「情人節」の由来【中国的バレンタインデー(1)】

 中国ではバレンタインデーは「情人節(チンレンチエ)」といい、日本のように女性が男性にチョコレートを贈るというのではなく、恋人同士がプレゼントし合う日となっている。というわけで、中国のサイトからバレンタインデー関連の記事をピックアップし、翻訳してみた。

 まずは「情人節」の由来と歴史について。

2005年2月12日23:01| 記事内容分類:中国時事ネタ, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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情人節の由来

 下記3つの記事を訳して再編集してみた。

ルペルカーリア祭

 古代ローマの時代には、2月14日はユーノーへの敬意を表するために置かれた祭日だった。ユーノーはローマ諸神の皇后で、ローマ人はこの女神を女性と婚姻の女神としてあがめていた。

 それに続く2月15日は「ルペルカーリア祭」で、これはユーノーの統治下のその他の神々に尊敬を示す祭日であった。古代ローマでは、若者と少女の生活は厳格に分けられていた。しかし、ルペルカーリア祭では、若者たちは自分の心から愛する女の子を選んでその名前を花瓶に記した。こうして祭日を過ごすとき、若者は自分の選んだ女の子と一緒にダンスをして祭日を祝うことができる。もし選ばれた女の子が若者にその気があったなら、彼らはそのままカップルとなり、最終的には愛情をかわし、聖堂に入って結婚することになった。後代の人はこのために毎年2月14日を情人節に決めたのである。

ワレンティヌス バージョン1

 Valentine's dayは情人節の英語での言い方だ。文字だけ見ると、情人節という意味と西洋の表現の関係はわかりにくい。ここには一つの感動的な物語が隠れている。

 紀元3世紀ごろのローマは、当時カエサルが死んですでに300年近くが経っており、暴君クラウディウスが政権を握っていた。そのとき、ローマの内外に戦争が頻発し、人民は安心して生活できなかった。兵士を補充して戦争を遂行するため、クラウディウスは、一定の年齢範囲内の男子はすべてローマの軍隊に入り、国家のために命を投げ出すように命じた。このため、夫は妻と離れ、少年は恋人と離れることとなった。こうしてローマ全域が遠距離恋愛に覆われることとなった。これに対して、暴君は大いに腹を立てた。自分の目的を達成するために、結婚式を行なうことを禁止し、さらにすでに結婚した者も離婚するよう求めた。

 しかし、暴政でも愛情を止めることはできない。暴君の都に一人の人望の高い修道士がいた。それが我らが主人公ワレンティヌスである。カップルたちがこのように永遠の離別を味わうのを見るに忍びず、助けを求めてきたカップルのために秘密裏にキリスト教の結婚式を執り行ったのである。しばらくして、このように人々を勇気づけるニュースは国中に広まり、さらに多くのカップル達が秘密裏に修道士に助けを求めに来た。

 しかし、このことはすぐに暴君にも知られることとなり、そこで残酷さをさらに発揮した――修道士を牢獄に入れ、最終的に拷問して死なせたのである。修道士の死んだ日は2月14日、西暦270年の2月14日だった。

 あえて暴君に闘争を挑んだこの人を記念するため、人々は2月14日を一つの祝日にした。何世紀も経って、人々はクラウディウスの名前は忘れ、その権勢や宝剣も忘れてしまったが、未だにワレンティヌス修道士の名前は記憶に残り、恋人たちはワレンティヌスを記念して互いに愛を告げる手紙を書き、お互いの気持ちを高めるようになった。後にチョコレートやプレゼントを贈るということになり、商売人が儲ける日となったのである。こうしてこの日はバレンタインデー、つまり情人節となった。

ワレンティヌス バージョン2

 古代ローマの青年キリスト教宣教師のワレンティヌスは、危険を冒してキリスト教の教義を広め、逮捕された上投獄されたが、老いた獄吏とその娘アステリウス(両目とも失明していた)を感動させ、熱心に世話を受けた。死刑に臨む前にワレンティヌスは娘に「あなたのワレンティヌスより」という手紙を渡し、娘に対する深い情を伝えた。死刑になったその日、目の見えない女は墓前で一株の赤い花の咲いた杏樹の樹を植え、自分の思いを託した。この日が2月14日だった。

牧神祭

 牧神祭がワレンティヌス修道士の伝説と結びついたのは、実は西暦270年よりもはるかに前だった。

 ローマがようやく土台を固めたとき、周囲は荒野で群れを成すオオカミがあちこちに出没していた。ローマ人の崇拝した神々の中で、牧神ルペルクスは牧羊人と羊の群の保護をつかさどっていた。毎年2月中にローマ人は盛大な式典を挙行して牧神祭を祝った。当時の暦は現在と比べて少し遅れており、牧神祭は実際には春が間もなく来るというお祝いだった。

 この祭日は、ファウヌス神を祀る祭日だったという人もいる。ファウヌス神は、古代ギリシアの人身羊脚で頭上に角のあるパーンに似ており、牧畜と農業をつかさどる。牧神祭の起源は実際には非常に古く、紀元前一世紀の学者たちにさえもわからなかった。しかし、この祝日の重要性には疑問の余地がない。史料によれば、マルクス・アントニウスは紀元前44年の牧神祭でユリウス・カエサルに王冠を授けた。

 毎年2月15日、神官たちはローマ市のパラティヌスの丘の洞窟のそばに集まった。ここで古代ローマの建国者(ロームルスとレムス)が一頭の狼に育てられたといわれている。

 祭日のいろいろな祝典の中に、若い貴族たちが手に羊皮鞭を持ち、大通りを駆けるというものがあった。若い婦人たちは大通りの両側に集まって、羊皮鞭が自分の頭上に振り下ろされるのを願った。人々は、こうすることによって子供を産み育てやすくなると信じたのである。ラテン語で、羊皮鞭はフェブルア(februa)といい、鞭打つことはフェブルアティオ(februatio)という。実際には「清らか」という意味もある。ここから二月の名称(February)が来たのである。

