「支那」の版間の差分

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ちなみに、ロシア語・ウクライナ語の{{polytonic|Китай}}(キタイ)は、「契丹」に由来する。キャセイ・パシフィック航空(Cathay Pacific Airways)の「キャセイ」も「契丹」由来である。
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ちなみに、ロシア語・ウクライナ語のКитай(キタイ)は、「契丹」に由来する。キャセイ・パシフィック航空(Cathay Pacific Airways)の「キャセイ」も「契丹」由来である。
  
 
==日本での「支那」呼称==
 
==日本での「支那」呼称==

2009年1月9日 (金) 23:08時点における版

支那(シナ)とは、中国地域を指す名称。もともとは「秦」という国名がインドに伝わって「チーナ」となり、中国で漢訳仏典として逆輸入するときに音訳されたのが始まりである。これは英語の「チャイナ」などと同じ起源を有する。しかし、日中戦争を経て、現在の日本では侮蔑的な意味合いが含まれる言葉とされており、使用には注意が必要である。

しな 支那 Zhi na
外国人の中国に対する呼称。中国人も清末に満州王朝への臣属を拒否する意志をこめて用いたことがある。語源についてはふつう、秦の名が音変化して西方に伝わり、特に南方海路を通じて古代インドに入ってチーナスターナ Cinasthana(チンの土地)とサンスクリット表記されたものが仏典漢訳の際中国に逆輸入されて〈支那〉と書かれたといわれる。唐初の玄奘も中央アジア、インドで自国が支那と呼ばれたことを伝えている。日本にも仏典を通じて伝えられ、空海の《性霊集》にすでに見えるが、新井白石の《西洋紀聞》など江戸時代中・後期ころからしだいに普及し、明治になって英語のChina、フランス語のChineなどとの対応から、清国や中華民国の国号とは別個の広義の地域名称として通行するにいたった。しかし、中華民国成立後、日本政府がことさら政治的意味をこめて使い、日本の大陸侵略と結びついて蔑称的性格が強められた結果、第二次大戦後は使用が避けられるようになった。(杉山正道)
――平凡社世界大百科事典より

「支那」の語源・発祥

秦王朝の秦(チン)がインドに伝わって「チーナスターナ Cinasthana(チンの土地)」とサンスクリット語訳され、それが漢訳仏典の形で逆輸入される時に「支那」「脂那」「至那」「震那」、あるいは「震旦」「振旦」等と音訳されるようになった。

『辞海』には、「梵語謂中國為支那,亦作脂那、震旦、真丹、真旦、振旦、神丹等」と書かれている。

すなわち、「支那」という表記は中国で生まれたものである。

玄奘三蔵の『大唐西域記』巻五の戒日王との会話に、「至那」の表記がある。玄奘と王との会話で、

「大唐から来ました。インドで言うマハーチーナ(至那)国です」
「至那国には秦(チン)王という天子が居られると聞きました。大唐国とはこの国のことですか?」
「そうです。至那とは以前の時の国号で、大唐というのは我が王朝の国号です」

と説明している。

唐の玄宗による『題梵書』の詩には「支那」の文字がある。

鶴立蛇形勢未休
五天文字鬼神愁
支那弟子無言語
穿耳胡僧笑點頭

中国の別名である「震旦」は「シナの地=チーナスターナ(Cina Sthana)」の略称である。

ただし、一般的に中国人は自国のことを王朝名で呼んでいた。すなわち、「秦」「漢」「唐」「宋」「元」「明」「大清」など、時代によって呼び方が変化した。

「中国」とは一般的には中原地方(華北平原一帯)を指し、「中国人」とは中原の人のことを言った。

大漢和辞典

大漢和辞典 (巻5)より引用(※以下旧字体を新字体に改めている)

【支那】シナ 国の名。中華人民共和国をいふ。元来外国人の称呼で中国人自らは用ひない。其の起因は秦の始皇帝が海内を統一し、余威が国境に及んだので、付近の民族これを秦と呼び、後、転訛して支那となったといふのが通説。而して中国人自らこれを知ったのは仏教徒の紹介に因る。仏書中に散見する中国の国号は至那・脂那・摩訶支那等で、皆中国の仏教徒が印度人から伝聞した自国の名称を、其の儘音訳したもので、語源は総べて同一である。他に震旦・振旦・真丹とも書く。
〔宋史、外国六、天竺伝〕天竺、云々、表来、云々、訳云、云々、伏願、支那皇帝、云々、福寿円満。
〔慈恩伝〕三蔵至印土、王問、支那国何若、対曰、彼国衣冠済済、法度可遵、君聖臣忠、父慈子孝。
〔翻訳名義集、諸国篇〕脂那、一云支那、此云文物国。
〔慧苑音義〕支那、此翻為思惟、以其国人多所思慮、多所制作、故以為名。
〔華厳音義〕震旦国、或曰支那、亦曰真旦、即今此漢国是也。
〔文殊全集、書礼集〕支那一語、確非秦字転音、印度古詩摩訶婆羅中已有支那之名、摩訶婆羅、乃印度婆羅多王朝、紀事詩、婆羅多王言、嘗親統大軍、至北境、文物特盛、民多巧智、殆支那分族、云々、考婆羅多朝、在公元前千四百年、正震旦商時、当時印人、慕我文化、称智巧耳。

