結核文士の治療記(4)初めての手術

結核菌のせいで腸腰筋に膿がたまり、激しい痛みと異常な熱と大量の汗に悩まされる日々が続いた。おそらく昭和前期までであれば、体力を消耗して死んでしまっていただろうと思う。しかし、ついに手術のときがやってきた。

2006年9月10日09:37| 記事内容分類:闘病記| by 松永英明
この記事のリンク用URL| ≪ 前の記事 ≫ 次の記事
| トラックバック(1)
twitterでこの記事をつぶやく (旧:

入院準備

 まさか入院手続きで悩むとは思わなかった。保証人が二人必要だというのである。新居を探すにも保証人になれる人がいないので保証人サービスが使えるところを第一条件として探したくらいなのに、入院にも保証人が必要だと知って愕然とした。しかし、保証人がいないので入院できませんとは言えないので、まずmixiで相談してみた。

 持つべきものは友である。さっそく数人から申し出があった。しかし、である。用紙には「一人は定職のある人」と書かれていた。申し出があった人たちは、フリーのライターや漫画家、つまり自宅で原稿を書いているので、定職と認められにくい。もう一度募集して、ようやく会社員の人に保証人になってもらえた。とりあえず入院・手術の費用だけは貯金から何とかなりそうなので、保証人にも迷惑をかけずにすむはずだ。

 熱が下がった隙に近所のスーパーで入院に必要な着替え類を購入。判断力が落ちているのでサイズを間違えて買ってしまったりもしたが、スーツケースと旅行バッグと肩掛けカバン1つで、なんとか全部持っていける準備が整った。

 入院前日の4月24日月曜日、内科の外来診察に行った。CTスキャンの画像によると、肺は別として、腸腰筋以外には特に問題はないとのこと。高熱の話もしたが、鎮痛剤には解熱成分も含まれているので、ほかに打つ手はないようだった。つまり、手術以外に道は残されていないのである。

ネット断ち

 ところで、重要なのは通信環境である。病院内は「携帯電話、インターネット禁止」となっている。入院前に聞いてみたら、ノートパソコンの持ち込みはOKだが、通信は禁止とはっきり断言されてしまった。もちろん無線LANも有線のLANケーブルもない。

 どちらにしても、ノートパソコンは持っていないし、手術前後はネットどころではないだろうから、しばらく通信環境からは完全に離れることになった。このため、入院した25日朝以降、PCなどの通信環境の一切ないアナログの世界で生きることになったのである。

 事前の話では3週間くらいで退院できるかな、という見込みだったので、まあそれくらいならネット断ちしても問題ないだろうと見切りをつけた。

 このあと、退院するまでPCでの通信は一切できなかった。

入院

 4月25日火曜日の朝、家のすぐ近くでタクシーを拾った。さすがにラッシュ時の電車に乗る元気はない。スーツケースを持っていたので、タクシーの運転手さんは羽田か成田に行くと思ったかもしれないが、そんな遠くまでは行かないのだった。

 10時までに来るようにとの話だったので、9時半目指して病院に到着。入院係で手続きをし、整形外科の窓口に声をかけて待っていると、5階の整形外科病棟に行くように告げられた。エレベーターに乗って、降りたところにあるナースステーションへ。そして、看護師さんに病室へ案内してもらった。

 今回の入院では個室に入ることになった。といっても、自分から希望したわけではない。そんな贅沢は必要ない。治療で必要だから個室に入らなければならないのである。今回の手術では背中の筋肉にたまった膿を出すことになるが、その傷口からの滲出物や血の中に結核菌が入っている可能性が極めて高い。それが周囲に広まって他の患者さんに感染してはいけないので隔離することになったのである。自分から望んだことではないので、個室使用料が別途取られることはないのだが、当分は独房隔離状態である。

 さて、部屋に荷物を置いてパジャマに着替えると、病棟の中を案内してもらった。だが、これがあまり役に立たない。そもそも部屋から出ることが基本的にほとんどないのだから。

 それから、入院時の検査と手術のための準備が始まった。普通ならば入院から手術まで1週間といった時間があるのでもっとゆっくりとしたスケジュールなのだが、今回は入院した翌々日に手術なので、過密スケジュールである。

  • 心電図、呼吸機能検査
  • 血液検査
  • レントゲン
  • 血圧・脈拍・体温
  • 身長・体重・SPO2
  • 尿検査

 手術後の食事の取り方や起きあがり方についての説明も簡単に受け、その内容を記したファイルを渡された。時間があれば寝たままでの食事の取り方も実際に練習するらしいのだが、今回は見送り。ぶっつけ本番になる。

