牛丼屋は130年前にも殺伐としていた(笑)

牛丼といえば殺伐。吉野家コピペのもとになった文章(2001/04/07付)から広まった話だが、実際に牛丼がもうないと聞いて暴れる奴とか、変なオーダーして逆ギレして警察呼んだ奴とか、まさに「吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ」というのがいつの間にか現実のものとなりつつある。

で、前回の百年前の牛丼屋のついでで、『東京新繁昌記』の「学校」の項目を見ていたら、どうやら130年前の牛肉屋(牛丼屋の元祖)でも殺伐とした光景が繰り広げられていたようだ。以下、前回と同じく現代語訳。なんか、今の2ちゃんねるあたりの低レベルなウヨ・サヨ論議とそっくりで笑える。

2004年2月14日02:57| 記事内容分類:日本史| by 松永英明
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学校

……(略)  日曜のいい天気の日……浅草からの帰り道、一人の学生がちょっと一杯、通街(トオリチョウ)の牛肉店でひっかけた。肉一鍋に酒一瓶、一鍋一瓶、飯を食うように、湯を飲むようにやっていたら酔ってきた。横に一人の客がいて、この人は四合明けている。その横にまた一人客がいる。落ち着いて杯を挙げ、頭髪はお坊さんのようで、小刀を帯びている。三人はついに合席になって、丸く座った。さらに酒・肉を注文して杯を何度かかわしていると、すっかり酔っぱらってしまった。

 一人の学生が意気揚々として語る。
「僕が今の情勢を見るに、洋学でなければ学問じゃないね。その広大なことといったら、五大州を併呑し、全世界を一目で見渡し、天下の経済、全国の富強、政治も軍事もみな洋学に関わっている。近頃は建築方法も衣服の制度もようやく洋風になり、茶店の女の子でさえも洋語を使い、芸者の歌も洋語を挟んでいる。愉快じゃないかね。宇宙の中で洋学に関わらないものがあろうかね。家を整えるのも洋学、身を修めるのも洋学。その力は大きいことといったら、これまでの封建社会を廃して、万世の郡県制にしてしまった。洋学が民間に浸透すれば、怠け者も志を持ち、人情の薄い人も情が厚くなる。さらに、人の生はもともと同等であって貴賤はない。才能があれば国民に代わって国政を治め、才能がなければ租税を払って労役の代わりにする。これは真っ当な話であって、古来確実な話だ。
 僕は本を一冊読むごとに、ますます洋学が素晴らしいことを実感するね。まだ文法書も読めないのに官職についた奴がいる。聞いてみたら、ちょっと漢文を読んだんだと。孔子の道は、士族が没落するのとともにすでに地に堕ちてしまい、もう安物になってしまって、骨董品屋の厄介者になっている。その厄介者に頼って官職にあるというのは、豆腐に座るようなもので、じきに堕落するだろうね。あるいは、豆腐と一緒に腐って、文字どおり腐れ儒者になるだろう。これなどは人力車先生の門に入ればいいんだよ」

 そうすると一人の客が切歯扼腕して言った。
「自分は漢学生だ。お前が漢学を誹謗するのは何ごとか。洋学も学問、漢学も学問、道義において異なるものではない。そもそも孔子の道は至正至大、西洋の蛮族の道と同じように論じることはできないのだ。いや、お前怒るなよ。まあ言わせろ。
 お前はまだ論語・孟子を読んでいないのだな。父子君臣の美徳、文物礼制が栄えるのは、みな仁義があってこそ。上の者は天下を治め、下の者は一家を治める。それでこそ栄えるというのだ。
 そもそも学問とは何か。人道を修めるものである。人道とは何か。一身を修めるものである。人生の日々のこと、不変の人の道、いずれも仁義を離れてはならない。論語に言う、仁は人の安宅であり、義は人の正路である、と。道を歩いていようと家にいようと、すべて仁義の中になければならぬ。天下で一日でもこの道が欠ければ、臣下は君主を殺し、子は父を殺し、役人は私腹を肥やし、商売は利益ばかりを追い求める。せっかくの開化も混沌となるだろう。
 西洋諸国のデタラメさといえば、利益のために君臣父子の関係も忘れ、財産のために恥を忘れてしまう。ただ、経済経済といって人の道を顧みない。こういうのは、一文の銭を拾おうとして犬の糞を踏むような奴だ。論ずるにも値しないね」

