読者を突き放す書籍『電車男』には「編集」がない――「電車男」は読者参加型恋愛シミュレーションゲームのリプレイ

 今さらであるが『電車男』を取り上げる。結論から言えば、書籍『電車男』は最低の手抜き本である。こんな素敵な担当編集者をけなすことになるのは極めて心外であるが、しかし、こんないい加減に作られた本も珍しい。

 「電車男」のストーリー自体はどうでもいいし、それがフィクションだろうとノンフィクションだろうと私には興味がない。今回は著作権の問題もとりあえずどうでもいい。単に「まとめサイトをプリントアウトしただけ」という部分が問題だ。

 これは書籍を作るのに欠かせない「ライター」と「編集者(エディター)」の役割のうち、エディターの要素が欠落した本ということだ。以下、詳細に述べてみたい。

電車男
電車男

2004年12月17日11:18| 記事内容分類:ウェブ社会, 執筆・書き方・文章, 編集・出版| by 松永英明
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ライターとエディター

 よほどの文豪が小説を書くというのでもなければ、一冊の本を作るには、ライターとエディターの2つの役目が必要である。この二つの役目は対立するものである。私自身もライター的視点の時と、エディター的視点の時は頭のモードがまるで違う。

 いろいろなライター、エディターがいるからとりあえず自分の認識の範囲で言わせてもらうと、

  • ライター:「加える」作業。拡散。たくさんのものを網羅的に盛り込もうとする。
  • エディター:「削る」作業。収斂。伝えたい内容を効果的に表現するため、余計なものをそぎ落とし、焦点を絞っていく。その上で必要なものをライターに要求する。

という違いがあると考えている。言い換えれば、

  • ライター:書き手、表現者の視点が中心
  • エディター:読み手、受け手の視点が中心

とも言えるだろう。ひたすら伝えたいことを表現する、それがライターの仕事である。一方、「この部分に絞って伝えてくれ」「そこはもっとわかりやすく」と、読者の立場でライターに要求を出すのがエディターである。

 「これは編集されてない本だね」と出版関係者が言う場合、それはライターが好き勝手に書いたまま、編集者がほとんど手を加えていないようなものを指す。何となく雑多な感じのするもの、何となく焦点のぼけたようなものは、「編集が甘い」のである。

インタビューだって編集されている

 こう聞くと驚く人もいるかもしれないが、雑誌などのインタビュー記事だって編集されている。編集せずにただ単にテープ起こししたデータをそのまま紙面に載せることはほとんどない。そんな手抜きインタビュー記事など、はっきりいって読めたものではない。

 議事録のような正確な記録を求めるものならともかく、一般のインタビュー記事は、前後も入れ替えているし、いくつかの発言を一つにまとめたり、インタビュアーの言葉を取材された人の言葉にしてしまったりする。10分ぐらいかけて話したことが、わずか20字に収められてしまうこともあるだろう。

 もちろん、それは本当に言いたいことを正確に伝えるために必要な作業であって、「改竄」ではない。

 古い『別冊宝島』の中には、編集時間が足りなかったのか、インタビューのテープ起こしをほとんどそのまま載せたようなものもあった。それはそれで臨場感はあるかもしれないが、はっきり言って読みづらく、読みごたえのない内容となっていたのを思い出す。

 編集されていない書き物というのは、たとえ表現者の発した言葉を網羅し、表現者の言いたいことすべてを載せていたとしても、かえって「何が言いたいのかわからない」印象の弱い本になってしまう。それは、読者のことを考えていないと言ってもいいだろう。余計な部分はそぎ落とし、「この本ではこれを伝えたい」という部分に焦点を絞り込む、鋭い編集作業が必要なのである。

ライターとエディターのバトルなき本は腐る

 話し合いそのものは和気藹々としていようとも、ライターとエディターの打ち合わせというものは、「ライター的視点」と「エディター的視点」のバトルの場でなければならない。私はそう思っている。

 『ウェブログ超入門!』ではかなりの原稿がボツになった。ライター的に言えば、これも入れたらおもしろいのに、あれも入れば内容が膨らむのに、ということになる。しかし、初心者にウェブログの世界を紹介し、運営方法をアドバイスするという本の趣旨にとって、それはあまりにも煩雑すぎるし、テーマがぼけてしまう、と編集の方から指摘があった。言われてみればそのとおり。したがって、その部分はボツ原稿としたわけである。それは後からサイトに載せたが、一冊の本という形にとって、それはないほうがよかったのだ。

 その他、ネットをよく知らない編集者の方が一人ついてくださって、実際にこの本を読んでブログを作れるかどうか試してくださった。その結果、トラックバックなどについて追記する必要がある、という指摘があり、その部分を追加したりした。