ここに引用された『慧苑音義』では、「支那、これを訳せば『思惟』となる。その国の人は思慮するところ多く、制作するところ多きをもって、ゆえにもって名となす」と書かれており、『文殊全集』では、「支那という語は、確かに秦の字の転音ではない。インドの古詩マハーバーラタの中にすでにチーナの名がある。マハーバーラタはすなわちバーラタ王朝の叙事詩である。バーラタ王が言うには、かつてみずから大軍を統べ、北境に至った。文物は特に盛んで、民は巧智が多く、ほとんどチーナ分族であった、云々とある。考えるに、バーラタ朝は紀元前1400年にあり、まさに中国では商(殷)の時にあたる。当時インド人はわが文化を慕い、『智巧』と称したのである」とされている。

「思惟」「智巧」とは、サンスクリット語のcetana(チェータナ)のことであろうかと思われる。つまり、チーナとは秦の転訛であるというのが一説、もう一説として、思惟を意味するチェータナが語源という考え方も伝わっているということである。

西洋語での「チーナ」系呼称

サンスクリット語の「チーナ」は、ギリシア語でシーナイ(Σιναι)、ラテン語ではSina(シーナ)(属格Sinae(シーナイ))と受け継がれ、ヨーロッパ諸国の言葉に伝わっていった。

英語のChinaという国名、Chino-、Sino-という接頭辞はここに由来する。中国学をSinology、日中戦争をSino-Japanese War、日中友好をSino-Japanese friendshipと表現するのは、いずれも「支那」と同根である。インドシナ半島はインドと中国の間にあるためIndochinaと名付けられたものである。

その他、各国語で「チーナ」由来の表記は以下のような例がある。

  • ドイツ語・英語・オランダ語・ポルトガル語 - China
  • フランス語 - Chine
  • イタリア語 - Cina
  • チェコ語 - Čína
  • ポーランド語 - Chiny
  • ノルウェー語・デンマーク語 - Kina
  • マケドニア語 - Кина

ちなみに、ロシア語・ウクライナ語のКитай(キタイ)は、「契丹」に由来する。キャセイ・パシフィック航空(Cathay Pacific Airways)の「キャセイ」も「契丹」由来である。

日本での「支那」呼称

日本でも古来、中国本土と同様に、王朝名で呼んでいた。

特に「漢」と「唐」は中国の代名詞としてよく使われるようになり、「漢土(かんど)」「漢字」「漢文」「唐土(とうど・もろこし)」「唐人(とうじん・からびと)」「唐土人(もろこしびと)」等の表現が見られる。

一方で、漢訳仏典が輸入された際に「支那」の表記も受け継がれた。日本で最も古い「支那」表記は、空海(774~835)の『性霊集』一に見られる。

もっとも、一般には「支那」という言葉は使われていなかった。

西洋紀聞

次に「支那」表記が現われるのは、江戸時代に入ってからである。18世紀に書かれた新井白石の『西洋紀聞』『采覧異言』において、イタリア人シドッチの「チイナ」という表現を音写するのに「支那」の表記が選ばれたのが、近世における初出である。

