女子十二楽坊資料館

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女子十二楽坊資料館(じょしじゅうにがくぼうしりょうかん)は、松永英明が開設した私設・非公式の女子十二楽坊ファンサイトである。

ここでは女子十二楽坊資料館の歴史、あわせて松永英明と女子十二楽坊の関わりについて記していく。

歴史

2003年

2003年7月24日、女子十二楽坊日本デビュー。この時点では管理人は女子十二楽坊の存在を知らない。

同年8月ごろ、ある掲示板(某巨大掲示板ではない)にて、女子十二楽坊の「自由」と「奇跡 (女子十二楽坊)」の試聴へのリンクが紹介されていた。この二曲を聴いた瞬間にハマり、何度も聞き返す。こうして女子十二楽坊に対する興味を持った。すでにデビューからしばらく経っていたが、大きな話題になっていたころである。それ以前、アジアン・ポップスでは中国娃娃(China Dolls)がツボにはまったことがあったが、個人的にそれ以来のヒットであった。

その後、女子十二楽坊について知りたいと考え、いろいろ検索などをしてみる。しかし、日本の公式サイト(当時プラティア・エンタテインメント)にはあまり詳細な情報は掲載されていなかった。そこで中国語検索で調べてみたところ、日本デビュー前の中国での活動時の情報がいくつか見つかった。その情報が日本公式サイトのものと少し食い違っている部分があったため、混乱する。

9月にブログ(「ウェブログ@ことのは」kotonoha.or.tv)を開設。そこでブログ記事のネタとして女子十二楽坊の話題は適切であろうと考えた。それは「あれほど人気があり、注目を集めているのに、ネット上には日本語情報が不足している」「中国語情報なら少しは存在している」という条件がそろっていたため、中国語情報を訳して提供すればアクセスを見込めると考えたのである。

10月1日、ブログにて「女子十二楽坊はじめました」という記事をアップ。同時に「女子十二楽坊は王菲を破り鄭麗君に匹敵する」「女子十二楽坊は米国に「照準」を合わせた」の二つのニュース記事を翻訳して紹介した。10月中に合わせて約10本の女子十二楽坊関連記事を公開。

10月29日、女子十二楽坊関連記事がまとまってきたので、独自サイトとして「女子十二楽坊資料館」(kotonoha.main.jp/12-girls-band/)を開設。当初は12人のプロフィールなど基本的な情報のみであった。ちなみに、サイト構築にはブログツールであるMovable Typeを使用し、ただしブログらしく見えないように構築していた。

11月3日、「土佐日記blog」開設。翌4日「やじうまWatch」で取り上げられ、アクセスが集中していた。5日、Yahoo!Japanに掲載される。そのアクセス急増中に女子十二楽坊資料館を更新したところ、サーバーへの負荷が高まったことを理由にレンタルサーバーCsideNetによってアカウントを停止される。ロリポップサーバーに移転。アドレスがkotonoha.main.jp/12-girls-band/に変更となる。

この後、女子十二楽坊資料館は少しずつ認知度を高めていく。

サイト構築にMovable Typeを利用していたため、通常のブログと同様、各ページにコメント欄がついていた。このため、閲覧者から「女子十二楽坊に関する掲示板サイト」と勘違いされ、コメント欄に大量の投稿がなされる。仕方がないので「掲示板」というページを作ってコメントを集めたが、これがあまりにも大量の投稿を受けたため、見づらくなっていった。ここには蒋瑾楊松梅が直接コメントするというハプニングもあった。

他に女子十二楽坊を専門に扱ったサイトはなかったため、「女子十二楽坊資料館」にファンが集まるようになり、ファンの交流サイトとして中心的な地位を占めるようになってしまった。この流れに関して、当初、プラティア・エンタテインメントの一部では「公式でもないのに一体誰がどういうつもりでこんなサイトを勝手にやっているのか?」と怒りの声もあったと聞く。しかし、やがてプラティア社員が資料として資料館の記事を印刷して利用するという逆転現象も起こり、認められるようになっていった。

12月26日、ブログコメント欄へのコメント集中を避けるため、「女子十二楽坊迷掲示板」を別途設置する(スクリプトはシンプル・イズ・ベストのPHP掲示板)。SMAP×SMAPの放映などもあり、掲示板は一挙に盛況に。12月31日の紅白放映時には実況状態となる。この紅白放映中に掲示板システムを一部修正作業を行なっていた。「サイトを楽に作るためのウェブログツール」「掲示板スクリプト、その理想を求めて」も参照。

