初の「軍艦島上陸ツアー」参加記録(前編)グラバーと「端島」

軍艦島ツアーに行ってきます[絵文録ことのは]2009/04/24」で書いたとおり、軍艦島上陸が解禁され、その最初のツアーとなる軍艦島上陸ツアーに参加してきた。

結果から言えば「波が高く、軍艦島には上陸できなかった」のだが、NPO軍艦島を世界遺産にする会の坂本道徳理事長(6歳から19歳まで実際に軍艦島で生活していた)の事前解説ならびにクルーズ同行が非常に意義深く、上陸できなかったことを差し引いても充分に満足できる内容であった。逆に言えば、坂本理事長の話抜きで上陸できたとしても、ここまでじっくりと軍艦島(端島)について知ることはできなかったと思う。

いずれまた上陸には挑戦してみたいが、今回のツアーについてのレポートを記すことで、観光としての「軍艦島上陸」の難しさ、そして軍艦島(端島)とは一体何なのかについて考えたことを伝えられたらと思う。

gunkanjima0 軍艦島全景(野母岬から)

2009年5月 2日11:06| 記事内容分類:地理・地誌, 日本史| by 松永英明
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前提として、こちらを必ずお読みください。→軍艦島ツアーに行ってきます[絵文録ことのは]2009/04/24

また、軍艦島ツアー記録完全版(写真多数)は、メールマガジン「「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索」にて配信します。

軍艦島ツアー始まる

2009年4月25日土曜日朝、羽田発長崎行きのANA661便にて長崎に向かう。

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すでにこの時点で当初とは予定が変わっていた。事前にもらっていたツアーの行程表は変更となるようだった。

  • 1日目土曜日:当初予定になかったが、この時点で軍艦島接岸の許可を得ていた唯一の船会社「やまさ海運」でのクルーズ・上陸を試みる。当初の予定では野母崎(軍艦島資料館があり、対岸から軍艦島を見られる)であったが、長崎市内に変更。
  • 2日目日曜日:高速旅客船「竹島丸」で高島、さらに波が許せば軍艦島至近距離へ。その後、野母崎へ。

竹島丸は接岸を申請していたがまだ許可が下りていなかった。そのため、上陸の可能性は土曜日のみということになる。

さて、この軍艦島上陸解禁後最初に実施される近畿日本ツーリストによる軍艦島ツアー第一弾、正式には「坂本理事長同行 軍艦島の本質を探るツアー――近代化産業遺産群スタディツアー 第一弾 端島炭坑(軍艦島)上陸と長崎近代化産業遺産群」ということになるのだが、これはもともと日程によってA~Eの5つのパターンが設定されていた。しかし、私が最初申し込んでいたCコース、つまり土日2日間のツアーのみが実施され、その他の日程で申し込んでいた人もすべてこのCコースで、ということになったようだった(女の子二人組だけが月曜まで延泊で、もう一日上陸に挑戦すると言っていた)。

やはり、ハードルは高かったようだ。考えるに、「軍艦島上陸ツアー」に興味がある人といえば、次のようなパターンが考えられる。

  • 廃墟に興味がある
  • 建築に興味がある
  • 歴史的遺産に興味がある

しかし、今回のツアーではいろいろなハードルがあった。

まず、軍艦島に上陸できるかどうかが未知数であること。年間に100日ぐらいしか上陸できないだろうと試算されていた。まずこの時点で「上陸できないかも」というリスクが発生する。さらに、天候が悪ければ、周辺へのクルーズさえも欠航する可能性がある。最悪の場合、対岸から眺めるしかない。

しかも、上陸できても、歩けるのはわずか全長200メートルほどの整備された遊歩道だけで、廃墟(建物)の中に立ち入ることはできない。廃墟マニアにとっては、これだけでも魅力半減であろう。

報道陣は次々上陸しているようだが、天候に恵まれたというだけではなく、あきらかに報道基準である。観光客に対してはとにかく安全第一で、上陸より無事が優先なのだ。

軍艦島自体への興味は高まっていたが(テレビ放映もされていて、知名度は抜群である)、こんなリスクの多いツアーにわざわざ申し込もうという人は限られていたようだ。おそらく、本当に廃墟好き(言い換えれば、危険を冒してでも廃墟に足を踏み入れる冒険者たち)なら、こんな「接岸許可」だの何だのとヌルいことを言っていないで、今までどおり独自に船を手配して勝手に上陸してしまおうと考えるのではないか。

