人種
人種とは、人類をいくつかのグループに分ける考え方で、遺伝的な形質・知能・性質を有する種類として分類するものである。現在、人種という概念には何の科学的根拠もない虚構であることが判明している。人種という概念そのものが疑似科学、迷信、幻想の産物である。
目次
否定される「人種」概念
現在の人類学においては、現生人類はすべてアフリカに起源を有する同一種であるとされており、多地域進化説は否定されている。また、これまで人種間の違いとされてきたものも、明確な境界線を引けるものではなく、なだらかに勾配をなしている。これらにより、「人種」概念には何の科学的根拠もなく、いたずらに差別を生み出す考え方であるといえる。
「人種」概念の歴史
「人種」前史
肌の色を、固定した性質・資質・能力と結びつける人種観は、16世紀ごろにヨーロッパに現われた。大航海時代に「発見」されたオセアニアや新大陸の住人を、自分たちとは違う「種」であると考える傾向が生まれたのである。
17世紀、医師ベルニエ(François Bernier)は初期の人種分類を行なった。ベルニエは北アフリカからインドを歴訪し、ヨーロッパ人、極東人、黒色人、ラップ人(サーミ)という4つの型(type)に分類した。
18世紀:「人種」の誕生
18世紀、植物分類で知られるリンネ(Carl von Linne)は、人類を4タイプに分類した。
- ホモ・アメリカヌス:短期・頑固、慣習に縛られる。赤色の肌。アメリカ・インディアン。
- ホモ・アジアティクス:憂鬱・高慢・貪欲。黄ばんだ色の肌。アジア人。
- ホモ・アフリカヌス:ぞんざい・狡猾・怠け者・気まぐれ。色黒。アフリカ人。
- ホモ・エウペウス:快活・筋肉質・穏和・聡明・創意に富む。色白。ヨーロッパ人。
リンネはこの4タイプを固有亜種であると考えた。この4タイプは、現在の「人種」的な偏見のもととなった。
「人種(race)」という語を初めて使ったのは、18世紀の博物学者ビュフォン(Georges Buffon)である。ビュフォンは、ラップランド人、タタール人、南アジア人、ヨーロッパ人、エチオピア人、マレー人という地域分類を行なった。ただし、ビュフォンはこれらの違いを遺伝的なものではなく、気候・食べ物・土壌・地形といった環境的な要因によるものと考えた。
ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbacha)は、人類は一種としながらも五つの亜種を設けた。
- コーカシア(白色)
- モンゴリカ(黄色)
- エチオピカ(黒色)
- アメリカナ(赤色インディアン)
- マライカ(茶色)
この中でコーカサスが人類の原型であり、最も優れていて、肌の色が濃くなるほど退化し、最も退化しているのが黒人だと主張した。
この人種観を受け継いだのが福沢諭吉で、『掌中万国一覧』には以下のように書かれている。
人種には5種類あり、白哲人種(ヨーロッパ人種)、黄色人種(亜細亜人種)、赤色人種(アメリカ人種)、黒色人種(アフリカ人種)、茶色人種(諸島人種)である。
白哲人種
皮膚麗しく、毛髪細やかにして長く、頂骨太にして前額高く、容貌骨格都て美なり。其精神は聡明にして、文明の極度に達す可きの性あり。これを人種の最とす。欧羅巴一洲、亜細亜の西方、亜非利加の北方、及び亜米利加に居住する自哲(嘗)人はこの種類の人なり
黄色人種
皮膚の色、黄にして油の如く、毛髪長くして黒く直ぐにして剛し。頭の状、梢や四角にして、前額低く腰骨平らにして広く、鼻短く、目細く、且其外皆(まじり)斜に上れり、其人の性情、よく難苦に堪、勉励、事を為すと錐も、其才力、狭くして、事物の進歩、甚だ遅し。フヒンランド、ラブランド等の居民はこの種類の人なり
赤色人種
皮膚、赤色と茶色とを帯びて銅の如く、黒髪直くして長く、頂骨小にして、偲(演)骨高く、前額低く、口広く、眼光暗くして深く、鼻の状、尖り曲がりて鈎の如く、又鷲の塀の如し。体格長大にして強壮、性情険しくて闘いを好み、復櫛の念常に絶ゆることなし。南北亜米利加の土人は比種類の人なり。但しこの人種は、白哲(暫)の文明に赴くに従ひ次第に衰微し、人員日に減少すと云ふ
黒色人種