 ジェームズ・アレンの訳書4冊についても、実は編集者の方とかなり意見の対立があった。私は訳者として、アレンの思想はこうである、という解釈を持っていた。これは譲れないところだ。しかし、そのまま伝えると、現代日本人にはきつすぎる言い方だったり、あまりにも受け入れがたい厳しい表現になってしまう部分がある。だから、それを変えてほしい、と編集者から要望があった。確かにハードな内容だ。だが、それを歪めてしまうとアレンの思想を伝えることができない。かなり緊迫したやりとりの末、表現をやわらげることで双方の着地点が見つかった。訳語一つの裏に、こんな攻防が隠されていたりするのである。

 共著『はてなの本』については最初から編集者の要望が明確であり、また分担も書き手のキャラクターが生かされる形で設定されていた。そのため、ライターとしての部分に専念できたという感がある。

 ムック「みんなのブログ」でも、「ここがわかりにくい」「ここはいらない」「もっとツールの解説入れましょう」といった注文が頻繁にやってきた。そのため、どういう情報を提供することが求められているのかがよくわかり、明確に書くことができたように思う。

 こう書いてみてつくづく思うのだが、私は編集者に恵まれていると思う。場合によってはむしろ私の方からエディター的視点で「この辺いらないかも」とか提案したりすることもあるが、今進行中の書籍についても、しっかりとした「ライターとエディターのバトル」が展開しており、自分としては練り込まれた本を作れると感じている。

 人によってはこういうふうに注文を付けられて書くこと、自分の書いたものを変えろと言われることに耐えられないかもしれない。しかし、そういう人はライターになるのではなく、自費出版や同人誌で満足すべきである。

エディターは「一人目の読者」であるだけでなく、情報加工業者である

 エディターというのは、ライターから見れば「一人目の読者」である。つまり、一般読者の視点を代弁してくれるという非常にありがたい存在だ。

 しかし、それだけではいけない。単に読んで楽しむだけではなく、読者を引きつけ、読者を煽り、あるいは読者を驚かせるような「誘導」を本の中に仕込む必要がある。読者に迎合するのではなく、読者にさらに効果的に情報を伝える必要がある。そのためのプロデューサー、プロモーターとしても、エディターは働かなければならない。

 エディターの仕事は、伝えたいことの焦点を絞り、読者によりよく伝え、字面の表現にこだわることなく、それでいて著者の本当に伝えたいことをもっと効果的に表現するための「加工」である。デザイン、レイアウトも含めての「情報の加工」だ。それが「編集」なのである。

「ブログの書籍化」は疑問

 さて、こういう背景を知っていただければ、私が「ブログをそのまま書籍化する」というサービスに疑問を持っていることも納得していただけるのではないか。

 1年も前になるが、「のらDJさんに「お話聞かれました」。ディレクターズカット」というエントリーを書いた。のらDJさんが「オレ、このblog見た時に「これ絶対書籍化するためのblogじゃねーの?」とか思った」と問いかけてきたのに対して、私は「あー、だめだめ。そんな安直に売れないし、そんな安直な本は作りたくない(笑)」と答えた。

 ブログというのは、もちろん執筆時にときどきエディター的思考に切り替えたりすることもあるが、基本的に「ライターの書きっぱなし」である。読者のツッコミで書き直したりすることもあるとはいえ、記事を書くときの視点はほとんどライター型であって、エディター的視点の存在はほとんどない。

 もちろん「自分の書いたものがそのまま本になれば、それだけでうれしい」という方に水を差すつもりはない。しかし、それは「本を作る」という喜びを味わうのであって、商品としての本を作るのとはまた話が違うのである。

 もし、ブログの内容がそのまま、何の加工もなく本になっているなら、それは編集されざる本である。それは単なるブログの記録本でしかない。サイト版と紙媒体版がまるで違う印象を与えるくらいでないと、本にする意味はない(というと言い過ぎかもしれないが、そう思う)。

 音楽でたとえるなら、スタジオで収録されたCDと、コンサート会場で演奏されたライブ盤に似ているのではないだろうか。そのライブ会場ならではのアレンジだとか、アドリブだとかがあるからこそ、ライブ盤は意味がある。逆に、CDは偶然の要素を排し、何度でも聴けるスタンダード版であってほしい。そして、定番はやはりスタジオ録音盤だ。

 余計な加工のないネットの書き殴りをライブ盤にたとえるならば、練りに練って数多くのテイクを重ねて完成したスタジオ録音盤は編集者の手の加わった書籍と比較できるだろう。ブログ記事のプリントアウトがそのまま書籍であってはならないのである。