廃墟探検マニアでもないのに、こんなリスクを冒して観光枠で軍艦島に向かおうという、ある意味チャレンジャーな面々(すなわち今回の上陸解禁後初の観光ツアー参加者)は、合計で13人だった。羽田から12人、長崎駅合流が1人(福岡から)。小学生1人(お母さんと参加)、あとは20代から50代くらいまで。女性6人、男性7人。まさに文字通りの老若男女という感じである。報道での盛り上がりに比べれば少ないだろうが、とにかく可能性がゼロではないなら行ってみたいという面々がこんなにそろったともいえる。

意気消沈

長崎空港で観光バスに乗り込む。ガイドさんは年期の長そうな人で一生懸命盛り上げようとするが、バスの中はどんよりとした空気である。何しろ、初っぱなに添乗員さんから、

「今日は天候が悪いため、やまさ海運さんでは上陸不能という判断が出ました。クルーズの出航の可否については、お昼に決定されます」

というのである。つまり、ツアー開始早々「今回の軍艦島上陸ツアーでは上陸できません」と言われたわけだ。ガイドさんの奮闘にもかかわらず、空気が重い。

長崎駅で参加者を一人拾って、長崎市内の波止場に到着。波止場には軍艦島のミニ模型があって、みんなで写真を撮っていた。昼12時に出航かどうかが決まるので、それを挟んで休憩・自由行動ということになった。

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港に停泊していた「軍艦島クルーズ」。今回はこれは利用していない。

いきなり昼休みと言われても困るのだが、波止場を出て歩いていると、なにやらテントが並び、向こうには帆船が並んでいるのが見える。実はちょうど長崎帆船祭の開催中であった。その中に木造蒸気船の復元「観光丸」が来ているのを発見して少し盛り上がる。以前、メルマガで「観光」という言葉の起源について書いたときに、日本での「観光」のはじめといわれる「観光丸」があることを記した。しかし、普段はハウステンボスにあるそうなので、これを見ることはなかなかできないだろうと思っていたのだが、思いもかけないところで出会ったのである。

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帆船祭に出ていた伝説の「バンザイサイダー」と角煮まんじゅうでお昼とする。天気は薄曇り。これなら出航してくれないかな、と思いつつ、集合場所へ戻る。

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みんなが集まったところで、添乗員さんから報告。「今日は波が高いので、出航自体が取り消しとなりました」。つまり、一日目は「船にさえも乗れない」ということになったのである。

「そこで、このあとは大浦天主堂、グラバー園、そして軍艦島を世界遺産にする会事務局で坂本理事長のお話を伺います」

なんだ、観光かよ、どうでもいいけどな、という雰囲気で、一行はバスに載ってグラバー園駐車場へ向かった。

グラバーと高島炭坑・軍艦島の縁

坂の両側の土産物街をやり過ごして坂を登り切ると、明治になって隠れキリシタンが「発見」されて一躍聖地となった大浦天主堂がある。ステンドグラスが美しいが、「修学旅行でこういうところに来ても、何の価値もわからないんだよね」というような話になる。

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一通り見終わったところで、隣のグラバー園へ。屋外にエスカレーターがあったり、斜面用の動く歩道があったりして、不思議な気分になる。坂の町長崎の風景が高台から見下ろせるので、その眺めは悪くない。ツアー一行も少しずつ元気になってきたようだ。

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グラバーは幕末維新の政商で、薩長の討幕派を支持して武器などを売った人物だ。坂本龍馬をかくまい、薩長の有力者をバックアップした。日本の明治維新における近代化には、グラバーの存在が大きな役割を果たした。

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といわれても、私自身はどちらかというと薩長にあまり思い入れできないので(渋沢栄一など幕府側に思い入れがある)、これだけならどうでもいい話だった。

しかし、グラバーは軍艦島にも大きな関わりを持っていた。

軍艦島の北にある高島。ここは江戸時代から鍋島家が石炭を掘っていたところだが、グラバーは鍋島家と契約して高島炭坑開発に着手する。明治維新後にはグラバー商会は破産するが、グラバー自身は高島炭坑の経営者としてとどまった。その後、高島炭坑は官営となり、さらに明治14年に払い下げとなって、岩崎弥太郎(三菱)が買収するところとなった。すなわち、高島炭坑は、グラバーと岩崎弥太郎という2人のキーパーソンと切っても切れない関係があるということだ。

この高島炭坑と並んで同じような歴史をたどったのが、隣の端島(=軍艦島)だった。もともとは岩山のような無人島であったが、周囲を埋め立てて「人工島」といわれる状態になっていく。その姿が軍艦土佐に似ていたので軍艦島と呼ばれるようになった――ということは報道でも繰り返されているとおりだ。

軍艦島、正式名称:端島を知るには、隣の高島炭坑の歴史、鍋島家やグラバー、岩崎弥太郎を知らなければならない。そして、端島炭坑を知るということは、日本の近代化、日本のエネルギー政策の変遷を知るということなのだ。