 洋学生がザンギリ頭を振って言った。
「いやいや、そんなことはない。昔から漢学の儒者というのは口にいいことを言っていても、行ないには反映されない。たくみに弁舌をふるって、実行することがない。
 君は聞いていないか、今の支那の国体を採用する国はないじゃないか。その政体は君主専制であって、人民の自由を束縛し、自ら尊大に中華と称していて、万国と交際しない。むしろ、支那地方こそ蛮族の地とし、西洋諸国を中華と言ってもいいくらいだ。
 しかも、口を開けばすぐに文章、文章という。文章が何になるか。赤壁の賦を作っても蒸気の発明を知らない。陳腐な寝言を吐いても、開化の文字がわからない。毛唐人が役に立つなんてことがあるのかね」

 漢学生は目を見開いて言う。
「そうじゃない、そうじゃない。謹んで考えるに、応神天皇の15年に百済の儒者がわが国へ来て、太子の師となった。儒学が始まって開け、文化が広まったのだ。桓武天皇が都を葛野の平安京に移すとき、国学を朱雀大路の東に建て、その後有名な儒者が輩出した。日常でも漢字を使って当たり前になったのだ。お前だけは横文字で自分の名前を書いているのか? いやしくも漢字を使っている者は、漢学の生徒なのだよ。儒者の道は、国学者流のようなもんじゃないのだ」

 すると一人の客がたちまち怒って言った。
「俺は国学生だ。貴様ら、我が国をいやがって他国を慕っている。だったらさっさとその国に行ったらいいじゃないか。かたじけなくも我が日本国は、皇統一系にして堂々たる神国である。かつて蒙古が西海に攻めてきたとき、神風が起こって敵兵20万を皆殺しにした。貴様ら、まだ銀行の新紙幣を見ていないのかな(新紙幣は蒙古の敗軍を描いている)。
 そもそも、貴様等はわが皇祖太神の事跡を知っているのか。我が国史を読んでいないのに、他国の歴史を暗誦しているなんてのは、自分の父母を捨てて他人の父母を慕うようなものだ。しかも、西洋諸国のようなのは、人民が徒党を組むのがひどすぎる。国王を廃するのは犬を追い払うようなもので、王族を殺すのもスイカを斬るような感じだ。他国に対してはこれを革命とか言ってるが、それは不忠なだけじゃないか。
 また、中国のようなのは、尭・舜以来、王朝の変遷は数十回。いやしくも日本魂があってそれをいいというのかね。
 しかも我が国は言葉の国であって、いにしえから和歌を尊んでいる。わずかに31字で天地を動かし、鬼神をも感動させる。和歌の徳といえば大きいじゃないか。貴様等は芸者の恋歌や流行の葉歌に感動していて、まだ和歌の素晴らしいのを知らないようだ。
 また、洋学生というようなのは、わが皇国の神道を捨ててキリストの邪教を広めようとする者も少なくない。これは神国の罪人だ」

 洋学生は憤然として言う。
「お前、キリスト教を邪教というのはどういうことだ。生臭坊主が木魚を叩いて空論を唱え、痩せ神主がさびた鈴を振って意味のない文句を唱えるようなのとは違うのだぞ。そもそも、神は天にのみある。偶像を拝み、空っぽの神社に詣でるのはどういうことだ。全欧州の開化はまったくイエスの力だ。野蛮を変じて文明にしたというその威徳は大きいじゃないか」

 和学生が言った。
「貴様は、神は天にのみある、といったよな。じゃあどうして芳坊の芸者を連れて初卯に詣でたのだ? 亀戸の社は菅原道真公の霊を祀ってある。それに帰りに深川八幡に詣でただろ。お前もまた口ではウソを言って、実行しない奴だ」

 洋学生が言う。
「俺が亀戸・深川に行ったのは、体の運動のためだ。神社に祈るために行ったんじゃない。お前こそ、浅草観音に行っただろうが。俺は、お前が茶店の阿亀ちゃんに惚れてるのを知ってるぞ。阿亀ってのは天津児命の子孫という名前だ。ひとたび観音の境内に入れば、そこは仏教の場所だ。お前は口では神道といってるが、どうしてそういう醜態を見せるのかね。
 蒸気車が便利だというのを知らないだろ。煉瓦石が美しいのを見てないだろ。お前のような奴は天の岩屋に入って、和歌浦の波で溺れ死んでしまえ」

 和学生は身を振って言う。
「貴様、神罰をまぬかれないぞ。いや、むしろ天誅をまぬかれない。貴様は我が国の五穀を食わず、いつも牛肉とパンだけで生活しているのか。お前も漢学生のように、首陽山のふもとで餓死すればいいのだ」

