意識でやるならやらない方がマシ。
  • 寄付や善行をまだやってないがやれればいいなあ:その気持ちを育てれば、いつか行動につながる。
  • 寄付や善行をやってみた!俺偉い!どや!:そのうれしさを、自己満足から「相手の役に立った」という純粋な喜びに変えていけるならすばらしい。しかしそのままだったら残念。
  • 寄付や善行をやってみたが、まだまだ自己満足だなあ:その謙虚さは素晴らしい。引き続き考えながら行動を。

普通の人であれば、自己満足的な要素を完全にゼロにした状態というのは無理だと思う。だがそれは自覚しつつも、「困っている人たちが必要とするものを必要とする形で届けられたらいいなあ」という気持ちが自分の中にあるのなら、それは抑えるべきではない。堂々とやればいい。それはすでに「偽善」ではないのだ。

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2011年1月26日21:01| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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コメント(3)

初めてコメントさせていただきます。
そしていつもコラムを楽しく拝見させていただいています。

『やらぬ善よりやる偽善』

は、『鋼の錬金術師』の中の一セリフが発祥です。
戦争が起きている場面で、
登場人物である医者が敵味方関係なく手当をしている時に言った言葉で、

敵なので手当をしない

それは『自分たち』=『味方』視点からすれば善行(というか行動)

でも敵であろうと人を救う行動を自分はしていく=やる偽善。
かつ、味方は救ってしまうとまた戦場に『行かされる』ので
治療しない方向性でいたい(と思っている)=やらない善。
でも自分は医者だから誰であろうと(以下略)

ということで、言葉そのものの意味と
善の対義語は偽善という、意味合いがごっちゃになった言葉なので
使ってる人間と状況を考えた上で使わないと
こんな意味合いになってしまうんだな…と思った次第です。
支離滅裂な文章ですみません。

「やらない善よりやる偽善」明確にこの言葉かは知らないが、昔から言われてますよね。確かに仰ることも分かるのですが、偽善の意味合いが軽い気がします。日本人の特色かもしれませんが、隠れた善行を美徳とする風潮にあります。表立って行動することは偽善であるとか自己満足だから偽善だとか。でも本当は偽善かどうかの判定ってそこまで厳しい物ではなく、ある程度明確な利益の為なハズですよね。それこそ選挙前とか・・・。それをいい人と思われたいとか、目立ちたいとか、そんな事を偽善としてしまうと、萎縮して本心からの善行に、偽善と思われたら困ると要らぬ躊躇が生まれてきたりはしないだろうか。そういうときに「やらない善よりやる偽善」となるのだと思う。隠れた善行が美徳と言いますが、実は間違っていると言う話もある。身近に寄付やボランティアをする人が居たとする。当然のようにしてれば、じゃあ自分もと思う人が出てきます。でも隠れてしてるとそうはならない。隠れてしてるとずっと1人分の善行に過ぎない。もちろんそれが悪いわけではないが広がりが出るほうがいいはず。それこそ広がりを阻害してるのは隠れた美徳と言う世の風潮そのものである。だから偽善を恐れず行動することが大事だと思う。

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