伝統主義的な新教皇(ローマ法王)ベネディクト16世(ラツィンガー枢機卿)は元ヒトラー・ユーゲント不良隊員だった

 教皇ヨハネ・パウロ2世の後継者として、ラツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世と名乗ることになった。この人物についての詳細な経歴がWikipedia英語版に掲載されていたので、これを翻訳して公開する。Wikipediaの原文はGNU Free Documentation Licenseのもとで公開されており、この訳文も同様のライセンスが当てはめられる(詳細はリンク先参照)。ただし、この訳文に関しては、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスにおけるby-sa(著作権者表示―二次的著作物の同一条件許諾)を適用させていただくこととする。

2005年4月20日13:26| 記事内容分類:世界時事ネタ| by 松永英明
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Pope Benedict XVI 教皇ベネディクト16世

 教皇ベネディクト16世(Benedict XVI)、ラテン語の正式名称はベネディクトゥス16世(Benedictus XVI)、ヨーゼフ・アロイス・ラツィンガー(Joseph Alois Ratzinger、ラテン名はヨセフス・ラツィンガー=Iosephus Ratzinger)(1927年4月16日生まれ)は、2005年4月19日、ローマカトリック教会のローマ教皇に選ばれた。ローマ司教、バチカン市国統治者、ローマ・カトリック教会(教皇庁をともにする東方典礼(東方カトリック教会)を含む)の長である。2005年4月24日、教皇就任ミサで正式に教皇として就任する。

 78歳で選出されたのはここ275年で最高齢である。また、ハドリアヌス6世(1522~1523)以来初のドイツ人教皇である。ハドリアヌス6世はドイツ人でもありオランダ人でもあった。というのは現在のオランダ地域に住んでいたが、当時はドイツの州の集合体であったからだ。ベネディクト16世は史上8人目のドイツ人教皇となる。ベネディクト名の一代前の教皇ベネディクト15世は1914年から1922年までローマ教皇をつとめ、世界大戦のあいだに就任していた。

 1981年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって教理省長官(Congregation for the Doctrine of the Faith)に任命され、1993年にヴェレトリ・セグニ枢機卿となり、2002年に枢機卿会長に選ばれ、オスティアの名義司教となった。教皇に選ばれるまでに、バチカンで最も影響力を持つ故教皇ヨハネパウロ2世の側近となっていた。ヨハネ・パウロ2世の葬儀と、自分の選ばれた2005年コンクラーヴェの議長をつとめた。この教皇空位期間において、カトリック教会最高位にあった。ベネディクトを伝統主義者と見る者もいるが、単なる正統派だと見る者もいる。しかし、ベネディクトがカトリック教義の確固とした擁護者であるという点についてはほとんどすべての批評家が同意するところである。同性愛、ゲイの結婚、妊娠中絶に批判的であり、カトリック教会のみが唯一救済できると語ったことがあり、他のすべてのキリスト教教会や礼拝コミュニティーでは不充分であると述べた。枢機卿時代に『真実と寛容』という書籍を書いた。これは寛容ということばが真実を歪める口実として使われていることを非難する書物である。ベネディクトは第2回バチカン公会議にも司祭として参加し、ノストラエターテ(Nostra Aetate)すなわち他の宗教を尊重し、信教の自由の権利を認める宣言など、この公会議を擁護し続けた。この公会議において自由主義者と見なされた。教理省長官としてベネディクトは、他の宗教のあいだでカトリック教会の占める位置について、「ドミヌス・イエスス」文書において、全キリスト教会の対話を適切な方法として述べた。