坂本理事長のお話――「軍艦島」と「端島」

グラバー園を出たところで、軍艦島を世界遺産にする会/軍艦島コンシェルジュの久遠さんの案内で、世界遺産にする会の事務局へと向かう。途中、長崎の長い坂を体感。

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造船所の裏手の見晴らしのよい家の中に事務局があった。事務局自体は家の中の間借りだそうだが、ゴダイゴ・ミッキー吉野の奥さんの描いた軍艦島の絵や、軍艦島模型などが飾られている。

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ここで坂本理事長から1時間にわたる講義を受けた。実は、この日が「軍艦島コンシェルジュ」としての初めての案内になるそうだ。つまり、我々のツアーは、坂本さんにとっても上陸解禁後はじめて迎える観光ツアーということになる。

パワーポイントを使った説明で、軍艦島(端島)の歴史や経緯などが語られた。さらに「インターネットではYouTubeにもアップされていない貴重な映像ですよ」との前置きがあって、端島閉山の数か月前に撮影された8ミリ映像を見せていただいた。これは、奥さんが端島出身という人が「里帰り」の風景を8ミリ撮影したもので(当時8ミリを持っていて、自分で編集できたということは、かなり裕福だっただろうと思われる)、ある意味「生きていた端島の最後の映像」ということになる。単に家族の姿を写しているだけでなく、端島の風景が盛り込まれており、今となっては極めて貴重な映像資料だ(私は普段から町歩きをして、その町の雰囲気を撮影するのが好きであるが、これは(写真の腕前などはともかくとして)後年貴重な資料になるかもしれないという考えもある)。

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この坂本理事長のお話が、とにかく貴重なものだった。何しろ、軍艦島(端島)で6歳から19歳まで生活していた人の体験談なのだ。「廃墟」という観点は、あくまでも外部からのものとなる。「あそこに人が住んでいた痕跡があって、それが今は荒れ果てている」というところにロマンを感じるのが廃墟趣味だと思うが、実際に住んでいた人にとって「生活の場としての端島」は決して今も「廃墟」だの「残骸」だのではない。ほとんどが人工の島だとしても、紛れもない「ふるさと」なのだ。

「野球をやっていて、校庭からボールが海に落ちてしまうでしょ。どうなると思います? ホームランじゃなくて、アウトなんです。拾いに行けないから。その落ちたボールは対岸に流れ着くんですね。そして、そのボールを拾って対岸の子たちが遊んでいたらしい。端島の子は裕福だと思われていたしね」

「小学校の1~4階が小学校、5階と7階が中学校。途中の6階が講堂で――講堂ってわかります?今の子は知らないらしいんだけど――4階から5階に上がるときには、男の子は丸坊主になるんですね。だから1階上がるだけなんだけども、小学校6年の3月にはものすごく緊張して、もう刈ったかどうかなんてことが話題になっていた」

「家が狭いもんだから、年頃になったらベランダに一畳の囲いを作ってもらって、それが自分の部屋になった。ほら、この写真のベランダの白いところが僕の部屋だったんです。みんなそんな感じでやってました」

こんな生き生きとした話を聞けば、もう、「廃墟軍艦島」などというイメージではなくなってくる。

ここで感じたのは、「軍艦島」という言葉と、「端島(はしま)」という言葉だ。外部の人間によって軍艦土佐に似ているとされた「軍艦島」という呼称。それに対して、確かに「軍艦島を世界遺産にする会」「軍艦島コンシェルジュ」という名前ではあるものの、端島で生まれ育った人たちにとってはあくまでも「端島」なのだ。

軍艦島という視点と、端島という視点。坂本さんの話を聞いて、報道されている「軍艦島」のイメージに、「端島」というイメージが重なり始めた。もちろん、実際に住んでいなかった以上ヨソモノの視点であるのは間違いないのだが、居住地としての端島への思いが深まっていく。

今回のツアー参加者の関心は、もともと多かれ少なかれ「廃墟としての軍艦島」や「軍艦島に上陸を果たすこと」といった「軍艦島視点」に置かれていたが、坂本さんのお話を聞いて、「端島」への興味も生まれ、そしてこういった話こそが貴重なものだという点では共通していたように思う。

坂本さんのお話を聞かずに軍艦島に上陸するか、軍艦島に上陸はできないが坂本さんの話が聞けるか。はからずも今回は「究極の選択」風になったわけだが、「軍艦島に上陸ができなかったけれども、坂本さんのお話はそれを埋め合わせて余りある」という感想を持った。

