2009年の「ことのは」は相変わらず由来・起源を探求します

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

さて、2009年の「ことのは」(絵文録ことのは/閾ペディアことのは)は、今までと流れが変わるわけではなく、相変わらずものごとの由来・起源を探求し続けていくでしょう。一般に認識されているものごとについて、もともとはどうだったのか、言い出しっぺは誰でどういうつもりでそう言ったのか、それがなぜ今のような形にかわっていったのか、といったことを突き詰めていきたいと思います。

2009年1月 7日16:42| 記事内容分類:更新・お知らせ| by 松永英明
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事物起源探究家

2008年にラジオ「ナイスQ編集部 | R25.jp」にゲスト出演したとき(第8回放送 12/20)、「事物起源探究家」という肩書きで紹介されました。

今後、「文士/事物起源探究家」を正式に肩書きとしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

なぜ由来を探りたくなるのか

これまで、このブログでは「一般に流れている情報だけでなく、一次情報に当たることが必要だ」ということを主張してきました。「ものごとの由来・起源を探る」という方向性は、この「一次情報重視」という態度も含むものだと考えていただいて結構です。

よくよく考えてみれば、わたしたちの身の回りには、何となくそういうことになっているが、本当にそうなのか、ということが数多くあります。「それは常識だろ」といわれることでも、その「常識」がいつごろどのようにして生まれたかを考えると、非常に奥深いものがあります。

たとえば「一日三食」というのは、日本では室町時代以降の比較的歴史の浅い習慣でしかありません。お正月の「お節料理」も江戸時代に始まり、戦後一般化したものです。一方で、七草がゆは土佐日記にも登場し、千年の歴史があるようです(土佐日記 - Tosa Blog: 下手な歌詠み)。

こういった歴史をふまえて考えてみますと、わたしたちはいかに日常において、本当の起源や由来を知ることもなく、ただ何となく「昔からの風習・習慣」だとか「常識」として受け取っているものが多いかということに気づきます。そして、平安以前にさかのぼる七草も、江戸時代にはじまるお節料理も同じように受け入れているわけです。もちろん、こういう「日本の伝統的食事」みたいなものであれば、ただ何となく受け入れていてもそれほど害はないわけですが、「どこかの誰かがこれこれこういうバックグラウンドのもとで発言したことが、いつの間にか曖昧な用法で流布されている」とか、「さほど根拠もないのに繰り返されているうちに既成事実であるかのように受け取られてしまった」という場合は問題があるでしょう。

じゃあ、最初に言い出したのは、いつ誰がどういう理由でなのか、それがどうして今のような形に変わったのか――それを知ることによって、誤った知識や理解を防ぐこともできやすくなるでしょうし、ものごとを正確に扱う習慣も身に付くはずです。

たとえば、よくある職場のルール。以前にこういう失敗があったから、それを防ぐために、という理由でルールが作られたのであれば、そのルールは尊重する必要があるでしょう(もちろん、別のやり方でその失敗を防げるとか、その失敗はどうでもいいという場合は変更の余地がありますが、それもそもそもの発端がわかった上での判断となります)。逆に、たとえば「流しのスポンジは、青いのが食器用、赤いのがそれ以外用」というように、単に区別できたらいいという理由の場合は、青を黄色に変えても問題ないはずです。しかし、これらの「ルールの理由」がはっきりしないと、たとえば新入社員が「食器用は青というのは変えてはいけない大切なルールなんじゃないだろうか」などと勘違いし、一方で重要なルールの意味がわからずにないがしろにしてしまう可能性だってあります。

人の噂については重要なことです。基本的に、一方の主張だけを鵜呑みにするわけにはいきません。双方の主張を事実とつきあわせて考えれば、本当にそうなのかどうかはわかります。しかし、ネットではそうではない表現も多く見られます。さらに、「○○さんが△△さんについてサイトでこう書いているから、そうに違いない」と言いふらすような追従者も現われたりします。しかし、△△さんが本当にそうなのかどうか、事実関係について確認しようとする人は決して多くありません(それどころか、さらに妄想や憶測を重ねる人たちもいます)。また、「△△さんはサイトでこう書いている。ひどい!」というので実際にその△△さんのサイトを見に行って書いてあることをずっと読んでいったら、実際にはごく一部をゆがめて引用したものであって、決してそんなことは言っていなかったりもします。

わたしのブログは、おそらく「情報リテラシーにうるさいブログ」として認識されてきたのではないかと思います。何かあるとすぐに一次情報だの原典だのを持ち出すわけで、日常生活でもこういう話ばかりしていると単なるうんちくおじさんになってしまいます。しかし、一般的な情報リテラシー(特にマスメディア報道やネットで流れる雑多な情報に対するもの)だけではなく、わたしたちの日常生活における常識や歴史についてもリテラシーを働かせるような思考があってもいいんじゃないかと思うわけです。

そして、常に「事実・真実は何か」「本当はどうなのか」ということを考え続けることは悪いことではないと思っています。そんなことを考えなくてよい、という人は、一般に事実・真実とされていることや通説をうのみにし、それを再検討することのない思考停止状態(自分が真実と思いたいことを裏付けるデータのみを許容する態度)ではないのか、とも思います。

その結果として、わたしは自分の意見を変えることをためらいません――もちろん、安易にコロコロと変えるのでは単に自分の意見のない人になってしまいますが、そうではなく、十分な根拠と考察の末に180度意見を転換することは、恥ずかしいことではなく、立派な態度だと思います。それは、他人に強要されるのではなく、自分の中の判断に基づいて行なわれたものである限り、非常に有意義な思考態度であろうと思うのです。

今調べていること、考えていること

さて、普通の人なら疑問に思ったりしないかもしれない、どうでもいいことかもしれませんが、こういうことが気になる人もいるということで、わたしが今調べていること、考えていることをいくつか挙げてみます。

  • そもそも「日本」というのはいつどのように始まったのか。日本列島に人はいつどのようにやってきたのか。
  • 「歴史にifはない」というのはいつ誰が言い出したことで、それは何を禁じているのか。
  • 平安京や江戸は風水思想にのっとって作られたという説があるが、そもそも、日本に中国の風水思想が本当に伝来していたといえるのか。
  • 天海という人物についての(伝説と事実を厳しく峻別した)真実の伝記(そして彼の作り上げた山王一実神道の内容の解明)
  • 「水からの伝言」や「フォトンベルト」を信じる人たちにとって、「それは疑似科学だ」「科学では否定されている」と教えても効果が少ない。こういったものを信じること自体が(スピリチュアル的な考え方においても)問題のある思考態度だということを立証できないか。

さらに、由来や起源を「土地」「場所」に拡大したものを今、メールマガジンで配信しています。2008年9月に創刊した有料メールマガジン「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」は週一回のペースで発行中ですが、こちらでは場所や地域、都市といった「場」の由来といったものを注視していきたいと考えています。

とりとめもなく、まとまりのないエントリーですが、2009年(横浜・函館開港150周年)の年頭にあたってのご挨拶とさせていただきます。

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