以下、西洋紀聞 (東洋文庫 (113))より引用

ロクソン、ロソンともいふ。漢に呂宋(リュイソム)と訳す。我俗には、ルスンといふ。ヲヽランド人、またルコーニヤともいふ。チイナのカンタンの南海にあり。チイナは、支那也。カンタンは、広東也。其国の南土をば、マテヤといひ、またマ子ラともいふ。マ子ラ、我俗マンヱイラといふ。漢に瑪泥児訝(マアニイルヤ)と訳す。古の時、其主あり。近世以来、イスパニヤ人併せ得て、其人をして、国事を治めしむ。其西南の地に、銀を産する山あり。イスパニヤ人、これを採らしむ。チイナ人来り採るもの十二万許(ばかり)、またヤアパンニヤ東南海中に、金銀を産する嶋あり。ヤアパンニヤは日本也。東南海中の嶋名、いまだ詳ならず。またヤアパンジスすなはち日本人也。の子孫、此国にあるもの、すでに三千余人、集り居て、聚落をなす。其人、本国の俗を変ぜず。士人は、双刀を腰にし、出る時は槍を執らしむ。其余も皆一刀を帯ざるはなし。イスパニヤ人これを御するに法ありて、妄に国中に出行く事を聴(ゆる)さず。前四年、ヤアパンジス、風に放されてこゝに至れるもの十二人、イスパニヤ人彼聚落に就て、居らしむ。此国の北は、すなはちフルモーザなり。タカサゴの事也。即今の台湾。もとヲヽランド人の拠りし所、今はチイナに属すといふ。
按、慶長年間、しきりに我国に聘せし呂宋(ルスン)国といふは、みなこれイスパニヤ人の、かしこにありしものゝ使也。
ノーワ・ヲヽランデヤ、海南にあり。其地極めて闊(ひろ)し。今はヲヽランド人併せ得たり。これによりて、ノーワ・ヲヽランデヤと名づくといふ。
此地の事、ヲヽランド人にとひしに、此地、ジャガタラより南にさる事四百里許(ばかり)、これ我国の里数によりていふ所也。本国の人、はじめてこゝに至る事を得たり。其土極めて闊し。其人禽獣のごとくにして、言語通ぜず、地気甚熱くして、こゝに至れるものども病ひし死して、生残るものわづかになりて、帰る事を得たり。ノーワ・ヲヽランデヤと名付し事は、其地を併せ得たるの義にはあらず。本国の人、新たにもとめ得し所なるが故也といふ。此事詳なる事は、阿蘭陀の事しるせしものに見ゆれば、略す。
按ずるに、其人の言に、チイナといふは、即支那也。タルターリヤといふは、即韃靼(だったん)也。ヤアパンニヤといふは、即日本也。……

幕末から明治

その後、江戸時代中・後期には特に蘭学者の間で「支那」表記が使われることもあった。1783年、蘭学者・大槻玄沢は『蘭学階梯』の中で「支那」の表記を使っている。また、司馬江漢の『春波楼筆記』(1811)にも見られる。ただし、当時はシナではなくチナ、チャイナと読むことも多かった。

1864年(元治元年)4月7日、脱藩の罪に問われて野山獄に投獄されていた高杉晋作は、「囚中作」として「支那」を含む漢詩を作っている。これは、1862年(文久二年)に藩命を受けて上海を訪れたときのことを詠んでいる。

単身嘗到支那邦
火艦飛走大東洋
交語漢韃与英仏
欲捨我短学彼長
(単身かつて支那の邦にいたる 火艦飛走す大東洋 漢韃と英仏と語を交わす 我が短を捨て彼の長を学ばんと欲す)

その後、明治に至って、西洋諸国の言語との対応から、清国とは別の地域呼称として「支那」が使われることもあった。ただし、国名としては「清」「大清」であり、「日清戦争」と呼称していたのである。

辛亥革命と「支那」「中国」

清末、「滅満興漢」をスローガンとした漢民族による革命運動が起こったとき、革命家たちは日本で「同盟会」「光復会」などを結成した。この革命家たちは、弁髪を拒絶する一方で、「清国人」ではなく「支那人」と呼ばれることを望んだのである。この時点では「中国」という言葉は公認されておらず、革命家たちは日本式の呼称「支那」を借りた。

1902年、章太炎らは東京で「支那亡国二百四十二年記念会」を開き、「光復漢族、這我河山、以身許国、功成身退」というスローガンを掲げた。ここでいう「支那亡国」は、明朝が滅び、清朝となった年を指す。

1904年、宋教仁は東京で『二十世紀之支那』というタイトルの雑誌を創刊した。これは後に中国同盟会の党報『民報』の前身となるものである。

立憲派の梁啓超は「支那少年」という筆名を使い、康有為の次女の康同璧も詩の中で「我是支那的第一人」と記している。当時は非常に多くの中国の革命家が「支那」という言葉を使っているが、このことは、当時日本で「支那」と呼ぶのは侮蔑語ではなく、むしろ漢人への尊敬を含んでいたことを示している。当時の中国の正式国号である「大清」をもとに、中国人を「大清人」、中国語を「大清語」と呼ぶことは、中国の漢人にとってはむしろ侮辱的なことであった。

一方で、梁啓超は1901年の「中国史叙論」で「中国民族」という言葉を初めて使い、翌1902年に「中華民族」という言葉を生み出している。梁啓超が与えた影響は多く、革命家たちの間では支那と並んで中華民族という概念も使われ始めるようになった。現在の意味で「中国」という言葉を用いたのは、梁啓超が最初である。

吾人がもっとも漸愧にたえないのは、わが国には国名がないということである。漢人、唐人などは王朝名にすぎないし、外国人のいう支那などは、われわれが自ら名づけた名ではない。王朝名でわが歴史を呼ぶのは国民を重んずるという趣旨に反する。支那などの名でわが歴史を呼ぶのは、名は主人に従うという公理に反する。中国・中華などの名には確かに自尊自大の気味があり、他国の批判を招くかもしれないが、三者(王朝名、外国からの呼び名、中国・中華)それぞれに欠点があるなかでは、やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことを選びたい。民族が各々その国を尊ぶのは通義であり、これもわが同胞の精神を喚起するひとつの道であろう。
(「中国史叙論」『飲冰室合集』(巻六)、原文は『清議報』にて1901年発表。翻訳=岸本美緒「序章 『中国』とは何か」(尾形勇・岸本美緒編『中国史』〈新版 世界各国史3〉、山川出版社、1998 年、16 頁)