 漢学生が激して言う。
「いやしくも仁義を学ぶ者は、君たちのように繰り返して裏表のある行動をとることはない。身には粗末な服を着ても、立派な服の者と並んで立っても恥ずかしくないのはそのためだ。あるときは愛宕の風月に詩をよみ、ある時は隅田川の賑わいに詩を読む。悠々自適、それで仁義を楽しむのだ。肩をすくめ、こびへつらって、二、三十金のために腰を低くしたりはしない。自分は端正であって君子である」

 和学生が冷笑して言う。
「貴様は口を開けば仁義を唱え、正道を称しているが、横町の居酒屋にいて、二合の酒を飲んだくらいで酔っぱらい、他人の家の軒下でこっそり立ち小便しているではないか。それが警官を見てあわてて逃げたのだ。貴様は我が国の法律を知らないのか。五尺の子供も知ってるぜ。貴様は仁義を唱えつつ、国の法律を犯している。これこそ論語読みの論語知らずだ。貴様もまた、世界を併呑すると言いつつ洋学生が足元の我が国を知らないのと兄弟だな」

 洋学生が口を尖らせて言う。
「君は我が国我が国というが、我が国しか知らず、他国があるのを知らないのだ。井の中の蛙の軟弱者、どうして世界の大道をともに論ずることができよう」

 三人の学生の舌戦はますます盛んになって烈火の如くであり、勝敗が決する様子もない。番人は階下で耳を傾け、主人はこっそり二階をのぞいている。そのとき、たまたま屏風を隔てて一人の老人客がいた。丁寧に三人の学生の前に頭を下げて、こうしゃべり始めた。

「みなさんのご高論を、この老人も聞かせていただきました。私は在野の人間ではありますが、少し考えるところがございまして、皆さんのために一言述べさせていただきたいと思います。
 みなさんは互いに自分の優れたところを誇り、人の短所を攻めています。それはよろしくありません。たとえば、芝居の関係者がその技を争うようなものです。一人は管弦家、一人は浄瑠璃家、一人は舞踏家とします。一つの芝居を開くのに、その一人が欠けても芝居にはなりません。世間のものごとはつまるところみな芝居です。
 私は横文字を読めませんし、漢文の書も見ていませんし、和歌もわかりません。まことに学のない者です。しかし、世の中の形勢を見て自分の将来を考えたとき、未だかつてその機会を誤ったことはありません。これはただ芝居を見ていたからでございます。
 国に農工商の三役者あって一国となっております。これは大芝居です。政府に役人という役者があって、それぞれの事務をやっております。これも芝居です。夫婦の間柄もまた小さな芝居。
 我が国が今日開化したのは、和漢洋の三役者を雇って、新しい芝居を開こうとしているわけでございます。その役者というのは、たとえば弦・歌・舞の三芸がそろって舞台に上がれば、調子が整って芝居がますますよくなるようなものです。
 君たちのようなのは役者の卵です。というのは、まだ家庭も持たず、役人にもなっておらず、商社にも入っていません。つまり、まだ舞台に上がっていないわけです。世界を呑む者、仁義を説く者、和歌のできる者、みな凡人である私に遠く及びません。私はヨーロッパを見ておりませんが、すでに三階建ての石の家に住んでおります。尭・舜を夢に見たこともありませんが、家には妻がおり、兄弟も住まわせ、一家そろって飢えたり凍えたりすることもありません。神道も知りませんが、不正をなさないので神罰を受けるはずもありません。家が無事なのは神様のたまものでしょう。
 私がこういうことを言うのも自慢ではありませんし、誇るほどのことでもございません。ただ、その理を述べているのです。私はすでに老いました。八十の手習いもできるとは思いません。ですから、君たちには大臣級になっていただきたい。君たちはそれぞれに自分の学派を立てています。洋学、漢学、和学と。これはよろしくありません。いやしくも我が国で学ぶ者は、すなわち我が国の学生です。そこで派閥が必要でしょうか。三学がそろって一学となれば、まさに皇国の大学士であります。君たちは将来性があり、気力もあります。今から切磋琢磨すれば、皇国の大学士となるでしょう。期待しております。いや、これはおべっかではありませんよ。私の言葉に道理がなければ、ぜひみなさんのご教示を受けたいものです」

 三人の学生の声はたちまちやんで、雷雨が通り過ぎたかのようだ。
 洋学生は「おっともう六時近い。俺の塾は門限があるんだ。先に帰らせてもらうよ。失敬、失敬」、漢学生は「自分は今晩、読書会があるんだ」、和学生は「俺は教院の当直なんだ」と、三学生はこそこそ店から逃げ出したとさ。