書籍版『電車男』は編集されなかった

 さて、ようやくであるが『電車男』という書籍について見てみよう。

 これは、実は「電車男 まとめサイト」にまとめられていた2ちゃんねるログをほぼそのまま書籍化したものである。いってみれば「まとめサイトのプリントアウト版」と言えるだろう。もちろん、書籍化の課程で「見かけ上の編集作業」は存在する。しかし、編集者はこのログを何ら加工していない。まったく手を加えず、逆に、アスキーアートを画面上と同じように見えるように尽力するなど、原型をいかにそのまま再現するかということに力を注いだ。

 つまり、「まとめサイト」を読むのと、書籍版『電車男』を読むのでは、ほとんど違いがない。ただ、お金を払って紙にまとめられたものをいつでもどこでも読むのか、画面上でスクロールさせて読むのかというのが違うだけだ。

 だから「この本にはエディター的視点で加えられた加工がない」のである。そして、何人かの編集者の方から「何と安直な作りの本だ」「これで売れるのなら、編集者いらないよなあ」というような発言も聞いたことがある。この本が売れているのは、新潮社における編集が優れていたからではなく、別の理由があると思うが、それは後述する。

背景事情を伝える努力がない

 もちろん、編集がなかったとしても、それはそれで大丈夫な場合もあるだろう。たとえば、読者を引きつけるすべを十分に心得た小説家の文章について、編集者が一言も挟まなくてもいい場合があるかもしれない。しかし、その小説家は、すでに自分の頭のなかに有能な編集者を飼っているはずである。編集者上がりの小説家が成功しやすいというのも、そのあたりに理由があるのだろう。

 しかし、『電車男』はそうではない。これは読者を選ぶ本である。たとえば、インターネットをまったく使えない人がこのログをそのまま読んで、果たして理解ができるのだろうか。細部を飛ばせば話の流れはわかるだろうが、このスレッドのメインの住人が「モテたことのない男たち」であり、彼らが常々どのような行動を取ってきたか、また彼らの中から「彼女を作れた者」が登場するとき、いかに奇妙な連帯感を抱いて応援しつつ、衝撃を受けてきたか、というような背景について、このログをプリントアウトした本だけで知るすべはない。

 担当編集者自身、2ちゃんねる用語が全然わからなかったようだ。それについてはかろうじて用語集を入れてあるが、まったくもって読者を突き放した本だと言わざるを得ない。あるいは解釈を100パーセント読者にゆだねてしまう「主体性のない本」なのである。

 その背景事情を知っているか知らないかで読み方が変わってしまう。これは「書籍」としては失敗であろう。実際、2ちゃんねらーではない担当編集者は、このストーリーを「ネットワークで励まされて展開した美しい純愛物語」ととらえているようだが、私が以前、このスレッドのまとめサイトを(うっかり)読んだときには、「また2ちゃんねらーが盛り上がるための口実が一つ投下されたな」と感じただけだった。この電車男ストーリーが話題になったのは、電車男とエルメスの純愛が美しかったからではなく、電車男の報告に一喜一憂して盛り上がることができることができた、というのがそもそものスタートだろう。つまり、絶好のネタだったわけだ。その周辺事情を切り離せば確かに涙できるのかもしれないけれど。

 担当編集者は、そのあたりの背景事情がよくわかっていないようだ。おそらく、電車男とエルメスの純愛を派手な表現で応援する人たちがいた、程度の認識ではないだろうか。

自分が編集者だったらどうするか

 自分が編集するなら、これはドキュメンタリータッチにするだろう。客観的な視点で淡々と周辺状況や2ちゃんねるの解説を交えながら語っていってもいいし、まとめサイトを作った「中の人」の視点でずっと追ってみてもいい。事実関係を順番に追っていくとしても、スレッドの投稿そのままの引用はポイントを絞って使うことになるだろう。

 もし小説にするなら、電車男を主人公にするしかない。エルメスと2ちゃんねるの双方に接点を持つ電車男の一人称(あるいはその視点からの3人称)でなければ、小説としてのインパクトは薄れてしまうからだ。小説仕立てなら、第三者の視点は弱すぎる。

 これはいずれも、そのスレッドに投稿されたときのパニック具合や雰囲気といったものをよりよく伝えようという意図である。「読んでわからない奴はわからなくていい」というわけにはいかないのである。

 いずれにせよ、ただ単にスレッドのプリントアウトだけを突きつけて、「はい、ここから読み取ってください」というのでは、担当編集者にこんなことは言いたくないが、「それなら編集者はいらない」ということになってしまうのである。

何もしなかったのは功績か?