皮膚の色黒く、捲髪(ちぢれげ)羊毛を束(つか)ねたるが如く、頭の状細長く、恩(頬)骨高く、蔑骨突出し、前額低く、鼻平たく、眼大にして突出し、口大にして唇厚し。其身体強壮にして、活着に事をなすべと錐も、性質憐情にして開化進歩の味を知らず。亜非利加砂漠の南方に在る土民、及び売奴と為りて亜米利加-移住せる黒土等は、この種類の人なり
茶色人種
皮膚茶色にして渋の如く、黒髪粗にして長く、前額低くして広く、口大にして、鼻短く、皆は斜めに上がること黄色人種の如し。其性情猛烈、復櫛の念甚だ盛なり。太平洋、亜非利加の海岸に近き諸島、及びマラッカ等の土民は、この種類の人なり
19世紀:「科学」的人種観
19世紀に入ると、これらの人種観は「科学」的な裏付けを与えられていくようになる。
アガシ(Louis Agassiz)は、それぞれの人種が別々に発生した多祖発生(polygeny)であることを主張した。
パリ大学学長ジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier)は『動物界』で、ネグロイド・コーカソイド・モンゴロイドの三大分類法を主張した。
- モンゴロイド:領土を広げたが、文明の程度は低い
- ネグロイド:野蛮人の集団
- コーカソイド:世界の文明を支えてきた存在
モートン(Samuel George Morton)、ダーウィンのいとこゴルトン(Francis Galton)、ポール・ブロカ(Paul Broca)らは、脳容積が人種によって異なり、容積の大きい白人が優れているとする科学的レイシズムを唱えた。
特にゴルトンは「Nature-Nuture(遺伝か環境か)」という言葉を唱え、人の性質や資質は環境ではなく生まれつきによって作られると断定している。また、優生学という言葉を生み出したのもこの人物である。
20世紀前半:人種説の全盛
20世紀前半には優生学や人種差別・人種主義(レイシズム)が広まる。
ハーバード大学の心理学者ロバート・ヤーキス(Robert Yerkes)は、知能が集団的に遺伝すると考え、170万人のアメリカ人に対して非言語知能検査を実施した。その結果、成績が北欧系ヨーロッパ人、東・南欧系ヨーロッパ人、黒人の順であった。これは、白人が優れており黒人が劣っているという「科学的」証明とみなされることとなった。
これらの古典的人種観は、アパルトヘイトなどの人種差別政策を正当化するイデオロギーとして利用されていった。
20世紀後半:人種の否定
アシュレイ・モンターギュ(Ashley Montagu)は "Man's Most Dangerous Myth: The Fallacy of Race" という論文を発表し、人種は俗説であり似非科学的であることを主張した。
クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)はユネスコの依頼を受けて1952年に『人種と歴史』を表した。これによって、人種概念そのものが誤りであるという論文が発表される。
C・ローリング・ブレイスと瀬口典子の研究(竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う』)によれば、皮膚色などの身体的な特徴によって分類される集団間に、客観的・科学的な線を引くことができないことは明らかである。どの身体的特徴も境目のない連続的な変移(勾配=クライン)をなしており、人種を分けることは事実上不可能である。人種間に境界線を引けないということは、人種論が無効であるということになる。
さらに1990年代、ミトコンドリアDNA研究により、現生人類(ホモ・サピエンス)がおよそ20年前にアフリカに出現し、その後6万年前に全世界に広がっていった、ということが明らかとなった。これにより、それまでの多地域進化説は否定されることとなった。
すなわち、現生人類の差異はわずか数万年の間に生まれたものにすぎないのであり、わずか数万年前にはすべての人類が「アフリカ人」であったということである。
参考文献
- 本多俊和(スチュアート・ヘンリ)・棚橋訓・三尾裕子『人類の歴史・地球の現在 文化人類学へのいざない』放送大学 2007
- 内堀基光・本多俊和(スチュアート・ヘンリ)『文化人類学』放送大学 2008