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2004年2月14日02:57| 記事内容分類:日本史| by 松永英明
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なんというか・・・牛丼やでそんな話されてるのもすごいというか、今そんなことされても迷惑というか(笑)
しかし、思うのですが、牛丼がそもそもなぜ廃止になったって、アメ牛がやばいからでしょ?でそれって、廃止するまでも充分やばかったわけで、下手すればO-157のカイワレ騒動のようになっても不思議じゃないはずなのに、なぜ吉野家はそのあともお客が入るのでしょう?わたしはそれが不思議でならないっす。
なぜみんな平気で食えるの?あたしはとてもじゃないけどあの話があった後、アメリカ牛なんか食べられないよ。

まあ、よくわからん病気よりも、交通事故や災害で死ぬ確率のほうがはるかに高いはずだから、そっちを心配すべき。
マスコミに踊らされすぎだよ。

さやさん>元々牛丼は好きじゃないのでどっちでもいいんですが、最後に残った肉が一番危険なのではないかと思いました!

で、2番目の人の言うこともそのとおりなのだが、病気を気にする以前に「安物のくず肉を使った牛丼が食えなくなる」ことを心配しすぎなのだと思いました!マスコミどころか大して体によくもないくず食品に踊らされすぎ!それ以上に人生の大事があると思います。

>さやさん
そんなことを言っていたら、いずれ食べるものがひとつも無くなりますよ。
和牛ですらBSEのひとつやふたつ、起こしていますが、食べないなんて話は聞きませんよね。
 
それと、安物の屑肉の飯だから重要なんじゃないんですか。
キャビア、トリュフ、フォアグラ……高級食材に病気が蔓延したところで、こんなに騒ぐでしょうか。
安物の屑肉だからこそ、これだけ騒がなくてはならないのです。

確率的に1万頭ぐらい発症してようやく1人ぐらい死亡するかどうかという内容ではまず安全と言って良いのでは?
寧ろ輸入時に振りかける薬品とか中国産の野菜とかのほうが問題は大きいはず

養殖マグロとかウナギとか、ヘドロの海でとれた魚とか、農薬ベトベトの果物とか。
何の栄養素も含まれてないくせにカロリーだけ高い清涼飲料水とか、ただ辛いだけで胃にもよくないスナック菓子とか、1年間作り置きしておく薬まみれのクリスマスケーキとか、1カ月3食食ったら肝臓がやられたという映画までできた某ハンバーガーとか。

渡る世間は毒ばかり(笑)
むしろ自分の経験としては、牛の病気よりも、牛丼屋の肉やたれの不健康さの方がよっぽど重要な気もします!バイト仲間はみんな「あんなもん食う奴はバカだ」といってました(笑:某牛丼屋バイト経験者)

もう少ししたら八十歳過ぎの老人の書き込みがあって話がまとまるのでしょうか?

まあどんな食べ物でも自己責任で選んで食べろって事ですか。

問題なのは牛丼だとか食べ物が不健康かどうかということではなくて、
経済的な能力に優れていたということなんです。

>松永さん
問題なのは食品として健康的であったかどうかなんてことではないんですよね。
それなら毎日毎食お粥と沢庵とか、パンと牛乳・リンゴだけで生活すればよいわけで。
経済的に牛丼が優れていたということなんです。
まず作られる速度が早い。そして値段が安い。最後にシンプルで美味い。また、高級でないゆえの気安さもありますし、長年日本人に好まれてきた歴史もあります。
当然、サラリーマンだとか経済的に厳しい人にとってはそのパフォーマンスの高さは格別なわけですから、
それが無くなってしまったとなるとちょっとした騒ぎになるのはごく当たり前のことです。

きっと、牛丼を食べる人を馬鹿だと言うような方は、高価な天然食品だけで作られた手間のかかった料理を常食できる立場(海原雄山?w)にいたのか、
日本の昔の修行僧の食事スタイルを理想系とする清貧主義者なのかもしれませんよ?(笑)

エジプトの石碑に「最近の若い者は・・・」とあった、という話を思い出しました。いつの世も人は変わらないのだなあ、と。w

私は別に牛丼を食べること自体はなんとも思わないんですが、ここ最近の牛丼騒動を見てるとなんだかあきれてしまいますね。TVもずっと牛丼、牛丼言ってるじゃないですか、そこまで大騒ぎするようなことなのかな?

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このブログ記事について

このページは、松永英明が2004年2月14日 02:57に書いたブログ記事です。
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