前歴

 ラツィンガーはバイエルン州Marktl am Innに警察官の息子として生まれた。1937年、ラツィンガーの父親は退職し、トラウンシュタイン(Traunstein)町に住んだ。ラツィンガーが14歳になった1941年、1938年の法律で定められたとおりヒトラー・ユーゲントに入隊した。「ナショナル・カトリック・リポーター」の通信員で伝記作家のジョン・アレンによれば、ラツィンガーはいかなる集会への出席も拒んだ不熱心な隊員であった。1943年、16歳のとき、ラツィンガーと同級生は対空砲隊に徴兵され、ミュンヘン郊外のBMW工場の守備を命じられた。この工場は航空機のエンジンを生産しており、ダッハウ強制収容所の収容者を働かせていた。ラツィンガーは基本的な歩兵訓練のために送られ、オーストリア・ハンガリー国境に配属され、対戦車防御の準備のために働いた。バイエルンに送還後、1945年5月に脱走し、トラウシュタインに戻った。

 トラウンシュタインに戻った直後、連合国軍捕虜キャンプに6週間拘留された。6月には本国に送還され、兄弟(ゲオルグ)とともにカトリック神学校に入った。1951年6月29日、二人はミュンヘンのファウルハーバー枢機卿によって僧職を授けられた。論文(1953)は聖アウグスティヌスについてであり、第2論文は聖ボナヴェントゥラについてであった。1957年に神学博士号を得、1958年にフライジング大学教授となった。

 ラツィンガーは1959年から1963年までボン大学教授をつとめ、それからミュンスター大学に移った。1966年、チュービンゲン大学の教義神学部長となった。ここでハンス・キュングの同僚であった。しかし、チュービンゲンの自由主義的な気風と1960年代の学生運動のマルクス主義傾倒のなかで、彼は伝統主義的な見解を確立した。ラツィンガーは第2バチカン公会議においては自由主義的な神学顧問であったが、1968年以後、学生運動の非宗教主義(世俗主義)に対抗するようになってからは保守的になった。1969年にバイエルンに戻り、レーゲンスブルク大学に移った。

 第2バチカン公会議(1962~1965)にラツィンガーは、ドイツのケルンのヨーゼフ・フリンクス枢機卿のための専門官(教義的専門家の長)として参加した。

コムニオとその後の経歴

 1972年、ラツィンガーは、ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(Hans Urs von Balthasar)、アンリ・ド・リュバック(Henri de Lubac)らとともに神学雑誌コムニオ(Communio、http://www.commuio-icr.com/)を創刊した。現在17種類の版(ドイツ語、英語、スペイン語その他多数)で発行されているコムニオは、カトリック考察における最も重要な雑誌の一つとなっている。

 1977年3月、ラツィンガーはミュンヘンとフライジングの大司教に任命され、その6月の枢機卿会議で教皇パウロ6世によって枢機卿に任命された。2005年のコンクラーヴェでは、パウロ6世によって任命された中で残っているわずか14人の枢機卿の一人であって、その中でも80歳未満である3人のうちの一人であり、このためにコンクラーヴェに参加する資格を有したのである。

 1981年11月25日、教皇ヨハネ・パウロ2世はラツィンガーを教理省長官に任命した。1982年初頭にミュンヘン大司教管区を辞職し、1993年にはヴェレトリ・セグニ枢機卿となり、1998年に枢機卿会副会長、2002年に会長に選ばれた。教理省では、ラツィンガーは産児制限や異宗教間対話については伝統的な見解をとってきた。教理庁長官として、ラツィンガーは1986年、司教に対して、同性愛を「本質的な道徳的悪に向かう定めの性癖」で「客観的な障害」であると定義づける書簡を書いた。

教皇選挙

 2005年1月2日、タイム誌は匿名のバチカン関係者の言葉として、ヨハネ・パウロ2世が亡くなるか教皇を続けられないほどの重病になったばあいの後継者としてのトップランナーはラツィンガーであると掲載した。ヨハネ・パウロ2世の死に際して「ファイナンシャルタイムズ」はラツィンガーが教皇になるオッズを7-1(8倍)という本命にしたが、教会の進歩派のライバルにも近い数字を与えていた。