 また、テープのパッチテストも開始。腕の内側に3種類のテープの切れ端を貼って、かぶれたりしないかどうかのチェックをするのだ。この時点では特に問題はなかった。

 さて、午後になるとやはり熱が上がり始めた。体温を測って38度台と言うと、座薬を入れようか、冷やそうか、とずいぶん心配される。自分としてはまだ熱が上がりきっていないから焦らなくても、という気分だった。

 点滴も始まった。とりあえず自分でやらなくても看護師さんがいろいろやってくれるのは一安心である。

手術説明

 その夜も大量の汗を拭きながら朝を迎えた。手術前日、26日のメニューは以下のとおりである。

  • 尿検査
  • タンの検査――をやるはずだったが、やはりタンが出ないので中止。
  • MRI
  • 手術時の麻酔の説明
  • 手術説明
  • 必要物品を揃える
  • 爪切り・体拭き
  • 夕食後は飲水のみ夜9時まで、それ以降は食事等禁止

 手術のために必要なもの、浴衣や腹帯、T字帯なども買いそろえることになった。本当なら家族に買ってきてもらうのだが、仕方ないので看護師さんを通じて病院の売店から持ってきてもらうことになった。約1万円。普段見ることがないらしく、師長さんが領収書を見て「こんなにかかるのね」とびっくりしていた。

 夕方、外来診察で診てもらった先生と、それから主治医になる先生の二人から、ナースステーションで写真を見ながら手術説明を受けた。本当はこれも誰か家族が立ち会うべきなのだが、やはり一人で説明を受ける。全然身寄りがない患者も珍しいらしい。かえって先生の方が不安がっていたので、もし失敗でもするようなことがあれば保証人の人に連絡してもらうようにお願いした。

 さて、午前中に撮ったMRIを見ながら――入院患者は優先的にMRIを病院内で撮ってもらえるようである――説明を受けた。素人目にも「ゴボウ天」状態があまりにも異常なのがよくわかる。

 このときもらった「治療説明書」の内容を書き写してみることにしよう。

1.病名

 腸腰筋膿瘍 疑い

2.現在の症状、手術の必要性、今後の見込み

 発熱、右下腿痛の原因は精査の結果上記が考えられます。

 手術をし、切開排膿を行い、とれた組織を精査します。

3.手術の名称・方法・実施予定日・輸血の要否等

 膿瘍切開 排膿 ドレナージ 06/4/27 輸血×

4.上記に伴う合併症の可能性・危険性

 感染症の悪化、肺梗塞、右下腿痛の持続、神経血管損傷

 等ありますが適宜対処します。

 要するに、膿を出しますよという話だ。そこで手術承諾書に署名・捺印した。

 生まれて初めての手術なので不安だらけだが、ともかくこの苦しみが和らぐのなら、とバスタオルで汗まみれの体を拭きながら手術当日を迎えたのであった。

手術

  • 飲水禁止
  • 食事抜き
  • 浣腸
  • 14:30までに排尿。素肌の上にT字帯・浴衣に着替える
  • ストレッチャー(移動用ベッド)に移る
  • 15:00手術室入り

 手術当日は手術のための体調を整えることが中心で、あまりやることがない。仕方がないのでテレビをつけてぼんやりしていた。ちょうどライブドアの堀江さんの保釈申請が通るかどうかという直前で、テレビの報道関係の番組はその話題で持ちきりだった。

 浣腸というのは初めてやったのだが、結構つらかった。午前中だが少し熱が出始めていたときに浣腸をされた。「しばらく我慢して、お腹が痛くなってくるくらいまで」と言われたのだが、直後からいきなり体が熱く感じられ、大量の汗が噴き出てくる。お腹の痛みもすぐにピークに達し、あまり長く我慢できなかった。

 もっとも、つらいのはこれくらいで、あとはまな板の鯉状態。ひたすら待つ。

 午後3時少し前にストレッチャーという移動用ベッドに乗せられて手術室に向かった。点滴つきで行ったのだが、整形外科の病人なのに珍しい、と手術室の人たちに言われた。それはそうだろう、本来は内科の病気なのだし。ともあれ、新たに点滴を腕に刺さなくても、つなぎ換えるだけで済んだようだった。

 そして、口元にマスクのようなものを当てられる。麻酔担当の医師が「だんだん眠くなってきますよー」と声をかけてくる。それから十数秒もしないうちに意識を失った。

手術終了

「手術が終わりましたよー」

という声で目覚めたのが次の記憶である。1時間ほどの手術の間の記憶は全くない。だから、残念ながら、手術中の様子を描写することはできない。手術前の麻酔担当の医師の説明では、眠っている間に終わりますから、ということだったが、本当にそのとおりで、目が覚めたら終わっていた。というより、一瞬の間に1時間が過ぎ去っていたという感覚だ。

