東日本大震災は「電気文明」と「高層緑化型都市計画」が見直される時代の始まり

少々スパンの長い話をしたい。東日本大震災は「電気文明」と「高層&緑化を主眼とした都市計画」を見直す時代のきっかけになると考えている。つまり、20世紀文明の再検討だ。

ただし、誤解してほしくないが、私が「電気文明の見直し」というとき、単純な「昔に戻れ」とか「電気を捨てろ」とか「自然との共生が云々」ということを言いたいのではない。たとえば「さすがにオール電化だと停電時に身動き取れないから代替手段が必要だよね」ということから始まって、電気でなくてもよいことも電気に頼ろうとしている今の文明を問い直すことになるのではないか、ということだ。

また、これより規模は小さいものの、「建物を高層化して空いたスペースを緑化することで防災にもなる」という建築・都市計画思想についても、災害時の根本的な脆弱性が露呈した。これは建物自体の耐震性がいくら大きくなろうとも、「高さ」自体が脆弱性となるという問題点である。

もちろん大震災でいろいろなものが見直されることになるとは思うが、現時点でわたしが特に思うことをまとめておきたい。

2011年4月15日15:13| 記事内容分類:日本時事ネタ| by 松永英明
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タグ:大震災, 文明論|
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電気文明一辺倒(オール電化)の危険性

首都圏では地震・津波そのものの被害はさほどなかったものの、その後の計画停電の混乱にもみられるとおり、電力不足が社会に大きな混乱をもたらした。

その状況を踏まえて考えれば、今回の大震災は、現代社会がいかに「電気文明」であるかを露呈したともいえる。発電機能が停止したら日本も停止する。電線コードがついていて、抜けたら活動停止(もしくは暴走)に至るエヴァンゲリオンのように、コード付きの社会だ。

わたしたちは20世紀以来、社会を電気化してきた。1990年代ごろからは情報の電子化もそれに伴って加速した。銀座でガス灯がアーク灯になったのは明治15年だが、日本全体が電化されていったのは20世紀も後半のことである。高度成長期を境に炊飯も冷蔵も洗濯も風呂も電化され、現在ではIH調理器など「オール電化」が持てはやされてきた。自動車も電気自動車による明るい未来が想定されてきた。2010年は「電子書籍元年」と言われ、紙の本が将来的に激減する未来図も描かれてきた。

ところが、この震災を機に、わたしたちは「あって当たり前」だと思っていた電力が実は「当たり前ではなかった」ということにようやく気づいた。オール電化を採用したばかりだった人が震災後大いに悔やんでいる人の話も聞いた。紙の本も、工場が被災したり、電力や材料調達の問題で製造が困難になっているが、停電したり電波が届かなくなった地域ではそもそも電子書籍も閲覧不可能である。

もちろん、電気を捨てるわけにはいかない。昭和に戻れとか自然との共生とかいう人たちもいるが、実際のところそこまで戻ることは現代人には無理だ。だが、「電気でなくてもいいもの」も全部電化しようとすることは、脆弱性を生み出すのではないか。

「電気でしかできない」とういのは、電気がなければアウトである。「電気でもできるが、他の方法も用意されている」という「冗長性」あるいは代替手段が必要だということに、今改めて気づいたように思う。

繰り返すが、電気をやめろとは一言も言ってない。電気に依存しすぎ、電気以外で済むものも電気になっていることへの問い直しが絶対必要だ、ということだ。オール電化の時代は3・11をきっかけに「終わりの始まり」へと一歩踏み込んだのだ。

電力不足という状況の中で

今までの生活をそのまま続けていれば電力が絶対的に足りない。それは計画停電の中で絶対的な条件として突きつけられた。では、どう対応することができるのか。それはもちろんいろいろな考え方がある。

  • 電力会社による供給電力量を増やす
    • 原発を維持する(現状では脱原発は避けられない流れ)
    • 原発以外の従来の方法で発電可能な電力を増やす(火力・水力増強)
    • 代替的発電方法へシフトする(太陽光、風力、地熱、潮力など)
    • スマートグリッド構想
    • マグネシウム発電構想(マグネシウム蒸気タービン)
  • 企業・家庭で電力会社の供給によらない発電を増やす
    • 企業における自家発電システムの強化
    • 太陽光やガスによるマイホーム発電(ただし一般的に節電用なので、現状では停電時の代替にはならない)
  • 必要とする電力量の削減
    • 節電
    • 蓄電によって電力消費のピークを下げる
    • 電力消費の少ないエコ家電の開発
    • 電力である必要のないものを電力以外へ転換する

つまり、「電力供給を何らかの方法でシフトする」か、「必要電力を減らす」か、あるいはその両方を実施しなければ「夏には大停電」という状況に追い込まれているわけである。