 おそらくここで、このような反論があるだろう。「何もしていなかったからこそ、売れたのではないか?」と。しかし、そうではない。

 今まで述べてきたことをまとめるなら、この『電車男』書籍版は、2ちゃんねるのログだけを見て理解できるネットワーカー向けの本である。それが何十万部も売れるというのは、それだけ2ちゃんねるログをそのまま読めるネットワーカーが多かったというだけのことであり、決して編集が優れていたからではない(だって何もしていないのだから)。そして、それは「ネタ」がよかったからだ、とは言えるが、ネットワーカー以外にこれを広げることは難しいだろう。

 もう一つ指摘しておこう。『電車男』書籍版は編集者不在だが、「電車男ストーリー」、いや「中の人」氏がまとめた「電車男まとめサイト」には編集者がいる。書籍は、まとめサイトをそのままプリントアウトしたものだが、まとめサイトは実は電車男の投稿したスレッドの完全な保存版ではなく、「中の人」によって取捨選択されている。つまり、書籍としての編集ではないが、ウェブサイトとして編集されていたのである。

 書籍化された中の人のまとめサイト以外に、電車男ログ集積サイトがいくつか存在しており、そこでは中の人がカットした情報が集められている。それは電車男フィクション説の論拠ともなっていたりするが、それはこの際置いておこう。ここで注目すべきは、「中の人」がすでに編集の手を加えていたということである。

 ウェブサイトレベルではあるが、「電車男」ストーリーは、中の人によって編集され、このような「ストーリー」となったのだ。

 ウェブ上には、2ちゃんねるのスレッドをまとめた「まとめサイト」がいくつもあるが、関連する投稿のみをまとめる人の主観によって取捨選択して載せているものが多い。ブログだと、そこに自分のコメントを挟んで話をわかりやすくしている実況型のものもある。それは書籍化にあたっての編集とはちょっと違うが、ウェブの来訪者に向けての編集が行われている。

ウェブサイト用編集はなされていた

 中の人によるログの編集によって「まとめサイト版電車男」はストーリーとして確立した。それをそのままプリントアウトしたのが『電車男』書籍版であった。「まとめサイト」は、2ちゃんねるの雰囲気やローカルルールや独自のジャーゴンなどをすべて理解できることを前提として編集されている。それを担当編集者はそのままプリントアウトして本にした。それは何を意味するか。

 2ちゃんねるのログを一読して理解できる人たち以外に、このストーリーを伝えようという思いは存在しないということだ。今の2ちゃんねるのアクセス数がどれだけか知らないが、母集団としては大きい方と言えるだろう。それだけをターゲットにしているというのならそれはそれでいいのかもしれないが、裏返して言えば、それは一般向けではないということでもある。

 「冬のソナタ」にはまっていて、パソコンが全然わからないオバサンたちが、同じ純愛だからといって電車男を理解できるのだろうか。それは無理だろう。つまり、一般の人にもわかるような編集がなく、わかる人だけわかればいいという「マニア向け」の本になってしまっているのだ。だから、「書籍」としてはこれは失敗だ、と私は断定する。もちろん、「2ちゃんねるのまとめサイトのプリントアウト資料」としての価値はあるのだろうし、マニア向けの本、専門書はいくらでもあるから、そういうくくりであれば「売れた本」とは言えるのだが、「2ちゃんねる発の新しい形の文学」などという表現はまったくもって噴飯ものだ。

 「ITmediaモバイル:2ちゃんの「良スレ」が電子書籍化されヒットするまで (2/3)」にこのような記述がある。

 バジリコの中川氏はまた、ネット上ではコンテンツが“玉石混交”だが、編集者の手をとおして書籍化されたものは信頼されるという違いがあるのでは、とも付け加えた。

 この発言は、編集者は玉石混淆の「石」を取り除くというものである、ということを示している。電車男の場合、まとめサイトにする段階ですでに「石」は取り除かれていたかもしれないが、書籍というもののメディア特性に合わせるためには、さらに料理する必要があったはずだ。

漫画化、映画化は受け入れられる可能性がある

 現在、電車男の漫画や映画の話があるようだ。それは書籍『電車男』とは別の評価になる。それは漫画として、あるいは映画として成功するかもしれない。なぜなら、そこには必ず編集が加わるからである。

 いくらなんでも、あのログを延々とスクロールさせた画面を流すだけの映画を作るわけはない。電車男やエルメスを演じる役者を連れてこなければどうしようもない。漫画なら電車男やエルメスを主人公として絵として描き、ストーリー化する以外に方法はない。私の考える小説版と同じように、それぞれの媒体(メディア)の特性に合わせた表現方法が取られるだろう。そのとき、監督やシナリオライター、漫画家などの手によって、周辺状況がきちんと説明されるか、あるいは逆に2ちゃんねるという掲示板のノイズを払って純愛だけを強調するか、いずれかの加工が加えられるだろう。それをやらないなら駄作になるのは目に見えている。