 実際に時間が経過していたことは、自分の状態でわかった。口元にはマスクがあって何だか少し息がしづらいし、腕の点滴も変わっている。それ以外にも何やらいろいろと取り付けられているのがわかる。

 主治医の先生が薄い青緑の手術衣で近づいてきた。

「膿が大量に出ましたよ」

 手術はひとまず無事に終わったようである。

 ベッドのまま運ばれて病室に戻る。数時間後に酸素マスクは外れたが、それ以外にもいろいろなものが体についている。

  • 点滴。生理食塩水や抗生剤。
  • 背中の手術跡の少し上から、血を抜くためのドレーン。
  • ドレーンがついている間は起きあがり禁止なので、排尿管。
  • 心電図を見るための端子。ナースステーションで常時監視。

 とりあえず血抜きの必要がなくなるまでは起きあがり禁止。左右に向きを変えたいときも看護師さんを呼ばなければならない。食事も、胸の上に食器を置いて仰向けのまま食べるのである。食器を取るときに見やすいように鏡を取り付けてもらったが、とにかく食べにくい。

 個人差があるらしいのだが、手術で縫ったあとが結構痛んだ。特に毎日の消毒のときに左脇を下にした姿勢をとるのだが、その姿勢を変えるときに傷に激痛が走った。消毒のときにも思わずうめくくらい痛いのだが、体を動かすときには傷が引き裂かれるような痛みを感じるので、必要以外はじっと仰向けに寝ているのが一番楽だった。そのため、しばらくは天井を見続けることとなる。

 手術というのはかなり体力を消耗するものだと感じた。

時間が経たない

 手術当日と翌日はおとなしくベッドで寝ていた。テレビをつける気もしない。腸もまだきちんと動いていない。熱も39度台に上がっていく。天井の模様が変なふうに見えてきて、妙な幻覚が意識に混じる。

 29日にはテレビを見始めた。堀江さんはどうなったと思って報道系の番組を見ていたのだが、平塚の子殺し事件とゴールデンウィーク入りの話題ばかりでよくわからない。主治医の先生が「堀江さん、保釈されましたねー」と声をかけてくれて初めて、手術当日の夜に保釈されていたことがわかった。

 この手術後数日はやけに時間が長く感じた。

 数日後、ようやく血も出なくなったということで血抜きのドレーンが外れ、起きあがってもよいことになった。となるとトイレに行ってもよいことになるので、排尿管も必要なくなる。実はこの排尿管というのが厄介で、おしっこをしているのかしていないのかの感覚がよくわからなくなってしまった。だらだら垂れ流しているのか、時々流れているのかもわからない。だから、外したあとはおしっこのコントロールができなくなったらどうしようと不安になっていた。それは杞憂だったのだが。

 ドレーンを抜くときには筋肉が引っ張られる痛みが激しく、また排尿管を取るときも何か剥がすような痛みがあった。個人差があるらしいが、あまり何度も経験したくない感覚である。

 それからしばらくは、少なくとも起きあがるときにはコルセットをはめるように言われた。これは腰の筋肉を使わなくて済むようにだろう。確かにコルセットがないとつらいのだが、コルセットがあると汗をかいたときなどに不便で、これは困った。

 この時期の毎日の日課といえば、朝晩の抗生剤などの点滴、それから回診の先生による傷口の消毒である。今回の症状については、結核菌が主な原因と推定されていたし、実際に手術で排出された膿の中からも結核菌が検出されたので、この病気が結核によるものであることははっきりした。しかし、結核菌が「単独犯」だったかどうかについては、疑わしいと先生は考えていた。結核菌だけでこれだけの熱が出るかどうかは疑問だというのである。そのため、「他の菌」への対策として、朝晩の抗生剤の点滴があった。

 結局、結核菌の単独犯ということで、抗生剤も中止され、これまでも飲んでいた結核の薬を飲み続けることが唯一最大の治療法ということになったのである。

テレビがつまらない

 こうして、単調で痛みだけは残る日々が続いた。世間ではゴールデンウィーク、テレビでも行楽地の話題ばかり。「このゴールデンウィーク、皆さんはどちらに行かれたでしょうか」とテレビで訊かれても、「病院」としか答えようがない。ただ、病室の窓から国会議事堂と東京タワーと皇居が一望のもと見渡せるので、「入院・手術付きはとバスツアー」と思いこむことにした。

