「伊賀国」の版間の差分

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=== 日本総国風土記 ===
 
=== 日本総国風土記 ===
 
伊賀国 猿田彦神女吾娥津媛命、(中略)またこの神の知守国により、吾娥の郡という。その後、清見原天皇の時代、吾娥郡をもって分けて国の名とし、後に伊賀と改める。吾娥の音転なり。
 
伊賀国 猿田彦神女吾娥津媛命、(中略)またこの神の知守国により、吾娥の郡という。その後、清見原天皇の時代、吾娥郡をもって分けて国の名とし、後に伊賀と改める。吾娥の音転なり。
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==建置沿革==
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*志賀高穴穂朝(成務)のとき、皇子意知別命の三世孫・武伊賀都別命を国造とし、難波朝(孝徳)のときに伊勢国に隷属させた。
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*白鳳(天武)9年7月、伊勢国4郡を割いて伊賀国を建てる。
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*国府を阿拝郡に置く。
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*鎌倉幕府のとき、平賀朝雅、大内惟義、子惟信、相次いで守護となる。
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*足利尊氏が筑紫から京に入り、仁木義長を伊勢守護とし、伊賀を兼知させ、子孫に伝える。
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*応永の初め、将軍義満、名張・伊賀2郡を北畠顕泰に与える。
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*永正の末、仁木氏衰え、柘植・服部諸族がせめぎ合う。北畠氏がこれを降す。
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*天正9年、織田信雄が諸族を滅ぼし、その地を併せ、滝川雄利を守護とし、上野城に居らせた。
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*天正11年、信雄、豊臣秀吉と隙あり、秀吉の臣・脇坂安治が上野を襲い、雄利を逐う。秀吉、安治を長田市場に置いて州事を司らせる。
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*天正12年、筒井定次を封じる。
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*慶長13年、徳川氏が封を収め、藤堂高虎に賜い、世襲。
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*王政革新、三重県から兼知する。
  
 
== 郡 ==
 
== 郡 ==

2007年8月1日 (水) 15:13時点における版

伊賀国(いがのくに)は東海道にある。東は伊勢国、南は大和国、西は山城国大和国、北は近江国に接し、東西およそ7里、南北およそ9里。天武天皇の時代、伊勢の阿拝・山田・伊賀・名張の4郡を割いてこの国を建て、国府を阿拝郡に置く。延喜の制、下国に列す。明治維新の後、阿山・名賀の2郡とし、三重県に治めさせた。

国名

倭訓栞

いが 伊賀の国号も「あが」の転音にて、猿田彦神の女・吾娥津媛命より出たということが風土記に見え、倭名抄に伊賀郡阿我とある。

日本総国風土記

伊賀国 猿田彦神女吾娥津媛命、(中略)またこの神の知守国により、吾娥の郡という。その後、清見原天皇の時代、吾娥郡をもって分けて国の名とし、後に伊賀と改める。吾娥の音転なり。

建置沿革

  • 志賀高穴穂朝(成務)のとき、皇子意知別命の三世孫・武伊賀都別命を国造とし、難波朝(孝徳)のときに伊勢国に隷属させた。
  • 白鳳(天武)9年7月、伊勢国4郡を割いて伊賀国を建てる。
  • 国府を阿拝郡に置く。
  • 鎌倉幕府のとき、平賀朝雅、大内惟義、子惟信、相次いで守護となる。
  • 足利尊氏が筑紫から京に入り、仁木義長を伊勢守護とし、伊賀を兼知させ、子孫に伝える。
  • 応永の初め、将軍義満、名張・伊賀2郡を北畠顕泰に与える。
  • 永正の末、仁木氏衰え、柘植・服部諸族がせめぎ合う。北畠氏がこれを降す。
  • 天正9年、織田信雄が諸族を滅ぼし、その地を併せ、滝川雄利を守護とし、上野城に居らせた。
  • 天正11年、信雄、豊臣秀吉と隙あり、秀吉の臣・脇坂安治が上野を襲い、雄利を逐う。秀吉、安治を長田市場に置いて州事を司らせる。
  • 天正12年、筒井定次を封じる。
  • 慶長13年、徳川氏が封を収め、藤堂高虎に賜い、世襲。
  • 王政革新、三重県から兼知する。

  • 阿拝 アベ/アハイ
  • 山田 ヤマダ
  • 伊賀 イガ
  • 名張 ナバリ

日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。