 しかし、それで「電車男ストーリー」を知った人たちにとって、書籍『電車男』は「主人公が実際に書いたとされる投稿」の生データ集にすぎない。しかも意味不明のノイズだらけの。テープ起こしそのままのインタビューデータ、ログ画面をスクロールして読ませるだけの映画と何ら変わることはない。

 くどいようだが、以上はあくまでも『電車男』という書籍における編集作業の欠落を指摘したものであって、「電車男ストーリー」が感動できるか否かということはまったく述べていない。ましてや、電車男ストーリーが「中の人」と2ちゃんねらーによる合作であって電車男は虚構であるという説を述べたわけでもない(そんな気もするが、今回の記事の言いたいことではない)。担当編集者に批判めいたことを書くのは本意ではないのだが、感動とか云々する次元以前の問題があまりにも目についたので今回のエントリーとなった。

電車男がウケたのは読者参加型「劇場型恋愛」だったから

 「電車男ストーリー」がなぜ受け入れられたのか、それは「純愛」だからではないはずだ。むしろ、2ちゃんねるスレッドを見せられて平然としているエルメスがしたたかに計算ずくで主導した「駆け引き」も鼻につく。しかし、2ちゃんねらーが、そしてネットワーカーがこの話で盛り上がったのは、「読者参加型」だったからだろう。電車男が実在するとすれば「劇場型恋愛」とでも呼ぶべきか。かつてのグリコ・森永事件では「かい人21面相」がマスコミに挑戦状を次々送りつけ、事件の深刻さとは裏腹に日本中が大企業を手玉にとって操る「かい人」の次の手紙を待望していたのと似たような構図が見受けられるように思う。

 2ちゃんねるの毒男(ずっと彼女いない非モテ男)たちは、もしかしたら自分にも「毒男」脱出のチャンスがあるのではないかというファンタジーを抱かせてくれる投稿を心待ちにし、(たとえ電車男が実在であろうとなかろうと関係なく)ストーリーの進展を同時進行で目撃し、そこに乗っかれる「一イベント」として盛り上がっていったのだ。そして、読者はその「臨場感」を追体験していく。「電車男」の本質はここにある。「電車男」のストーリーの本当の主人公は、実はスレッドに参加していた匿名の「毒男」たちなのだ。

 しかし、大半の書評は「電車男とエルメスの純愛」に焦点が当てられてしまっている(ITmediaの記事はさすがに本質を突いている)。電車男が実在しようとしまいと、このストーリーの中で「毒男」たちが盛り上がったという部分は事実として成立するのであるが、そこを押さえておかないといけないだろう。

電車男ストーリーは恋愛シミュレーションゲームだった

 言い換えれば、毒男たちにとっての電車男ストーリーは、恋愛シミュレーションゲームの延長線上にあったのではないか。いかにイベントをクリアし、フラグを立て、正しいエンディングを見られるようにするか。毒男たちはアドバイスと称して自分なりの「コマンド」を入力し、電車男はそのコマンドに従ってストーリーを進めていく。電車男まとめサイトは、恋愛シミュレーションゲームのリプレイ(プレイ内容の再現)だ。中の人はシミュレーションゲームのリプレイライター(あるいはゲームマスター)である。

 読者参加型恋愛シミュレーションゲーム「電車男」のリプレイ集。書籍『電車男』はそのレベルのものでしかない。いや、リプレイ小説だったらちゃんと編集されているから、それ以下だ。

 もっとも、すでに「電車男ラブストーリー」は電車男や中の人、あるいは2ちゃんねるの枠組みを外れて動き始めている。ネットに馴染んでいない人たちからみれば、電車男のストーリーはごく普通の恋愛もので、ただ「恋愛について相談する相手」がたまたまネットの匿名たちだったのが違うだけ、ととらえられるのかもしれない。それは「別の作品」に化けていくことになるだろう(小説や漫画、映画がまるで違うものになるのはよくあることである。デビルマンを例に出すまでもなく)。

 ネット掲示板発ということでは韓国の「猟奇的な彼女」の日本版といえるだろうか。電車内が出会いの場など、かなりの共通項もある。しかし、「猟奇的な彼女」ではネットがなくても恋愛ストーリーそのものが成立する。一方、「電車男」では2ちゃんねる毒男たちの存在なくしてストーリーが成り立たない。その「ネットとの絡み」をどのように表現するか。あるいは、それをどのように別のメディアに翻訳していくか。それが今後の課題であろう。