1911年に辛亥革命が起こり、1912年には中華民国が成立した。

しかし、「中華民国」という国号はすぐに世界各国の承認を得られたわけではなかった。清王朝が倒れた後、中国には内乱が起こり、各省は独立した。南方の南京にある革命党が「中華民国」臨時政府を成立させたとき、「中華民国」の範囲は南方のわずか数省に限られており、北方の大半の土地は「中華民国」に属していなかった。

このとき、「清国」をもって中国を表わすこともできなかったが、「中華民国」と呼ぶこともふさわしくなかった。なぜなら、「中華民国」は中国全土を代表するものではなかったからである。「中華民国」の国号を北方が承認したのは、1919年の南北和談を待たねばならなかった。また、日本政府はいまだ「中華民国」を正式に承認していなかったこともある。この状況において、日本政府は「清国」の呼び名を捨て、民間の慣用となっていた「支那」をもって中国の呼称とした。

1913年(大正二年)7月、日本政府は「今後中国の国号がいかに変化しようとも、日本は中国を『支那』と呼称する」と明文によって規定した。

1913年10月、袁世凱が正式に中華民国大総統に就任すると同時に、日本は正式に「中華民国」を承認すると発表した。しかし、日本政府は中国語文書内に「中華民国」と記されているにもかかわらず、日本語文書においては、英語からの翻訳である「支那共和国」が使われた。これは、すでに「支那」という言葉が日本で定着していたことが一因である。

 しかしともかくもして、袁世凱はあらたに誕生した中華民国初代の正式大総統に就任することができたのである。アメリカなら、さしずめワシントンの地位である。かれはさっそく、標準貨幣である一元銀貨に自分の横向き肖像をほりこませた。日本政府はなぜか、中華民国という国号を公文書に用いることを避けた。かえってRepublic of Chinaという中国が定めた英訳をもう一度日本訳して、支那共和国と呼んだ。中華民国は漢語であって、日本語にならない。しかも中華というような自尊的な言葉を国号に定めるのは他を蔑視するものだから、万国共通の支那という地名を用いるべきだ、というのがその理由である。したがって大総統も、アメリカに準じて大統領とよんだ。結局袁世凱は日本から呼ぶには支那共和国大統領、さりとはあまりにも窮屈な考え方ではある。
――『宮崎市定全集』第16巻「近代」254ページより

1915年(大正四年)、日本は袁世凱政府に「対華二十一カ条要求」を提出した。ここから日中関係が悪化することとなる。

1919年、日本がドイツ租界を継承する問題が起こり、また「五四運動」の反日的風潮も起こった。その中で、日本が中国を「支那」と呼んでいることが問題となった。同年、日本留学生が北京で出版した『東游揮汗録』(王拱璧 編)の中で、日本が中国を「支那」と呼ぶことに対する激しい批判が記された。

假扮(Japan)は中国の伝統を受け継いで漢文を読み、仏典を朗読するのに、朝野上下ともに「中華民国」の四字から「中国」の二字に至るまで使おうとしない。我が国を蔑視して、「摩訶震旦」という用法を参照することなく、前半を切り落とした語音である「支那」を用いる。新聞、著述、講演すべて支那と称する。政府公文書の中でも「中華民国」の四字を使わず、「支那共和国」の五字を使っている。これは国際的礼儀にかなわず、また我が国を国家と見なしていないのである。中華民国が成立してからもう八年が経つのに、倭人は今に至るまで承認していないのだ。

この主張はまたたく間に広がった。日本政府に対して「支那」「支那共和国」といった呼称を使わせないよう、中華民国政府に要求が寄せられた。この後、中国政府は何度か日本政府と交渉したが、結果は得られなかった。

日本は、先の1913年7月日本政府規定以外に「中華民国」の呼称を使うことがなかった。その一因として、日本人は「中華」という言葉に対して、暗に日本への軽蔑を含むものと感じていたからである。歴史上、「中華」「中原」は周辺異民族国家と区別する用語であった。かつて中国は東方の異民族を「東夷」(日本人を含む)、南方の異民族を「南蛮」、西方の異民族を「西戎」、北方の異民族を「北狄」と呼んでいた。中華と夷蛮国家の関係は対等なものではなく、上と下の朝貢関係であった。日本人は中国人が「中国」と自称することについて、尊大かつ文化的優越感をもったおごりがあると感じていた。したがって、「支那」を「中国」と改称すれば、自らを「東夷」朝貢国としての屈辱感を味わうことになる。「中華民国」「中国」を日本が使おうとしなかったことに内在する原因である。