その中で、火力・水力にしろ、風力や地熱などにしろ、発電所や発電施設を新たに作るには時間もかかる。犬吠埼沖の海上50キロで漁業や生態系を無視して風力発電所施設を作れば、理論的には東京電力の電力をすべてまかなえるという論文もあるが、同論文では、現実的な数値としてはやはり小さくなることが示されている。CO2を考えれば火力も難しいし、「放射線よりまし」ということでダムに戻るというのも問題である。

個々のユーザーが発電するにも現状では限界が大きい。マグネシウム発電が現実化すれば、海水から燃料が生み出せるために非常に期待が持てるというが、それ以上に電力需要量が増えれば終わりである。

とすれば、やはり電力量を削減すること、「脱電力」の動きがどうしても必要が出てくる。もちろんこれは「廃電」ではない。いくらロハスだと言ってもいきなり縄文時代の生活に戻るわけにはいかない(縄文=ロハスという思考についてわたしは根本的に疑問を持っているが、それは別稿にて)。あるいは昭和三十年代を理想化しすぎるのもおかしい。しかし、2010年の暮らし方の延長で今後も生きていけるわけではないというのは確かなことである。

具体的な「脱電力」

たとえば自動車である。わたしは震災前は単純に電気自動車化すればいいんじゃないのと思っていた。震災によって、電気そのものの脆弱性を見て、完全に電気自動車にしてしまうのであれば脆弱であると感じた。しかし、ガソリンが配給されなくて車が動かなかったのも事実。また、電力消費量の少ない間に充電して昼間に走るなら充電池としてとらえることもでき、その意味では節電に貢献できる要素もあると思われる。

とすれば、自動車に関しては電気自動車一辺倒ではなく、電力とガソリンのハイブリッドの方向性で進めるのが望ましく、一方で自転車や公共交通機関メインにシフトすることも大いに検討すべきだろう。

風呂や調理をなぜ電力で行なわなければならないのか。暖房も電気でなければならない理由はない。オール電化はもはや選択肢としてはありえないだろう。たとえ部分部分はエコに見えても、総合すると必要な電力が増えているという皮肉な存在でもある。

もっとも、停電になるとガスもほとんど使えなくなるものが多いので、今後は「停電時の代替システム」が極めて重要になってくると思われる。

そして何より今回の状況は、わたしたちの文明がいかに「電力」に依存しているかということを改めて見つめ直すよい契機になるのではないだろうか。

高層&緑化を主眼とした都市計画の脆弱性

20世紀の建築に革命をもたらしたル・コルビュジエの思想の影響を受けて、日本でも森ビルをはじめとして「建物を高層化することで地面に緑地を生み出す。これが防災上も望ましい理想的な建築・都市計画だ」という思想が根強く存在している。これは「土地の有効活用」というマジックワードや「コンパクトシティ」といった構想とセットになり、また都市再開発における事業費捻出の事情ともあいまって、「防災を考えて高層ビル化する再開発をする」というのがどの都市でも無条件に採用されている。

そして、現在は耐震性も高まっており、建築中のあのスカイツリーでさえ何の被害も受けていない(東京タワーはてっぺんのアンテナが曲がったが)。

しかし、今回の大震災で高層・超高層住宅の意外な脆弱性が見つかった。建物は倒れないかもしれない。しかし、「高い」ということが理由で帰宅難民が発生したのだ。

わたしの知っているある社長は都内の高層住宅に住んでおり、およそ40階のところに自宅を購入したところだった。ところが大震災の日に停電でエレベーターが動かず、建物の下までは帰り着いたものの自宅まで昇れなくなってしまったのだ。40階まで階段を歩くことを断念して、その日は外で泊まったという。

別の人は渋谷で2時間以上エレベーターに閉じ込められたという。その間携帯もつながらず、2時間後に脱出してようやく震災があったことを知ったという。

高層建築においては、「高さ」そのものが脆弱性と考えられるのではないだろうか。液状化などのことも考えれば、わたしはたとえば豊洲あたりの高層住宅など決して住みたくないと思う。

今後、日本は数十年以内に確実に少子高齢化で人口半減時代を迎える。むしろ土地は余る時代がやってくる。そのときに老人となっている我々自身のことを考えても、高層よりも低層の方がずっと適しているということになるだろう。コンパクトシティ構想においても、中心街に住居を集めるとしても高層化の必要性はなくなっていく。

防災対策としても、個々の建物の耐震・防火性能を高めてあれば、必ずしも道を広くしていく必要もない。

ル・コルビュジエ以来の20世紀型の高層化崇拝建築思想は、この大震災をきっかけに見直されることになろう。

見直される20世紀

今回の大震災は、「電力」という20世紀型文明の根幹にかかわるものの脆弱性が浮き彫りになり、それによって我々がいかに電気に依存しすぎていたかということを明らかにした。まずはその事実を見つめることである。そして、被災地が復興していく中で、被災地以外においても新たな方向性を見つけていくよう迫られているのである。

この文章自体、PCで書き、ネットで公開している。すなわち、電気文明の恩恵を受けている。そのことを充分に認識した上で、脱電力(不要な電化の排除による冗長性の確保)に向かって行きたい。

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