「電車男」関連リンク集

総合ログ系

「中の人」と新潮社

ネット評・書評

報道系

電車男
電車男

 電車男を小説化してネットで公開しても、ログの扱いさえうまくやれば問題ないよね。やってみるかな?(←そんなヒマあるのか?)つーか「まとめサイトプリントアウト本」は小説の体を成していないので、念のため。

追記

2004.12.23.コメント欄での批判を受け、「美人編集者」という表記をすべて「担当編集者」に改めました。いつもはdelタグを使って取消し線で削除個所を明記しますが、「美人編集者」としてしまうと「美人じゃない編集者」という意味に見えてしまうので、今回は用語を変更することにしましたことをご了承ください。

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2004年12月17日11:18| 記事内容分類:ウェブ社会, 執筆・書き方・文章, 編集・出版| by 松永英明
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コメント(28)

> 「本を作る」という喜びを味わうのであって、賞品としての本を作るのとはまた話が違うのである。

変換ミスがありますよ

ども。修正しました。

こんにちは。
「中の人」の編集はある、と認めていらっしゃるのですから、今回のタイトルは不適当な気がします。プロの「編集」がない、ということなのかもしれませんが。どうせなら「中の人」の行なった編集についてもっと突っ込んだ分析が読みたかったです。
あと、さかんに「美人編集者」と繰り返すのはかなり悪意のある書き方だと思います。彼女が美人じゃなかったらどうだったのか、美男やそうでない男性編集者でも同じように容姿プラス編集者、という呼び方を繰り返したのか、と。

書籍用の編集とネット向けの編集はまるで違うものなので、“書籍『電車男』”と強調しているわけです。
「中の人」の編集は、またちょっと別の問題になってきそうなので今回は保留しました。

ネット上のログをアスキーアートも含めて、そっくりそのまま書籍化したものとしては、『電脳筒井線』という先例がありますよね。
でもあれは発言を適宜取捨選択しているし、筒井康隆という編集者的な感性を持っている作家が監修したので、当時はネットのことをまったく知らなかったオレでも楽しく読めました。

電車男はまとめサイトも書籍も目を通してません。ここまで話題になると、かえって「読んでやるもんか!」と思ってしまうので。

最後にFlashを見ることで物語の背景まで完全に理解できるのかなぁ?なんて思います。たしかFlash版は物語としてト書きがあったはずです

私も文章読みながらくえりーさんと全く同じ印象を受けてしまいました。「“書籍『電車男』”と強調している」とのことですが、タイトルを一読して「編集」が「書籍(あるいは出版ですか)としての編集」という意味と理解するのは出版に関らない人にはピンと来ないように思えます。

「出版としての編集」って表現が適切なのかは素人の私にはわかりませんが、何か加えた方が門外漢がタイトルの意図するところを誤読しにくいかと思います。

編集がない本があっていいのでは?
そんなにくそがでるほど力んでいるのは何か別の理由でも?
編集者に勝手に変更を共用されて憤慨する人は多い。
権力的でアホーな編集者に泣かされる人は少なくない。高名な学者でさえそうした事例は少なくない。
今日の出版報道はアホーな編集者であふれており、トンチンカンなレフリーぶりはあまりにもひどいではないか?
編集がなくても問題ない場合はおおいのではないか?
編集がないと読者は突き放されるのか?
事実がそうではないことを示しているではないか?

「自分ならこうする」的な話が出る時点で呆れたんですが、もし真っ当な小説に仕上げてみたところで、実際の電車男以上に売れると思っているんでしょうか。編集の重要さは理解しますが、企画としての本のあり方を考えた場合、このような編集者個人を批判する文章は書けないと思います。実際に大当たりしたわけですし。あんまり批判するのもよくない気がするんですが、文中に「美人編集者」とかセクハラ紛いの事を書いてるので、別にいいでしょう。ほら、さっさと電車男の小説版書いて公開してくれ。だれも見ないんだろうけど。

盲目的信者が涌いてきたな

「純愛・感動もの」と言うなら、まとめサイトではなく、電車男本人の視点から書いてくれたほうがわかりやすかったかな、とは思いますね。それでも面白かったケド。
編集したほうがいいかどうかはともかく、いろんな見方のできる本だと思いました。
それと「作り話かどうか」を気にしている人多いですね。なんでですか?