 ピアース・ポール・リードは2005年3月5日、スペクテイター紙にこう書いた。

 正統カトリックの教えを果敢にも振興していることで、全世界の枢機卿たちからの敬意を集めていることはほぼ間違いない。明らかに神聖であり、高い知性を有し、はっきりと何が問題かを見抜く。まさに、この発展する世界のなかで多くのヨーロッパの司教たちの性癖が砂に頭を隠さねばならないようなものになってしまっているというカトリックの堕落を非難する人たちにとっても、それに対抗する教皇がまさに求められているのである。ラツィンガーはもはや若くない――78歳だ。しかし、アンジェロ・ロンカリがヨハネ23世として教皇になったのも同じ年である。ヨハネ23世は第2バチカン公会議を召集して教会を反転させ、おそらく現代で最も愛された教皇であった。タイム誌通信員ジェフ・イスラエリーがバチカン内部関係者から先月聞いたとおり、「ラツィンガー・ソリューションは確かに実行される」。

(アンジェロ・ロンカリは76歳であって78歳ではない)

 しかし、ラツィンガーの教皇選出は決して確実なものではなかったことを指摘することも重要だ。コンクラーヴェでは次期教皇候補枢機卿が選ばれないことも多い。選挙で勝つのが確定とされた人が選ばれないこともよくある。ことわざに「教皇たらんとしてコンクラーヴェに参加した者が枢機卿として帰ってくる」という。

 ベネディクトは何度も、バイエルンの村に隠居して本を書くことに専念したいと述べてきたが、最近になって、「神が与えたもうたいかなる義務をも受け入れる」準備ができたと友人に述べていた。ヨハネ・パウロ2世の死後、2005年4月2日にラツィンガーは教理省長官の仕事をやめた。今や教皇となり、誰が教理省長官の後任に当たるかを決めるのは彼次第である。

 ベネディクトはドイツ語、イタリア語の、英語、教会のラテン語など10カ国語を話す。フランス語も流暢であって、1992年からフランスの倫理及び政治科学アカデミー(Académie des sciences morales et politiques)の準メンバーである。また、ピアノも熟達していて、モーツァルトとベートーベンを好む。

 史上8人目のドイツ人教皇であるが、現在のドイツ領の範囲出身者としては3人目(クレメント2世とヴィクトル2世)。最後のドイツ人(現オランダ領)の教皇ハドリアヌス6世は1522年に選出され、1523年に逝去した。クレメント7世が1730年に78歳で選出されたのと同年齢のラツィンガーは、最高齢で教皇に選ばれた枢機卿である。

 2005年4月、タイム誌によって世界で最も影響力を持つ100人の一人として認知された。 2005年4月19日、ヨハネ・パウロ2世の後継者を選ぶ会議の2日目で選出された。

 教皇選出後、初めて聖ペテロ聖堂のバルコニーに現われたとき、以下の言葉で紹介された。

Annuntio vobis gaudium magnum;

habemus Papam:

Eminentissimum ac Reverendissimum Dominum,

Dominum Josephum

Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinalem Ratzinger

qui sibi nomen imposuit Benedictum XVI

翻訳すると「大きな喜びを発表します。教皇がいらっしゃいます! 最も卓越した牧師の君主、ヨセフ卿、聖ローマ教会の枢機卿ラツィンガーは、ベネディクト16聖を名乗られます」

 バルコニーにおいて、伝統的な「Urbi et Orbi(都および世界に(教皇の大勅書の呼びかけのことば))」の祝福の言葉の前に群衆に与えた言葉はこのようなものであった。

 親愛なる兄弟姉妹、偉大な教皇ヨハネ・パウロ2世の後継として、枢機卿たちは主のぶどう園の中の素朴で身分が低い労働者である私を選出しました。主は不十分な道具であっても、どのように働き、行動すべきかご存じであるという事実によって、私は慰められます。そして特に、みなさんの祈りに私自身をゆだねます。主の復活への喜び、主の絶えざる救いへの確信をもって、私たちは進んでいくことでしょう。主は私たちを救い、聖母マリアは私たちのそばにいることでしょう。ありがとう。