 そういうわけで、とにかくヒマである。『結核という文化』は3回くらい読み返してしまったが、さすがに読み過ぎである。検定試験のための勉強もしてみたが、本が重いので寝転がっては無理だし、かといって座って読むのも体力が続かない。となると、横になってテレビを眺めているしかないわけである。

 今まで家にテレビがない生活をしてきて、必要ならば近所のネットカフェに行っていたのだが、改めてテレビを見るようになると、これがまたつまらない。情報の質は薄いし、朝から晩まで同じ報道の繰り返し。バラエティーの大騒ぎなど入院患者にとっては騒々しいだけだし、美食番組は目の毒だ。

 以前、テレビは見ないと書いたら「アンテナが狭くなりませんか」とコメントを受けたが、こんなアンテナならば不要。改めてテレビは「印象」を与えるメディアだということを実感した。確かに話題設定機能には優れているかもしれないが、テレビが話題に取り上げるものは重要だと思わされてしまうならば、それこそ視野狭窄というものだろう。

 驚いたのは、アリコの入院保険のCMの多さである。一日一万円の入院保証に十万円の手術保証となれば、入院長者とは言わないがおつりが返ってくるではないか。あまりにしょっちゅうCMが出てくるので、入院保険に入っていなかったことを少し後悔したが、考えてみれば入院保険はマイナスサムゲームのバクチであって、あれだけの広告費を払えるだけの利益が出る商売なのである。実際に入院する人が少ないから成り立つわけで、かけた人が受け取れる金額の期待値を計算すれば、必ずマイナスになるはずである。ならば、入院保険にかける金をそのまま貯金しておいた方が期待値は高くなるはずだ。よほど病気になる自信があるなら話は別なのだが、そんなもの、病気にならないように努力する方がよほど健全である。

 それに、退院後に入ろうと思っても、小さく「既往症や職業によっては契約を制限することがあります」なんて書いてある。「労咳三文文士」すなわち「結核のフリーライター」にはもともと縁遠い話だったのだ。

回復に向けて

 ともあれ、日々少しずつ回復に向かっていく様子ははっきりとわかった。

 毎夜高熱が出るのは変わりないが、39度代後半まで上がっていたのが、39度台前半、38度台後半、38度台前半、と着実に下がってきたのである。つまり、毎日の「最高体温」が秋の気温のように毎日下降傾向を示したのだ。最高気温との違いは、昼ではなくて夜に最高体温が記録されることである。

 あとで看護師の主任さんに聞いた話だが、39度以上の熱というのはあまり経験がないらしい。主任さん自身、そんな熱が出たことがなく、人間はこんなに熱が出るものなのかと驚いたそうだ。それで「38度までしか上がらなくなりましたね。随分下がってきましたね」という会話をしながら、38度でも「よくなってきた」と言っているのが不思議な気分だったという。

 さらに傷口も閉じていった。消毒時の痛みもなくなってきた。尻から右下腹部にかけてしびれたような痛みが残っており、脚をまっすぐ伸ばすのはまだつらいが、全体的にだんだん良くなってきていることがわかる。

 5月7日には抜糸。これはチクチクとした痛みはあったが、傷の痛みやドレーンを引き抜くときの感覚に比べれば全然問題ない。

 そして5月8日月曜日には一般病室に移ることになった。ここまでは順調だった。

【広告】★文中キーワードによる自動生成アフィリエイトリンク
以下の広告はこの記事内のキーワードをもとに自動的に選ばれた書籍・音楽等へのリンクです。場合によっては本文内容と矛盾するもの、関係なさそうなものが表示されることもあります。
2006年9月10日09:37| 記事内容分類:闘病記| by 松永英明
この記事のリンク用URL| ≪ 前の記事 ≫ 次の記事
| トラックバック(1)
twitterでこの記事をつぶやく (旧:

トラックバック(1)

ハリセンボン箕輪はるかさんが肺結核に感染しており、しばらく入院・休養することが報じられた。 わたし自身が結核によって入院加療を行なった経験からすると、病気... 続きを読む

このブログ記事について

このページは、松永英明が2006年9月10日 09:37に書いたブログ記事です。
同じジャンルの記事は、闘病記をご参照ください。

ひとつ前のブログ記事は「結核文士の治療記(3)腸腰筋への結核菌転移」です。

次のブログ記事は「結核文士の治療記(5)さっぱりワヤ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。
過去に書かれたものは月別・カテゴリ別の過去記事ページで見られます。