2004年

前年末、女子十二楽坊関係者(シンホァーミュージック関係者)から連絡があり、会うことになった。そこで、サイトはあくまでも個人的趣味の範囲で開設しており、収益といってもせいぜいアマゾンアソシエイト程度であることなどを説明した。すると「人気グループなので利権に群がってくるような連中も多いのだが、そういう人ではないようなので安心した。もしそうだったら話をもちかけないつもりだった」と言われ、新しく設立される女子十二楽坊ファンクラブに取材などで協力してほしいという話をもちかけられた。ただし、その協力はあくまでもボランティアベースのものであった。

ここから、オフィシャル側への協力が始まり、「非公式だが公認」サイトとなっていく。

1月2日、女子十二楽坊の武道館コンサートがあり、このコンサートの取材ならびにライブレポート執筆が最初の協力となった。その後もいくつかの取材を行なう。

2月22日、掲示板スクリプト「三河版」のUTF-8対応改造が完成し、これまでの掲示板から「楽坊版」への移転を行なった。

4月1日、エイプリルフールネタとして「女子十二楽坊、映画化決定!」という記事を流したところ、ほとんどの人がネタだと気づかなかったので焦る。

4月、シンホァーミュージック運営による女子十二楽坊ファンクラブはいったん解散し、新たにプラティア・エンタテインメント運営による女子十二楽坊オフィシャルファンクラブ(OFC)が設立された。これにともない、プラティア・エンタテインメントのファンクラブにも協力することとなった。

女子十二楽坊初の日本全国ツアーにおいて、女子十二楽坊資料館の掲示板はファンの交流のための重要な役割を果たした。最終日(千秋楽)後には、掲示板を見て集まったファンの大オフ会が開かれた(が、管理人は参加できなかった)。

7月半ば、独自ドメイン「http://www.twelve-girls-band.info/ 」を取得、アドレスのみ移転。資料ページでのコメントは一切受け付けず、代わりに掲示板を利用してもらうこととする。

8月17日、女子十二楽坊全米デビューアルバム「Eastern Energy」が発売された。この曲目解説の原文を執筆(実際には英訳されたものが掲載された)。

2005年

4月1日、再びエイプリルフールネタとして「女子十二楽坊とR・クレイダーマン、スピルバーグ監督夢の共作!新アルバム「マルコ・ポーロ~Flying Energy~」詳細決定」という虚報を流す。ところが、これが一部のユーザーから冗談と受け取ってもらえず、何か違法なことをやったかのような投稿も出てきたため、全国ツアー最終日を控えていたこともあって、サイト自体を一時閉鎖した。この顛末はエイプリルフールに絡む騒動でサイト一時閉鎖というアクロバット的裏技を駆使した理由を参照。

9月、プラティア・エンタテインメントが独立し、ミューチャー・コミュニケーションズに改名。その後も引き続きファンクラブ等に協力する。

2006年

3月、管理人の身辺の騒動等により、資料館の管理が行き届かなくなる。

4月1日、エイプリルフールネタ「ゲーム「さくら大戦」最新作は女子十二楽坊とのコンビネーション」を公開。これが結果的に女子十二楽坊資料館最後の投稿となる。

4月、管理人入院につき、9月の退院まで管理不能となる。この間に管理人への誹謗中傷投稿がなされ、またミューチャー・コミュニケーションズにも悪質な虚偽の手紙が送られるなどの攻撃が行なわれる一方で、大量の英文spamによる被害が甚大で、掲示板が機能しなくなった。そのため、サイト自体が放置状態となる。なお、このときの虚偽投稿において、管理人が「女子十二楽坊の日本での宣伝担当」等と書かれていたが、そのような事実は(上記のとおり)まったく存在しない(日本と北米地区での宣伝担当はあくまでもミューチャー・コミュニケーションズである)。

ミューチャー・コミュニケーションズの業績悪化にともない、12月31日をもって女子十二楽坊オフィシャルファンクラブ運営休止。

2007年

3月1日、新たに女子十二楽坊公式ネットファンクラブが設立される。

7月20日、ミューチャー・コミュニケーションズが破産手続。

2008年

閾ペディアことのはに主要コンテンツをコピー。

2009年

1月、女子十二楽坊資料館サイトでの更新を停止。以後、Portal:女子十二楽坊で情報更新することとする。