 サンピエトロ大聖堂でのコンクラーヴェ前のミサで、「相対主義の独裁が強まっている。それは何ものをも決定的なものとして認識せず、最高の価値として自分自身のエゴと自分自身の欲望を置くものである」と宣言した。もっと「穏健」な選択を望むカトリック教徒にとって、ラツィンガー枢機卿の選出は大きな驚きであった。それは、教皇ベネディクトがヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿時代に有していた見解、すなわち救済にとってのイエスとカトリック教会の必要性についての見解、他の宗教についての見解、同性愛や妊娠中絶といった社会問題についての見解によるものである。それ以外の人たちにとっては、ラツィンガー枢機卿は「伝統的カトリック」をもって統治し続ける典型的な人物と映っている。

論争

 教皇になるまで、ラツィンガーは合衆国政治に関わる姿勢で知られていた。2004年大統領選中、妊娠中絶や安楽死を支援している候補者を支持するならば「悪に協力する」ことになる、という見解を表明した。[1] (http://wireservice.wired.com/wired/story.asp?section=Breaking&storyId=1021705&tw=wn_wire_story)

 合衆国の司祭による性的虐待の問題については、その虐待を小さく見積っているとみなされた。2002年、カトリック・ニュースサービスに「司祭の1パーセント以下がこの行為を犯している」と述べている。[2] (http://ncronline.org/NCR_Online/archives/011003/011003j.htm)

 他の論争を呼ぶ発言としては、1987年、ユダヤ人の歴史と聖書はキリストにおいてのみ完成されるというものがある――これは「神学的反ユダヤ主義」として非難された。他の宗教的なグループは、2000年の文書「カトリック教会のみに永遠の救済がある」は失礼だと考えている。[3] (http://www.theaustralian.news.com.au/common/story_page/0,5744,15003155%255E39835,00.html)

 同性愛の権利を提唱する人たちは、1986年の司教への書簡「同性愛者への牧師によるケア」を批判する。ここで同性愛者は「本質的な道徳的悪に向かう定めの性癖である。それゆえ、これは客観的な障害として見なされなければならない」と記されている。それ以前、1985年9月30日の書簡で、ラツィンガーはシアトル大司教レイモンド・フントハウゼンに対して、女性・同性愛者・教義問題についての自由主義的な見解を叱責している。「大司教の管区は、同性愛活動という本質的な悪について教権の教えを明確に受け入れないいかなるグループからの支援もすべて打ち切るべきである」と。そして大司教レイモンド・フントハウゼンは一時的に権限を外された。[4] (http://seattlepi.nwsource.com/local/aplocal_story.asp?category=6420&slug=WA+Pope+Wash)

文献

  • Allen, John L.: Cardinal Ratzinger: the Vatican's enforcer of the faith. – New York: Continuum, 2000
  • Wagner, Karl: Kardinal Ratzinger: der Erzbischof in München und Freising in Wort und Bild. – München : Pfeiffer, 1977

