「図書館」と一致するもの
バレンタインデーの起源と歴史
バレンタインデーの起源について、以前やっていたサイトのために書いた記事データが見つかった。読み返してみると、多少宗教性を除くように修正すれば使えそうなので、今回、ここに新版で公開することにした。
極私的百科「閾ペディアことのは」のための「ことのは十進分類法」
ふと思いついて、自分のための極私的百科「閾ペディアことのは」を作ってみた、という話は前回の続き。これはWikiPedia(ウィキペディア)と同じく「MediaWiki」というWikiツールを使っている。そのため、見かけというか操作などはほとんど同じ。ただ、自分の好みの記事をガンガン登録できるという仕組みである。
ブログだとある程度その時点で固まった内容であることが多いが、ウィキならいつでも編集可能。そういう意味で両方あれば便利である。
ところで、MediaWikiが使いやすい理由として、カテゴリ分けが非常に柔軟に使えることが挙げられる。あとでいくらでも変更できるし、どれだけ深い階層でも何とかなる。この点、一応カテゴリ階層化もできるが、その分タイトルがどんどん長くなってしまうPukiWikiなどよりずっと使いやすい。つまり、カテゴリによる整理をしようと思ったら(知る限り、現状)MediaWikiが最適ということである。
ところが、このカテゴリ分けをどうするかでふと悩んだ。ウィキペディアの分類はあまり整理されていない。そこでいろいろと考えてみたのだった。
「集合知」ウィキペディアの限界と可能性(Wikipediaの役割について)
先日、自前のウィキ百科サイト「閾ペディアことのは」を立ち上げてみた。これは、Wikipedia(ウィキペディア)と同じくMediaWikiで作られた極私的百科である。「集合知」の典型ともされるウィキペディアに対して、自分のは当然「個人のまとめ」であって、その性質は自ずから違ってくるのは当然であり、そのどちらがいいとか悪いではなく、それぞれに役割と得手不得手が出てくることになる。
さて、ウィキペディアの運営方針をもとにして、それを少しもじるつもりで自分の運営方針を書き始めてみたところ、どういうわけか完全に逆転してしまった。そこで、改めてウィキペディアというものの存在と性質を考えてみようと思った。
近代サンタクロースの生みの親はブッシュ大統領のご先祖様だった
クリスマスシリーズ第3弾は、近代サンタクロースのもとになった「聖ニコラスの訪問記」という詩の作者が、ムーアではなくリヴィングストンだったという話をさらに突っ込んでみる。アメリカでは定着しつつあるようだが、日本では話題にもならず。大体、その詩も「赤鼻のトナカイ」ほど有名じゃないし、作者名なんかもっと有名じゃないから仕方ないかもしれない。ただ、ウェブ上では岩波新書の葛野浩昭著『サンタクロースの大旅行』(98年刊)の孫引きばかりで、現時点では間違った(あるいは古い)記述になってしまっているので、その点は正しておきたい。
反射区理論(リフレクソロジー、ゾーンセラピー)の起源を探る(1)中国起源説はウソ
最近、座骨神経や大腿神経に痛みが走っていてブログ更新どころか仕事にも困るくらいだったのだが、そうなると街中の「マッサージ」とか「鍼灸」といった文字に目が行ってしまう。
そんななかで、最近目立つようになったのが「英国式リフレクソロジー」など足裏系の「反射区」療法である。「反射区」というのは、足の裏とか手のひらとか(実は他に耳というパターンもある)の「この部分は心臓に対応」とか、「この部分は胃に対応」といったように、それぞれの部分を刺激すれば体の別の部分に効果をもたらすという考え方だ。
ところが、よく勘違いされていたりするのだが、これは伝統的な経絡・ツボ・鍼灸(はり・きゅう)の理論とはまったく違う。全身のエネルギーの経路である経絡と、その要所要所にあたるツボは、足の裏のゾーンとつながっていない。
そもそも、足の裏にツボは「湧泉」一つしかないのだ。
というところまでは前からわかっていたのだが、じゃあその反射区理論はどこから生まれてきたのか。それを改めて調べてみようと思った。
民主党は、ある程度の大きさの政府を目指す――前原誠司代表と「民主党 ブロガーと前原代表との懇談会」レポート
10月31日、永田町の民主党本部で開かれた「民主党 ブロガーと前原代表との懇談会」に参加してきた。これは、GripBlogの泉あいさんの主導で開かれたもの。政治音痴の自分は個別の項目でつっこむだけの知識も見解もないし、また「支持政党なし」の立場なのだが、「要するに、民主党って何のためにあるの?何を目指してるの?」ということが知りたくて、末席に加えていただいた。
時間的には満足できない部分もあり、聞きたいことがすべて聞けたわけではないが、前原誠司代表、松本剛明政調会長をはじめとする方々から直接「民主党の基本理念」というものを聞けたように思う。
あのころインターネットはアングラだった。ばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』の感想と裏話
いよいよ待望の本が出る。日本のインターネットの歴史を、ネット内に漂う視点からまとめあげた初の、そして決定版ともいえる書籍――『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』だ。
ばるぼらという人は、常に時代の半周先を走っていて、しかも半周後ろをついていく我々の記録を記録し続ける人だという印象がある。時代がばるぼらに追いついたときには、彼はもう飽きてしまっていて、さっさと次のもので遊んでいる。たとえば、今の通称名「ばるぼら」のもとになった「ばるぼらアンテナ」は今のishinaoさんのblogmapやはてなダイアリーの「注目URL」を先取りするものだった。
単に後ろを向いている歴史家ではない。自分自身が「これから来るもの」を先取りしておき、みんなが追いついてきたらそれを記録する。しかも自分自身の痕跡は歴史から消しておこうとする((MOKでのばるぼら発言「前の代のログは引き継がない!」(笑)))。実際はニッポンのインターネットの歴史はばるぼらに操られているのではないかとさえも妄想したくなる。
そんな大著の感想とか裏話とか。
ブログという「対等な立場のコミュニティ」に上下関係はそぐわない
Proving grounds of the mad Internetというブログのmakiさんからいくつかのトラックバックがあった。主に木村剛関連で書いた記事へのトラックバックである。ただ、makiさんの議論はプログラマー的で一見論理的に見えるものだが、整理の仕方に違和感を感じる部分があり、また、わたしが「木村剛が嫌い」だから叩いているかのような誤解があるようなので、反論をしておこう。「ゴーログがよくない」のではなく、「ゴーログの思想が変」と言ってるのである。
著作権については別記事を書いている途中なので、「Proving grounds of the mad Internet: セマンティック・ウェブの失敗とブログ司会者の必要性」の後半、ブログにおける「司会者」について、まずまとめておきたい。