「中国」という言葉を使うとき、中国人はそこに「中央の国」という含意があるとは考えていないかもしれないが、「中国」という字面は「中央の国」と解釈されても仕方のないものである。当然、中国政府が「中華民国」という国号を使ったとき、日本を侮辱しようとは思っていなかっただろう。また、日本政府が「支那共和国」という言葉を使ったときにも、中国を侮辱するつもりはなかったのである。

中国政府の再三の抗議と催促のもと、1930年(昭和五年)の閣議決定(浜口雄幸内閣)で、日本政府は「支那」を使わず、一律に「中華民国」を使用することを承諾したが、民間の報道機関は中国を「支那」と呼び続けた。

支那国号ノ呼称ニ関スル件

    昭和5年10月31日 閣議決定
支那ニ於テハ清朝覆滅共和制樹立ト共ニ従前ノ国号清国ヲ中華民国ト改称シ爾来幾度カ政治組織ノ変転アリタルモ右中華民国ノ国号ハ一定不動ノ儘今日ニ及ヒ我方ニ於テモ大正二年十月六日在支帝国公使ヨリ共和制新政府ニ対スル承認通告ノ公文中「中華民国ヲ承認スル」旨ヲ明カニシタルカ一方政府ハ同年六月閣議ヲ経テ邦文公文書ニ用フヘキ同国国号ニ関シ条約又ハ国書等将来中華民国ノ名称ヲ用フルコトヲ要スルモノハ別トシ帝国政府部内並帝国ト第三国トノ間ニ於ケル通常ノ文書ニハ今後総テ従来ノ清国ニ代フルニ支那ヲ以テスルコトヲ決定シ前記新政府承認ノ官報告示文ニハ支那共和国ヲ承認シタル旨ヲ記載セルカ爾後ニ於ケル慣行ハ条約国書等前期閣議決定中特例ヲ設ケタルモノ付テモ実際上支那国又ハ支那共和国ノ呼称ヲ用フルヲ例トシ来レリ
然ルニ右支那ナル呼称ハ当初ヨリ同国側ノ好マサリシ所ニシテ殊ニ最近同国官民ノ之ニ対シ不満ヲ表示スルモノ多キヲ加ヘタル観アリ其ノ理由ノ当否ハ暫ク措キ我方トシテ右様支那側感情ヲ無視ステ従来ノ用例ヲ墨守スルノ必要ナキノミナラス近来本邦民間ノ用例ヲ見ルモ中華民国ノ呼称ヲ使用スルモノ頓ニ倍加シツツアル状況ナルニ顧ミ目下ノ処支那政府ヨリ本件改善方ニ付何等申出来レル次第ニハアラサルモ此際我方ヨリ進テ従来ノ用例ヲ変更スルコト時宜ニ適スルモノト認メラル
就テハ今後支那国ヲ表示スルニ付テハ条約国書等既ニ前記大正二年六月閣議ヲ以テ中華民国ノ呼称ヲ使用スヘキコトヲ定メラレタルモノニ於テハ勿論其他国内又ハ第三国トノ間ニ用フル邦語公文書ニ於テモ一律中華民国ノ呼称ヲ用フルコトヲ常則ト致度
右閣議決定ヲ請フ
(支那においては清朝覆滅・共和制樹立とともに、従前の国号「清国」を「中華民国」と改称し、その後何度か政治組織の変転があったものの、「中華民国」の国号は一定不動のままに今日に及んでいる。我が方においても、大正二年十月六日、在支帝国公使より共和制新政府に対する承認通告の公文の中に「中華民国を承認する」旨を明らかにした。しかし、一方、政府は同年六月閣議を経て、邦文公文書に用いるべき同国国号に関して、条約または国書など将来中華民国の名称を用いることを要するものは別として、帝国政府内ならびに帝国と第三国との間における通常の文書には今後すべて従来の清国に代えて支那を用いることを決定し、前記新政府承認の官報告示文には「支那共和国」を承認した旨を記載した。その後における慣行は、条約国書など前記閣議決定中特例を設けたものについても、実際上、支那国または支那共和国の呼称を用いるのを例としてきた。
しかし、支那という呼称は当初より同国側の好まないところであり、ことに最近同国官民に、これに対して不満を示す者が多くなった観がある。その理由の当否はさておき、我が方としてこのような支那側の感情を無視して従来の用例を墨守する必要はないだけでなく、近来、本邦の民間の用例を見ても「中華民国」の呼称を使用する者がにわかに倍加しつつある状況であることをかんがみ、目下のところ、支那政府より本件改善について何ら申し入れがあったわけではないけれども、この際、我が方より進んで従来の用例を変更することが時宜にかなっているものと認められる。
ついては、今後、支那国を表示するについては、条約・国書等、すでに前記大正二年六月閣議をもって中華民国の呼称を使用すべきことを定められたものにおいてはもちろん、その他国内または第三国との間に用いる邦語公文書においても一律「中華民国」の呼称を用いることを常則といたしたく、右閣議決定を請う。