事実ということを強調してるわりには、やらせっぽいからじゃない?<作り話かどうか

大筋同感、と言うか、
「まとめサイト」の中のヒトの編集は、(一般向けでないにしても)私にとっては価値があるけど、
このような書籍としての編集は(と言うか編集不在は)何の価値も無いよなぁ、と予てから思っていたので、
こうやって整理してくれるのはありがたい。

書籍化にあたり「編集者」はいない、という考察自体には同意。俺も一読してそう思った。
ただ個人的には「それを狙ったんじゃねーの」とも思うがどうか。
ゲームとかアニメとか映画とかに置き換えれば分かりやすいが「知ってる人しか分からない」企画は意外と多いんじゃないかな。
つまりは松永さん自身がおっしゃった「まとめサイトのプリントアウト版」を作る企画、「電車男ファングッズ」として捉えられるべき企画がたまたまヒットしただけではないかと。

> もちろん、それは本当に言いたいことを正確に伝えるために必要な作業であって、「改竄」ではない。
編集は改竄ではあり得ない、とは言い切れないのでは?本論とはあまり関係ないですが。書籍電車男の方には、あまり興味がないです。

>>17
微妙ですね。
本人がゲラをチェックしていれば、その判断は出来ますが、
それがない場合がもしあれば、故意か事故かはともかく、改竄してしまう可能性がありますからね。

関係ないですが、「アイドルが書きました」的な本のゴーストの作業は編集と言えるんでしょうかね?

>2ちゃんねるのログを一読して理解できる人たち以外に、このストーリーを伝えようという思いは存在しない

むしろ逆なんじゃないかなー、と思うわけですが。
実際、

>大半の書評は「電車男とエルメスの純愛」に焦点が当てられてしまっている

という理由でのヒットのしかただったのだし。

千何百円もする「サイトのプリントアウト」が十万部の単位で売れるということは、実はインターネットなるものがまだまだ「一般のもの」にはなっておらず、いわゆるDigital divideといわれる「カベ」がまだまだまだまだ高いことの証左ではないかと思うのですがいかがでしょう。

買う気もないし、立ち読みするのもなんだか気恥ずかしかったこの本を
このエントリを読んでどうしても内容が気になってしまい
書店で立ち読みするという羞恥プレイを強要されました!!!!!!!

近年稀に見る物凄い嫌がらせだ!!!!1
信じられません!

まず”美人編集者”の使い方が僕には好ましくなかったデス。
しかし内容は、僕が知らないいろんな視点から意見を述べていらっしゃるので、なんかこう、意気込みみたいなのが伝わってきました。
コメントのみなさんの熱気から、つい、自分も乗ってみたくなりコメントしました。
今後もいろいろ物議をかもしてしまいそうな「電車男」ですね。
この記事の「電車男」話題から、直感なのですが、ものスゴくいろんなものに膨らみそうな気がします。グッズとか饅頭とか造ってみようかな(笑)
例えです。ファンのヒトごめんなさい。

「電車男」の今後の展開のカギや、結果としての、成功or失敗を追いかけてみてはいかがでしょうか。
せっかくだから、一緒に「電車」に乗って、「もっと売れてる!”間違え゛だらけの電車男”」
©徳○寺ゆたか。

まず”美人編集者”の使い方が僕には好ましくなかったデス。
しかし内容は、僕が知らないいろんな視点から意見を述べていらっしゃるので、なんかこう、意気込みみたいなのが伝わってきました。
コメントのみなさんの熱気から、つい、自分も乗ってみたくなりコメントしました。
今後もいろいろ物議をかもしてしまいそうな「電車男」ですね。
この記事の「電車男」話題から、直感なのですが、ものスゴくいろんなものに膨らみそうな気がします。グッズとか饅頭とか造ってみようかな(笑)
例えです。ファンのヒトごめんなさい。

「電車男」の今後の展開のカギや、結果としての、成功or失敗を追いかけてみてはいかがでしょうか。
せっかくだから、一緒に「電車」に乗って、「もっと売れてる!”間違え゛だらけの電車男”」
©徳○寺ゆたか。

上ですでに何人かがコメントされていますが、「美人編集者」と言う表現はやめませんか?
悪意を感じるし、読んでいてとても不愉快です。(男性だったら「美男子編集者」とは書かないでしょう?)
普通に「担当編集者」ではダメな理由がおありなのでしょうか。

「電車男」は実際に読みましたが、2ch当該スレッドをよく知らない自分でも楽しく読めました。「何もしない」というのも一つの表現方法ではないかと思います。
逆に、松永さんのおっしゃる編集方法だとかえって「やらせ・作り物」臭さが感じられて、自分は読まなかっただろうなという気がします。

この先、出版形態にも様々なパターンが出てくれば、「これ!」という形に落ち着くのかもしれませんね。

書籍「電車男」がまとめサイトのプリントアウトであることは紛れもない事実であって、そこに編集行為はないというのは全く同感です。アスキーアートを崩さないでページ内に収めることは“編集”ではなく、DTPの職人が何も考えずにやることですよね。
書籍化される前に話題になっていたからこれだけ売れただけで、ちゃんと読者の立場に立った“編集”がされていればもっと売れていたと思います。編集者として評価されることは何もない。

