結核文士の治療記(5)さっぱりワヤ

手術は無事成功、その後の経過も良好――と思っていたらどんでん返し。再び個室に戻る事態となった。

2006年9月10日15:03| 記事内容分類:闘病記| by 松永英明
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大部屋

 一般病室は相部屋である。5月8日月曜日に移った部屋は4人部屋だった。同室になったのはこんな人たちである。

  • 81歳の元気なおじいさん。首と腰の手術をした。
  • 50代の手術待ちのおじさん。海外経験が長く、サーバーの空調などをやっている。
  • 30代前半くらいのSEさん。韓国人の美人の奥さんがいる。

 3世代同居部屋であるが、気のいい人たちばかりで、毎日いろいろな話題で盛り上がり、楽しく過ごしたのだった。退屈もない。テレビも見る気にならなかった。看護助手の人が「この部屋はいつも楽しそうでいいわねえ」と、感心だかあきれてだかつぶやいていたことがある。

スケジュール

 ところで、病院の一日はこんなスケジュールだった。

  • 朝6時すぎに点灯。その後、夜勤の看護師さんが様子を見に来る。
  • 7時半すぎ~8時ごろに朝食が配られる。ただし、採血検査があるときは8時ごろの採血が終わるまで食べてはいけない。
  • その前後に新聞屋さんが病室に来る。
  • 10時を過ぎたころ、昼勤の看護師さんが挨拶に来る。このとき、体温・脈拍・トイレの回数など報告(病状によって血圧などを測ったりもする)
  • 昼までに医師の回診。消毒などがあればこのときにやってもらう。
  • 12時過ぎに昼食を配膳。
  • 14時~20時半が面会時間。
  • 17時過ぎに夜勤の看護師さんが挨拶に来る。
  • 18時過ぎに夕食配膳。
  • 21時消灯。ただし、22時まではイヤホン付きでテレビを見たり、ベッド灯をつけたりしても一応見逃してもらえる。

 こう書くと盛りだくさんのようだが、実際には「ほとんど何もすることがない」のが現実。仕事に追われるのも大変だが、何もやることがなく、ただ安静にしていろと言われるのも大変な苦痛である。もっとも、面会に来てくれる人がいれば全然違うのだが、家族なり彼女でもいればしょっちゅう誰か来てもらえるだろう。しかし、友人・知人だとたまに来てもらえればありがたい話で、そんなに通ってもらえるわけではない。部屋を移ってから5月末までの面会人は、自分の場合平均1日0.8人くらいだった。そういうわけで勢い同室の人たちとの話に花が咲くことになる。

病院の評判

 そんな話の中で知ったのだが、この病院の整形外科は日本でも有数の名高いところで、入院するにも数か月待ちは当たり前なのだという。いろいろな病院を渡り歩いて最後にたどり着くのがこの病院なのだそうだ。少し前の新聞で、手術回数の多い整形外科で全国トップクラスに入っていたという。指揮者の岩城宏之さんもここで入院し、その体験を本に書いているという。そういえば、その文庫本が病院の売店に平積みされていてなぜだろうと思っていたが、そういう縁があったのかと合点した。

 確かにこの病院はいいところだと感じていた。受診したときの医師の説明が非常に丁寧である。どういう必要があるからどういう検査をやる、こういう結果が出たのでこういう治療をするが、こういう治療結果が考えられ、こういう問題もありえる、ということをきちんと教えてくれる。わからないことはわからないとはっきり言ってくれる。入院前の整形外科の診断では、MRI写真によくわからない影があり、問題があるかどうか調べるためにないかに戻します、と言われたりもした。

 とにかく説明してもらえるのは心強い限りで、納得して治療を受けられるし、信頼も生まれてくる。「やってみないとわからない」とはっきり言ってもらえるなら、それはそれで安心できるものだ。

 また、この病院では、主治医はいるが、同じ科のすべての医師が状況を把握し、話し合った結果に基づいて治療・方針が決まるという。だから、回診に来るのがどの先生でも、その様子はきちんと引き継がれているし、経験の度合いも判断のタイプもそれぞれに異なる医師の判断が総合されて、誤診やミスも防げるわけである。

 この病院、しかも評判の高い整形外科病棟に速やかに入院できたのは、意図したものではなく偶然が重なったものであったが、本当に幸運きわまりないことであった。

読売新聞を読む

 一般の病室では、毎朝、病室まで新聞を売りに来る人がいた。そこで何となく買ってみることにした。朝日・読売とスポーツ紙2紙から選べるので、読売新聞を購入した。

 テレビと同様、新聞も今まで購読していなかった。資源ゴミが出てかさばるのもいやだったし、インターネットで大抵のことは済ませられるからである。しかし、病院ではネットも使えず、外界の情報を手に入れるにはテレビか新聞しかないし、テレビはつまらないので新聞を買ってみようと思ったのである。

 テレビよりは新聞の方が情報量があり、なかなか読み応えはあった。それでもすぐに読み終わってしまうのだった――スポーツ欄は興味がないので読んでいない。株式もチェックしていない。