「支那」の侮蔑語化

人民日報によれば、日本人が「支那」を侮蔑的な意味を込めて使い始めたのは日清戦争での戦勝時からであるという[1]。しかし、「支那」は中国を指す一般的な言葉として使われ続けた。

やがて日本が大陸に進出するにつれ、「支那」と「満蒙」(満州・モンゴル)が対比的に使われるようになっていく。すなわち、漢民族の地である「支那」と、北辺の「満蒙」とが区別されるようになったのである。これによって、中華民国の領域は「支那」+「満蒙」となり、中華民国と支那はイコールではなくなっていく。

1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件から満州事変が勃発する。1932年(昭和7年)3月1日に満州国が建国され、満州は中華民国から切り離された。

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が勃発する。現在「日中戦争」と呼ばれている戦争の勃発である。しかし、大日本帝国・中華民国ともに宣戦布告を行なわなかったため、この件は当初「事変」として扱われ、「北支事変」と呼ばれた。その後、上海事変も勃発して戦火が中国全土に及ぶと、同年9月2日に日本政府は「事変呼称ニ関スル件」を閣議決定し、「今回ノ事變ハ之ヲ支那事變ト呼称ス」として「支那事変」の名称が正式に使われることとなった。なお、「日華事変」「日支事変」の呼称も使われている。

こうして「支那」は日本の敵国となり、「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)という言葉が生まれるなど、「支那」に侮蔑的な意味合いが込められるようになっていった。

戦後

第二次世界大戦における敗戦後の1946年(昭和21年)6月6日、「支那の呼称を避けることに関する件」「中華民国の呼称に関する件」という通達が出される。これにより、公式には「中華民国」「中国」を使用し、「支那」を使わないこととなった。これは、中華民国政府からの要請によるものであった。

支那の呼称を避けることに関する件[次官通達] 昭和二十一年六月六日

[宛て先]
各省次官 内閣書記局長 内閣法制統計 府県知事 終戦地方事務局
[発信者]
外務次官 終戦次長
 本件に関し、外務省総務局長から六月六日附で都下の主な新聞・雑誌社長に対し、念のため移しのやうに申し送った。右参考のため御送りする次第であるが、機会があったら御関係の向へも同様御伝へを得たい。
中華民国の呼称に関する件[局長通達] 昭和二十一年六月六日
[宛て先]
各新聞社長
雑誌社長
[発信者]
外務省
      総務局長 
 中華民国の国名として支那といふ文字を使ふことは、過去に於いては普通に行はれて居たのであるが、其の□□を改められ、中国等の語が使はれてゐる処、支那といふ文字は中華民国として極度に嫌ふものであり。現に終戦後、同国代表者が公式非公式にこの字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があったので、今度は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使はぬ様にしたいと考へ、念のため貴意を得る次第です。
 要するに支那の文字を使はなければよいのですから、
 用例としては、
  中華民国、中国、民国。
  中華民国人、中国人、民国人、華人。
  日華、米華、中蘇、英華。
 などのいづれを用ひるも差支へなく。唯歴史的地理的又は学術的の叙述などの場合は、必ずしも右に拠り得ない、例へば東支那海とか日支事変とか云ふなどはやぬを得ぬと考えます。
 ちなみに、現在の満洲は満洲であり満洲国でないことを念のために申し添へます。
(呉智英サルの正義 (双葉文庫)より引用。文中□□は呉智英に読めなかった箇所である)

これ以降、「支那」という言葉は日本政府の公文書、教科書、新聞雑誌から消えた。

中国の国共内戦により、大陸が中国共産党の手中に収められて中華人民共和国となり、中華民国・国民党政府が台湾へと移った後も、同様に「中国」「中華」の呼称が使われた。

1960年代のベトナム戦争のときに、中国大陸の新聞紙上に「印度支那」の文字が出現した。これはもともとヨーロッパ人が中国とインドの間の地区をインドシナと呼んだことに由来する。中国大陸では西洋の呼称に合わせて「印度支那」と書いたが、当時の大陸人は「支那」の文字を排除しなかった。しかし、台湾の国民党政府は「印度支那半島」を「中南半島」と呼び変えた。

1990年代以降、大陸において反日感情が高まると、「支那」という言葉が中国人を侮辱する日本語であるとみなされるようになった。現在、日本の主要メディアでは「支那」は使われなくなっているが、一部の国粋主義者、反中主義者は「支那」という言葉を使う。

「支那」を使うことで有名な人物として、石原慎太郎東京都知事がいる。1999年3月10日、東京都知事選出馬会見で「私はシナという言葉を使っているが、これは偏見からではない。そもそもは孫文が作った言葉[2]。なぜ日本人がシナという言葉を使ったらいけないのか」と発言。さらに4月13日、共同通信のインタビューに「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と答えた。