著述

  • Unterwegs zu Jesus Christus, Augsburg 2003.
  • Glaube - Wahrheit - Toleranz. Das Christentum und die Weltreligionen, 2. Aufl., Freiburg i. Brsg. 2003.
  • Gott ist uns nah. Eucharistie: Mitte des Lebens. Hrsg. von Horn, Stephan Otto/ Pfnür, Vinzenz, Augsburg 2001.
  • Gott und die Welt. Glauben und Leben in unserer Welt. Ein Gespräch mit Peter Seewald, Köln 2000.
  • Der Geist der Liturgie. Eine Einführung, 4. Aufl., Freiburg i. Brsg. 2000.
  • Vom Wiederauffinden der Mitte. Texte aus vier Jahrzehnten, Freiburg i. Brsg. 1997.
  • Salz der Erde. Christentum und katholische Kirche an der Jahrtausendwende. Ein Gespräch mit Peter Seewald, Wilhelm Heyne Verlag, München, 1996, ISBN 3-453-14845-2
  • Wahrheit, Werte, Macht. Prüfsteine der pluralistischen Gesellschaft, Freiburg/ Basel/ Wien 1993.
  • Zur Gemeinschaft gerufen. Kirche heute verstehen, Freiburg/ Basel/ Wien 1991.
  • Auf Christus schauen. Einübung in Glaube, Hoffnung, Liebe, Freiburg/ Basel/ Wien 1989.
  • Abbruch und Aufbruch. Die Antwort des Glaubens auf die Krise der Werte, München 1988.
  • Kirche, Ökumene und Politik. Neue Versuche zur Ekklesiologie [Robert Spaemann zum 60. Geburtstag zugeeignet], Einsiedeln 1987.
  • Politik und Erlösung. Zum Verhältnis von Glaube, Rationalität und Irrationalem in der sogenannten Theologie der Befreiung (= Rheinisch-Westfälische Akademie der Wissenschaften: G (Geisteswissenschaften), Bd. 279), Opladen 1986.
  • Theologische Prinzipienlehre. Bausteine zur Fundamentaltheologie (= Wewelbuch, Bd. 80), München 1982.
  • Das Fest des Glaubens. Versuche zur Theologie des Gottesdienstes, 2. Aufl., Einsiedeln 1981.
  • Eschatologie, Tod und ewiges Leben, Leipzig 1981.
  • Glaube, Erneuerung, Hoffnung. Theologisches Nachdenken über die heutige Situation der Kirche. Hrsg. von Kraning, Willi, Leipzig 1981.
  • Umkehr zur Mitte. Meditationen eines Theologen, Leipzig 1981.
  • Zum Begriff des Sakramentes (= Eichstätter Hochschulreden, Bd. 79), München 1979.
  • Die Tochter Zion. Betrachtungen über den Marienglaube der Kirche, Einsiedeln 1977.
  • Der Gott Jesu Christi. Betrachtungen über den Dreieinigen Gott, München 1976.
  • Das neue Volk Gottes. Entwürfe zur Ekklesiologie (Topos-Taschenbücher, Bd. 1) Düsseldorf 1972.
  • Die Einheit der Nationen. Eine Vision der Kirchenväter, Salzburg u.a. 1971.
  • Das Problem der Dogmengeschichte in der Sicht der katholischen Theologie (= Arbeitsgemeinschaft für Forschungen des Landes Nordrhein-Westfalen: Geisteswissenschaften, Bd. 139), Köln u.a. 1966.
  • Die letzte Sitzungsperiode des Konzils (= Konzil, Bd. 4), Köln 1966.
  • Ereignisse und Probleme der dritten Konzilsperiode (= Konzil, Bd. 3), Köln 1965.
  • Die erste Sitzungsperiode des Zweiten Vatikanischen Konzils. Ein Rückblick (= Konzil, Bd. 1), Köln 1963.
  • Das Konzil auf dem Weg. Rückblick auf die 2. Sitzungsperiode des 2. Vatikanischen Konzils (= Konzil, Bd. 2), Köln 1963.
  • Die christliche Brüderlichkeit, München 1960.
  • Die Geschichtstheologie des heiligen Bonaventura (habilisasjonsavhandling), München u.a. 1959.
  • Volk und Haus und Gottes in Augustins Lehre von der Kirche (diss. 1951), München 1954.
  • Dogma und Verkündigung
  • Einführung in das Christentum (2000)

(翻訳ここまで)

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コメント(2)

翻訳のご労苦に感謝します。

 記事中の
>ベネディクト16聖を名乗られます
 は、ベネディクト16「世」の間違いではないかと思います。

 それから、これはただの希望ですが、人名などは元の綴りを一カ所だけでも付記していただけるとたいへん助かります。アルファベットに対して片仮名表記は複数ありうるので。

当時のその世代は、ヒトラーユーゲントには強制加入では?
また、枢機卿時代は教理省の長官という立場だったので、カトリックの教理の原則を述べざるを得なかったのはやむを得ないと思います。
現場の司祭が柔軟に実態に合わせた柔軟な解釈をすべきなのとは立場が異なるから。

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