 新聞を読み始めて気づいたことがある。新聞記事には2次情報が非常に多い。プレスリリースや政府発表も要約や抜粋が中心である。ネットであれば直接その企業のサイトなり政府公報のページに当たって、1次情報に接することができるのだが、新聞だとどうしても新聞掲載のフィルターを通してしか見られない。それが不満として残った。

 それでも、連載やコラム、特集は興味深いものがあった。時々掲載される「検証・戦争責任」第二部の見開き特集は要領よくポイントがまとまっており、大東亜戦争の指導部の実情がよくわかる。ここに示された参考文献をたどっていけば詳しいことがわかるだろう。

 切り抜きも始めた。その一つは「日本語日めくり」という言葉遣いについての連載。日本語まめ知識のような記事で、文章を書く人間にとっては再確認したくなる内容である。それから「新・日本語の現場」。「方言の戦い」と題し、このころは特に関西の言葉についての内容が続いていた。奈良弁の自分としては、大阪や神戸の言葉とは少し違うところもあるが、「吉本弁」の正体が標準語の語尾を変えただけ、などの指摘には大いに興味を抱いた。

さっぱりワヤやがな

 5月19日の「方言の戦い」第25回は「わや」という言葉について書かれている。「ダメなこと。無理、無法、むちゃくちゃ」と説明されているが、自分の五感としては「わけわからん」というニュアンスもあると思う。ここに載っていた『大阪言葉辞典』からの引用を見て、思わず笑ってしまった。孫引きになるが引用してみたい。

「女房がお産で、子供が風邪ひきで、おやじが会社をくびになったというような場合にも『さっぱりワヤやがな』で頭をかいてすましていることができるのが大阪人の一面である」

 わははははは。確かにそういう言葉だ。これを読んで、途端に気が楽になった。自分に当てはめれば、結核で、手術までして、仕事もできず、収入のあてはなく、ネットでは火のないところに水煙でうるさく騒ぎ立てる人たちがいる。ほんまに、わっぱりワヤやがな。もう、どんなりまへんな、ははは。

 そう、今の状況は単にワヤなだけなのだ。そう思ったら、一気に気が楽になった。肩の力が抜けていった。この記事には本当に感謝だ。

ひまつぶし

 毎日売店に行けるようになったので本を買ったりしていたが、数日ではたと気付いた。一日で2冊くらいは軽く読めてしまうのである。この調子では1日に本代が1500円になってしまう。あまりにももったいないし、本の山ができてしまう。堀江さんが90日の勾留中に200冊本を読んだという話だが、気持ちはものすごくよくわかる。入院と勾留では全然違うが、他にやることがないという点では同じだ。

 ともあれ、半日で消化できてしまう本はもったいない。もっと「腹持ち」のいいものを、ということで買ってきたのがパズル誌だ。売店にあった3冊、漢字ナンクロとクロスワードとお絵かきロジックにしばらくはまった。特にロジックは初めてだったのだが、賞金に目がくらんで巨大ロジックに挑戦。一日中やり続けて、一週間後にようやく完成した。まさに「ヒマ人」だが、入院でもしていなければこんなものをやろうとは思わないだろう。漢字誌は全問解いてしまった。

 パズルにはまっていると、他の患者さんには「勉強」に見えたらしく、どういうわけか「勉強熱心な学生さんがいる」という話が広まっていたようだ。勉強でもないし、年齢を15歳は見間違えられているのにはちょっと閉口した。でも、四捨五入したら40です、と言っても冗談だと思われるので、笑ってごまかすことにしたのだが。

傷の悪化

 熱は37度台までしか上がらないようになったが、そのあたりで一進一退を続けるようになった。出ても38度少しくらいなのだが、平熱までは少し遠い。この熱と、血液検査での炎症反応、そして腰の写真がよくならないと退院できないのだ。

 膿も完全に洗い流せたわけではなく、少しは残っているので、それは飲み薬で退治されるのを末しかない。脚の付け根や腰骨のあたりにはまだ違和感を感じている。

 それでも17日にはようやくシャワー許可が下りた。タオルで拭くだけだったのがシャワーに入れると全然違う。

 2度目のシャワーの19日、鏡で腰の縫い目を見てみた。すると、少し赤くなっている。そのころから、この赤みのあるところにかゆみを感じるようになっていた。21日あたりには、痛みというか熱を持っていたので、冷やしたりもした。

 週明けに主治医の先生に見てもらうと、あまりよろしくない兆候だという。デジカメで患部を撮影し、これが大きくならないかどうか、毎日見ていくということになった。膿がまたたまっている可能性もあるという。

 それから2日後、24日の朝。目覚めて少しして異変に気付いた。腰の辺りが濡れている。布団を見ると、黄色い染みができている。どうやら、膿が傷口からしみ出してきていたようだった。あわてて看護師さんを呼んで、とりあえずガーゼを当ててもらう。そして、先生も見に来てくれた。

 「滲出物があれば隔離」――それが結核菌持ちの自分に課せられた条件である。入院から1か月、再び個室へと移ることになった。ほんまにワヤである。いつになったら退院できるのか。

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