2003年7月17日、石原都知事は自民党本部で行われた党治安強化小委員会で講演し、中国人による犯罪の増加について「東京で発生する犯罪で圧倒的に割合が多いのはシナ人(による犯罪)だ」と述べた。さらに「今、警察が一番憂慮しているが、彼らが日本の要人の子弟を誘拐する事件が必ず起こるだろう。捕まえて送り返す費用なんか、(中国向けの)政府開発援助(ODA)なんかを削ればいい」とも発言した。石原氏は「シナという言葉は決して悪い言葉ではない。堂々とシナという言葉を使ってもらって結構だ」と語った。

Sina.com 新浪網問題

2000年、中国のポータルサイト「新浪網」http://www.sina.com/ の名称に対して、「支那」と同じ表記であり中国への蔑称ではないかという指摘が行なわれた。これについて、新浪網は中国の英語名を採用したものであると説明した。

ZDNET News:Sina.comの名称めぐり論争【米国記事】 2000年9月20日 11:20 更新

 中国系ポータルサイトのSina.comの名称をめぐって論争が起きている。China Youth Dailyによると,在日中国人から,日本での中国に対する蔑称と同じ言葉だとの指摘があり,怒りが広まっているという。Sina.comはNASDAQで株式を公開しているが,中国情報産業省は,正式な調査でこの名称が中国人に対する侮辱あるいは同国の利益に対して有害とみなされた場合はしかるべき措置をとるとしている。一方,Sina.com側は,いくらか苦情が寄せられているが,この名前は「China」と「Sino」を合体したもので中国の蔑称ではなく尊称であると主張している。

東京新聞ニュース 2000年9月22日:「シナはべっ称でない」中国 最大級ネットが改名拒否

【北京21日清水美和】中国で最大規模のポータルサイト「シナ(sina)・ネット」を経営する新浪網公司は二十一日、本紙の取材に対し「シナ(支那)は中国へのべっ称」と一部の学者などから出ていた改名要求を拒否する方針を表明した。「シナは英語のチャイナを語源としており、それ自体に侮辱の意味は込められていない」というのが理由だ。
 最近、「中国青年報」など一部新聞が、中国最大のネットが「シナ」を名乗るのは国辱的だと、日本から帰国した学者などの意見を紹介する形で批判。北京大学の劉金才教授は「日本が中国への侵略を開始するにつれ中国へのべっ称として使われるようになった。シナは支那と発音が全く同じであり、もし日本で中国のことをシナと呼べば中国人とけんかになる」と名称の再考を促した。
 これに対し新浪網広報部は「シナは英語のチャイナの過去の発音。中国の英語名を変える必要がありますか。シナに侮辱の意味が込められているというなら、自身の国家を強大にすればいいだけの話。新浪網は将来、シナを世界のブランドにし、中国人が誇れる呼び名にする」と批判を一蹴(いっしゅう)。シナ・ネットにも「欧米人にチャイナと呼ぶのを許しながら日本人にだけシナと呼ぶのを許さないのは不公平」など同社を支持する意見が寄せられている。

石原慎太郎・東京都知事 定例記者会見(2002/02/22 東京MXテレビにて放映)

 それからね、まあ、これは何の意図もなしにですね、参考に申し上げますけどね、この間面白いことがあった。
 あの、中国のね、まああの、代表的なネットワークの会社がね、情報のね、その、ホームページをね、通じて、世界中の人、在外の中国人も含めて情報を流してるわけなんです。
 それでこれはナスダックにもね、株式を公開している、大きな会社ですけどね、その中国系ポータルサイトの、何て言うんですかね、こう、アプローチのイニシャルがね、シナなんだ、シナ。
 それでね、それを聞いてね、見てね、けしからんと私のことも何か怒った人なんだか僕は知らんけども、日本にいる中国人が何でこういう中国に対するね、蔑称をですね、あえて載せるのかといったらばね、中国情報産業省は正式な調査で回答したの。
 これはですね、チャイナ、シナのですね、シナの、要するに、Chinaと、シノSinoを合体したもので、中国への蔑称ではなく、尊称であるそうです。
 で、逆に、その抗議した日本にいる中国人がたしなめられたようでありますが、ただ一つの情報としてお知らせいたします。
 私は元々これはですね、その日本人だけが支那と言ってはいけない、東シナ海、南シナ海ったって、私が特に使うとけしからんと言われるけどね、これは孫文が作った言葉だとも言う人もいるし、元々まあ外国はそういう言い方してきましたが、まあそれ以上のことは申しませんけども、私は決して蔑称のつもりで使ったわけじゃありませんが、非常に面白いですね事実が判明いたしましたので、念のため皆さんもし、このホームページに興味があったら、ご自分でこの、何て言うのかな、アプローチしてみたらどうですか。