 ローマが勢力をヨーロッパに拡張するにつれて、牧神祭の習俗は現在のフランスやイギリスなどの地方に広まった。

 人々の最も楽しんでやまないこの祭日の行事として、福引きに似たものがあった。若い女性の名前が箱の内に入れられ、それを若い男性が抜き取る。引いた一対の男女は恋人となる。その期間は一年またはそれ以上となる。ローマの若い男性は広場で特定の容器から女の子の名前を抜き出し、抜き出された女の子は一年間、彼女を引きあてた男性に従って用事につきあわなければならない。それは、翌年また抽選されるときまで続く。

 キリスト教がローマに入った後、教会はこの活動を修正する方がいいと考えた。そこで、名前を抜き出す方法を変え、男女双方が抽選できるようにした。しかし、若いローマの男女は、自分の好きな相手を引き当てなかったとき、落ち込むものであった。そこで、ちょっと無邪気なローマの少年たちは別のやり方を思いついた。自分の好きな女の子の名前を引き当てるのを待つよりも、自分の名前を書いたカードをその女の子に直接送り、積極的に気持ちを表現するというものだ。こうして、カードを書くという伝統は今に至るまで踏襲され、情人カードの起源となった。

 キリスト教の興隆で、人々は神々の習俗を記念することをやめるようになった。宣教師たちは人々が祝日の歓楽を放棄することを望まず、そこで牧神祭(ルペルカーリア)をバレンタインデーとし、2月14日にずらした。こうして、ワレンティヌス修道士の伝説と古代からの祭日が結びつけられたのである。

 この祝日は中世のイギリスで最も流行した。未婚の男女の名前は抽選された後、彼らはお互いにプレゼントを交換する。女の子はこうして、一年間男子のバレンタインとなるのである。男子の袖の上に女性の名前を刺繍することがあり、この女性を世話し、保護するのは男子の神聖な職務となった。

現代の形式

 現代のようなバレンタインデーは、15世紀初期に見いだすことができる。フランスの若いオルレアン大公はアジャンクール戦役で英軍の捕虜となり、その後ロンドン塔の中に長い間閉じこめられていた。彼は妻に多くの愛を伝える詩を書いたが、その60首ほどが今も保存されている。

 花を使ってバレンタインデーのプレゼントとするのは、大体200年後に出現した。フランス王アンリ4世の娘の一人がバレンタインデーに盛大な夜会を開いた。女性を選んで自分のバレンタインとした男性は一本の花をプレゼントした。

 こうして、古いイタリア・フランス・イギリスの風俗が受け継がれ、我々は毎年2月14日に自分の友達に愛のメッセージを伝えることになったのである。

現代のバレンタインデー

 1837~1901年、英国ヴィクトリア女王時代のバレンタイン習俗は特に独特のものだ。2月14日には、カップルは恋人に対して、特製のたらいのなかに、一株で二つのつぼみがついた春枝を入れる。花の名の1文字目は、相手の姓名の1文字目と合ったものでなければならない。数日後、この春枝の蕾が開けば最高、恋人達は老いるまで仲良く連れ添うという予兆である。もし二つのつぼみが開かないならば、このカップルは絶対に離ればなれになる。開いた花が大きく、絢爛豪華ならば、子孫が栄え、喜びが大きいということである。枯れしぼんでしまうなら、一人が早逝する危険がある。

 バッキンガムではバレンタインデーの夜に祈祷する風習があった。一本のろうそくをともし、二本の細い針を刺し、ろうそくの底から灯心に至るまで自分の愛する人の名前を念じ、ずっと愛し合うことを祈る。蝋燭が針の先まで燃えるまで待っていれば、愛する人が扉を叩いてくるといわれていた。

 あるバレンタインデーの習俗では、バレンタインデー前の一週間、連続七日、左脚の靴下を脱いで右足に履き、繰り返して「私の密かに愛している人が今晩の夢に出てきますように」と祈る。そうすれば、この時、月下老が一本の縁起のよい深紅の絹糸を投げてくれるのだという。靴下を脱いで首に巻いて愛情を祈ることもある。

 ヴィクトリア朝以後、バレンタインデーの風俗は簡素化されたが、20世紀の30~40年代に祝賀カードが盛んに行なわれるようになったのに従って、バレンタインデーも再び盛んになった。

 ある国では、バレンタインデーは女性が男性に向かって愛情を伝えるものとなり、そこで3月14日は「這情節」つまり男性が女性に向かってお返しのプレゼントを贈る日となっている。

 ここ20年、情人節は中国ではますます盛んになり、中国現代性風俗となった。

中国情報局関連記事へのリンク

今年はバレンタインデーがちょうど「春節(旧正月)」休暇と重なるため、「春節商戦」にやや押され気味という感が否めない。

中国では、2月14日に男性から女性にプレゼントを贈るのが一般的。中でもバラが昨年に続いて人気を博している。チョコレートを選ぶ男性と言えば、今回の調査で36%に達し、2番目に多かった。続いて、実用的な部分が喜ばれる香水と化粧品がそれぞれ21%と19%。一方、大胆な贈り物では「セクシーな下着」が16%に上った。

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2005年2月12日23:01| 記事内容分類:中国時事ネタ, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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学校で教わらない歴史の話 - バレンタインデーって、何? (2005年2月13日 18:55)

(本日は少々いじけがちですので、ご注意を) 世間はバレンタインデーとやらで浮かれているようです。なんでも、女性からチョコレートをもらえる日だそうです。 …まぁ、引きこもり... 続きを読む

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