>「電車男」では2ちゃんねる毒男たちの存在なくしてストーリーが成り立たない。

この前、独身男性板をロムしてたのですが、純愛と言うより「男は女で変わるのか、女は男を変えられるのか」あたりがテーマではないかという気がします。

何人かの人が同じようなコメントをしているので,重複になります。
色々な選択肢の中から,編集者が,プリントアウトしたものに近づけるという選択をしたのだと思います。2ちゃんねるのログが書籍になると聞いたとき,どのような形になるのか興味がありました。そして,あのような形態で出版されたときに,「そうきたか」と思いました。
それに,あの形態が,編集者一人の独断専行だとは思えません。周りの人だって色々意見は言ってくるでしょうし,本記事で言っているような批判も,社内の誰かが本人に言っている内容のような気がします。「そのまま出だすだって? よいとは思えないな」というような形で。

電車男に限って言えば、2chの生の記事(いわゆる本スレ)を「電車男のまとめサイト」とした時点で、立派な編集行為があったと思います。単に有益でない情報かどうかを取捨選択して、ターニングポイント的情報を強調表示しているだけですが...
毒男板では、書籍化以前の段階で、ネタだの荒らしだのをばっさりと切り捨てた「まとめサイト」の編集内容についてよく議論してましたよ。それによって、まとめサイトの編集のクオリティが上がったようにも思います。

だから、まとめサイト以降の「書籍版『電車男』」には書籍としての編集がない、と書いてるんですが。まとめサイトでの編集はここでは触れていません。

コメント欄に関しては斜め読みで申し訳ないのですが、とりあえずこの記事の感想を書かせてください。


自分も、2chネラーなので、電車男の本はとても面白かったです。
しかし、まつなが氏の言うとおり、本を開いて思ったことは、「うわ、まんま過去ログが乗ってるよw」でした。
で、読んでくうちに、毒男とか、2ch用語がごろごろしてて、とても一般人が読めたものではないなと感じました。
おそらく、2chネラーが初めに飛びついて、それが火付けになって一般人も買ったのではないのかと思います。
(2chネラーの数は半端じゃないですしね)
独特のAAや書き込みも結構残ってましたし、むしろ一般の人が嫌がるのではないかというようなものも結構ありました。
2chは一般では悪い評判ばかりですしね。
(ニュースで電車男の報道を見たときは、2chという単語は一度も出てきませんでした)
こういう本があってもいいとは思いますが、お金を取って本として一般的に売り出す以上、やはりもう少しやりようがあったんじゃないかとも感じます。
自分の周りにいる普通の友達に、「これ、毒男って読める?意味わかる?」
と聞きましたが、「いやさっぱり」といっていました。
つまり、何の予備知識もないんじゃわけわかんないんですよね。
すくなくとも、[2ch][電車男のあらすじ]この二つぐらいはわかってないとつらいんじゃないんでしょうか?
はやってるから買ってみた。という人は困るでしょうね。
まあ2ch的に言えば、中を確認せず買ったやつが悪いとか、わからんやつは読まなきゃいいってなるんでしょうけど。
でもそれじゃあんまりな気がしませんか?
どんな作品だって、みんな平等に楽しむ権利があると思うんですよね。
なら自分で2chしらべりゃいい。っていわれるかもしれませんが、そうは行かない人だって居るでしょう。
お金を取るんだから、普通の人にも理解できるようにその本自体にサポートを加えるべきだと思います。
お金を取るって言うのはそういうことです。


まあ、長々書いてしまいましたが、つまり私はまつなが氏の意見に同意して、勝手かつへたれながら、付け足しをさせていただきました。
長々駄文失礼しました。

Tristar さんと全く同意見。

『書籍』として未編集(このへん、みんな読解力が無いのかなぁ?)は全くその通りだけど、あえて狙った(もちろん編集としてはラクしている)と。

それでもって、だからこそ、一般ピープルに対して「不思議な雰囲気(意味不明な言葉も含めて)」のインパクトがあったのでは、と。

「恋愛もの・純愛もの」として売っているのは、ただ現在のトレンドに倣った宣伝文句なだけでは? 映画のCMなんかでも「泣けるよねぇ」みたいな試写会の女子高生の発言があるけど、実際はまったく泣けない映画だったり、でも別な意味で面白い映画だったり。話はそれますが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で泣ける人の気が知れない。でも映画自体は妙に面白かった。

うん、だから何を言いたいかというと、松永さんがおっしゃりたいことは百も承知で、老獪な新潮社はあのようにしたのかな、と思うわけで、批判すればするほど、思うつぼのような気がするのです。

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このページは、松永英明が2004年12月17日 11:18に書いたブログ記事です。
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