林思雲氏の見解

“支那”问题纵横谈において、日本在住の華僑・林思雲氏は、「支那」という語の歴史を詳細に述べた後、最後に以下のような文章で締めくくっている。

現在、一部の日本右翼人士はこの話題を挑発的に取り上げ、わざわざ揉め事を起こそうとしているが、それはむしろ中国の愛国人士に対して、口げんかに「応戦」してののしっているのである。中国の愛国者は、ネット上で「倭奴」「鬼子」「小日本」といった日本を侮辱する呼称をまき散らしており、それによって必然的に日本の愛国者からの反撃を巻き起こし、「支那」という中国人を憤らせる中国を辱める言葉をまた言わせるのだ。当然、中国が「倭」などの蔑称で日本人を呼んだのは現在だけではなく、歴史上、反日運動が起こるたびに同様の罵倒劇が繰り返されている。
1919年「五四運動」の反日潮流の中で1919年11月に出版された王拱壁『東游揮汗録』は、当時のアジテーション的な代表傑作である。ここで一部を引用しよう。「倭のここ五十年来の外交の真相として、対華外交の価値などまったくなかったというべきです。……新聞界は“支那”の二字を用い、政府公文書は中国・民国といった簡便な二字を捨てて“支那共和国”という繁雑な五文字を使っている。これは我々に対して国際敬礼がないだけでなく、我々を国家と見ていないということである。我が中国民国成立から八年にして、倭人はなおも承認していないのである。……」
上記の文中で、作者は一方では日本の新聞雑誌が中国を「支那」と呼ぶのは中国人への侮辱であると抗議しながら、自ら公開出版した書籍の中で日本を「倭」「倭人」と蔑称している。中国人が自分を「支那」と言われるとこのように侮辱的な呼び方は気分が悪いと理解するのに、どうして日本人が「倭人」といった侮辱的な呼び方をされたときに気持ちいいわけがないということに気づかないのだろうか? 中国人は、一部の日本人が故意に「支那」という言葉を使って中国を蔑視していると厳しく非難するのに、自分では「倭人」「鬼子」「小日本」といった蔑視語を使って日本人を侮辱している。
孔子は名言を述べた。「己の欲せざるところは人に施すこと勿れ」。もし我々が日本人に「倭人」「鬼子」「小日本」と言う権利を認めるのであれば、どうして日本人にも我々を「支那人」と呼ばせることを認めるべきではないのだろうか? もし我々が自らこういった蔑視語を使って日本を蔑称することをやめられないのであれば、日本人が「支那」を使って我々を蔑称することをどうして責められようか?
最後に我々は一つの問題を明らかにしなければならない。「支那」という言葉は、中国への蔑称なのか否か? もしそうであれば、その軽蔑の程度はどれほど多大なのか? 上述の状況から、我々はこのような結論を得ることができる。日本は江戸末期から中国の呼称として「支那」を使い始めた。当時、日本が中国を呼ぶのに「支那」を使ったのは、確かに、中国を侮辱する意味ではなく、中国人自身も「支那」という呼称に反対していなかった。しかし、辛亥革命で中国が国号を改めてから、問題が現われた。中国の正式な国号は「中華」あるいは「中国」であるが、日本人はその中に日本など「前朝貢国」に対する傲慢な含意があると認識し、そのため中国を「中国」と呼びたがらず、中国を「支那」と呼び続けた。このとき、日本人が「支那」と言うときには中国人に対する軽蔑的な要素がいささか含まれていたが、それは、中国人が日本人を「鬼子」「小日本」といった軽蔑語で呼ぶのに比べれば軽いものであった。たとえば、中国人は往々にして黒人を「老黒」と呼ぶことがある。「老黒」にはある程度の軽蔑の意味があるが、「黒鬼」というのに比べれば大したことはない。日本人が「支那人」と呼ぶのは、中国人が黒人を「老黒」と呼ぶのと似た感覚であった。これは特に悪辣な差別用語というわけではなく、微妙な軽蔑観を帯びたものであった。
上述したように、「支那」問題は、主に中国と日本の間で、「支那」と「中華」の漢字の字義解釈が異なっていたために引き起こされた論争である。日本は敗戦後に「中国」の国号を承認するよう迫られたが、現在の日本人は「中国」は普通の国名だと思っている。「中国」に「中央の国」という傲慢な含意があるとは思っていない。それは、中国人が「美国(アメリカの中国語表現)」と言っても「美麗の国」という含意がないのと同じことである。

なお、これは中国人が中国人に対して述べたものであることに留意する必要がある。逆にとらえれば、「支那」という言葉をあえて用いる日本人は、「倭人」「鬼子」「小日本」と言われても仕方ないのである。

「支那」を含む言葉

  • 支那竹(シナチク)=メンマ
  • 支那そば=ラーメン
  • 東シナ海

外部リンク

  1. “支那”源流考 - 人民日報1999-05-07 /日本語訳:「支那」の語源についての考察
  2. シナという言葉を「孫文が作った言葉」というのは、上述の通り、歴史的事実に反している。