これから軍艦島ツアーに参加する人は、坂本さんのお話が聞けるツアーを選ぶか、あるいは現地で軍艦島コンシェルジュの案内を頼むべきであると思う。

余談ながら、軍艦島を世界遺産にする会には蛭子能収も関わっているらしい。そういえば長崎出身である。果たしてどんなデザインのものができあがるだろうか。

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軍艦島の二面性

端島には5000人もの人が住み、そこには完全な街ができていた。端島銀座と呼ばれる商店街があり、学校があり、映画館があり、パチンコ屋があり、バーも遊郭もあった。食糧生産以外のものは何でもあったといえる。

そんな軍艦島/端島について、わたしは二面性を感じた。

たとえば、端島では徹底した階層構造が見られる。三菱の管理職の人たちは島の最上部の建物。通常の炭坑夫たちと家族は通常の部屋。そして下請けで来た人たちや戦時中の朝鮮人などは古いアパート(最古のRC構造のアパートである30号棟というのは、実は端島では最下層の人たちに利用されるようになっていた)。こんな上下関係が見事にできていた。

しかし、そういう身分差は(少なくとも)子供たちの間にはまったく影響しなかったという。幹部職員の子供も労働者の子供も分け隔てなく遊んでいた。また、島の頂上の建物の屋上はほかから見えないために格好のデートスポットになっていたという。つまり、幹部職員の建物にも自由に出入りはできたということだ。また、朝鮮人専用の遊郭もあって、そういう優遇もあったため、「朝鮮人を虐げていた」とも言い切れない要素があるという。

厳然たる階層構造、その一方で平等なつきあい。どちらも真実だし、どちらか一方だけを強調するのは誤りだろう。

そして、「軍艦島」として見られるイメージと、実際に生活や歴史を背負った「端島」のイメージという二面性。

軍艦島を見る目として、たとえば「日本初のRC構造の30号棟」という建築的な見方がある。しかし、「30号棟」というような数字の呼び方は、端島の人たちはしていなかった。島の端の鉱員アパートだ。どの建物が何号棟かというようなことは、建築系の研究者などの方がよく知っているという。数字ではなく、報国寮、日給社宅といった呼び方が端島での普通の言い方だった。

軍艦島/端島は一筋縄ではいかない。

家賃は十円、光熱費はタダ。そして「端島手当」もつく。端島の生活は外界から隔離され、炭坑の仕事も厳しく、決して安穏とした生活ではなかったはずだが、それでも島内に「三種の神器」と呼ばれる家電が普及するのは非常に早かったようだ。対岸から水道が引かれるようになると、瞬く間に洗濯機が普及したという。アパートの屋上にはテレビアンテナが乱立した。「廃墟にかつて人が住んでいた」というレベルではない。軍艦島は辺境の特異な閉鎖空間でありながら、一方で日本そのものの縮図でもあったのだ。

一日目の終了

1時間ぴったりの解説の後、販売などがあって、フリートークタイムのようになった。

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おすすめ度5 軍艦島のありのままに真摯に向き合った秀作!
おすすめ度5 廃墟ファン必携の良質作品。
Amazy

販売されていた本はいずれも事前にテキストとしてAmazonで購入していたので、絵はがきを購入した(なお、「軍艦島 住み方の記憶」は自費出版であり、一般の書店ではほとんど売っていない)。そのときに坂本さんが「ブログに書かれたのはあなたですか」とみんなに聞いてまわっていた。おそらく、私の前回の記事を読まれたものと思われる(ブクマもほとんどされていないのに、素晴らしい探知能力だ)。「あんな気持ちで来ていただけるなら嬉しいです」と言われてほっとした。

この後ホテルまでバスで移動して、土曜日の行程は終了。私はもともと出島を見学したくて、そこに近いJALシティに宿泊することにしたのだが、予定より早く終わったのですぐに休む間もなく出島に向かった。出島はまさに今回のテーマとなる「近代化」の前史ともいうべきものが体感できる場所であった。出島の後は中華街で食事をし、さらに暗くなっていたが唐人屋敷の跡地を歩いて、いろいろ考えることもあったが、出島や唐人屋敷についてはメルマガに書いたので省略する。

さて、果たして我々は軍艦島の近くまで行けるのか、という不安を抱きながら、翌日の朝を迎えた。以下、「高島炭坑」を含めた近代化遺産としての軍艦島、あるいは軍艦島に至る船内の動画、軍艦島の写真等を含めて、次回エントリーに続く。

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2009年5月 2日11:06| 記事内容分類:地理・地誌, 日本史| by 松永英明
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コメント(1)

ここに、あの13名の一人がブログで残されているのを見て 嬉しかったです。
上陸こそ出来なかったものの、本当に満足できたツアーと思います。
後編を楽しみにしてます。
PS:確かにバスの中の空気は ドヨ~ンとしてましたね(苦笑)

このブログ記事について

このページは、松永英明が2009年5月 2日 11:06に書いたブログ記事です。
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